2018年1月

2018/1/27 <帰国後2週間の練習 LINEに書いた項目>

 

 パリで劉師父と推手をして改めて大きな差異を知る。

 自分のどこがまだ弱いのか、足りていないのか、それが分かったのは大収穫。

 私ができていないところは当然私の生徒さんも弱いところ、と、帰国後の練習はまた一から、即ち”腰”からのやり直し。けれどくごも今回の”腰”はまたそれまでの”腰”とも違う・・・

 それから二週間、ほとんどこのHPを開けず、自分の気づきは専ら仲間とのLINEに書きまくってしまいました。というのは、感覚が出た直後、思い出した直後に記さないとすぐに飛んでしまうから。パソコンに向かう頃には新鮮さが消え書く気も失せてしまう。

 

 ただ仲間の中にもLINEに参加していない人達がいるので、ここに(自分の中で)話題となった項目だけでも列挙しておこうかと思う。もし疑問があれば練習の時にでも聞いて下さい。

 

➀腰、帯脈の位置の見直し

 腰は太極拳の要。腰は帯脈の位置、日本語なら背中。日本語の腰は中国語なら胯(クア。骨盤、股関節)。日本人の腰の感覚は低すぎる。意の裏だと思わないと全部間違う。肋骨と骨盤の間。

  今回パリで師父と単推手を両手合わせて2000回したが、私が崩れてしまうのはこの腰(中焦)部分。かなり息を下に吐き込んでおかないといけない、し、沈肩、含胸ももっと徹底的にやらなければならない。

 

②上丹田 神 の話。

 全身が一つ、周身一家になり、それが天人合一となるのがこの修行の最終目標だが、たまたまパリ滞在中に昔のピアノの先生の演奏を劉師父に聞かせて、これこそまさに・・・となった話。

 彼女の姿を見たら、何を私が、師父が目指しているのかがはっきり分かった。この境地。

 天人合一の境地はなかなか武術でも目にすることはないが、彼女のは分かりやすかった。

 以下、LINEの文章を貼り付けて紹介。

 

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 劉先生をうならせた私のパリ時代のピアノの先生の演奏を紹介します。

 当時まだ20歳でしたが心がものすごく静かで透き通っていました。コンセルバトワールの弾き方に疑問を覚えていた3年生の終わり、たまたまコンサート帰りのタクシーに乗り合わせたコルトー(仏の巨匠的ピアニスト)の直弟子のおばあさんに弟子入りすることを決め、1年休学、一からピアノを学び直し、大学に復帰した後4年の卒業演奏会ではコンセルバトワールとしては認められない演奏と物議をかもしました。

 私は彼女のその卒業演奏会を見に行っていたのですが、舞台に現れた時から明らかに他の学生とは異なっていて、まさに天とつながっていました(演奏技術の素晴らしさもさることながら、天神合一の境地を初めて目の当たりにして感動と羨ましさのため涙が出てきてその心のもやもやを晴らすために会場を出てすぐに劉先生に電話をしたのを覚えています。)目の前に座っていた教授達も聞き惚れて点数をつけるのを忘れているようでした。

 が、成績は一番でもありビリでもある、番外。この弾き方ではどんなコンクールにも入賞できない、というコンセルバトワールの評価を受けました。彼女は、そんなこと分かっていたわ、と笑っていましたが。

 

 今回のパリ旅行でたまたま友人から彼女の最近の様子を聞きました。

 パリを離れてノルマンディーで身を神に捧げた、と。ピアノ演奏もしているとのことだったので、HPと動画を検索。ナンの姿で演奏していました。

 ホテルで早速劉先生に誰とも言わずに動画を見てもらったら。身動きせずにじっと見入っている。「これは人間が弾いていない、神が弾いている・・・」と呟きました。

 まさに先生や私が理想とする境地を彼女が体現しているようでした。 

 彼女の演奏動画を紹介します。

 (彼女の演奏を見てから他の人の演奏を見ると・・・・テクニックではない魂の問題?)

 やはり大会、コンクール用と本物は違う・・・本物は名利を追求しない分、ともすると多くの人に知られることなくひっそりと一生を終えるのかもしれません。太極拳の世界も同じのよう。

 本物を見る目、見抜く目を身に着けたい、と思いました。劉先生は、武を修めるものは自ずから見る目、見透す目を得る、と言っていました。

・・・・・・・・

 

③打人如接吻

 これについては説明省略。でもとても大事な太極拳の理念が入っています。

 

④回光の話

 上丹田の要領 

 タントウ功の一番目の要領。立ったらまず目を内収して光を祖窍まで引き入れて(回光して)凝縮させて神を作る(凝神)。

 神を作ったらそれを喉→胸→腹と落としていく。

 以前はこの凝神の要領、大事さが分かっていなかったけれども、劉師父、ビビアンのおかげでとてもはっきりした。

 

⑤舌の要領

 実は舌で神を引き下ろす

→→ヨガのチャクラの話へ、とまだまだ続くのですが、疲れてきたので今晩はここでいったん中断。

2018/1/7 <パリ到着 丹田の収縮>

 

 昨夜パリに到着。

 東京で教えているのも良いけれど、やはり私は学ぶのが好き。

 太極拳に限ったことではないが、自分が思いっきり全力でやっても適わない師や先生の下で学べる、学んでいる間がとても幸せ。もちろん、学んでいる間は一種の真空状態になっていて幸せなんて感じる隙間はないのだけれども。

 私の生徒さんたちが私のところに来て学んでいる間もそのくらい隙間なく全身全霊をかけて練習できていたら良いなぁ、と思う。

 全身全霊をかける時、きっと私たちは高速回転、いや、高速”自転”回転していて、太極拳の気を煉ってそれで身体を貫く時のように、自分の中に(筒状の)真空状態が生まれるのだろう(気の量が多ければ筒も要らない、身体の枠が外れる)。

 

 こちらに来る前に立て続けに19世紀後半のフランス画家の作品や映画を見たけれども、芸術家は全身全霊をかけた時ともすると内側に籠っていってしまうのかもしれない。集中、集約、顕微鏡の世界・・・・狭くなればなるほど、精神が病んでしまう可能性が高くなる。

 太極拳、瞑想は集中の反対で結局は内側の隙間を開けていく。けれども、拡大させていくためには最初の隙間の”点”を探さなければならないから、やはり一時の間は集中の方向に進まなければならないのかと思う。この隙間の最初の”点”が、”一粒の丹田”。

 

 丹田について・・・

 以前はなぜ馮志強先生が”一粒”を強調するのか分からなかった。

 なぜなら最初の頃は、丹田がある”塊”のように感じていたから。

 しかし、そこから丹田を動かす練習をしたり、煉る練習をしていくと、次第に丹田は水飴のように収縮性があるものだということが分かってくる。丹田の開合功は最も基本的な練習だが、その重大な意義に気づくまでには相当な時間がかかるのかもしれない。

 丹田が拡大できることが分かると、中丹田と下丹田で一つの丹田となること、その延長線上に上中下の丹田が合わせて一つ、そして、私はまだ偶然にしか感じたことがないが、全身丸ごとが一つの丹田、そして気が付けば丹田が自分の体を包んでいるような、そんなことまで起こってくる。

 全身が一つの球になるとか、自分の身体と外の境界線が分からなくなって天人合一になるとか、は、そんな丹田の拡がり(内気の拡がり)から(も)得られる感覚でないかと思うようになった。

 そして、あるところまで拡張できると、ある時それば一転してものすごく小さい丹田ができたりする。針の先の点のような丹田。するとこれも身体が全くなくなったような感覚で、とても素早い動きができる。誰にもどこにも当たらないですり抜けられるような。

 拡張しても収縮しても極限近くになれば同じことになるのだが(結局身体がなくなって奥の自分の意識のみになってしまう)、無と無限大が同じ、仏教の手放すと道教の何もかも含める、が最終ゴールは同じ、というのが身体の感覚としてはつかめるようで面白い(頭で考えるとこんがらがってしまうのだけど)。

 

 と、そんなことを昨年末は考えたりしていたけれども、パリに来たら、そんなことよりもまだやることがあるのかも。師父にはこの半年練習をサボっていたと思われている(苦笑)

 どんな風に直されるのやら。推手をもっと進めて帰国したいです。

 

  下の写真(ホテルの窓から見た風景)

 左が朝8時前。右が9時前。中世のよう・・・典型的なパリの冬の朝、は陰鬱(笑)

 東京は冬も明るくあっけらかん♪

 


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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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