2018/5/25

 今日のマルちゃん、法被姿。
昨日トリミングを済ませたばかりで真っ白、ホワホワ、もふもふ。
  今日から3日間、花園神社の大祭りのため地元町内会は大忙し。マルちゃんはそこのアイドル。おじちゃん共々3日間法被姿で頑張るそうです。
  ....今気づいたけど、マルちゃんは、私のHPカツラ猫の犬バージョン。写真入れ替えてみようかなあ。

2018/5/24

 私のピアノはともすると気晴らしかスポーツになってしいがちなのだけど、太極拳の練習のお陰でそれも少しずつ変わりつつある。と言っても、基本的には身体の開発への興味は抜けないので、今年の発表会も技術的に自分の実力より上、難易度の高いものを選んでしまった。
  超絶技巧練習曲....リストはそう名付けたが、ショパンの練習曲と同様、単なる無味乾燥な練習曲なんかでは全くない。超絶テクニックがテクニックを超えたところで浮き出てくる曲の深みと空間、そこまで高められる曲だ。
  と、頭では知っていても、実際には、及ばぬテクニックに四苦八苦して曲を歌わせる余裕など全くなくなってしまうのが現実。間違わずに正確に弾けるだけでもピアニストの域。が、この世にはそんなテクニックを悠々と飛び越え、自分の感性の世界に浸って弾ける突き抜けたピアニストが存在する。
  その一人がキーシン。私が練習している曲については彼が群を抜いた演奏をしている。他のピアニストが弾くとまずは難曲、という印象を受ける。が、彼が弾くと、まずは、歌、に聞こえる。難曲であることが前面に出てこない(実はそれが卓逸したテクニックの証拠)。そして毎日ルーティーンのように彼の録音演奏を聞いていたその矢先、なんと、この秋にキーシンが来日するというお知らせあり。これは是非とも行かなければ・・・が、チケットが、高い!
 
 咄嗟に日本国外の方がチケットは安いに違いない、と頭が回転(それにかこつけて旅行する? )、キーシンのスケジュールを調べてみた。すると、なんと、ずっと世界中を回ってる。これじゃあ放浪の旅。家に帰れない、いや、そもそも家は何処に....? 来年の公演日程、そして弾く曲までもが決められている....急にキーシンが可哀想になってしまった。そう言えばホロヴィッツもミケランジェリも演奏会が大っ嫌いでよくドタキャンしていた。気分も乗らないのに弾かなければならない、それも、生活の糧のために....としたら、芸術家ではなく労働者。自由こそが芸術家の生命。けれどもやはり食べて行くには....  ジレンマは私達以上に切実だろう。
   今回の来日公演のポスターに写る少し老けた彼の姿。なんだか複雑な気持ちになり、思わず少年キーシンの動画を探した。ひょっとしたらきちんと見るのは初めてかも....と動画を開いたら、そこには神と繋がる、"神童"がいた。神童とは文字通り、神と繋がった子供を指していた・・・単なる一芸に秀でた子供ではなかった・・・ショック・・・。
  12歳のデビュー時のキーシン。
 繋がったままの演奏。
 逆に言えば、まだ身体に力がなく、自力では演奏できなかったのかもしれない。何かの力を借らざるを得ない。
 誰が教えたということもなく、自然に上丹田を使って繋げてしまう。
 天から降りてきた子供、天使、がピアノを弾いているよう。穢れがなく初々しい。
  15歳、初来日した頃のキーシン。身体が随分立派になり、弱々しさがなくなってきた。弾く前に一生懸命、天(神)と繋がろうとしている姿が印象的。目をつぶり、上丹田に意識を上げ、そこをピクピクさせて上(天やら神やら)と繋がろうとしている様子も見えた。骨盤が立ち、会陰から百会までが一直線。

  そして20代、30代、40代と、次第に上丹田と天の繋がりが減り、上丹田はもっぱら下向きの繋がり、自分自身の感性、感情のの世界へと入り込む。人間界の苦悩や歓喜もが芸術表現の肥しになる。キーシンは内省的で文学にも造詣が深いようだから心の中には計り知れないほどの想いがありそうだ。内側に堆積したものを外に向けて表現していく段階。腹の丹田やハートのチャクラの表現。

 グールドは40歳過ぎから感情を越えた表現、演奏を試みていたが、それはハートを超え上丹田に向かって進む道だった。夏目漱石の『草枕』を愛読書にしていたのもその理由だったようだが、男女の二元性を超えることのない西洋文化の中で、一人、”一”になる上丹田の境地まで上がっていくのは困難だったのではないかなぁ、と個人的には思う。その試みが却って奇人を作り出してしまった感がなきにしもあらずで、人間界の生の酸いも甘いも知って、再び純粋で穢れなき神とつながった境地に戻りたいと思ったら、徹底的に心身を浄化をしなければならない、と、12歳や15歳の少年キーシンの姿を見ると納得できたりする。(こんなに汚れてたら繋がれる訳がないなぁ、と実感したわけです。苦笑)

  

  きっと私達は皆、生まれた時は頭頂がまだ開いていて、上丹田から百会を抜けて天なり神なりのあっちの世界と交信できていた。しかしこの世で生活していくうちに、この世で肉体を使って物質を扱う面白さ、様々な思考や感情と戯れることに夢中になり、次第に頭頂は閉じ、目は専ら下を見る。
  修行はそこから始まる。失った繋がりを取り戻す旅。
  どんなに頑張っても自分の力ではどうしようもないことがいっぱいの中で、繋がると一気に進んでしまう。その飛翔感なりその)軽さの中で自分にとっては奇跡的なことが起こってしまう。これは上丹田の神が、百会の上の虚や霊と繋がることによって起こるのだが....太極拳の練習をしていて分かるのは、そこまで繋ぐには10代の頃のような下の丹田の馬力(?)が必要。(その気量と気圧で百会までぶち抜いてしまう、くらいの覚悟が必要なのでは?)
 
 10代のキーシンの姿勢は藤井八段と同じで、骨盤がしっかり立ち上がり、会陰から百会が貫通している。歳とってこの姿勢を普通の姿勢として保持できている人はとても少ない。それは歳をとると下丹田の気が減るから。腹底に重石がないと骨盤は立ち上がらない。(記憶ではホロビッツが晩年でもそのように座っている、が、彼の骨盤はとでもどっしり、重石が会陰付近にあったと思う。)
  なお、上丹田の練習は腹の丹田がしっかりしてから、と思っていたけれど、上丹田を使わなければ下の丹田が正しく形成されないことが次第に分かってきたので、徐々に練習取り入れたいと思う。(中丹田→上丹田は『炼气化神』、逆に、上丹田→中丹田は『凝神聚气』という要領)
 

2018/5/22

 御苑へ向かう小道、太宗寺の裏、雷電稲荷神社に抜けるところには毎朝おじちゃんとマルちゃんが座っている。
  私はおばちゃんだから、基本、誰にでも話しかけられる。この飼い主のおじちゃんと初めて目が合った時もすかさずマルちゃんの名前やら犬種やら歳やらを尋ねた。
  カットしていない伸び放題の毛? なんて思ってたら大間違い。マルちゃんは、ビション フリーゼ、というフランス犬。ビション=マルチーズ、フリーぜ=巻き毛、で、古くはフランソワ1世やアンリ2世など上流階級の愛玩犬。そう説明するおじさんはとても得意げで嬉しそう。こちらも楽しくなる。そう言われると、マルちゃんの髪型は髪の毛クルクルカツラの中世貴族のようだ。
  トリミングは3週間に一回、ビションフリーぜを得意とするトリマーに頼んでいるという。一回2時間半。大事な家族だからきれいにしてあげたいとの思い。首には太宗寺のお守り。
  新宿三丁目の交差点の裏の静かな一角。歩いていてもほとんど人と会わない。おじちゃんとマルちゃん以外には。ここだけ時間がゆっくり流れてる。秘密の小道。この小道を抜ければ御苑はすぐ。雑踏を歩く時間はとても少なくて済む。
 
  今日は気温が高く、マルちゃんはすでに地面にへばりついていた。これから夏は大変ですね、と、私は自分の老犬シュナウザーを思い浮かべながらおじちゃんに話しかけた。当然夏は毛を短くカット? と言いかけたら、いや、今年は長いままいこうとトリマーさんと決めたばかりなんだよ、とおじちゃん。昨年は頭と尻尾だけ残して、胴体の毛をバリカンで刈ったらしいが、そうしたらビションではなくなってしまったらしい。うちのシュナウザーもシュナウザーカットをするからシュナウザーに見えるが、髭も作らず普通に顔周りの毛を切ってしまったら、ただの犬になってしまったことがある。マルちゃんの頭を撫でながら、もしこのもふもふの毛を全部刈ってしまったら....と目を覗き込んで本質を見ようと....ただの犬だ!
 犬も髪型、毛型がアイデンティティーになっている。私達人間も衣服を付けず裸になって髪の毛も全部剃ってしまえば、ただの人間。大差はない。が、私達は犬以上に、服や持ち物や髪型や職業やらの身に纏うものでアイデンティティーを作っている。総理大臣であろうが大会社の社長であろうが、全部脱がしてしまえばただのおじさんかおじいさん。性別と年齢が残るだけ。なんか単純。
 マルちゃんだって他の犬だって猫だって、じっと目を見つめているとその奥に私達と共通するものがあるのが分かる。肉まで脱いでしまったら動物、という仲間、生物という仲間が見えるのかもしれない。奥は同じなのに外に出れば出るほど違いが大きくなる....ああ、これも太極拳の原理でした。本質、核心が見える、捉えられるようになれば恐れるものは何もない。

2018/5/19

 結局、黒の中に全てが含まれているのではないか?
 閉幕前にもう一度、と、昨夜、私の道先案内人とも言える友人を誘って再度ルドン展に赴いた。
 友人は昔からルドンの"黒"に魅せられてその魅力を語っていたが、私が最初に惹かれたのはルドンのイマジナリーな色彩の豊穣さ。昔から知っていた馴染みのある色彩パレットだった。
  20代、ロンドンのフラットの大きな窓にかけていたカーテン。日本ではあり得ない長さと重さで、森の中のあらゆる緑とあらゆる花の色を全て含んだ色合いだった。一目惚れしてかなり無理して購入した。日本で見るカーテンとは全く違う、緞帳のようなカーテン。そのカーテンをかけたら、狭いフラットの沈んだ部屋がたちまち息吹を取り戻したように変身した。朝目が覚めてくると、目の前にはカーテンの裏から滲み出てくる朝日が透けて広がり森の中で朝を迎えるようだった。その部屋の主人公はその大きなカーテン。他には何もなかった。
      テレビで初めてルドンのグランブーケを見た時、私はすぐにあのカーテンを思い出した。彼のその他の絵も、あのカーテンの雰囲気。遠い昔から知っている馴染みのある色彩。見に行かなければならない、と居ても立っても居られず直ぐに展覧会に行った。懐かしい色々、懐かしい風景、一緒に寝起きしたかのような親近感。当然、これらを描いたルドンという人物に非常に興味を持った。
  
      一回目の観覧では彼の黒の時代の作品は殆ど素通りした。この時代がなければ後の色彩の時代はなかっただろうということはよく理解できたのだが、一点一点の黒の作品を見入ることはなかった。唯一の例外は、ルドンの師、ブレナンのリトグラフと彼の横顔。これだけは刻印のように私の脳裏に焼き付いた。
  その後ルドンの黒の時代をこよなく愛する、友人に展覧会の話をしたら、ルドンの書いた日記を集めた本を貸してくれた。『私自身に』
  題名だけでもう心が震える。
  恐る恐る本を開いたら、ああ、言葉一つ一つが、まさに、珠玉。全てに意味が、感覚が込められている。さらさら頭の表面で書いたものではない。ああ、芸術家だ!と言葉、文章を見ればすぐに分かる。少し前にプロコフィエフの日記を読んだ時もすごいと思ったが、真の芸術家の文章は、その辺りの小説家の比ではない。頭で書く文筆家は芸術家ではあり得ない。ハートの深さ。
      
  この本を読むと、幼少期のルドンがボルドーの田舎で自然に魅せられて畏怖させられながら籠って自分の内面を培養していったこと、そこには土があり森があり広大な土地があり、寂寥もあり貧しさもあったのが分かる。が、ルドンの育った環境にはいつも音楽があった。兄はピアニスト、彼自身はバイオリンも弾き、その腕は相当なもので、ショーソンやドビュッシーとも親交があった。そして放浪画家の師ブレナンとの出会い。ブレナンに関する記述を読むと、ハートが愛と美に染まった人の挙動と言葉はこういうものなのか、とこちらの心まで震えてくる。この師と一緒にいたルドンの受けた影響は計り知れないだろう。科学者クラヴォーとの付き合いも彼に大きな影響を与えている。微細なもののさらに微細なところを見つめる目。生物の進化、誕生の謎を探る時、人はどれだけ原点に降りていかなければならないのか?様々な神話やインド哲学まで関連してきて、ルドンの内面世界が確実に深みを増していく、そんな友との関わり。ルドンの文学的素養も素晴らしく、彼のイマジネーションがどこまでも膨らませられるだけの滋養が至る所から与えられていた感がある。
  一般には一人の芸術家の中に文学、絵画、音楽、全てが揃うことはなかなかないのだけれども(中国の文人なら琴棋書画が揃わねばならないが)、ルドンはそれら全てと当時の生物科学、そして信仰心が含まれていた。
  これら全てが一人の人間の中でミックスされ撹拌され発酵されていった時、それが発露の機会を得たなら一体どのような形態をとるのか?それは本人自身も分からない。ルドンが、「自分は何かテーマがあって描いているのではない、自分自身から出てくるものを描いているだけだ。」と繰り返し言うのは、自分自身から出てくるものを自分で見ていくことに喜びがあったのだろう。自分から何が出てくるかは、出してみないと分からない。出してみるとあ思いがけないものが出てくる。それをルドンは楽しんでいたし、それが作品を作るインセンティブになっていたようだが、その感覚はとても共感できる。自分の未知な部分を見てみたい....
  
  黒の時代の作品はルドンの内面の突っ込んだ深さを恐ろしく正確に凝縮して描き出している。エネルギーが散逸しない。私の知る感覚で言えば、太極拳を小さな動作で丹田を凝縮して動くようなもの。開かない。すると深く入れる。沈黙。奥深い黒。漆黒の無から外界に出る寸前の明るい灰色、その"地下"で全ての動きが行われる。エネルギーが溜まる。溜まって溜まって....ここで陰極まり陽に転じなければ....下手すれば深みに落ち込んで腐敗、沈没....。
  が、ルドンは陽転した。それが色彩、一斉開花。地下深くの種が順調に育って日の目をみた。外に現われた色彩の元は地下の黒い養分にあった。種と花は同じ。
 
  彼自身は振り返って、黒の時代に既に色彩へ向かう要素はあったと書いている。
  黒で描いてももそれを描く紙はピンクだっり青だったり。決して黒白だけではなかった。ひょっとしたら私達には白黒に見えても彼には白黒の中の色彩が見えていたのではないか?彼は黒の材料、木炭やその他、それぞれの質感の違い、使う材料に生命を与えることを大事にしていた。命を与えた材料で入念なる線で面わ描いたら、その黒の面はもはや平面ではない....と、昨夜二度目に行った展覧会では、黒の時代の作品の一点一点の黒の様々な表情を確認、味わえた。
  
  黒についてのルドンの言葉....
  何という洞察!身体とハートを使って知った人の言葉。どこか"無"に通じる。静功は無や黒に向かう道、生命力の源へと降りていく道だった。

   <以下抜粋>
  『黒は最も本質的な色だ。
 その輝きと生命について、私がひそかに考えていることを告白すれば、人の知らない健康状態の深みが源泉なのだと思う。
 調子を控えた情熱の生命を伝える木炭の黒は、規則正しい食事と休息による肉体の充実による。
 だから黒の最高の美は、人の一生の中心部分、長いか短いかの違いはあっても、中心をなす期間にあらわれる。
 老年となって、養分の摂取が低下するに従って、それは枯渇していく。
 もちろんそうなっても、黒の材料を紙の上にひろげることはできるが、木炭の色は炭の色としか見えなくなるし、石板のクレヨンの色は何も伝えなくなる。
 材料の物質は、生命のない死んだものとして眼に映るだけである。
 高い熱の出ている幸福な時、恵深い力が働いている時は、人間の生命そのものが材料の物質から発する。
 彼のエネルギー、精神、魂の何ものか、感受性の反映、いわば彼の実体の燃えかすが、そこにある。』
 
 ・・・・ここまで書き写して・・・・
 今ではどこの美術館も展覧会が見終わった時に当然お土産グッズの場所を通るような”順路”を設けている。ルドンの展覧会もそうだった。
 ルドングッズの数々。なんの精神も魂もない、実体の燃えかすのない物品。ルドンが見たら?
  
  『黒を大切に扱わねばならない。
  媚びを売らせることはできない。
  眼に快感を与えるものでもないし、官能を楽しませるものでもない。
  パレットやプリズムの呈する美しい色と違って、精神のための働き手なのだ。
  すぐれた版画が愛されるのは、外の自然が厳しくて、人が屋内に閉じこもり、自分の思想を養うことに専念するような地方いおいてである。 太陽が我々を魅惑し、外に誘い出すような南方の地域ではない。』
 ・・・・黒、材料、精神
  身体を扱う時にも筋肉だけでなく、その奥の血管、血、体液、内臓、そしてより表面には皮膚、体毛など、身体を構成する”材料”、そしてより”本質的なもの”、それぞれにどれだけ生命を吹き込めるか?ミクロを極めて初めてマクロが浮き上がってくる。
  太極の”太”、小より小さく大より大きい。
2018/5/17

 肘技にしろ何技にしろ、結局タントウ功がちゃんとできてるかどうかで出来が決まる。
 套路も実はタントウ功をコマ送りで動かしたもの。
  ....それに気づくにはかなりのレベルが必要。
  だからマスタークラスの先生になるほど、これが練習?と思うような単純な練習をゆるゆるやっていたりする。
  技の数、身体の要領は数多くあるけれど、核心を掴んでしまえば、なんでも技になり、どう動いても正しい要領になってしまう。
2018/5/16

 今日もチャンスーの練習をしてみた。
 メンバーが変わると練習内容も変わってしまうから、昨日と同じことはできない。更新されてしまう。
  今日のメンバー、チャンスーに行く前にまずは上半身の硬さをどうにかしなければならない。胴体を少なくとも上(胸郭)、中、下(骨盤)の3つに分けて動かせるようにはなっていてほしい。本当は脊椎が鎖のようにじゃらじゃら連動して回転していくのが目標だけど、まずは3つのタイヤ(?)から練習。
  と、そういえば、と、これまで殆ど練習させたことのなかった『胸腹折畳』を紹介。
 これまで丹田で円を描いていたものをこの胸腹折畳に変えると、チャンスー勁か如実に現れ、ザ・陳式❗️になる。楊式太極拳にはない動き。太極拳のシンボルは蛇だ、と聞いたことがあるが、まさに蛇....
 が、胸腹折畳はバタフライちっくな動きだから、ある程度の丹田の気の量と背骨の柔らかさが必要。でないと身体に負担をかけすぎる。
  通常、24式を練習する時は1回目はゆっくりとした円運動にして、2回目にチャンスーを入れて丹田の気を練り、余力があれば3回目に胸腹折畳をする。馮老師の比較的若い頃の拳にはこの動きが入っていて、弾力性のある勁が切れずに綿々とうねりながら繋がっていく様が見られる。
  そして今日の練習では、参考までに、と胸腹折畳を入れた24式を少しやって見せてみた。と、予想以上の反応。いつもの、生徒さんと一緒にやる時の分かりやすい動きとはかなり違って見えるらしい....本当の陳式、見せていなかった? 
   生徒さんに合わせて分かりやすく動くと陳式本来の"風格"なり雰囲気がかなり薄まってしまい、生徒さん側はいつまでも本当の雰囲気を知らないままになってしまう。レベルは及ばずとも、出来るだけ良いものを見せてあげなければ.... 責任重大。

  その後は肘をかなりやった。
   肘は難しい! これが操れれば腕を操るのは殆ど成功したも同じ。
  肘についてはまだまだ考察が必要。
  肘技やるべし。

2018/5/15

  今日の練習は股関節から始まり結局チャンスー(纏糸功)の総決算で終わった。
  昨日練習メモに出したクイズ。ちゃんと正解を出してくれた生徒さんもいたけれど、頭で分かるのと実際に身体でやるのは大きなギャップがある。
  セオリーとしては腕の場合、腰→肩→肘→手首と回転をつなげるのだが、それを一本の糸の螺旋として描けるかどうか....?
  また、腹腰(丹田)の力を使う前に、足裏から足首→膝→股関節→腰と上げる勁(時には下げる勁)が必要になる。太極拳の場合、原動力は脚、下半身にあるから、下半身の勁がつなげないと太極拳にならない。
   足裏から手指まで、関節という関節を総動員して回すと手指にはとてつもない力がでる。最終的には足爪先の力が手指先の力になる。足爪先を回せば手指先が回る。
   技は下半身でかけているのだが、見る目がないと手や腕の動きだけ真似して、あれ?マネしたのにワザにならない? ということになってしまう。今日の練習では皆で試してみて❓の連続だった。よーく私の動きを見ていた生徒さんは、あー分かりました!ととても満足げな顔をしていた。あとは自分の身体でできるようにするのみ。
  
   太極拳の技はただ手首を回す、肘を回す、など、とても地味で単純だから、それが技になるか否かは身体の中で全身の勁が繋がっているか否か、それにかかっている。
  身体の中で勁、エネルギー(気)の通り道を開通させる際、ポイントは関節をどう通過させるか。
  エネルギー(気)は腹に溜まっているから、この気圧が高ければ、その勢いで、少ししか空いていなかった関節の隙間がグッと押し広げられたり、あるいはポン!と開いたりして、丹田から次第に遠方へと通路が作られてくる。関節で一番大事なのは脊椎間の関節。特に5つの腰椎間の隙間は早急に開通させないと次に進めない。まず命門を開けろ!というのは最も開け辛い腰椎2番と3番の間を開通させて、臍から命門、そして会陰をつないで一番小さな周天を可能にするため。この周天がないと丹田の気が増えないので、いつまでたってかも腹の"気圧"が上がらず、腹から遠い部分の関節(肩甲骨の間や頚椎)が開通できないままになってしまう。実際には腹から上に勁を上げる意識よりも、腹から下へ、仙骨、尾骨へと道を開いて行って早く足裏まで勁をつないでしまう。すると、腹から上に上げる際に足裏、脚の力が使えるので気圧が上がって一気に上半身が開通するようになる。実はこれがチャンスー勁を使う時な要領になる。
....書いていたら最初に書きたかったことからかなり脱線してしまった。
  最初に言いたかったのは、股関節を使う時は首を回すくらいの気持ちでないといけないということ。首で股関節を回す。関節を単独で使うと関節に過重な負担をかける。太極拳の中腰の姿勢をする時に、背中に物差しを入れて背骨が曲がらないようにして中腰姿勢を作れば必ず股関節か膝を壊すだろう。頚椎から尾骨まで33個?の関節を全て回すなり緩めなければ股関節は回らない。全身の関節は全て繋がっている。人間の臓器と同じ。

2018/5/15

 

 昨日は練習メモに股関節のことを書きかけて、流れでクイズで終わってしまった。

回答をしばらく待ちます。

 

 明後日17日木曜午前に一緒に練習したい人はいないかしら?

 木曜しか仕事を休めない生徒さんが一人彷徨っていて、他に練習したい人がいれば一緒にしたいと思っています。いれば連絡を下さい(初心者大歓迎です)。

2018/5/13

 
 午前の練習の後、ヴィパッサナー瞑想の初心者指導会に直行。数ある瞑想法の中でも特に太極拳の練習法に近いと感じていた瞑想法。一度きちんとした指導を受けたいと思っていた。
 
 まずは手をゆっくり上げて下げる瞑想法。
 ・・・その前に、と、長老から『生命とは感覚』という説明。生命の定義はこれに尽きる、と何度も強調される。感覚がなければ生命はない。死体や物と生物の違い。
 私達の活動は全て感覚を通して行われている。「感覚がなければ死んでいるのです!」
(全ては触→受から始まるという釈迦の深い洞察。本当はここに気づけばすべてが一転してしまうのだろうけど・・・長老の説明に滲み出る熱い想い深い感動をまだ共感できないのが残念で申し訳なく思ったりする。)
 
 手を上げる。
 その動作をゆ〜くりやって、一瞬一瞬変わる感覚を辿っていく。シャープに研ぎ澄まして感じていれば一瞬たりとも同じ感覚は繰り返されないのが分かる。この時同時に、「上げます、上げます、上げます....」と心の中で言葉を使って動作を動詞で実況中継する。
 感覚と言葉、これを同時に意識する事で、隙間に思考や妄想が入るのを防ぐ。
 下げる時も同じ、手を元の位置に戻す時も、微妙な手の動きの変化を感覚の変化として捉えながら言葉で実況中継し続ける。
  この瞑想法の動作はいつもやっている起式のポンの動作と同じ。太極拳の場合、ポンはまず会陰を意識して引き上げて丹田に気を溜め、その後はその気を膨らますようにしながら腕を徐々に上げていく。
   ここでやった瞑想法は丹田と繋げる意識なしに腕のみをゆっくりゆっくり上げていったので、途中、腕が内側の方でゆらゆらガクガクしているようなとても不安定な感覚があった。その後、ゆっくり立ち上がったり、まっすぐ足を揃えて立ってから両足の幅を2ミリずつくらい実況中継しながら開くことを試したりもしたが、丹田に繋がず脚だけで立つと、脚が内側でゆらゆら足の裏もぐじゃぐじゃして、脚中の感覚が高速で点滅を繰り返しているかのようだった。
  実はこの点滅自体が、生と滅の繰り返し、無常の表れで、ヴィパッサナー瞑想の目的は無常を悟る事なのだと後で知った。
  丹田はエネルギーの集まりなので決して止まることがないが、特にタントウ功の時、丹田がその場でグルルルルル....と高速回転しているように感じるのは、実は、生滅生滅生滅を高速で繰り返しているからなのかもしれないと思った。
  生命は瞬間瞬間で出たり入ったりしている?
  その後歩く瞑想が30分以上あったが、やはりこの手のものは普段やっていることに極めて近いので直ぐにコツが掴める。トイレに行くのもこの調子で....ということだったので、次第にドアに近づいて退出をはかったその時、ドアのノブにニョキッと出ていた自分の右手。しばし呆然。脚はあんなに注意していたのに、手の動きは何て無意識のうちに素早く行われることか。
  その後一階まで階段を降りるのに、右足上げます上げます、右足運びます運びます、右足下げます下げます、右足着地します着地します...の調子で実況中継してたら、5分はゆうに要した。その後、月面で動く人のようにどうにかトイレに辿り着き、今度はしっかり意識的にドアを開け、中に入り、ドアを閉めて、一人になった時、はて、どうしよう?と立ち止まる。
  トイレも実況中継して行って下さい、と言われたけど、やはりトイレの中でも全てを実況中継するのだろうか?ズボンを下ろします下ろします....から始まって、便器に座ります座ります....用を足す時も実況中継? トイレットペーパーを取るときは躊躇なくできたけど、ズボン上げるだけでもかなりの時間がかかる。トイレで10分はかかる。
  太極拳の練習も、坐立行臥不離練功、と言って、日常生活全てを練功にしなければならないというが、ここまで厳格にやったことはなかった。
  普段いかにザーッと適当に事を済ましているのか丸わかり。雑に生きてる。
  武道や武術は覚醒のための非常に良い瞑想法になり得るが、ここまで動きをミニマムにしないと真のシャープさ、隙間を見る目は養われないのだろうと思った。はぁ、先は長い....。
  最後に坐禅で瞑想をしたが、その座り方もとても厳格。
  お尻から背骨を伸ばして下さい。
  坐骨、その2つの丸い骨にちゃんと乗って骨盤で座って下さい。
  尾骨から頭頂まで骨を一つ一つ重ねて行って、頭頂はフックで引っかけられているように。それから頭から下向きに力を抜く。が、骨盤の力は抜かない!
  が、坐禅をしたことがない人は骨盤で立ち上がれない、だから力も抜けないし背骨も真っ直ぐにならない。
  それを見た長老、はぁっ、とため息ついて、「日本人の身体は特に退化してしまってるからねぇ、座布団という道具に頼るのも本当は良くないんだけど、道具使ってもちゃんと座れない。毎日練習して下さい。形ができないと深く瞑想に入れません。」
   普段の講義では心を重視して身体はいつでも無くなってしまうもの、と大した価値を置かない長老だが、今日の瞑想指導で私達の身体の様を見てガッカリしたのか、「まずは歩く瞑想をいっぱいやって座れる身体を作って下さい。身体が軽くなれば心が軽くなる。」と、心を成長させる上でしっかりした身体、特に背骨、が大事なことを説いていた。
  長老から身体の価値を認める言葉を聞いたのは初めて。これまで練習してきたことも無駄じゃなさそう、と少し安心した。
  坐禅は置き物のようななって、絶対に何があっても動いてはいけない。まずは30分。いろんなところが痛くなっても動いたらアウト。最後の5分くらいが一番キツイ。そこで脳の開発が進みます....
   最初にタントウ功を習った時、キツくてキツくて涙出そう、と思いながら最後の10分を踏ん張ってた、その頃のことを思い出しました。
 

2018/5/12

 

 運動は関節の回転運動によって行われる。

 そして関節を正しく動かすためには、関節についている筋(筋肉の端っこ)を意識し、そこを操る必要がある。

 が、私達の身体は、例えば、自分が、ここが肘だ、と思っている場所と、実際の場所には通常ズレがある。実際に身体を掌で触れながら練習するのは、この脳の認識のズレを修正するためでもある。

 太極拳の練習ではツボを知らざるを得ないから、一つ一つツボを意識する時に、脳にその感覚を覚え込ませ、徐々に自分の身体をマッピングできるようにしていく。意識できるツボが多くなればなるほど、身体は細かく操れるようになる。

 

 関節の中で非常に意識し辛いのが股関節。

 寛骨の陥没部に大腿骨の骨頭がハマり込んでいる、その場所。

 脚は、そこから操る。”そこ”=その骨頭の球。

 筋肉の力を使って大腿骨の途中の部分から大腿骨を動かした場合は、次の関節(膝関節)に負担がかかるような動きになる。膝関節を正しく使うためには、その前に股関節を正しく使わなければならない。(図で説明できれば良いのだけど・・・時間があれば挑戦してみよう。)

 

 まずは股関節を探し出す。

 どこに股関節があるのか?

 図を見て、そして自分の身体を触ったりゆすったりして、その骨頭を探し出そうとしてみる。

 女性に多いのは股関節ではなく、腰骨の方に出た大転子に体重をのせてそこを動かそうとしているケース。歳をとって股の締まりが悪くなり股関節が外れそうなくらい蟹股になっているお婆さんをよく見かける。おじいさんはそうはならない。これは骨盤の形状の違い。女性は本当に注意しないと骨盤が開いて重心が下がり股が開いてしまう。(男性は反対に骨盤が開かないので脚に気が落ちづ、下半身がますます貧弱になり上半身、腹が重くなり、身体が硬くなる。)

 

 股関節を探すにはまず解剖図を見て、頭の中で自分の身体のイメージをさせると良いようだ。

そこから身体をいろいろ動かしてみて確かめてみる。

 太極拳をやって膝を傷める人が多いのはまさに股関節が正しく使えていないから。

 

 今週は股関節探しからやってみよう・・・・これも発展性のある話題。何が出てくるやら(笑)

 

 調べるといろいろ参考になる動画やサイトがあります。

2018/5/11

ルグリの踊りが忘れられず、あれから彼の若い頃の踊りをYouTubeで見ていた。
確かにオペラ座らしい正当な素晴らしい動き。
でも今ほどの柔らかさと余裕はないかなぁ。
やはりエトワールという重圧の中で踊るのと、今の立場で余興的に踊るのは心持ちが全く違う。それは踊りにも現れる。
心が放松しないと身体も芯からは放松しない。
心の余裕が動きの余裕に繋がる。

オリンピックの体操選手などの身体は開いていても硬い。身体がどれだけ開いて曲がろうとも、内側に隙間がない身体は硬い。柔らかい身体は内側に気の流れる隙間のある身体。気を通して身体をするする、どこにも当てずに動かす....心の余裕....歳を取るのも悪くない。

ルグリは53歳。
高く跳んだりめちゃくちゃ速く動いたり、アクロバット的な動きをするのが踊りではない。
彼の動きを見るとそう確信する。
ただの力任せや美のバランスを逸した病的な動きは優雅さに欠けて踊りには見えなくなってしまう。
秀美、は太極拳を形容する言葉だと師父から言われたことがあるが、その意味がやっと分かりつつある。

2018/5/10

 来日中のウィーン国立バレエ団の公演を見た。
 オペラ座でエトワールを23年務めたルグリが芸術監督となり8年。その成果を見せる公演。
 今日はルグリの師であるヌレエフを讃えたガラプログラム。コンテンポラリーから古典まで数多くの作品がある中で、ルグリ自身も2演目を踊った。
 最初のルグリの登場。
 ポーズをとって静止した時に、既に、ハァ〜っとため息が出る。身体の開き具合、松の具合が他の団員と全く違う。派手な動きもなく、女性ダンサーを引き立たせるように踊るのだが、踊らせてあげている彼自身が踊りになっている。
 男女2人が踊る時、概して女性が主、男性は引き立て役の従になってしまいがちなのだが、ルグリの場合は引き立て役でありながら引き立っている。
 太極拳で防御が攻撃になってしまう、そんな感じ?
 いや、引き立っても女性パートナーを凌駕しない程度に自分を抑えている。そこには、女性をうまく踊らせながら、自分の踊りも突出しない程度にコントロールして見せる、そんな他の若いダンサーにはない、余裕と貫禄、そしてエレガンスがある。
 余裕と貫禄、そしてエレガンス、それはまさに太極拳の理想とする境地そのもの。
 一体どこからそれは来るのだろう? と見ると、やはり"松"。全く力みが感じられない。
 しかし軸は誰よりもしっかり。どの瞬間を捕まえてもサマになっている、中心軸が通っている。女性をリフトしている姿勢も美的。
 いや、実は、そこに"軸"があるのも感じられないほどの自然な軸。それは若手の一生懸命軸を作っているダンサーと比べれば違いが丸わかり。
 軸を作っている段階はまだ身体に緊張があり動きぐ硬い。
 軸ではなく、丹田、身体のエネルギーの中核ができ、それを身体全体まで膨張させたり、腹奥一粒の大きさまで縮小させたりすることができるようになれば、丹田から末端に、そして末端から丹田に、放射線状に軸が自然に形成されることになる........と、理論上知っていたが、それをルグリの動きで目の当たりにしてしまった。
 今日の公演で特に目が行ったのが、男性ダンサーの女性ダンサーのサポートの仕方。二人の間の関係。
 このダンサーと一緒に踊ったら踊りやすいだろうなぁ、と思わせる男性ダンサーもいれば、この人と踊ったら踊りにくそう、という人もいる。見ればすぐ分かる。もちろん相性というのもあるのだろうけど、相性以前に、基本的な身体の使い方、センサーの形成ができているかどうかが問題。
ルグリの女性のサポートは本当に隙なく行き届いていて、この人と踊ったら実力以上の踊りができるだろうと思った。何が違う?と、後半再度ルグリが出た時はオペラグラスを借りて、よ~く見てみた。
 ああ、女性との距離が近い。というか、あっという間に女性の身体の中(気場の中)に入り込んでしまう。他の若い男性ダンサー達は、そこまで入り込まない(入り込めない?)うちに女性を持ち上げたりサポートするから丹田の力が使えず筋肉でギシギシした動きになる。
 すっと女性の気場に入り込んでしまうその様は、太極拳で技をかける前に知らないうちに相手の中に身体が入り込んでいるのとよく似ている。太極拳は決して遠くから殴ったりしない。まずは近づく、いや、相手の中に入り込む。離れていると打たれたり蹴られたりするが、密着すれば相手の使える技はとても少なくなる(片や太極拳側は密着戦が得意)。
 そして、すっと、相手の気づかないうちに相手の中に入り込んでしまう、その鍵は足運び、足の速さ。師は足技を教えず、というほど、太極拳は足運びが大事。それが正確に素早くできるには、丹田が足(踵から足先まで)を正確にコントロールしなければならない。丹田なしに足を正確にコントロールすることはできない。
 太極拳の実力がどのくらいあるかは、足運びをみれば明らか。
 そして一般的に相手の中に入り込む時には自分(の意識)を消さなければならない。自分が小さな穴に入っていくがごとく自分を極小にする(無の方向?)か、あるいは、存在を拡大して相手を自分の一部にしてしまうか(空の方向?)。でないと相手の気場にぶつかって入り込めなくなる。
ルグリの場合はふわっと相手を包み込むような大きな気場を形成しているように見えた。
 そしてそんな気場の形成や素早い足運びには丹田が不可欠だが、その丹田がルグリの場合は常に女性の丹田と繋がっているように見えたのは驚きだった。
 彼が女性ダンサーと踊る時、私にはルグリと女性の丹田が常に伸縮性のある糸かゴムかバンドのようなもので結ばれているようだった。たとえ二人の身体が離れてもまだバンドは繋がっている。二人が近づく時にはあたかもそのバンドが縮む力で二人が引き寄せられていくかのようだった。
ルグリは二度、別々の女性ダンサーと踊ったが、どちらとともそのように見えた。
 丹田がセンサーとなってお互いの丹田に呼応して踊る。身体はその丹田についてくる。すると身体は松している。
 ・・・ルグリの踊りはまさにそうなっていた。
 丹田がセンサーとなるには、丹田がある一定以上のエネルギーを持ちそれがブラックホール的な磁力、吸引力をもつ必要がある。丹田が吸う!
 丹田に吸引力ができれば、身体中に散らばった力を丹田がバキュームのように吸い込むので、身体は丹田が回転すればするほど松することになる。この吸引力を相手に向ければ、相手と離れていても丹田で吸い続けて繋がっていることができる。
 これを頼りに動けば身体はワンテンポ早く動き始められるし余計な動きがない分動きの速さも増す。近づいて二人の丹田が一個のように機能すると、それを見ている人は夢をみているかのような一体感、合一感を味わう。が、その後には必ず離別があり、総じて男女ペアの踊りは常に、開の中に合あり、合の中に開あり、の行ったり来たり。それがエネルギーレベルでの波として捉えられていれば(エネルギーの家は丹田)、身体の動きは決してバタバタせずとても滑らかなものになる。
 松しないと丹田は形成できないし、丹田が吸えるようにならなければ本当の松はできない。
 丹田は育てて成長させるもの。
 ただ息を吐いて作ったような静的な丹田から、丹田自身が生命体のように吸ったり吐いたりできる動的な使える丹田へ。その移行に必要な練習が、煉気、煉功なのだろう。
(cf 内丹術:丹田を鼎炉、気を材料として、意識と呼吸をふいごとして丹を煉成する ウィキペディアより)
 松の意味の理解が、また進んだ(複雑になった?)。
<軸の考察 縦軸(背骨系)VS 放射線、水紋(丹田系)>

2018/5/10

 

先週話題にした、松したらどうなる?の話題。

メールで見事に説明してくれた弟子がいました。私が説明するよりも理路整然としている。

他の生徒さん達にその文章を紹介したら、とても参考になったという声が予想以上に多かった。

私以外の人が、私と同じような感覚を得られるようになると、それをまた違った角度から、違った言葉で説明できるので、恩恵を受ける人の数もぐんと増える。体験は共有者が増えれば増えるほど、後から入った人も、その人達と共に練習することで、体験がごく当たり前のことのようになって自然と進歩してしまう。(強い部活に入れば強くなってしまう、そんなもの?)

 

そもそも私は共感者、体験の共有者を増やしたくて、かなり突っ込んで生徒さんを教えてきた。

私だけ分かって皆が分からない状態だと教えていても面白くない。

教えていて生徒さんがある感覚を得た時、得ていってるのが分かった時、この上ない嬉しさを感じる。

それを原動力に教え続けて来て、生徒さん達の中に内側の感覚がある程度分かる人達がかなり多くなった。そろそろ生徒さん同士でも教え学び合える程度になってきたのではないかと思う。

一緒に学ぶ仲間がいるというのはとても心強いもの。

老後も一緒に套路やったり推手やったりして遊べたらどんなに良いだろう(笑)

 

弟子のメールはLINEのページに紹介します。

その最後のメールで彼は、私が見落としていた大事な点を指摘してくれました。

まだ私の中で完全に消化できていない部分なのでメモのためにここに貼り付けておきます。

彼と同じような問題を持つ人はどのくらいいるのかなぁ?

 

返信ありがとうございます。

松腰すれば全身の松に繋がるかは、その人の普段の姿勢によるのではないかと思っています。
私は力を抜くと猫背になるので、腰から上も引っ張り上げてないといけない感覚があります。

太極拳を始めたばかりのとき、松腰の意味を掴むのが難しいのは、丹田に「集める」と聞くと収縮する意味に取ってしまうので、脊椎の隙間が伸びるのと反すると思うからではないかと思います。自分はそう感じていました。今は「丹田に集める」は、丹田が膨らむイメージを持っているので、脊椎の隙間を伸ばすことと矛盾していないと感じています。他の人がどう感じているかわかりませんが、松する意味の答えがすんなり出てこなかった理由はこの辺りにあるのではないでしょうか。

 

 

<私の疑問点>

➀松腰から始める、と言っても、松腰が必ずしも全身の松にはならないという点。

②松すると猫背になるとは? →虚霊頂勁、提会陰ができていない。前肩、胸が閉じてしまっている? 肋骨が下がる?

③丹田に気を集める・・・収縮→膨張?

 偽の丹田(拘束丹田)と真の丹田

 

 ②も③も土踏まずが上がっているか否かでチ簡単にェックできそう。

 (土踏まずを上げたままだと猫背にはなれない。土踏まずを上げたまま拘束丹田(動けない丹田)を作ることはできない。)

  土踏まずが上がっている=会陰が上がっている

  要は、会陰が引き上がっているか否かで道が分かれてしまう。

 

 

 

2018/5/9

 

今日のピアノレッスンでは、高速で和音を飛び飛びに弾く時に、音を出す前に自分の指が触れているのをいちいち確かめるように、と、音を出す直前に鍵盤の上で手を止める練習を随分やらされました。一秒間に左右交互に飛び飛びで4個から6個の和音を弾くだけでも難しいのに、一つの和音を鳴らす瞬間に指が正しく和音を掴んでるか鍵盤の上で確認しなければならないなんて・・・・。私はそれができていないから、行き当たりばったり、運に任せた演奏になるとのこと。

 

仏教の共一切心心所、どんな心にも絶対はいっている要素は

触→受→想→意志→一境性→命根→作意 と七つあったが、一つの情報が入るたびに瞬時(本当に信じられないくらいの瞬時!)にこれだけの作業は必ず行われている。(このサイトが簡潔にまとめている。http://abhidhammattha-sangaha.blogspot.jp/2016/03/blog-post_99.html)

本を読んでそれを知った時はそれなりに驚いたが、今日、まさかピアノのレッスンでそこを指摘されるとは思わなかった(ピアノの先生は仏教のそんな心の分析は知らないが、ピアニストなら絶対にやっている作業。)

 

先生の指摘は、つまり、私には 触→受 の意識が足りないということだと理解。

触受の隙間を開けようと演奏すると、腕、身体、手指の動きが更に俊敏になるから不思議。

とてもシャープな意識にならないとやってられない。シャープになって意識が拡くと時間が引き伸ばされたようになって1秒間の中でも余裕が生まれる。

ものすごい集中力が必要、けど、不可能ではない。

 

10分程先生と一緒に細かく割った練習をして、それから同じパッセージを弾くと、自分でも驚くほどの正確さと速さで弾けてしまった。

何で今こんなに弾けてるのか分からない?

と弾きながら驚いてそう言ったら、横から先生が「気合いでしょう。」と一言。

 

確かに、気合い

周身一家、どんなに手が鍵盤から離れても丹田が手指(先)までいつも繋がっていて、丹田がいつでも指を引っ張り戻せる状態。丹田が末端を引っ張り戻す、”合”の練習が足りなかったのが速さが出ない理由だった。テクニック的に難しい曲はどうしても”開”が多くなり、”合”の余裕がなくなる。・・・・ああ、太極拳と同じ。

合には丹田の吸引力がいる。

 

レッスンの最後、曲の出だしが乗れずに引き直したくなってしまうという私の癖について、先生からまたまた不思議な一言。

「最初から取り戻す練習をして下さい。」

何となく分かりそうで分からない、禅問答のよう。ただそれ(最初から取り戻せないこと)がピアノに限らず私自信の問題点であることは良く分かる。

 

ピアノ演奏は太極拳以上に神経を使う。

ピアニスト達はよくこんな練習を一日7時間も8時間もできるもんだ・・・・。尊敬。

 

 

2018/5/9

 

 松について。最近読んだ仏教関係の本で、引っかかる記述があった。

 死ぬ間際に苦しむ人と苦しまない人との違いはまだ生きたいと生に執着しているか否かの違い。

 さっと手放して、行ってきます!と行ける人は苦しまない。

 

 本当かどうかは自分が試してみるしかない、と思いながらも、ちょっと想像してみたりした。

 もう身体の寿命が来てボロボロになったところから自分が出ていこうとしている・・・家が火事になって逃げなければならない…そんな時に、やっぱり家や家の中にある物に未練があってうろうろしていたら、やはり痛手を負うだろう。あっさり手放さなければならない。良く言われる、レットゴー(let go)。

 

 ここで、あの、”松”が浮かんだ。

 ひょっとして、松も let go なのか?

 インドのグルについて本格的にヨガを学んでいる友人は一時期、そのlet goができないと悩んでいた。ヨガのどの部分でlet goが必要なのか、そう言えば、それも分からずに適当に話を聞いていた!

 

 手放す、中国語なら”放下”。放下→放松、とても近い意味。

 身体を手放す→身体の緊張を取る→全身の筋肉や内臓の働きなどに回っているエネルギーが中心に戻る=深く眠っているような身体の状態(だが意識はしっかりはっきり)。

 

 手放すの反対はしがみつくこと。

 ギュッと掴まない。ギュッと締めない。

 身体は軽く、風が抜けるようになるのが理想。

 心も軽く、いろんな出来事が通り抜けてしまって残らないのが理想。

 どんな時も松し続けられたら、俗世に塗れず透明人間のように生きていけるのかもしれない。

 

 まずは心の松から、ほっとする練習から、始めるとよさそう。

 これはいつでも気づいた時にできる。試してみよう。

 

 

 

 

2018/5/8

 

 『独り言』始めて1か月余り経ったが、このページと『練習メモ』の棲み分けが今一つはっきりしない。

 どうしよう・・・?としばしHPを弄って、差し当たり、独り言に書いた”練習メモ”のような内容は、適宜『練習メモ』に移していくことにしてみた。

 4月中の『独り言』内の”練習メモ”は既に『練習メモ』に移動した。

 

 移動させる作業をしている最中、ふと以前書いたメモが目に入った。

 あれ? まさに今、ある生徒さんとの間で問題になっている、「”松”と”脊椎の隙間を開ける”の関係」を解くカギが書かれている。 

 そこに私は「気沈丹田と脊椎の隙間が開く関係が疑問」と書いていた。

 ああ、松と気沈丹田と脊椎間の隙間、の三者の関係をまとめれば良い・・・なんか、これなら解けそう!

 けど、まだ真剣に解く気がしない・・・解ける時は、直前に解ける気がするから、そこで一気に頭を回転させればうまくいくのだけど、予感がしないのに一生懸命考えるとうまくいかない。あたかも便意を催していないのに無理やり頑張って時間を無駄にするような。

 もう少し寝かせる時間が必要なよう・・・

 

 松の定義、丹田の定義自体が問題になってきたようで怖い(苦笑)

 

 

 

 

2018/5/7

 明日からの1週間、どのクラスも48式の第22式から第25式までを練習することにしてみよう、と決めたばかり。
  48式、毎回平均3つずつ進めば、2ヶ月余り、本格的に暑くなる前に一通り習い終えられる。良いかも!
  が、初心者はどうするかなぁ?
  強制的に一緒にやらせるしかない....

  48式と併行して24式も毎回1式か2式、取り上げて練習しなければならない。
   24式は一つの式の内容が濃いから、一回で3つも進めない。24式がしっかりできれば(内功までできたら)、その後の48式も46式も、刀も剣も、内側は同じ、か、その応用。動作を覚えるのがそれほど難しくなくなる。

  そういえば....
  連休初めに初心者向けに24式の動作だけを教えられるだけ教えてみる、というクラスを開催してみた。
   24式の1式1式の動作と技の解説をして、一緒に動きを繰り返す。3時間半ノンストップでやって第15式まで漕ぎ着けた。生徒さんも明らかに飽和状態。もうこれ以上は無理、という感じだったのでそこでお開きにした。
   翌日師父にこのクラスの話をしたら、なんといつ無謀な....それじゃあ覚えられないだろう?と、驚いていたが、参加した生徒さんのうち、24式はちゃんと学んでいなかったが、丹田回しなどは一通り練習していた数人から、後日、24式の動作の時に丹田の回し方を一緒に教えてもらったら動作がすんなり覚えられた(腑に落ちた)、という感想をもらった。

  丹田の回し方、使い方、所謂内功は、いわば套路の動作の餡、アンコを作る。外側の動作は饅頭の皮。
  普通は皮を一通り作ってから、あとで一つ一つアンコを詰めていくのだが、私と一緒に先にアンコばかり作った人は、あとで皮を作る時に一緒にアンコを詰めてしまうと皮が作りやすくなるのかもしれない....いや、それは当たり前。アンコの動かし方が分かれば皮は自然に付いてくる、しかも、アンコの動かし方は原点から離れられないのである意味ワンパターン。

  私が46式を学んだ時は一回で15式以上一気に覚えさせられた。習った翌日には師父の前で一人でやって見せなければならなかったから、習ったその日寝る前も、ベッドの中で15式分の動きを再現していたが、それは丹田の気の動きのチェックだった。丹田の気をどう動かして良いか分からない箇所は、即ち、動作が再現できない場所。
  ...内から外、外から内、両方の練習の仕方があるが、どちらもやらなくてはならない。

   24式の中の一つの式を練習しながら、そこに詰まっているアンコの確認をすれば、実はいつもの内功(動功)、遂にはタントウ功に戻ってきてしまう。

   套路からタントウ功へ、そんな練習も可能。
   早速今週試してみよう。


2018/5/6

 

 久しぶりのクラス。

 息を通すのと気を通すのはどちらがやりやすいあ?

 と生徒さん達に聞いたら、はて?、という人と、息の方が遠いから難しい(気の方が簡単)という人がいた。

 息と気の関係はとても面白い。

 息を踵まで通せるはずはないのだけど、表現としては息を通せ、とかいう。本当は気だろう。

 息を通すつもりでやればそこそこ気はついてくる。でも全く同じかなぁ?

 少し落ち着いたらじっくり取り組んでみよう。

 去年の学会で呼吸について発表をしたが、息や呼吸をとらえるのは気を捉えるよりやっかい。すぐ見失う、か、不自然になってしまう。気を見るほうが安定する。なぜだろう・・・?

 いずれにしろ、息は絶対に止めてはいけない(当たり前?)

 

 以前見せたスパイダーマンのような片膝屈伸の姿勢からもう一方の脚へ重心移動するとき、思わず息を止めたりしていたら要注意。息を止めた瞬間に筋肉が収縮して潰れたソーセージのようになる。太極拳では筋肉を伸ばして使う。息を通さないと伸びない。パンチも然り。

 

 人によって脊椎と脊椎の間の隙間の大きさはどのくらい違うのだろう?

 胴長さんと胴短さん。胴短さんは足長に見えてかっこよいのでや?と思ったけど、腰椎間の隙間が狭いと腰を痛めやすいという欠点がある。本当は伸びたり縮んだり、隙間の大きさが変化できると良いのだけど・・・弾力性!

 

 ゴム人間のような女性がたまにいる。どこまでも開く・・・けど、関節が回っていない。

 ヨガをやっていた人の中に、ゴム人間のように柔らかくなったけど腰痛が酷い、という例があったが、筋ばかり伸ばして関節を回して使っていない(骨の運動がない)と弛緩した筋になってしまう。弛緩したゴムを縮めるのは縮んだゴムを伸ばすよりやっかいかもしれない(男性にはあまり例がない)。伸びすぎだ場合は大概、丹田の合ができていない。いつも丹田に気を集約するように気を付けないと、特に女性の身体は開きに開いてしまう傾向がある。

2018/5/5

景福宮。ソウルにある5つの宮殿の中で最大規模。
日本で言えば政治機能のある皇居。中国の故宮、かな。
元は20万坪、今は12万坪。日本統治時代に9割方の建物が破壊されてしまったが、現在復旧作業が進んでいる。あと30年、一度壊したものを戻すのは大変。

 

例によって王様しか通ってはいけない道。王様は籠で通る。堂々とそこと通っていた私達は、当時なら鞭打ち80回の刑だと!

 

 王様は真ん中の道を籠で通る。王は神だから土は踏まない。

 南の門から入って、東には文官、西には武官が整列する。

 

 南の門から入って、東には文官、西には武官が整列する。あわせて両班。

 文官の方が位が高い。常に文が武を制し、一度も武よる統治を許さなかった国も珍しい。

 官吏になる試験は中国の科挙並みに難しく、それは生涯の地位を保証する”登竜門”とされた。

下の掛け軸は、大きな魚が流れに逆らって飛び上がり龍に変身する様子を描いている。登竜門の意味、初めて知った。

 真ん中は武官、右は文官の正装。

 

 

 王様の執務室や寝室やなんやかんやと沢山の部屋があったが、覚えているのは王様は長生きしなかった、というガイドの言葉。

 王様は神様。土を踏まない、歩かない。移動は全て籠。食事は肉中心。ルールに縛られた生活にストレスいっぱい。平均寿命は40代だった。

 

 
どの建物の隅っこにも野獣、十二支。
屋根の角に並ぶのは西遊記のキャラ。馬に乗る三蔵法師が先頭、そして孫悟空、沙悟浄、猪八戒....
何故西遊記?

 

 民族博物館にて。

 経絡人形。時代物。生徒さんの中にこのお土産が欲しいという人がいた(笑)

 

 韓国では今でも最も優秀な人は漢方医になるとか。

 

 

 

こちらに来てからずっと気になっていたこと。空気中に白いホコリ?が浮遊している。

ここでは粉雪のように舞って、池に落ちて浮かんでいた。

ガイドさんに聞いたらタンポポだそう。

町中タンポポの綿毛が舞ってるなんて...

2018/5/4
今日の午前は宗廟に行った。歴代の王を祀っている。

メモ後で?
2018/5/3

今日の目的地はソウル郊外にある韓国民俗村。
電車に乗るのに一苦労。行き先ハングルとローマ字表記だけだと迷う迷う。地下鉄とタクシーを乗り継いでなんとか現地に到着。
風が吹いて寒すぎる。最近の東京は暖かかったからその調子で服を持って来たら大失敗。

民俗村、もっと賑わってると思ったら、ひとすくない。寂れてる。季節外れか?寒くて静けさを今ひとつ味わえず。

中に入るとやたら子供が多い。
遠足かなぁ。韓国の子供達の頭蓋骨の丸さが目立つ。絶壁がいない。そういえば奈良で見た頭と似ている。渡来人....やはり繋がってる?
私達は一目散に一番奥のフードコートを目指した。
あれっ、屋外で食べるの? 寒い!
その後、韓国ドラマのロケ地があったり、まさに撮影中の現場にも出くわした。
が、その先にある両班による刑罰の再現場所を通ったら、中で子供達が刑罰ごっこをやっていてびっくり。一瞬心が冷やっと止まりそうになる。よく見たらやられていたのは弱そうな子、やっていたのは悪ガキ風。
良いのかなぁ? こんな風に気軽に遊ばせて....?
刑罰体験実習?日本ならやらないだろう。

日本の韓国併合まで実際にこんな残酷な刑罰がなされていたという。北朝鮮ではまだなされているという。人間の残酷な心を根こそぎ無くすにはかなりの時間がかかるのかもしれない。
なんだか複雑な気持ち....と進んだら、少し離れた場所に馬が見えた。数頭、大人しく立っている。
行かなきゃ!
管理している人もいないし、周りに誰もいないし、一人で数頭の馬と対話できる機会なんて私には殆どあり得ない。
馬ちゃ〜ん♪ 大丈夫だよ〜♪と心の中で呟きながら近寄っていく。
皆、妙に静か。
馬は優しい、と聞いていたけど、目を見たら、ずっと動かない。猫とは全く違う。うちの老犬の目をさらに沈ませたようだ。少し憂いが入ってる。
が、本当に動かない。
私が一頭の前にしゃがみ込んだらゆっくり他の馬も寄って来た。馬にじっと見られてる....ああ、ほんとに静か(そればかり)。落ち着く、気が丹田に戻る。自然はこんなに静か。それを基準にすると人間は狂ってる。
ずっとここで馬と一緒に居たかったけど、そうともいかず。お別れしてちょっと歩いたら牛がいた。牛の内側は馬ほど静かでなさそうだ....。

民俗村....馬との初対面! これが一番の収穫。

2018/5/3

 

昨夜真夜中にソウル到着。

日が変わる頃、私が一番長く教えている弟子から回答のメールが来た。

完璧!良かった、ちゃんと伝わっている。

彼は練習時間も長いし、自分の身体の問題点をよく観察していて試行錯誤を続けている。だから松と丹田の関係もとてもクリアに捉えられているのだろう。

 

松しなければ丹田に気が集まらない。

 

言われればとても簡単、単純なこと。

その単純なことに、はっと気づく時に、ああ、だからそう言うのか・・・と感動する。

そこが頭だけの理解と腑に落ちた理解。

きっと悩まないと腑に落ちない。

(弟子のメールはそのうちLINE仲間の方に紹介します。)

5/2  その後....

下の③の問いを試しにLINEで皆に聞いたら....予想しなかった展開。
要は、「なぜ太極拳ではまず松をしなければならないのか?」という問いにどう答えるのかの話。
『太極拳は松に始まり松に終わる』は馬虹老師の有名な言葉、馮老師はまずは『松腰』(腰を緩める)と言っていた。
あまりにも正解がでないので、不安になって師父に連絡とって意見を聞いたら、生徒さん達に核心を突け!というのは酷だとの話。核心の周辺をウロウロしてる....誰か一人くらいは答えられそうだけど(苦笑)  

2018/5/2

 

午前中ビデオレッスンをしたらまた面白いことを発見してしまった。(昨日の技の話は飛んでしまいそう)

 

忘れないうちにメモ

 

➀自分でストレッチをしていて筋を傷めたという生徒さん。

やり方みせてもらってびっくり。ああ、こうやるんだ・・・。私は怖くてやれない。

ある関節を”折って”そこから筋を伸ばしていくと、筋肉の末端の筋だけが引っ張られ、無理に引っ張ると痛めてしまう。所謂”スジを傷めた”状態。

太極拳的動きを正確にやっていれば(丹田の気を意識してストレッチをすれば)筋を傷めるはずはない。ストレッチだと思って油断した?

 

と、生徒さんにストレッチの仕方を直してあげたら、すぐに納得してくれた。

日常生活に応用できないような動きは練習しても仕方がない、というのが私の持論。

 

<太極拳的にストレッチをすると自動的に”全ての関節”を稼働させるので(隙間を開けている:丹田の気のおかげ)、ある特定の関節だけを折ることはない。

 どんな末端の関節でも、その関節を曲げる時は必ずそこに円運動(自転運動)が入っていて、それがジャラジャラと脊椎関節につながってしまう。(実は丹田に気を溜めて回転させると関節がつながってしまう。丹田開(爆発)→骨と骨の隙間=関節を開く→関節が回りやすくなる):このあたりは別途説明が必要>

 

②その生徒さんは地方で××△△連盟とかいうところの先生に太極拳を学んでいるが、そこの先生の説明を聞くととても細かいところまで行き届いていて、なるほど、と納得させられることばかり。しかし唯一”気”とか”丹田”の話はしない。

結局は丹田の気に注意してやれば、すべての要領が解決する。

数学で原理を知らずに、それぞれの問題をバラバラに解いているようで、大変だなぁ、と思う。

覚えることが多過ぎる。

結局、丹田に気を集めたり、丹田から気を発したり、それに尽きてしまうのが、私にとっても不思議。エネルギーをどう運用するか。それが分かれば身体は勝手に動く。

 

③触られたところの力を抜く、という練習があるのを知った。その連盟の先生が基本練習としてやっているとのこと。確かにそれで真っ直ぐ立つ練習はできる。

・・・・けど、、で、それで終わり??

面白いのはそこから。

抜いた力はどこに行くのか・・・?

それこそまさに松の原理。松は何のためにしているのか?松は松のためにしているわけではない・・・それがはっきり実感できていないといつまでたっても太極拳に”入門”できない。(私の生徒さんなら分かるはずだけど・・・大丈夫かしら?)

 

 

 

 

2018/5/2

 

昨日書いて消えたのは確か技のこと・・・。

思い出して大事だったら後で書こう。

2018/5/1 

朝公園に着いてから師父に昨日のクラスの報告。第15式まで3時間半かけて一気にやった、と言ったら、それは長過ぎだろう?覚えられないだろう? と一言。
昨日のクラスに出た生徒さんが今日も練習に来ていたが、家に帰ったら8割方忘れてた、と言っていた。思い出せなくてもまた一緒にやれば脳か身体にほんのり残っている記憶が蘇って少しは思い出すだろう。反復あるのみ。
昨日のクラスに出た生徒さん数人から個別にメールをもらったが、実は、覚えるつもりで参加した生徒さんよりも、もう一通りは覚えているのだけど一緒に練習をしてみたい、と参加した生徒さんの方が収穫が大きかったようだ。
(この続き書いたもの、保存されてなかった・・・苦笑)

2018/5/1


昨日は初めて套路解説オンリーのクラスを開いた。主に初心者を集めて24式を進めるだけ進む。


昔は生徒さんの数が少なかったから、一人一人進度に合わせて24式を毎回一つ教えていた。私も劉師父からそのように学んだ。一つの式の動作を教わり、その中に含まれる技を説明してもらい、その後は一人で放っておかれて覚えるまで反復する。

このように毎週進めば24式は半年で覚えることになる。


練習は毎回タントウ功1時間、動功30分程度、その後に24式のそれまで習ったところを見せて直してもらう。それから新しい式を一つ学び反復練習する。ここまでやると最低3時間はかかる。

覚えが遅いフランス人の生徒さんは、第一式を覚えるのに1時間くらい師父に放って置かれて一人で練習していた。私は見ていて可哀想な気持ちがしたが、師父は知らん顔して自分の練習をしていた。(が、それだけ根性のある人は、のちに48式、46式、刀、推手、全てこなすようになった。)


半年経って24式を一通り一人でできるようになると、そこからは内側の練習に入る。伝統的にはこの辺りで師父は生徒さんをそのまま生徒さんにするか弟子にするか決めるという。最低半年の"観察期間"を設けると師父は言っていた。

弟子になれば教わり方が全く変わる。

生徒さんには、よくできた、と褒めても弟子を褒めることは滅多にない。要求も厳しくなる。

ある期間、私は毎日24式を20回やることを命じられて、正の字を書きながら毎日やっていたが、次の練習で見てもらって時に、前よりも下手になっている、言った通り練習してこなかっただろう、と言われ、心の中で、必死にやったのに....、と思いながら悔し涙が出そうになったこともあった。その後、師父はノルマを10回に減らしてくれた。今振り返れば、あれはとても良い思い出。


今私はマンツーマンで生徒さんを指導してあげられないから、付いて来られる人だけが残る、そんな自然淘汰の練習になっている。もう少し初心者に優しくしなければならないけど、なかなかうまくいかない。葛藤がある。


昨日の特別クラスは一人の生徒さんの提案によるもので、内側(気)を話さず動作と技だけ、ということで進めるだけ進んだ。

3時間半ノンストップ、私は動きながら喋り続けて、第15式まで取り敢えず終了。

途中、生徒さん達付いて来られるか?と心配だったけど、どうにかなったよう。覚える時間を取ってあげられなかっけど、後は普段の練習で定着させれば良いと思う。

いずれにしろ、毎日やらないと覚えない。教える側と教わる側の共同作業。

2018/4/27

 加山又造展に行った。
 強烈で奇抜なアーティスト?とイメージして行ったが、実際に作品に接したら、強い線の下にとても繊細な優しさが拡がっているのが感じられて思いの外心が安らいだ。
 又造さんのお孫さんによるガイドツアーに参加できたのも良かった。
 又造が常に新しい技法を開拓していたこと、決して現在に留まらない模索を続けていたこと等、具体的な説明があるとストーリーが浮かぶ。ストーリー浮かぶと本人の気持ちが分かるような気がして、そのとたん、絵と自分がつながる。説明なしで傍観者として観た時とは全く違う絵になるから不思議だなぁ、と思った。
 後々考えると、推手での感覚と似ている。。
 相手を推すつもりで推手をした場合、自分の相手に向かう力しか見えないから相手を感じることは出来ない。一方、相手に対抗せず合わせようとした場合、相手の気(エネルギー)を聴いてそれに応じて自分の気(エネルギー)をコントロールすることになる。即ち、相手を感じることで自分を知ることになる(『知彼知己』)。
 
 絵を見る場合に当てはめれば、眼が絵を推すように見ると、気持ち(感情エネルギー)は同調せず、絵はいつまでも他者。すると見方は批評家のようになるだろう。逆に、もし絵に自分を合わせようと眼を引いて(”内収")見るならば、アドバイスはできても批判、批評がはできなくなるだろう(気が同調すると交わってしまって(eg.混元の気)、自分と他者の区別が消える。)
 そして絵画観賞に置いて画家のストーリーを知ることは、少なくとも私の場合、その人の気持ちに同調する大きな手助けになる。(小説はまさにストーリー!)
 
 説明された種々の技法は具体的に想像できないものも多かったが、クジャクの羽やゴム等いろいろな材料を駆使し、色を重ねるにも紙を貼ったり剥がしたり、吹き付けたり、なぞったり、聞いているだけで気の遠くなるような手間がかかっていることは良く分かった。
 
 「要は”どれだけ手間をかけたか”、それが一流かそうでないかの違い」とどこかで聞いた(けどどこだったのだろう?)。
 実際、又造の手間のかけ方は半端ないのだけれども、説明を聞かなければそんなことは分からない。分かるのは、ただ、理由の分からない、どこから来るか分からない凄み。
 
・・・と、私の愛読書の『スワン』の中にこんなセリフがあったのを思い出した。
 マーゴット・フォンティーンが真澄に言う言葉。
 『真澄、際立ったテクニックを見せるには大変な努力がいりますが、それを隠すにはもっと大きな努力が必要です』
 『そして、テクニックはみせるものではなく、あくまで芸術性をつみあげるための土台としなければなりません。』
 まさにその通り!(太極拳では陳項先生の動きがそうだと思う。)
  
 もともと西陣織の職人の家に生まれたことが大きく影響しているのだろう。絵画に工芸が入り込んでいる。根っこが職人。極めて写実的なのにデザイン性が高い。
 展覧会最後の目玉、龍の天井画を又造さんが制作する姿を撮影したものを見ることができたが、工事現場で働いているのかと思うほどの肉体労働。左官屋さんも顔負け。ずっとしゃがんだり中腰....練習でしゃがむの苦手な人がいるけど、この仕事は身体が柔らかくないとできない、と思った。全身で描く!これも手間暇。
 
 
 内省的な又造。ある時その対極ともいえる横山操に出会って作風が一変する。それまで内側に秘め集約していたものを一気に外向きに開花させる。(内省的な表現の一作品が上のカラスの絵。)
 この二人がどれだけ仲が良かったか...大柄の横山と小柄な又造、二人が並んで歩いている写真を見れば二人の心の躍動が感じられる。一緒にいるだけで嬉しかったのが分かる。こちらまで嬉しくなってしまう。
 その後、横山が先に亡くなりしばらく筆が取れなかった又造が一週間で描き上げたという『満月光』。横山の『炎炎桜島』を思い出させる山の裾にレクイエムとしての輝く繊細な草花。又造の典型的な細い線の表現。泣けてきそうだったのは私だけではないだろう。
 
 13歳で描いたという狐も凄かった。
 ここに彼の生涯にわたる気迫が凝縮して込められているようだった。。
 お孫さんの解説によると、又造は、もし自分のような筆の技術を習得したければ18歳で始めるのは遅すぎる、12歳から15歳のうちには完成されていなければならない、と言ったとか。
ということは10歳にならないうちに"描きたい"という衝動がなければならないということかしら?
私のように30になっても何をしたいのか分からない、という人だって多いのに、なんて違いだ!
 又造のどの絵にも見られる細く強い線。これは彼の人生を貫く線、いや彼自身を表す線なのかもしれない。

2018/4/26

 

 お義父さんのお見舞い。随分弱ってきた。人間水だけでどれだけもつのだろうか?

 意識ははっきりしている。何かしゃべりたそうだけど声が出ない。

 お義母さんはどうにかして少しでも長く・・・とそれだけを考えて悩みは尽きない。

 どうしようもないことはどうしようもない。

 

 夫婦が50年も一緒に生活すると気が交わってその境界線がわからなくなると聞いたことがある。片割れが逝ってしまうということは自分の一部が引き剥がされてなくなってしまうに等しいらしい。

 正直言って、お義母さんのお義父さんに対する気持ちと、息子たちの父親に対する気持ちには温度差もあるし色合いも違う。お義母さんの想いには執着ががるのが外から見ると良く分かる。でもそれも仕方がない・・・と、ヨガのグルが言っていた上のようなお話をしたら、お義母さんは本当にそうなのよ、と涙ぐんでいた。

 自分が自分の一部であるように深く愛した人、動物、植物、が逝ってしまうのは心が引き裂かれるように辛い。自分が逝ってしまうより辛いのではないかと思ったりする。

 生きながら死んでいっていることがはっきり分かれば、死にまつわる混乱はなくなるのかもしれない。

 

 死はまだ曖昧。はっきりさせていくような道を進みたい。

2018/4/23 夜

 

 動物能から高度な人間能への転換、というのは太極拳固有の話ではない。覚醒へと向かう人間の意識の発展への道。

 太極拳やヨガでもまだ身体を主に使う段階では、意(will)→気(energy)→力(power)の流れをしっかり意識できるように練習をする。

 意、気、力、この3つがしっかり区別して見ることができる(意識できる)、その間の隙間が見られるようになるのが第2身体と言われる気の身体(エーテル体)を扱う気功や太極拳の目標。

 過去の生徒さんとの練習では、意が届いても気が届いていない状態、意と気が届いても力にしていない状態、意を通さずに力を出した場合、など、様々な状態を意識的に作ってみたりして、その3つの違いを分かるようにしようとしたこともあった。最近は丹田の気を大きめに膨らましておいてそれを身体よりも先に動かすことで、エーテル体がフィジカル体を連れていく感覚を掴ませようとしていた。これを知ると、同じ太極拳でも、フィジカル体だけで動いているものと、気で動いているものの差がはっきり分かるようになるし、自分でも2種類の動きをできるようになる。

 ラジオ体操は専らフィジカル体の動きで行うが、これを気の身体が先導するように行うと全く違った趣になる。と、これを推し進めると、同じピアノ演奏でもフィジカル体でやっているものと、内側の気の動きで行っているものと、それまで見えてしまう。外だけの絵と内側から描いている絵。要は、その作り手、動き手であるその人自身がどれだけ自分の内側を開発しているか、その違い。

 

 私自身は、意、上丹田の使い方の練習をし出した頃から、套路をしながら、はて?この意はどこからくるのだろう?とそんな疑問がずっとあった。経典をみてもそのあたりは詳しく書かれていない。ただ、この太極拳が”心意”混元太極拳、というから、心と意の関係が分かればはっきりするはず、とそのあたりをヨガの経典の方で探ったこともあったが、これを辿っていくと第5身体まで行かなければならなくなる。通常の太極拳の範疇を優に超えるところに、これからどう進んでよいのか分からず立ち止まってしまった。

 そもそも2年近く前に愛猫が急に癌で亡くなった時から、通常私達の考える”太極拳”の限界を感じ始めていた。太極拳はどうやって元気になるかパワーを得るか、に焦点を当てている。どうやって死ぬか、死に対する指針が得られない(分からない)。死まで範疇に入れるならヨガやその支流からくる仏教に足を突っ込まなければならない。逆に言えば、死を堂々と見つめて死に向かって生きていくならそちらを学ぶべきだろう・・・結局死が怖くなければ他に何も恐れるものはないのだから・・・と、お寺の座禅会などにも行き出したのは昨年の話。

 その後、やはり学ぶならお釈迦様本来の教えをそのまま説いているところ、と昔の縁を辿って信頼できる僧侶のところに赴き、法話を聞いたりするようになった。厳しいなぁ~、これじゃあ、人生何をやっても意味がない・・・と最初暫くはげんなりしていたが、少し進んで行くと、あれっ?思っていたほど暗くない、いや、きっと進めば進むほど明るく楽しくなりそうな予感。

 やっと本格的にテキストを読みだしたらこれまた難しいのだけど、”心”についての分析は、さすが仏教!、太極拳にはあり得ない細かさと緻密さ。推手で手を合わせている間、これだけの心の動きがあったのか・・・と半ば感動してしまった。実際、ここまで心の中の動きの変化を見られたら瞑想もし易いし深まるだろう。

 本を読みっぱなしでは頭に残らない。ノートをとらなきゃだめだ・・・学生時代に戻れ!

 

 

2018/4/23

 

 昔から母親には片付けしなさい!そればかり注意されてきたけれど、結局身につかず。上京中の母も、「あんなに煩く躾けたつもりなのになぜだろう?」と首を捻る。私は「片付けよりもやりたいことがあるからじゃないかなぁ。」と適当に逃げようとしたけれど、横から娘が、「ママは頭の中がぐじゃぐじゃだから片付けもできないよ。」と一言。えっ?と彼女を見たら、「ママは天才肌だから。」と、一瞬、褒められてるのかけなされてるのか分からないから反応のしようがない。確かに一番ぐじゃぐじゃなのは部屋ではなく頭の中・・・。頭の中を整理すれば片付けもできるようになるかもしれない・・・と夜中にまた片付け本を注文してしまい、更に手を広げてしまった。いろんな種類の読むべき本、いや読みたい本がいっぱいある。宇宙は膨張時期というけれど、それと同調しているのかしら?宇宙の収縮期に入れば私は嫌でも断捨離するだろう・・・宇宙のミニチュア版としての個人の膨張期、収縮期というものもある。(日本は収縮期の人の比率が増えたから断捨離の類が流行った?いや、古来、お片付けが好きな民族?私には分かりません。)

 

 英語でベビーシッターをしている娘が言っていたが、子供は片付けをしない!散らかすのみ。だから、お片付けの歌を歌いながら片付けを教えなければならないという。そういえば犬や猫、動物は片付けをしない。動物的本能には片付けはインプットされていない。使ったものを元の位置に戻すなんて非自然的なことは自然界にはないのではないか?前進あるのみで元には戻らない。元にもどったように見えてももうワンラウンド回っているからステージが変わってしまう。

 使ったものを毎回新しい場所に置いて(置きっぱなしにして)いくと、生活が神経衰弱ゲームのようになる。前回どこで使ってどこに置いたのか、記憶を辿ったり、探し出せなければどこかで諦め代用品を考えなければならない。家から出る前にどれだけ頭と体を使わなければならないか分からない。ちょっとチャレンジングでエキサイティング。けど、ふと、何で毎日こんなに余計なことをしなければならないのか?と冷静になることもある。

 

 動物の本能的な反応を高度な人間的反応に変換していくのが太極拳の練習。

 腕を掴まれたら反射的に腕に力が入るところを、反対に力を抜かなければならない、等、反射的に起る肉体的反応を意でコントロールして智恵に基づいた反応に変え、それを無意識でできるところまで躾けていく。

 としたら、私はもっとまじめに片付けに取り組むべきではないか?

 本能に任せていてはだめなのではないか?

 それを修行と思えばできないこともないのかもしれない。

 が、その前に、やはり、”心意混元太極拳”の”心”と”意”の関係を知りたい!それが分かったら、きっと心と意を使って片付けができるはず!、とやはり片付けは後回しにして仏教の心理学本を読もうと、ああ、また手を広げてしまった。片付けはまだまだまだまだ先になりそう。

 

 

 

2018/4/21

今日は上京中の母親と娘と一緒に東京都庭園美術館に行ってきた。

アールデコ・リヴァイバル。旧朝香宮邸の公開と同時に鹿島茂さんのフランス絵本の膨大なコレクションが見られる。

アールヌーボーとアール・デコ

なんとなくしか分かっていないその違い知るには良い機会、と懐かしい白金!(大学女子寮は白金にあった)に赴いた。ちゃんとオーディオ説明も聞こうね、とフランス好きの母親と娘にも促して邸宅の観覧スタート。いつのまにか3人バラバラになってしまったけど、最後カフェに集結した時は、各々、うん、これでアールデコは大体分かった、と満足げ。じゃあ、アール・ヌーヴォーは?とアール・デコとの比較で理解を深めようとしたのでした。


頭の中でざっくり整理。

アール・ヌーヴォーは19世紀末から第一次世界大戦前。1900年万博前後。世紀末、手の込んだ、曲線、有機的、エレガントで装飾的。クリムト、ミュシャ、エミールガレ、ルネラリック....

アール・デコは第一次世界大戦から第二次世界大戦の間。1925年万博前後。工業化、大量生産、直線的、無機的、機能的、シンプル.... 就職活動で資生堂を回ったのは、私の中での資生堂のイメージがまさにこのアールデコだったからだと今になって気づいた。私の好きな昔の上海のイメージもそのあたりからか?娘はギャツビーを連想していた。


 家に戻ってから、改めてアール・ヌーヴォーとアール・デコの比較。

ふーん....と見てたら、あれっ?
アール・ヌーヴォーは民間派、伝統的な陳式太極拳、アール・デコは大学派、国家に制定された大衆に出回った太極拳....
曲線VS直線 だけでなく、いろんな意味で、確かにそうでは? 大衆化する際に欠かせない要素、削ぎ落とさなければならない要素、太極拳でも同じだ。面白い!

2018/4/19

   ここしばらく勉強と実験も兼ねて整骨院に通っている。整体やら接骨やらそして整骨やらと、その区別が良く分かっていなかったが、ある時、私の娘がどうしようもないくらいの酷い肩凝りと腰痛に我慢できなくなって口コミを頼りに駆け込んだ場所が整骨院。そして驚くことにただ一回の施術でものの見事に彼女の肩こり腰痛を治してしまった。一体何をしたのか、と不思議でたまらない私が尋ねると、骨をポキポキやって調整してくれたと言う。骨が正しい位置になかったから神経が圧迫されて痛かったみたい、と娘は大したことでもなさそうに話したが、お風呂から出てきた彼女を見たら、立ち姿が昨日の彼女とは別人になっている。肩の位置、胸の位置、お尻の位置が変わり、太もも裏のセルライトも目立たない。美しい立ち姿になっていた。骨格を調整するとこうなるのか・・・と、初めて整骨なるものが何かと知った。
   
 となると、私も行かなければならない!
 特段何か大きな問題はなかったが、取り敢えず試してみたい、と衝動にかられ直ぐに予約をして行ってみた。
   診てもらうと私の骨盤は右側が少し上がっていて、その上がった分、バランスを取るために背骨が左カーブを取って左肩上がりになり、右側側面が縮んでいるとのことだった。なるほど、だから右腰、右股関節が使い辛くて膝に負担がかかるのか・・・と合点がいった。
   施術は一回ではなく、何度も通う必要があるとのこと。娘は一回だったのになぜ?と思ったが、説明によると、骨を正しい位置に調整しても、そのうち筋肉が長年の癖で骨をまた元の位置に引っ張ってしまうので筋肉が骨の正しい位置を覚えるまで何度か施術を繰り返す必要があるとのことだった。娘の場合は20歳というバラ色の年齢だから筋肉の癖がそれほど頑固でない。私の年齢ではそうはいかない・・・と悔しいけれども納得。(更に歳を取ると骨をパキパキする治療自体危なくてできなくなるとのことだった。)
   せっかくお金を払っているのだから、得られるものは全て得ようと、施術中、どの筋肉どの骨をどのように調整しようとしているのか、できるだけ説明してもらうようにした。そして、骨格調整をしてもらったら、その場でその位置を身体に覚えこませて、太極拳の練習中もその部分を正しい位置で使うように注意深く動くようにした。そのうち、骨盤という身体の中心部分を正しい位置に持って行くことで、足指、手指の使い勝手まで変わってきた。それは趣味のピアノの演奏に大きな影響を及ぼした。気が付いたら、去年なら弾けなかったかもしれないリストの難曲が、思ったほど負担なく弾けるようになっていた。足指先まで勁が通ると手指先まで勁が通るのも身をもって理解できた。(注:指先、第一関節が覚醒するということ。爪に気が通る、とほぼ同義。私の観察では、一般的には大人の指は第二関節までしか覚醒していない。第一関節が覚醒している人は少し特別な感じ。・・・太極拳のレベルは手、指をみれば分かるというのは本当だと思う。)
  今日は鍼灸師に針をしてもらった(整骨院には複数の鍼灸師がいる)。腎兪、大腸兪、環跳穴なのどに得気の針を打ってもらいながら、中医学の話をしていた。私の中医学の知識は専ら中国のテレビ教育番組と太極拳の練習から得たものだが、私の知識がかなりマニアックなので鍼灸師の先生は私が一体どこでそれらを学んだのか不思議そうにしていた。「太極拳って、あの、ゆっくり動くやすですよね。そんなに深いんですか?」とよく理解できないよう。帰り際には「いろいろ勉強になりました。今度良い本があったら紹介して下さい。」と言われたが・・。
 それにしてもここの若い先生方はとても爽やか。いつも賑わっていて笑いが耐えない。患者さんにはおじいちゃんおばあちゃんもいれば、赤ちゃん連れの若いママもいる。今日も赤ちゃんが施術を受けているママの横でギャーギャー泣いていたが、そこに来ていたおばあちゃんがそれを何とも楽しそうに話しかけながら、可愛い可愛い、とあやしていた。「赤ん坊は陽気の塊。火の玉ですねぇ~。」と遠くから鍼灸の先生が一言。院内が一家族のように機能している。先生達は皆勉強熱心でどんな質問しても嫌な顔せず一生懸命答えてくれる。初々しい。そして、なんと言ってもここは大阪弁!!
  実はこの整骨院は大阪から進出してきて間もない。院内では関西弁が飛び交って、ここは大阪か?と思ってしまう。横浜出身の先生が大阪弁で喋っていたりするが、それは四六時中周りで大阪弁を喋られていてうつってしまったためと言う。大阪弁の感染力、恐るべし!と笑っていた。
 最初はラーメン屋で施術を受けているようで、少し静かにしてほしいと煩わしく思ったりしたが、そのうちその活気の良さが心地良くなってしまった。吉本興業に入っていてもおかしくなさそうな先生もいるし、そこでいるだけで楽しい。針を刺してもらっても楽しい♪ ・・・老若男女の集い笑う理想的な憩いの治療院・・・いや、これも大阪のノリなんだろうか? 私にとっては異次元の空間。普段は生徒さん達に気を与える役割を担うことが多いが、患者としてそこに行くと若い先生達のエネルギーを頂けるようだ。エネルギーは循環する・・・・。
 整骨院通い、当初の目的以上のものが得られているようで、ラッキ~。

2018/4/18

  1.  お昼、お気に入りの横浜駅の蕎麦屋に出て行って、さあ食べよう!としたその時、私の真っ青な服にこれまた色鮮やかな緑色の青虫がくっついてた。うわっ、と、思わず振り払った後で、はて、どうして? とやっと頭が動き出す。
 ああ、きっと家からくっついて来たんだ....そう言えば昨日は家の中に一瞬アナゴかと思うような大きなトカゲようなものが迷い込んで来て、猫のミーは大興奮していた。せっかく拾って飼い猫にしたのに獲物がいると完全に野生動物と化してしまう。
  いつの間にか庭は草茫々・・・私は草茫々は好きなのだけど、今週末尋ねてくる母親は許せないだろう。夕方になって鶯の声が驚くほど近くで聞こえたので慌てて庭に出たら、縁側で周囲を注意深く見守りながら座っているミーがいた。
 私には見えない鳥やら虫やらを感じ取っていたに違いない・・・青虫はそこにいたのか?
 蕎麦を食べながら床をモゾモゾ這っている青虫をチラチラ見る。
 一生懸命這ってるけど、これじゃあ私達が砂漠の真ん中にポトンと落とされたのと同じ。這っても這ってもどこにも行きつかない。そのうち立ち食いのおっちゃんに踏まれてしまうか、靴の隙間にうまく入って潰されずに済んだとしても永遠に食べ物にはありつけない・・・。
 次第に彼やら彼女の生命の鍵を握っているのは私?と、責任重大、心臓がぱくぱくしてきた。とりあえず蕎麦を食べてしまおう、それから考える。いや、その前に、と、ティッシュで彼をくるんで拾いあげ、テーブルの下の物置に置いておいた。
 
  蕎麦を食べてるけど、頭の中は、さてこの子をどこに連れて行けば良いものか、と高速回転。青虫が生き延びれそうな場所....横浜駅周辺の風景をぐるっと思い浮かべる。西口東口はダメ....あー、北口!
  そこからティッシュを掴んで北口を出たところの花壇に向かう。ここならどうにかなる、という場所があった。ティッシュを広げたら青虫は丸まっていたけど、土の上に置いたらすぐに伸びて元気にくねり出した。ああ、良かった....
 それにしても以前の私ならここまでやらないなぁ、と自分でもおかしな気がする。
   確かに数年前から、ハエや蚊、ゴキブリなど好きでない虫でも、一匹一匹一生懸命生きてるのが見えてしまうようになり、それまでと同じ対応はとれなくなってしまった。なんだか面倒くさいことになってしまったなぁ、これも太極拳効果なのだろうか?と、師父や馮志強老師のことを思い浮かべたこともあった。
   が、今回の自分はそれよりも更に肯定的で積極的。慈しみまで感じてしまっている!・・・と、その理由が直ぐに浮かんだ。
  これはルドン効果!
 
  ルドンの自伝を読んでいたら、その中に、彼に多大な影響を与えた植物学者の友人が、”顕微鏡で見る小さな生命にも憐れみを感じていた”、という記述があった。私はそれを読みながら、顕微鏡で微生物を見ながらその儚い生命を哀れんで涙を流している科学者....泣きながら研究している科学者!なんて想像してしまったものだから、えらく心の奥の方に染み込んでしまった。今日の青虫に対する私の対応は絶対にその影響に違いない。
 
  全ては因果法則....と仏教の教えは言うけれど、こんなにダイレクトな因果関係だと単純過ぎて恥ずかしいくらいだけど、にしても良い気持ちがしたのは本当に良かった。
  こういう良い気持ちは長続きすると・・・これはS長老が言ってたなぁ。

 

 

2018/4/17 夜

ルドンの『私自身に』を少しずつ読んでいる。
言葉の一つ一つが美と愛に溢れてる....本当にそう思う。
言葉が花のように匂うのはやはり彼がそういう感性を持った芸術家だから。
とても優しい人....。

パリで美術学校である教師のクラスで学んだ時のくだり。

....私には動悸を打っているとしか見えない人体を、彼は(教師は)輪郭の中にとじこめるよう私に命令しました。  
....私にはどうしても、その強制に福することができなかったのです。形をとりまく輪郭は一つの抽象です。私はただ影を感じ、明らかな浮き上がりしか感じないのです。....

ルドン、エーテル体(かその先)見てたなぁ〜。

....彼の意志的な眼は、私の眼が見るものの前には閉じられていたのです。....

教師はフィジカル体を見てる。

....我々二つの魂の間の距離に比べれば、視覚の世界で二千年の間に起こった見方の進化、変化は、いうに足りないものでした。....

フィジカル体見てる人とエーテル体(以上)を見てる人の距離はそれほど遠い。

太極拳の練習、丹田を先に動かして身体を乗せていく練習をし出してから、気の身体(エーテル体)が先に動く感覚か得られるようになってきた。そうしたら初めてエーテル体の存在が意識できるようになった。
エーテル体から物を見るのとフィジカル体から物を見るのとは見え方が全く違う。
これに気づいたら、これまで良いと思っていた演奏家の演奏が突然良く聞こえなくなってしまった。
ほんと、面白い....

2018/4/16

2018/4/15

 昨日あるドキュメンタリー映画を観に行った。観察映画ということでこれも長老から勧められたもの。

今になって気づくのは、私はこれまで自分のことにしか興味がなかったのかもしれない。自分に役立つことを学ぶことには意欲的だけれども、役立たないものには無関心。文学、映画、絵画の類は殆ど腹の足しにならない、と興味がなかった。が、この数年、長老の影響でそれも随分変わりつつある。そのベースにあるのは太極拳で確実に養われてきたと思われるものを見る目。自分の内側の観察を続けてきたことで、外側の事象の観察から、今までには想像も及ばないほどのものを感じ取ることができるようになってきている。ただの風景がただの風景でなくなったのは自分には大変な驚き。
映画は瀬戸内海の港町を舞台にしていたので私にはとても親近感がある。方言も似てるし狭い路地に古い家が並ぶのも同じ。やたら老人ばかりが目立つ。余計なネオンや音などがないから、空気は直接肌に触れ、風景は地のまま目の中に入ってくる....都会ではこうはいかない。練習で御苑に行っても、肌が直接空気を吸うまでには暫し安静にする時間が必要。花いっぱいで観光客が多い時期は
人の気が優ってなかなか空気と直接出会えない。ちょっとした辛抱と内側に入るコツが必要....が、気の良い、真っ新な場所に行くと、こちら側の努力なしに空気や風景と出会える。
私達は良い空気、拓けた美しい場所に行くと、心が安心してぽわっと開く。すると身体の緊張も解れいつもよりいっぱい吸えるようになる。呼吸が深くなると血管も開き体内の気血(エネルギーと血)の流れも良くなる。結果、目もはっきり耳もスッキリ、総体的に身体が良くなる。
気功法はまさにこの心身のカラクリを使ったもの。
まずは心が安心してほっとする、安寧が出発点。だから昔から"静"が尊ばれてきた。(馮志強老師のテキストの入門説要12章の第1章は『心神虚静貫始終』(心は始終虚静であれ))
静の中の力強さが分かると身体の使い方が変わる。ものの見方も変わる。
芸術の分野ではそこに焦点をおいたものもかなり創られているのではないかと思う。
武術、武道の最高の境地はそこだと皆知っているけれども、勝ち負けに拘るとなかなか静、安寧の境地には至らない。勝負のない気功法は静を得やすいが、試金石がない分ともすると強さに欠けて独りよがりになる。対人と一人の練習、共に行う太極拳はその意味でとても良いバランスだと思うのだけど・・・(と、また話がここに落ち着いてしまうのでした)。

2018/4/11

 ハマってしまったルドンの絵。

 ものの見方を教えてくれたN長老に感謝・・・

 太極拳の練習、ここまでやり込んでいなかったら、せっかくのN長老の講話も消化できずに終わっていただろう。太極拳の練習が身体だけでなく修練者の”目”や”感じ方”を変えていくのを自ら体験できて二重、三重の喜び。

 

  天性でものの内側に潜む本質をつかみ取れる人がいる。

  そしてそれを見せてくれる人(多くは芸術家)がいる。

 

  けれども、私達の多くは生まれて目が見えるようになると他者も含めた外界の虜になって、眼は外ばかりを見るようになる。内側の風景を意識しすぎると俗世では落ちこぼれになる・・・から、目をキッと外に向け内側を見ないように突っ走るように・・・内側に入りだした高校生の頃、私は学校の先生からはっきりそう言われ、とりあえず就職するまでは周囲の人が思い描く”成功”路線を進もうと思った。大企業に入ってお金を儲けて、ある程度溜まったらパン屋を開いて、最後は出家、そんなビジョンだった。

 所謂エリート路線を進んで外務省に入って万々歳!と周囲の人は大喜びしたのも束の間、そこからどん底が始まった。生きている意味が見いだせなくなった。

 結婚しても、外務省を辞めても、子供を産んでも・・・何の解決にもならなかった。

 かなり彷徨って、占いにもハマって散財したが、結局今振り返ると最も有益だったのは「好きなことをやりなさい。」というアドバイス。「でも、好きなことがないのが問題です。何が好きなことが分からないのです。」と当時の私は間髪入れず言い返したけれども、「じゃあ、あなたは今何をやってるの?」と聞かれ、「スポーツクラブで気功と太極拳をやっています。」「じゃあ、それを一生懸命やりなさい。」・・・これはただの気晴らし・・・と内心ぶつくさ言っていたけど、そのうちスポーツクラブで教えていた数名の中国の先生達と仲良くなったり(中にはカッコいい先生がいた)、立ち読みした少林寺の先生の本に感動して即入門したり、気功法の星野先生とも縁があり陳式心意混元太極拳を学び始め、そして主人がパリに赴任になって今の師である劉師父に出会い・・・と様々な人に出会いながらいつの間にか道ができてしまっていた。

 

 と、数年前からおぼろげに感じていたのは、身体自体はやはり外側のもの。筋肉を見るのも骨を見るのも、もしかしたら丹田を見るのも、実は、目は相変わらず”外側”を向いているのかもしれない。自分はもっと奥にいる。目を内側に向けるということは究極的にはその見ている自分の中を覗き込むように見ること・・・ここまでいくと内側がなくなってしまう(発散してしまう)?

 

 内側を見るというのは暗い作業だと思っていたが、最近推手をしながら自分の丹田を見る練習をさせていたら、相手の丹田を感じようとすると自分の丹田が感じられるという現象が皆に共通することが分かった。外界があるからこそ内側が分かる、そういうこともあるのかもしれない。外界の深さの分だけ自分の深さが見える、若しくは、自分の深さだけ外界の深さが見える・・・修行者は後者の道、自分の内側に入る修行をして結果的に外界を見透す目をもつ。芸術家の中には外界を見透す目を持っている人がいて、そのような芸術家は覚者に近い境地に至る・・・ルドンはその類の人ではないかしら?

 

 どうやったら気の量が増えますか?と聞かれるが、昔の私なら、「タントウ功か坐禅をして下さい。」と言ったけれども、この世の中、とりたてて練功をしているわけでないのに、生き生きと気力が充実して健康体の人がいるのを見ると、練功以前に生き方、好きなことをして笑っていきいきするのが大事、なんて思ってしまう。好きなことに没頭して笑って、疲れて寝る・・・子供と同じ・・・生命の本質・・・ワクワクすると細胞が生き生きする、蘇る・・・

 

 ルドンの絵、語りつくせないほどのものが中にあるけれども、奥の奥の”一粒の丹田”からそれが膨張して身体より大きくこぼれんばかりになった”満開の丹田”へ、彼の人生が豊穣になっていくのが見て取れてとても感動的だった

 
番外
今年1月頭にパリのディオール回顧展最終日に駆け込んで写した写真。

★NEW! 5/21

LINEの仲間の投稿あり

直近(5/15-5/25)の練習予定→こちら

『今日の独り言』結局何でも太極拳に関連してしまう頭の中。その日の気づきや疑問点、頭の中のお掃除と整理。過去の独り言はアーカイブ

練習メモ』

毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。私自身の学びのメモ。

★2/14『LINEの話題』を新設。グループLINEにリアルタイムで書き込んだ内容。LINEだと情報が流れてしまうので適宜ここに移します。

(パスワードをかけますので閲覧希望の方は簡単な自己紹介をつけてお問い合わせ下さい。)

★初心者随時受付中

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

ようせいフォーラム2017プログラム
3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
ようせいフォーラム2017プログラム.pdf
PDFファイル 3.1 MB

 

2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

発表の抄録、資料はこちら