2018/10/14

  思い出のハーグは思い出以上だった。
  20年以上経っても変わらない街に対して自分自身は本当に変わったと再確認。見る目が違う。

  何故か格安で泊まれた憧れのホテル デサンデ。ここは昔から憧れていた格式の高いホテルだった。当時既にアメリカ系列の高級ホテルがハーグに進出して来ていて偉い人はそちらに泊まっていたが、私は曽祖母の兄にあたる元東京芸大の総長の正木直彦氏の自伝で、1900年のパリ万博時に三年間パリに派遣され滞在していた期間にハーグを訪れこのホテルに滞在した際、お金が全然足りなくて大使館に助けて貰ったとエピソードを知るに至り、いつか泊まってみたいとずっと思っていた。
  今回ハーグで一泊するのにネットで検索したら、何と値段が通常の五分の一以下、パリの三つ星程度の値段で泊まれる。これは絶対に行かなければ、と心踊る。
  果たしてホテルはクラッシックで、でも重苦しくなく、ゴージャスだけどフランスのような煌びやかさがなく、私が最も好きなタイプ。家の部屋がこんな風だったらこんなガサツにはなっていなかった....自分の荷物を部屋で開けてひっくり返した途端、部屋の格調高さが一気に失われてしまったのには愕然とした。いや、私が部屋に入っただけで、この部屋は意図されていた雰囲気を失ってしまうのではないか?と、部屋の大きな鏡に映った自分を見て思う。朝の朝食時にホールに集まった人々は全て西洋人。中国人が1人もいない場所なんて今時滅多にないのだけど....
  格式高くてもフレンドリーで素朴さが残るのはやはりオランダ人、オランダの風土だからだろう。
  自転車もすぐに貸してくれました。
  これで今回一番行きたい場所に行ける!

  下の写真、ホテル、そしてホテル周辺の光景。
思い思いの自転車姿の人々が目立つ中、東インド会社の名残りがちらほら....エキゾチックなアンティーク、ブティックのマネキン、夜の街でポーズをとる鮮やかな色の女性、そして夕食に食べたのは、やはりインドネシア料理♪
  


2019/10/13 その四
 ロッテルダムからハーグへ
 車内→市内中心 ビネンホフ→ホテル デサンデ(インドホテル)
2018/10/13 その三  
 パリからハーグへ。
 その途中。
電車出発して1時間半でBruxelles。落書きだらけの電車が隣を走る。
そしてなんか暗い駅....と思ったらアントワープ。それっぽい感じ。
そしてタリスをロッテルダムで降りる。ここで国内線に乗り換えるのだけど、この先の作戦練るため暫し駅で休憩。
国内線の切符をどう買うのか、トイレはどこなのか、軽食はどこで取れるのか....構内をうろうろ。
2018/10/13 その二

以下LINEへの投稿

 昨日の疲弊極まり熟睡。7時ぴったりに目が覚めました。時差ボケ、ゼロ?

 午前中北駅に向かってそこからオランダ行きの新幹線(タリス)に乗る。
 ホテルから北駅までスムーズに行けば40分、だけど何が起こるか分からないパリの交通。
30分は早めに、と1時間早くホテル出ましたが最初のトラムの駅で、あ〜〜。
   トラムいつ来るか分からず(苦笑)

掲示板になんて書いてるか分からなかったけど、皆が待ってるから来るんだろうと信じて待つことにした。

  
   その後不思議なほど順調に北駅に到着。中国人が私にロンドンに行くユーロスターはどこだ?と聞いてきた(苦笑)
人助けしてる場合ではないのだけど。
   私の電車の乗り場はまだ決まってない模様。早く着いた!
  どこかで待とう....と辺りを見回したら人が箱の上に集まって座っている場所あり。


   
2018/10/13

 昨日パリ入り。
空港では市内行きの電車のチケットを買った直後にロストバゲッジのためパリ行きの電車は全てキャンセル、とのアナウンス。駅中が大きなスーツケースを持った人々で大混乱。別ターミナルからパリ行きの電車が出てるという情報が入り、そのターミナル駅へ移動する電車のホームに人が殺到した。私も遅れまいと頑張りながら、疎開するのか? と第二次世界大戦やロシア革命の頃の、電車に人がしがみついて乗っている画像が脳裏に浮かぶ。
  汗だくで電車に乗り込み、どうにかパリ市内に入りホテルに着いた時には着陸から4時間以上経っていた。
  いつもながら当てにならない交通....
  まあ、人生は本当はこんなものかもしれない(苦笑)
  

2019/10/10

 

 最近一番私の中でヒットした書籍がありました。

それに関連した10/8のレッスン後のLINEへの投稿・・・

 

 『今日は平日、日曜、水曜の生徒さんがちらほら集まったミックス感のあるレッスンでした。最初どこに焦点を置いて良いのか戸惑いましたが、やはり基本中の基本、最も難しい、"腰"(中国語の腰!)を使う要領。

太極腰、という言葉もあるくらい、太極拳はこの腰(=後丹田、命門、腎)が要。これ無くしては太極拳になりません。

 

会陰や湧泉を引き上げるのはそのための要領ですが、それを更に極端にやると、爪先立ち、トウシューズで立った感じです。

今日は爪先立ちからやって、その"腰の高さ"を落とさないように片足の足裏をそろそろ降ろして虚歩になり、さらには虚歩の足の裏までも下げていく、そんな練習をしました。

結局は、薄皮一枚!

 

薄皮一枚、という言葉は最近目にしたある本でうまく説明していました。

太極拳の要領が、薄皮一枚だ、と一度でも身体が分かったら、その後の練習がとても楽になります。』

 

 『身体の使い方が太極拳と同じ観点から書かれている本です。凄い!と思って見たら、同じ学部卒....先輩なのか後輩なのかは分からず(苦笑)

 

 私がこのくらい明確に説明できれば・・・と羨ましくなるような本ですが、この本の内容と太極拳の原理がぴったし合うことが、生徒さん達にもピンと来るかしら?

 太極拳の原理は日常生活に生かせなければ太極の理念に沿わない。今時太極拳で本当に闘おうなんていう人はいません。本当の太極拳の醍醐味は身体、心、その先(超越!)へと繋がって”真理”に目覚めていくところにあるはず。それにはまず出発点の身体を正しく理解しなければならない。

 と、まずは身体の使い方の”真理”からスタート。という意味で、この本やゆる体操の高岡氏の初期の書籍などは太極拳を学ぶ私にとってもとても参考になります。

 

 今ここでこの本の中身を紹介する時間がないので(旅行の準備をしなきゃ!)省きますが、重要なポイント何点かは近いうちに極拳に引き戻して説明できたらと思っています。

 大事なキーワードに、”薄皮一枚”とか、”トンボの眼”とか”身体は水風船”とか、”感覚器官の緊張をとる(眼、鼻、耳、口等)”とかがありますが・・・・

 そうしたら、以前から不思議に思っていたこれらの人達の口の謎が解けました!

 

 

 

2019/10/10

 

 私の問題意識の移り変わりはとても早くて生徒さんもなかなか付いてこられない(苦笑)

 →最近のLINEの投稿を少しまとめてアップしました。

 時間の節約のため、ほとんどコピペです。 →ラインの仲間のページへ

 

 

2019/10/10

 

 明日には日本を発ってソウル経由で久しぶりにパリの師父のところに行く。ついでに若い頃暮らしたオランダのハーグに行こうと欲張ったのが混乱の原因。短期間の旅行でどう予定を詰めるのか目下奮闘中・・・。

 オランダと言えば・・・

 先週上のでフェルメール展が始まったばかりだが、オランダにいた20代の頃の私は絵画に全く興味なし。ゴッホもフェルメールもどうでもよくて、ひたすら平らな路を自転車で走り回り、お気に入りのカフェで定番のアップルパイを食べ、朝は林の中を走り、昼休みは初めて飼った子猫にえさ(牛生肉のミンチ!)をあげ、ついでにスポーツクラブに行って泳いだり踊ったりしていた。明るい水色の絨毯の弾き詰められたアパートの部屋の中でオランダのしっかりとした明るい色の家具に囲まれて暮らした思い出は、ロンドンやパリでの暮らしよりもトーンがずっと高く、私の人生で最高ランクに位置する。何もかも達成しピークに達したと同時に絶望して辞職を決めたのはこの時。オランダがなかったら私はぐずぐずと仕事を続けたかもしれない。仕事には上下はなくて、大使であろうが靴屋であろうが自分の好きなことをしなくてはならない、と、当たり前のことを普通に教えてくれたのはこの国だった。自然でいることの心地よさ。自分でいることの心地よさ。上下関係がないことの心地よさ。男性も女性も大きくて男性と女性が身体的にも対等に見えて、日本のような陰湿な性感覚がないさっぱり感。オランダ人の開放的で明るい進取の気質。そんなオランダの自由さ、ナチュラル感に私はピタッとハマり、いつも間にかそれまで抱えて来た日本的な悩みが取るに足らないものになるくらい勇敢になっていた。

 その頃の仕事は化学兵器禁止条約の発効前の準備開合に出席することだったが、会議場の大きな円卓について真っ赤な顔をしてったいるのは決まって私とオランダとドイツの外交官だった。真冬の零下の時でも車を使わず会議場まで自転車を必死に漕いでくる。環境に優しい健康的な暮らし方を志向する国。私はエコロジストではなくて単に車嫌いというだけだったが、会議場で赤い顔の三人が顔を見合わせて笑っていたのをよく覚えている。

 オカルトに興味を持ったのはロンドン+オランダ。

 週末のアンティークマーケットはミステリアスな物を探しに良く足を運んだ。開放的な国だけど、どこかに敬虔さ静謐さが垣間見られたりするのは、先日フェルメールの絵を見てそうか、と腑に落ちた。

 ロンドンにいた時に大学の教授がイギリス人が唯一尊敬する国はオランダだ、と言った意味はオランダに住んでよく分かった。ものの考え方、開き具合がイギリスよりも更に先を行っている。北欧は行ったことがないけど行ってみたい地域。個人が個人としてしっかりとものを考えられる、流されない、といったところは日本と真反対。なぜそうなるのか・・・と歴史や生活の仕方を調べていけばそこには因果関係があるのだけれども、その頭の理解に止まらず、そこを実際訪れ自分の身をそこに置いてみるとその場の”気”を全身が掴むから頭の理解が一気に深まる。そういえば、以前カラマーゾフの兄弟を何度トライしても読めなかったのが、一度サンクトペテルブルクに行ったらどのセンテンスもありありと情景を示す活きたものになって、面白いほど夢中になって読めてしまったという経験がある。ただ行っただけでこんなにも理解が進んでしまうのか?と自分でも驚いたが、おそらく、見知らぬ土地の一人旅で全身のセンサーがビンビンに敏感になってその土地のあらゆる情報を知らない間に吸収してしまったのだろう・・・覚醒状態か?。慣れてしまったり、人と一緒にいると、そうはいかない。

 いつもフレッシュでいられるなら、毎日が驚きの連続!(→子供!)なのだけども、歳をとってくると何をみても感動しなくなる。旅行に行くのはそのフレッシュ感を呼び戻したいからなのか?

 

 それにしてもパリは観光シーズンなのか、手頃なホテルの空きがない!

 ただ1泊のオランダ旅行の計画に没頭していたらパリのことがおざなりになって今になって焦ってる・・・明後日から泊まる場所、見つけなければ。思い出に浸ってる場合ではない!

 

 

2019/10/6

 

 先日、坐禅とタントウ功の要領は同じですか?という生徒さんの質問あり。

 実はタントウ功は坐禅をしてみるとその要領がはっきりする。クラスではタントウ功を教えるために坐禅をさせてみたりする。

 また、別の生徒さんとビデオレッスンしていてタントウ功の要領、気を溜める状態に入るまでのプロセス、溜め出してから先のプロセス、が今一つ分かっていないのだなぁ、と思った。そういう私もやっと全体像が見え出したばかりなのだから無理はない・・・。

 全体像を言ってしまうと自分の位置するレベルでの練習に集中できない可能性が高いから、通常師は先のことは話さない。ただ今すべきことを言うだけ。次の段階に移行できるレベルに達したら、しらっと、その次はどうしろ、と言う。あら?これまでさせてきたことと違うじゃないか?と思うこともあったりするが、その先に進むと、なぜ師がそこで支持を変えたのかが分かる。師の言葉、指示の意図がはっと分かるまでに2、3年経っていることもしばしば。本当はそんな練習だ。

 ただ日本で普通に暮らしながらそんな練習をするのはなかなか難しいから、私はできるだけ生徒さん達を最短であるレベル(理が分かって自分で練習ができるようになるレベル)に達せられるようにと思って、頭の理解の助けを使おうとしている。

 坐禅とタントウ功の比較、という角度、そしてタントウ功のプロセス、進度のレベル分け、この2点についてきちんと文章でまとめる必要があるかもしれない、と思い始めた。が、少し荷が重い(苦笑)

2019/10/2

 (グループLINEへの朝の投稿)
今日は清々しい練習日和。
最近教えている内功の中に、日月旋転功というのがあります。心と肺の気を回すものですが、これには
肋骨の解放→肩甲骨の解放→肩関節の解放→肘の位置の新たな認識→上腕"肱"の意識の目覚め→腕に対する誤解が解ける
そんな働きがあります。
これを呼吸面から見ると、肺にいっぱい空気を入れる重要さ→腹式呼吸に対する誤解、というのが見えてきます。
たまたまYouTubeでこんな動画に今朝巡り合いました。
この人何者?私より日本語上手。
秋は空気が澄んで肺を養う時期。
参考にしてみて下さい。
https://youtu.be/VG31bqKCuJE

2018/9/30

 

 一昨日休憩に入ってそのまま放ってしまった練習メモ。

 2日も経つとその時の記憶があいまい・・・

 が、ラッキーなことに生徒さんからその日目から鱗だった点についてメールが来た。

 そう、”虚歩”。

 

 練習で24式をやった後にどこかしっくりしない所がないかと皆に尋ねたら、一人の生徒さんが、第15式三換掌の時に、左足が虚歩のためか左腰が入らない、と言った。そこでその動作をやらせてみたら、あら、虚歩が見せかけの虚歩、ただ踵を上げているだけになっている。この脚では左足裏から腰へと勁を上げられない。

 

 虚歩の原理、意味について説明してあげなければ・・・と、虚歩がいかに素晴らしいか、を具体的に説明した。できることなら、両足虚歩→つま先立ち=脚を最大限に使う動物の立ち方の基本、で24式をやらせたいくらい・・・。そうすれば脚が腰まで繋がっているのが用意に分かる。私達は踵から地面に足をつけてしまったがために、脚が股関節までで分断してしまう(日本人の場合は脚が股下止まりのこともしばしば)。バレエダンサーがトウで立つのは非常に合理的だが、それには会陰の引き上げでトウになれるようにちゃんと指導を受ける必要がある。会陰が引き上がり、それが下腹に届けば、下丹田と中丹田がつながり、その丹田に重心を置くことにより関節の可動域が広がる。(逆に会陰=下丹田の引き上げはなく、下半身の筋肉を硬直させてトウになった場合は身体が硬くなり関節が締まって故障しやすくなる。)

 

 

 

 練習では皆につま先立ちをやってもらったが、そのつま先立ちがただ足の甲の面だけで行われている場合は私が想定するところのつま先立ちとは言えない。足の裏の面において、指先から踵まで、そして踵をぐるっと回ってアキレス腱、脹脛、膝裏の筋、太もも裏・・・と勁が繋がって初めて正式なつま先立ち、そして虚歩が出来上がる。

 つま先立ちや虚歩になると、私達は4節足動物(*)になる。

 踵を降ろしている場合は2節足になってるのではないかしら?

 

 *4節足の私的意味

 第一節 足指つま先から足首

 第二節 足首から膝

 第三節 膝から股関節

 第四節 股関節から腰(帯脈位置)

 

  2節足だと 足首から膝、膝から股関節、これだけ。

  (自分の脚をどう意識するか、どのように意識できるのか。

 4節足として意識できるようにするためには、それらを内勁でつながなくてはならない。)

 

 

 脚は腰までつなぐ(4節足(?)になる)ことは太極拳の核心を形成する。

 ここを間違うと本当の丹田は形成できず、ゆる体操の高岡先生が言うところの”拘束丹田”(偽の丹田)しかできない。拘束丹田とは吐いて固めてできた丹田だが、これでは身体は硬直してなめらかな動きはできなくなる。一般的に日本の武道はこの拘束丹田を作るきらいがあるように見受けられるけど何故だろう?・・・丹田を”臍下丹田”といって臍下一点に固定させるためかしら・・・丹田はそんな”固い”ものではない。自由自在に伸縮可能。一粒から身体全体を包む、その場を包む・・・極小から極大まで。それが太極の”太”、大より大きく、小より小さい、の意。

 

  下はビヨンセのSingle Ladies 。”4節足”? 一昔前ハマって見ていました。

 当時はヒールで良くしゃがめるなぁ?と不思議に思っていたら、師父と一人の生徒さんから、ヒールだからこそしゃがめる、と指摘されて目から鱗。スニーカーだとこうはいかない。股関節や腰の可動域が全く違う。

 このくらいの体型だと4節足の意識が出やすいかなぁ・・・(苦笑)

2018/9/28  <練習後のLINE投稿用のメモ>

今日の御苑は清々しく気持ちの良く理想的なの練習場所。
遅れて到着したらまだ立ってる人と、もう内功を始めてる人がいました。

最初に目がついたのがHさんの立ち姿。腰が低い! と、一度踵を上げて腰を引き上げてから改めて踵を下すことを提案。
足の裏、ソールは分厚く膨らませておかないと腰(腎)に気が届かない→ぺちゃんこな足裏では太極拳はできない。
通常、土踏まずを上げろだの湧泉を引きあげろだの言うのは、足裏、いや足全体を盛り上げて高くするため。甲高にする....バレエで甲を出すためにかなりの努力するのと同じかもしれない。
練習の後半に虚歩についての質問があったが、虚歩もまさに足長腰高にするための要領。ただ踵を上げても虚歩の意味がない....のは、今日の生徒さん達には分かったかしら?

トウロによくある足の扣(コウ 足首から爪先を内旋)や 摆(バイ 足首から爪先を外旋)も、これによって全身の方向転換が可能になるわけだから、足(足首以下)は少なくとも腰(腎の場所)まで繋がっていなければならない。

足爪先から足裏、踵、アキレス腱を経由して膝裏、お尻(股関節 環跳穴) 、そして腎、ここまでが線で繋がるか否かが内家拳としての太極拳になるかならないかの鍵を握る。丹田なし、内勁なしの動きは外形的に太極拳に見えたとしても別物....

この辺りの要領は馮老師の内功の三丹吐納功の下丹田の吐納功をしっかりやると良さそうです。中丹田の吐納功もポイントは後丹田(命門)に持って行ってしばし腎で溜めておくこと。
この腎(腰)での溜め(固精....)がパンチ(打)、ジーに、蹴り、チャンスー、全ての元になる。
しかし、実は下丹田にはもれなく脚、足が付いてくる。足、足裏で地の気を引き上げることなしには下丹田は機能しない(立位の場合。坐禅の時には骨盤底筋が足裏の機能を果たす)


ここでしばらく休憩....

2018/9/28

  暫くブログを書くのをサボっていたら、読者(⁈)の方から催促(!)のメールを頂いてしまいました。
  ここ数日はソウルに行っていて思いの外忙しく、書く時間がなかったのですが、そもそも最近の練習のことは文書にし辛い。
  一層の事、10分足らずの録画にしてYouTubeで配信するのはどうかしら?なんて大胆な案も浮かんだが、そうなると顔やら喋り方やらが気になって、これじゃあ恥ずかしくて映せない....なんて、はぁ、本当に男性だったらその辺りのハードルが低かっただろうに....と羨ましく思ったり。
  チコちゃんみたいな被り物で太極拳教えたら楽しいだろうなぁ?なんて冗談で言ったら、既に被ってるじゃないですか? 、とか言う巫山戯た生徒さんもいたりして絶句。
  
  ビデオで教える、というのはこの先の目標にして、とりあえず書けることは書かねば、全て流れていってしまう。

   この2週間くらいは、馮志強老師の12の内功に焦点を当てた練習をしています。
   昔、まだ丹田やら何やら全く分からなかった頃にやった時はその良さが全く感じられなかったですが、今やると全く違う。感動モノです。これが太極拳の基礎になっているのがよく分かる。
   それが生徒さんに感じられるように、解説を加えて練習してもらうと、皆の反応は予想以上。が、妙に疲れるとの感想。
  私としては内功の謎解きをしているようで楽しい。

  また追い追い紹介します。

2018/9/11

 先週の結末....

カメに乗っていざ出発。
まさか竜宮城には着かないだろうなぁ、とは思っていたけれど....


2018/9/6

 

 カレンダーを見ながら・・・ 

 今月17日と24日は共に月曜祝日。

 初心に戻って初心者用の練習会をやっても良いかなぁ、と思い始めました。

 タントウ功と動功だけ、もしくは24式套路のみ、どちらかにしぼって午前中、新宿御苑か新宿内の会場で練習するのはどうだろう?

 タントウ功や動功は天気が良ければ御苑が最高。

 24式の型を覚える練習は鏡がある室内の方が効率的かなと思います。

 参加者が集まれば実施します。

 興味のある方はお問い合わせから連絡を下さい。

 希望の練習メニューを教えて頂ければできるだけ調整します。

 

2018/9/6

その後の展開.... 
10秒ごとにスライドします。
そして明日の結末は?

2018/9/4

 

 台風近づく中、今日は和室で少人数の練習。

 

 48式ゆっくりで身体を解した後、推手の形で前(鼠蹊部)と後ろ(お尻)から股関節を別々に意識し操作する練習をしてみた。

 前回パリで劉師父と推手をした時、「手の力(勁)は股関節から来るのだ」と何度も注意された。それまで腰から勁をつなぐものと思っていた私はとっさにそうはできなかったが、「馮志強老師も股関節と手がつながると書いているから確認しておきなさい。」と言われ課題を残したままになっていた。

 その後、練習の時にそのことを特に思い出すこともなく、生徒さんを教える以外は自分では家で坐禅をして気を溜めるくらいしか練習していなかったが、次第に腹に溜まる気が増えていて、いつのまにか腹の気が股関節に達するようになっていた。

 腹の気が股関節に達する、ということは、言い換えれば、股関節まで腹になるということ。

股関節のラインは脚の付け根、胴体と脚の境界。鼠蹊部、脚の付け根まで気が溜まると、その腹圧で骨盤底筋をぐっと押せば(跳び箱で跳ぶ時に手をぐっと跳び箱に推すような感じ?)骨盤がぐるっと前回りして立ち上がる。胴体が地面に対して垂直に立ち上がったようになる。(ここまでいけば坐禅の時に坐骨で坐れるので尾骨がフリーになる。すると尾骨裏の長強穴から気を吸い上げ頸椎まで通すことができるようになるので背骨を固めて上体を持ち上げ続ける必要がなくなり坐禅もそれまでより随分楽になる。180度開脚やそこから上体を前に倒して床に胸をつけるのもそれほど苦でなくなる。)

 少し話が逸れるが、股割りや180度開脚などはストレッチでむりやり筋を伸ばすのではなく、腹の内気を膨らませて内側から筋を伸ばし関節を開けていくのが健康的で意味があるというのが私の経験からの結論。即ち、タントウ功や坐禅をしていれば、次第に股関節は開いて使いやすくなる。逆に、もしタントウ功をやればやるほど脚が上がらなくなったり開かなくなったとしたらやり方が間違えているということ。

 

 下はタントウ功の流れ(左から右へ。何年かかるかは個人差あり。)

 

 

 まず臍下の気海から溜め始めた気が次第に多くなる(上の一番左とその横の図)。この段階の目標は中丹田を下丹田とつなげること。

 そして下丹田まで届けば、股関節を巻き込むので気が脚を伝わって足底に落ちる。ここで足に気が落ちた、足に力が出た、足が根付いた、という状態になる。(左から三番目の図)ここまでは濁気を下へ下げている段階。第一段階。尾骨は内側に収める(犬のうんちんぐスタイルの尻尾)。

 

 ここまで十分にできたら、足裏(湧泉)を使って清気を引き上げていく。これが第二段階。

会陰も湧泉によってさらに引き上げやすくなる。尾骨も浮き気味(尻尾が上がり気味)になる。

足裏に降ろす時の腹圧が強ければ強いほど反射作用として足裏から上がってくる気の量が強くなる(ウォータークーラと同じ。下のペダルを強く踏めば踏むほど水が勢いよく出る)。

 

これを日々続けて、上の肋骨から肩、そして首、最終的には足裏から頭のてっぺんまでが一つの気の球となると、マスタークラスのレベルになる。

 

 冒頭に書いた、手と股関節をつなぐ、というのは、股関節から肩が一つの気の球でつながるレベル。そのためには腹から腹底、足裏に向かう腹圧が相当必要(再度、ウォータークーラの原理…?)

 

 今日の練習では皆とどのくらい腹が膨らんでいるか触り合いして遊んでいたが、私はこの夏痩せてしまったにも拘わらず、腹と腰回りの膨らみだけはすごくて、ベテランの男性生徒さんも、腹を私のように膨らませると腰が膨らまなくなる、どうしたものか、と横でああでもない、こうでもない、とやっていた。あるところまでいくと、木の幹と同じような胴体になるので腹と腰ではなくて胴体ぐるっと一周一斉に膨らんで、ドーンとした感じになるのが分かるようになった。

 こうなると最早、脚は胴体だ、とも言えるし、胴体は脚なんだ、とも言える。(私はまだそこまでできていないけれども)腕も然り。

 最終的には、四肢も含めて全部胴体(四肢も胴体)と言えるだろうし、逆に、胴体が四肢化してしまって胴体は四肢、とも言えるかもしれない。

どこから脚、どこから腕か、というのは結局自分の感覚。短くするのも長くするのも自由自在・・・。

 

 以下、四肢もが胴体になってしまったマスター級の老師の推手。

 

 これらの老師の推手は私達が練習でやるおきまり推手と随分違う。

 が、私達が練習している推手がいずれは下の動画のような実戦と結びつくことを知らないと、なぜ気を溜める必要があるのか、何故全身を胴体化しなければならないのか、なぜタントウ功が必要なのか、套路で何を学んでいるのか、が分かって来ない。

 

 一見技一つ一つがバラバラに見えても、要領は内側で一つになっている。

 股関節や肩関節が胴体の中にあることが分かると、老師達が一見脚を使っていないように見える動きでも内側でしっかり陰陽転換をしているのが見えるようになる。脚がやたら動かしても体重移動にはならない(弟子達はだいたいそうなっている)のが理解できてくる。

 体重移動とは腰の移動、股関節肩関節の移動、即ち胴体の陰陽転換運動であり、足裏移動では決してないということ。

 理屈は分からなくても、ぱっと見てどっしり感、真っ直ぐ感で誰が強いか分かる。自分で練習していくともっと見えるようになりもっと面白くなる。

 

 

2018/9/3

今朝の掲示板 
 
カメすくいなんてあるのを知らなかった私は、このイラストに描きこまれた皮肉が分からなかった。説明を聞いて、なるほど....(月曜から金曜、5回で1話完結になるはず)
同じものを見ても何を感じ、どんなメッセージが読み取れるかは受け手の経験、知識、感受性等によって大きく変わる。
太極拳で腕を回して一つ円を描く、そこにどれだけの意味....技、要領、身体の構造、力の伝達系統....を感じられるか、と似たようなところがあるなぁ、と思いました。
一つ円を描くことの畏れ多さ。
....そう言えば身体が動く、呼吸をする、だけでもはや神秘でした。

掲示板は私の悪友のもの。ただのヨッシースタンプファンだと思ってたら、こんなのをさらっと毎朝描いている。
センスが独特で毎回小さな驚きがある。
せっかくなのでここで共有させて頂きます。

2018/8/30

 

 今日はお義父さんの49日の法要である有名なお寺に行くことになった。

 着いてみると何とも大きく立派なお寺で、沢山のお坊様が一斉に祈祷をしていた。豪華絢爛。

 法要まで少し時間があったので、私達はお坊様が参拝の方々へ短いお言葉を差し上げるところに同席することができた。

 

 ここしばらくは初期仏教の長老の説法ばかり聞いていたので、別の宗派のお坊様がどのような話をするのか私は興味津々。よーく耳を凝らして聞いてみた。

 すると・・・話の内容が残暑お見舞い程度で何の中身もない!儀式の壮大さとは対極的。短いお話とは言え、お坊様のお話は聞けば少しはこちらが賢くなるはず、気づきがなければならない、と思っている(思い込みか?)私にとっては何とも肩透かしにあったような気持ち。これなら小学校の校長先生が朝礼でしてくれたお話の方がためになったかもしれない・・・。

 

 ヴィパッサナ―瞑想は観察瞑想。しっかり観察をし続ける。

 が、こんなんで、無常や無我を悟れるのかしらん?と多少疑心暗鬼になったりもして、6月の合宿以来、ヴィパッサナ―は専ら朝の忙しい時、道を歩いているとき、そして太極拳を練習している時に行う程度になっていた。

 

 が、今日のお坊様のお話で、しっかり観察しなさい!、という長老の言葉が少し分かった気がした。

 今日のお坊様のお話の一部はこんな風だった。

 「今日もまだ暑いけれども、昨日までうるさく鳴いていたセミの声は今朝は見事に消えてしまった。代わりに鈴虫の声に変っている。セミはどこに行ってしまったのでしょうかね~、確実に秋になり、季節は移り変わっています。これを仏教では無常といって時の移り変わりとともに生きていくことを釈尊は教えられています。・・・残暑の折、お体に気を付けて。」

  セミはどこに行ってしまったのでしょうかね~?

 とお坊様が言った時、私は心の中で、死んだでしょう、と言っていた。実際、外にはたくさんのセミの死骸がある。うちの犬は何故かセミを食べるのが好きなので、散歩の時にそこから引き離すのにこちらが苦労しているくらいだ。

  ちゃんと観察していればセミが最後どうなったのかははっきり分かる。そしてその死を見ることで無常、自分も無常、そのうち自分もセミと同じ運命になることがはっきり見える。だから限られた短い人生をしっかり生きなければならない・・・・と長老だったらそういう風に説法をするだろうなぁ、と思うし、そちらの方が本当に人のためになる説法だと思う。最も大事なこと=死、から目を背けさせるような説法は仏教のものとは思えない、観察が足りない、というか、観察が必要なのだ、しっかり観察していれば真理は見える、というヴィパッサナ―の手法が少し納得できた一瞬だった。

 

 人は大事なところで目を背ける。本当に、一番大事なところで目をつぶる、意識を外す、それはこの数か月の太極拳の練習で気づいたことだった。

 生徒さん達との練習、チャンス―でも円でも大事なそころで意を外す。でも本人は気づいていない。指摘してあげると本人も気づく。(私も自分の動画を見たり、師父と練習をしていると無意識部分に気づく)。それほど私達は通常、無意識で生きている。

 

 今日のお坊さんはこんな話もしていた

 ・・・こちらでは動物の供養もしております。犬でも鶏でも、蛇でも・・・私は蛇は嫌いなのですが、やれと言われれば蛇でも供養を致します。・・・・

 実は動物供養の話をする中で、「蛇が嫌い」と言う言葉を3度も繰り返した。

 隣に坐っていた娘が思わず私に小声で「(お坊さん)普通の人だね。」と軽く言った。

 普通=俗人?私も思わず笑った。 蛇と犬の何が違うのか?生命を見れば同じ生命。一体どの程度の修行のレベルなのだろう・・・?

 少なくとも、足の指でゴキブリと遊んであげる、という長老とは全く違う。

 

 同じ仏教といえども中身は千差万別。太極拳も似たようなところはある。到達しようとしている場所の違いかしら?(まだまだ良く分からないことがたくさんある・・・)

 

 

2018/8/26

 

 「太極拳とは空気中の水泳である。」は馮志強老師の有名な言葉。

 クラスでも以前そんなことは教えたし、ブログでも書いたことがあったから、何度も繰り返す必要はないかと思っていたが、先日アジア大会で池江選手の見事は6冠達成の泳ぎを見て、馮志強老師のあの言葉が”膨らんで”しまった。 

 

 日曜クラス、早い人は私の到着1時間前からタントウ功なり動功なり自分の練習を始めている。昨日も私が着いた時は銘々準備が終わっている様子だった。それなら、とそのまま24式から練習を始める。そのあと48式をやって皆の動きがぼやっと見えた時、ああ、そういうこと?と水泳関連でアイデアがひらめく。

 

 一通り動いた後で、ベテランの生徒さん一人に第17式第18式あたりをやってもらい、途中定式になったところでストップをかけてみた。なお、套路の定式(各式の最後のポーズ)はそのままタントウ功ができるようになっている(あるレベルになったらタントウ功は馬歩だけでなく弓歩でやってみる。最終的には套路中どこでストップをかけられてもタントウ功になっているのが理想。)

 

 套路中のあるポーズをとったところで一時停止をかけられたM君。それを見てもらいながら皆に質問してみた。

 「このM君をこのままの形で海に放り投げこんだら、浮くと思う?沈むと思う?」

 皆がギョッとした顔をした。(意外な質問で一瞬頭が真っ白になったような顔・・・脳は一瞬開くが丹田を外してしまっているのでスキができてしまっている状態。でもそんな顔を見るのは楽しい。(笑))

 

 「沈むと思う・・・。」

 そう誰もが思う。M君本人だって、このまま海に投げ込まれたら沈んで死んでしまうと思ったに違いない。

 「じゃあ、少しでも浮くように身体の中を変えられる?」

 M君が身体の中をもぞもぞ動かしている・・・彼なりに精一杯、空気を入れて身体を膨らませようとしている。

 振り返ると、他の生徒さんも真似をして身体を膨らませようとしていたりした。

 「命門を開くという意味が分かったかしら?」

 皆に聞いてみたけど、ピンときた人はどのくらいいただろうか?

 

 水中で浮く時の身体の要領と太極拳の基本姿勢の胴体部分の要領はとても似通っている。ポイントは腰の隙間(命門や腎)に空気を入れること。そして最近の肋骨を意識する練習から気づいた点と重なるが、肺にそれなりの空気をいれておくこと。『含胸』とは胸から空気を抜いてぺっちゃんこにすることではなく、それによって二つの肺を右左にきちんと分割し、それぞれにきれいな空気がたくさん入るようにすること、というのが現在の私の理解。(だから脇や体側部分が膨らむようになる。腹圧をかけるため肋骨は閉じ気味にしておくのに、内側の空気量が増えるからこそ、”束肋”(肋骨を束ねた感)が出てくる。ただ肋骨を締めただけでは胸がぺっちゃんこ→そこから下腹が満タンになり、じょじょにその蒸発した気が胸へとあがって肺を満たすような経路をたどる:タントウ功がかなり進んで中丹田、下丹田が満タンになった人の練習の経路))

 

 水中で浮く時の身体の状態については以前書いた覚えがあるので、検索してたら2013年12/13付けの記事に、腰痛のある人へ、という文脈から以下のように書いていた。

 

 腰が反って腰痛になりがちな人に一つのアドバイス。

歩いているときに、頭の中で背泳ぎで浮く時の身体のイメージを再現してみる。浮ける人なら分かるはずだが、その時お腹が少し引っ込み(腹筋が使われている感じ)腰(命門)が開いたようになっている。もし腰が反っていたら沈んでしまう。逆に腰が丸くなりすぎていても沈んでしまう。

水面で働く浮力は水平方向の面積が広い方が強くなるから、背骨が通常のS字カーブよりも直線的になると浮きやすくなる。それが命門を開いた感じだ。

背浮きでも伏し浮きでも同じだが、水中で浮く時の身体の使い方はとりもなおさず上の①の要領。

今日生徒さんにもアドバイスしたが、歩いていて命門を開く要領を思い出せなかったら、水中で背泳ぎをする自分をイメージして、その姿勢のまま歩く、というのも好い練習になる。

日常のちょっとした意識の使い方が積もり積もれば大きな成果につながる。普段の生活でどれだけ意識的になれるか、それは太極拳の中で最も大事な修行だと思う。

 

 (ちなみに、検索がてら自分の以前のメモを読んだら、思った以上にちゃんと書いている!復習になるので、生徒さん達は図のあるところだけでもざっと眼を通してみて下さい。今なら理解が簡単、あるいは、使える!はず。https://www.studytaiji.com/2013/12/01/2013%E5%B9%B412%E6%9C%88/)

 

 昨日の、水中に放り投げられて浮くか、という視点を置くと、命門だけでは足りないのが分かる。関節の隙間も必要、力みもとらなければならない、空気を身体の中に蓄えなければならない。

完全にはできないにしても、そんな雰囲気が分かると、会陰を上げなければならないことも分かるはず。しゃがむような動作でも浮きながらしゃがもうとするとどうしなければならないのか?

是非やってみて下さい。(今週の練習では生徒さん達にやらせてみます!)

 

 下の馮志強老師や他の老師の動画。浮きそうかどうか、身体の中の空気量の違いが見えるでしょうか?

 (全部見なくても少しみれば雰囲気は分かると思います。もちろん、どうやったって、実際には沈みます(苦笑)感覚的な説明です。実践系、演武系の人の目指す方向は違うのでその感覚は減るかもしれませんが、太極の道”に行くなら間違いなくこの方向でしょう。)

 

 

 

 番外編。アジア大会も凄かったよう。が、これはどう見てもアクロバティックな体操競技。身体能力がとても高い。

 いつの日かこの中から太極拳に入門する人が出てくるのかもしれません。

2018/8/25

 

 暑くてサバイブするのが精いっぱい。家族行事もあってメモが遠のく。記憶も遠のきつつあるので書き出し作業。

 

 ①結局はタントウ功

  24式、48式内の技の説明。技を丁寧に教えてもかけられない、痛くない!のはなぜ?

  結局、タントウ功がしっかりできていない。

  そこを注意させて補助してあげると、タントウ功をやってきた生徒さん達はクリアする。

  肘技やカオ(体当たり)、膝崩しだって、全てはタントウ功をきつくやればよいだけ。

  打つのも同じ原理。

  中正不偏が太極拳の核心。一瞬たりとも崩れない。そのための腹の気(丹田)。

 

 ②会陰→舌→百会(眼)

  身体を上に持ち上げる3点。

  舌が落ちたり、眼が落ちては、虚霊頂勁はできない。

  (ここから派生すること…多し)

 

 ③眼法

  眼が手を追いかけてはいけない(眼がくらくらする…当たり前)

  手が眼を追いかける。(実践すれば当たり前の話)

  無駄に瞬きしない(そのためには丹田で上丹田を引き込み続ける必要かあり。

  眼で脳を開ける(詳しくはいずれ)

 

 ④肩関節と股関節、四つの珠の隙間を開ける。四つの珠は四輪駆動。

 

 ⑤息

  息で決まる! 自分の息が分からなければ、人の息を見てみるとよい。

  転換点にスキあり。そこがチャンス―のミソにもなる。

  「スタンフォード式」で説明されてた腹圧呼吸ではその転換点をどうするのかの説明なし。

  尺八奏者が使う密息にはその転換術があるような気がする。

  転換点で気が煉られ、力が増強する。

  ・・・・説明難しい。

 

 ⑥肋骨

  肺にはプラーナ(軽い精妙な気)

  タントウ功のした姿のまま海に堀投げられても浮いてられるか?

 

 

<LINEの仲間たちのページにもチャットを貼り付けました→仲間たちのページへ

 

2018/8/14 その二

 

 先ほど明日のお盆特別レッスンの生徒さんから、明日は彼が参加できなかった半年ほど前のクラスで私が教えたという『含胸』の要領を教えて欲しいとリクエストあり。

 半年前の含胸?

 一瞬面食らって、彼に、もう少し具体的に私が何を教えていたのか分かれば教えて欲しいと頼んだ。すると彼はそのころのブログ(?)から該当部分を引用してくれた。

 

 『喉を無事通過すれば、胸のダン中つぼ。裏は肩甲骨間の神道ツボ。

 ここを開く、いわば『含胸』の要領。

 今日はここを中国風お祈りポーズで開く感覚を掴んでもらった。

 この場所は魂が住んでいるから、特別のお部屋が用意されている(心包)。中の住人をつぶさないように、私達も胸の奥に隙間をあけておかなければならない(中医学の説明)。

 両手を胸の前で合わせるポーズはそもそも胸の中を開けて胸の気を腹の方へ降ろすようにできている。

 太極拳的には上肢は胸のど真ん中、肩甲骨のど真ん中から生えているように使う。含胸ができないと上肢、肩がうまく使えない。』

 

 確かに私の文章だけれど、いつ書いたのか覚えていない。

 これじゃあ、どうやって当時『含胸』を教えたのか分からない。

 更に手がかりを探してもらうと、彼から、”ストロー”と”打人如接吻”、があがってきた。

 ストロー? 最近知ったLINEの検索機能を使って検索。今年の2月にその会話があった。

 

 『今日の練習には重要課題の息と心の第4チャクラの開発が含まれていました。

第1から第3までは身体のベース、この基礎を元に第4から上の開発に進みます。

呼吸は第6→第5→第4(鼻口付け根から肺)ですが、息は第4→第3→第2→第1まで行って"翻る"なり他の場所に動かす...と感じられますが最後までまだ追いかけられません。

息は血管の流れでもあるから、実は人体の壮大な地図を描くような話にもなり得る...。

 

ハート第4チャクラの開発は、胸前面のダン中のツボと背中側の神道穴を貫通させてストロー一本突き刺さったままストローを潰さないように腕を動かすことから始めました。要はこれが"含胸"。

(ハートが)開いても"乱開"しないためにとても重要な要領です。普段ハートに蓋をして生きているとある刺激で突然キレてしまう、というのも、普段この場所のストロー一本分の隙間が塞がれているから。ここの練習は芸術表現とも密接に繋がっていて個人的にはとても面白い。

 

今日Mさんが本当にきれいに含胸のまま第4を開いたり閉じたりしてくれました。これをすると丹田に気が溜まり足裏に気が落ちていて、あー、そういうこと、と私も見て納得。

静けさが美しい。

息がきれいに通ってる。

私も参考になりました。』

 

 

 と、私も今読んで、参考になりました。

 この時、既に、”この練習は芸術表現とも密接に繋がっている”なんて書いているのに、肝心のピアノの演奏ではそんな”ストローの隙間”なんて完全に忘れて表面的なところ(俗世界?)であたふたしてました。

 過去の私がその様子を見たら、さぞかしがっかり・・・せっかく教えたのに・・・と(苦笑)

 

  ともあれ、明日どのように『含胸』を教えるかは明日の私のみが知っている。

この半年間での気づき、そして生徒さんと直に相対して出てくる気づき、それに過去の蓄積、全てが一緒になって何が出てくるか、は明日のお楽しみ。

 

 Mさんの動画、顏をぼかせたら載せます・・・。今見ても、きれい。

 

 

 

 

 

2018/8/14

 

 今日の御苑練習。

 昨年熱中症になってしまった男性が参加。用心しているが途中首元が熱く少しヤバくなったようでしばししゃがんで休憩。大丈夫かと私も心配で気が気でなかったが、その後も休憩をはさみながらゆっくり動き続けました。最終的には首に気が貫通したとたん、首の熱がとれ、頭もすっきりしたらしい。首の気の通りが悪かったのが問題だったんだ・・・と納得して帰りました。

 首に気を通すのはとても難しい。

 

 首がすっと、子供のように自然に立っている大人はほとんど見かけない。

 太極拳の先生方の中でも首を”立てず”に”立って”いる人は少なく、筋肉や骨ではなく、気で立ち上がっているならその先生のレベルは非常に高い。それができて初めて本当に湧泉(もしくは会陰)から百会まで気が貫通する。真の意味での『虚霊頂勁』が完成する。

 『虚霊頂勁』は太極拳(タントウ功)をする上での一番最初の要領だが、実はこれが完成するのは一番最後かもしれない。

 

 様々な要領(虚霊頂勁、沈肩墜肘、含胸抜背塌腰、屈膝园裆松胯)などは一つ目がクリアできたら二つ目に挑むものではなく、ぐるぐる回しながら少しずつ会得していくようなもの。レベル1の習得度で一巡させれば全体としてレベル1、二巡めはレベル2の習得度で回して全体としてレベル2・・・いつまでやっても完全にはならないところでどこまで完成度を高められるか、そのようなもの。

  

 

2018/8/10

 御苑練習終了。
 百会の操 を作には眼が必要。
 身体を貫く上向きベクトルは三点で作る。
会陰、舌、百会。
それ以外は下げる。
沈肩、塌腰、抜背、含胸....これらは全て身体を地に引っ張り下げる働きをする。
今日はこれらを"束肋"の要領でクリアさせてみた。
バレエのリフトやスピンでは束肋が不可欠。その辺りの動作を真似て要領を教えた。
思った以上に手応えあり。
束肋すると足裏の力が使えるのが意識できる(足裏の力が得られないとしたら束肋はうまくできていない。)
最近読んだ『スタンフォード式 疲れない体』で紹介されていたIAP呼吸法(腹圧呼吸法)の要領を使えば分かりやすいかもしれない。実際、生徒さん達にはその呼吸法を簡単に試してもらった。丹田呼吸はその腹圧呼吸の先にある。
腹圧パンパンで極限に至ると、スーッと小さな粒のような丹田に変化してしまう。そしてそのうちその丹田が膨らみ極大化したと思ったらまた極小化している。極大がなぜ瞬時に極小になるのか分からないがそうなってしまうのが丹田の不思議....極大と極小は円で繋がってる?....ああ、陰陽図かぁ。
ちなみにこの辺りの奥妙な現象、太極拳の醍醐味はスタンフォード式の射程範囲外のようです。
2018/8/8

今日は台風接近で夜クラスは中止。
そろそろピアノの練習を再開....と、Sさんのアドバイスを思い出して"歌える曲"、とショパンのノクターンなどを弾いてみたりしたけど、のらない。どんな曲弾きたいかなぁ、と、YouTube探ってたら、あった!弾いてみたい曲! 
リスト、暗くて重くて超絶発散、爆発系(苦笑) 。どーしてこんなのばかり惹かれるのか、鬱憤溜まってる?....と、とにかく聴き続けてたら、上手い!し、エネルギーがすごい! カッコいい!やはりこんな曲は男性しか無理だ....と、よーく見たら、えらく美形な男性?いや、女性? ああ、女性だ‼︎
デカイ! これだけデカイとパワーもある。羨ましい。


身体を構成するものは全て"精"。単純に考えれば身体が大きい方がパワーがある。だから柔道やボクシング等の競技は体重別にする。
小さいのは不利。が、その不利なところを逆手にとって....いや、小さいからこそのきめ細やかさもある。でも、心だけは大きく広く全てを包み込めるように....太極拳の目指す境地。


キエフ出身かぁ。
アルゲリッチはアルゼンチン、スルタノフ(男性)はウズベキスタン、ホロビッツはウクライナ....なんだかパワー爆発系は土の香り。ヨーロッパ中心の洗練度に欠けるけど活き活き感がすごい。
....太極拳もそうだったのではないかなぁ。息押し殺して形をきれいに整える、そんなものではなかったはず。
意が強すぎると萎縮する。
意を少し軽くしろ、と一昨日劉師父から指摘されたのを思い出した。

2018/8/6

 

  劉師父にチェックしてもらうように48式を撮りました。暑い!けどやはり外は気持ち良い♪

⇒動画へ

 

 

2018/8/6

 

 先週末、娘は南仏トゥールーズから車で1時間ほど離れたBeauvilleという場所のミュージカル・キャンプに出かけた。そこには毎年主にイギリスから8歳から18歳までの子供が集まり、一週間キャンプ生活をしながらミュージカルの作品一本を仕上げる。土曜日集合で翌週金曜夜がパフォーマンス。その夜は父母や村の住人がパフォーマンスを見に集まり、そのまま夜中は村のお祭りになる。

 

 娘は8歳の時にパリに行き4年近くをそこで過ごしたが、実は彼女の人格形成にとって多大な影響を与えたのが、このBeauvilleスクールと『奥様は魔女』のDVD。

 パリのインターナショナルスクールに入った時、娘は全く英語ができなかった。渡仏する前に某大手英語スクールにも通わせたが何の意味もなかった。学校では英語だが、街はフランス語。テレビをつけてもフランス語。仕方なくCartoon networkをつけていたが、ある時本屋で懐かしい『奥様は魔女』のDVDを見つけ、私が見るつもりで買ったら娘が大ハマり。毎日毎日(そして20歳を過ぎた今でも)見ていた。サマンサ、そしてあの時代のファッション、暮らし方は彼女の理想になった。家でもきれいな服を着てヒール靴をちゃんと履いているような生活がしたい・・・実際、インターで仲良くなった外国の友達の家に行くとそうだったりするようだから、彼女にとってはとりたてて特別のことでもないようだ。英語は全くできないうちから母国語は英語だと自分で勝手に信じていたくらいだから、彼女はもともと英語が好きなのだろう。

 9歳の夏休み、6月から3か月近くも休まれたら困る!(太極拳の練習がし辛くなる!)と、私は娘を7月末まで日本人学校に通わせようと考えた。しかし希望者が多く抽選でみごとに外れてしまった。がっかりしたその日、たまたまアメリカンライブラリーの壁に小さな張り紙で、子供ミュージカルのサマースクールの募集をしているのを発見。南仏でかなり不便な場所、が、彼女なら大丈夫!と、娘に、行きたい?と即話を持ちかけた。もともと歌ったり踊ったりするのが大好きな女の子だから、すぐに、行く〜!!!との返答。即決! 慌てて手続きをして、瞬く間にパリのオルセーから一人で飛行機に乗らせて行ってもらったのでした。

 

 一週間後、車でBeauvilleまで南下。丘陵地帯の小さな村。夜のパフォーマンス(その時はロミオ&ジュリエットだった)を見にいったら、なんと東洋人は私達だけ。イギリス人の小さな男の子がパフォーマンスを見ずにずっと私の顔を横から眺めているのが変な感じだった。それほど私の顏は君と違うのか?同じ人間とは思えないのか?、英語ができるならそう聞きたいくらいだった。

 

 うちの娘は小さいながらもよく馴染んでいてとても楽しそうだった。一週間ぶりに会って彼女と話したら、一週間前の彼女と全く違っていた。英語もイギリス人みたいになってるし、ジェスチャーも、自信の漲り方も、英国化していた。

 その後彼女は毎年夏にはBeauvilleに行き、18歳まで10年間、多くの思い出と仲の良い友人を作った。19歳の時はスタッフとして呼ばれ、衣裳の着付けや練習の手配など、50人ほどのイギリス人の子供達をマネジメントしていた。自分の娘ながら、凄いもんだ、と感心。私には無理だなぁ、と今でも思う。

 

 今回21歳でスクールに参加。これは学校ディレクターの特別な計らい。他の先生方にも内緒でうちの娘を参加させたらしい。現地到着したら、先生方も含め、イギリス人の友人達が涙を流して喜んでくれたというから本当によかった。

 昨夜電話がかかってきて、本当に楽しい、と言ってたけど、ぽつっと、日本の彼氏に会えないのが辛い・・・(といっても彼氏はすぐに娘をおいかけて南仏入りするのですが)。

 彼女は中学生の時既に、パパに似た男の子がいて好きなの、と私に言っていたが、大学に入ってその子と再会。相思相愛になって付き合うようになった。本人同士は結婚を考えている。

 娘を見てると、「××君が好き」「△△ちゃんが好き」というのがあっても「●●ちゃんが嫌い」というのはこれまで聞いたことがない。

 好きな人がいるだけで咎められそうだった私の子供時代とは全く違う。

 真っ直ぐ捩じれず単純に育ったのは元々の彼女の質だろう。伸び伸びしていて娘ながらどこか羨ましい。

 

 

 

 

2018/8/2


  
  神の目なのかどうかはよく分からないにしても、なんて美しい....若き頃、一目惚れしてロンドンでフラット用に買った緞帳のようなカーテンの色合い、それが今年になってルドンの開花した色合いだったのを知ってびっくりしたけど、これは、そもそも神の目の色合いだった?
   ルドンが色に目覚めるまであれだけ黒で目玉を描いていたことを思い出すと、この爆発的な色彩は集約した黒、点、から生まれるのかもしれない。
   一粒の丹田が身体全体に広がり、更に身体を包み、更に果てしない空間に広がっていく様も、その次元を見る目があればこんな風に見えるのかもしれない。
   膨張と収縮、生命にはその運動しかないと長老が言ってだけれど、それはまさに太極拳、別名、開合拳の開合。無極から太極を行ったり来たり。
   私達はその中で生きている。
  (この膨張と収縮、開合を超えた境地が解脱やら涅槃の境地かしらん?)


瀕死の惑星から噴き出るガス
惑わす外形 謎の構造
蛇のトグロ? 螺旋? 
球状に閉じ込められたガス
水瓶座内!
瀕死の惑星が2つのディスクに物質を放射した?
2つの対称軸

  神の目の画像を待ち受け画面にすると願いが叶うそう。そんなこと信じてませんが、ダメもとでやってみよう、なんて、また長老のしかめっ面が(苦笑)

2018/7/30

 

 久しぶりに練習メモを書きました。

 懐かしい馬虹先生・・・こんな先生は中国でももう二度と出てこないだろう・・・

 75歳でもこの熱血ぶり!!⇒練習メモへ

 

2018/7/28

 台風近づいてきてますが....
 今日は戸塚で推手試してみる予定。

 友人が毎日会社の掲示板に描いてたというイラスト....画才が全くない私から見れば天才の境地。

ソーメン、毎日出される、というシチュエーションが把握できていなくて最後笑えなかったのは、ひょっとして私くらいかもしれない。(自分で注文してるか、作ってるかと無意識のうちに思ってた。)
先入観は恐ろしい....(苦笑)

このくらい隙間があると人生も涼しく生きられるのかもしれない。夏、いや、太極拳も熱血は似合わない(苦笑)

2018/7/23

 

 頑張った発表会。

 ピアノの発表会ほど緊張するものは何故だろう?

 単に実力以上のものに挑んでいるからだけではないと思う。どんなに簡単な曲でも人前で演奏するのは緊張するだろう。ミスが許されないから?途中で立ち往生しそうだから?

 太極拳や卓球の試合でそんなに緊張したことはない・・・し、学校の試験なんて間違えれば消しゴムで消せるし・・・。

 

 対人の試合は意識が相手にくぎ付けになっているから緊張する間もない。

 けれどもピアノ演奏の時は、演奏しながら頭の中でチラッと不安がよぎったりする。

 その意識のブレが問題。その解決策は中に入り込んでしまう(曲と一体になってしまう)ことだということは頭では理解できたのだが・・・。

 実際にやってみると、ミスタッチする度に意識が動きそうになる。どうにか曲の最後の方まで行きついた、と気が緩みそうになったらとたんに音符が分からなくなりそうになった瞬間もあってドッキリ。

 

 劉先生に演奏の動画を見てもらったら、「左手はとても素早く動くけど、右手がダメだ。最後の一分間は身体と手が一体になった(それまでは一体になっていない)。」とズバリ。動画、あの角度でよく左手の動きが分かるなぁ、と関心した。

 右肩が左肩ほど開いていない、胸の開きも悪いのが腕が硬く手の動きが良くない原因。

 この曲の練習をして右肩、右胸、右腰(そして右足の土踏まずから親指のライン)まで開けて通すことを知ったのだが、そこまで開かせるにはまだまだ鍛錬が必要。それはこれから太極拳の練習で徐々にやる予定。

 

 まあ、立ち往生しなくてよかった。ひと段落。ピアノのプロ、目指さなくて良かった・・・

2018/7/20

 

 ピアノの練習のためにせっかくお休みしたのに、弾けば弾くほど諦めムードが強くなり、かえって太極拳の練習がしたくなってしまった。

 以前は太極拳⇒ピアノ、と、太極拳をピアノに役立てようという気持ちが強かったが、最近はピアノを弾くことで太極拳でまだクリアできていない課題が見つかるようになってきた。ピアノ⇒太極拳。

 

 肩甲骨、腕、はまだクリアされていない。練習途中・・・

 (動画など撮ったので、続きはLINE仲間のページへ。)

2018/7/20

 

 週末のピアノの発表会に向けての追い込み(?)のため太極拳のレッスンはお休み。

 技術的にはもう向上させる時間はないけれど、せめて気持ちだけでも音楽へ寄り添っていきたい。

 ピアノの先生に「なぜ舞台で上がらないのか?」と聞いたら、一言、「自信」と答えてくれた。そして、その自信はどこから?というと、練習量、曲と自分が一体になったという感覚、その辺からくるらしい。「延江さんは絶対的に練習量が少ないわね。」、そう言われてしまうと何も言えない。毎日ちょこちょこ、っと撫でるようにさらっているだけではピアニストのようには弾けない。

 楽譜を見て曲が一通り弾けるようになったら、曲を分割して分割した一つ一つを細かいところまで注意を行き届かせられるように練習していく。指使いは本当に吟味して決めなければならない。フレージングにも注意し、テクニック的に難しい箇所はそこだけ取り出して反復練習、リズムを変えて練習してみたりする。

 ・・・と、実は太極拳の練習と同じ。

 套路が一通り通してできるようになったら、一式一式の単式練習を行う。単式練習がどれだけ精密にできるか、それで套路全体のレベルと質が変わる。

 太極拳の練習では単式練習が苦にならない、というよりも、そこには技があり、”妙”があるので、何度繰り返しても飽きないのだが(劉師父は第二式金剛捣碓だけで一生練習できる、とか言っていたことがある)、ピアノのパーツ練習は何故かすぐに飽きてしまう。パーツ練習の重要さが分かったのはつい最近で、よ~く細かく見ていくと、面白い和音だったり、絶妙なリズムだったり、作曲家が頭を絞ったのか直感的に思いついたのか分からないが、凄いなぁ、と思うところがボロボロ表れてくる。これまでどれだけザ~っと弾いていたのか・・・・ぼぉ~と生きてんじゃねぇよ~、とチコちゃんに怒られてしまいそう(笑)

  観察力、注意力、というのはまさにヴィパッサナ―瞑想で養われる質。あの瞑想合宿も無駄にはなってないのかもしれない・・・。

  観察力と技術が組み合わされると非常に安定感が出ることも分かってきた。太極拳やピアノ演奏はメインは肉体労働で技術はマスト。そこに観察力(上丹田)が加わると全体的に安定感がでる。ブレが少ない。

  昨夜の練習で生徒さん達の目線が正しくなくて、そのため頭がブレて中心軸を逸してしまうのが分かったが、眼がどこをみて、眼をどう使うのか、所謂”眼法”は身体全体のバランスをとるためにもとても大事だ。

  ピアノ演奏では演奏中何を観察してるのだろう・・・・ホロビッツのように、ほとんど目線を鍵盤から外さずしかも”収”している(目を後方に引いている:凝神)のが太極拳の眼法に合っている。

 

  昨夜になって発表会で弾く曲を男性以上にしっかり弾いているロシアの女性ピアニストの動画を発見。凄いなぁ~と見とれてしまった。ちょうど肩甲骨の外側と内側で操る指が違うことを気づいたばかりだったので、彼女の背中、坐る姿勢、柔らかい手を見て、まさに太極拳的演奏スタイル、と思った。丸く、身体がピアノを制す。天宗のツボからくる小腸経の小指の使い方をみればどのくらいピアノを包み込めているかが分かる。その域に達しているピアニストの演奏は、別格。安定感が違う。

  劉師父に彼女の動画を見せたら、「非常好。背很开。阳脉用的很好。下盘坐的很稳定。手指很灵巧。」とコメントをくれた。・・・運動的には太極拳の訓練がかなり有効。が、肝心な音楽性はどうする? 馬虹老師は太極拳は芸術でもあると言っていたけど、太極拳の練習で芸術的感性が磨かれるということが・・・あり得なくはないかも? 

 

 

それ以前に聞いてた日本の女性ピアニストの演奏も雰囲気があって好きだが、身体の太極拳的完成度が上のロシア人女性に及ばない・・・余裕が違う。

 ついでにですが、この曲をテクニック的にも音楽的にも理想的に弾いているのはキーシンかなぁ、と思います。やはり、余裕・・・。天才・・・。

2018/7/17

  天宗穴を使って肩のゼロポジションを作る。
同時に天宗穴は腰へ引き込み丹田化する。
  この要領を保ったまま動けたら、もう私達はマスタークラス♪
  動かない状態で繋いだ感覚を掴み、それを崩さないように動くのがどれほど難しいか知るだけでも大きな進歩。あとはそちらに向かって地道に鍛錬すれば良い。
  
  私が仲間とやりたいお遊び→動画

  この要領がある程度できていないと遊びにもならない....頑張って早く遊び相手を作りたい!


2018/7/16

 今日は義父の葬儀で、予定していた24式特別レッスンは弟子M君に代行を頼んだ。
   結果はVERY GOOD!
   私が普段できない繰り返し練習や個々の生徒さんの動きの細かなチェックなど、形を覚える為の練習がしっかりできたようだ。
       
    ここ数年は生徒さん各々に一式ずつ教えることができなくなってしまったので、新しく参加した生徒さん達が24式を覚えるのが難しくなってしまった。
  「24式を覚えたい人は自分で進度を管理して、レッスンの際にどの式を学びたいか言って下さい。」とこれまで何度も頼んだのだが、やはり我々は日本人?、そこで手を挙げて、「第10式をやって下さい!」とか言う人は滅多にいない。他の人に気を使う前に自分をどうにかしなければならないのに、遠慮してもじもじ、もぞもぞ。いつまで経っても24式は虫食い状態。先生が教えてくれないから....なんて子供のようなことを言ってる場合でなく、お金払ってレッスン受けているのだから、全て先生の言う通りの受け身ではいけないと思う....が、ひょっとしたら私がいつ間にか妥協をして生徒さんに覚えることを要求しなくなったのも覚えの悪い原因か? 確かに最初はタントウ功についても動功についても毎日これだけやる、というノルマを課していた。約10年前に代々木公園で教え始めた頃は、24式も毎回一式ずつ、マンツーマンで教えていた。
  私の生徒さん第一号は今でも学び続けていてくれているが、彼女(と言っても私の人生の先輩)はこの10年の私の教え方の変化、変遷のアイウィットネス。自分の身体や意識の変化に応じて教える内容も内側重視になっていく。二度同じことを教えるなんて有り得ない私の性格なのか、毎回毎回展開して生徒さんが追ってくるのが益々難しくなる....
そんな中で、弟子の存在はとても重要なのかもなぁ、と薄っすら思い出した。
  彼らが私と新米生徒さん達の架け橋もしてくれる。
  
  私が何となく目指していたのは、歳とっても皆で太極拳して遊べる仲間作り。私も仲間の一人だから私と遊べる人がいないと面白くない。その遊び仲間の育成をしてるようなもの。その人達が更に彼らの仲間を育ててくれれば....なんだか楽しい。いつまでも、先生VS生徒達 では面白くない(苦笑)

  内外兼修。
  内も外も大事。
 気ばかり追って外形が崩れているのはダメだし、外形だけ整っていて内側がない(隙間がない)のもダメ。
  二元論。

 今日のトウロ練習は外をしっかりやって頂きました。M君ありがとう。今度私の24式も細かくチェックしてほしい。

2018/7/15  

 
(グループLINE用の説明)
昨日今日は肩の天宗のツボに注目しました。
肘を操るには肱(上腕骨)の意識が必要、肱を操るには肩、中でも天宗穴→上腕骨→肘、が一直線でなければなりません。
一般的に、肩のゼロポジション、甲腕一致ということを、太極拳的にツボの意識でやるなら天宗穴を外さないように腕を使えば良い。(更に肘のツボや手首のツボも使わなければならないけど、それについては追い追い....)
http://korikiku.com/?cat=87
http://korikiku.com/?cat=87

 

推手の時はここのツボ外すと一気に崩され崩れます。

套路の時も、動功の時も、いや、普段腕を使う時も、このツボを外さないように注意しなければならない・・・(と目下、私はピアノ演奏で練習中)

 

このツボからまっすぐに肘に向かう一直線の感覚は、両手を斜め上に上げた、ハンモックの姿勢、を取るのが分かりやすい。

 

ネットにはいろいろ資料があります。http://olivia.sports.coocan.jp/new/scapula/scapula02.html

https://ameblo.jp/yamatokawashima/entry-12355526527.html

 

 

 

  いずれにしろ大事なのは、そのように腕を使い続けようとするとずっと丹田が必要になる、ということに気づくこと。肩甲骨の意識は通過点に過ぎません。天宗のツボが腰とつながり、脚、足とつながることでやっと本当に使える肩、腕になります。(上の数枚のイメージの左上のものがそれを表しています。)

  このあたりは練習で少しずつ感覚を深めていきます。

 

  これに気づいてしまうと、今まで、どうしてこんな風に手を回していたのか、と恥ずかしくなります。

 

  甲腕一致、肩のゼロポジションは腕を斜め上に上げたところが一番分かりやすい。

  ではその腕を徐々に下げるとどうなるか?

  試してみて下さい。

  腕を下げようとするといとも簡単に天宗穴が外れてしまいます。

  これでは使い物にならない。

  では、どうすれば腕を降ろしてもなお天宗のツボが保持できるか?

  これが分かれば、功夫は必ず1レベルあがります。あとはそれを使っていつもの基本練習を繰り返せばよい・・・。

 

 <以下、肩のゼロポジションの資料>

 

2018/7/11

夏の発勁の続き

ある生徒さんから平日の鬱々した状態をさっぱり短時間で解消するための良い方法、できれば発勁を教えて下さい、とのリクエスト。
私は特別そのような練習をしたことがないので劉師父に聞いてみました。

すると、発勁は単にこもった気を発散するだけでなく、背中や肩、腕の陽気を活動させることで冷房にやられないためのバリアも作れるとのこと。....なら、私も真面目にやらねばならない。

先生が4種類やるよう教えてくれました。
双推手、采、肘、掩手肱捶。
これを左右9回ずつ(肘に関しては、前方、横方、後方3種類)、力を入れてやる(つまり発勁、発力)すると良いとのこと。
生徒さん用に撮った動画はLINEの仲間のページに後で貼り付けます。

追記
劉師父の足裏、どこが凄い? と聞かれました。
数カ所見るべきポイントがあります。
足裏は三次元の肉体を二次元の平面に投影したもの。足裏を見れば身体の状態はほとんど分かる。本当に見る目があれば身体の状態にとどまらず、心、その先の状態も分かるのではないかなぁ?
修行者は仏足に近くなる....



2018/7/11

夏の発勁
夏は気が上がって上半身に滞りがち。
劉師父に対処法を尋ねた。

回答後回し。

が、会話の途中で足裏ツボを教えてくれた時に見た師父の足の裏。
やはり....すごかった。

2018/7/5

  ピアノの発表会まであと3週間を切った。
  先月頭のヴィパッサナー瞑想合宿以来、肝心の我欲ではなく意欲が落ちてしまったようで、ピアノを弾くどころか音楽を聴く気もしなかった。テレビもつけた途端、雑音と雑電波で目がチカチカしてしまう。パソコンに向かう気もしない、ご飯も作る気がしない、人と喋るのも気合いがいる。身体の調子は悪くないのだが、エネルギー量、気の量が減ってしまった感じがしないでもない。
  
  太極拳はヴィパッサナーの導入になるはずなのに....なぜ太極拳→ヴィパッサナーにならないのか?と模索していた。そのうち、ヴィパッサナー→太極拳はいける!と確信。なら、ヴィパッサナー→ピアノもいけるはず.... 前回のレッスンで、暫く弾かなくても良いから楽譜をしっかり見てきなさい、と先生に言われた意味が分かった気がした。雰囲気で適当に弾いてはいけない。雰囲気で太極拳をやっていると詰めが甘くなるのと同じ。身体(小脳?)だけで動くのではなく、脳、それも前頭葉(大脳皮質、進化脳?)がしっかり身体の指揮をとり統率しなければならない。
  細かなところまで”気”の行き届いた動き、演奏ができるのか、ノリはよくてもノリが崩されたら復活不可能になるのか、実はスキだらけの動きなのか・・・太極拳でもピアノでもサッカーでも料理作りでも、仕事でも、結局みな同じことなのだろう。
  丁寧に細かく気を付けるとノリ(流れ、ダイナミックさ)が失われがち。
  流れ、ノリがよいと細部がおざなりになる。
・・・・・以下は本当に独り言・・
  流れ、ノリは気の世界。腹の丹田で動く。第二身体、エーテル体、生気体の中心。第一身体フィジカル体にエネルギーを注ぎ込む。
  細部まで行き届いた意識、統率、観察は上丹田。第三身体(アストラル体)と第二身体の架け橋。
  ヴィパッサナ―瞑想は方法としてまず第一身体(身体の動き)を観察し、その後第二身体(身体の感覚)を観察させる。それで上丹田(アジュナチャクラ)を機能させて、それから心(アストラル体)の観察に入っていく。
  第三身体アストラル体(心の身体)⇔第二身体エーテル体(気の身体)⇔第一身体フィジカル体(肉体)
  太極拳は丹田を見守る練習から始めて第二身体を活性化し第一身体とつなげる。
  仏教の解脱へ向かう道は、第一第二身体の観察から初めて第三身体へと意識を上げていく。
  身体の動き(第一身体)の観察には上丹田の前丹田(印堂穴)が機能するが、第二身体(身体の感覚、気の動き)を観察しようとすると、上丹田は少し後ろ(脳の中央辺り)に移動し、道教の修行で使う祖窍穴になる・・・(と、昔、陳発科の孫弟子のある先生に馮志強老師のテキストを見せたら「祖窍穴は使うとは・・・!これは道教の修行法だ!純粋な陳式太極拳では印堂穴を使う。」と驚いていたが、それはそういうことだったのだ!)
  そして私の感覚としては、第三身体を見ようとすると、上丹田はその祖窍穴からさらに後方か上方に移動させなくてはならない(というよりも、移動してしまう。それは今後見ていこう・・・)。
  (上位の身体になるほど繊細だから、上→下に応用できても、下→上への応用はできない。
だから、ヴィパッサナ―→太極拳→ピアノ、はあり得るけど、ピアノ→太極拳→ヴィパッサナ―にはならない、のかと・・・総論、各論の関係かなぁ。)
  今日のピアノのレッスンは普段の太極拳の練習よりずっときつかった。というのは、体力が枯渇する前に気力が枯渇してしまったから。
  音の中にずっと気を貫かせて弾く、ということはこれまで全くできていなかった。だから私のピアノはただのスポーツのようだった。太極拳の練習でその違いが分かるようになった後でも、それをピアノ演奏に入れ込んでいくのはとても骨の折れる仕事。小さい頃のピアノの習い方を間違えてしまい、身体だけで弾く癖をつけてしまったのだから、それを換えるのはとても難しい。
  他の場所でスポーツあるいは簡単な健康法として太極拳を学んできた人が私のところに来て最初大きくためらい、訳わからなくなるのも同じこと。拳を学ぶのは簡単、拳を換えるのは難しい、という。最初についた癖をまずとらなければならない。が、一旦除去すれば、その前に培った身体の使い方が活きてくる・・・ピアノも同じ原理だろう。
  それにしても、気で指を引っ張って弾いていく、と指のトロさが自分でも嫌になる。
  だからそれについていくだけの身体能力が必要になる。
  丹田(気)が身体を引っ張る。それについていけるだけの身体の開発は別途にしなければならない。だから皆訓練に訓練を重ねます・・・。

2018/6/30

 

 明日で最終日のターナー展。

3月頃駅の広告で見てとても惹かれていたのに、実際に足を運んだのはついこの前。

20代にロンドンで住んでいた頃、少なくとも3回はテート美術館に連れて行かれたけど、全くピンとこなかったターナーの絵。天気の悪いイギリスの気候のようなぼやけた絵ばかり・・・なんて思っていたくらい。当時の私はバレエの公演ととピアノのリサイタルが大好きで、絵画に対しては全く興味がなかった。

 が、今回ターナーの絵を見たら、そのすごさが分かる!と言っても、絵画の技術的な事は全く分からないのだけれども、その視点、ミクロからはいってマクロへ抽象へと向かっていくその流れ、それは4月に大感動したルドン展と同じ。

 微細な所までありのままに観察する。。。

 観察・・・最近挑戦しているヴィパッサナ―瞑想、そのものではないか?

 その目は我で汚れていない。

 ターナーの絵を見た後で、写実主義の言われるミレーの落穂広いや晩鐘を見たら、そこにミレーの意図、我のようなものが見えてしまって、そういう意味ではターナーの方が水墨画的な無我の境地に近い気がした。我がないのに、これはターナーの絵、と分かる個性はしっかりある。面白いなぁ、と思う。

 ぱっと遠くから見ると滲んだ色のグラデーションの絵に見えるのだけど、近づいてみると、とてつもない細かさと正確さで物や人を描いている。こんなに細かく、どうやって筆を使うのか?いや、視力が跳び抜けてよいのか?

 絵に顏をひっつけて見たくなる。あら~細かい・・・あらら、人の顔がピーターラビットになってる?

 そしてまた遠くから見てみる。そしてまた近づいて楽しむ。

 そうやって繰り返し見ていると、眼の体操をしていることになるのか、自分の目が良くなって焦点が合いやすくなった気がする。

 焦点が合う・・・ほんとに、ぴったりと焦点が合う。

 画家の眼の焦点がきっちり合っていたところに私の眼の焦点も合ったのか?

 ターナーの絵を見ると眼の焦点、いや、上丹田に焦点が集まる。目が良く見えるようになる。

 画家自身もそこに焦点を集めて描いていたのではないか?

 

  その美術館には常設でゴッホのひまわりがあったけれども、ターナー見た後でそれを見たら、大雑把過ぎて素通りしてしまった。おそらく上丹田で味わう絵ではないのだろう。焦点が合わなかった。去年ゴッホ展に行った時はとても感動したことを思うと、きっと見る絵に応じて自分をチューニングしているのではないかと思う。

 時代性、その背景もあるし・・・。

 

 でも、ルドンとターナーはフランスとイギリスの大きな違いはあるけど、私にとってはとても共通点がある。極小から極大まで、無為自然、太極拳的。

 

 

2018/6/27

 あらら、皆脚で歩いてる!
朝、駅で歩く人々を見て浮かんでしまった言葉。
これじゃあダメだ....
若い子でも腰が引けて既に老人歩きになりかかってる。胴体力=腹力=丹田、弱すぎ。
腹にピョン吉つけて前に引っ張ってもらわなきゃ....
  心の中の独り言。
  セネガルと日本のサッカーの試合を見ていた時、サッカーのストラテジー等は殆ど分からないので、ただただセネガルの選手達の身体を見ていました。猫科のような強くてしなる身体....あの身体能力に対抗するには私達は頭を使わねばならない。太極拳も知恵から生まれた拳法だった....
  と、セネガル選手と日本選手を比べたら顕著な違いがありました。
  昨日そのヒントになる資料を仲間のLINEに貼り付けました。言わんとするところ、分かるかしら?
(休憩いれたらそのまま2日過ぎてsimatta///)
腹圧=丹田ではないけれど、腹圧は丹田の元。
この先生のブログはためになります。
さっそく腹這い、クラスでやらせてみよう。
https://www.bini.jp/column/5089/

2018/6/24

 日曜組の練習後の雑談、雑巾の正しい絞り方について話が盛り上がった。正しい絞り方はあるのか? ありました。
 私を含めた男性陣は腕の力だけを使った好ましくない横絞り(苦笑)。女性陣、皆正しい"縦絞り"をしてました。さすが。
 『足の親指、手の小指』....中学の担任が卓球選手の私につぶやくように教えてくれたのを思い出しました。ただの社会科の先生が何を言ってるんだろう?当時はまさか廊下を摺足で歩く初老の地味な先生が、元少林寺拳法の日本チャンピオンだとは知らなかった。それを知ったのはわずか8年前。そしてやっと、あの先生の静けさと眼光の鋭さ、不良グループがなぜか黙り込んでしまうそのプレゼンス、そしてベランダで椅子に座りジッと動かず掌を見てた姿、不思議な言葉の数々....全て腑に落ちたのでした。
 山の中でミツバチ飼って自給自足の生活をする仙人のような人。学校の他の先生達から完全に浮いていました。中でも卓球部の顧問で学年主任である数学の先生とは生徒から見ても反りが合わないのは丸わかりだった。似たような初老の先生でも方や業績主義、方や精神主義。
 私は卓球部の顧問に叩かれたり罰を受けたりしてしごかれ、嫌な思いをかなりしたけれども、私が一度全日本の大会でまぐれで3位になったら、その顧問は手のひらを返したように私に一言も注意をしなくなった。その時、大人ってそんなもの?成績が良いと多少素行が悪くても見逃すんだ・・・と大人に失望した覚えがある。が、静かな、けど内側にどれだけの厳しさや鋭さを秘めているか分からないその担任は、成績が良かろうが悪かろうが、一人一人の内側、家庭環境、家庭問題にまで心を配って、深いところからサポートをしていた。同じクラスにいた学年一番の不良が今では建設会社の立派な社長になっているけど、彼から同窓会で聞いた話では、放課後河川敷で彼が仲間を引き連れて煙草を吸いながらバイクを飛ばして遊んでいると、毎日幸雄ちゃんが表れて、道の端で右手を左胸に当てたままずっと立って眺めていたという。皆のバイク遊びが終わるまで、ある意味、タントウ功のように立って、皆が帰るのを待って先生も帰っていったそうだ。何も言わずにただ立って見ている。それを毎日毎日やっていたらしい。不良達は、そのうちその先生の忍耐に負けて、徐々に心を開いていった。中学出た後も彼らは幸雄ちゃんの家に遊びに行っていたというし、幸雄ちゃんがいなかったら、皆どんな人生になっていたか分からない、という。昨年初めてそのクラスの同窓会をしたが、誰一人としてその先生の悪口を言う人はいない。みな幸雄ちゃん(担任の先生の名前)には本当にお世話になった、と言う。本当に口数の少ない先生だった。今思えば、じっと私たち一人一人のことを観察していたに違いない。(席順も幸雄ちゃんが全部決めて、二年間席替えなしだった。)
 
 先生は去年なくなったのですが、8年ほど前、同級生から、その先生が私に是非会いたいと言っているとの連絡がありました。夏に帰省をした時会いに行ったら、中学卒業の時に言いたかったのに言えなかったことがある、それをどうしても伝えなければならない、だから今日来てもらった、と、竹炭に囲まれる和室で先生は話を始めました。
(休憩・・・続く)
2018/6/22

昨夜は夏至。やはり気(?)のせいか、坐禅をした時の入静度が違う。陽極まって陰が生まれる。太極拳の動きでも一番大事なのは陰陽転換点、即ち順纏→逆纏、逆纏→順纏。48式の第33式、金鸡独立で穿掌の練習をしたが、穿掌の含意を知れば、腕に対する認識が変わり、そう簡単に無造作に腕を使えなくなってしまう。馮志強老師などの大師が腕で右円、左円を描く地味な練習を一人でやっている、というのが理解できてくる。腕で正円を描ければもう太極拳の大師レベル。
2018/6/18

丹田が分かりたいといって練習に来始める人は多いけど、いつしか丹田探しを諦めて、よく分からないけど使ってしまっている。
丹田は機能だから使えれば分からなくても良い。おそらく探したら見つからない....

丹田なんて一個のエネルギーセンターは無いのです!細胞全てが伸び縮みしているだけなのです‼︎

と長老に言われましたが、確かエネルギーは細胞内のミトコンドリアで作られている....。

仏教は丹田使わないのか?と思ったら、円覚寺の坐禅では白隠和尚の言葉使っていて、その中に丹田があった。
丹田の元はヨガのチャクラだろうから、初期仏教ははっきりヨガと決別するためにその概念を取らないのか? いや、ヴィパッサナーは一点集中型瞑想ではないからそこにこだわらないのか(一点集中型はサマタ瞑想、止観法の止の瞑想)。

 全ての感覚は錯覚と悟らせるなら丹田も錯覚の何者でもない....けど、まずは皆に共通する錯覚を使って進んでいかないと、出発ができない。
そのうち丹田や気の錯覚に拘らない、いずれは捨てる時が来るのだろう、と朧げに思い始めました。

2018/6/17

 

 合宿から戻ってから何人かの生徒さん達からヴィパッサナ―瞑想はどのようなものですか?と聞かれました。ヴィパッサナ―は気づきをもってありのままに観察をする、という瞑想法で、仏教の基本的な瞑想法、『止観法』の”観”の方法です。(cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3)

 私が参加した合宿ではその入門的段階として、常に実況中継をして妄想を遮断する、という方法をとっていました。

 常に丹田を意識して行う太極拳もヴィパッサナ―になり得るのですが、更に厳格に精密度を上げて行うと、いかに普段一つのことを行いながら別のことが頭に浮かんでいるのか、その妄想、心の勝手な動きを思い知ることになります。仕事を含めた日常生活でうまく応用すればストレスが減り、仕事の能率があがります。そして、食事の観察、と、食事の際のすべての動きを実況中継しながら食べると食べ過ぎることはできません。かなり疲れますが、試してみる価値は大です。

 どんなに身体を鍛えても身体はいつか衰え滅びてしまう、絶対に逃げることのできない”死”を真正面から見るにはどうしても仏教の智慧を借りる必要がある、と思い、ただ丹田に気を溜めるだけでない、その先の瞑想法をやっていきたいと思いました。

 スマナサーラ長老の手ごろな資料がありましたので、ご参考までにご紹介します。

ヴィパッサナ―瞑想 人格形成を目指す人の心構え
jinkakukansei-mezasuhito.pdf
PDFファイル 449.5 KB
2018/6/15

銀座線。向かいに座っている一人の女性に眼がいく。なんだか美しい。眼がしっかり、ここにいる。明らかに他の人達とは違う。そう、意識がここに落ち着いてる....ああ、妊婦さんだ。カバンにバッジをつけてました....。なるほど。
 自分の身体の中で別の生命が育っていっている時、自分の身体は自分だけのものではなくなる。いや、実際には自分の身体が自分のものという意識は消え、自分の身体は人のものになる。自分の身体を正しく使う義務、責任が出てくる。
  すると一人の時のような勝手な身体の動かし方、使い方はできない。一つ一つの動作はゆっくり丁寧に、意識的になる。優美になる。食べるものにも注意し、見るもの聞くものにも注意する。もしこれを余裕を持って観察できたならヴィパッサナー瞑想になってしまうだろう。
  丹田を育てるもの胎児を育てるのに似ている、と思ったことがあったが、今日改めてそれを感じた。男性は胎児を育てられないが、丹田を育てていった大師達の物腰は柔らかく秀美になる。力強くても決して荒々さ、雑さはない。
  自分の中の自分じゃないものを守る時に付随して起こる変化、というのはどこか共通していて面白い。そして守っている"そこ"から光、充実感が溢れ出てくるのも全く同じ。
  電車内で、内側から放射する光、美しさ、久しぶりにそれを目にできたのはとても良かった。ほんと、綺麗だった.....(本人が全く無自覚なところがミソ。意識した瞬間に魔法は解けてしまいます。)
2018/6/14

 お義父さんのお見舞い。食事が取れなくなって久しい。痩せて骨と皮だけになると、どの人も同じように見える。
 身体は全く動かないが、意識ははっきりしていて、目が彷徨う。身体が弱くなると心が暴走すると仏教の心の分析で学んだばかりだが、お義父さんの目を見てるとそれがよく分かる。タガが外れた心。妄想が渦巻く。仏教の業の話では、死ぬ直前の心が次の生の心になる。死ぬ直前に何を考えるか、なんて前もって決められずはずもなく、朦朧とした意識の中で生まれた最後の心(死心)が次の生の結生心となりその生の基本的な心の在り方を決めてしまう、というのだから、怖ろしいといえば怖ろしい話。酔って暴言を吐くような人は死ぬ間際も似たような暴言を吐く確率は高そうな気がするが、果たして自分の理性が機能しなくなった時に美しい心が現れるのか醜い心が現れるのか....? 結局、元気なうちに、心の底まで浄化する努力をしておかなければならないのだろう。
 ヴィパッサナー冥想をしてると、途中で度々全く関係ない変な想念が浮かんでくるのが分かる。脈絡のない想念がどれだけ浮かんでは消えているのか....覚者はもうそのようなばらばらの想念がなく、思考は糸のように繋がる....それがスートラの核心的意味だと昨夜知ったばかり。散り散りバラバラの想念、アイデアばかりでは困ったもの。脳の中の制御が必要で、これがやはり上丹田、神、の開発なのだろう。
 人間に生まれる意義は、その間しか心の成長をさせられないから、と聞いたことはあったが、身体のある時にしか心を成長させられない、というのも注意して見れば自明の理のようだ。身体の枠が無ければ心は勝手気ままに動いてしまう。が、心は身体の枠を窮屈がる。心で身体を統制すると同時に、身体で心を統制する、双方向の統制が必要なようだ。


   ....ふと二年前に亡くなった黒猫デビを思い出した。彼は癌に侵されながらも死ぬ間際まで覚醒を保っていた。お願いだから目を閉じて眠って欲しい、と、彼の瞼に手を当てて目を閉じてもらおうと思ったが無理だった。修行僧のようにじっと、数週間何も食べず(食べられず)ただ座っていた。
  とても体力のある猫だったから命尽きるまでに長い時間がかかった。が、今思い起こすと、あんな風に覚醒を保ったまま死ねる人間はどのくらいいるだろうか?私達はいとも簡単に意識を失ったり朦朧としてしまう。なんだか恥ずかしい話....。
 業の中に殺害業とかいうのがあって、もう畜生界は終わってレベルアップ、という時もその業が働いて思いがけず短命に終わったりするようだから、そもそも人間のように意思疎通ができそうだったあのデビは業を早々に全うして人間界に生まれ変わっているのかもしれない。(と思うと安心します。もちろん、業の話が本当かどうかは分からないのですが。)

2018/6/14

 

 ヴィパッサナ―瞑想合宿では随分ショッキングなこともあった。

 自分の癖、ともすると内向きに入り込み過ぎてしまうがために、肝心な目の前の”理”に気づかない。

 ヴィパッサナ―瞑想は観察、気づきの瞑想。ヨガや気功法でやるようなサマーディ(恍惚とした一体感)を求める瞑想とは異なる。初期仏教では後者の瞑想をサマタ瞑想と言い、その価値(特に定力をつけるのには効果的)は認めるものの、智恵を開発できるのはヴィパッサナ―だとの位置付けだ。

 仏教に特有の智慧の開発。智慧とは何か最初は良く分からなかったが、合宿が終わって戻ってきてから徐々に分かりだした。智慧は真理を見透す力。しかもその真理は全く隠れていない。一見神秘とは無関係なドライな事実。言われれば自明の理。

 「味噌汁を作る時に大事なことは何か?」と聞かれ、「味噌をお湯の中に溶いて入れること」なんて答えたら、「そんなことを言ってるから人生全て失敗するのです!」とお叱りの言葉がくる。「鍋をとって水を入れて火にかけること、その間に材料を取り出して洗うこと、全ての手順が大事なのです。すべての一つ一つの手順を正しく踏めば最後には自ずから正しく味噌汁ができているのです。」要は、結果という存在しない妄想概念を頭に思い浮かべて、そこに向かって走ったところでもうすべてが間違えている。現前にあるものに集中せず、存在しないものに焦点を当てたところで、もうここから逸脱している。立つ瞑想というのがあったが、それは坐った状態から徐々に立ち上がっていって立った後20分位そのままでいる。その間ずっと動作を逐一実況中継する。が、「あなた達は立つ瞑想でそれに気づかず、ずっと何の瞑想をしていたのでしょうね?坐った状態から足をずらし、腰を上げていく、その間、一瞬一瞬の動作を正しくしていれば、自ずから正しく立てる・・・智慧というのはそのようにして開発されるのです。」と後で長老から言われた時、はっとするとともに愕然とした。全く視点が違う!一体私はぼぉ~っと何をしていたのか?

 

 戻ってから太極拳をしたら、太極拳だって同じこと。この、瞬間瞬間しかない、プロセス、流れしかない、結果がない、というのは套路をやれば気づくこと。第五式単鞭と言って、最後のポーズを思い浮かべた時点であなたの人生は全て失敗なのです!!、と長老なら言うかしら?(笑)

 が、確かにそこに気づかなければ太極拳にはならない。ポーズ(定式)はその前からのエネルギー(気)の流れの行きつく先、けどそれも通過点で、またそこから次へとエネルギーは流れていく。最初から最後までエネルギーの流れは止まることもなく続いていく。それに気づけば、人生も同じこと、無常の真理が見えるはず。ゴールがない。流れだけ。

 

 自分の体内の気の感覚だけに埋没するとそのような真理は見えてこない。

 感覚に埋没することは感覚から次の感覚へと延々に感覚世界の中で循環することになる。それは合宿中に気づいたことだった。だから輪廻を繰り返す。感覚を観察するには感覚の中に入り込んではならない。だから太極拳の経典には、『力者、折。気者、滞。意者、通。』とある。

 私はこれまで何度も師父から、気を操ってはいけない、と言われてきた。確かに気を無理に遠そうとするとどこかで詰まったりするのだけれども、それでもなかなかやめられない。どこかでまだ、気を操るのを楽しんでいたりして、なぜ、気を運んではいけない、と言われるのか本当には腑に落ちていなかった。(気は行かせるもの。行気。✖運気)(体内の気の流れが分かりだした人の陥りがちな罠。私は以前運気をやり過ぎて首が動かなくなってしまった。パリの師父のところで間違いを正してもらって治った経験がある。まだ気が分からない人は心配ありません・・・まず気の流れが分かるようになるのが先決。)

 でも今回の瞑想合宿で身体的な意味だけでなく、仏教的にもそれがまずいことがはっきり分かった。気を操ると自分が感覚の中に入り込んでしまい、永遠に循環、サンサーラ、輪廻の輪から飛び出せない。感覚から離れた場所(意、上丹田)から観察、見下ろしていなければならない。結局、そうした方が気がスムーズに流れるから不思議。自分が関わらないところで却ってうまくいく・・・結局、”自分”が身体の自然な智慧を妨害している。任せる。自然に預ける。無為。・・・・。

 

 ヴィパッサナ―で食事をしていて気づいたことだが、(ヴィパッサナ―で実況中継をしながら食事をすると40分くらいで疲れて満腹になってしまう)、味わう時に味わってしまうと、味わっていることを観察できない。味わってるのを観察すると、やはり自分の意識を少なくとも上丹田に上げなくてはならない。目が落ちると感覚に埋没してしまう。目を上丹田に置いておくには鼻から吸った息を脳に入れ続ける。裏声を発する要領で目を上げておく。脳の北半球は全て眼の領域だが、南半球に落ちれば仏教的に言えばこの世に落ちてくる(その目線で坐禅をすればすぐに居眠りしてしまう。覚醒できない。)が、仏教の修行は身体の開発がないので全く言及されないが、その位置に目を持って行って観察し続ける(覚醒を保つ)にはそれなりの身体が必要。そのために太極拳の練習があるようなところもある。会陰が上丹田とつながれば自然と目は落ちなくなる。ヨガの修行も最初は身体から始めるのも、そのような目を作るにはそれなりの土台がいるからだろう。仏教は上丹田からスタートするようなところがあるが、読経1時間すると思った以上に下丹田中丹田が活性化されて、その土台の上で坐禅をすれば上丹田が機能することになるのだと思った。

 

 ヴィパッサナ―、観察瞑想はまさに上丹田、ヨガでいうアジュナチャクラの開発の瞑想。

 上丹田で二つの目は一つになる。二で成り立っているこの世が一で見えるようになる。見透せるようになる。だからここで真理を発見する。現代の太極拳はせいぜい身体の開発で終わってしまう。このレベルまで上げている老師はとても少ない。

 

 が、そんないろいろな細かな、長老が読んだら、「それもあなたの妄想思考なのです!」と喝を入れられそうなことも考えてしまいましたが、一番大事だと思ったのは、静かに、ゆっくり、でした。

 静かに、ゆっくり、意識的に一瞬一瞬を過ごせるのなら悩み苦しみとは無縁。

 『心神虚静貫始終』『静心慢練是活桩功』馮志強老師の本で強調されていることでした。

  

 

2018/6/10

 

  一昨日夜に下界復帰。

 人は何でこんなに憑りつかれたように慌てて歩いているんだろう?と、途中通過した東京駅で滑稽に感じていたら、ちょうど、そこに田舎から出てきたと思われる母子がいて、「皆はよう歩いとるやろ、頑張って歩こうな。」とお母さんが小さな娘の手を引っ張って歩いて行った。

 やはり郷に入れば郷に従え、不自然でも合わせなければならない。合わせているうちに慣れて不自然なものも自然になってくる。こうやって人は本来の自然の感覚、姿を失っていく。・・・・仏道を進むには全世界(中でもとりわけ両親)を敵に回してでも一人立って戦っていく勇気が必要、と長老が言っていたけれど、世間に合わせず本当のところ、真実のところで生きていこうとすると、世間(俗)から見れば異端児になることは否めない。世間でうまくやっていこう、なんて思っている人には全く不向きな道。が、そもそも世間に合わせるのが苦手な私にはやりやすい側面もある。

 仕事帰りの人々で往来の激しい東京駅。今までならそんな雑踏を抜ける時に、膨らませた丹田を頼りにズンズン進んで行ったり、逆に合で丹田を粒にして自分の気配を無くすようにしてすり抜けて行ったり、あるいは、歩法の練習も兼ねて、人々の足の隙間を狙って足を差し込んでいったり、とか、最近では上丹田のレーダーで路を開いて歩くとか、せっかく学んだ太極拳の応用実験をしたりしていた。 しかしながら一昨日は、一週間近くも太極拳から離れ瞑想していた影響で、東京駅の雑踏の中でもいつもの”これらの敵にどう対処するか”というマインドが働かない。ヴィパッサナ―歩行の癖がついてしまっていて、ただ、自分の足を、「上げます、運びます、下げます、置きます・・・。」と意識しているだけ。さすがに瞑想の時よりもかなりテンポを速くしているが、それでも周囲の人達より歩くスピードはかなり遅い、しかも斜め下を向いたまま目を上げられないから、周囲を見ることができない。最初ちらっと、これで人とぶち当たらないかしら?と不安がよぎったが、とりあえずそのまま歩いていると、不思議不思議。向こうから速足で歩いてくる人々は私の目の前まで来ると、皆悉く進路を変え、私を避けていく。私の視界に入るのは近くにいる人達の下半身だけなのだが、私の周囲にはちょっとした空間が残されていてちょっとした真空スポットができているかのよう。あらまぁ、不思議、どういうことなんだろう?と目線を上げて周囲の状況を見ようとしたらたちまち前から来る人と衝突しそうになってしまった。慌てて下を向き直す。

 ゆっくりゆっくり、目線を下に落としたまま注意深く歩を進める。すると敵は自ずから自分を避けていく・・・これは凄い技。闘う、対抗する意が全く失せた時に現われる最高の技?太極拳にそんな技、そんな境地があったような気もするけど、これではなかった?

 と、私の頭の中で突然木枯し紋次郎の姿が出現。一人で笑ってしまった。

 なんなんだろう、この現象。劉師父に聞いてみるかなぁ。

 

2018/6/5

 合宿第4日目。
 無言で暮らすのがこんなに快適だとは知らなかった.... 
 実は2日目午後、無言でスローモーションで歩く夢遊病者の館に嫌気がさして一度脱出。近くで見つけた公園でドロップアウト気分で暫し過ごしたのだが、帰るならとりあえず長老の個人面談を受けてから帰ろうと腹をくくってホテルに戻った。が、ホテルに入ったその瞬間、あたかも自分の家に戻って来たかのような気がして、外よりここの方がいい!と感じてしまったのは、自分でも不思議。
  人が無言で意識的な動きをしている時は"我"が消えている(引っ込んでいる)。だから3人部屋でも一人のようだし、館内に80人ほどの人がいるはずなのに10人くらいしかいないような気がする。
  ホテルの人達がバタバタ動くのがとても滑稽に見える。
   毎朝4時起きで7時と11時半に食事が出るのだが、私は夜すぐ眠れず眠気が残ったまま朝食、昼食を食べているので、ヴィパッサナーで実況中継しながら一箸一箸食べているうちに何度も睡魔に襲われ意識が遠のきそうになる....普段はあり得ない現象。40分くらい食べるともう意識もお腹もいっぱいで、3分の2食べられればマシな方。夜ご飯はないのだが不思議とお腹が空かない(もし夕食まであったら疲れて仕方ないと思う)。スナックコーナーでいろんな飲み物や小さなお菓子があるので、私は痩せないように、夜クラッカーにギー(インドのバター)と蜂蜜をつけて食べている。(ギー、初めて食べたけど、バターより味が濃くて美味しい!)

  昨日は長老との面談があった。10人申し込んで私は最後の方。スタッフから最初に30分の人もいれば1時間以上話している人もいる、早く出てくる人もいるし、時間は読めません、と言われた。午前から始まったが案の定私は午後になり、随分用意して緊張して面談に臨んだのだが....。
  長老、挨拶しても無視、質問をしている間も横を向いて全くこちらを見ない。私がヴィパッサナー瞑想で得た感覚を一生懸命伝えていたら、次第に頭を抱えて次第に丸くなっていった。喋りながら、マズイ....と思ったが話し始めたから仕方がない、最後まで話し終えた時には、対面している長老は妖怪のように頭抱えたままぐにゃぐにゃになってしまっていた。
   それから初めて私を見て、「それだけですか?
どうぞ勝手にいろいろ実験して下さい。でも良い結果に執着だけはしてはいけません。」と言って、「私からはそれだけです。はい、終わり。」と打ち切られてしまった。 瞑想は言った通りやりなさい、ということなのだろうが、怒られたり否定されたわけでもなく、どう解釈して良いか分からないまま退室。
  暫く突き放されたように感じてショックが消えなかったが、そもそも長老は誰も褒めない、し、皆突き放す、それに、あの頭を抱えた姿からすると、ひょっとしたら夜の法話で何か私の質問に絡んだ(何か大きな)ことを話してくれるのかもしれない、とりあえず初心に戻ろうと気を取り直した。
  夜は17時から読経1時間、それから立禅、坐禅合わせて45分程度。それから法話2時間。
  そして昨夜の法話は、なぜ悩み苦しむのか?その原因は? から話が始まった。要は、そうあって欲しくないことが起こったから。竜巻で家が飛んだ、脳卒中で半身不随になった、会社が倒産した、どれも、起きて欲しくないことが起こっただけ。期待する方が間違っていることに気がつかない無知な人間....(説法の論理はもっとしっかりしているのだけど適当に端折って書いてます。)
  そしてヴィパッサナー瞑想でよく観察していれば....とその辺りは後日まとめることにして、私の質問との関連で言えば、要は仏教の目的は悩み苦しみを無くすこと。老化、病気、死で悩まない、苦しまない境地を作ること。手が一本無くなろうが、目が見えなくなろうが、悩まない、そんな境地。そして、そのような心の境地を作るのに足しにならないものは全て排除する。私がたとえサマーディ体験、神秘体験したとしてもそれはその役に立つかは極めて疑問、そういうことだったらしい。
  確かに、もっともな話....
  何が起ころうとも、まさに何が起ころうとも、全く影響を受けない心が得られたら....そんな心はこの世の心ではないのだけど....可能なのだろうか?
  このレポート書きにまた公園に来たのだけど、私の歩くペースが超スロー過ぎてなかなか到着しなかった。太極拳も超スローでしかやれない....肉体の動きは心に比べてとてつもなく遅いから、肉体に心をきちんと合わせようとするとこんなにまで遅くしなければならない.... 朝、ホテルの庭で一人、張り切ってラジオ体操してるおじさんがいたけど、バカにしか見えなかった....なぜこの瞑想生活していてあんな滅茶苦茶に動けるのか理解不能....が、世の中に戻ればあちらが普通で意識的な瞑想状態の動きはただのノロマにしか見えない。
 太極拳、そのうち戻るのかしら?
2018/6/3

 昨日から守谷でのヴィパッサナー瞑想合宿が始まった。無言行なのでスマホも当然禁止、と思ったらそこまで厳格ではない。個人がどれだけ厳格にやりたいか、それだけの話のよう。

 昨日は第一日目なので午前はオリエンテーションを兼ねての法話、午後は初心者向けの瞑想指導。
 参加者85名、初心者指導を受けたのは20名程。私は全くの初心者ではないけれど参加(そしたらスタッフから、あなた初心者ではないでしょう?と声をかけられて適当に躱した。)
  瞑想指導は14時に始まったが、案の定、長老の話は長く、スタッフから、そろそろ指導を....とリマインドされた。長老は「仏教の瞑想は正見のための説法がまず大事。ヨガとは違う。私の説法をちゃんと対話しながら6時間聞けば預流果くらいにはすぐなれる。」と言ってから指導に入ったが、最後の坐禅で私達のできがあまりにも悪いと時間延長、終わったら20時だった。坐禅キツ過ぎ....股関節おかしくなりそう....骨盤立てて坐骨で座って背骨を全て上向きに立てて、それから上から力抜いてお尻の力だけで身体をまっすぐにしておく、この要求は私でどうにかクリアするか否かの怪しいところ、初心者には無理。身体の条件、柔らかさと、長老曰く、精神のどっしり感(私は丹田の気力と解釈)が足りない。
     
  太極拳の練習に酷似しているので疑問点いろいろ出てくる。

  後は忘れないようにメモ。説明は後日。

食事の観察....ヴィパッサナーで食べると食べ過ぎない。ピタッと止まる。不思議。夕食なしでも大丈夫なくらいの充実感....痩せてしまわないか心配。

食事の観察、箸を置きます置きます置きます、と置いた後、次にどこに箸を伸ばして良いか分からずしばし動作が止まる。この点を瞑想指導でス長老に質問した。やはりここばかりは、意、思考が必要になるとのこと。ヴィパッサナーの目的は思考を殺すことだが、最終的にはそこは綱渡りバランスになり、智慧が現れれば解決するとの話。だけどそこは先のレベルなので、他の人は気にしなくて良い、と答えてくれた。
やはり二元論....ナーマとルーパー。

夜はこっそり超スロー48式をやってみて気がついたが、要は、感覚神経の流れを見てるから、運動神経の流れを見てるか、静脈を見るのか動脈を見るのか、そんな話のよう。ちなみに48式、約50分かかった。

 あとよく分からないままなのは、立つ瞑想で足を少し開いて両半身均等にバランスをとる際、均等になります均等になります、と言って重力にやってもらう、という話。均等にします!は間違い。
これは太極拳と同じなのだが、なぜ、自分がやるといけないのだろう?自我がでるから?
   手をあげますあげます、と言ってやるヴィパッサナーの瞑想は一人称、坐禅で腹の膨らみ縮みを見るときは、膨らみ、膨らみと名詞にして言うのは三人称。自分は消える。こちらがより高度。

  長老は瞑想を早く進ませるために、ステップ1の肉体を見る練習とステップ2の感覚を見る練習を同時にやらせてる、と言ってたから、これもステップ、最終的には無我に向かわせるのだろう。
  ちなみにステップ4で見清浄の境地、だったかなぁ....。

  結局昨日は長老の話を通算8時間くらい聞いてたから、ずっとお喋りしてるようでした。
  今日から本番
  朝4時起き、5時からの読経と坐禅は、眠気と身体の硬さもあって久しぶりの拷問。音をあげる寸前までいった。坐禅、どーにか対策を考えなければ。
  坐禅間違えた姿勢でやるから変な神秘体験しか起こらないのです‼︎(by 長老)



2018/6/1

 子供の頃から整理整頓と時間厳守が苦手で、特にお片付けについてはどれだけ母親に怒られてきたか分からない。勉強しなさいなんて一度も言われたことがないが、片付けなさい!は毎日言われていた。
  大人になってもその癖はなかなか治らず、いや、そもそも治そうという気もしていないようで、断捨離や、ときめきの....、あれやこれやの整理整頓、お掃除のマニュアル本を買って読んではいるのだが、ただただ本が増えるばかり。片付けは収拾、心まで狭くなるようで、散らかすのは心が解放される....なんて思っているようではいつまでもこのままだろう。

  が、最近、太極拳の練習とピアノの練習で、偶然にも同じ課題を発見した。
  "合"が苦手。
 開合の合。
 太極拳は最初は開合拳、と言われていた。そのくらい"開合"は太極拳の要。もちろんこれは丹田の開合だが、丹田の開合は全身の開合になる。
 右股関節の開きがイマイチ、と長年開く努力を続けてきていたが、実は、開きが足りないのではなくて、開き過ぎて、"開中有合"の、合、が消えてしまっていた。股関節を無理に外旋し過ぎて股関節が外れる方向の力のかけ過ぎ、これでは脚が捻れ、膝や足首に負担がかかる。これに気づいたのは大腿筋膜張筋の緊張からだった。

  ピアノでも半音階を高速で弾く時に自分の手首を閉めればうまくいくことを発見、オクターブの連打でも、指を開いても手首に収束をかければ、丹田の力がうまく指先に達して、速い操作が可能になる。合、は手足の親指の操作。なぜ卓球で外反母趾になったのか、それも合点がいった。身体が開く癖があった....

  片付けが苦手なのもその辺りからきているのでは?
   と、まずは身体の合の練習....、と、結局片付けは先送り(苦笑)

  昨日のピアノのレッスンでは、自分のテンポが如何に崩れているか、をメトロノームをかけて演奏することで痛感させられた。ほんと、恥ずかしいくらいテキトーに弾いてる。「酔ってそうでも酔っていない、ピリッと統制の効いた、清潔感のある演奏を目指して下さい。」と先生に言われたが、何だか自分の欠点を指摘されているようでもじもじする。極めつけに、「引き出しを開けたら、ピッチリ整理整頓されている、それが基本ですよ。そこから少しだけ崩せば良い。」と言われた時には、引き出し見られたのか...?まずは片付けろ、ということなのか?と複雑な想い。

  統制は上丹田....

  明日から6日間、瞑想合宿に行くのだけど、きっとそれもその辺りの修行になるのではないかしら?
全日無言....最終日まで残れたらすごい!自分を褒めてあげ用途に思っています。別の自分の出現を期待。

2018/5/31

  先日画像だけ貼り付けて放っておいた大腿筋膜張筋の話は練習メモに書きました→https://www.studytaiji.com/2018/05/14/2018-5/

 

 

<お知らせ>

 6/2(土)~6/7(木)まで留守にします。HPの更新やメールのやり取りができなくなると思いますのでご理解下さい。 練習は6/8(金)から再開予定です。

 

 

2018/5/27

金土日、3日間の練習で新論点がボロボロ出現。
自分の中で各々がまだ繋がっていない。本当は繋がるはず。
とりあえずメモ。

1. 大腿筋膜張筋と中臀筋を緩める
→ 下腹部にジュワジュワっと気が発生
→脚が無くなり、ただ足裏バーン!とした感覚になる。足裏は薬指と小指のラインの面がしっかり地面に貼りつく。
(体側部 胆経を繋ぐ時の要になる部分ではないか?)
→スクワットがスクワットにならずに何度でも昇降できる。(ここは股関節の外側の車輪)
→脚を開かないニュートラルな立ち方 (子供の立ち方に注目、無極
→脚を開いてもここを緊張させないよう、脚を丹田から外旋させる。

  も少し深めないと....今日はチンプンカンプンの人も案外いた。一昨日は100%、昨日は70%、今日は20%の出来具合....私の教え方と生徒さんの熟練度とそして....  まあ、分からない時は深追いしないで他のことをやっていてまた数ヶ月後、数年後に戻って来れば良いかなぁ。

2. 肩の要領
 肩はどこ?
 と聞かれて腋下を触れたらすごい!
 本当は肩甲骨と鎖骨の枠全てが肩。
 肩をどう意識しているのか?どう意識すべきなのか?
 これは図が必要。
 必殺、物干し竿....チャンスーをかけると沈肩、墜肘の感覚。首、肩、腕の繋がり具合がよく意識できる。実は上肢は目(上丹田)から付いている....と発見できたら首は立てずに立ってしまうことまで分かってしまう。
 
3. 股関節
1の論点に関連して、大腿筋膜張筋を緩めると、実は気が腹の内側に寄ってくる。この状態を保持して動くなら、外枠を緩める→内側を締める、に転換した方が動きやすい。両脚の大腿骨骨頭が丹田に結び付けられて、両脚は逆Uの字型の一本の鉛の棒になっている。丹田動かせば両脚ともに動いてしまう。右足と左足がバラバラに動くことはない。股関節はちゃんと内側に突っ込んでおく。外旋は浅く抜けてしまうような股関節、内旋は深く突っ込むような股関節になる。必要以上に捻らない→丹田で捻る。

4.裹臀
裹guo  包帯でぐるぐる巻きにする要領
全身一つ、周身一家、にするには、全身をぐるっと巻き込む要領が必要。
タントウ功も坐禅も同じ。
外側巻くと内側は会陰→百会と気が貫通する。
コイルと磁石と電気のあれそのもの。これも図が必要。

5.眼法
 視線を間違うと技にならない。
 リューをしながら目が手を追っていた生徒さんがいてびっくり。
手と目は合だが、目が手を追ってはいけない。
手が目を追う。実践知っていれば当たり前だが、套路しかやってないととても不自然な視線になっている場合が多々あり。目が手を追うと舞踏になってしまう。 
  まずは上丹田から動く(脳、意から動く)。ここは通常引き込んで使う。相手も引き込めるし、気も引き込める。ここで気を引き込めると体内の気量も増える(凝神聚气)。上丹田はまだまだ探求したい場所。

6.別膝 (膝を差し込む技)
 48式に入ると腿法がいっぱいでワクワクする。
 足が絶妙な位置に運べていてこそ、腿法が成立する。無造作に着地しているような足、実は目が付いているように正確な位置に着地している。
 私達は目が上の方にあるので他人の動きも上半身、腕や頭の動きが目に付きやすい。腰以下は盲点。自分自身の動きについても如何に下半身が無意識かは、腕なし套路をしてみるとよく分かる。下半身がはっきり迷いなく動かなければ太極拳にならない。重心移動が曖昧なのは致命的。


2018/5/24

 私のピアノはともすると気晴らしかスポーツになってしいがちなのだけど、太極拳の練習のお陰でそれも少しずつ変わりつつある。と言っても、基本的には身体の開発への興味は抜けないので、今年の発表会も技術的に自分の実力より上、難易度の高いものを選んでしまった。
  超絶技巧練習曲....リストはそう名付けたが、ショパンの練習曲と同様、単なる無味乾燥な練習曲なんかでは全くない。超絶テクニックがテクニックを超えたところで浮き出てくる曲の深みと空間、そこまで高められる曲だ。
  と、頭では知っていても、実際には、及ばぬテクニックに四苦八苦して曲を歌わせる余裕など全くなくなってしまうのが現実。間違わずに正確に弾けるだけでもピアニストの域。が、この世にはそんなテクニックを悠々と飛び越え、自分の感性の世界に浸って弾ける突き抜けたピアニストが存在する。
  その一人がキーシン。私が練習している曲については彼が群を抜いた演奏をしている。他のピアニストが弾くとまずは難曲、という印象を受ける。が、彼が弾くと、まずは、歌、に聞こえる。難曲であることが前面に出てこない(実はそれが卓逸したテクニックの証拠)。そして毎日ルーティーンのように彼の録音演奏を聞いていたその矢先、なんと、この秋にキーシンが来日するというお知らせあり。これは是非とも行かなければ・・・が、チケットが、高い!
 
 咄嗟に日本国外の方がチケットは安いに違いない、と頭が回転(それにかこつけて旅行する? )、キーシンのスケジュールを調べてみた。すると、なんと、ずっと世界中を回ってる。これじゃあ放浪の旅。家に帰れない、いや、そもそも家は何処に....? 来年の公演日程、そして弾く曲までもが決められている....急にキーシンが可哀想になってしまった。そう言えばホロヴィッツもミケランジェリも演奏会が大っ嫌いでよくドタキャンしていた。気分も乗らないのに弾かなければならない、それも、生活の糧のために....としたら、芸術家ではなく労働者。自由こそが芸術家の生命。けれどもやはり食べて行くには....  ジレンマは私達以上に切実だろう。
   今回の来日公演のポスターに写る少し老けた彼の姿。なんだか複雑な気持ちになり、思わず少年キーシンの動画を探した。ひょっとしたらきちんと見るのは初めてかも....と動画を開いたら、そこには神と繋がる、"神童"がいた。神童とは文字通り、神と繋がった子供を指していた・・・単なる一芸に秀でた子供ではなかった・・・ショック・・・。
  12歳のデビュー時のキーシン。
 繋がったままの演奏。
 逆に言えば、まだ身体に力がなく、自力では演奏できなかったのかもしれない。何かの力を借らざるを得ない。
 誰が教えたということもなく、自然に上丹田を使って繋げてしまう。
 天から降りてきた子供、天使、がピアノを弾いているよう。穢れがなく初々しい。
  15歳、初来日した頃のキーシン。身体が随分立派になり、弱々しさがなくなってきた。弾く前に一生懸命、天(神)と繋がろうとしている姿が印象的。目をつぶり、上丹田に意識を上げ、そこをピクピクさせて上(天やら神やら)と繋がろうとしている様子も見えた。骨盤が立ち、会陰から百会までが一直線。

  そして20代、30代、40代と、次第に上丹田と天の繋がりが減り、上丹田はもっぱら下向きの繋がり、自分自身の感性、感情のの世界へと入り込む。人間界の苦悩や歓喜もが芸術表現の肥しになる。キーシンは内省的で文学にも造詣が深いようだから心の中には計り知れないほどの想いがありそうだ。内側に堆積したものを外に向けて表現していく段階。腹の丹田やハートのチャクラの表現。

 グールドは40歳過ぎから感情を越えた表現、演奏を試みていたが、それはハートを超え上丹田に向かって進む道だった。夏目漱石の『草枕』を愛読書にしていたのもその理由だったようだが、男女の二元性を超えることのない西洋文化の中で、一人、”一”になる上丹田の境地まで上がっていくのは困難だったのではないかなぁ、と個人的には思う。その試みが却って奇人を作り出してしまった感がなきにしもあらずで、人間界の生の酸いも甘いも知って、再び純粋で穢れなき神とつながった境地に戻りたいと思ったら、徹底的に心身を浄化をしなければならない、と、12歳や15歳の少年キーシンの姿を見ると納得できたりする。(こんなに汚れてたら繋がれる訳がないなぁ、と実感したわけです。苦笑)

  

  きっと私達は皆、生まれた時は頭頂がまだ開いていて、上丹田から百会を抜けて天なり神なりのあっちの世界と交信できていた。しかしこの世で生活していくうちに、この世で肉体を使って物質を扱う面白さ、様々な思考や感情と戯れることに夢中になり、次第に頭頂は閉じ、目は専ら下を見る。
  修行はそこから始まる。失った繋がりを取り戻す旅。
  どんなに頑張っても自分の力ではどうしようもないことがいっぱいの中で、繋がると一気に進んでしまう。その飛翔感なりその)軽さの中で自分にとっては奇跡的なことが起こってしまう。これは上丹田の神が、百会の上の虚や霊と繋がることによって起こるのだが....太極拳の練習をしていて分かるのは、そこまで繋ぐには10代の頃のような下の丹田の馬力(?)が必要。(その気量と気圧で百会までぶち抜いてしまう、くらいの覚悟が必要なのでは?)
 
 10代のキーシンの姿勢は藤井八段と同じで、骨盤がしっかり立ち上がり、会陰から百会が貫通している。歳とってこの姿勢を普通の姿勢として保持できている人はとても少ない。それは歳をとると下丹田の気が減るから。腹底に重石がないと骨盤は立ち上がらない。(記憶ではホロビッツが晩年でもそのように座っている、が、彼の骨盤はとでもどっしり、重石が会陰付近にあったと思う。)
  なお、上丹田の練習は腹の丹田がしっかりしてから、と思っていたけれど、上丹田を使わなければ下の丹田が正しく形成されないことが次第に分かってきたので、徐々に練習取り入れたいと思う。(中丹田→上丹田は『炼气化神』、逆に、上丹田→中丹田は『凝神聚气』という要領)
 

2018/5/19

 結局、黒の中に全てが含まれているのではないか?
 閉幕前にもう一度、と、昨夜、私の道先案内人とも言える友人を誘って再度ルドン展に赴いた。
 友人は昔からルドンの"黒"に魅せられてその魅力を語っていたが、私が最初に惹かれたのはルドンのイマジナリーな色彩の豊穣さ。昔から知っていた馴染みのある色彩パレットだった。
  20代、ロンドンのフラットの大きな窓にかけていたカーテン。日本ではあり得ない長さと重さで、森の中のあらゆる緑とあらゆる花の色を全て含んだ色合いだった。一目惚れしてかなり無理して購入した。日本で見るカーテンとは全く違う、緞帳のようなカーテン。そのカーテンをかけたら、狭いフラットの沈んだ部屋がたちまち息吹を取り戻したように変身した。朝目が覚めてくると、目の前にはカーテンの裏から滲み出てくる朝日が透けて広がり森の中で朝を迎えるようだった。その部屋の主人公はその大きなカーテン。他には何もなかった。
      テレビで初めてルドンのグランブーケを見た時、私はすぐにあのカーテンを思い出した。彼のその他の絵も、あのカーテンの雰囲気。遠い昔から知っている馴染みのある色彩。見に行かなければならない、と居ても立っても居られず直ぐに展覧会に行った。懐かしい色々、懐かしい風景、一緒に寝起きしたかのような親近感。当然、これらを描いたルドンという人物に非常に興味を持った。
  
      一回目の観覧では彼の黒の時代の作品は殆ど素通りした。この時代がなければ後の色彩の時代はなかっただろうということはよく理解できたのだが、一点一点の黒の作品を見入ることはなかった。唯一の例外は、ルドンの師、ブレナンのリトグラフと彼の横顔。これだけは刻印のように私の脳裏に焼き付いた。
  その後ルドンの黒の時代をこよなく愛する、友人に展覧会の話をしたら、ルドンの書いた日記を集めた本を貸してくれた。『私自身に』
  題名だけでもう心が震える。
  恐る恐る本を開いたら、ああ、言葉一つ一つが、まさに、珠玉。全てに意味が、感覚が込められている。さらさら頭の表面で書いたものではない。ああ、芸術家だ!と言葉、文章を見ればすぐに分かる。少し前にプロコフィエフの日記を読んだ時もすごいと思ったが、真の芸術家の文章は、その辺りの小説家の比ではない。頭で書く文筆家は芸術家ではあり得ない。ハートの深さ。
      
  この本を読むと、幼少期のルドンがボルドーの田舎で自然に魅せられて畏怖させられながら籠って自分の内面を培養していったこと、そこには土があり森があり広大な土地があり、寂寥もあり貧しさもあったのが分かる。が、ルドンの育った環境にはいつも音楽があった。兄はピアニスト、彼自身はバイオリンも弾き、その腕は相当なもので、ショーソンやドビュッシーとも親交があった。そして放浪画家の師ブレナンとの出会い。ブレナンに関する記述を読むと、ハートが愛と美に染まった人の挙動と言葉はこういうものなのか、とこちらの心まで震えてくる。この師と一緒にいたルドンの受けた影響は計り知れないだろう。科学者クラヴォーとの付き合いも彼に大きな影響を与えている。微細なもののさらに微細なところを見つめる目。生物の進化、誕生の謎を探る時、人はどれだけ原点に降りていかなければならないのか?様々な神話やインド哲学まで関連してきて、ルドンの内面世界が確実に深みを増していく、そんな友との関わり。ルドンの文学的素養も素晴らしく、彼のイマジネーションがどこまでも膨らませられるだけの滋養が至る所から与えられていた感がある。
  一般には一人の芸術家の中に文学、絵画、音楽、全てが揃うことはなかなかないのだけれども(中国の文人なら琴棋書画が揃わねばならないが)、ルドンはそれら全てと当時の生物科学、そして信仰心が含まれていた。
  これら全てが一人の人間の中でミックスされ撹拌され発酵されていった時、それが発露の機会を得たなら一体どのような形態をとるのか?それは本人自身も分からない。ルドンが、「自分は何かテーマがあって描いているのではない、自分自身から出てくるものを描いているだけだ。」と繰り返し言うのは、自分自身から出てくるものを自分で見ていくことに喜びがあったのだろう。自分から何が出てくるかは、出してみないと分からない。出してみるとあ思いがけないものが出てくる。それをルドンは楽しんでいたし、それが作品を作るインセンティブになっていたようだが、その感覚はとても共感できる。自分の未知な部分を見てみたい....
  
  黒の時代の作品はルドンの内面の突っ込んだ深さを恐ろしく正確に凝縮して描き出している。エネルギーが散逸しない。私の知る感覚で言えば、太極拳を小さな動作で丹田を凝縮して動くようなもの。開かない。すると深く入れる。沈黙。奥深い黒。漆黒の無から外界に出る寸前の明るい灰色、その"地下"で全ての動きが行われる。エネルギーが溜まる。溜まって溜まって....ここで陰極まり陽に転じなければ....下手すれば深みに落ち込んで腐敗、沈没....。
  が、ルドンは陽転した。それが色彩、一斉開花。地下深くの種が順調に育って日の目をみた。外に現われた色彩の元は地下の黒い養分にあった。種と花は同じ。
 
  彼自身は振り返って、黒の時代に既に色彩へ向かう要素はあったと書いている。
  黒で描いてももそれを描く紙はピンクだっり青だったり。決して黒白だけではなかった。ひょっとしたら私達には白黒に見えても彼には白黒の中の色彩が見えていたのではないか?彼は黒の材料、木炭やその他、それぞれの質感の違い、使う材料に生命を与えることを大事にしていた。命を与えた材料で入念なる線で面わ描いたら、その黒の面はもはや平面ではない....と、昨夜二度目に行った展覧会では、黒の時代の作品の一点一点の黒の様々な表情を確認、味わえた。
  
  黒についてのルドンの言葉....
  何という洞察!身体とハートを使って知った人の言葉。どこか"無"に通じる。静功は無や黒に向かう道、生命力の源へと降りていく道だった。

   <以下抜粋>
  『黒は最も本質的な色だ。
 その輝きと生命について、私がひそかに考えていることを告白すれば、人の知らない健康状態の深みが源泉なのだと思う。
 調子を控えた情熱の生命を伝える木炭の黒は、規則正しい食事と休息による肉体の充実による。
 だから黒の最高の美は、人の一生の中心部分、長いか短いかの違いはあっても、中心をなす期間にあらわれる。
 老年となって、養分の摂取が低下するに従って、それは枯渇していく。
 もちろんそうなっても、黒の材料を紙の上にひろげることはできるが、木炭の色は炭の色としか見えなくなるし、石板のクレヨンの色は何も伝えなくなる。
 材料の物質は、生命のない死んだものとして眼に映るだけである。
 高い熱の出ている幸福な時、恵深い力が働いている時は、人間の生命そのものが材料の物質から発する。
 彼のエネルギー、精神、魂の何ものか、感受性の反映、いわば彼の実体の燃えかすが、そこにある。』
 
 ・・・・ここまで書き写して・・・・
 今ではどこの美術館も展覧会が見終わった時に当然お土産グッズの場所を通るような”順路”を設けている。ルドンの展覧会もそうだった。
 ルドングッズの数々。なんの精神も魂もない、実体の燃えかすのない物品。ルドンが見たら?
  
  『黒を大切に扱わねばならない。
  媚びを売らせることはできない。
  眼に快感を与えるものでもないし、官能を楽しませるものでもない。
  パレットやプリズムの呈する美しい色と違って、精神のための働き手なのだ。
  すぐれた版画が愛されるのは、外の自然が厳しくて、人が屋内に閉じこもり、自分の思想を養うことに専念するような地方いおいてである。 太陽が我々を魅惑し、外に誘い出すような南方の地域ではない。』
 ・・・・黒、材料、精神
  身体を扱う時にも筋肉だけでなく、その奥の血管、血、体液、内臓、そしてより表面には皮膚、体毛など、身体を構成する”材料”、そしてより”本質的なもの”、それぞれにどれだけ生命を吹き込めるか?ミクロを極めて初めてマクロが浮き上がってくる。
  太極の”太”、小より小さく大より大きい。
2018/5/17

 肘技にしろ何技にしろ、結局タントウ功がちゃんとできてるかどうかで出来が決まる。
 套路も実はタントウ功をコマ送りで動かしたもの。
  ....それに気づくにはかなりのレベルが必要。
  だからマスタークラスの先生になるほど、これが練習?と思うような単純な練習をゆるゆるやっていたりする。
  技の数、身体の要領は数多くあるけれど、核心を掴んでしまえば、なんでも技になり、どう動いても正しい要領になってしまう。
2018/5/16

 今日もチャンスーの練習をしてみた。
 メンバーが変わると練習内容も変わってしまうから、昨日と同じことはできない。更新されてしまう。
  今日のメンバー、チャンスーに行く前にまずは上半身の硬さをどうにかしなければならない。胴体を少なくとも上(胸郭)、中、下(骨盤)の3つに分けて動かせるようにはなっていてほしい。本当は脊椎が鎖のようにじゃらじゃら連動して回転していくのが目標だけど、まずは3つのタイヤ(?)から練習。
  と、そういえば、と、これまで殆ど練習させたことのなかった『胸腹折畳』を紹介。
 これまで丹田で円を描いていたものをこの胸腹折畳に変えると、チャンスー勁か如実に現れ、ザ・陳式❗️になる。楊式太極拳にはない動き。太極拳のシンボルは蛇だ、と聞いたことがあるが、まさに蛇....
 が、胸腹折畳はバタフライちっくな動きだから、ある程度の丹田の気の量と背骨の柔らかさが必要。でないと身体に負担をかけすぎる。
  通常、24式を練習する時は1回目はゆっくりとした円運動にして、2回目にチャンスーを入れて丹田の気を練り、余力があれば3回目に胸腹折畳をする。馮老師の比較的若い頃の拳にはこの動きが入っていて、弾力性のある勁が切れずに綿々とうねりながら繋がっていく様が見られる。
  そして今日の練習では、参考までに、と胸腹折畳を入れた24式を少しやって見せてみた。と、予想以上の反応。いつもの、生徒さんと一緒にやる時の分かりやすい動きとはかなり違って見えるらしい....本当の陳式、見せていなかった? 
   生徒さんに合わせて分かりやすく動くと陳式本来の"風格"なり雰囲気がかなり薄まってしまい、生徒さん側はいつまでも本当の雰囲気を知らないままになってしまう。レベルは及ばずとも、出来るだけ良いものを見せてあげなければ.... 責任重大。

  その後は肘をかなりやった。
   肘は難しい! これが操れれば腕を操るのは殆ど成功したも同じ。
  肘についてはまだまだ考察が必要。
  肘技やるべし。

2018/5/15

  今日の練習は股関節から始まり結局チャンスー(纏糸功)の総決算で終わった。
  昨日練習メモに出したクイズ。ちゃんと正解を出してくれた生徒さんもいたけれど、頭で分かるのと実際に身体でやるのは大きなギャップがある。
  セオリーとしては腕の場合、腰→肩→肘→手首と回転をつなげるのだが、それを一本の糸の螺旋として描けるかどうか....?
  また、腹腰(丹田)の力を使う前に、足裏から足首→膝→股関節→腰と上げる勁(時には下げる勁)が必要になる。太極拳の場合、原動力は脚、下半身にあるから、下半身の勁がつなげないと太極拳にならない。
   足裏から手指まで、関節という関節を総動員して回すと手指にはとてつもない力がでる。最終的には足爪先の力が手指先の力になる。足爪先を回せば手指先が回る。
   技は下半身でかけているのだが、見る目がないと手や腕の動きだけ真似して、あれ?マネしたのにワザにならない? ということになってしまう。今日の練習では皆で試してみて❓の連続だった。よーく私の動きを見ていた生徒さんは、あー分かりました!ととても満足げな顔をしていた。あとは自分の身体でできるようにするのみ。
  
   太極拳の技はただ手首を回す、肘を回す、など、とても地味で単純だから、それが技になるか否かは身体の中で全身の勁が繋がっているか否か、それにかかっている。
  身体の中で勁、エネルギー(気)の通り道を開通させる際、ポイントは関節をどう通過させるか。
  エネルギー(気)は腹に溜まっているから、この気圧が高ければ、その勢いで、少ししか空いていなかった関節の隙間がグッと押し広げられたり、あるいはポン!と開いたりして、丹田から次第に遠方へと通路が作られてくる。関節で一番大事なのは脊椎間の関節。特に5つの腰椎間の隙間は早急に開通させないと次に進めない。まず命門を開けろ!というのは最も開け辛い腰椎2番と3番の間を開通させて、臍から命門、そして会陰をつないで一番小さな周天を可能にするため。この周天がないと丹田の気が増えないので、いつまでたってかも腹の"気圧"が上がらず、腹から遠い部分の関節(肩甲骨の間や頚椎)が開通できないままになってしまう。実際には腹から上に勁を上げる意識よりも、腹から下へ、仙骨、尾骨へと道を開いて行って早く足裏まで勁をつないでしまう。すると、腹から上に上げる際に足裏、脚の力が使えるので気圧が上がって一気に上半身が開通するようになる。実はこれがチャンスー勁を使う時な要領になる。
....書いていたら最初に書きたかったことからかなり脱線してしまった。
  最初に言いたかったのは、股関節を使う時は首を回すくらいの気持ちでないといけないということ。首で股関節を回す。関節を単独で使うと関節に過重な負担をかける。太極拳の中腰の姿勢をする時に、背中に物差しを入れて背骨が曲がらないようにして中腰姿勢を作れば必ず股関節か膝を壊すだろう。頚椎から尾骨まで33個?の関節を全て回すなり緩めなければ股関節は回らない。全身の関節は全て繋がっている。人間の臓器と同じ。

2018/5/15

 

 昨日は練習メモに股関節のことを書きかけて、流れでクイズで終わってしまった。

回答をしばらく待ちます。

 

 明後日17日木曜午前に一緒に練習したい人はいないかしら?

 木曜しか仕事を休めない生徒さんが一人彷徨っていて、他に練習したい人がいれば一緒にしたいと思っています。いれば連絡を下さい(初心者大歓迎です)。

2018/5/13

 
 午前の練習の後、ヴィパッサナー瞑想の初心者指導会に直行。数ある瞑想法の中でも特に太極拳の練習法に近いと感じていた瞑想法。一度きちんとした指導を受けたいと思っていた。
 
 まずは手をゆっくり上げて下げる瞑想法。
 ・・・その前に、と、長老から『生命とは感覚』という説明。生命の定義はこれに尽きる、と何度も強調される。感覚がなければ生命はない。死体や物と生物の違い。
 私達の活動は全て感覚を通して行われている。「感覚がなければ死んでいるのです!」
(全ては触→受から始まるという釈迦の深い洞察。本当はここに気づけばすべてが一転してしまうのだろうけど・・・長老の説明に滲み出る熱い想い深い感動をまだ共感できないのが残念で申し訳なく思ったりする。)
 
 手を上げる。
 その動作をゆ〜くりやって、一瞬一瞬変わる感覚を辿っていく。シャープに研ぎ澄まして感じていれば一瞬たりとも同じ感覚は繰り返されないのが分かる。この時同時に、「上げます、上げます、上げます....」と心の中で言葉を使って動作を動詞で実況中継する。
 感覚と言葉、これを同時に意識する事で、隙間に思考や妄想が入るのを防ぐ。
 下げる時も同じ、手を元の位置に戻す時も、微妙な手の動きの変化を感覚の変化として捉えながら言葉で実況中継し続ける。
  この瞑想法の動作はいつもやっている起式のポンの動作と同じ。太極拳の場合、ポンはまず会陰を意識して引き上げて丹田に気を溜め、その後はその気を膨らますようにしながら腕を徐々に上げていく。
   ここでやった瞑想法は丹田と繋げる意識なしに腕のみをゆっくりゆっくり上げていったので、途中、腕が内側の方でゆらゆらガクガクしているようなとても不安定な感覚があった。その後、ゆっくり立ち上がったり、まっすぐ足を揃えて立ってから両足の幅を2ミリずつくらい実況中継しながら開くことを試したりもしたが、丹田に繋がず脚だけで立つと、脚が内側でゆらゆら足の裏もぐじゃぐじゃして、脚中の感覚が高速で点滅を繰り返しているかのようだった。
  実はこの点滅自体が、生と滅の繰り返し、無常の表れで、ヴィパッサナー瞑想の目的は無常を悟る事なのだと後で知った。
  丹田はエネルギーの集まりなので決して止まることがないが、特にタントウ功の時、丹田がその場でグルルルルル....と高速回転しているように感じるのは、実は、生滅生滅生滅を高速で繰り返しているからなのかもしれないと思った。
  生命は瞬間瞬間で出たり入ったりしている?
  その後歩く瞑想が30分以上あったが、やはりこの手のものは普段やっていることに極めて近いので直ぐにコツが掴める。トイレに行くのもこの調子で....ということだったので、次第にドアに近づいて退出をはかったその時、ドアのノブにニョキッと出ていた自分の右手。しばし呆然。脚はあんなに注意していたのに、手の動きは何て無意識のうちに素早く行われることか。
  その後一階まで階段を降りるのに、右足上げます上げます、右足運びます運びます、右足下げます下げます、右足着地します着地します...の調子で実況中継してたら、5分はゆうに要した。その後、月面で動く人のようにどうにかトイレに辿り着き、今度はしっかり意識的にドアを開け、中に入り、ドアを閉めて、一人になった時、はて、どうしよう?と立ち止まる。
  トイレも実況中継して行って下さい、と言われたけど、やはりトイレの中でも全てを実況中継するのだろうか?ズボンを下ろします下ろします....から始まって、便器に座ります座ります....用を足す時も実況中継? トイレットペーパーを取るときは躊躇なくできたけど、ズボン上げるだけでもかなりの時間がかかる。トイレで10分はかかる。
  太極拳の練習も、坐立行臥不離練功、と言って、日常生活全てを練功にしなければならないというが、ここまで厳格にやったことはなかった。
  普段いかにザーッと適当に事を済ましているのか丸わかり。雑に生きてる。
  武道や武術は覚醒のための非常に良い瞑想法になり得るが、ここまで動きをミニマムにしないと真のシャープさ、隙間を見る目は養われないのだろうと思った。はぁ、先は長い....。
  最後に坐禅で瞑想をしたが、その座り方もとても厳格。
  お尻から背骨を伸ばして下さい。
  坐骨、その2つの丸い骨にちゃんと乗って骨盤で座って下さい。
  尾骨から頭頂まで骨を一つ一つ重ねて行って、頭頂はフックで引っかけられているように。それから頭から下向きに力を抜く。が、骨盤の力は抜かない!
  が、坐禅をしたことがない人は骨盤で立ち上がれない、だから力も抜けないし背骨も真っ直ぐにならない。
  それを見た長老、はぁっ、とため息ついて、「日本人の身体は特に退化してしまってるからねぇ、座布団という道具に頼るのも本当は良くないんだけど、道具使ってもちゃんと座れない。毎日練習して下さい。形ができないと深く瞑想に入れません。」
   普段の講義では心を重視して身体はいつでも無くなってしまうもの、と大した価値を置かない長老だが、今日の瞑想指導で私達の身体の様を見てガッカリしたのか、「まずは歩く瞑想をいっぱいやって座れる身体を作って下さい。身体が軽くなれば心が軽くなる。」と、心を成長させる上でしっかりした身体、特に背骨、が大事なことを説いていた。
  長老から身体の価値を認める言葉を聞いたのは初めて。これまで練習してきたことも無駄じゃなさそう、と少し安心した。
  坐禅は置き物のようななって、絶対に何があっても動いてはいけない。まずは30分。いろんなところが痛くなっても動いたらアウト。最後の5分くらいが一番キツイ。そこで脳の開発が進みます....
   最初にタントウ功を習った時、キツくてキツくて涙出そう、と思いながら最後の10分を踏ん張ってた、その頃のことを思い出しました。
 

2018/5/12

 

 運動は関節の回転運動によって行われる。

 そして関節を正しく動かすためには、関節についている筋(筋肉の端っこ)を意識し、そこを操る必要がある。

 が、私達の身体は、例えば、自分が、ここが肘だ、と思っている場所と、実際の場所には通常ズレがある。実際に身体を掌で触れながら練習するのは、この脳の認識のズレを修正するためでもある。

 太極拳の練習ではツボを知らざるを得ないから、一つ一つツボを意識する時に、脳にその感覚を覚え込ませ、徐々に自分の身体をマッピングできるようにしていく。意識できるツボが多くなればなるほど、身体は細かく操れるようになる。

 

 関節の中で非常に意識し辛いのが股関節。

 寛骨の陥没部に大腿骨の骨頭がハマり込んでいる、その場所。

 脚は、そこから操る。”そこ”=その骨頭の球。

 筋肉の力を使って大腿骨の途中の部分から大腿骨を動かした場合は、次の関節(膝関節)に負担がかかるような動きになる。膝関節を正しく使うためには、その前に股関節を正しく使わなければならない。(図で説明できれば良いのだけど・・・時間があれば挑戦してみよう。)

 

 まずは股関節を探し出す。

 どこに股関節があるのか?

 図を見て、そして自分の身体を触ったりゆすったりして、その骨頭を探し出そうとしてみる。

 女性に多いのは股関節ではなく、腰骨の方に出た大転子に体重をのせてそこを動かそうとしているケース。歳をとって股の締まりが悪くなり股関節が外れそうなくらい蟹股になっているお婆さんをよく見かける。おじいさんはそうはならない。これは骨盤の形状の違い。女性は本当に注意しないと骨盤が開いて重心が下がり股が開いてしまう。(男性は反対に骨盤が開かないので脚に気が落ちづ、下半身がますます貧弱になり上半身、腹が重くなり、身体が硬くなる。)

 

 股関節を探すにはまず解剖図を見て、頭の中で自分の身体のイメージをさせると良いようだ。

そこから身体をいろいろ動かしてみて確かめてみる。

 太極拳をやって膝を傷める人が多いのはまさに股関節が正しく使えていないから。

 

 今週は股関節探しからやってみよう・・・・これも発展性のある話題。何が出てくるやら(笑)

 

 調べるといろいろ参考になる動画やサイトがあります。

2018/5/11

ルグリの踊りが忘れられず、あれから彼の若い頃の踊りをYouTubeで見ていた。
確かにオペラ座らしい正当な素晴らしい動き。
でも今ほどの柔らかさと余裕はないかなぁ。
やはりエトワールという重圧の中で踊るのと、今の立場で余興的に踊るのは心持ちが全く違う。それは踊りにも現れる。
心が放松しないと身体も芯からは放松しない。
心の余裕が動きの余裕に繋がる。

オリンピックの体操選手などの身体は開いていても硬い。身体がどれだけ開いて曲がろうとも、内側に隙間がない身体は硬い。柔らかい身体は内側に気の流れる隙間のある身体。気を通して身体をするする、どこにも当てずに動かす....心の余裕....歳を取るのも悪くない。

ルグリは53歳。
高く跳んだりめちゃくちゃ速く動いたり、アクロバット的な動きをするのが踊りではない。
彼の動きを見るとそう確信する。
ただの力任せや美のバランスを逸した病的な動きは優雅さに欠けて踊りには見えなくなってしまう。
秀美、は太極拳を形容する言葉だと師父から言われたことがあるが、その意味がやっと分かりつつある。

2018/5/10

 来日中のウィーン国立バレエ団の公演を見た。
 オペラ座でエトワールを23年務めたルグリが芸術監督となり8年。その成果を見せる公演。
 今日はルグリの師であるヌレエフを讃えたガラプログラム。コンテンポラリーから古典まで数多くの作品がある中で、ルグリ自身も2演目を踊った。
 最初のルグリの登場。
 ポーズをとって静止した時に、既に、ハァ〜っとため息が出る。身体の開き具合、松の具合が他の団員と全く違う。派手な動きもなく、女性ダンサーを引き立たせるように踊るのだが、踊らせてあげている彼自身が踊りになっている。
 男女2人が踊る時、概して女性が主、男性は引き立て役の従になってしまいがちなのだが、ルグリの場合は引き立て役でありながら引き立っている。
 太極拳で防御が攻撃になってしまう、そんな感じ?
 いや、引き立っても女性パートナーを凌駕しない程度に自分を抑えている。そこには、女性をうまく踊らせながら、自分の踊りも突出しない程度にコントロールして見せる、そんな他の若いダンサーにはない、余裕と貫禄、そしてエレガンスがある。
 余裕と貫禄、そしてエレガンス、それはまさに太極拳の理想とする境地そのもの。
 一体どこからそれは来るのだろう? と見ると、やはり"松"。全く力みが感じられない。
 しかし軸は誰よりもしっかり。どの瞬間を捕まえてもサマになっている、中心軸が通っている。女性をリフトしている姿勢も美的。
 いや、実は、そこに"軸"があるのも感じられないほどの自然な軸。それは若手の一生懸命軸を作っているダンサーと比べれば違いが丸わかり。
 軸を作っている段階はまだ身体に緊張があり動きぐ硬い。
 軸ではなく、丹田、身体のエネルギーの中核ができ、それを身体全体まで膨張させたり、腹奥一粒の大きさまで縮小させたりすることができるようになれば、丹田から末端に、そして末端から丹田に、放射線状に軸が自然に形成されることになる........と、理論上知っていたが、それをルグリの動きで目の当たりにしてしまった。
 今日の公演で特に目が行ったのが、男性ダンサーの女性ダンサーのサポートの仕方。二人の間の関係。
 このダンサーと一緒に踊ったら踊りやすいだろうなぁ、と思わせる男性ダンサーもいれば、この人と踊ったら踊りにくそう、という人もいる。見ればすぐ分かる。もちろん相性というのもあるのだろうけど、相性以前に、基本的な身体の使い方、センサーの形成ができているかどうかが問題。
ルグリの女性のサポートは本当に隙なく行き届いていて、この人と踊ったら実力以上の踊りができるだろうと思った。何が違う?と、後半再度ルグリが出た時はオペラグラスを借りて、よ~く見てみた。
 ああ、女性との距離が近い。というか、あっという間に女性の身体の中(気場の中)に入り込んでしまう。他の若い男性ダンサー達は、そこまで入り込まない(入り込めない?)うちに女性を持ち上げたりサポートするから丹田の力が使えず筋肉でギシギシした動きになる。
 すっと女性の気場に入り込んでしまうその様は、太極拳で技をかける前に知らないうちに相手の中に身体が入り込んでいるのとよく似ている。太極拳は決して遠くから殴ったりしない。まずは近づく、いや、相手の中に入り込む。離れていると打たれたり蹴られたりするが、密着すれば相手の使える技はとても少なくなる(片や太極拳側は密着戦が得意)。
 そして、すっと、相手の気づかないうちに相手の中に入り込んでしまう、その鍵は足運び、足の速さ。師は足技を教えず、というほど、太極拳は足運びが大事。それが正確に素早くできるには、丹田が足(踵から足先まで)を正確にコントロールしなければならない。丹田なしに足を正確にコントロールすることはできない。
 太極拳の実力がどのくらいあるかは、足運びをみれば明らか。
 そして一般的に相手の中に入り込む時には自分(の意識)を消さなければならない。自分が小さな穴に入っていくがごとく自分を極小にする(無の方向?)か、あるいは、存在を拡大して相手を自分の一部にしてしまうか(空の方向?)。でないと相手の気場にぶつかって入り込めなくなる。
ルグリの場合はふわっと相手を包み込むような大きな気場を形成しているように見えた。
 そしてそんな気場の形成や素早い足運びには丹田が不可欠だが、その丹田がルグリの場合は常に女性の丹田と繋がっているように見えたのは驚きだった。
 彼が女性ダンサーと踊る時、私にはルグリと女性の丹田が常に伸縮性のある糸かゴムかバンドのようなもので結ばれているようだった。たとえ二人の身体が離れてもまだバンドは繋がっている。二人が近づく時にはあたかもそのバンドが縮む力で二人が引き寄せられていくかのようだった。
ルグリは二度、別々の女性ダンサーと踊ったが、どちらとともそのように見えた。
 丹田がセンサーとなってお互いの丹田に呼応して踊る。身体はその丹田についてくる。すると身体は松している。
 ・・・ルグリの踊りはまさにそうなっていた。
 丹田がセンサーとなるには、丹田がある一定以上のエネルギーを持ちそれがブラックホール的な磁力、吸引力をもつ必要がある。丹田が吸う!
 丹田に吸引力ができれば、身体中に散らばった力を丹田がバキュームのように吸い込むので、身体は丹田が回転すればするほど松することになる。この吸引力を相手に向ければ、相手と離れていても丹田で吸い続けて繋がっていることができる。
 これを頼りに動けば身体はワンテンポ早く動き始められるし余計な動きがない分動きの速さも増す。近づいて二人の丹田が一個のように機能すると、それを見ている人は夢をみているかのような一体感、合一感を味わう。が、その後には必ず離別があり、総じて男女ペアの踊りは常に、開の中に合あり、合の中に開あり、の行ったり来たり。それがエネルギーレベルでの波として捉えられていれば(エネルギーの家は丹田)、身体の動きは決してバタバタせずとても滑らかなものになる。
 松しないと丹田は形成できないし、丹田が吸えるようにならなければ本当の松はできない。
 丹田は育てて成長させるもの。
 ただ息を吐いて作ったような静的な丹田から、丹田自身が生命体のように吸ったり吐いたりできる動的な使える丹田へ。その移行に必要な練習が、煉気、煉功なのだろう。
(cf 内丹術:丹田を鼎炉、気を材料として、意識と呼吸をふいごとして丹を煉成する ウィキペディアより)
 松の意味の理解が、また進んだ(複雑になった?)。
<軸の考察 縦軸(背骨系)VS 放射線、水紋(丹田系)>

2018/5/10

 

先週話題にした、松したらどうなる?の話題。

メールで見事に説明してくれた弟子がいました。私が説明するよりも理路整然としている。

他の生徒さん達にその文章を紹介したら、とても参考になったという声が予想以上に多かった。

私以外の人が、私と同じような感覚を得られるようになると、それをまた違った角度から、違った言葉で説明できるので、恩恵を受ける人の数もぐんと増える。体験は共有者が増えれば増えるほど、後から入った人も、その人達と共に練習することで、体験がごく当たり前のことのようになって自然と進歩してしまう。(強い部活に入れば強くなってしまう、そんなもの?)

 

そもそも私は共感者、体験の共有者を増やしたくて、かなり突っ込んで生徒さんを教えてきた。

私だけ分かって皆が分からない状態だと教えていても面白くない。

教えていて生徒さんがある感覚を得た時、得ていってるのが分かった時、この上ない嬉しさを感じる。

それを原動力に教え続けて来て、生徒さん達の中に内側の感覚がある程度分かる人達がかなり多くなった。そろそろ生徒さん同士でも教え学び合える程度になってきたのではないかと思う。

一緒に学ぶ仲間がいるというのはとても心強いもの。

老後も一緒に套路やったり推手やったりして遊べたらどんなに良いだろう(笑)

 

弟子のメールはLINEのページに紹介します。

その最後のメールで彼は、私が見落としていた大事な点を指摘してくれました。

まだ私の中で完全に消化できていない部分なのでメモのためにここに貼り付けておきます。

彼と同じような問題を持つ人はどのくらいいるのかなぁ?

 

返信ありがとうございます。

松腰すれば全身の松に繋がるかは、その人の普段の姿勢によるのではないかと思っています。
私は力を抜くと猫背になるので、腰から上も引っ張り上げてないといけない感覚があります。

太極拳を始めたばかりのとき、松腰の意味を掴むのが難しいのは、丹田に「集める」と聞くと収縮する意味に取ってしまうので、脊椎の隙間が伸びるのと反すると思うからではないかと思います。自分はそう感じていました。今は「丹田に集める」は、丹田が膨らむイメージを持っているので、脊椎の隙間を伸ばすことと矛盾していないと感じています。他の人がどう感じているかわかりませんが、松する意味の答えがすんなり出てこなかった理由はこの辺りにあるのではないでしょうか。

 

 

<私の疑問点>

➀松腰から始める、と言っても、松腰が必ずしも全身の松にはならないという点。

②松すると猫背になるとは? →虚霊頂勁、提会陰ができていない。前肩、胸が閉じてしまっている? 肋骨が下がる?

③丹田に気を集める・・・収縮→膨張?

 偽の丹田(拘束丹田)と真の丹田

 

 ②も③も土踏まずが上がっているか否かでチ簡単にェックできそう。

 (土踏まずを上げたままだと猫背にはなれない。土踏まずを上げたまま拘束丹田(動けない丹田)を作ることはできない。)

  土踏まずが上がっている=会陰が上がっている

  要は、会陰が引き上がっているか否かで道が分かれてしまう。

 

 

 

2018/5/9

 

今日のピアノレッスンでは、高速で和音を飛び飛びに弾く時に、音を出す前に自分の指が触れているのをいちいち確かめるように、と、音を出す直前に鍵盤の上で手を止める練習を随分やらされました。一秒間に左右交互に飛び飛びで4個から6個の和音を弾くだけでも難しいのに、一つの和音を鳴らす瞬間に指が正しく和音を掴んでるか鍵盤の上で確認しなければならないなんて・・・・。私はそれができていないから、行き当たりばったり、運に任せた演奏になるとのこと。

 

仏教の共一切心心所、どんな心にも絶対はいっている要素は

触→受→想→意志→一境性→命根→作意 と七つあったが、一つの情報が入るたびに瞬時(本当に信じられないくらいの瞬時!)にこれだけの作業は必ず行われている。(このサイトが簡潔にまとめている。http://abhidhammattha-sangaha.blogspot.jp/2016/03/blog-post_99.html)

本を読んでそれを知った時はそれなりに驚いたが、今日、まさかピアノのレッスンでそこを指摘されるとは思わなかった(ピアノの先生は仏教のそんな心の分析は知らないが、ピアニストなら絶対にやっている作業。)

 

先生の指摘は、つまり、私には 触→受 の意識が足りないということだと理解。

触受の隙間を開けようと演奏すると、腕、身体、手指の動きが更に俊敏になるから不思議。

とてもシャープな意識にならないとやってられない。シャープになって意識が拡くと時間が引き伸ばされたようになって1秒間の中でも余裕が生まれる。

ものすごい集中力が必要、けど、不可能ではない。

 

10分程先生と一緒に細かく割った練習をして、それから同じパッセージを弾くと、自分でも驚くほどの正確さと速さで弾けてしまった。

何で今こんなに弾けてるのか分からない?

と弾きながら驚いてそう言ったら、横から先生が「気合いでしょう。」と一言。

 

確かに、気合い

周身一家、どんなに手が鍵盤から離れても丹田が手指(先)までいつも繋がっていて、丹田がいつでも指を引っ張り戻せる状態。丹田が末端を引っ張り戻す、”合”の練習が足りなかったのが速さが出ない理由だった。テクニック的に難しい曲はどうしても”開”が多くなり、”合”の余裕がなくなる。・・・・ああ、太極拳と同じ。

合には丹田の吸引力がいる。

 

レッスンの最後、曲の出だしが乗れずに引き直したくなってしまうという私の癖について、先生からまたまた不思議な一言。

「最初から取り戻す練習をして下さい。」

何となく分かりそうで分からない、禅問答のよう。ただそれ(最初から取り戻せないこと)がピアノに限らず私自信の問題点であることは良く分かる。

 

ピアノ演奏は太極拳以上に神経を使う。

ピアニスト達はよくこんな練習を一日7時間も8時間もできるもんだ・・・・。尊敬。

 

 

番外 4月のルドン展

 
番外
今年1月頭にパリのディオール回顧展最終日に駆け込んで写した写真。
2018/10/15

 昨日1日は1週間分の活動

直近の練習日程→こちら

『今日の独り言』結局何でも太極拳に関連してしまう頭の中。その日の気づきや疑問点、頭の中のお掃除と整理。過去の独り言はアーカイブ

★NEW! 5/21

LINEの仲間の投稿あり

練習メモ』

毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。私自身の学びのメモ。

★2/14『LINEの話題』を新設。グループLINEにリアルタイムで書き込んだ内容。LINEだと情報が流れてしまうので適宜ここに移します。

(パスワードをかけますので閲覧希望の方は簡単な自己紹介をつけてお問い合わせ下さい。)

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

ようせいフォーラム2017プログラム
3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
ようせいフォーラム2017プログラム.pdf
PDFファイル 3.1 MB

 

2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

発表の抄録、資料はこちら