2021/4/17 <胸式呼吸→腹式呼吸→腹圧呼吸 肋骨を束ねて呼吸する内功>

 

  肋骨が上がってしまっては気沈丹田が保持できない・・・という話から、ではどうやって肋骨が上がらないように呼吸をするのか、という話に移っていった。

 

 ここから先は結局、いかにして、胸郭を横に広げる胸式呼吸ではなく、胸郭を縦に広げる腹式呼吸にするのか、という話になってくる。(ボイストレーニングのこのサイトにあるイラストがわかりやすかった。https://msw-lesson.net/vocal/s/lesson02_2.html 肩や喉をリラックスさせるためには腹式呼吸を使う。)

 そして腹式呼吸の先には腹圧呼吸がある(吸っても吐いても腹圧を落とさない)

 腹圧呼吸については以前ブログでも書いたので省略するが、肋骨を締めておかなければ腹圧は上がらない。

 

 確認のために書くが、胸式呼吸も腹式呼吸も肺に息が入って呼吸がなされている。腹式だからといって腹に息が入ったりはしない。違いは、胸式では肺の上部に息がはいりやすく腹式では肺の下部に息が入りやすい。

 昔、出産後の女性のクラスを持っていた時、腰痛解消のために、背中側の肺の下の方に息を入れるように呼吸をしてもらったことがあった。皆案外簡単にそれができたのを覚えている。こうすると腰(命門)が開きやすくなり腹腰が安定する。実際には、前に突き出た肋骨が下がって腹式呼吸に移行している。六字訣の『吹(chui)』の状態だ。背中の下の方(胸椎10番〜12番あたり)に息を入れようとするのも有効)

 

 ではどのように練習するといいのか?と改めて考えたら、呼吸だけを取り出して練習するよりも身体の動き、手の動きと合わせる方が太極拳的で自然だと気づきました。 鼻だけ呼吸、というのを書こうかとも思ったのだけど呼吸だけに意識を向けると呼吸が逃げてしまう危険性がある。気功法で調身、調息、調心というように、意識と呼吸と動きを三位一体で合わせて練習するのが最も良いのでは? と、改めて、基本中の基本の、『収腹功』(転腹収功)のやり方を動画に撮りました。内功は同じ動作でも意識や呼吸を変えていくとまた違った効果が得られます。ここでは3回吐いて1回吸う、あるいは3回分吐き続けて1回吸う、というようにして、気を腹底に落とす(吐く)意識をメインに練習しています。吸う時はせっかく腹に落とした気を失わないように。この時、動画ではコメントしていませんが、上で書いたように背中に息を引き上げるような感覚で回すとうまくできると思います。

 

 吐く吐く吐く吸う、で肋骨が広がらずに保持できるようになったら、次は、吸って吸って吸って吐く、と吸うを3回、吐くを1回で練習します。最初の吸うところから肋骨は下がって命門が開いた状態で、腹は吸っても吐いても張っている=腹圧呼吸になります。こうやって吸って丹田を回すことで丹田に気が溜まっていきます。

 

 まずは、第一段階の吐く吐く吐く吸うとしっかり練習。どんなにレベルがあがっても、毎日の練習では第一段階目から練習すべきだと思います(吐く吐く吐く吸うで放松して気が下に落ちる。これなくして吸う吸う吸う吐くはできない。)

 

 

 

馮老師の収腹功(https://youtu.be/4fF0yB_efN8 2分あたりから)

 

 案の定、呼吸が全く分からない・・・

 

息を丹田の中でホールドしたまま丹田の気を回している。口が何かを(舌を?)含んだようになっている→体が気を含んでポンしている。

 このレベルに到達するのはなかなか難しい・・・

2021/4/15 <肋骨を締める(束肋) まずは呼き切る>

 

   気をしっかり腹に落とすのは太極拳の出発点。

 放松はそのために必要だし、それによってより放松が可能になる。

 より放松できれば、気はさらに落ちてより丹田がはっきりする。放松と気を落とすのを繰り返していくと、いつか気沈丹田と呼ばれるような、腹底にアンカーが形成されたような状態になる。

 

 まずは気を腹に落とせないと始まらない。

 もし気を腹に落とせているかどうかが分からないなら、自分の肋骨を触って確認してみるとよいと思う。息を吐いていった時に肋骨がじわ〜っと閉じていっていれば気は腹へと落ちていっている。ただ肋骨といっても範囲が広いので、肋骨の一番下の部分(横隔膜が付着している場所)に両手を当ててそこが呼気ととも閉じて(上がっていたのが下がっていく)いくのを確認できればよい。

 

 肋骨が開く、というのは、正確には前側の肋骨が前に突き出て上がったようになっている、ということ。肋骨を締める、閉じる(太極拳の言葉では、”束ねる”)というのは、その前に突き出た肋骨を押さえることだが、その結果、背中側の肋骨が少し後方へと浮いた感じになる。背中(腎臓の位置近く 実際には肺の一番下の部分)に空気が入った感じだ。それによって命門が開きやすくなり抜背が可能になる、と連動していく。

 

 巷では肋骨を締めるのに筋トレのようなことをしている人たちもいるようだが、太極拳ではそのような使い方はしない。

 肋骨は呼吸によって動く。

 呼吸と肋骨はセットだ。

 呼吸と無関係で肋骨を締めようとするのはナンセンス・・・

 

 昨日のブログの最後に、気沈丹田に即効性のあるものとして、肋骨を束ねることと鼻呼吸、と書いたけれども、実は、鼻呼吸と束肋は連動していることに気づいた。これがなければあれがない、あれがなければこれがない、といった表裏の関係だ。つまり、肋骨が締まらないような鼻呼吸は鼻呼吸ではないということ。だから、最近目を通した陳正雷の内弟子の安田洋介先生の本の中に、「日本の太極拳愛好者は鼻呼吸をすべきだと知ってはいるけれどほとんどできていない」、「自然な鼻呼吸は陳家溝で暮らして初めて分かった」、という記述があったのだ・・・と、頭の中でピンときた。確かに、私たちが漫然と鼻呼吸、と思っているものはあの中国の地域の人たちの気候女権からくる鼻呼吸とは違う可能性が大だ。昔の北京の冬も寒かったが陳家溝の近にある劉師父の故郷の鄭州などは冬が寒いだけでなく黄河からの砂埃で口から空気が入ると喉が痛くなってしまうようなところだった。だから鼻だけで呼吸をしなければならない(一週間もいると鼻毛が伸びていた)。日本にいる時は無意識で口からも息をしていたということだ。

 

 と、鼻呼吸に話を進める前に、まずは息を吐ききって肋骨を下げる(締める、束ねる)という基本を押さえる必要がある。この呼気における束肋ができないと、その先の吸気における束肋に進めない。鼻呼吸が大事になるのは吸気の時だ。

 

 呼気で肋骨を締める話は腹圧との関連で以前にも書いたかもしれない。

 このあたりは私よりも上手に説明してくれている人がいるはず・・・と探したら、とてもよい動画がありました。

 まずは下の動画を見て、基本を押さえてください。(私も見て勉強になりました・・・首の筋肉が問題・・・肋をうまく締められない生徒さんの首は確かにそんな感じだ・・・首で呼吸をしていたのか・・・と納得。太極拳なら沈肩と含胸の問題になるのだけれど、この動画のように説明してもらったほうが具体的にどのような状態になっているのかはっきりわかります。)

2021/4/14 <気沈丹田と雑談>

 

  結局戻り着いたのは、気沈丹田。 

  軸にしろ、首をつなぐにしろ、気を腹底まで沈めるのが要になる。

 

  ただ気沈丹田といってもレベルがある。

  最初はヘソ下あたりから始める(気海ツボあたり)。

 そして徐々に更に下に膨らましていく。この時、腹圧を維持したまま気を下に押し込むのが肝心だ。もし、気を下に移動させようとして腹圧が減ってしまうと身体が落ちてしまう。腹圧を維持しようとすると嫌でも会陰を引き上げることになる。

  軸が首まで貫通するのは、気を腹底まで押し込んだ時。胴体をリュックと見立てるなら、リュックに気を押し込んでいって底まで気を詰めこんだ、という感じだ。

  私くらいだと、底まで気を沈みこませると胴体のリュックが縦に長くなってしまう。細長い風船のようだ。辛うじて軸はできてもその軸は細い。

  もっと功夫が上がると、リュックに詰め込む気の量(圧)が増大し、底まで詰め込んだ時にリュックの形はサンドバックのようになる。この前見た楊澄浦などは球体だろう。こうなると球自体が軸なので軸があるのかないのか分からなくなる(本人に軸の感覚はないだろう、空だろう)。首もない同然になる。

 

  人それぞれレベルは違うけれども、やることは同じ。常に気を腹に落として、浮いてこないように注意すること。

  これは別に練習の時だけでなくて日常生活の中で実践できることだ。(もし気を腹に落とす感覚をまだ知らないなら、最初はタントウ功や坐禅でその感覚、やり方を習得する必要があるけど。)

  ただ、私自身日常生活の中でどのくらいできているか?と見てみると、知らない間に気が上がっていることがどんなに多いことか・・・ 無意識になると途端に上がっている。意識しないと気沈丹田でいられない。師父はどうなのだろう?と尋ねてみたら、大抵は大丈夫、と言っていたけれど、やはり興奮してしゃべっている時は気が上がっている、と言っていた。

 

 「気の量の多い人は元気で快活だが気が上がりやすい。

 気の量の少ない人は気は上がり辛いが大人しく活気がない。

 同じ親から生まれた犬の赤ちゃんの中にも元気なのと弱いのがいたりする・・・」と、ここからは師父は逸れて、私には衝撃的な話をしていった・・・(雑談なので読み飛ばしてもよいです)

 昔農村では番犬として犬を飼っていた。犬は一度に5、6匹の子供を産む。が、その頃の農民は貧困で飢えに苦しんでいて、とても全ての子供を育てることはできない。一匹養うだけでも大変だった。そこで、当時は犬の赤ちゃんが生まれたらすぐに母犬から引き離して全て紐に吊るしておいて、最後まで飢え死しなかった子供だけを育てたそうだ。

 

 あ〜〜なんて残酷!信じられない!! と一瞬腹がたちそうになったのだけど、当時はそうでもしないと人が飢え死にしてしまう状態だった、と聞くとどうしようもない。師父はそんな貧しい時代を知っているからこの手の話は何の感情もなく淡々と語る。締め言葉は、「だから、同じ親から生まれても強いのと弱いのがいる、ということだ。」 締めはそれ? 強くなきゃ生き抜けないということ? と思ってしまうのだけど、動物は本来そんなものなのだろう。

 今では生まれた時に身体が多少弱くても生きていけるような環境が少なくとも先進国では整っている。

 そして面白いのは、もともと弱めの人は身体に気をつけてセーブしながら生きるから結果として長生きになる可能性が案外高いという話。もともと強い人は無茶をして健康を損ねる可能性も高くなったりする。人生最後の最後まで何が良くて何が悪いのか分からない(最後になっても分からないかな?)。

 強いからいい、弱いから悪い、というのはなくて、気をちゃんとあるべき位置に戻す(気沈丹田)訓練をすれば、強い人はエネルギーが悪い方向に流れるのを制してくれるし、弱い人はエネルギーを活性化してくれる。こればかりは他人と比べるのがナンセンスで、自分一人の修行の進歩を味わうのみだ。

 

 <本当はここからブログを書く予定だったのだけど前置きが長くなりすぎた・・・>

 今日私自身が歩きながら気沈丹田をやっていて気づいたこと2点。

 肋骨を締める(束肋)と鼻呼吸。どちらも気沈丹田をするのに即効性がある、と思ったが、これらの点についてはまた書きます。

 

 

  

  

2021/4/13 <首の力を抜ける位置を探す>

 

節節貫通の中で特に難しいのが頚椎、首。

 

人体の最も上に位置する頭蓋骨を自然に支えられるような首とは?

と考えると、昨日見た東京タワーの建設途中の画像が頭に浮かぶ。

 

人体を単純に三階建の構造だと考えると、頭は3階。2階と3階を繋ぐのが首(頚椎)

2階の胸郭まで完成させて頭を載せようとした時、背骨(緑線)を延長してすんなり載せられれば万々歳だが、もしその背骨を延長しても頭が載せられない場合には、①首を補強する、か、②首をそれより下の背骨から切り離し頭を支えられるような角度にしてしまう、か、③もう一度土台から組み直して背骨のアライメントを調整する、かという解決方法が考えられる。

 

 ①は首の筋肉を鍛えたり、首を固めて外見的には首を立てたようにする。首は常に緊張している。②は首は傾いている(自然な角度ではない)多くの場合頭が身体より前に出てしまった状態で首が固定されている。構造物としては傾いた状態だ。

 ③は本来そうであったような身体の構造を取り戻そうとする試み。首を調整するためには尾骨仙骨、腰椎、そして胸椎の調整が必要になる。

 ①②だと首は緊張する。③ができると首には力がかからない。首があってもないに等しくなる。

 

 

 首や肩の調整が難しいのはそれが全身の改造を必要とするからで、逆にいえば、首の力が抜けている人は3階まで組み上げられている人。身体という建築物が完成している=節節貫通が完成している。私から見れば達人の領域だ。

 

 

 

 以前、陳項老師の第21式の中の海底翻花の動作(腕を回しながら右足を上げる動作)を見た時、あれ?と目が止まったことがあった。

 なんだか(私も含め)他の老師と違う・・・

 

 そしてこの真似をしてみて分かった。

片足を上げる時に首に全く力が入っていないのだ! というよりも、当時の私も含め、多くの人は、片足を上げる時に無意識で首にピキッと力が入ってしまうのだ。

 首に全く力を入れないように片足を上げてみると、腹(丹田)にものすごく力がかかるのが分かる。そうでないとふらついてしまう。つまり、気沈丹田がそのくらいできていないと首の力は抜けないというのがその時に分かった。

  やはり馮老師レベルだと片足(膝)を上げても気は丹田に沈んでいるが、そのお弟子さんレベルだと足を上げてポーズをとった時に気は上がって大椎に力がかかっている。命門の張り出しが弱くて内側の軸が形成されていないのが原因かと思われる(首の大椎穴は周天の関門)。

 

  そう言われてみると、駅の階段を上がる時も無意識のうちに首に力がかかっているのが分かる。しゃがんだ状態から立ち上がるときも首に力がかかる。

  背骨の節節貫通がどういうものかを簡単に知りたければ、首に全く力がかからないように片膝を注意深くゆっくり上げてみるといいと思う。少し上げたところで首に力が入りそうになったら背骨のアライメントを変えてみる。も少し上げてまた力が入りそうになったら背骨のアライメントを調整して気をグッと腹に押し込む。その繰り返し。うまく膝が上げられれば背骨沿いに軸が感じられるはずだ。 階段を上がる時も注意して上がってみると面白い。下半身が通常以上に鍛えられる。

 首は難関・・・私もまだまだ意識的になる必要がある。

 

2021/4/12 <気沈丹田を忘れない>

 

  朝の公園、犬の散歩をしながら軽く走ってみた。ん? なんだか身体がゆさゆさする・・・別に胸がゆさゆさするわけでなく、胴体の中がゆさゆさ、あたかもリュックの中に入れたものが揺れてるかのような感じだった。

  これはマズい。ぱっと見ると縄跳びをして男性がいた。そうだ、縄跳びだ!

 私は犬の綱を持って軽くおしゃれにジョギングモードで、完全に気が上がっていた(胸の位置)。気をちゃんと沈めなきゃ、と縄跳びを見て思い出した。

 気沈丹田、太極拳の練習の時にはやっているのに、普段の生活の中では忘れてしまっていることが多々ある。特にかる〜い動作、の時は危ない。力仕事、真剣モードの時は気は沈みやすい。腹を使わざるを得ないからだ。

 肉体労働が減った今、1日の中で行う動作の大部分は腹を使わなくてもできる軽い動作、軽作業だ。パソコン作業などはその典型。相当意識しないと気は丹田に沈めておけない。それほど気はevaporate(蒸発)しやすい。ずっと腹に引っ張っておけるのは子供の頃だけだ。思春期あたりから徐々に上昇し、20歳になる頃には胸の位置まで上がってしまう。(昔、東横線の中で男の子たちを観察していたが、16歳あたりまでは気が下腹部にあって胸が凹んでいるけど、大学生になると胸が開いてきて気の定位置は胸になるようだった。女の子の場合はそれよりも早い)

 

  朝起きて首や肩が凝るのは寝てる間に気が上がってしまうからだ。起きている間意識的に息を深く吐いて会陰を引き上げたりして気を引っ張り下げていても、一度寝てしまうとアンカーが切れて気が浮上してしまう。寝てる間も会陰を引き上げ続けられたらそうならないらしいが、まだそこまで功夫が至らない。

 

   私の目標は肩こりゼロにすることだが、長年の前肩の癖はなかなか治らず、今日も師父に無理やり股関節や肩関節を引っ張り出されていた。肩こりはマッサージしたって根本的には解決しない。師父のように肩を掴んでも全く筋張っていなくて柔らかい状態になるには、身体のアライメント、身体という建築物を正しく組み上げることが必要だ。その時に土台となるのが丹田(腰、胯=骨盤)という重しとその重さを地下へと分散する下半身の枠組みだ。

ここで頭の中に東京タワーが出てきてしまったので画像検索

←左は東京タワー建設途中の画像 https://note.com/shokosuzuki/n/n5a9a44d6f067

(このブログ自体が面白いです)

下から組み上げて建設しているのだけど、上の台の重さを4本の脚に分散させているように見える。

 

 身体もこんな感じで、丹田以下の組み立てがうまくいっていないと、その上にのっかる部分に支障が出てくる。肩首、腕、背骨、頭・・・元を手繰っていくと腰、胯に行き着く(というのは何度も経験済み)

 

  私の場合、肩こりを完全解消するには(顎を引いたまま)頭の位置をも少し後ろにする必要があるが、そこで直立で立とうすると丹田をさらに下に落とさなければならないのが分かる。太極拳の時は両足を開いてクワや膝を曲げているから多少やりやすいが、本当の直立になるととても難しい。丹田の気を落とさずに理想的な形を作ろうとすると行進する兵隊さんのように(身体が硬直)してしまう。

 

  ということで、私自身まだまだ課題は山積みなのだけど、死ぬまで姿勢や所作が美しいというのは憧れだ。そんな姿勢や所作を作るのに太極拳の練習はもってこいのはず(”道”のつくものはどれもそう)

 

  ここ何回かとりあげた高岡英夫氏。身体意識に関する理論が素晴らしく、3部作と言われるバイブル本はずっと本棚に飾っていた。今回久しぶりに開けたら以前よりも理解できるようになってますますその理論の素晴らしさを感じた。一体どんな人物なのだろう? 高岡氏はあまりメディアに出てこないようで、一昨日はかなり昔の動画だと思われるものを見た(下の動画)。

高岡氏といえばゆる体操。この動画では手首を摩る簡単な動きを紹介しているが、高岡氏のさすり方は他の人たちとは違う。

 

観客を見ていると、(言葉で)言われた通りにただ手首を摩っているもいれば、高岡氏の真似をして手首を回しながら摩っている人もいる。

が、高岡氏はといえば、手首を摩る時に手首だけでなく、肘関節も肩関節も、そして脊椎も動かしているのだ。手首を回すには脊椎を回す(捻る)必要がある。これはチャンスーだ。節節貫通、身体の内部では全てが繋がっている。(一つの関節だけが回る、ということはありえない。一つの関節が回る時は全ての関節が回っている。影響を受けない部分はない。)

 ただ、この時少し気になったのは高岡氏の首。首が他の関節の影響を受けず硬直したままのようだ・・・

 

 そして今日新たに動画を発見。これはつい最近のもののようだ。雑誌『武道』にこの3月から連載する『歩道』のプロモーション動画らしい。

 一眼見て思ったのは、首から上の硬直が目立つようになっているような・・・滑舌も良くない。

 元々頭が少し前に出ていたのがより顕著になった感じがする。

 

 頚椎から頭部のアライメントの調整が完璧ではなかったのかなぁ?顎の引き(内収下顎)や含胸が足りないと気沈丹田しないから首が立たない。軸はイメージでは作れない。身体意識はイメージではない(というのは高岡氏自身が説いていたのだけど)。

 

 この動画を見て気づいたのは、放松(緩める)だけでは姿勢は維持できない(垂線は感じられても姿勢を維持するだけの軸は作れない)ということ。

 正しい意を作ってしっかり気を腹に沈めることが必要で、身体は放松しても意までゆるくしてはいけないだろう...(意はイメージではない イメージを作った時点で中心=丹田から乖離している 感覚を研ぎ澄ませるとイメージはわかない)

 

 首から上を胴体と繋げるのは至難の技で、太極拳の老師でも頭頂まで節節貫通している人はとても少ない。逆にいえば、頭頂まで内側から繋いでいる人(首を立てているのではなくて、首が立ってしまっている人)は只者ではない。相当な功夫の持ち主だ。

 以上、日頃の基礎的な厳しさのある鍛錬(気沈丹田し続ける)がやはり必要なのだと自分にカツを入れました。

 

2021/4/10 <軸と命門、丹田の関係>

 

  昨日のメモの軸の話を検証するために師父にいくつか定式の形をとってもらった。

  垂軸とは別の軸があるのが分かる。

  

  師父はよく「背中を”撑”しろ」と言う。含意は、背骨を(腹圧で)後ろに押して背骨沿い(腹側の背骨沿い)に軸を作れということだ。背骨の前側に軸をとるとその結果背中が開いて”撑”:シーツをピンと広げたようになる。(背骨を後ろに推すのであって、背中を後ろに推すのではないことに注意。背中を後ろに推すと猫背になる・・・)

 その軸は、高岡氏が最も基本の体軸、センターとして定義している位置と同じだ(左図)。

   (http://tosanokochi.blog.jp/archives/669421.htmlから転載)

 

 

 下に今日撮った師父の動画を2つアップします。

一つは定式の形を横から撮ったもの。高岡氏のいうところのセンターの軸が効いている。

 太極拳の練習だとまず丹田を作って丹田で背骨を推したところに軸ができあがってくる、という順序。1本目の動画では丹田が背骨を推して命門を開くことで軸が作られるところを師父が見せてくれている。

  丹田は、実は”軸”を作るために一時的に形成する道具だという認識が新たに生まれた。丹田は最終的にはなくなるのだ。それは下の2本目の動画で師父が示している通りだ。

  

  軸の意識が現れた時には丹田はなくなっている。丹田を意識している時は軸の意識はない。

  そして丹田に集まる気の量が多くなればなるほど、作り出された軸は長く太く強固になる。

  このあたりの体内のメカニズムはとても面白いが、それを太極拳の中では単純に開(軸が現れた)と合(丹田に戻る)で示しているようだ。

  

2021/4/9 <高岡氏の垂体一致、垂軸だけでは不十分>

 

   アーチェリーと弓道の比較で”縦軸”が、”今、ここ、自分”のラインではないかと思ったけれど、それでは、太極拳の動きの中でいつもそのような縦軸が維持されてるべきなのか?という疑問が湧いてしまった(今更ながら)。

 中正の定義もよくよく考えるとはっきり分からない・・・

 と思っていたら、本棚に高岡英夫氏の『センター 体軸 正中線』という本があるのに気づいた。ラッキー♪とページをめくってみた。以前一度目を通したことがあるが、問題意識のあるなしで読み方が全く変わる。

 

『センター 体軸 正中線』59p
『センター 体軸 正中線』59p

 

 

  該当部分を読んで分かったのは、私のいう”縦線”は高岡氏のいうところの「重力に沿った身体を地面に垂直に貫く身体意識(垂線)」と、「背骨に沿った身体意識(体軸)」が一致したものだったということだ。

 

  高岡氏は垂線(重力線)と体軸(背骨ライン)が一致した状態を「垂体一致」、そのように一致した軸を「垂体軸」と言っている。(左の図参照)

 

     そして「垂体一致」は人間の姿勢や動きの中で特殊な、ピタッと静止した状態だということ。(だからタントウ功や弓道ではそうなる。能は意図的にこの状態で動くことで特殊な効果を出すのだと思う)

 だから、

<以下引用>

 ・・・センター=垂体軸として、センターを1つの直線上の構造のものとして説明するのは、理解しやすいけれど、それだけでは人間の動きを説明するには不十分なのです。そこで必要になってくるのが、垂体軸はセンターのあり方の基本形であって、センターは変動する構造であるという考え方です。・・・『センター 体軸 正中線』60ページより

 

   そこから、下の図のような軸の変化についての具体的な説明がある。

 左から、短距離走での垂体分化、ボクシングのダッキング(避ける動き)での垂体二重分化、そしてスキーにおける斜軸。

 

 

  直立の時の垂軸と体軸の一致は、動きによって分化し、また直立に近づくと垂軸と体軸た一致に近づく(例えば、ボクシングのダッキングでは上の真ん中の図のように軸が分化するが、直立姿勢でパンチをする時には軸が一体化したりする。)

  

  高岡氏の軸についての考察はさらに進むが、これらの基本的な考察から気づかされるのは、太極拳の動きの姿勢が常に垂体一致(垂軸と体軸が一致)ではないということ。もし常に一致していたらかえって不自然な動きになるだろう。

 

  最近使用した画像に垂軸や体軸などを真似て引いてみた。

 

  どうだろう?

  上の2段と下の2段。線を引きながら気づいたのは、上の2段はどれも垂軸の他にもう一本、あるいは二本の軸があるということ。一方、下の2段は、垂軸以外に軸が引けない・・・

  

  高岡氏の言葉で言えば、軸とは身体意識。身体がその軸を意識できているということだ。

  高度な身体操作になればなるほど軸を複数に分化させそれらを一斉に統括して操る必要があるという。

  

また、上述の本には、左のような前後や左右の軸についても述べているが、これらは内功で丹田を回しながら作られていく軸だと気づく。督脈任脈の周天をした後、徐々に幅が膨らんでこのような軸が形成されていく。

 

つまり、軸はただ垂軸だけではない。

その時の動作の形、スピード、エネルギーの使い方に応じて、最もバランスのよい体勢をつくり上げるために瞬時に複数の軸(潜在的な身体意識)が浮上するように訓練している。

 

  最近力をいれて教わっている推手からの展開では套路にはないような身体の動きを瞬時にする必要があり面食らう。顔はどっちで、足はどっちに蹴って、右手は下向きに左手は、そして胴体はどっちに捻る? のように。 それは、例えば、階段で足を滑らせて落ちそうになった時に瞬時にどっち向きにどう身体を向けてどう転べば最もダメージが少ないのか、身体が瞬時に判断して動いてくれないと困る・・・そんな感じだ。身体だけが知っている。頭で考えたら追いつかないし間違えてしまう。そんな身体の瞬時の判断ができるような練習をしてみると、地面に垂直の軸だけに頼ってられないことがすぐにわかる。

 以前、第19代の老師が、太極拳の練習は柔道の受け身からやるといい、と言っていて冗談かと思ったが、今になってやっとそれは本当だと感じるようになった。畳の上でごろっと転がるような動きは子供の時はなんてことなくても、今やるとたった一回転で目眩がしそうになる。でも、推手から技をかけたりかけられたりする時は慣れるまで一瞬方向が分からなくなったり、足と手のリズムが分からなくなったり、未知の世界が現れるのだ。套路の時のように安全な世界で決まった動きをしているのとは全く違う。でも、一旦その未知の動きを知ると、その動きが実は套路の中に組み込まれていることに気づき、套路が再び活性化する。でないと、套路はやればやるほどワクワク感が減ってしまうだろう。毎回、今回はどんなハプニング(気づきや失敗、思いがけない動き)が起こるだろう?とワクワクしながら套路の練習をできればどんなによいだろう?

 

 そのためには、幽霊かロボットのように一本の垂軸で動いている場合ではない。人間の身体はもっともっと複雑で一本の軸は臨機応変に分化する。

 今日から私は呉式風の形で立つ練習が始まった。ある問題をクリアするために師父がとった策だが、これも見方によっては軸を増やすための練習だ・・・

2021/4/7 <中正についての考察 静態と動態 静中有动 动中有静>

 

 昨日のメモの呉鑑泉(呉氏太極拳)の型が気になって練習の時に師父に見せた。

 師父は一目見て「非常好(とても良い」の一言。

 えっ?前にのめり込みすぎでは? と言ったら、

「少し行き過ぎた感があるのもないとは言えないけれど、例えば、この写真(左の写真)は、あなたには分からないかもしれないけれど、打ち出した右の肩が撑していてとても良い。打ち込んだ時の形だ。」と説明してくれた。

言われれば、拳と肩が前後に引っ張り合いしているのが見える。このような時は(腰ではなく)お尻のクワが出たようになる。そして前足のつま先(親指側)から内踵の方向へ力がかかる。抜背も完璧だ。

 

 けど、これで「中正」と言えるのかなぁ?、「中正」の定義自体がよく分からなくなってしまった、と師父に言ったら、師父は、「そもそも静態と動態では中正のとり方が違う」とこれまで考えてこなかった点を気づかせてくれた。

 

  

  なるほど・・・それなら納得がいく。

 と、頭の中で右のようなトムアンドジェリーのイラストが浮かんでいた。

  静態での中正を崩し、動態での中正をぎりぎりまで崩した極端なバランスでものすごい躍動感を出している。

 

  中正とかいう概念は美術、特に彫刻では非常に重要なはず・・・

  と、少しギリシャ彫刻に脱線。

  そしたら、簡潔に説明してくれているサイトがありました。https://artfans.jp/ancient-greek-art/

  そのサイトの説明によると、ギリシャ文明(紀元前7世紀頃から紀元前3世紀頃)は3つの時期に分けられるらしい。

  ①アルカイック期 ②クラッシック期 ③ヘレニズム期

  各期の代表的彫刻として下のようなものが挙げられている。

  (左2つが①、左から3番目が②、右端が③)

 

 ぱっと見て気づくが、①はエジプトの絵画っぽくて棒立ち、静的な感じだ。

②の棒をもった片足立ち(片足虚歩)の像は当時流行った「コントラポスト」という表現らしい。

 

「コントラポスト」の効果については左図を見れば一目瞭然。

(「いちあっぷ」は絵が苦手な私には夢のようなサイトです。

https://ichi-up.net/ )

 

 中正を崩して躍動感を出し始めた、と言えそうだ。

 

そして③のヘレニズム期になるとさらにうねる。より強調されたコントラポストを「S字曲線」と呼ぶらしい・・・

 

 うねりにうねるとトムアンドジェリーになるのだ・・・と勝手に結論付けて考察を無理やり完了。

 

 太極拳に話を戻すと、太極拳は中正を保つ、と言っても、決して古代エジプト絵画のように変面的なものではない。かといって、ヘレニズム期はその後のルネッサンスの彫刻のように自由に身体をうねらせることもできない。約束としては頭頂を極力真っ直ぐに保つ。その中でできるだけ自由に動く、ということではないか? もし背骨の可動域(身体の可動域)が狭いとただの棒立ちになって紙人形のような平面的(二次元的)な動きになってしまう。どれだけ立体的に動けるか、そこが内功の作用になってくるのだと思う(表面の筋肉をつけただけでは役に立たないということ)。

 

 昨日の楊澄浦の写真を師父に見せて、とても良いと思う、と私が言ったら、「当たり前だ!」と言われた。私が評価して良いようなレベルの人物ではなかった(苦笑)師父からすれば、恐れ多い、自分の道の尊敬すべき先人。  

この写真を見て、「やはり内功の差がはっきり出ている」と師父が言ったのを聞いて、ああ、これが内功の差なのだ、と改めて知った。

 

違いがあるのは見てすぐに分かるが、これこそが内功の差、一言で言えばそれに尽きるのだ。

左の楊澄浦ほどの内功を得るのは至難の技。本当にすごい、と師父も唸っていた。写真を見つめる師父の目を見ながら、きっと師父は私には見えないものを見て、私には感じないものを感じているのだろうと思った。

 

 が、私は全く別のことに気づいた。

 右側の写真の老師は静止して見える。せいぜい上のギリシャ彫刻の③クラッシック期程度の動き。だけど、左の楊澄浦は静止しているように見えて④のヘレニズム期くらい躍動感があるということ。

 仮説だが、太極拳の中正は、動いていても止まっている、止まっていても動いているような、そんなバランスのところにあるのではないか? だから静の中に動あり、動の中に静あり、となるのでは?

 もし明らかに動いていたら(例えばトムアンドジェリーのイラストのように)、それは太極拳的な中正を逸している。もし内側まで死んだように(しょんぼり)立っていたら、それも太極拳的な中正ではないだろう(縦線が貫通しない)。

 

 

昨日のこの写真などは、師父が惚れ惚れとして見入っていたが、これも止まっているのか動こうとしているのかが分からない。今にも動き出しそうなそんな気配だ。

 

 

 

上の大師の形ばかり見続けていると、(私自身を含め)私達のほとんどはどこか身体にブレーキをかけながら動いているように見えてきてしまう。

どこかに強張りがあるのだ。

強張りがあるのが普通の状態だから私達はなかなかそれに気づかない。やはり本物をちょくちょく見返してそのイメージを脳裏に刻み込みたいものだ。(と、毎回のことですが、自分自身に言っています。)

2021/4/6 <楊澄浦 中正は単純ではない 勢い>

 

  昨日のメモを見た生徒さんから画像が送られてきた。

昨日の最後のイラストの元になる写真? 

ん? が、これまた似て非なるもの・・・

前傾姿勢が特徴的

これは陳式でも楊式でもない・・・

 

私がイメージしていた画像はこちら。

楊氏太極拳宗師の楊澄浦(1883~1936)。

陳発科(1887-1957)と同世代の武術家だ。

 

なんとどっしりと安定感があるのか。

股関節の開き方が陳式のようだ(後脚の股関節を少し外旋させている)。

 

楊澄浦の画像は検索すればたくさん出てくる。

どれも均整がとれ、かつ、勢いがあってとても美しい。

私自身なんでこれまで注目してこなかったのかが不思議。

 

顔も歪みがなくてきれい

 

 

http://www.51pptmoban.com/hangye/3149.html
http://www.51pptmoban.com/hangye/3149.html

 

楊澄浦は陳長興から拳を学んだ楊露禅の孫。

 

←陳氏から楊式、呉式、武式、孫式、(そしてその後趙堡=和式)が派生した。(陳王庭は陳氏第9世。陳長興・陳有元は第14世。その他、図は簡略化されたイメージ図です。)

 

なお、冒頭の生徒さんが送ってくれた画像は呉氏太極拳宗師の呉鑑泉(

1870-1942)のもの。

 普段見ているものに比べると随分前傾している印象がある。

   呉式は尾闾の中正に特徴があって抜背が徹底した感がある。呉式は実戦に強いとか聞いたことがあったような気がするけど、関係あるのかしら? 

 中国のサイトでも呉式と楊式の比較とかしている人がいる。

 

 今日師父も言っていたが、中正;縦軸は、ただ立っている時と動いている時では異なってくる。

単純に背中に物差しを入れて地面に対して垂直になっていれば中正がとれているという訳ではない。どちらに向かってどのくらいの速さで動いているのか、何をしようとしているのか、どこを固定しておくのか、などの動きの要素によって変わってきそうだが、おそらく、基本となる中正、縦軸があって、それを動きによって変化させていくのだと思う。

 

 

 

https://precious.jp/articles/-/11405
https://precious.jp/articles/-/11405

 羽生くんの得意の滑り(具体的な名前が分からない)。

 ある動画で、安藤美姫さんが羽生君にこの滑り方を教わっていたが、なかなかうまくできない。羽生君が一言、「なんか骨盤が違う気がする・・・」

 出産後の女性の骨盤は確かに男性とはかなり違うけど・・・すると中正のとり方も随分変わるのかもしれない。

 頭蓋骨、胸郭、骨盤をどう配列させてそれを足までつないでこけずに安定させるのか?・・・私達の脳を含めた身体はそんな難しいことを瞬時に判断してやっている。ロボットにはまだ真似できない技だろう。

https://www.meipian.cn/8wffyn5
https://www.meipian.cn/8wffyn5

 

そして最後に付け足し。

画像検索をしていて気になったのが右の写真だった。

 

 楊澄浦と現代の有名な老師との比較をしているらしいが、形はそっくりでも勢いが違う。

”勢い”は太極拳ではとても大事。

第一式、第二式は、もともと、第一勢、第二勢・・・と言っていたというのだから。(式と勢はどちらもshiで発音が同じ)

 

 で、楊澄浦の勢いはどこから感じられるのだろう? 写真だけを見てそう感じるのだから、手を合わしたりその場にいなくても、見た目、形に既に勢いが滲み出している、ということだ。単純に形をコピーしても勢いは出てこない。その人の気持ち、覇気は全身から現れていているから分析がとても難しい。右のように並べてみると、楊澄浦は心意気力が一体になってそれが丸ごと写真に映し出されているようだ。比較するのも悪いが、比較すると各々の特徴がはっきりする。そういう意味では、右の老師は”緩い”(ばらっと解けている)かなぁ。

 歴史に名の残る大師の風格とはどういうものなのかが分かる貴重な写真。生で見てみたかった。。。

 

 

 

2021/4/5 <子供と大人の動き どこから動き出すのか?>

 

   縦軸をスライドして横軸を作っていく。まずは縦、縦軸を通す。

 この具体的な方法については次回書くことにして・・・

 

 今日は祝日で公園では小学生らしき子供達が走り回っていた。あら、上半身から突っ込むのね・・・と見ていた。何かが身体を引っ張ってそれに足が付いていっているようだ。”何か”はきっと気持ち:心と意。心と意が身体を引っ張っている。頭から突っ込んでいくような走り方の子もいる。大人なら足が付いていかなくて前倒れしそう・・・その周りでジョギングする大人たちがいた。ああ、大人は脚(足)から走るんだ。面白い!

 

 太極拳の有名な言葉に『力起脚跟』(力は踵から起こる)というのがある。

 これを聞くと、”踵から動く”、と思いがち。実際、私もそう信じていた。

 その後、『稍節领 (中節随) 根節催』という言葉を知った。

 全身で考えれば、稍節は手、中節は腰、根節は足。つまり『手が力を導く(領)、 腰は従う、足が力を促す・駆り立てる(催)』という意味になる。

 あれ?足ではなく手が先?

 一体、足(踵)が先なのか、それとも手が先なのか? この2つの言葉は矛盾しないのか?

 そんな問いが湧き上がってきて師父に質問したものの、はっきり理解できないまま放っていた。

 

 今改めてこれら二つの言葉を並べて見ると、何の矛盾もないことに気づく。

 『力は踵から』=身体の縦軸を重力に従って地面に下ろすことで踵から地面からの反発力を得る。(身体の縦軸は踵に落ちるということだ。)

 そして『足(踵)が力を駆り立て。手が力を導く』:やはり力は足から生まれる、手からは生まれない。手は足で生まれた力の行き先を導く作用をする。

 

左のイメージ図は『稍節领 (中節随) 根節催』の解説をしていたサイトで使われていたもの。

実際にはこんな風に指は使わない(指先が放松していない)けれど、『稍節领 』のイメージを誇張して理解を助けようとしてくれている。というのは、手指の放松を意識するがあまりふにゃふにゃの指になってしまって、力が指まで引っ張ってこられないケースがある程度のレベルの人に多いからだ。(初心者のうちは手はふにゃふにゃになるくらい放松して、徐々に指先まで気を通す練習をしていく。)蛇口をひねって水を出したあと(足から力が起こる)、その水をある木に向けて飛ばしたければ、そこにホースをつけてその先端を木の方に向け、必要に応じて絞ったりする。中間のホースが『中節随』、そしてホースの先端が『梢節領』。

 

 整理すると、『力起脚跟』は力がどこから起こるか、『稍節领 (中節随) 根節催』は力を体内で貫通させるための要領を言っている。

 逆にいえば、私が抱いた「どこから先に動くのか?」という問いとは無関係だ。

 

 では私たちは動く時にどこから先に動くのか?

 まず、『意到気到力到』 意・気・力は、意→気→力 ではなく 意気力が同時だった、と知ったのが今回のフランス滞在中の練習での最初の衝撃だった(ヴィヴィアンとのピアノのレッスンでもそのことを学んだ)。もちろん、それをしっかり同時に合わせられるように、太極拳の練習ではゆっくり動いて意と気と力をバラバラに見る練習をする。バラバラ練習をしないと、それらをぴったり合わせることはできない。オーケストラのそれぞれの楽器が自分のパーツをしっかり練習してから一斉に合わせるのと同じだろう。

 

 そしてこれとは別に、身体のどの部分から先に動くのか?という問題もある。

 私たちは走る時にどこから動き出すのか?

 おそらく、(私が試した結果だが)、これから全速力で走るという設定で、よ〜い!と構えてドン!となった瞬間、最初に意識するのは脚(腿)だろう。走る練習を積んでいる人なら異なるかもしれないが、私のような大人の素人は、走る時に気になるのは脚。だって、腿がちゃんと上がって回転してくれるのか、そこが心配だから。

 けれども、私たちが子供の頃はどうだっただろう?そう言ってもはっきり思い出せないのが残念なのだけれど、推測するに、気持ちが先走って身体のことはそれほど意識していなかったのではないかなぁ。気持ちに身体が付いてきていた・・・気持ち(心)と身体が一体だったような。心と身体が分離していないから、身体のことを心配する必要がない。大人になると、心に身体がついてきてくれないのを知っているから、身体を労って動いてあげなければならない。そんな風に感じる。

 

 

 左上はトムクルーズ(ミッション インポッシブル?)。その他は子供達。

 子供の走り方を大人が真似したら脚が空回りしそう・・・

 ただ感覚的に全身が一つ(の円、球体)になっているのは子供達。比較するとトムクルーズは前に走っているのにどこかにブレーキをかけているような印象を与える。縦線は垂直。縦線が常に垂直、というのがかえって不自然?

 

 身体は一斉に動き始める。足を待って胴体が動くのではない。軸も常に地面に垂直とは限らない。

左は24式の第8式提収の後、第9式に入る箇所のジーの動作だ。

このジーは上げた左足が着地するのと同時に行うもので、両足を地面につけた状態でのジーよりも難易度が高い。身体全体を総動員しなければならない。身体が一斉に動き出し、縦軸が上の子供のように斜めになる。やってみると丹田の抑え(堪え)がかなり必要だ。実戦ではこのような使い方が多く、動きながら打撃を繰り返す二路で多く使われる。これができるようにするために、一路で縦軸を太くする(丹田の気を増やす)練習をしておく。

 

比較してみると分かるが、このように両足を床につけてやるジーだと、足から動き始めてダラダラダラと繋げてしまいやすい。身体全体が一斉に動く感覚が分かりにくそうだ(対面の人を一気に押し飛ばすような練習が必要?)。ただ太腿の運動になりがちだ。頭から会陰の縦軸が垂直なままなのがかえって不自然・・・

そしてこれを縦軸の水平移動といえるのかどうかが疑問(答えは否だけど、その説明・証明は難しくなりそうなので省略)

 

そう見ていくと、よく見る左のような形が説得力を持ってきた・・・

 

楊式太極拳もやはり全身丸ごとの勢いのある拳法。

子供の動きのようだ。

2021/4/4 <アーチェリーと弓道、縦軸と横軸 武道とスポーツ>

 

  昨日の続き。

  更に調べたらアーチェリーの基本的なshooting positionは「Tポジション」と呼ばれるものだった。 

 

 縦軸は頭を抜けない。(虚霊頂勁がない)

 肩ラインの水平ライン(横軸)を支えるための縦軸。

 いかに標的に当てるか?

 心は100パーセント標的に向かっている。

 それに伴い目(意)もただ標的一方向に集中している。その集中の仕方は(おそらく)標的だけしか見えなくなるような集中の仕方・・・視野を狭めて一点に絞る。

 

 弓道の場合は縦軸が貫通する。(阿波研造範士の写真にラインを入れるのも恐れ多いのですが薄く加筆させて頂きました。)

 そして胸をゆったりと開いて脇のラインで水平線が伸びている。

 目も真っ直ぐ。

 

 写真を比較するとアーチェリーと弓道では構えの趣がかなり違うのが分かる。

 方や、的にどれだけ正確に当てられるか、その結果だけで成績がつくもの、そして方や、その精神および形の美しさまでも問われるもの。

 ゲーム(スポーツ)と武道の違いが姿に現れていると思う。

 

 

 

  shootingポーズを作るまでの動作を見ると、縦軸横軸がどう作られているか分かる。(下のGIF写真 動画のリンクを貼っています。)

 

 アーチェリーは両手を引っ張り合いさせて水平ラインを作りながら構えに入る。

 縦軸の形成動作はない。弓は胸肩腕の力で射る。

 

 これに対し、弓道の場合は、まず両手を頭上まで上げて縦軸を貫通させ(ここまでは合)、それから前後に腕を分ける(開)。合(縦軸)を残した状態での開。これが身体のバネ力になる。

 丹田がしっかり下っ腹に沈む。足が床を推して反発力を得ている。全身で射る・・・太極拳の身体の使い方と同じだ。

 

   目が違うのも比べると分かる。

 弓道は遥か彼方を見ている目。底なしの目。眉と眉の間が開いている。視野が広がった状態で的を見ている。(目を内収して眉間で見ている)

 →視野の広がりの中には”自分”も含まれている。

 

 アーチェリーの目は上述の通り。言葉は悪いが、睨みつけた目に近くなる。標的だけを狙っていて目(意)は前方に出てしまって”自分”を含まない。

 

 <以下私論>

 縦軸は自分を貫通する軸。

 横軸は目標、目的物へと向かう軸。

 縦軸は今、ここ。

 横軸は未来(あるいは過去のことも?)

 

 武道はそれによって自分を見つめ自分を改造する修練を目的とする:縦軸が大事。縦軸を移動させることによって横軸が作られていく。もし縦軸が動かないなら、縦軸を膨らませることによって横軸を作る(縦横の面になる?)

 

 スポーツ、ゲームは得点を得る、勝つのが目的。気持ち(心)はその目標に向かう→横軸の道。

縦軸(自分)は横軸に資する範囲で必要とされる。

 

 太極拳の原理から、武道系の縦軸と横軸、丹田の関係をイメージしてみました。

 

 (本当は射る構えに向けて両手を開いていくコマ送り写真を使うべきなのだけど、省エネのため一枚の写真を繰り返し使いました。)

 

 ①まずは縦軸を通す。気沈丹田。

 ②それから両手を開いていくにつれ、横軸(緑線)が発生。が、実はそれは縦軸が左右(前後)に広がったために形成されたもの。そしてこの縦軸の広がりは丹田の広がりによって引き起こされている。

  つまり、丹田の広がり→縦軸の広がり→水平線の形成

 ③以下、丹田の広がりが拡大

 ④丹田広がってもはや丹田がなくなった(自分を包んでしまった)時に”開”。両手が最大限に開いて、射る準備完了。

 

 身体の合→開。丹田の極小→極大。

 水平線はその中で生まれてくる。

 

 まずは縦軸:督脈任脈を通す。それから12経絡(地球儀の経線)、そして帯脈(赤道)

 ←そのためには丹田に溜めた気の力が必要

 

 太極拳の推手も腕で水平に推しているのではなくてブルドーザーのように身体の縦軸で推している。

 套路の中でも意識的に縦軸を通す動作が各所隠れている。混元太極拳だと馮老師が”隠れた気の動き”をわざわざ明確な動作にして種明かしをしてくれているから気づきやすい。

 

例えば第10式掩手肱捶。大技の前には縦軸を通してそれから身体を開いて(前後に引っ張り合いさせて)それから縦軸のスライドで打っている→”今”(縦軸)が空間を押し分けて時間(横軸)を作り出しているような。

 

その他、丹田を回す時は常に縦軸も通している。

起式は縦軸を通すのが目的・・・

 

 

  私たちは目標志向、未来志向になって目が水平に外に出て行きがち。

  テレビやパソコンに釘付けになっている時は完全に我(縦軸)を忘れている。

 常に縦軸を失わないように生活できれば心は常に今、ここ、理論的にはストレスゼロになる。

 水平軸に気をとられて縦軸を失わないような訓練は套路でもできるし、推手でもできる。ジーも縦軸が通らないとうまくいかない・・・(注:縦軸をスライドさせて動くことで全ての動きが出てくる。縦軸を動かさずに静止させることが中正ではないことに注意)。

  

  なお、軸を通すに当たっては、気で軸を通せるようになりたいもの・・・ここが関門かもしれません。

2021/4/3 <アーチェリーと弓道の違いから学ぶこと 途中まで>

 

 メトロのホームで毎日みかける広告写真。見るたびに、肩はもっと下げて腕の力みを減らして、気は腹に沈めて、正中線を通さなきゃ・・・なんてつい思ってしまうのだけど、そういえば、アーチェリーの正しいフォームというのを確認したことがなかった。

 

   そこで少し調べてみた。

 弓道とは似て非なるもの。

 下半身の重要性が薄いのか、画像検索をすると上半身ばかり出てくるのだが、動画で全身を見ると、 歩幅はそれほど広くなく、普通に立っている、もしくは、突っ張ったように立っている、ということ。気を胸、もしくは胸より上に上げている。上半身の力がメイン。足が地面を踏む反発力を使って射るようなものではなさそうだ。

 

 

  縦軸よりも横軸メイン。

  縦線を通す感覚は薄そうだ。

  目が内収していない。前を向いている(=内側を見てはいない)

 

 弓道はどうだったか? 比べてみた。

 

 

 ここまで書いて時間切れ。

 上の写真の説明、そして太極拳の練習との関係は明日続きを書きます・・・

2021/4/2 <練習メモの読み方 経典の読み方 エネルギーを老化させない、とは?>

 

  今日ふと思った。

  これまで随分長い間練習メモを書いてきているけど、自分で見直したことがない。その時その時に自分が気づいたこと、考えたことを記した日記のようなものだから、過去に書いたものを訂正するような必要性はないのだけど、このブログを長期間読み続けている人、遡って読んでいる人の中には、今書いていることと昔書いていることが異なっていたりして戸惑うことがあるのかもしれない。いや、それも練習の過程の一部だと理解してくれるかしら?

 

  最近の具体的な例だと、これまで何回も取り上げた「含胸」。またまた新たな理解が発生。実は内旋だった、と気づいた。(私のように)身体が開きがちな人(メルクマールとしてはガニ股、外反母趾、挺胸、出っ尻)は身体全体に内旋をかけて”合”を心掛ける必要がある。反対に身体が閉じてしまいがちな人は開を心掛ける必要があるだろう。含胸は首を立てる(頚椎と胸椎上部を繋げる)要領でもある。また、肩の中に空間を作るための要領でもある(身体の横ラインを作る:十字架の横ライン)。

  以前の含胸についてどう書いたのか覚えていないが、練習をしていくと以前の認識にさらに新たな認識が加わっていく。(最初の認識が覆されることはとても少ない。例をすぐには思い出せないくらい) 大変なのは初心者の人が現在のブログを読んだ時。おそらく何を書いているのか分からないだろう(最近の話題もかなり高度だったと思う)。そういう場合は同じ話題のタイトルでサイト内検索をしてもらい、古いブログを読んでもらうのも一案だ。昔の私が試行錯誤しているのがわかると思う。今全く理解できないものはどれだけ考えても分からないので、それはスルーする。分かるところ、もしくは分かりそうなところだけを理解してもらうと良いかと思います。

  コツコツ練習していくうちに何を書いているのかが分かるようになってくる・・・初めて馮志強老師の本(これは経典)を読んだ時に、本当にチンプンカンプンで、1ページも読めなかった。本で予習して師父のレッスンに備えよう、なんて考えた私の甘さを思い知らされたことがある。師父も笑って言っていたけれど、太極拳は絶対に本(経典)では学べない。本は確認のために読む。自分の練習がうまく進んでいるのかどうか、の確認になる。もしくは、この先の練習のヒントになる。まずは練習ありきだ。

  泳げるようになりたかったらまず水の中に入るしかない。教室でいくら理論的に泳ぎ方を学んでも役に立たない。失敗を恐れない。

  ブログはあまりにも無責任だと思う反面、どんなに立派な本を書いても全ての太極拳愛好者の必要を満たすことはできず、もし本当に真実だけを書いたら経典のようになってしまってかえって役に立たない可能性もある。私はこの手の経典を噛み砕いて説明できるようになれば良いかなぁ、と思う。(経典は一文一文に大事なことが書かれていて読み飛ばせない。通常の本は経典のほんの数文の記述について一冊を費やして説明していたりする。解説なしに直に経典を読めるようになったら相当なレベルだ。)

  

 上の含胸についてはそのうちまたメモに書くことにして、今日は友人に見せようと思っていたイチロー先生の動画をここに貼り付けて終わります。「エネルギーを老化させない』、まさに”気”の話。「気の量を減らさない!」ということだ。

 じゃあ、どうやってエネルギーの老化を防ぐのか?

 それはさすがにイチロー先生も答えてないのかしら?

  外見が老いてもエネルギーは老いない・・・

  究極的には仙人になるのか?(笑)

  太極拳の練習とも関連する面白い論点です。この論点だけで余裕で一冊本が書けます。

  

 (イチロー先生動画シリーズ、編集の仕方、最後の無理やりの締め言葉が面白くて一気に見てしまいました。)

2021/3/31 <心到意到 意到気到 気到力到>

 

 前回触れた内三合『心与意合、意与気合、気与力合』(心と意の合、意と気の合、気と力の合)をもう少し考えてみる。これは別の言葉では『心到、意到、気到、力到』、一般的には『意到、気到、力到』と言われる。

 内三合は太極拳に限った話ではなく、私達の日常生活における全ての場面に当てはめられるものだ。

 

 心と意の関係については前回書いたが日常の場面だとどうなるだろう?

 例えば、心の中で今日の晩御飯は何にしよう、と考えながら電車から降りた、とすれば、心と意は乖離している。というよりも、意、自体がはっきりしていない。電車から降りるという明確な”意”がないまま身体が自動的に動いている。

 こうなったら、その後の 意と気、気と力の合は論じることができないだろう。

 

 私たちはあることを考えながら別のことができる。カフェで携帯を見ながらコーヒーをすすっていたり、テレビを見ながらご飯を食べていたり、イヤフォンで音楽を聴きながら歩いていたりする。外から見ると変だなぁ、と思うけれど、自分がやっていると気づかなかったりする。

 以前一度だけ本格的なヴィパッサナー瞑想の合宿に参加して心と動作を徹底的に一致させる練習をしたが、その時分かったのは、私たちが2つのことを同時にできる、と思っているのが実はそうではなく、心がものすごいスピードで2つ間を行ったり来たりしているということだった。そのスピードがものすごく速い(お釈迦様は心の速度は光の速度の約17倍と仰ったとか?)から、私たちは2つのこと、もしくはそれ以上を同時に行うことができる。しかし、もし100パーセントイヤホンから流れる音楽に集中していたら歩くことは不可能だ。100パーセント食事に集中していたら向かいの人とお喋りすることは無理だし、お喋りに没頭していたらタバコを吸うことはできない(フランス人の姿が浮かびました)。

 心は時空的なもの、時間を含む、時間を超えられる(過去にも未来にも動ける)が、意は”今、ここ”からしか出発できない。「お茶を飲む!」と意が形成されたら、それは今なのだ。「明日お茶を飲もう」はまだ心だ。明け方トイレに行きたくなってでも起きたくなくて、「どうしよう、まだ寝たい、起きるの面倒臭い・・・」とむにゃむにゃ思っているのは「心」だ。そしてついに、よし、トイレに行く!と決めて起き上がった時は”意”→気→力になっている。意は動作の始まりだ。意は発火だ。(意は火で形容される。)

 

   これに対し、「トイレに行く!」と決めて起きようとしたら、あれ、身体にうまく力がはいらない・・・と自分が未だに頭の中にいるようだったら意→気に問題がある。

 「行く!」と決めて身体に力が入ったのに、起き上がれない、となったら気→力の問題だ。

 

 前者は「意が達したのに気が動かない(達しない)」

 意=will powerが発動したのに身体にエネルギーが回ってくれない状態。麻酔をかけられて神経系統が機能しなければ当然そうなるし、機能していても繋がりが悪ければ動かしたい場所にエネルギーがいかない。(例えば、耳を動かそうとした場合。私のように動かせない人にとっては耳を動かそうという意があっても気が達さない:耳を動かせる気がしない・・・)

 

 後者は「気が達したのに力が出ない」

 使おうとする部位にはエネルギーが達していつでも動かせるのに、そこから先、外界へと力を発せない状態。たとえば中途半端な寸止めの状態。触すだけで力を発しないおままごとのような推手もそうだろう。お互いに気を感じ合うことはできるかもしれないが、お互いの力を感じ合うことはできない。

 

 最近推手の練習で、師父から「丹田のことは考えるな、ただ足の指と踵、それから手(から発すること)、その途中は要らない。」と注意された。「丹田は内視しなくて良いのか?」と思わず聞き返したら「丹田なんて見てどうする?力が出ないだろうが!」と言われ一瞬面食らったことがあった。

 けれども、そう言われれば、確かに、推手の時に丹田を見ていたら手から先に力が出ていかない。それでは相手を推せない。丹田を内視するのは丹田に気を溜める時。気を力として外に発する時は丹田は見ない。(丹田が存在するうちは”気”。ひとたび気が力になった瞬間に丹田は消失する。*説明する必要あるかも)

 これは気功と武術の違いでもあると思うが、気功として套路を練習する時は丹田を内視し、武術(力を発する)として套路を練習するなら丹田は内視しない(意識しない)。これは一路と二路の違いでもある。ただ、力を発するためにはそれだけの気(エネルギー)の量とそのための通路が必要なので、その前提として丹田を使って気の量を増やし身体の中の通路を開通させるための内功が必要になる。丹田が最終目標なのではないということ。丹田はそれによって体内のエネルギーを増やし開通させるための道具。節節貫通が達成できたら丹田は忘れて身体の中を素通りさせるだけ。身体は空になる。

 

  <追記>

 翌日師父に上の話をしたら、まずは「意到気到」を目標とすること、最初から「力到」を考えると間違った力の使い方になるので、「気到」がしっかりできる(自覚できる)ようになったらその次の段階に進むべきだ、と話していました。気到には丹田が不可欠。

 

2021/3/29 <篠田桃紅さん 心と意 心は時空を包含する>

 

  ここ数日は今月亡くなった美術家の篠田桃紅さんに関する動画を見ていた。

 私が篠田さんのことを知ったのは『103歳になってわかったこと』という本の紹介を机上雑誌で読んだのがきっかけだった。早速本を購入して読んだが、一番心に残っていたのは、100歳は90代と一線を画すというお話。

 以下一部抜粋・・・

 この歳になると、誰とも対立することはありませんし、誰も私とは対立したくない。100歳はこの世の治外法権です。100歳を過ぎた私が冠婚葬祭を欠かすことがあっても、誰も私をとがめることはしません。パーティなどの会合も、まわりは無理だろうと半ばあきらめているので、事前の出欠は強要されません。当日、出たければ行けばいいので、たいへんに気楽です。しかも行けば行ったで、先方はたいそう喜んでくれます。今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。』

 

 90代までは社会の中の人間、多少であれ責務を感じていたのが100歳になると社会から出る。それを「治外法権」と表現したり「半分あの世にいるようなもの」と言ったりもしている。

 私の現在の位置からは90代と100歳以上の差ははっきりとは見えない。20代の時には50代も60代も同じようにしか見えなかった。下から見上げても雲の上がどのようになっているのかは分からない。それを通り抜けてのみ更に上から見下ろして雲の上の世界を知ることができる。

 『この歳になると、誰とも対立することはありません・・・ 今の私は、自分の胃に染まないことはしないようにしています。無理はしま

せん』 100歳を超えた彼女の姿は老子や荘子を思い出させた。彼女のように100歳を超えてもしっかりと自分の道を追求し続けられたら、いつの間にか自然と解脱の境地に達するのかもしれない・・・ 篠田桃紅さんからは長生き、長寿の意義を初めて教えられた。死ぬまで貫いた熱い一本の意、これが彼女の一本一本の線に表現されているようだ。

 

 動画を見ていたら、はっとする描写があった。(https://youtu.be/TUkNgs_JaL0) 

 

 

『墨色にたすけられるように、想いが充ちてくれば、ある機が訪れてかたちが生まれるような気配もある。心の中に煙のように立ち昇るもの、煙よりもとらえがたく、見がたい、人の心という不可視のもの、しかし不可視であっても形を持つもの、を可視のかたちにしたい、と希む。』

 

  なんと、上の篠田さんの言葉は、馮志強老師の『陳式太極拳入門』における、<無極から何かが生まれ(生機)それが両儀(陰陽)に分かれ太極になる>という極めて抽象的な説明の中の、混沌とした無極から生まれる何か、の描写にとても似ているのだ。

 混沌としたものから生まれる命を持ったもの、とは、心?

 

   太極拳の内三合とは『心与意合、意与気合、気与力合』と言われる。心・意・気・力の関係だ。

 意→気→力 については過去になんどかメモを書いたことがあると思う。(とはいえ、そろそろ更新バージョンを書いても良いかなぁ?)

 意は達しているが気は達していない状態、気は達しているが力は達していない状態、というのがはっきり分かるようになれば、内三合のうちの後ろの2つははっきりする。(例えばタントウ功や坐禅で周天をやろうとすると、意と気の乖離がしょっちゅう起こるのに気づく。)

 

 私自身は、意(上丹田)をはっきり捉えるにあたって、その前段階の”心”をもう少しちゃんと理解したいと思っていた。しばらく「心の科学」とも言える仏教をかじったのもそれが目的だったが、仏教はとても分析的で細かく、肉体で悟る太極拳にはそこまで細かい理解は必要なさそうだった。心と意の関係、心がどのように意を形成するのか、これは套路を練習している時も問題となるのだが、套路を練習している時に身体や気、丹田などに意識があると、心や意や観察できない。かといって意を観察しようとすると気が頭に上がって動きがおかしくなる。師父には「意は重くしてはいけない」と注意された。「有るような無いような意が真の意」これが太極拳で言われる「意」についての言葉だ。分かるような分からないような・・・?

 じゃあ、その前の”心”は? となると、太極拳で心について深く語った言葉はこれまで聞いたことがない。仏教のように「心とは何か」については論じたりはしないのだ。

 

 が、上の篠田桃紅さんの心の描写を読んだら腑に落ちた。心、胸の奥で煙のように渦巻いているもの、これが心で、ここから頭に向けてすっと立ち上げていったものが意。心は渦巻いていて方向性がはっきりしないが、意になった時には方向性がはっきりとしている。心はつねにうごめいていて一瞬よりも短い刹那刹那の刺激に反応して形態を変え続ける。ここからその瞬間に合った意識的な動きをするには、心の中から何かを”意”として引き出してこなければならない。意として脳が命令をかけた動きを身体にさせることによって意識的な動きが可能になる。 目の前にハエが飛んでき無意識でハエを手で払った、というような動作や、貧乏ゆすりなどが、心が意を通さずに勝手に身体にやらせているようなもの、無意識の動作だ。

 心というかたちがあるようなないようなものを形あるものとして外に出した時、それはすでに意となっている。逆に言えば、意の前に心が必要だということ。たとえば、最近の練習での例でいうと、旋風脚。ぐるっと回転しながら左足で蹴る技だが、蹴る位置を師父に直された。これまでは南方向で蹴っていたのを西南西にすることになったのだが、そうなると、脚を振り出す前にすでに”心”は打点(蹴る位置)を感じている必要がある。が、ここでもし”心”ではなく”意”を使ってしまうと振り出しのスピードが落ちてしまって結果として打点まで脚が届かない。振り出しの時は心で蹴る位置を感じていた上で、意を打点に向けて線のように引っ張る必要がある。

 套路をやりながら、今は心なのか意なのか? としばし観察していたら、突然、昔聞いた、国際松濤館の金澤弘和宗家の言葉、「心の目で見る」が出てきた。目は上丹田=意、だから、「心の目」とは心と意が一体になっていることを指している。内三合の最初の部分だ。

 

 なんで目だけで見てはいけないのか? それは目だけだと深さ、広さが足りないからだと思う。視野を広くするには心を使う必要がある。その視野の広さは眼科で測定するような面積的だけのものではなく、時間的な幅をも含んでいるようだ。

 上の旋風脚の例だと、左足を振り出す直前に心はすでに打点までカバーしている。心は時間をも含んだ面、空間で事象を捉えている。そこからエイっと足を振り上げたら意はその心の時空の中を矢のように線で動く。目や頭が泳がないようにしっかり抑えが効いている必要がある。

 双推手から技をかける練習をしているが、まだまだ慣れていないから、心の中で技をかけるタイミングを測ってよし、今だ、と動き出したところで、ん? 足はどうするんだっけ? と分からなくなったりする。これは技をかける前に、技をかけ終わるところまでを心が包み込めていないから。心の中の像が技をかけ始めるところまでしかないのが分かる。これも熟練すれば最後までイメージ(といっても時間ゼロの動画、あるいは動きを包含する静止画)ができてくる。

 書きながら思い出してしまったけれど、昔、ピアノの先生に、「曲を弾き始める時には曲の最後まで感じていなければいけない。」ということを言われたことがあったけれど、きっとそれも同じことだったに違いない・・・当時は、どうやって最後まで感じながら今を弾くのだろう、無理、と早々にギブアップしたが、ああ、これは心の問題だった。私は頭でやろうとしていた・・・頭には広さと奥行きがない。心の時間をも包含する広さ、これは含胸とも関連しそうだ(と感じた今日の練習の一コマについてはまた今度)。

2021/3/27 <収縮させながらストレッチ マジックハンドを作る>

 

  時々チェックしている山内流整体の動画。ただのストレッチの先をいく手法で、ポイントは「筋を収縮させながら伸ばす」ということ。実はこれが太極拳の時の身体の使い方に感覚がよく似ている。そもそも「収縮させながら伸ばす」という言い方自体が太極拳的。ただ伸ばしてはいけないし、ただ縮めてもいけない。縮めようとする力が働いている中で伸ばそうとするから引っ張り合い(撑)、張力がでる。

  太極拳での「合の中に開あり」「開の中に合あり」というのも結局は引っ張り合い、張力を生まれさせるということだ。ただの哲学的な理念ではない。いたる箇所で張力が働いているような身体→それは弾力性のある身体、ということ。太極拳の目標とする身体は弾力性のある身体、鞠のような身体、そんな身体から出てくる力は弹簧力(バネ力)。特に二路で練習する力だ。私たちはそんな目標に向けて一歩一歩練習していく。

 

 逆から言えば、到達点は弹簧力、身体の弾力性。そのためには張力を効かせる必要あり。張力を効かせるには、内側を気で膨らませる必要がある(この点についえは前回のメモで説明しました)。

 ①内気の充実→②内気が満タンになって内側が空洞化→③張力発生→④弾力性、弹簧力の発現

 一路では主に①から②の過程を練習、二路では③④を練習する。

 太極拳を練習する大半は一路を練習しているから、②の内気が内側を満たして内側が空洞化する状態(節節貫通)が目標になる。ただ静功で丹田に気を溜めただけでは節節貫通できないので、併せて動功や套路をする。動静双修といわれる所以だ。

 

  最初の動画の話に戻ると、例えばジーの時に感じる腕の内側の”勁”は、下の動画のセルフ整体を行った時にとても近い。

  たった10秒の整体。(具体的な動作の説明は4分20秒あたりから始まります。)

 

  肘、そして二の腕(肱)は太極拳の要。ここがちゃんと使えたらもう太極拳の身体の使い方はマスターできていると言えても過言ではない(私もまだまだ不完全・・・)。一般人が見落としているとても重要なパーツ。

  と、上の山内流動画を見たら、なんと、肘には手の位置とスピードを把握する大事な感覚センサーが埋め込まれていた。なるほど、掩手肱捶は一見パンチに見えるけれど、古人はちゃんと、「それは手ではなくて肱(二の腕)でやるんだよ。」と技の名称で教えてくれている。倒卷肱もしかり。そうか、私たちが通常、手(前腕)で行いがちな動作は全て肘より上、二の腕でやるのだ・・・とそのうち気づけば(というより、身体がそう躾けられてくれば)もう太極拳的身体の使い方、力ではなく勁を使うという道を進み出している(入門したということ?)。

 

 上の動画では、まず①片手を前に伸ばしてグーにして、②もう片方の手の平で伸ばした腕の肘を覆い、それから手のひらを二の腕の方へスライドさせて肘の皮膚を持ち上げる。③伸ばした腕のグーを2秒かけてパーにする、を二回。④最後にグーパーグーバーを速めに3回。、と動作を指導している。

 

 このエクササイズをした時に気づくのは、肘を覆って上にスライドしたまま伸ばした腕のグーをパーにすると、5本の指が肩や脇の中まで繋がってくるということだ。

 

 そのイメージは右の図のようなマジックハンド。

 

 肘の皮膚を覆って上に引っ張り上げると、手をしっかり開いた時に肩や腋の奥まで広がるのが分かる。

 が、もし、肘の皮膚を覆う云々などの技を使わずに、ただ片手を前に出してグーパーしたらどうだろうか? おそらく、肘より先端部分の前腕の筋肉がギュッと締まる感覚しか出てこないだろう。

 

 つまり、山内流を使った前者の感覚(腕の中から腋や肩甲骨まで繋がる感覚)が『勁』、そして技を使わない後者の感覚(前腕の筋肉の収縮)が『力』だ。

 

 前者の勁の感覚についていえば、もし丹田が膨らんで肩や腋までもが一つの空間になっていたらグーパーの感覚は腹まで繋がるだろう。うまくいけば手のグーパーは足のグーパーまで繋がるかもしれない。

 

 最初は片手で肘の皮膚を上にずらして勁を感じてみて、それから補助を外して、片手だけで同じ感覚が得られるようにグーパーの練習をしてみるのも良いかと思う。腋や胸の中を開けなければならない・・・ひいては、丹田が必要になる、丹田で引っ張っておく力(合)の力が必要になるのが分かるかもしれない。丹田で引っ張りながらグーパー、つまり、合しながら開=張力が働く、となる。

左の画像は陳正雷老師(黒い服)だが、その手、腕を見れば、上のマジックハンドのようになっているのがすぐ分かる。撑している手だ。

 

よく見ると、身体全体が撑している。

撑は身体全体から生まれる。

反対に、左の画像のような腕は肘で通路が断絶していて勁が通らない(腕相撲の時の腕のよう)。こうなると前腕の筋力に頼った”力”、身体の内側とは無関係の四肢の鍛錬になる。

 

 生命は四肢ではなく頭を含めた胴体に宿る。

 四肢を胴体の延長として繋げる知恵をぜひ学びたいものだ。

 

2021/3/26 <内棚外撑について>

 

   昨日アップした動画の中で師父が言った『内棚外撑』とはどういう意味なのか?という質問があったので以下そのあたりの説明を試みます・・・

   

 師父は動画の中で私に「力でなくて勁を使え」と注意している場面があるが、、太極拳では一般的に『力』と『勁』を区別して使う。『力』は外、筋肉の力、『勁』は身体の内側、どこから出てきたのか察知できないような力だ。世の中のどんな分野でも達人と呼ばれるような人はみな『勁』を使っている。お茶のお点前でも『力』を使ってお茶を点てている初心者と、『勁』を使って点てている人の身のこなしは全く違う。『力』を使うとごつごつと硬くてうるさい感じ、『勁』を使うと柔らかくて静かな感じだ。私が簡単に思い浮かぶ例は、柔らかい食パンをパン切りナイフで切る時に『力』で切るとパンが潰れてしまう。うまく”通しながら”ナイフを入れていくと潰すことなくうまくスライスできる。『勁』を使う時はそれに似たような”通す”感じがある。

 

 動画の中で師父は、「勁は内側を撑していないと出てこない」と言っている(動画の中では師父が力と勁を逆さまに使っている場面があるが、これは後に訂正。外が力、内が勁。)

 では「内側を撑する」とはどういう状態か?

 焼きたてのふわふわの食パンをスライスしてみてほしい・・・息を止めて力をこめるとぐしゃっとなる。ぐしゃっとさせないように切ろうとすると、少しだが身体をふわっと膨らませようとしていないだろうか?息を吸って肺を拡げるようにしているかもしれない。

 それは内側をあたかも風船のように膨らませようとしている状態。

 内側の空気は身体で言えば『内気』だ。

 

 

その後で師父は「内側も外側も撑する」と私の身体をなぞりながら言ったが、最終的には『内棚外撑』ということだ、とまとめた。

 

まず、はっきり分かる必要があるのは、『撑』(引っ張り合い、張力)を得るためには、その前提として内側の『棚』が必要だということ。

『内棚』なしには『撑』はあり得ない。

 

 上の風船の『内棚』と『外撑』を書き込んだのが右のイメージ図。

 

 風船の中の空気がパンパンに膨らむと、外側のゴムが張ってゴムの表面のどこをとってもピンと張った引っ張り合いの力(張力)が働くようになる。

 もし風船の中の空気が足りないと(内棚が少ないと)ゴムは伸びない=外側の引っ張り合い(外撑)は得られない

 

  つまり、内棚は外撑の前提条件、内棚なしに外撑は得られない、即ち、勁は得られない、ということだ。

  

  なお、師父が内撑とも言っているのは、右の風船の図で、ゴムの内側の壁(橙のライン)がピンと張っているところを指している。風船のゴムの内側の壁が”撑”すれば、外側の壁(水色ライン)も”撑”するのは自明の理。が、内側の壁の撑の前提は内側の内気の棚勁(四方八方に膨張する力)だ。・・・ん?皮膚のたるみの構造も同じ?たるみの原因は内側のハリ不足・・・

 

  

 推手で相手の力と釣り合っておく時は内側のポンが内側の空間を満たして外側の囲いがピンと張っている状態を維持し続ける必要がある(左は陳項老師のジー)。

 少しでも内側のポンが減ると、身体の風船がしぼんで外撑が失われ、動画の中で師父が見せてくれたような相手の攻撃を受けてしまう。

 

 (なお、ジーの時の主要な内ポンは胸のところにあるが、その大元は丹田から広がった身体内部の内ポンです。外撑も主要なのは腕の高さのところの円で描きましたが、内側のポンの結果身体の外側全体が撑します。)

 

 

 上の陳項老師を見てからこのようなジーを見ると、内棚外撑ができていないのがよく分かる。

 このようにただ腕を前にだすと『力』になる。

 推手ならすぐにやられてしまう(そもそも太極拳の力の使い方ではない、ということ。)

 

 推手の練習をすると、自分の力が『力』なのか『勁』なのかを知ることができる。最初は勁を出せていても、動いている間に内側のポンが消えてしまっていることに気づかされることもしばしば。そもそも内ポンが足りないことを自覚させられることもある。

 知れば套路での力の使い方も変わる。内気を養う必要性をさらに実感し静功や内功に励む気持ちにもなる。太極拳の理解がさらに広がるだろう。

  力、エネルギーといった目に見えないものを体験的に学べるのが推手の面白いところ。勝ち負けではなく、かといってシナリオのある演技ではなく、お互いにお互いの身体とエネルギーを借りて自分のエネルギーと力を知るようなinteractiveな推手ができるようにしたい。

 

2021/3/25  <松の意味 単推手における松沈の重要性>

 

  太極拳は松に始まり松に終わる、と言われるほど『松』、余計な力を抜くことを重視する。

  解剖学的に言えば、意識的に筋肉を緩めると、身体の表面に近い筋肉が使われずに、その代わりに深層の筋肉が使われるようになるらしい。

  

  例えば、バレエのアンディオールで股関節を開く動作だと、意識的にお尻の力が入らないようにする(放松する)ことによって、表層の大臀筋が収縮するのを防ぎ、代わりに深層の外旋六筋が働くようになるということだ。

 身体全体の筋肉を繋いで(節節貫通)効率よく動くためには、表層の大きな筋肉に頼るのをやめ、骨に近い深層の筋肉を使う必要がある。表層の筋肉はそれ自体単独で頑張る感があるが、深層の筋肉を使うと骨沿いに筋肉の連関が続いていくようだ。

 おそらく、私たちが幼い頃は表層の大きな筋肉はまだ発達していなくて、骨に近いコアの筋肉主流で動いていたのだろう。成長するにつれ、表層の筋肉が発達し、それに伴いコアの筋肉を使う比率が減っていく。巷でしきりに”体幹を鍛えろ”と言われるのはそのためだと思う。

 

 では、体幹を鍛えるにはどうしたら良いのか?

 と、この問題に対して、太極拳では(バレエでも)力を抜け、という。

 力を抜くことによって、表層の筋肉が頑張るのを防ぎ、その結果、深層の筋肉が頑張らざるを得ない状況を作る、ということだろう(なんて賢い!)  (上のイメージ図を参考にして下さい。)

 面白いのは、私たちがいくら力を抜いていくと表層から抜けていく、ということ。表層を緊張させたまま深層の筋肉を弛緩させるような芸当はおそらく不可能なのだろう。だから、頑張って力を抜けば抜くほど、深層の筋肉が鍛えられる。力を抜き過ぎたら身体を保ってられなくなる(萎れてしまう)からぎりぎり身体を保って動ける程度を目指す。通常は抜き過ぎてふにゃふにゃになる心配をする必要はない。気づいたら力が入ってしまっていた、というのが大半の状態だ。

 

 松がこのようなものだとして、松の練習をして最初に感じるのが『松開』と言われる。開いた感じ、身体の開放感だ。そしてその後、重力に引っ張られるような重さ、沈みが感じられるようになる。これが『松沈』という状態だ。(松開や松沈、そしてその先の松柔などについてはもう少し説明する必要がありそうだけれど、今はこの程度で省略。)

 

<単推手における松沈について>

 前回の動画では、松沈とポンが表裏の関係にあること、松沈なしにはポンが成り立たないことを少し説明しました。今日はその続き、単推手においてなぜ松沈勁が必要なのか、というのを簡単に説明した動画をアップします。

 単推手をすればお互いの功夫が分かる、と言われるのは、言い換えれば、お互いの『松沈』の程度、即ち、『松』の程度が分かるから。

 松をした状態からさらに松をするには、それを可能とするだけの頼りになるものが内側になければならない・・・能敢松?・・・敢えて松するだけの勇気があるか? 難しいのは、自分が余裕でできることについては松できるけれど、不得意なものは松しにくい。3歳の子供相手に腕相撲する時に必死になる大人はいないが、相手の実力が自分と拮抗していると人はなかなか松できない。最初から諦めてしまうのは松とは違う。意の力が抜けてしまっている。 このあたりは意や心との問題も絡んで葛藤が出てくるのだが、推手をするとその内側での葛藤が意識できる。自分の心を客観的に見る訓練にもなる。套路練習ではなかなかできない類のものだ。

 

 動画の中で『撑』と言っているのは、内側を繋げてシーツをピンと伸ばすように張ること。内側のたるみを無くしてピンと張る、そんな意味だ。それは深層の筋肉を繋げて使う、ということに等しい。逆に言えば、繋げて使う(節節貫通)のためには、ピンと張る必要がある、ということだ。(これは関節を伸ばす、という意味ではない。内側の勁の感覚です。)

 

 

2021/3/24 <棚(ポン)と松沈の関係>

 

  先日こちらの師父の男性の生徒さんと推手をさせられた。が、相手の男性はまだ身体の力を使って推手をすることを知らないレベル。搭手(手を合わせて組むこと)した時にもうそれは明らか。推す前に勝負はついている。このまま推手(単推手)をやったら彼は可哀想なことになるなぁ〜。私よりもずっと身体の大きい白人男性でも推手のルール(やり方)を知らずにやったらあっという間に腕が耐えられなくなる。こちらは楽でも相手は汗だく、そんな場面がこれまでもよくあった。

 

  この前の相手は日本人の男性だったから私は日本語で(師父に分からないように)、「これじゃあ公平じゃない、師父も人が悪い。先にやり方をもっと教えてあげればいいのに。」と言って、師父が別の生徒さんを教えている間、その男性に推手のコツを速攻で教えてあげた。要は腕ではなく、身体で腕を支えればいい・・・宅急便の人が大きなダンボールを抱えて持ち上げるのと同じだし、お相撲さんの突っ張りだって同じだ・・・

  幸いその男性は合気柔術の経験のある人だったので少し教えれば即座に理解できた。

  そしてそのままポンと松沈の練習へと移った。つまり、結局タントウ功に戻る・・・

 

  相手の腕が重く感じられる時、相手は自分よりも松している(松して沈むから手が重く感じられる)。相手の松沈勁に対して自分のポン(棚)劲(上に支える力)が釣り合っっていれば相手の腕の重さは感じない。

  単推手をすればお互いの功夫が分かる、というのはお互いの松沈の程度が分かるからだ。

  より多く松している方が功夫は上。

  松している、ということは丹田に気が沈み身体が一つに纏まっているということだ。

  腕がより重い方がよく(丹田の奥の方に)気が沈んでいる→より松している

  そしてより多く松沈できればより多くポンができる。

  というのは、松沈とポンは表裏の関係だから。

  ポンがちゃんとできているかどうかは、その時同時に松沈ができているか、をチェックすれば良いということになる。

 

  ・・・とそのあたりを説明した(つもりの)動画を撮りました。

  文章よりもわかりやすいと思うので参考にしてください。

 

2021/3/22 <意気力を一つにすることについての考察>

 

  前回のジーに関するメモの中で、卓球のバックハンドを思い出したらうまくいった、と書いたことに対してそれが具体的にどういうことなのか、という質問をもらった。

 実は前回、できることなら、”力を一つに纏めるとは?”というタイトルで書きたかったのだが、あの、うまく力を一つに纏めて発することのできた時の状態、その条件などを引き出してくるにはある肝心な点についての理解が不十分だと気づいた。だから代わりにバックハンドの話で適当にスルーしてしまった・・・

 

 補足すると、私にとっては卓球のバックハンドの時の力の使い方がその時師父に習っていた身体の正面でのジーの形に似ていると思ったのだが、その時見ていたのは、その瞬間の身体の中。打点の瞬間、正確には、打点の瞬間の直前、そして打点の瞬間、自分の身体はどのようになっているのか、というのを観察していた。

 

 身体がとても面白いと思うのは、長い間それをやっていなくても過去に習得したものを感覚として記憶しているということ。たとえ筋肉はその感覚通りに動かなくなっていたとしても、内側の私はそれを”こうやってやるのだ”と覚えている。自転車に乗れるようになると長い間乗っていなくても身体が乗り方を覚えている。泳げるようになると歳をとっても泳ぎ方の感覚を覚えている。身体の感覚の記憶は頭で覚えたもの(概念)の記憶よりずっと長いようだ。

 その身体の感覚の記憶を蘇らせるには、自分が再びそれをやっているようなイメージを持てばいい。すると身体の中のエネルギーが動き出して内側で勝手にその動作を再現してくれる。私は外から内側を観察するだけだ。

 

 自分がバックハンドでうまく打てた時の感覚を再現した時、身体の中にあるのは、(表現にこまるのだけど)んーーバン!。 バン!と打つ前にんーーと溜める。(古い記憶から出せば、ピンクレディのウォンテッドの中の、”ウーーウォンテッド!”みたいなもの?)

 発勁の前には必ず”ウー”なり”んー”なりもっと短い間だったりのタメがある。バレーボールのスパイクでもゴルフのスイングでも刀を振りかざした時でも怒鳴りつける直前でも同じだ。気を急激に溜めることによって一気にそれを発することができる。ダムを塞きとめることでそのあと一気に水を流せるのと同じだ。

 けど、太極拳はどうだろう? 

 ここからがまだ感覚的な話に過ぎないのだが、バレーボールのスパイクや刀を振り下ろす時、弓道で矢を引く前のように、気をゼロから100に増やして発勁!という風にはならない感じだ。卓球のフォアハンドではなくバックハンドを思い出したのは、バックハンドは自ら打ちに行くというよりも、相手の球を吸い込むように待っていて相手の球の威力を借りて打ち返す感覚が強いからだと思うのだが、その場合、相手の力を吸い込む間は自分の気をゼロにはできない(バックハンドの時は身体の正面に球が飛んでくるからゼロにすると危険)。向かってくる球に何らかの回転をかけたり角度をつけて打ち返そうとする時、相手の球を引き込む動作自体がタメになり、発勁の前に更に溜める必要はない。(→いつでもどこでも発勁が可能。だからこそ套路練習では丹田の気を常に失わずに転がしながら動く訓練をし、どこにも隙がない=どの点をとっても技の一部分となるような動き方をする。緩急があっても休憩モードの動作はない。)

 即ち、太極拳では既に気が溜まった状態を維持。いつでも発勁が可能。発勁するかしないかは意の問題・・・(身体の準備は完了。あとは発火するだけ)

 

 質問では右手と左手のバックハンドで差はあるか?ということも含まれていたのだけど、手は全く関係ない。ただどうやって発勁をするか、その問題を見ていました。逆からいえば、なぜ最初、ジーがうまくできなかったのか?力が散じてしまっていたのか?力が二つになって一つではない、と言われたのか? それが分かればどうすれば力が一つになるのか、即ち、意と気と力が一つになるのか、そしてその先更にいえば、どうしたら”太極”になるのか、という問いの一部分が明らかになるはず。

 そして、冒頭に示唆したように、核心的だと気づいたのだけどまだはっきり分からないのが、意、そして目。

 バックハンドの時と私が最初にジーをした時の一番の違いは、実は内側の目の向き。

 バックハンドを再現すると簡単に目が上丹田に入って下の丹田と揃う(合う)。が、師父相手にやっていたジーの時は目が明らかに頭の中で泳いでいた。もしくは、頭の中でギュッと絞ったようにしていた。バックハンドの時の内側の目は閉じていない。凝縮しているけど外向きに開いている。

 どんなに腹の丹田を鍛えても上の丹田、目=意が揃わないと全身が一つにならない。

 が、その”目”とは・・・意の問題は心の問題に遡り、本来の「心意混元太極拳」の名の由来に遡って行く。

 

 前回のメモを各直前、しばし『凝神』について書こうかと材料を集めていましたが、話がとても難しくなりそうなので、ただのジーの日記にしました。

 推手で技に展開していくと、目線、意の使い方が重要になってくる。そういえば以前十九代の老師に学んだ時も、目線を細かく指導されました。あの時はその意味が全く分からなかった・・・やっとほんのり分かり出したばかり。

 

 目線を下げて歩く人、目線を上げて歩く人、たかが目線だけど、見えている世界が全く違う。志向するものも全く変わってくる。

 本来、目は、爪先立ちをした時の目の位置らしい。踵を落としても爪先立ちの時と同じ位置に目を維持してみる・・・そうやって街を歩くと大抵の大人とは目線が合いません。たまに合うのはきらきら輝く子供の目。 で、実はその高さが上丹田。ここに目がないと意気力が一つにならない。目を落とすと力が揃わない。何でだろう? と、もっと掘り下げたくなったのが、上丹田を作る最初のメソッドである『凝神』でした。 もっとはっきりしたらまた書きます。

 

2021/3/20 <挤(ジー) 気づかれないようにジーして最後に止めを刺す 綿勁と寸勁>

 

  推手からのリュー(捋)、そしてリエ(埒)を使った招数(技)をいくつか教えてもらい、まあまあ形になったところでジー(挤)の練習になった。ジーは特に難しくない、そのまま推せば良いのだから・・・と思って推したら、「一つの力になっていない」と師父から言われる。「あなたの力は二つの力になっている。」というのだ。二つ? とよく分からないという顔をしたら、師父が私のジーの真似をしてくれた。「じゃあ、一つの力だとどんな風になりますか?」と正しいジーをやってもらう。実際に推されるのは”あっ”という間の瞬間。ジーー、と套路の時に長く推し続けているようなのとは全く違う。

  「あなたのように最初から”ジーしますよ〜”と相手に分からせてしまうと、相手は簡単にあなたのジーを化(躱して攻撃に転じる)できてしまう。相手が化勁できなくなるその位置までは相手に推しているのを分からせてはいけない。ジーの力が相手の体の中に浸透していって最後の最後に発勁すると相手は化できなくなる。」

   師父はそう言って、再度お手本を見せてくれた(というより、やってくれた)。

   力は受けてみてやっと理解できる。

   なるほど、確かに師父の手が私の体を触った時、それからしばらくの間は推された感覚がないのだが、背中近くまで力が達した時にとどめのようにバン!と推されて倒れそうになる。

 

  その時の感覚を私なりに図示してみました。

  

 

①は師父の手が私の体に触れたところ。

 

驚いたのはそこから背骨に届く直前まで、つまり、背骨の前側、腹の区間は何も推されている感覚がなかったということ。

これが②で示している矢印。

 

推された感覚が出たのは背骨の前側まで既に推されていた時・・・これが③

 

つまり、②の間は無感覚で、気づいたら③の寸勁(瞬間の力)で後ろに倒れそうになっていた。推されたのに気づいた時には既に時遅し・・・と、やってもらって初めて実感できた。(②のような相手に分からないような柔らかい力を使う発勁を綿勁という。綿勁の最後には寸勁が含まれているはず 明日師父に確認しよう。)

確かに冒頭に師父が私に言った通り。最後に仕留めるその一撃までは相手に力を分からせてはいけないのだ。

 

 その時、ははあ、と何故か私も真似できる!と思った。師父に私にもやらせてほしい、と頼んで、師父相手に師父の真似をしてジーをやってみた。理屈は分からなくても、力の真似はできる。案の定、いや、思いの外うまくいって、師父は目を丸くして驚いた。非常好! 一回の示範で習得できるなんて、天才? と自分でも得意になってその日は練習を終えたのだが、実はそんなに簡単ではなかった。翌日同じようにやってみようとしたらうまくいかない。あれ?昨日はあんなにうまくできたのに・・・まぐれだったのか?

  その後練習して分かってきたのは、師父が示範してくれたその直後、師父の気感を身体がそのまま受け取ってそのまま身体で返した時はうまくいく。が、頭(思考 うまくできるかなぁ、とか、ここはこうして、ここに注意して、とかという考え)が少しでも介入するとうまくいかない。意と気がバラバラになってしまうのだ。これを、師父は「二つの力」と表現したのだろう。

 

  ジーがうまくいかないと、こっち向きに力を出せ!、とか、胯を松しろ! とかいろいろ注意されて、それを意識してやると間違いなく力はバラバラになる。一つに統一されない(整勁=丸ごと一つの力、にならない)。注意すればするほどできなくなる・・・ がっかりして帰宅して、あ〜あ、なんで最初の一回だけうまくできたのだろう? と思い出してみたら、あっ、あれは卓球のバックハンドに似てる! とこの前ブログに載せたばかりの馬龍のバックハンドの発勁を思い出した。なんだ〜、そっか・・・ とバックハンドの素振りを数回復習して、翌日再度師父にジーをさせて欲しいと頼んだ。バン!っとうまく推せて師父の身体がゴムまりのように後ろに退いた。念のため3回ほど連続してジーをさせてもらい、まぐれでないことを確認。師父は、できるようになったな、じゃあ、その次の招数に進もう・・・と、どういて私が開眼したのかも聞いてくれなかった。どうやってできるようになったかよりも、できるようになるのが大事、というのが師父のスタンス。私は、どうやってできるようになったのか、というのがとても気になるタイプ。人それぞれ気づき方は違くて、それを知るのはとても面白い。

 

 

馮志強老師のジーを見てみる

https://youtu.be/t1Et8_7QsWs

 

 

 

←上の画像だと速すぎてよく見えないので、最後のジーの部分をスロー再生してみた。

 

核心部分が見えそうで見えない・・・その部分を更にパラパラで見てみると(↓の連続写真)・・・見えた!

 

  ①でジーが始まって③に至るまで、相手の体は前方に突っ込んでいってしまっている。もし馮老師のジーが最初から硬ければ(松していなければ)、相手は①あるいは②の時点で馮老師のジーの力を削ごうとしたはず(化勁)。(私が師父に最初ジーをした時は、①のところで気づかれて簡単に躱されてしまった。)

  相手は③の時点でもまだジーされていることに気づいていない。④で初めて気づくのだが、その時は既に馮老師の力は背骨近くに達している。背骨が崩されると後脚の突っ張りが消えてしまう(中正が崩れる 中正は背骨からハムストリングスを通るライン。ハムストリングスが使えない状態にされると簡単に崩される)。

 

   ①から④の直前までが相手に分からせない綿勁。全身松のままジーする(ということは全身でジーすることと同じ)。そして④から⑥は寸勁。股関節や腰の緩みを使って一気に発勁する。

 

  ということで、ジーは二段階に分かれていたのだけど、套路ではこんな風にジーの最後に発勁をしないから新しい発見。套路の中のジーでいちいち発勁していたら気がもたないだろうけど、本当は発勁できるのだと知ってやると体の中の気の使い方、最後のジュワッと感が全く異なる。

 まだまだ知らないことが多そう。知ると更に面白くなる。

2021/3/18 <ハムストリングスに着目 坐胯と坐臀>

 

   今更ながらハムストリングスに注意を向けたら世界(人間?)を見る目が変わった。

 世の中がハムストリングスを使っている人と使っていない人の2種に二分されているかのようだ。

 動物、例えば馬を見るなら、前に歩く、あるいは走る動力は後脚の後方への蹴りだ。私たち人間の脚も後ろに蹴ることで前に進むように作られているのだが、次第にその機能は低下しているようだ。目を使う室内の作業が多くなればなるほど、姿勢が崩れて前肩になり股関節は屈曲する。いわうる猫背。股関節が伸展すると肩は開く。股関節と肩は連動する。

 

 もう一度最近の画像を見直した。

  一連の動作をどこで切り取っても、お尻から膝裏に繋がるハムストリングスに力がある。うっすら力こぶが見えそうなものもある。

  下のように画像を並べると、いわゆるスクワットとは違うのが分かる。(通常のスクワットだと腿裏はぺったんこ。というのは、骨盤が立っていないから=斂臀のみで氾臀ができていないから。斂臀だと股関節は屈曲、氾臀だと股関節は伸展。胯の松は斂臀➕氾臀=骨盤(仙骨)を立てること。すっと分からなければ再度説明する必要あり)

 同様に、有名なイチローの肩入れストレッチも・・・

 

 イチローの腿裏はしっかり盛り上がっている。実はこれは肩入れストレッチではなくて、股関節を伸展させることで肩関節を開き肩と胯の合(外三合の一つ)を作っている。肩入れすれば四正勁・四隅勁が感じられる。が、私たちが真似すると真ん中の写真のようになりがち。これだと肩と股関節の連動は感じられない。右端の写真は肩と胯の合を全く無視して無理やり肩や手首を捻っている・・・

 

  と、ハムストリングスに注目していたら、今日は師父のズボンがベージュのぴったりめ。後ろからみるとハムストリングスが見えるではないか!! と、生徒さんを教えている姿を後ろから撮りました。生徒さんたちと比べると違いが歴然となる。

ハムストリングスを使うためには、ハムストリングスを使おう♪と思ってやってもうまくいかない。

動いている最中も骨盤を立て続けられるだけの腹(丹田)の力が必要になる。

上の生徒さんたちの下半身を見ると、脚は伸びているのだけど師父のように腰や骨盤が脚と一体化していない。

 

具体的な練習方法としてはタントウ功の時にまずは『坐胯』(kua股関節に坐る)をやること。その場合はお尻のえくぼの位置にある環跳穴(

股関節をお尻側から触るような位置 胆経 日本と中国ではこのツボの位置が違います)にひっかけて立てるようにする。

そしてそれができるようになったら、『坐臀』を練習する。お尻に坐るといってもお尻の肉を固めて坐るのではなく、お尻と太ももの境目にある”承扶穴”(坐骨の位置 膀胱経)の”点”にひっかけて立つ(その場合お尻の肉は緩めておかなければならなくなります)。

  坐胯(環跳穴に坐る)の段階では、ハムストリングスの坐骨に近い部分がまだ使い切れていないが、坐臀(承扶穴に坐る)までできるようになると、ハムストリングスの付け根から膝裏までしっかり使えるようになる。そして承扶穴が自覚できる時には股関節は伸展し、太極拳で言う所の『氾臀』になっている。

 

 最後に 千代の富士のムキムキお尻とハムストリングス(環跳穴と承扶穴を加筆)、そして大好きな馬龍の腰〜ハムストリングスの発勁。

 

2021/3/17 <ちゃんとした伸展だとハムストリンズスが盛り上がる>

 

 次の話に進む前に、股関節の伸展について面白い記事を見つけたので紹介します。

 筆者は股関節の伸展によって膝を劇的に良くしたらしい。(https://kikoukairo.com/archives/2367

 

まずは左の図。

 

リンク先には、「股関節がちゃんと伸展すると後ろ脚のハムストリングスが盛り上がっているのが分かりますね?」とある。

つまり、股関節がちゃんと伸展できているかどうかはハムストリングスを触ってみれば分かるということ。

 

左の走る姿は前後の弓歩と同じ。弓歩で前に重心移動する際は、後ろ脚のハムストリングスが盛り上がる(までいかずとも収縮して硬くなる)。これを手で触って確認してみると良さそうだ。

 私自身は左足前、右足後ろの弓歩の前進の際、相当注意して動かないと右ハムストリングスが盛り上がってこない。右股関節の伸展が不十分ということなのだが、意識してハムストリングスを盛り上げていこうとすると、気を腹底まで沈ませて、股間(裆、骨盤底筋のエリア)の面積をさらに拡大ししなければならなくなる→踵で地面を推す感じが強くなる。腿の裏が弛んでいるのは股関節の伸展が日頃から足りない証拠。女性は特に注意。ちなみに、アキレス腱を伸ばすような動作ではハムストリングスは起動しない(弛んだまま)。ハムストリングスを使うには骨盤底筋を広げる→腸腰筋を使って股関節を伸展させる必要あり→https://kikoukairo.com/archives/2372

の数々。

 

 

上のリンク先で筆者が試している股関節伸展の運動の数々。

 

しかしどれも太ももの前を伸ばした感覚しかない。腸腰筋を使っている手応えがない・・・

 

と、筆者が最後に行き着いた運動が目から鱗。

 

 ベッドや椅子を跨いだ弓歩の姿勢。

 両手で椅子を押さえて(按して)股間を椅子スレスレに浮かすようにする(=会陰を引き上げる)のがミソ。そうすると前脚と後脚の間(=裆,股間 骨盤底筋)が広がり腹にグッと力が入る(腸腰筋が起動する=丹田が現れる)。

 

 股関節の伸展をしっかり行うには股間がしっかり伸びなければならないのが分かる。これは太極拳なら『円裆』。そして『円裆』は”按”をした時のように腹底まで気を落とすことで作られる、というのもこの実験で分かる。

 とすると・・・

 上のような後脚はどれも伸展が足りないということ・・・(ハムストリングスの盛り上がり、収縮が見られない)。 足裏で地面を推しているように見えて、その力はせいぜい膝裏までしか伝わっていない。股関節を突破して腰へと繋がらない。

 

  左右の重心移動での蹴り足側についても同様のことが言える。

 蹴り足側の股関節の伸展がなければ(左右でも伸展が必要!これを太極拳だと”膝のポン”と表現するが、実体は股関節の伸展を加えるということだ。)それがないと、反対側の膝に体重が移動してしまう(結果として右の写真のように中正が崩れてしまう)。

 問題は蹴り足側・・・

 

 それにしてもなかなかお手本になる画像が少ないのが残念。

 

 

 左は最近撮った師父の懒扎衣での左右の重心移動。

蹴り足のハムストリングスがちゃんと使えているのは股間の状態から分かる。

 

 実はこのようななめらかな重心移動には、股関節の伸展だけではなく内旋から外旋へのスムーズな変化が必要なのだけども、それはチャンスーの話になるのでまた追々・・・

2021/3/16 <股関節を緩める≠屈曲 発勁には伸展が必要>

 

 昨日のメモの最後に股関節の伸展が足りないという事実に行き着いた。

 

 太極拳を真面目に練習すると問題になりやすいのが膝。太ももの前側の筋肉(屈筋 前進に対しブレーキをかける筋肉)を使いすぎて股関節や腰にも負担がかかる。筋肉が縮こまり、各々の筋肉が分断して働いてしまう。結果、練習すればするほど、”身体の内側を開いて全身を一つの空間として繋げる”という太極拳の目指す方向から乖離していってしまう。

 

 やればやるほど遠ざかってしまうその悪循環を断ち切る最初の一歩は、基本姿勢(タントウ功)での「松胯(股関節を緩める)」の認識を変えることではないか?と気づいたのは昨日のメモを書いた後のこと。

 よくよく考えたら、私たちが「股関節を緩めろ」と言われて行う動作は、実際のところ股関節の”屈曲”だ。 しかし、”屈曲”が”松(緩める)”ことなのだろうか? 

 いや、違う!股関節を緩めるとは、股関節の6つの動き(屈曲・伸展、内転・外転、内旋・外旋)これら全てをすぐに行えるようなニュートラルの位置に置くこと、に違いない・・・と、頭の中には、下のようなイメージ図が湧き上がっていました。(https://blog.goo.ne.jp/alohadream/e/c3aefece8010dc8c6380bbdc55209c0d より)

 

 

 つまり、基本姿勢の練習でもあるタントウ功で会得しようとしているのは、その位置からなら前にも蹴れるし(屈曲)、後ろにも蹴れる(伸展)、相手の脚を払う(掃腿)こともできれば掬うこともできる(外転や内転)、そしてすぐさま真後ろに向くように回転できる(外転:摆脚、内転:扣脚)、そんな股関節の状態ということのはず。 瞬間的に腿をどうにでも動かせる、どっち向きにも動ける、そんな股関節の状態が「松胯」、「股関節を緩める」ということだ。いわば、車のギアのニュートラルの状態。エンジンはかかっているけど進行方向を決めていない。前にも後ろにも進める状態(飛行機なら左右、上下もあるかな?)。

 

 昔、一度だけロンドンのハイドパークのだだっ広い芝生の中で一人タントウ功をしたことがあった。いつもは御苑や代々木公園などの木に囲まれた場所で練習しているのに、ゴルフ場のような芝生の上にただ空があるだけ。広い空間の真ん中に一人ポツンと立つことがこんなに心細いとは思わなかった。後ろからいつ人に狙われるか分からない。横からだってありうる・・・

 武術の世界なら敵にぐるっと囲まれることもあるだろう。そんな時に、どっちから来られても動けるような体勢・・・腹にしっかり気を落として冷静でいながらも、足は素早く動けるようにしておかなければならない。どかっと中腰で座っている場合ではないのだ。

 タントウ功で実験してみると良いと思うが、まず、(相手が前から攻めてきて)そこから後ろに咄嗟に飛び退く(撤)ことをイメージする。すぐに後ろに飛び退けられるような股関節の状態・・・きっと鼠蹊部にいつもよりも隙間をとっているはずだ。では、逆に、後ろから押されそうになって咄嗟に前に飛び退くなら? 後ろに飛びのく準備をした時はつま先側に意識があって鼠蹊部に隙間があったが、前に飛びのくなら踵側、お尻の方に隙間を開けているだろう。同様に左に飛び退くなら?(微妙に右足に乗って左の股関節の外側に隙間を開けるかな?) もし咄嗟に右に振り返って反対を向くなら?(右股関節は外旋、左股関節は内旋の準備をする)

 これらの動きをどれもできるような股関節の状態が「松胯」。「股関節を緩める」ということだ。股関節を緩める=股関節の屈曲、ではない。

 

 ここを間違えると、太極拳は常に縮こまった伸びのない動きになってしまう。

 屈曲ばかりで伸展がないとどうなるのか?

 体重移動の時に後ろ足で地面を蹴ることができなくなる。

 つまり・・・

http://www.cure-bodytalk.com/article/15659891.html

 

上記サイトで書かれている通り、股関節の伸展(股関節の反らし)には、歩く時や走る時に、地面を後方に押して体を前方に運ぶという役割” がある。

しかし、私たちの生活の中でこの股関節の伸展の機会はますます減っているという・・・

 

 上の図のようにうつ伏せに寝そべって股関節を伸展させるとお尻の中が動く感覚がある。これを覚えて、いざ、歩いてみる。歩いた時(着地して最後に後ろに蹴るところ)に同じようなお尻の感覚があればちゃんと地面を推して歩けている。そしてそれは太極拳での前への重心移動でも同じこと。前方に重心移動する時、後ろ足のお尻の中が股関節の伸展になっていく(お尻の中にイタ気持ち良い伸びる感覚がある)。

左は馮老師の斜行の途中の動作。

前方への重心移動の際の後ろの右脚(右股関節)に注目。

前の左足が着地した時点では右股関節は屈曲。

その後、左足が地面を突っ張るように推すことで股関節は次第に屈曲からニュートラル、そして伸展になっていく。ここでは発勁はしていないが、発勁をするなら伸展する時。後ろ脚の股関節が屈曲のままだと発勁できない。ゴムをびーんと伸ばしてから離す感じ。伸ばせないと飛ばない。

 

・・・と言っても発勁は屈曲/伸展だけでも無理で、この話はチャンスーへと繋がるのだけど、続きはまた日を改めて。

2021/3/15 <肩と胯の合 お尻の中を使う>

 

   纏糸勁を意識し出したら、至る所でそれを使っている(使うべき)ことに気づく。推手で粘りつく(粘连粘随)にも纏糸なしには不可能だ。

 纏糸勁は松から初めて気を丹田に溜めてそれを煉っていくことで自然に現れてくる。煉る作業は内功(馮老師の混元内功 以前紹介した)で行なっていく。丹田で気を煉ることができるようになったら、それを四肢へと繋げていく。これが馮老師の編纂した纏糸功だ。内功なしに纏糸功をしても四肢運動になってしまう。また、内功をするにあたってはその前にタントウ功をして丹田に気を溜める必要がある。

 整理すると、①タントウ功で丹田に気を溜め ②内功で丹田の気を練り、③纏糸功で丹田の気を煉りながら四肢に気を通していく。

 とはいっても套路の中に纏糸勁を使うところはたくさんあるので、特に③をやらなくても套路の中でその練習をすることは可能だ。

 

 推手の練習をしていて非常に大事だと感じるのは肩関節と股関節の開きと連動。

 肩と胯(kua=股関節)は外三合の一つ。が、肩と胯が”合”する(連動する)には、その前提として共に”開”(開く)必要がある。肩がガチガチだったり股関節が詰まっていては肩と股関節の連動が得られないということだ。

 

 そして最近特に大事だと思うのは、太極拳の套路は一路だけでなく二路も学ぶということ。一路だけでは身体は下へ下へと重くなりがち。中腰で踏ん張るのが太極拳だという誤解を招きやすい。跳んだり跳ねたり回転したりという動きがないので上半身と下半身の連動や軸の取り方、引き上げなどを学び辛い。馮老師は晩年、二路を一路のようにゆっくりやることを勧めていて、そのような教材ビデオも作った。本部でもかなり二路を宣伝していたのを覚えている。発勁も大事な練習だ。声を出し気を出すことでストレスも発散できるし、出したあとで新鮮な気を取り入れることができる。一路で静かな練習をして二路で活気のある練習をする。静かな練習は大事だが太極拳の最終的な目標は活き活きとすること・・・仏教ではなく道教だ(と以前馮老師の三女がそう話してくれた)

 

 併せてここ数日、単推手で脚の内旋の力がそのままドリルのように手まで伝わる様子を何らかの形で表現したいと材料を探していたのだが、材料になりそうな陸上選手の動画を見ていた際、そのドリルの力が多くの場合、股関節(お尻 環跳穴)に届く前に切れてしまうことに気づいた。

 

 まずは馮老師の二路、お尻がよく見える角度を取り出した画像をチェック。

 お尻や腰にクッションが入っているかのように丸々しているのが分かるだろうか?

 跳んで着地した時にその衝撃がお尻を通って上下から抜けている。衝撃が膝や股関節、腰、、その他に残らないのだ。身体が避雷針のようになっているのだが、そのためにとても重要なのが股関節のクッション。お尻側の環跳のツボをうまく使う(お尻を固めずゆるくしておいてお尻の”えくぼ”の奥の方を使う)のがお尻をクッションにする秘訣。

https://smartlog.jp/151073 https://dietplus.jp/public/article/news/20170822-130894
https://smartlog.jp/151073 https://dietplus.jp/public/article/news/20170822-130894

逆に言うと、左の図のようにスクワットをするとお尻の表面がカチカチになってお尻の奥の方の筋肉が使えない。お尻がクッションにならず、お尻に乗っかってしまったようになる=気がここで通らなくなる。=上半身と下半身が断絶。

内側の勁ではなく外側の力を使うような姿勢(筋トレだから当たり前・・・)身体に柔らかさがなくなる(そもそも丹田は作れない)

 

 

  結局、骨盤(仙骨)を立てる必要がある。

  ここでアスリートの美しいフォームを見つけて感動・・・

 

米国のアリソン フェリックスのフォームです。前から見ると四正勁(両肩と両股関節を結んだ長方形)が常にブレずに中正を保ったフォームを維持している。

そして左は横から見たフォーム。

お尻から脚なのがよく分かる。

お尻(股関節)から脚を回転させると腿の裏側(ハムストリングス)を使った走りになる。(https://youtu.be/x_DgqoxjpZQ)

 走る時はお尻の肉は放松していないと走れない。股関節はお尻の肉が緩んでいなければ回転できない。

 アリソンフェリックスのお尻を見てから馮老師のお尻を見たら、どこかに共通点はないだろうか? そう、お尻が柔らかく弾力性があるのだ。お尻が自由に動く。お尻に表情がある・・・

 

 その後、いろいろ見ていたら、衝撃的な事実が・・・

 上は中国と日本のトップスプリンターの歩き姿だが、着地した足の衝撃が太ももの前側で止まってしまって股関節(お尻)に抜けていない。日本の選手達は総じて前肩で猫背の人もいる。前肩だと股関節も開かないからお尻の筋肉が発達せずお尻が下がってしまう。そして脚が太くて重くなる(筋力に頼って走ることになる)。

 

 私たちの骨格は背骨の湾曲が少なく平たいのでどうしてもお尻の中で股関節を感じ辛い。馮老師が恵まれていたのはもともと出っ尻でハムストリングスが使いやすいという点。私の師父も小さい頃からお尻が丸々していてそんなあだ名が付いていたという。お尻が使えないと背骨を通すこともできない。膝も故障しやすい。

 

 ということで、お尻はどうにかしなければならないのだけど、一つの練習は脚を後ろにも上げること。脚を伸ばして前に上げる動作は股関節の屈曲、脚を後ろに上げる動作は股関節の伸展だ。屈曲と伸展、両方することが必要。そして、実は、しゃがむ時は股関節の屈曲、しゃがんだ状態から立ち上がるのは股関節の伸展。なので、しゃがむ時はあたかも脚を前に上げるかのようにしゃがむ。そうすると膝の屈伸でしゃがむのを回避できる。そして立ち上がる時は後ろに脚を上げるつもりで立ち上がってくる。股関節の屈曲と伸展を使えば太ももの前側の筋肉を収縮させる必要がなくなる。膝への負担もなくなる。そして下半身と上半身も繋がる。

 

 股関節は鼠蹊部の方からもお尻の方からも意識することができるが、脚(大腿骨)はお尻の奥まで繋がっているという意識をもって生活したいもの。

 

こんな風に肩を開いて肩と股関節で歩けるようになるのが理想。私たち日本人はなかなかそうはいかないかなぁ。中国の老師ならこのくらい堂々としている。

 

肩と股関節の合から四正勁が生まれる

陸上選手にもそれを見ることができる。

2021/3/12 <纏糸功に対する新たな視点>

  

   昨日の質問に対する回答を書きながら、チャンスー(纏糸)に関して改めて気づくことがあった。

 

 

  まず、馮老師や顧留馨の書(『陳式太極拳』これもバイブル的存在の本)などを見ると太極拳は纏糸螺旋運動でこれが分からなければ太極拳とは言えない、というようなことが書かれている。

 一方、師父によれば、太極拳の打撃の際の力の使い方はさまざまで、チャンスーだけが劲ではない、という。自分で思い出しても技の中にはチャンスーを使うものもあるが、チャンスーを使わずに爆発させるようなものも多くある。(師父は、チャンスーは防御で使う方が多いだろう、とつぶやいていた。)

 この両者は矛盾していないか? と一瞬疑問が起こったのだが、おそらく正しいと思われる気づきあり。

 

 思い出したのは、套路の中で馮老師が粘くチャンスー勁を使っている肘技があったこと。通常はバン!と肘で突くが、ゆっくり示範している時はチャンスー勁が外から見てとれる(下の上段2枚の画像)。(下は24式第20式の始まりの肘技(穿心肘)部分)

 上段の2枚(日本で撮影した24式の解説動画)はゆっくり動作を説明しているせいか肘技にチャンスー勁がかかっている。

 上2枚を見てから下段青ジャージの馮老師の肘技を見ると、発勁のギリギリまで丹田の粘さ(チャンスー)を維持しているのがわかる。(その横の師父の肘技になるとチャンスーが分かり辛くなる。)なお、このようにチャンスーの腹の球から糸を引き抜くように力を引き抜くのを抽糸という。抽糸勁は纏糸勁を前提にしていると言われるのは糸を引き抜くにはその前に腹に毛糸玉ならぬ気の球を作って置かなければならないからだ。抽糸をする直前には一つ円を描くことが多いはず。

 

 そして実際にやってみると分かるが、最初は上段の馮老師のようにチャンスーを使った方がキマった感が得られやすい(内勁が感じられる)。最初から下段の師父のようにバン!と真似するとすっこ抜けたようになりがち(外形だけで中身が伴わない)。

 二路の炮捶になると下段のバン!という発勁が多く、チャンスーの粘い技は少なくなる。二路は実践に近い打ち方だが、もし最初から二路を学ぶと外家拳の少林拳や長拳と変わらなくなってしまう可能性が高い(筋骨肉の運動になってしまう)ので、まず一路で放松を徹底的にやって内勁で動くことを身体に覚えこませる、というのが太極拳の修練方法だ。

 

 一路で内気を溜めて内勁で動くことを練習する時に、必ず内気を煉るという作業が出てくる。内気を擦り合わせて(揉み合わせて)粘くしていく作業だ。内気を煉って量を増やし、そのうちそれを四肢に伝達する時に現れてくるのが纏糸勁。粘い線状で出てくる力だ。内気を煉ることから自然に現れてくる。そしてその延長線上に発勁がある。それはマッチを擦ってマッチ棒に火をつけるような感じだ。

 (腰も含めた)丹田でゆっくり内気をこすり合わせれば纏糸勁が現れてくる。一気にこすり合わせると発勁になる。高レベルになればなるほど纏糸は見え辛くなる(感じ辛くなる)が出発点は纏糸勁だ。(冒頭に揚げた顧留馨著の『陳式太極拳』には”練習が進んでいくとチャンスーの円はますます小さくなり、有っても見えなくなる。最終的にはチャンスーは意で感じられるだけになる”と書かれている。)

 

  実は普段練習している動功(立円、竪円、水平円)には全てチャンスーが含まれている。馮老師は内功と併せて纏糸功の練習方法も残してくれている。初心者のうちは纏糸功をやってもただ腕をグルグルしているとしか思えないが、丹田を使って内気を導けるようになればとても面白くなる。纏糸功によって内気を煉ることもできるだろう。再度新たな視点でやってみるべきだ。

 

 

 2021/3/11 <纏糸(チャンスー)について>

 

  昨日のメモの中で、「推手からの埒(lie)の力の使い方が”太極円での合”と同じ使い方だった」、と書いた点について、「その”合”とは”順纏のことですか?」という質問があったので補足。

 

 まず、太極円と書いたのは、下のような両腕の回転(そのような腕の回転をもたらすような丹田の回転がまずあって、それが腕に伝わって腕の回転が起こる。)

 

 下は馮老師による右回り(時計回り)の太極円の前半の動き。

<1>前半:右手が上、左手が下、でスタート。

  ①右手は下向きに回転。左手は上向きに回転する。

   →これを”転”(回転)という。 

  ②そして①の回転をしながら

   右腕は内旋・右手の掌心が内側を向いていく=右手は順纏

   左腕も内旋・左手の掌心も内側に向いていく=左手も順纏

   (二の腕が内旋する・掌が自分の方に向いていく動きは順纏、

    二の腕が外旋する・掌が外に向いていく動きは逆纏)

  ③スタートは右手と左手が開いた状態=開 

   前半終了時は右手と左手が近づき=合、前半は開→合の動き。

    右手と左手は共に順纏。合の後で逆纏へと変化していく。

 

 続いて下が後半の連続写真。これで太極円、一回転完了。

<2>後半

  ①左手は下向き、右手は上向きの回転

  ②右腕は外旋・掌心は外向きへ=右手は逆纏

   左腕も外旋・掌心は外向きへ=左手も逆纏

  ③後半は合→開の動き。右手も左手も逆纏。 開の後、順纏へと変化。

 

 なお、上は時計回りの太極円ですが、同様に反時計回りもあります。

 

 ということで、最初の質問に戻って、「”合”とは”順纏”ということですか?」については、上のように分析すると正しいということになる。

 ただ、その質問を師父に投げたら、「開合と順纏・逆纏は別物。開合の時に纏糸劲は論じない。」と言っていた。ちなみに八法(ポン リュー ジー アン ツァイ リエ 肘 靠)もチャンスーは使わない。

 私が埒(リエ)の時に太極円の開→合の身体の使い方をすれば良いと思ったのは、腕の順纏を意識したのではなく、前半の馮老師の連続写真の第1枚目(開)から一瞬で第6枚目(合)になる時の腹腰の中の動きをイメージしたのだけれども、その時は急アクセルを踏むので腕に缠丝劲が生まれない。(そもそも腹腰の動きが急アクセルでないとリエにならない。)

 師父も言ってが、缠丝劲は確かに陳式太極拳の特徴だけれども、缠丝劲を使わない打撃方法はたくさんある(24式内なら野马分鬃、双推手など)。第二路の炮捶ではほとんど使わない(というより全く使わないのでは?) ただ、爆発系の力の出し方をする前提としてチャンスー(纏糸)の力の出し方(丹田の回転がグルグルと骨に纏わり付いて手まで伝わるような力の使い方)を会得する必要があるのかもしれない。実際、チャンスーをかけるよりもチャンスーをかけずに発勁する方が丹田の気の量がずっと多く必要・・・(だから一路を練習してから二路の炮捶の練習をするのではないかと思う・・・確認の必要あり)

 いずれにしろ、大事なのは、纏糸(チャンスー)は腕の動きに現れるけれども、その原点は丹田で、丹田から腕、手への力の伝え方。肩から先だけで回転させるとタコの踊りのようになってしまうので注意が必要です。馮老師の纏糸功のテキストに、纏糸功を練習する前は必ずタントウ功を30分はすること、と書いてあるのはそのため。

 

2021/3/10

 

  太極拳は”妙”とか”巧”という形容がよくなされる。”妙”でなかったり”巧”でなかったりするのは太極拳ではない、と師父も言う。套路練習だけではその意味がよく分からないけれども、技を練習するとその意味が体感できるようだ。

  若い頃はまった『少林寺』の映画の中のリーリンチェイ(ジェットリー)の動きはとても格好良かった。ブルースリーだってジャッキーチェンだって物凄い速さで打って打って打ちまくる。ものすごい運動神経♪と見ていてスカッとする。これらはアクション映画だ。

  これに対して太極拳の場合はアクション映画になりにくいかもしれない。連打もあるけれど基本的には一発芸だ。相手を引き込んで一発で仕留める。格闘をできるだけ少なくする。蛇が太極拳のイメージなのもそのようなところにある。

  太極拳が妙だとか巧だとかいうのは技が力づくでなく、気づいたら倒されていた、というようなものが多いから、というのもあると思う。ただし、接触せずに気で相手を吹き飛ばす、みたいな芸当は本来の太極拳ではない、と師父は言っていた(それを流行らせた老師の名前を言っていたが聞き取れなかった)。太極拳は元代に道士の張三豊が少林寺で武術を修めた後、武当山に入って陰陽五行思想や吐納法を取り入れたりして作り出したものだという伝説がある。そこにはどこかしら神秘的な匂いがするのだが、実際には、静功や呼吸法を取り入れて身体の中のエネルギー(気)の量を増やし流動させて身体を内側から開通させることにより感覚神経、運動神経を最大限に開発していく、という(今ではヨガと同様、)科学的に合理性を証明し得るような練功を行なっていたに過ぎないのだと思う。ただ、外から見れば、ただ立つだけ? なぜ坐禅? と不思議さが漂うのは間違いない。

 

  昨日の推手の練習動画では私はただ笑いこけていたが、動画を改めて見てもしや・・・と今日は樹を相手に埒(lie)の力の使い方を確認してみた。あ〜、なんだ、これは套路の中でよくある太極円を描いた時の合と同じ使い方では? 早速師父に見てもらう。それでいい!、とOKサインがでた。推手ではどうしても相手のことが気になり気が上の方に上がってしまう。相手がいてもいないかのようにやるべきことやれば技はうまくかかってしまう。私としては今後推手の達人になるとは思えないけれど、推手の中の技と套路の中の動きのマッチングをしていきたいものだと思う。推種の技が套路のどこでどのように使われているかを知れば技の習得も速くなるだろうし、推手をしながらも套路の練習もできるだろう。套路、推手(対練)、これに武器(刀や剣)、この三つをグルグル回して練習できれば理想的・・・・定年後皆(生徒さん達)が暇になったらそうやって遊ぶかなぁ。

 

  

2021/3/9 <埒lieの練習 妙な技>

 

  今日の推手は昨日までの捋(リュー)から埒(リエ)に移った。

 すぐにはマスターできなさそうだったので、一部撮影。

 

 動画で見てみるとなぜ師父がそんな注意をしたのかよく分かる。やっている最中は自分の感覚だけが頼りで、自分が自分の身体をどう使っているのかがよくわかっていない。外側から自分の形を見ることができないからだ。内側の感覚と外側の形を合わせていく必要があるが、そんな時に動画はとても役立つ。

 自分の練習のために撮影したものですが参考材料になると思うので下にアップします。

 套路で気をつけなければならないことを別の角度から学んでいる・・・

 

 笑いが止まらない自分を見て笑ってしまう。

 技は”妙”である、という言葉を字幕をつけながら思い出しました。

2021/3/8 <見事な技 、まず知己>

 

  毎日練習の最後には四正手から基本的な技への移行の仕方を少しずつ教えてもらっている。

  まずはリューに足技を組み合わせたものをいくつか教えてくれた。リューと足技(足払いや足掬いなど)を組み合わせると相手の重心を崩して転ばすことができる(摔法になる)。

  最初師父にリュー+足払いをされた時は、一瞬何がどうなったのか分からなかった。リューだけならただ身体が向こうに運ばれていくだけで意識がはっきりしているのだけど、これに足払いを併せてされると、あれ〜っ?と一瞬頭の中が真っ白になって、転んでしまう(練習の時は師父が私の腕を握って最後まで転ばないようにしてくれている)。このような体験はほとんどしたことがないので(卓球ではあり得ない。柔道などをやっていればすぐに理解できるのだろう)、感心するばかり。私もやってみたい!と師父にゆっくりやってもらって、それを真似てやってみるのだが、最初は必ずと言っていいほど、どっちにリューしてどっちの足を使うのか?と頭がこんがらがる。全くやったことのないことは頭がフル回転しても追いつかなくて、理解できないまま言われた通りにやるしかない。2回、3回やっても身体が思うように反応しない時は自分はバカか?と思ったりするけど、自転車に乗れるようになるのもかなり練習が必要だったし、自動車の免許をとる時も案外大変だったことを思い出して、やはり慣れるしかないのだと思う。師父に、「最初はこうやって一つ一つ学んだのか?」と聞いたら、「没有(学んでない)」と言う。そうだろうなぁ、子供の頃から打架(けんか)と武術の世界で生きてきたのだろうから知らないうちに身体が覚えてしまっているのだろうなぁ〜。師父の地元でかなり名を馳せていたようだし、馮老師も血気盛んで、武術を決して喧嘩に使わないように、と師父たちからかなり厳しく言われていたようだ。

 

  何度も繰り返すうちに次第にしっくりしだすのだが、その段階になるとかえって師父と自分の技の決まり方に決定的な差異があるのに気づくようになる。ただ技がかかる、かからない、ではない。私も一応技をかけられるようになっている。しかし、師父のようにスマートではない。どこか無理やりなのだ。

  師父に何度も技をかけられて気づいたのは、師父に技をかけられても身体を痛めつけられた感じがしないのだ。摔法(転ばす技)だからというのもある。しかしそれにしても、お見事!という感じで、「よくも転ばせやがったな」みたいな気持ちにはならないのだ。

 

  馮老師の内弟子の一人、張吉平老師の48式の技の解説で、「(第46式煞腰压肘は摔法、)摔法は最も紳士的な技だ。相手を傷つけることなく、相手に負けを認めさせる。48式の最終的な技にふさわしい。」と言っていたのを思い出した。転ばされて、「あっぱれ、この人には敵わない」と思うようなスマートさが必要なのだ、おそらく。

  蛇足だが、同じ張老師の解説で、第47式当頭炮、第48式が収功だから実質的には最後の技に関して、「とはいっても、やはり太極拳の花は打撃。やはり最後は打撃で終える。」と言っていたのを聞いて、(いくら太極拳は紳士的とは言っても)やっぱり殴りたいのね、と笑ってしまったことがある。

 

  話を戻して、師父に複雑ではない簡単な技をかけられてそれでも「お見事!」と思うのは、やはりその熟練度にあるのだが、そのような”熟練度”はどこで感じられるかというと、持つ手の柔らかさ、力みのなさ、そして素早さ? が、実際に私の動作を直してもらいながら気づくのは、「なんだ、やっぱりタントウ功なんだ」ということ。何年も前に実践練習主導の第19代の老師に「北川先生はタントウ功を崩さないように技をかけようとすれば良いです。」と言われたことがあったが、四正手から相手の腕を握るまでの過程、そして握ってからリューしながら足を動かして要る全過程、それらの過程をコマ送りにした時にどのコマもタントウ功になっている=中正がとれているならば、技はかかってしまうということだ。が、途中で何コマか中正を崩している箇所があると、技はかかるかもしれないが、相手は気持ちよくない、無理に引っ張られたような感じが残る。過程の多くの部分で中正を崩していたら技をかけたつもりでも技がかからないだろう。
  摔法は相手の重心を崩すものだから、自分の重心が崩れたら元も子もない。
  技をかける練習(正確には、技をかけようとしてうまくかからない経験)をすると、自分の身体のどの部分が詰まっていて中正が崩れやすいのかに気づくようになる。一人で套路だけをしていてもなかなか気づかないところだ。
  技をかけたり技をかけてもらったり、お互いの身体を使って自分の身体のことを知る。推手は通常『知彼知己』(相手を知って己を知る)と言うけれど、実際には、師父も言っていたように、推手はまず『知己』ではないかなぁ(尤も、相手がいるからこそ知己が可能)。
  昔は見ても何が何だか分からなかった張志俊老師の摔法の動画(https://youtu.be/tdiNCC1rF4A)。今日見たら以前よりも”見える”ようになってる・・・やはり”慣れ”だなぁ。 (下の左側は24式の中の第3式懒扎衣、右側は第17式退歩圧肘。一瞬芸です。相手よりも素早く動くために套路でゆっくり練習している・・・本来の太極拳はここを目指している(いた?))

2021/3/7 <意で手を繋ぐ 内視の必要性>

 

 昨日のメモはまとまりがつかないまま終わってしまったが、今日はそれを別の角度から書いてみたい。

 

 手を使う、というのは私達人間にとって中核的な動作だ。人間という動物が他の動物達と一線を画すのもこの手の器用さにある。二足歩行に至った経緯については諸説あるようだが、それによって手が使え脳が発達した、というのは事実だ。

 手は第二の脳、とか、身体の外に現れた脳、だと言われたりする。実際、大脳の中の役3分の1の領域が手のコントロールに割り当てられているという説もある。

 

 手を使え、と幼児教育ではよく言われていたが、今では痴呆症防止のために手指を使うことが勧められている。

 でもここで疑問。私達は一生を通じてずっと手を使い続けている。スポーツでも趣味でも、そして日常生活でも手を使わないということはあり得ない。なのになぜ痴呆症が予防できていないのだろう?なぜ特別に手指を使うエクササイズが必要になるのだろう?

 

 ここで分かるのは、私達の日常的な手指の動作は、ほとんどが半分眠っている状態、無意識的なオート(自動)の状態で行われていて、動作の度に脳をフル回転させているようなものではない、ということだ。幼児の時に脳をフル回転させて一つ一つの動作を行なっていた、というものとは大違いだ。一通りの動作は覚えてしまえば、車の運転だってお喋りしながらできてしまう。つまり、一つ一つの手の動きが脳からのはっきりとした指令に基づかない、いつのまにか手が動いていた、という状態がほとんどなのだ。こうなると、いくら手を使っても脳は新たな刺激を受けない。活性化しない。毎日同じ回路をグルグルするだけ。シナプスも活性化されない・・・

 

 大事なのは、ただ手を使えばよい、というのではなくて、手をどのように使うか、ではないか?

そんな疑問がずっとあった。

 

 手の正しい使い方は、意と手をしっかりつないでおくこと。それには自分の手の動きを常に”知っている”(内側の目で見ている、観察している)必要がある。外から自分の手を見ている(眺めている)だけでは意(脳)と手は連結していない。勝手に動いた手を目で見ているだけだ。

 実はこのような練習が太極拳に含まれている。自分の内側、あるいは、自分の中心から自分の手を見続ける(意識し続ける)。そうすると目は内側に引いたようになる(目の内収)。太極拳の眼法の基本だ。

 この眼を失うと腕は中心との連結を失い、肩から先だけで動いたようになる。「自分はここにいて手はあそこにある」、そんな感覚になる。意で手を内側から繋いでいれば「手が自分の中にある」と感じるのとは対照的だ。

 

 そして昨日、腕の使い方として「(肩からではなく)体幹から腕を使う」と書いたのは、内側からいえば「意(上丹田)で手を繋いでおく」あるいは「(中心から)手までを(線として)内視する」ということに等しかった。内側で繋いでいれば外側は体幹(体幹といっても筋肉ではなく、もっと内側の空間、あるいは中枢神経)から使うことになる。

 

   と、文章で書くと難しそうだけれども、実際にやってみるとそれほど難しくない。

 左の老師、名前が出てこないのだが、パッと見て太極拳の真正な老師であることが分かる。

 

 眼の使い方でいえば、左の図の中の緑の矢印③が上丹田(意の場所)で手を内視しているのを示している。

 

ただし、③を行うためにはその前に上丹田を作る必要がある。

その作業を示すのが①②。

まずオレンジの①で手を見て、それから今度は①で目から手へ出て行った光を逆に手から目(眉間、その奥の上丹田)へと引き戻す。目を凝らして引き込むような感じだ。これは「凝神」と呼ばれる。これによって眉間奥の上丹田目を作る。

 

 

(ちなみに道教の修行法太乙金華宗旨』はユングが解説書を書いているが、そのなかで、光を戻す(回光)を”turning the light aroud”と訳しているようで。結果、日本語訳も”光を回す”となっている。が、中国語で”回光”は”光を戻す”という意味。目から対象物、外界へと出て行った光を内側に戻していく、引き込んでいく、という作業を指している。言い換えれば”凝神”だ。)

 

 対照的に、このようになると、目から一方的に光が出ていく。目はただ手を見ている。

 目(私)は手を対象物、外界の物体として見ている。

 すなわち、手は私ではない。

 

 <私>という感覚の原点は上丹田(意)にある。

 上の老師のように、上丹田から自分の内側を通して(緑の③のライン)内側から自分の手を見た(感じた)時、手は<私>となる(<私>の中に包含される)。

 

左の写真、どうして中央が老師で後ろの二人が生徒なのか、目の使い方だけでもすぐに分かる。

老師は手を内視している。

生徒は手を見ている。

 

そして面白いのは、内視をすると自然に身体の外形も柔らかくなること。衣服から出た手首、手のひら、指先、、それらが老師はふわっとしている。手を見て生徒は、放松しているつもりでも内側が開かない(緑のラインがない)から放松できない。手首や腕の中身がぎゅっと詰まってしまっているのだ。これを師父などは”偽の松”という。

 本当の放松をするには内側に意の通路を開通する必要があるということだ。

 意を通すことによってそこに気が通る。

(気は中丹田から出発だから、意の上丹田を腹の中丹田まで下ろすのが必須。

 →タントウ功の立ち始めに目で前方の遠いところを見て、それからその光を目に引き戻していく(半眼になっていく感じ)=この段階が凝神

 それから半ば目を閉じたまま意を腹の丹田へと落としていき丹田を内視する=この段階が意と気をドッキングさせるところ)

 

 このあたりの要領は、タントウ功を始める最初の手順なのだが、初心者の頃はあまり注意していないかもしれない。知らないうちにやってしまっている人も多い。

 套路の時は一通り外の動作を覚えたら、内視の練習を意識的にやる必要がある。

 内視できればその部分は開いて(通路が開通して)気が通り放松できる。

 推手の時は相手に気をとられて内視を忘れがち・・・現在の私の課題。

 

 まずは上丹田から腹の丹田までの中枢の縦ラインを内視できるようにすること。

 それから足裏まで内視するラインを伸ばしていく。

 腕、手の内視はそのあとだ。(地面からの反発力を得た後で腕や手を繋ぐ)

 

 なお、上丹田(意)と腹の丹田(気)をつながずに上丹田から直接手を内視すると意は通るが気は通らない。意が通って気が通っていない時の感覚、意と気が通った時の感覚、その違いを実験的に知るのも面白い(意だけではその部分を動かせない)。周天に関する体験のブログなどを読むと、気を回しているのではなくて意をまわしているだけ、というのが多々ある。意ならくるくる回せる(疲れない)が、気を回すのはとてもエネルギーが必要、疲れます。

 

 内視の練習はお遊び的にいつでもできるので試してみると良いです。今、すぐ、パソコンの画面を見ながらでも試すことができる・・・

 

  

2021/3/6 <体幹から腕を使う 胸郭を動かす 真正面に飛んで来た球やハエを払う>

 

    推手で課題になっている、肩甲骨と手の引っ張り合い。うまくできて師父に褒められる時もあるが自分では偶然? という感じで、常に再現できるような気がしない。なんだかはっきりしない・・・ともやもやが続いていた。

 

 が、つい2、3日前、内功をしていて、もしや? と閃いた。頭の中では卓球で相手の球が真正面に飛んで来た時に自分がどう球を打ち返すのか、そのイメージシーンが現れていた。

 そう、こう身体を使って打ち返すよね、と思った瞬間、身体は思わず含胸になり胸から肩までの距離が広がった(右の串焼きを食べる女性のイラスト 胸(ダン中)の黄色の円が含胸。そこから両脇に向かってピンク矢印が現れる)。 後ろの肩甲骨はかなり外に動いている様子。こうなると、肩の付け根から肘まで(つまり上腕、二の腕)がぐっと引き出される(イラストのオレンジ矢印)。結果として、胸から肘までが一本の線で繋がる(ピンク矢印とオレンジ矢印の合体)。これを背中側から見ると、夹脊(神道穴)から肘までが横ラインで繋がる。

(ちなみにイラストは中国の大きな羊の串焼きを引きちぎって食べる時の腕の使い方のようだ・・・日本の小さな焼き鳥の串だと前腕しか使わない・・・)

卓球なら・・・

手前の馬龍選手、向かいの張本選手、共に身体の正面に来たボールを打ち返している。
このラリーでは馬龍選手が優勢、張本選手はは身体が詰まってしまいボールを当てるのに精一杯。一方、馬龍選手は一定して肩甲骨から肘までを繋いだまま。”枠”が安定していて体勢が崩れない。そう見ると、張本選手はまだ胸から脇(肩甲骨)の使い方の改良の余地がありそうだ(一般的に日本の選手と中国選手の打ち方の違いはそこにある。中国選手の体幹が強いのは腕を肩関節からではなく肩甲骨本体、胴体部から使っているからだと思う。)

 

 と、先日友人からぜひ見て欲しいと言われて見てみた、落合博光の現役時代のバッティングフォーム。一目見て、これは太極拳的だと感じた。百会からすっと通す神主打法。筋トレとは無縁のような膨らみのある身体。一体どんな練習をしていたのだろう? と検索したら、正面打ちをしていたとのこと。あ〜、さもありなん。と納得したのでした。(詳しい説明は次回に譲ります)

 

 ・・・そんなことに気づいて結論として分かったのは、師父の私に対する「肩甲骨を後ろに引いて手を前に推せ」という指示は、言葉を変えれば、「身体の中央から腕を使え」「身体の中央から手までを腕として使え」ということだった、ということ。

 

  ただし、肩甲骨の操作がうまくできなかった私自身の感覚からすると「肩甲骨から腕だと思うな、背骨、胸から腕だと思え」といった方がよさそうな気もする。

 というのは、肩甲骨と手を引っ張り合い、と言われて肩甲骨を操作するには胸(含胸)や背骨付近(神道穴付近)から操作をする必要があるからだ。

 つまり、肩甲骨(左の図の赤色部分)自体を動かそうとするのではなく、肩甲骨が乗っかっている胴体部(緑の円で囲まれた部分:胸郭)の形を様々に変えることで結果として肩甲骨が滑って動く、という感じだ。

 胸郭(胸椎、肋骨、胸骨、鎖骨)の動き、これが肩甲骨の動きとなって現れてくる、そんな感覚に変わった。

 

 そして胸郭の動きが肩甲骨を動かすことによって初めて、”肱(二の腕、上腕)”、そして”肘(上腕の末端)”を活かして使うことができる・・・

 

 

 

 気づいたら二の腕が振袖状態になっていた、というのはいかに私たち(女性だけなのか?)が普段上腕を使っていないかを証明している。

 

 振袖になってしまう二の腕の後ろ側は上腕三等筋の場所だが、ここを使うには右画像でも示唆されているように肩甲骨や背中(広背筋)を連動させておく必要がある。姿勢が崩れてこの繋がりが消えると振袖状態になってくる。

 上腕の胴体部との連携が減ると、私達の手の動作は前腕主導で行われてしまう。上腕は置いてきぼり状態。手先の細かな作業をする機会の多い女性は特にそうなりがち(肉体労働をしない男性も多いから今は男女の差異はそれほどないかもしれないですが)。

 

そしてその状態を改善するのに必要なのが、身体の中央から腕を使う要領を身に付けること。私は卓球の体験からそれを思い出すことができたが(師父にその要領で推手をしたらOKが出ました)、そんな体験のない人なら、例えば、目の前に飛んできたハエを手で払う仕草をしてみるとよいかしら? 顔や身体にとても近い位置に飛んで来たものを手で振り払おうとすると嫌でも身体の中央から腕が動くはず(上腕に力が入る感じ)。胸は含胸になる。 落合選手の正面打ち練習もその原理だった・・・

 

 二の腕に力がある、ということは体幹が使えている証。

 そんな目で下の馮老師のポン、リュー、ジー、アン、を再度みると、見方が変わるのでは?

 どれも背中から二の腕。手ではない。  

   <以上、今回の話題は自分の中でやっと繋がってきたばかり。そのうちも少しまとめます>

 

             

2021/3/5 <捋(リュー) 自分の丹田で相手の丹田を運ぶ>

 

  今朝になって、技をかける時は相手の重心を崩すと教えられたことを思い出し、それなら、昨日のリュー(ワンコのリード使いも含めて)は丹田で相手の丹田を引っ張る(運ぶ)ということに違いないと閃いた。

 今日再度リューを練習した時に師父にその点を確認したらその通りだ、と補足をしてくれた。

 それが下の動画。

 

 結局、自分の丹田で相手の丹田を動かせばリューができる。

 

 それを知ってさっとできてしまうならそれで話は終わりなのだけど、それを聞いても、「じゃあどうやって丹田で相手の丹田を引っ張るのですか?」と聞いてくる生徒さんは多いはず。

 その場合は、動画の最後に私が拙い感じでやっているように、まず①相手に触れた手のひらの感覚で自分の丹田を確認し、②同様に同じその手のひらで相手の丹田を確認する。そうやって自分の手のひらが自分と相手の2つの丹田を確認できれば③自分の丹田で相手の丹田を引っ張ることができる。①と②ができれば自動的に③ができてしまう仕掛けになっている。

 つまり、手のひらの感覚で自分と相手の丹田を探せるかどうか、言い換えれば、手のひらを自分と相手の丹田と繋げられるかどうか、が鍵になる。相手の丹田と自分の丹田は手のひらの感覚によって仲介されているようなものだ。

 

  もし手のひらの感覚で自分の丹田を探せない、そして、手のひらの感覚で相手の丹田を探せない、というのであれば・・・さらに遡って基本の練習をする必要がある。

  内功の基本中の基本は双手揉球だが、これは丹田と手のひらの労宮穴を感覚的に繋げるものだ。木や壁に手のひらを当てて自分の丹田を手のひらで感じるような実験も役に立つ。

  手は脳、上丹田の末端。意の現れだ。手と丹田を合わせる、ということは、上丹田と中下丹田を合わせること、意と気と力を合わせることにほかならない。

 

  手のひらで自分の丹田を聴く練習がすすめば、そのうち相手の丹田を感じることもできるようになる。 丹田を感じるに当たって手を切り離すことはできない。具体的な練習方法についてはまた別の機会に。

 

 <追記>昨日分析していたリードをたるませて犬を引っ張る方法はそれによって自分の丹田で犬の丹田(胴体)を動かすことになっていました。犬の散歩中にも練習可能・・・リード使いの達人への道?

 

 

『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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