2021/5/13 <片足立ちと虚歩・重心転換 転換は旋腰>

 

   金鶏独立から単腿(片足立ち)に注目。そもそも私たちは両足に均等に体重をかけたまま立っていることはほとんどない。いつも右か左かどちらかに体重をかけたり、交互に変換させながら立っている。単腿が基本、と思えば、鳥が片足立ちで寝るのもあまり不思議に思わなくなったりする。(タントウ功でさえ詳細に観察すると常に両足への力のかかりかたは変化している。銅像のようにズドーンと両足に均等に気が落ちるのはある意味特殊な状態だと思う。)

 

 単腿から派生して大事なことがあった。

 一つは虚歩。これは単腿。そうでないと、蹴り足の暗脚という虚歩の目的が達成できない。

 もう一つは重心転換の際の”旋腰”。これは一瞬単腿にするための腰の動きだ。これをしないで直線的に行ったり来たりすると流れが途絶えるし上半身と下半身の連結も切れてしまう。膝などに負担がかかる

    これら虚歩と重心転換の際の旋腰について単腿の観点から簡単に説明した動画を撮りました・・・が、終わり近くにスマホが墜落してしまった。撮り直す気がなかったのでそのままです。(旋腰を助ける腕の動きについて説明しかけたところで途絶えたけれど、それについてはまた別の機会でよしとしよう。)

  

 片足立ちがどこで可能になるか、自分の腰(丹田)の位置を微妙に移動させてその位置を確認する作業をしてみるべき。

 その位置で片足立ちになれば、脚力はゼロ? そんな風に感じる場所が本来の片足立ちの場所。だから鳥は一本足で寝るんだ、と納得できる場所。片足立ちは脚力よりも節節貫通をできるかどうかにかかっている。

2021/5/11 <金鶏独立から学べること>

 

  太極拳の中には金鶏独立という技があるが、この片足立ちのポーズは健康法としても有名で、年老いた親には毎日1分やらせるべき、と中国の人気の気功の先生が言っていたのを聞いたことがある。

 

 と、サイトで、ふと目にした楊澄浦の金鶏独立。目が釘付けになった。

 足首が見える!!!(足首が華奢・・・着物の裾からちらりと見えたら、”小股の切れ上がった”男性か??)

https://daydaynews.cc/zh-my/lose/167624.html
https://daydaynews.cc/zh-my/lose/167624.html

https://daydaynews.cc/zh-my/lose/167624.html

 

このサイトの解説で書かれているように、太極拳のどの流派でもこの型があるが、なかなか完璧に行うのは難しい。

 

左の写真の場合は左脚が実、右脚が虚。

太極拳は虚実をはっきりくっきり分ける(虚実分明)という特徴があるが、左の写真の姿はそれが一目で見て取れる。

 

そしてその上に乗る胴体は”収”している(こぢんまりとまとまっている)。

引用サイトの解説では、多くの場合、胴体が”散”ってしまって、脚が不安定になりがち、とある。

 

そうか・・・片足立ちがぐらつくようになるのは脚力が弱るからではない。

胴体を収束すること=合すること=丹田にぐっと引きつけて集めること、ができなくなるからだ・・・

 これは片足立ちだけではない。

ジャンプでも同じこと。(私の二起脚が本当に下手くそだった時、師父が頭を捻っていた。私の脚力は十分あるのになぜできないのか、と。が、正面に標的があるとうまく蹴りあげられる。問題は脚にあったのではなく、標的があって真剣になったとたん、跳び上がる瞬間に頭から会陰まで(胴体)が一気にぐっと収縮していたのでした。標的がないと胴体は棒のように伸びたまま、すると高く素早く蹴れない)

 そして素早くしゃがみこむ時も同様だ。

 

 つまり、胴体が合になるから下半身(脚)を大きく動かすことができる=開になる。

 片足立ち、ジャンプ、しゃがむ、そんな動作では、脚を動かし始める前に胴体を合にしてこぢんまりさせる必要がある。といっても、普通私たちはそんなことを意識しなくてもやっているはず・・・ジャンプする前には身を屈めるし、全速で走ろうと思ったらまず身を小さくする(ことで足が大きく前にでる)、いつでもしゃがめる(動ける)体勢は胴体を小さくまとめている(ボクシングで、卓球、バスケット・・・ただ、観賞用の種目、バレエなどの演舞やおそらく武術の演武ではできるだけ上半身を大きくしたまま動くことが求められるのかもしれない。)

 丹田に向けて収束させること、これが合。開はその反対、丹田から周辺に向けて膨張させること。

 身体を合にすると脚は軽くなる。開にすると脚は重くなる。

 片足立ちやジャンプ、しゃがむ時は丹田に力を集めて脚を軽くする:丹田に力(気)を集めるための大事な容量の一つが会陰を引き上げること。が、その時に、併せて頭や肩や胸の力を丹田に向けて抜いてあげることも必要だ。

 

 本当の金鶏独立を見たくて検索してみました。

 

 鳥が一本足でいるのは体温を奪われないようにするためとか聞いたことがあるが、実は一本足の方が疲れないのではないかと思う。私も疲れた時は一本足(台所でいる時とか洗面台にいる時とか)・・・の方が二本足で仁王立ちになっているより疲れない。だから、「気をつけ、休め」の「休め」は虚実をつけて立っている・・・実質的には一本足。太極拳で虚の足は蹴り技が隠れている(暗脚)。だから、日常的にも休めの姿勢をしたい時はこっそりと虚の足裏を持ち上げて実脚一本で立つと良いかと思う。中途半端な重心で「休め」をするよりも中正をとる練習になるのではないかと思う。

 

 それにしても鶏の4本の足指はしっかりパーしている。幼児に手でパーをさせると紅葉の葉のように開けるが、鶏さんの足指も紅葉状態。だから脚が細い・・・小股の切れ上がってる・・足の中に隠れている骨が鶏の足指のように身体の重さを分散させて抜ければアキレス腱や足首はすっきり、脚もすんなり、だっただろう(私自身の話です・・・)靴を履いているとあたかも包帯で鶏の4本の足指をぐるぐる巻きして使っているような状態に陥りがち。力が足にこもって地下に抜けないから、ふくらはぎや太ももなど、別の場所の筋肉を収縮させてバランスを取らざるを得なくなる。

 続きはまた書きます・・・

2021/5/9 <スプーンの油をこぼさないように外界を見る>

 

 私がこれまで教えた生徒さんの多くは、健康志向か武術志向だったが、師父のところに来るフランス人の生徒さんの中には、天、あるいは神、あるいは不可知なる大いなる力と一体化するために太極拳を学んでいる人がたまに現れる。

そんな人たちにタントウ功をさせるとすぐに陶酔状態に入ろうとする。内功をさせてもいつの間にか気持ち良くなって顎が上がり出し、頭が泳ぎ始める。宗教的な踊りや特定の気功集団で見るような状態・・・酒や麻薬に溺れる様子に近い。これで天人合一を体験したといってもそれは幻覚だ。練習で多少気持ちよくなっても溺れてはいけない。手綱は握っておかなければならない。これは気功法であれヨガであれ、正当な修行法の鉄則、これを間違えると邪道に陥る危険がある。

 

 

日光浴を兼ねたmeditationや海辺の気持ち良さを味わうmeditationは陶酔系(さらには洗脳系)に流れやすい。

 

きちんと内側の手綱を握ったmeditationが真の瞑想。外見から区別可能。

 

  少し前に、私の生徒さんが107歳で亡くなった篠田桃紅さんの動画を見た感想を送ってくれた時に、『アルケミスト』という小説の中の一部を引用してくれた。それを思い出した。

 

 ・・・桃紅さんの動画見ました。

 最後の方の、「(墨は)絶対に絶望させないけど、いい気にもさせない」と言ってたのが太極拳にも通じるところがあるような気がして印象に残りました。

 『アルケミスト』という本のなかにある場面を思い出しました。幸福の秘密を学ぶために宮殿に住む賢者にある若者が会いに行きます。賢者は何も教えることは無いと言い、ただ宮殿にある芸術を観てきなさいと若者に言います。ただしスプーンにオリーブ油を垂らし、それがこぼれないようにと。

  若者は宮殿の中を探索するが、スプーンの油が気になって芸術どころではない。賢者の元へ戻り、何も楽しめなかったと言うと、もう一度、美しい絵画や織物をみてきなさいと促す。若者は今度は十分楽しんできたけど、戻ってきたらスプーンの油は消えていた。そこで賢者が一つだけ教えてあげようと言う、「幸福の秘訣とは世界のすべての素晴らしさを味わい、しかもスプーンの油を忘れないことだよ」と。

  私がこの本を最初に読んだときは、あまりよくわからなかったけど、いま思い返すと、これってどんな歓喜に沸いていたとしても決して丹田は外さないってことかなぁ、と今では思います。・・・

  

  このメッセージを見て私は早速その本を入手して読んだのだけど、上のパッセージは太極拳的にいえばいかなる時も丹田を外さない、ということだし、もっと普遍的にいえば、目を内側に向けたまま外側を見る、ということだと思った。

  私たちの目は生まれて目が開くと外側の世界に釘付けになる。見たくて見たくて仕方がない。いくら見ても飽き足らない。見て楽しむ。見て悲しむ。見て怒る。ここでは”目で見る”という視覚だけを言っているようだが、実際には、五感全てが外向きにアンテナを張ってそれによって自分は様々な感覚を享受する。

  が、私たちは成熟すると(内奥の成熟、年齢とは関係ない場合も多い)、常に外向きに使っていた目(感覚器官)を内側にも向けるようになる。見ている私は誰なのか?何が聞いているのか?、痛いといっている自分を目撃している自分がいる、とか。何か内側に目撃者のような実体が365日24時間ずっと流れているのに気づくのだ。

  

 その内側の、変わらずに流れ続ける実体を常に意識しながら外界の出来事を経験する。すると何を経験しようがその内側の実体が影響を受けないということが分かる。どんなに嬉しくても、どんなに悲しくても、怒っても、苦しくても、内側の実体はそのまま。それが、「スプーンの油をこぼさない」ということ、賢者の言う幸福の秘訣だし、武術、武道での真の平常心?・・・いや、心よりも内側にあるから平常心とはもはや言えない・・・無心? 無我、このあたりの話だ。

 

  丹田を内視するのは、目を内側に向ける一つの方法。呼吸を見るのも一つの方法(観息法)。仏教の止観法はいかなる修行法の基本だと師父が言っていたが、これも思考を止めて(サマタ)、それから観察する(ヴィパッサナー)ということで、目を内側に向けざるを得ない。

  太極拳など内家拳は目を内側に向けて意や気を操作することで身体を内側から調整するのが最大の特徴で、だからこそ奥の深い養生法になり得る。目を内側に向けるのは最初の一歩だ。

      

 ただ、目を内側に向けるにあたって注意しなければならないのが、冒頭に書いた、陶酔状態にならない、ということ。陶酔状態になると自分が溶解してしまって何が外やら内やら分からなくなる。かと言って、内側に埋没してはいけない。内側だけ見ていると眠くなるか暗闇に落ちていく。内側を見ながら外側を完全には忘れない(そのための要領が半眼だったり、少し笑顔にする、舌を上顎につける、百会を天に向けて背骨を意識するとか)。つまり目は外側と内側のベクトルで引っ張り合いになるのが理想的なのだろう。すると意識はピーンと澄んで頭はすっきり明快、頭寒足熱(上虚下実)状態になる。(上の画像の中のオレンジの服の僧侶の顔がそのような感じ。仏像を思い出せばよいかと思う。)

 

  最近書いている腰を割るとか股関節をどうするとかの話は肉体レベルの話。太極拳を健康目的に行うと肉体の話は切り捨てられないのだけど、私が個人的に思うのは、私たちがどんなに体を鍛錬しても老化の速度には追いつかない。鍛錬によって体の老化の速度を多少遅くできても、若い時の体に戻るのはどうやっても不可能だ。脚が高く上がったり、バク転ができたり、開脚ができたり・・・これらは”外”の話。おそらく、ある程度の歳になったら、”外”を鍛錬しながら、せっせと”内”=心や意識、の鍛錬=観察の訓練、をしていくべきなのだと思う。

 上の桃紅さんの言葉、「(墨は)絶対に絶望させないけれど、いい気にもさせない」という(墨は)を(身体は)に置き換えてみる。それが真実なのでは? 身体は実はそんなもの。どれだけ追いかけても追いつかない、いい気にさせてはくれない。でも、身体を通して内側を知ることができる。身体(外側)は内側を見るために必要だ。外側がなくても内側を外さないようになったら、眠っていても内側は起きている、うまくいけば、肉体が死んでも内側がどこにいくのか見ていられる?・・・と思って、私はこの手の修行法に興味をもって始めたけれども、最近は肉体(外界)に気を奪われてそれを忘れそうになっていた・・・『アルケミスト』で復活。

 

  盲目のピアニスト、辻井伸行君のこちらでのリサイタルに行ったのは2020年1月。そのあとすぐにロックダウンになってそれ以降美術館やコンサートには行けなくなったが、ここ数ヶ月はもっぱら辻井君の演奏をYoutubeで見ていた。何と言っても心が素直。素直さが身体に、そして演奏に現れる。辻井君ばかり見ていて時に別のピアニストの演奏を見ると、余計な動きや感情が目についたり、あるいは暴力的な部分に気づいてしまう。目の見える私たち一般人は生まれながら目の見えない人達に比べて心がもっと汚れやすいのではないかなぁ? 

  彼がヴァンクライバーン・コンクールで優勝した時に、「もし目が見えたら何が見たいか?」という質問に対して、「お母さんとお父さんの顔が見たい・・・・けれども、今は心の目で見ているので十分満足しています。」と答えたという。”心の目で見る”、という言葉は、一度パリでお会いしたことのある国際松濤館の金澤弘和宗家が言っていた言葉で私はとてもよく覚えていた。辻井君は武道家と同じ言葉を使う・・・これも内側の目の話。スプーンの油をこぼさない、(ブッダの)気づきを失わない、全て同じところを指し示している。桃紅さんのいうところの、”肉体の衰退と反比例して得られるもの”(得られ得るもの)に違いない。向かうべき方向を間違えないように進みたい。

2021/5/7  <腰を割る、腰を入れる、と松腰は両立するのか? 試論>

 

   うつぶせカエルのポーズがそこそこできると、相撲などでいうところの ”腰を割る”とか”腰を入れる”という感覚が得られるようになる。やってみて気づくのは、その「腰を割る、腰が入る」というコインの裏側は「丹田」、ということだ。

  丹田がないと腰は割れない、腰は入らない。丹田なしに腰を割ろうとしたら腰が砕けてしまう!と身体はそれ以上開かないようにストップをかけるだろう。丹田なしに腰を入れようとすると腰が反ってしまって危険な感じだ。

  太極拳では最初に、丹田、丹田、といって、腰を入れろ、とは言わない。むしろ、「松腰」にしろという。というのは、もし最初に「腰を立てろ」と指導したら、必ずと言ってよいほど腰の筋肉を締めて緊張させてしまうからだ。身体の一部分を緊張させた瞬間、全身のテンセリング構造は歪んでしまう。

左は4/30のメモで使用したものに加筆したもの。

テンセリング構造は全てのパーツが引っ張りあい(張力)で結びついているが、中心は空洞だ。これを人体の構造として見た場合、中心の空洞から周辺に向かって張り出す力があることで、全てのパーツが相互に引っ張り合う関係が生み出されている。(皮膚のたるみをなくすのに内側に詰め物をするようなものも同じ原理?)

 

 この中心の張り出す力が広義のポンの力。狭義のポン、リュー、ジー、アン、・・・などの八法は全てこの広義のポンがあっての話。内側の膨張力がなければ、八法はなりたたない。そしてこの内側の膨張力=ポンの力を持つのが”丹田”だ。

 

   つまり、上のように”腰を割る”、”腰を入れる”にしても、全体のテンセリング構造を壊さないように=丹田を失わないようにやる必要がある。割りすぎたり、入れすぎると、一気に筋肉系の運動になってしまう。

   空手の練習では股割りは当たり前、うつぶせカエルのようなものも必ずやる、先生方は180度開脚は当たり前、と空手歴の長い友人から聞いたが、そうやって腰を割って立てても、”松”をせずにひたすら練習すると身体は硬くなる。かなり高名な師範たちと一緒にいたことがあるが、40歳をすぎると大抵背骨は棒のように硬そうだった(おそらく、そのような硬い”棒”としての背骨を作ろうとしてきたのかと思う)。太極拳やその他の中国武術のように背骨は”しなる”もの、という感覚ではなさそうだ(日本の武道は背骨が棒のようにまっすぐ、日本の平面文化の一部かと勝手に考えている。文化としては独特で美しさもあるが、身体は平面ではない・・・)

 

https://laptrinhx.com/ja-jp/VlDY01A/
https://laptrinhx.com/ja-jp/VlDY01A/

 

 

   師父にうつぶせカエルはできるか?と聞いたら、やったことがないから分からない、と言われた。が、右のような仰向けのカエル(合せきのポーズ)を私に見せて、こうやって夜眠ってみろ、と言ったことがある。私はそれは無理だ、と答えたら、じゃあ片足ずつでいいから練習しろ、と言ったと思う。当時は両足ぺったんは難しかったけど、太極拳の練習をしていたらいつの間にかできるようになっていた。(後日、師父は家でうつ伏せカエルをやってみたらしい。お腹も床について問題なくできたそう。)

  うつぶせカエルは仰向けがある程度できるようになってからでないと難しい。まずは仰向け、片足ずつでいいから少しずつ進めていく。チリも積もれば山となる・・・

  仰向けではどれだけやっても腰が入る感覚は得られない。立位になった時にそれを応用できない(上半身と下半身の連動がほとんどわからない)。だからやはりうつぶせカエルまで(ぺったんこではなく腰がある程度入るところまで)できるようになっていたいもの。そうすれば腰の位置が思っているより高いことにも気づくだろうし、斂臀の意味もさらに深くわかるだろう(決して”便意を堪える”とかいうものではないのがはっきり分かる)

 

  それにしても難しいなぁ、と思うのは、「腰を割る、入れる」が腰を緊張させることになったり、逆に「松腰」になったりするということ。意識と息の使い方で身体使いは全く逆方向に向かう。 

     空手のシルエットは腰を締めて腰を入れている。

   楊澄浦は腰を締めてはいないが腰は入っている。

   腰を締めると上半身と下半身が分断する。画像を比べると一目瞭然。

 

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1241692.html
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1241692.html

 

  太極拳では「腰を入れる」とは言わないが、拔背 塌腰 敛臀 松胯 圆裆 などをやると実質的には腰を入れた感じになる。そしてその腰が臨機応変に形を変えて動くので『太極腰』と呼ばれる(きっと双葉山の腰もそのようなものだったのだろう)

  

 腰を入れても腰が締まらないのは、腰を入れた時にそれが帯脈となって腹回り全体が腰化する、腰が広がって腹回りと一体化した感じになるからだと思う。ゆったりとした息が必要だ。空手のような「気合い!」は入れてはいけない(太極拳だと左画像の空手の選手のような顔にはならない 顔に力みがあれば体にも力みがある。)

  

 師父はこれまで何度か腹を指して”腰の一部だ”と言ったりしたが、腹が腰?と聞き返したら、腹も腰も同じだろう!と当然のように答えた・・・・そういう感覚。

 身体を前後、表裏、と見るのは身体を平面的に外側から捉えているから。

  

 身体を筒と捉えて内側から見たら、腹も腰も空間として一体化している。

 

  内側の目で内側から自分の体を見ているか否か、そこが決定的な違い、なのだろう。

 

 うつぶせカエルも外側の窮屈さがなくなって内側から見られるようになった時に内側から腰が入った感覚=丹田が入った感覚が得られる。腰と丹田が一体化すると腰も丹田も消える。

 

 

  最後に腰や股関節の柔軟性を高めたり維持するエクササイズは各自工夫して毎日ルーティン化する必要がある。あっという間に硬くなる(と実感中)。太極拳の套路練習だけでは不十分だ。

https://myrevo.jp/fitness/402
https://myrevo.jp/fitness/402

2021/5/5 <うつぶせカエルで立ち上がる?

 

 

   ずり這いとうつ伏せカエルの練習をしていたせいか、今日の24式は第3式懒扎衣で左から右へと体重移動した時に、「あれ? ここなんだ、本当は。」と自分の形が変わったのに気づいた。

  腰はもっと前。すると内腿で体重移動ができる。とても楽!

  と気づいて、私の前で24式をやっている師父の動きをチェックしてみたら、確かに、腰がまったく”引けて”いない。師父はとても自然にやっているので気づかなかったが、それに近い格好になった私の感覚的は、うつ伏せカエル状態。

 これで初めて脚のラインが背骨に連結して頭に抜けていくようだ。(これまでのように)腰を後ろに下ろしてしまうと、下半身と上半身が分断してしまう、かつ、身体の前側(腹側)が効果的に使えない。図式的には三日月状態だったということ(膨らんでいる方が背中側、欠けている方が腹側。)うつぶせカエルのような感じになって初めて前後共に使えるようになる・・・満月型。これまでまだまだ甘かったのが分かってしまった。

 

  ずり這いは前回の動画通り。うつ伏せカエルのポーズは幼児がお手本(上の写真の女の子、リンクを貼っています)。私たち大人にはハードルが高いので、冒頭のイラストのような格好から練習したりする(寝ながらストレッチhttps://myrevo.jp/fitness/402

 

  バレエの練習でカエルのポーズをよくやっているのは知っていたが、このストレッチがそのまま身体を丸ごと一つとして使うことに連結するとは思っていなかった。 やってみてわかるのは、このカエルはただ股関節を開くのではなく、お尻の中の細かな筋肉を稼働させてお尻と腰を連動させ、腰を広げて背中、脇、肩まで内側から押し広げて身体を一つの筒にしてしまうのだ(といっても私は女の子のようには完璧にできません。が、大体の感じは分かる。)

 

 そう気づいてから馮老師の懒扎衣を見るとカエルに見えてしまう。

 そして、『四股探求の旅』第21回に掲載されていた双葉山が前に落ちる時の身体の動作、通常なら手をついた後膝をついて四つん這いになってしまうところを、手がついた後に”全身がしなるように腰がおちていく”、”普通なら腰が残ってしまうところを、腰が割れて廻しが土俵につくほど腰が入って落ちていきます。全身が全く力みなく、しなやかに柔らかく使われ・・・腰が動きの中心にあるからこその落ち方です。”と説明されている。 これもまさにうつぶせカエル。

 松田氏の説明文章からわかるのは、うつぶせカエルは股関節の柔らかさというよりも腰の柔らかさを呈したもの・・・同様な説明が前回のずり這い動画の中にもありました・・・股関節が柔らかくなるのは腰が柔らかいから。腰が硬いのに股関節だけが柔らかくなるということは有り得ない。太極拳の練習で徹底して腰を回す(丹田も腰の一部という言い方をしたりする)のはそのためかと納得。逆にいえば、股関節が回るように腰・丹田を回さなければならないということ。

 

 そしてうつぶせカエルで立位になると、腰が後ろに落ちない。スクワットのような腰にはならないということ。 どう説明しようかと思っていたら、これも『四股探求の道』第9回”四股の変遷について”の中に書かれていました。

 

四股と仕切りが混同されている、という指摘(左図)

 

立会いでは仕切りの形をとるが、実際に当たっていく時は腰の高さを上げないと大きな力を発揮できない、とのこと。

 

これは、100メートル走のクラウンチングスタートで、「ヨーイ」と声がかかった時に腰をあげるのと同じ、という。(腰を下ろしたままスタートダッシュは切れない)

 

この論理は太極拳にそのまま当てはまる。套路は最初から最後までが技の羅列。どこにも腰をどかっと下ろしている場面はない。そして腰を建てたまま両足を開いて立つには・・・やはりうつぶせカエルの方向に持っていかなければならない。でないと、スクワット状態で移動してしまうことになる。(現在の相撲や太極拳のほとんどはスクワット状態=筋肉分断型。)

 お尻を中に入れろ(斂臀)というのは、うつぶせカエルの方向に持って行かせるための指示。肛門を締めろ、という意味では全くない。タントウ功もうつ伏せカエルに近く感覚が多少必要(完璧にカエルになってしまうとペラペラになってしまうので、股間から内腿が起動して背骨が股から立ち上がるような位置を目指せばよいと思っています。目下練習中。)

2021/5/3 <ずり這いを思い出した>

 

   双葉山の後ろ姿を見ていたら、そういえば、バレエ整体の島田氏がメルマガで赤ちゃんの”ずり這い”を勧めていたなぁ、と思い出した。

  

 再度チェックしたら、タイトルは『赤ちゃんに学ぶ仙腸関節の柔軟性をアップする動き』。

 ずり這いは”整体にとても合理的な連動育成法”だとして下のような簡単な説明があった。

  

 ”両手をついて上体を起こすことで腰を伸ばし、胸を張ることで肩甲骨を内に閉めています。これは、腰と肩甲骨の連動をつくっているのです。”

 ”そして、両脚の内腿と母趾の内側が床についた上体で床をこぐ・・・これは腰と仙骨をつなぐ関節と仙腸関節に弾力をつけることで体全体の連動をつなげる作業をしています。”

 ”つまり、仙腸関節を軸に二の腕と太ももを連動させているんですね。”

 ”ただ、大人になってからのずり這いは恥ずかしい以前に動きとして難しい点があります。(肩甲骨と骨盤の連動がとぎれていることが多いので)”

 

 このメルマガを読んだ時は、そうだろうなぁ〜、と思ったものの、そこまで深くつっこまずにスルーさせてしまっていた。

 が、双葉山の動き、なんだか関係ありそうな気がする・・・

 と、まずは本物のずり這いをよく見てみる必要あり・・・

 

 さすがYoutube、ぴったりの動画がありました。

 正しいずり這いを教えて赤ちゃんのうちから体幹を鍛える、今やそんな時代?

 

 

 

 

 私も赤ちゃん連れのクラスをやっていたことがあるので彼らのずり這いはよく目にしていた。気づいていたのは、左右均等な形でやる子は案外少ないということ。大体左右どちらかの手足を主にして前進している。赤ちゃんの時にすでに体の癖はあるようだ。そして、赤ちゃんの母趾の強さは驚異的!

 

 動画でも指摘しているが、結局大事なのは脇や腰で手足を引きつけること。手足主導で動いているのではない・・・

 他のお座り動画やハイハイ動画も見たい。。。なんて衝動に駆られながら、とりあえず双葉山の動画に戻る。赤ちゃんのずり這いを見た直後に双葉山を見たらどう見えるだろう? 

 う〜ん、確かに、体の連動がさらによく感じられる。全身が一になる、周身一家、というのが、一つの岩や山のように一つ、というわけではなく、アメーバーのようにどんなに形を変えても一体化している、そんな風だ。伸び縮みがある。伸縮自在、これが柔らかさの正体なのかもしれない。筋肉を鎧のようにつけたボディビルダーの身体とは対照的だ。

 

 ずり這い、やってみたら、右股関節の硬さがよく分かる。母趾と鼠蹊部の連動も良く分かる。腰は伸びて気持ちいい。股関節を開くためにやる腹ばいのカエルの形(平泳ぎの形)のストレッチは無理にやると股関節が悲鳴をあげるから、ずり這いでもぞもぞしながら身体全体を連動させてほぐしていくのがよさそうだ・・・家で人に見られないようにこっそりやるような練習かな。

 

2021/5/2 <双葉山 柔らかい腰が周身一家を作る>

 

  20世紀の名力士、名勝負という動画があったので見ていたら、昔の力士のお尻、下半身のなんて美しいこと! 動物のようだ(といっても人間も動物だけど)・・・うちの猫が後ろ足で立ち上がった時の後ろ姿のよう・・・ と、目が釘付けになった。(https://youtu.be/tHL9efgqxbw

  腰が柔らかくて位置が高い。お尻にたるみがない。正中線を崩さない。

  それがとても顕著だったのが双葉山。

  後ろから見ると双葉山の腰(腰椎だけでなく脊椎全部)が小刻みに動いて畝っていて、正中線が崩れないように常に身体が微調整をしているのがよく分かる。このような広い意味での腰の柔らかさが太極拳で目指すところ。太極腰、と言われるものだ。腰が柔らかいからこそ正中線が通る=身体が”一”として機能する、分断されない。

  

  なお、身体が柔らかい、というと180度開脚ができる、脚が高く上がる、身体を反らせる(ブリッジ)みたいなイメージを持つが、それらは柔らかいというより、開く、という言葉の方が適切なようだ。柔らかい、というのは肉がゴツゴツしていなくて微妙な動きができて粘りがある、そんな感じだ。アメーバー系?  

  「体操選手は身体は開いているが柔らかくはない、身体が開くと柔らかいは別物だ。」と師父から言われた時は一瞬驚いたけれど、言われてみればその通り。太極拳の練習だと、まず力を抜いて、「開」を目指す=「松開」:関節を開いて可動域を大きくする、ということだ。そのあと、第二段階目に「松沈」と重さが出て、そのあと第三段階目になってやっと「松柔」という柔らかさが出てくる。

https://hint-pot.jp/archives/20038
https://hint-pot.jp/archives/20038

 上のような双葉山の身体や動きを見ると、本当に柔らかいなぁ、と思う。

 

  ←猫の下半身の踏ん張り そんなイメージ

 

 そう見ると、以前ブログにアップした、下の二枚の画像、左の馮老師の後ろ姿は双葉山的。右の千代の富士は双葉山と対極的だ。

 

 

 

  面白いので比較してみました。

  双葉山の寄り切りと白鵬、千代の富士の寄り切り。

  相撲の技について詳細は知らないのだけど、身体の使い方として全身が一になっているのか否かは比較してみると分かりやすい。

  白黒写真が双葉山。紫の廻しは白鵬、灰色の廻しは千代の富士。

  双葉山は全身丸ごと突っ込んでいってる。身体の伸びがとてもいい。

  白鵬は上半身と下半身が分断されている。

  千代の富士は筋肉をバランス良く(全て)鍛えたのか崩れがない。が、双葉山に比べれば伸びがないよう。(比較すると股関節や腰の開きが少ない)

 

 こう見ると、松田晢博氏の『四股探求の旅』第二回”相撲は腰で取れ!”の中で、前傾姿勢に関して下のような指摘があることが納得できる。(月間『武道』2018年10月号51,52Pより)

 

 上の左の図のように、全身の重さを丸ごと相手に預けながら中正を保つのが太極拳なのだが、一人で套路練習ばかりしているとどうしても右図のように折れた形になりやすい。腰が立たないので、下半身の力を腕に伝えられない。左図のような形を取れるようにするためにタントウ功があるのだが、この完成図にもっていくためにいくつかの段階を経る必要があるので最初からそのようには立てないのが実際のところ。一つの段階をクリアするごとに立ち方を変えていく必要がある。この微調整が難しい・・・ それは相撲界でも、そしてきっと武道界全てに渡る課題なのではないかしら?(ピアノ界でも似たような傾向あり) 大衆化すればするほど、単純な筋肉重視、力重視の練習になりやすいよう・・・

2021/4/30 <四股から学ぶ その2>

 

 一昨日四股の話を書いたら、早速読者の方が、松田哲博氏(元・一ノ矢)による月刊「武道」連載エッセイ『四股の探求の旅』を資料として送ってくれた。

 2018年9月号から始まった連載は当初2年の予定だったようだが、好評のため現在もまだ続いている。第一回『”腰を割る”とは?』、第二回『相撲は腰でとれ』、すでにここには、重みを相手に預けるための前傾姿勢、そして間違った前傾姿勢が説明されていて、目から鱗。双推手で師父が何を要求しているのかがやっとはっきりした。この関連でスクワットと腰割りの違いも説明されている。腰を割らないスクワットのようなタントウ功では身体のテンセグリティ構造を活かすことができない・・・・

https://ameblo.jp/naturalcare-jyun0709/entry-12313469126.html
https://ameblo.jp/naturalcare-jyun0709/entry-12313469126.html

テンセグリティとは、「張力によってバランスが保たれている構造」

 

 

 『建築物は一般的に土台や基礎に支柱は鉄筋を積み上げていきますが、テンセグリティは土台や基礎が全くないのに大きな構造物を建てられる、魔法のような構造です。テンセグリティを使ったテントや建築物は同じ大きさを作るのにも軽くて丈夫にできるのだそうです。』(2018年9月号87ページより抜粋)

 

 相撲は本来このような構造を活かして大きな力を出している。そして練習のほとんどはそのようなテンセグリティ構造を作り上げる(取り戻す? 大人になる頃には筋肉の発達などでテンセグリティが崩れている)ことに費やされる、技は自然と出てくる、技の練習は本来非常に少ないもの、と松田氏は書いている。が、これは太極拳も全く同じ。師父からはしょっちゅう、「技は身体ができてしまえば自然と出てくる」、という言葉を聞いてきた・・・

 

 テンセグリティ構造を取り戻すには、やはり余計な筋肉の引っ張りをなくすこと、だから、力を抜くこと、が求められる。筋トレはしない。筋トレをすると局部が発達してテンセグリティが崩れる。第四回『筋トレと四股と”一”と』ではそんなことが詳細に説明されている。”一”になる、というのは全身丸ごとの力になる、周身一家になる、ということ。その真逆が、局部局部に分断される、ということだ。四股は『”一”で上げ、”一”で下ろす』べき、限りなく一に近づける、とのことだが、私が見て感じた通り、実際には”二”や”三”で下ろしていることも最近は珍しくないようだ。四股も変化していっている・・・お相撲さんも筋トレをするようになったかな?

 第六回の『支点を作らない四股』というのは私にとってとてもタイムリー話題。

 驚いたのは、そこに引用されていた甲野善紀氏の『身体から革命を起こす』の中の一節:『歩いたり走ったりする時に足で床を蹴ることは、そこを支点として動くことであり、身体は捻れる。同様に、身体のどこかを支点として動くことは、その支点を筋肉が蹴っていることである。』

 肩を支点として腕を伸ばすと、肩を”蹴って”腕が伸びたことになる。腰を支点に上体を前に倒せば腰を”蹴って”いることになる。そのような”蹴りの反動”のある動きを、”居ついた動き”と呼ぶらしい・・・テンセグリティ構造を崩す動きになるということだろう。

 

 テンセグリティを追求して身体機能を高めるのか、それとも筋力を高めて身体を強くするのか、これは二者択一。 前者を選べばひたすら力を抜く、後者を選べば力を入れる。面白いのは、力を入れるよりも抜く方が楽なはずなのに、入れるようが抜くより簡単だ。入れれば抜ける。が、先に抜け、と言われても、何を抜いてよいのか分からない・・・抜いてると思っているのに「力が入ってる、まだ抜け!」と言われて昨日も途方にくれた私(苦笑)

 どこをどう抜けばよいのか・・・といろいろ試してOKが出て、やっと、ああ、ここに力が入っていたのだと後から知る。

 抜けて初めて抜けていなかったのを知る。(けど、まだまだ抜けていないらしい・・・抜くのは底なしのようだ・・・) 

 そういえば、出産の時も、もう産めそうなのにまだ力んじゃいけない、と言われている間は辛かった。けど、分娩台に上がって、もう力んでいいですよ、と言われたあとは、ただ陣痛に合わせて力めば良いから大変だけどやり易かった・・・感情がこみ上がってきた時に(堪えるのではなく)広げて溶かしていくのも似ているかもしれない。

 

 この3日間は推手で徹底的に手の力を抜くことをやらされているが、少しでも手の気配があると叱られる。まずは肘の意識で推せと言われて、それがある程度できるようになったら、次は肘の気配も消していけ、と言う。すると肘の感覚を薄く肩まで広げるようになるのだが、そうすると肩の気配もなくせ、となる。その先、胸まで広げたら、胸の気配も消せ、となって、腰や腹まで広げたら、そこも消せ、股関節まで広げてそこも消して、膝まで、そして足まで広げたら、最終的には足の気配も消せ・・・そして一体どこから手に力が伝わっているのか分からない、となったら完成、ということになるのだろう。

 

 にしても、抜く、にとても苦労している最中・・・包丁で野菜を切っていても、あれ?ここに力が入ってる? ん? とかやっていて却って指を切りそうだ。気がつくと、四六時中、力が入ってばかりいる。自分の犬が通りすがりの犬に吠えただけでも身体はすぐに緊張するのだ。こりゃまだまだだ、いや、やっとスタート時点に立った、と思うしかない。

 

 松田氏の連載記事を読むと、太極拳と相撲の核心部分が同じであることがよくわかる。それが武道の核心部分なのだろう。それが力技ではない妙なる技として映るもの。それが精神性へとつながるもの。筋トレでは入り込めない内側の旅にもなるのだろう。

 

2021/4/28  <四股から学ぶ その1>

 

 ブログの読者の方から股関節を使えるようにするのに効果的な動画を紹介して頂きました。

 四股踏みに至るまでの準備練習を扱ったもの。途中、イチローの有名な動作とか、私や師父が毎日やっている動作も含まれていました。

 このような身体を割る動的なストレッチをしながら徐々に股関節を開いていく・・・そして最終的には四股!

 読者の方は1ヶ月ほどで正中線沿いに首あたりまで身体が割れてきた実感があるらしい。ダイエットにも効果的だとか。

 

 私自身は四股自体に興味が出て、別の動画も見てみました。

 

 が、あれ?っという感じ。師父にちらっと見せたら、「これは膝に悪いからすべきでない」と一言。だからこの動画でも、四股は足腰に負担をかけるので少しでも異変を感じたら中断してください、と断り書きがある・・・上の相撲ヨガのような念入りな準備体操が必要。

 

 けれども、私が思い浮かべてた四股とは少し違うような気がして、大鳳の四股の動画を探して師父に見せたら、「これはいい。整勁だ。」と言ってくれた。なお、整という漢字は中国語では”丸ごと、全部”という意味。整勁というのは一部分の力ではなく”身体丸ごと一つの力”、という意味。上の動画の力士達は2つの力、一旦膝あたりに体重が乗って、それからお尻(股関節)に体重が乗る、という2段構えになっているようだ。四股は太極拳と同様、胴体を杭のようにしてその重さで股を割るもの、決して脚を開くことで股を割るものではなかったはず・・・だから身体を放松して気を腹に沈殿させていく・・・胸は張らずに腹がゆったりと満ちる・・・

 

 下の画像は上段左が大鳳、右が北の湖。下段左が千代の富士、右が貴乃花。

 昭和の初期から見ていくと、四股の踏み方が変わってきている。もうなかなか上段の二人のような四股を踏める力士はいないのかもしれない・・・相撲も太極拳と同じように本質的な何か(神聖さ 優雅さ?) が失われつつあるのかも。

 気づいた点がいろいろあってとても面白い。続きはまた書きます。

2021/4/27 <三節九窍と18個の球>

 

   関節を全て回す、といっても全てを意識することは無理なので、太極拳では、まず身体を根節・中節・梢節、と大中小の3節に分け(脚、身、腕)、その各々の節をさらに三節に分けて9節にし、それぞれに対応するツボを意識できるように練習を行っていく。

 さらにこの9節を基本として、胴体部分をさらに細かく分けて18の関節(球)を回すという方法を使うと、チャンスーの内缠外绕が可能になる。

 

 18の球は同時に回転する。

 1つが回れば残りも回転する。

 幼い時の身体はそうなっているけれども、成長していくうちに次第にその全体性は失われていく。

 股関節が動いているのに首が動いていない・・・というのは本当はおかしいのだ。

 股関節が動いていたら(歩いていたら)、首は微妙に動いているのが自然だ。

 

 以前、私のところに別の中国武術を練習している男性が体験でやってきた。一緒に腰回し(帯脈磨盤)をやった時、彼を見て、何かが変だなぁ〜 と思った。腰はちゃんと回っている(ように見える)が、どこか不自然。そして気づいたのは、首が全く動かない、硬直している、ということだった。

 手首が回転するには股関節も腰も微妙に(内側で)回転する必要がある。

 足首をぎゅっと握られて微動さえ許されなかったら首は回らない。首を回したかったら、足首も微妙に回る必要がある。

 外からみたらその回転は明らかではなくても内側では回転している、だから全身の放松が必要なのだ。

 鶏が首を振らないと歩けないのと似ているが、あそこまであからさまに振らなくても人体は首の微妙な隙間で動きが可能になる。鶏のように首を振らなければならないとしたら背骨が硬直している、ということだろう。

 

 18の球を回せれば相当なレベルだろうけど、練習を始めたころは何がすごいのか全くわからなかった。師父を始め、レベルの高い老師たちの練習は普通の人が見ても何も凄さが感じられない。身体の中を通顺にする、身体の内側の通路を作る練習がメインだ。内側の通路が作られると、様々な動きが容易になる。

 

 三節九窍と18個の球(関節)については下のイラストを参照してください。(馮老師のテキストから図にまとめました。)

 

 そして18個の球については師父の定番の内功の練習姿を撮影したのでそちらを参照してください。太極拳のどんな動きもこれら18の球が連動して動いています。

2021/4/23  <関節を回すとは? 甩手で緩むもの>

 

  股関節をうまく使えないと上半身の力みがとれない。上虚下実にならない。

 毎日当たり前のように股関節を使っているはずだけど、さあ、股関節を緩めて下さい、と言われたらどうするのか? 膝を曲げれば股関節が緩むのか? 膝ではなく”股関節を”ダイレクトに緩めることはできないのか? 改めて緩めようとすると、果たして、緩める?てどういうことなんだ? とそれまで考えたことのなかったことまで考え出してしまう・・・太極拳を練習してきた人にはよくある経験かもしれない。

 

 全身を節節貫通させて周身一家にするというのは、全関節を数珠つなぎにするようなことだが、そのためには、それぞれの関節に糸(気)を通すための穴(隙間)が空いている必要がある。この隙間が空くようにすることを”関節を緩める”と表現しているのだと思う。

 

 関節は骨と骨のつなぎ目。そもそも隙間になっている。この隙間が十分でないと関節が関節として機能しない。

 骨と骨のつなぎ目、というのは、筋肉と筋肉のつなぎ目でもある。だから筋肉が鍛えて硬くなってしまったら隙間は分かり辛くなる。筋肉と関節は実と虚のような関係だ。筋肉を意識していると関節は見えない。関節を意識していると筋肉は見えない。

 太極拳は関節、虚を意識する。

 

 股関節の使い方に関連して、ある生徒さんから甩手(shuai shou)では股関節はどう使うのか? という質問をもらった。回答からいえば、甩手は肉を放松するもの、関節は意識するものではない。全身の肉を放松することによって様々な病気(特に高血圧)を治す、という治療法として文革の時代、70年代にブームになったということだ。(当時甩手とともに、雄の鶏の血を抜いてそれを人体に注射して入れる、という治療法も一大ブームになったらしい。)

 

 このあたりについてしゃべりながら師父の動画を撮りました。

 前半は甩手についての雑談。

 そして後半は関節を回す、ということについて(こちらが大事!)です。

 動画の中で私が手首の関節を回す動作をしています。指をまっすぐ開いて手首を回すと手首の関節は回っていない、手首の関節を回すには指を柔らかく曲げる、親指を折り込む必要がある・・・なぜか?

 それは、各自、真似してやってもらえば感覚の違いが分かるはず・・・

 指を伸ばして手首を回した時(上図右側)・・・回しているのは手首の外周。意識もそこにある。そして実際に”回る”ことはない。行ったり来たり (これではチャンスーにならない、外し技もできない)

 指を丸めて回した時(左側)・・・手首の中(の関節)が回っている(ゴリゴリ音がするかもしれない)。意識も手首の中に入る。中で何かが回る。

 

 手の骨格図を見ると、手首あたりには水平に回せる関節グループが3つある。私が動画の中で回しているのはそのうちの下2つだが、動画をチェックしてみると師父の手首は3つ全て回しているようだ(しかも指の方も関節も回している・・・手の中の関節全てをごりごり回していたのか・・・が、これが本当のチャンスー・・・差が歴然(苦笑))

 

 その他の関節についても原理は同じ。

 関節を回すには、解剖図を多少意識して、意識を体の内側にあるその関節に持っていくことが重要。(関節がどのくらい動くのか、前回書いた外クワや内クワ、前クワ、後クワの位置を確かめることによって関節に対する意識をより細かく強くしていきます。)

 肉を緩めるのはその作業の準備段階。肉を放松しながら徐々に内側にある関節を探す。

 人体の関節の数はとても多い(200個超える)が、馮老師がいうところの18の球(関節)を意識できるようになるのが目標です。

 

 下に動画を載せます。

 

2021/4/22 <外クワの重要性>

 

   股関節カックンの動画を見て、股関節の中心を探して”抜く”練習を日本にいる生徒さん達にやってもらった。

 感想を聞いたら、うまくできたという生徒さんもいれば、うまくいかない生徒さんもいた。

 

 うまくいった人たちの感想・・・

 「座ってパタパタすると股関節まわりは思っていたより自由そうだと思った。そのあと立って倒れていくのは最初は勇気がなくてうまくいかなかったが、パタパタを続けていると倒れられるようになった」

 「倒れるのをすると脚が長くなったような感じがする。そのあとO脚が改善されたよう」

 「抜くというより、股関節の真ん中を意識して動かすと力が抜けるポイントがある感じがした。股関節が動きやすくなってびっくり」

 「倒れるのをやってパタパタして立ち上がったら、足裏から体感がしっかり通った感じがする」

 「股関節抜いた後だと片足立ちもいい感じ。股関節と軸が合う?」

 

  一方うまくいかなかった人たちは、「どうやって倒れるのか分からない」

 「倒れない。そもそも股関節の位置が把握できていないよう」、とんな感想。

 

 私もやってみましたが、そもそも幼少の頃からの癖で長年位置の認識がズレたまま酷使してきた右股関節の方は抜きが甘い(膝が微妙に曲がってしまっている)のがわかりました。思っているよりもも少し後ろの外の方向に股関節の球を押し込んでいける・・・実は、この欠点を直すために、最近師父と下の動画のような”外クワ”に乗る練習を始めたばかりでした。

 

 

 師父は外クワを開いてその隙間で引っ張り合いをしろ、と言うのだけど、外クワ(胯=股関節)を開く(隙間を開ける)には内クワに引っ掛けておかなければならない。内クワにひっかければ足の内側(内踵、土踏まず、親趾)がべったり地面について、そこを支点に外クワへと体重を載せていくことができる。

 うまく倒れていけない生徒さんたちはおそらく、この内クワを素通りしてダイレクトに外クワに乗っかっていこうとしているのだと思う。内クワにひっかけずにダイレクトに外クワに乗っていこうとすると、乗っかる直前に、身体という建築物がグシャッと壊れそうになるので、怖くて乗ることができない。身体がブロックして斜めに倒れられない、もしくは、身体がグシャッとなって股関節の感覚が全く感じられない、という結果になる。

 

 上の生徒さんの中でうまくできた人たちは、パタパタ運動をやって股関節の球の内側、外側を身体に覚えさせて、それを無意識で使って倒れる(抜く)動作をやったのだと思います。

 

 股関節の球を使うにあたっては、前クワ、後クワ、内クワ、外クワ、をまず意識できるようにして、それに上下を加えれば理論上球はいろんな回転が可能になる。

https://rikatime.blog.fc2.com/blog-category-75-7.html (上から見た地球儀)
https://rikatime.blog.fc2.com/blog-category-75-7.html (上から見た地球儀)

 

 上図は 上から見た地球儀の写真を使って股関節を上から見下ろしたつもりで描いた図。(2つの山はお尻のつもり)

 前後のクワ、内外のクワの位置関係を示している。

 

 ここで注意が必要なのは、理論上の外クワと実際に使う時の外クワの位置がズレていること。真横で使うと腸骨にひっかかって股関節が”抜けない”。

 このラインは膀胱経と胆経の間のラインで、膝の委陽を通って外踵へと通じる。このラインはとても大事なのでもう少し説明が必要かと思う・・・が、とりあえず、馮老師の動きで見て下さい。

 

 体重移動の時、外クワにしっかり乗る必要があるのがわかる。(注:クワに”乗る”と書いたけれど、本当はそこにどっしりと乗っかってはいけない。その隙間の中にいる。引っかかっている感じ? 文字通り乗っかってしまうと、その部分だけ飛び出てしまう。全身の関節を全て引っ掛けられれば球体になる、というところから遡って考えれば、特定の関節に乗っかってしまうと体は球体にならない。このあたりは感覚で得るしかない箇所。

なお、下の右端の写真を見て分かるように動きの中では上体は必ずしも垂直ではない。垂直と体軸はしょっちゅう分離する。 これが正しい中正!)

 

←ジャンプして着地する背面の姿

 

外クワに乗って、外クワでシャンプする。

足裏べったり

ひざ下まっすぐ

お尻の弾力性・・・

 

ここで体重を受けられないと膝や腰など別の場所に力が残ってしまう。股関節を正しく使うことで力は足裏へ抜ける。

 

 

 馮老師の外クワに着目して下さい♪

 随所に外クワの力が働いているのが分かると思います。

 

 なお、実は、外クワを開くにはそれに連動した部分、体側、脇下、肩まで開く必要があります。劉師父との動画でストレッチのような格好をしているのはそのため。 太極拳は思っている以上に間接の可動域を広げておかなければならない。それによって、ゆるゆるの動きが可能になる。見かけの動き、きっちりの可動域でだけ練習していると緩めて動くのは難しいかなぁ、と思います。

 

 

2021/4/21 <股関節カックンの動画>

  股関節、ドンピシャの動画を見つけました。高岡氏の理論に基づくもの。股関節を”抜く”。

  偶然だけど師父から最近教わった動功もこれにとても似ている..  呉式の立ち方が理解できたのもそんな股関節重視の練習の後でした。
  ドラマーも股関節が命。股関節抜かないとあんな腕捌きはできない...

2021/4/20 <股関節の位置 内踵と股関節の対応>

 

 昨日のブログに関連して、股関節の位置がやはり分からない、という生徒さんのために一つ動画を紹介します。

 バレエでは股関節の正確な動きが太極拳以上に求められる・・・ということで参考になるはず。

 とても基本的な解説をしてくださっています。役に立つ。

 

 ポイントは 半分、半分。

 そして内踵と合わせる、ということ。(踵の内側を前に向ける、という方法で確認)

 

 内踵と合わせられれば無敵です。いつでも使える。普段歩いている時も練習できます。

 

 股関節と内踵をピタッと合わせているのが分かるのはやはり馮老師。狂いがない。そこが巨匠たる所以・・・

 例えば第7式斜行に入るところの動作 (https://youtu.be/NLIsASGVNYI より)

 まず右手を回しながら右足を踏み込み(左画像)、それから左脚を前方に出す(右画像)。

 左画像については下で詳しく解説するとして、右画像について言えば、右足を前に滑らせていく時の右足内踵に注目。内踵はずっと右の股関節の球(大腿骨骨頭)と連動させたまま前に滑らせている。内踵に引っ張られながら股関節がしっかりと回転する。目標の場所まで移動してから、馮老師の右足足先は優しく床に置かれる・・・なんて美しく柔らかな足の動き・・・カンフーシューズだからその柔らかさがよくわかる。足の指に全く力が入っていないようだ。足が踏ん張っていない。ただ軽く置かれている・・・股関節と完全に連動しているから無理に地面を掴む必要がない。これが少しでもずれると足は地面を掴みにいかざるを得ない。

 

 そして股関節と内踵を合わせる要領だが、太極拳では常に腕の動きがそのサポートをしてくれる。腕の動きによってその近辺を通る股関節にも意識が届きやすくなる。そのあたりがとても賢く作られているのが太極拳。下にまとめたので参考にして下さい。

このように見ていくと、やはり左のような太極拳風の競技は身体の正しい使い方を無視しているのでかなり身体に悪そうだ。(股関節と内踵の対応ではなく、膝と踵の対応になってしまっているのがわかる)

 

若いうちは脚力で持っていけるけれども、いずれどこか故障するのではないかと老婆心ながら心配になってしまう・・・

不自然な体の使い方であり得ない動きをするのは一種の曲芸。それに踊らされてしまうのもかわいそうな気がする。

2021/4/18 <座る練習 股関節の正しい位置の確認 女性と男性の違い>

 

 ある生徒さんから、坐禅をしていたら尾骨が飛び出てきたようだ、どうすべきか? というような質問がきた。

 坐禅は安静にして心身を調える最も基本的な功法で、最も効率よく気を丹田に溜めることができる。その効果はタントウ功以上だが、足を組む分難易度が高く敬遠する人も多い。

 

 上のような坐禅にまつわる問題点の根本は、股関節がうまく回転せずに脚をむりやり組んでしまっていることにある。とりあえず形を作ろうと股関節の位置を無視して両脚を引っ張って組んでもうまくいかない。最初は安座でも良いから、股関節=大腿骨骨頭の位置を手で触って、そこで脚がパタパタ動くのを確認してから、座ってみると良いと思う。

 

例えば左図のような座り方は長時間座るのに適していると紹介されているが、

https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/education/10186/

それは股関節=大腿骨骨頭の位置がわかりやすい座り方だからだと思う。

 

 そして、大腿骨骨頭がどこにあるのか、それをちゃんと認識できるようになるのがとても重要。間違えても大転子と混同してはいけない!股関節は大抵、思っているよりも内側にある。(位置をしっかり把握したい人はhttps://retea.eek.jp/post-641/ や https://www.chacott-jp.com/news/useful/lecture/detail001669.html などを参考にして下さい。)

 股関節の正確な位置を脳でしっかり把握できると太極拳の動きもガラッと変わる。

 

 座る、というのは中国ではとても基本的な養生法だった。

 さまざまな座り方。

 これらは腰、骨盤、脚、足を柔らかくし気血の流れをよくする。

 どれもきちんと座ることが肝要。

 

 

 結跏趺坐は難易度が高いけれども、できるようになると様々な点で効果が高い。

 冒頭の質問のように、尾骨が痛いとか、もしくはお尻が開いてきてしまった、というような問題は、女性にありがちな問題の類。というのは、女性は仙腸関節が男性よりも緩く、胡座や結跏趺坐になる時に股関節を回す代わりに、仙腸関節を引っ張って脚を前に回してきてしまう危険性が高いから。男性の場合は仙腸関節は簡単には開かないから、股関節が回らない限り座禅はできない。女性は男性に比べ開脚や座禅ができやすいが、それが仙腸関節が開きによって行われている(骨盤が開いてしまっている)ケースが多いから注意をしないといけない(私も経験者)。

 

 女性の場合は、骨盤を内側からぐっと引っ張って外向きに開かないようにしながら(チューリップの花が開いてしまわないように内側で引っ張っておく)、開脚をしたり坐禅をするのが大事。太極拳の練習でも日常生活でも同じだ。

 師父によると、女性は骨盤を『裹 guo』=ぐるぐる包む ぐるぐる巻く、のが必要、一方、男性の場合は骨盤は『撑cheng』=内側から外に張り出す のが必要、というそうだ。 女性は外に広がってばらばらにならないように外から包んでおく、男性は骨盤が小ちゃく縮んでしまわないように内側から外側へ張り出しておく、ということだろう。

 

 坐禅の時に丹田に気を溜めていても、女性と男性では意識のとり方が微妙に違う。

 女性はタントウ功や坐禅では恥骨(前陰)に置くのが原則とされている。男性の場合は会陰を使う。女性はなぜ恥骨側(任脈側)に意識を置くのか以前はよく理由が分からなかったが、現在ではその方が気がグルっと骨盤を包んで骨盤が安定しやすいという感覚がある。(このあたりのミニ周天の話はまた別の機会に。)

 

 そして最後に、坐禅、特に半跏趺坐や結跏趺坐でとても大事なのは、その目標が脚、足に気を通す、ということ。言葉を変えれば、いつまでもお尻にドカンと座っていてはいけない。お尻(骨盤)が立って坐骨で座れるようになると腿や脚で座ったようになる。座布団を使ってお尻を少し持ち上げて坐禅をするとそれに近い感覚が得られる。脚も使って座ると楽になる。かつ、脚に気が通る。脚のねじれ、足首の硬さも徐々にとっていけると良いのだけど・・・そのためには、まずは股関節の位置で折り曲げる練習をしなくては。 (繰り返しますが、正確な股関節の位置を手で触ったまま脚を折り曲げる作業をするべきだと思います。頭で考える股関節の位置と実際の位置にはズレがあるのを知る必要がある。毎日自分の股関節の位置を確認する・・・そんな地道な練習の繰り返し。)

2021/4/17 <胸式呼吸→腹式呼吸→腹圧呼吸 肋骨を束ねて呼吸する内功>

 

  肋骨が上がってしまっては気沈丹田が保持できない・・・という話から、ではどうやって肋骨が上がらないように呼吸をするのか、という話に移っていった。

 

 ここから先は結局、いかにして、胸郭を横に広げる胸式呼吸ではなく、胸郭を縦に広げる腹式呼吸にするのか、という話になってくる。(ボイストレーニングのこのサイトにあるイラストがわかりやすかった。https://msw-lesson.net/vocal/s/lesson02_2.html 肩や喉をリラックスさせるためには腹式呼吸を使う。)

 そして腹式呼吸の先には腹圧呼吸がある(吸っても吐いても腹圧を落とさない)

 腹圧呼吸については以前ブログでも書いたので省略するが、肋骨を締めておかなければ腹圧は上がらない。

 

 確認のために書くが、胸式呼吸も腹式呼吸も肺に息が入って呼吸がなされている。腹式だからといって腹に息が入ったりはしない。違いは、胸式では肺の上部に息がはいりやすく腹式では肺の下部に息が入りやすい。

 昔、出産後の女性のクラスを持っていた時、腰痛解消のために、背中側の肺の下の方に息を入れるように呼吸をしてもらったことがあった。皆案外簡単にそれができたのを覚えている。こうすると腰(命門)が開きやすくなり腹腰が安定する。実際には、前に突き出た肋骨が下がって腹式呼吸に移行している。六字訣の『吹(chui)』の状態だ。背中の下の方(胸椎10番〜12番あたり)に息を入れようとするのも有効)

 

 ではどのように練習するといいのか?と改めて考えたら、呼吸だけを取り出して練習するよりも身体の動き、手の動きと合わせる方が太極拳的で自然だと気づきました。 鼻だけ呼吸、というのを書こうかとも思ったのだけど呼吸だけに意識を向けると呼吸が逃げてしまう危険性がある。気功法で調身、調息、調心というように、意識と呼吸と動きを三位一体で合わせて練習するのが最も良いのでは? と、改めて、基本中の基本の、『収腹功』(転腹収功)のやり方を動画に撮りました。内功は同じ動作でも意識や呼吸を変えていくとまた違った効果が得られます。ここでは3回吐いて1回吸う、あるいは3回分吐き続けて1回吸う、というようにして、気を腹底に落とす(吐く)意識をメインに練習しています。吸う時はせっかく腹に落とした気を失わないように。この時、動画ではコメントしていませんが、上で書いたように背中に息を引き上げるような感覚で回すとうまくできると思います。

 

 吐く吐く吐く吸う、で肋骨が広がらずに保持できるようになったら、次は、吸って吸って吸って吐く、と吸うを3回、吐くを1回で練習します。最初の吸うところから肋骨は下がって命門が開いた状態で、腹は吸っても吐いても張っている=腹圧呼吸になります。こうやって吸って丹田を回すことで丹田に気が溜まっていきます。

 

 まずは、第一段階の吐く吐く吐く吸うとしっかり練習。どんなにレベルがあがっても、毎日の練習では第一段階目から練習すべきだと思います(吐く吐く吐く吸うで放松して気が下に落ちる。これなくして吸う吸う吸う吐くはできない。)

 

 

 

馮老師の収腹功(https://youtu.be/4fF0yB_efN8 2分あたりから)

 

 案の定、呼吸が全く分からない・・・

 

息を丹田の中でホールドしたまま丹田の気を回している。口が何かを(舌を?)含んだようになっている→体が気を含んでポンしている。

 このレベルに到達するのはなかなか難しい・・・

2021/4/15 <肋骨を締める(束肋) まずは呼き切る>

 

   気をしっかり腹に落とすのは太極拳の出発点。

 放松はそのために必要だし、それによってより放松が可能になる。

 より放松できれば、気はさらに落ちてより丹田がはっきりする。放松と気を落とすのを繰り返していくと、いつか気沈丹田と呼ばれるような、腹底にアンカーが形成されたような状態になる。

 

 まずは気を腹に落とせないと始まらない。

 もし気を腹に落とせているかどうかが分からないなら、自分の肋骨を触って確認してみるとよいと思う。息を吐いていった時に肋骨がじわ〜っと閉じていっていれば気は腹へと落ちていっている。ただ肋骨といっても範囲が広いので、肋骨の一番下の部分(横隔膜が付着している場所)に両手を当ててそこが呼気ととも閉じて(上がっていたのが下がっていく)いくのを確認できればよい。

 

 肋骨が開く、というのは、正確には前側の肋骨が前に突き出て上がったようになっている、ということ。肋骨を締める、閉じる(太極拳の言葉では、”束ねる”)というのは、その前に突き出た肋骨を押さえることだが、その結果、背中側の肋骨が少し後方へと浮いた感じになる。背中(腎臓の位置近く 実際には肺の一番下の部分)に空気が入った感じだ。それによって命門が開きやすくなり抜背が可能になる、と連動していく。

 

 巷では肋骨を締めるのに筋トレのようなことをしている人たちもいるようだが、太極拳ではそのような使い方はしない。

 肋骨は呼吸によって動く。

 呼吸と肋骨はセットだ。

 呼吸と無関係で肋骨を締めようとするのはナンセンス・・・

 

 昨日のブログの最後に、気沈丹田に即効性のあるものとして、肋骨を束ねることと鼻呼吸、と書いたけれども、実は、鼻呼吸と束肋は連動していることに気づいた。これがなければあれがない、あれがなければこれがない、といった表裏の関係だ。つまり、肋骨が締まらないような鼻呼吸は鼻呼吸ではないということ。だから、最近目を通した陳正雷の内弟子の安田洋介先生の本の中に、「日本の太極拳愛好者は鼻呼吸をすべきだと知ってはいるけれどほとんどできていない」、「自然な鼻呼吸は陳家溝で暮らして初めて分かった」、という記述があったのだ・・・と、頭の中でピンときた。確かに、私たちが漫然と鼻呼吸、と思っているものはあの中国の地域の人たちの気候女権からくる鼻呼吸とは違う可能性が大だ。昔の北京の冬も寒かったが陳家溝の近にある劉師父の故郷の鄭州などは冬が寒いだけでなく黄河からの砂埃で口から空気が入ると喉が痛くなってしまうようなところだった。だから鼻だけで呼吸をしなければならない(一週間もいると鼻毛が伸びていた)。日本にいる時は無意識で口からも息をしていたということだ。

 

 と、鼻呼吸に話を進める前に、まずは息を吐ききって肋骨を下げる(締める、束ねる)という基本を押さえる必要がある。この呼気における束肋ができないと、その先の吸気における束肋に進めない。鼻呼吸が大事になるのは吸気の時だ。

 

 呼気で肋骨を締める話は腹圧との関連で以前にも書いたかもしれない。

 このあたりは私よりも上手に説明してくれている人がいるはず・・・と探したら、とてもよい動画がありました。

 まずは下の動画を見て、基本を押さえてください。(私も見て勉強になりました・・・首の筋肉が問題・・・肋をうまく締められない生徒さんの首は確かにそんな感じだ・・・首で呼吸をしていたのか・・・と納得。太極拳なら沈肩と含胸の問題になるのだけれど、この動画のように説明してもらったほうが具体的にどのような状態になっているのかはっきりわかります。)

2021/4/14 <気沈丹田と雑談>

 

  結局戻り着いたのは、気沈丹田。 

  軸にしろ、首をつなぐにしろ、気を腹底まで沈めるのが要になる。

 

  ただ気沈丹田といってもレベルがある。

  最初はヘソ下あたりから始める(気海ツボあたり)。

 そして徐々に更に下に膨らましていく。この時、腹圧を維持したまま気を下に押し込むのが肝心だ。もし、気を下に移動させようとして腹圧が減ってしまうと身体が落ちてしまう。腹圧を維持しようとすると嫌でも会陰を引き上げることになる。

  軸が首まで貫通するのは、気を腹底まで押し込んだ時。胴体をリュックと見立てるなら、リュックに気を押し込んでいって底まで気を詰めこんだ、という感じだ。

  私くらいだと、底まで気を沈みこませると胴体のリュックが縦に長くなってしまう。細長い風船のようだ。辛うじて軸はできてもその軸は細い。

  もっと功夫が上がると、リュックに詰め込む気の量(圧)が増大し、底まで詰め込んだ時にリュックの形はサンドバックのようになる。この前見た楊澄浦などは球体だろう。こうなると球自体が軸なので軸があるのかないのか分からなくなる(本人に軸の感覚はないだろう、空だろう)。首もない同然になる。

 

  人それぞれレベルは違うけれども、やることは同じ。常に気を腹に落として、浮いてこないように注意すること。

  これは別に練習の時だけでなくて日常生活の中で実践できることだ。(もし気を腹に落とす感覚をまだ知らないなら、最初はタントウ功や坐禅でその感覚、やり方を習得する必要があるけど。)

  ただ、私自身日常生活の中でどのくらいできているか?と見てみると、知らない間に気が上がっていることがどんなに多いことか・・・ 無意識になると途端に上がっている。意識しないと気沈丹田でいられない。師父はどうなのだろう?と尋ねてみたら、大抵は大丈夫、と言っていたけれど、やはり興奮してしゃべっている時は気が上がっている、と言っていた。

 

 「気の量の多い人は元気で快活だが気が上がりやすい。

 気の量の少ない人は気は上がり辛いが大人しく活気がない。

 同じ親から生まれた犬の赤ちゃんの中にも元気なのと弱いのがいたりする・・・」と、ここからは師父は逸れて、私には衝撃的な話をしていった・・・(雑談なので読み飛ばしてもよいです)

 昔農村では番犬として犬を飼っていた。犬は一度に5、6匹の子供を産む。が、その頃の農民は貧困で飢えに苦しんでいて、とても全ての子供を育てることはできない。一匹養うだけでも大変だった。そこで、当時は犬の赤ちゃんが生まれたらすぐに母犬から引き離して全て紐に吊るしておいて、最後まで飢え死しなかった子供だけを育てたそうだ。

 

 あ〜〜なんて残酷!信じられない!! と一瞬腹がたちそうになったのだけど、当時はそうでもしないと人が飢え死にしてしまう状態だった、と聞くとどうしようもない。師父はそんな貧しい時代を知っているからこの手の話は何の感情もなく淡々と語る。締め言葉は、「だから、同じ親から生まれても強いのと弱いのがいる、ということだ。」 締めはそれ? 強くなきゃ生き抜けないということ? と思ってしまうのだけど、動物は本来そんなものなのだろう。

 今では生まれた時に身体が多少弱くても生きていけるような環境が少なくとも先進国では整っている。

 そして面白いのは、もともと弱めの人は身体に気をつけてセーブしながら生きるから結果として長生きになる可能性が案外高いという話。もともと強い人は無茶をして健康を損ねる可能性も高くなったりする。人生最後の最後まで何が良くて何が悪いのか分からない(最後になっても分からないかな?)。

 強いからいい、弱いから悪い、というのはなくて、気をちゃんとあるべき位置に戻す(気沈丹田)訓練をすれば、強い人はエネルギーが悪い方向に流れるのを制してくれるし、弱い人はエネルギーを活性化してくれる。こればかりは他人と比べるのがナンセンスで、自分一人の修行の進歩を味わうのみだ。

 

 <本当はここからブログを書く予定だったのだけど前置きが長くなりすぎた・・・>

 今日私自身が歩きながら気沈丹田をやっていて気づいたこと2点。

 肋骨を締める(束肋)と鼻呼吸。どちらも気沈丹田をするのに即効性がある、と思ったが、これらの点についてはまた書きます。

 

 

  

  

2021/4/13 <首の力を抜ける位置を探す>

 

節節貫通の中で特に難しいのが頚椎、首。

 

人体の最も上に位置する頭蓋骨を自然に支えられるような首とは?

と考えると、昨日見た東京タワーの建設途中の画像が頭に浮かぶ。

 

人体を単純に三階建の構造だと考えると、頭は3階。2階と3階を繋ぐのが首(頚椎)

2階の胸郭まで完成させて頭を載せようとした時、背骨(緑線)を延長してすんなり載せられれば万々歳だが、もしその背骨を延長しても頭が載せられない場合には、①首を補強する、か、②首をそれより下の背骨から切り離し頭を支えられるような角度にしてしまう、か、③もう一度土台から組み直して背骨のアライメントを調整する、かという解決方法が考えられる。

 

 ①は首の筋肉を鍛えたり、首を固めて外見的には首を立てたようにする。首は常に緊張している。②は首は傾いている(自然な角度ではない)多くの場合頭が身体より前に出てしまった状態で首が固定されている。構造物としては傾いた状態だ。

 ③は本来そうであったような身体の構造を取り戻そうとする試み。首を調整するためには尾骨仙骨、腰椎、そして胸椎の調整が必要になる。

 ①②だと首は緊張する。③ができると首には力がかからない。首があってもないに等しくなる。

 

 

 首や肩の調整が難しいのはそれが全身の改造を必要とするからで、逆にいえば、首の力が抜けている人は3階まで組み上げられている人。身体という建築物が完成している=節節貫通が完成している。私から見れば達人の領域だ。

 

 

 

 以前、陳項老師の第21式の中の海底翻花の動作(腕を回しながら右足を上げる動作)を見た時、あれ?と目が止まったことがあった。

 なんだか(私も含め)他の老師と違う・・・

 

 そしてこの真似をしてみて分かった。

片足を上げる時に首に全く力が入っていないのだ! というよりも、当時の私も含め、多くの人は、片足を上げる時に無意識で首にピキッと力が入ってしまうのだ。

 首に全く力を入れないように片足を上げてみると、腹(丹田)にものすごく力がかかるのが分かる。そうでないとふらついてしまう。つまり、気沈丹田がそのくらいできていないと首の力は抜けないというのがその時に分かった。

  やはり馮老師レベルだと片足(膝)を上げても気は丹田に沈んでいるが、そのお弟子さんレベルだと足を上げてポーズをとった時に気は上がって大椎に力がかかっている。命門の張り出しが弱くて内側の軸が形成されていないのが原因かと思われる(首の大椎穴は周天の関門)。

 

  そう言われてみると、駅の階段を上がる時も無意識のうちに首に力がかかっているのが分かる。しゃがんだ状態から立ち上がるときも首に力がかかる。

  背骨の節節貫通がどういうものかを簡単に知りたければ、首に全く力がかからないように片膝を注意深くゆっくり上げてみるといいと思う。少し上げたところで首に力が入りそうになったら背骨のアライメントを変えてみる。も少し上げてまた力が入りそうになったら背骨のアライメントを調整して気をグッと腹に押し込む。その繰り返し。うまく膝が上げられれば背骨沿いに軸が感じられるはずだ。 階段を上がる時も注意して上がってみると面白い。下半身が通常以上に鍛えられる。

 首は難関・・・私もまだまだ意識的になる必要がある。

 

2021/4/12 <気沈丹田を忘れない>

 

  朝の公園、犬の散歩をしながら軽く走ってみた。ん? なんだか身体がゆさゆさする・・・別に胸がゆさゆさするわけでなく、胴体の中がゆさゆさ、あたかもリュックの中に入れたものが揺れてるかのような感じだった。

  これはマズい。ぱっと見ると縄跳びをして男性がいた。そうだ、縄跳びだ!

 私は犬の綱を持って軽くおしゃれにジョギングモードで、完全に気が上がっていた(胸の位置)。気をちゃんと沈めなきゃ、と縄跳びを見て思い出した。

 気沈丹田、太極拳の練習の時にはやっているのに、普段の生活の中では忘れてしまっていることが多々ある。特にかる〜い動作、の時は危ない。力仕事、真剣モードの時は気は沈みやすい。腹を使わざるを得ないからだ。

 肉体労働が減った今、1日の中で行う動作の大部分は腹を使わなくてもできる軽い動作、軽作業だ。パソコン作業などはその典型。相当意識しないと気は丹田に沈めておけない。それほど気はevaporate(蒸発)しやすい。ずっと腹に引っ張っておけるのは子供の頃だけだ。思春期あたりから徐々に上昇し、20歳になる頃には胸の位置まで上がってしまう。(昔、東横線の中で男の子たちを観察していたが、16歳あたりまでは気が下腹部にあって胸が凹んでいるけど、大学生になると胸が開いてきて気の定位置は胸になるようだった。女の子の場合はそれよりも早い)

 

  朝起きて首や肩が凝るのは寝てる間に気が上がってしまうからだ。起きている間意識的に息を深く吐いて会陰を引き上げたりして気を引っ張り下げていても、一度寝てしまうとアンカーが切れて気が浮上してしまう。寝てる間も会陰を引き上げ続けられたらそうならないらしいが、まだそこまで功夫が至らない。

 

   私の目標は肩こりゼロにすることだが、長年の前肩の癖はなかなか治らず、今日も師父に無理やり股関節や肩関節を引っ張り出されていた。肩こりはマッサージしたって根本的には解決しない。師父のように肩を掴んでも全く筋張っていなくて柔らかい状態になるには、身体のアライメント、身体という建築物を正しく組み上げることが必要だ。その時に土台となるのが丹田(腰、胯=骨盤)という重しとその重さを地下へと分散する下半身の枠組みだ。

ここで頭の中に東京タワーが出てきてしまったので画像検索

←左は東京タワー建設途中の画像 https://note.com/shokosuzuki/n/n5a9a44d6f067

(このブログ自体が面白いです)

下から組み上げて建設しているのだけど、上の台の重さを4本の脚に分散させているように見える。

 

 身体もこんな感じで、丹田以下の組み立てがうまくいっていないと、その上にのっかる部分に支障が出てくる。肩首、腕、背骨、頭・・・元を手繰っていくと腰、胯に行き着く(というのは何度も経験済み)

 

  私の場合、肩こりを完全解消するには(顎を引いたまま)頭の位置をも少し後ろにする必要があるが、そこで直立で立とうすると丹田をさらに下に落とさなければならないのが分かる。太極拳の時は両足を開いてクワや膝を曲げているから多少やりやすいが、本当の直立になるととても難しい。丹田の気を落とさずに理想的な形を作ろうとすると行進する兵隊さんのように(身体が硬直)してしまう。

 

  ということで、私自身まだまだ課題は山積みなのだけど、死ぬまで姿勢や所作が美しいというのは憧れだ。そんな姿勢や所作を作るのに太極拳の練習はもってこいのはず(”道”のつくものはどれもそう)

 

  ここ何回かとりあげた高岡英夫氏。身体意識に関する理論が素晴らしく、3部作と言われるバイブル本はずっと本棚に飾っていた。今回久しぶりに開けたら以前よりも理解できるようになってますますその理論の素晴らしさを感じた。一体どんな人物なのだろう? 高岡氏はあまりメディアに出てこないようで、一昨日はかなり昔の動画だと思われるものを見た(下の動画)。

高岡氏といえばゆる体操。この動画では手首を摩る簡単な動きを紹介しているが、高岡氏のさすり方は他の人たちとは違う。

 

観客を見ていると、(言葉で)言われた通りにただ手首を摩っているもいれば、高岡氏の真似をして手首を回しながら摩っている人もいる。

が、高岡氏はといえば、手首を摩る時に手首だけでなく、肘関節も肩関節も、そして脊椎も動かしているのだ。手首を回すには脊椎を回す(捻る)必要がある。これはチャンスーだ。節節貫通、身体の内部では全てが繋がっている。(一つの関節だけが回る、ということはありえない。一つの関節が回る時は全ての関節が回っている。影響を受けない部分はない。)

 ただ、この時少し気になったのは高岡氏の首。首が他の関節の影響を受けず硬直したままのようだ・・・

 

 そして今日新たに動画を発見。これはつい最近のもののようだ。雑誌『武道』にこの3月から連載する『歩道』のプロモーション動画らしい。

 一眼見て思ったのは、首から上の硬直が目立つようになっているような・・・滑舌も良くない。

 元々頭が少し前に出ていたのがより顕著になった感じがする。

 

 頚椎から頭部のアライメントの調整が完璧ではなかったのかなぁ?顎の引き(内収下顎)や含胸が足りないと気沈丹田しないから首が立たない。軸はイメージでは作れない。身体意識はイメージではない(というのは高岡氏自身が説いていたのだけど)。

 

 この動画を見て気づいたのは、放松(緩める)だけでは姿勢は維持できない(垂線は感じられても姿勢を維持するだけの軸は作れない)ということ。

 正しい意を作ってしっかり気を腹に沈めることが必要で、身体は放松しても意までゆるくしてはいけないだろう...(意はイメージではない イメージを作った時点で中心=丹田から乖離している 感覚を研ぎ澄ませるとイメージはわかない)

 

 首から上を胴体と繋げるのは至難の技で、太極拳の老師でも頭頂まで節節貫通している人はとても少ない。逆にいえば、頭頂まで内側から繋いでいる人(首を立てているのではなくて、首が立ってしまっている人)は只者ではない。相当な功夫の持ち主だ。

 以上、日頃の基礎的な厳しさのある鍛錬(気沈丹田し続ける)がやはり必要なのだと自分にカツを入れました。

 

2021/4/10 <軸と命門、丹田の関係>

 

  昨日のメモの軸の話を検証するために師父にいくつか定式の形をとってもらった。

  垂軸とは別の軸があるのが分かる。

  

  師父はよく「背中を”撑”しろ」と言う。含意は、背骨を(腹圧で)後ろに押して背骨沿い(腹側の背骨沿い)に軸を作れということだ。背骨の前側に軸をとるとその結果背中が開いて”撑”:シーツをピンと広げたようになる。(背骨を後ろに推すのであって、背中を後ろに推すのではないことに注意。背中を後ろに推すと猫背になる・・・)

 その軸は、高岡氏が最も基本の体軸、センターとして定義している位置と同じだ(左図)。

   (http://tosanokochi.blog.jp/archives/669421.htmlから転載)

 

 

 下に今日撮った師父の動画を2つアップします。

一つは定式の形を横から撮ったもの。高岡氏のいうところのセンターの軸が効いている。

 太極拳の練習だとまず丹田を作って丹田で背骨を推したところに軸ができあがってくる、という順序。1本目の動画では丹田が背骨を推して命門を開くことで軸が作られるところを師父が見せてくれている。

  丹田は、実は”軸”を作るために一時的に形成する道具だという認識が新たに生まれた。丹田は最終的にはなくなるのだ。それは下の2本目の動画で師父が示している通りだ。

  

  軸の意識が現れた時には丹田はなくなっている。丹田を意識している時は軸の意識はない。

  そして丹田に集まる気の量が多くなればなるほど、作り出された軸は長く太く強固になる。

  このあたりの体内のメカニズムはとても面白いが、それを太極拳の中では単純に開(軸が現れた)と合(丹田に戻る)で示しているようだ。

  

2021/4/9 <高岡氏の垂体一致、垂軸だけでは不十分>

 

   アーチェリーと弓道の比較で”縦軸”が、”今、ここ、自分”のラインではないかと思ったけれど、それでは、太極拳の動きの中でいつもそのような縦軸が維持されてるべきなのか?という疑問が湧いてしまった(今更ながら)。

 中正の定義もよくよく考えるとはっきり分からない・・・

 と思っていたら、本棚に高岡英夫氏の『センター 体軸 正中線』という本があるのに気づいた。ラッキー♪とページをめくってみた。以前一度目を通したことがあるが、問題意識のあるなしで読み方が全く変わる。

 

『センター 体軸 正中線』59p
『センター 体軸 正中線』59p

 

 

  該当部分を読んで分かったのは、私のいう”縦線”は高岡氏のいうところの「重力に沿った身体を地面に垂直に貫く身体意識(垂線)」と、「背骨に沿った身体意識(体軸)」が一致したものだったということだ。

 

  高岡氏は垂線(重力線)と体軸(背骨ライン)が一致した状態を「垂体一致」、そのように一致した軸を「垂体軸」と言っている。(左の図参照)

 

     そして「垂体一致」は人間の姿勢や動きの中で特殊な、ピタッと静止した状態だということ。(だからタントウ功や弓道ではそうなる。能は意図的にこの状態で動くことで特殊な効果を出すのだと思う)

 だから、

<以下引用>

 ・・・センター=垂体軸として、センターを1つの直線上の構造のものとして説明するのは、理解しやすいけれど、それだけでは人間の動きを説明するには不十分なのです。そこで必要になってくるのが、垂体軸はセンターのあり方の基本形であって、センターは変動する構造であるという考え方です。・・・『センター 体軸 正中線』60ページより

 

   そこから、下の図のような軸の変化についての具体的な説明がある。

 左から、短距離走での垂体分化、ボクシングのダッキング(避ける動き)での垂体二重分化、そしてスキーにおける斜軸。

 

 

  直立の時の垂軸と体軸の一致は、動きによって分化し、また直立に近づくと垂軸と体軸た一致に近づく(例えば、ボクシングのダッキングでは上の真ん中の図のように軸が分化するが、直立姿勢でパンチをする時には軸が一体化したりする。)

  

  高岡氏の軸についての考察はさらに進むが、これらの基本的な考察から気づかされるのは、太極拳の動きの姿勢が常に垂体一致(垂軸と体軸が一致)ではないということ。もし常に一致していたらかえって不自然な動きになるだろう。

 

  最近使用した画像に垂軸や体軸などを真似て引いてみた。

 

  どうだろう?

  上の2段と下の2段。線を引きながら気づいたのは、上の2段はどれも垂軸の他にもう一本、あるいは二本の軸があるということ。一方、下の2段は、垂軸以外に軸が引けない・・・

  

  高岡氏の言葉で言えば、軸とは身体意識。身体がその軸を意識できているということだ。

  高度な身体操作になればなるほど軸を複数に分化させそれらを一斉に統括して操る必要があるという。

  

また、上述の本には、左のような前後や左右の軸についても述べているが、これらは内功で丹田を回しながら作られていく軸だと気づく。督脈任脈の周天をした後、徐々に幅が膨らんでこのような軸が形成されていく。

 

つまり、軸はただ垂軸だけではない。

その時の動作の形、スピード、エネルギーの使い方に応じて、最もバランスのよい体勢をつくり上げるために瞬時に複数の軸(潜在的な身体意識)が浮上するように訓練している。

 

  最近力をいれて教わっている推手からの展開では套路にはないような身体の動きを瞬時にする必要があり面食らう。顔はどっちで、足はどっちに蹴って、右手は下向きに左手は、そして胴体はどっちに捻る? のように。 それは、例えば、階段で足を滑らせて落ちそうになった時に瞬時にどっち向きにどう身体を向けてどう転べば最もダメージが少ないのか、身体が瞬時に判断して動いてくれないと困る・・・そんな感じだ。身体だけが知っている。頭で考えたら追いつかないし間違えてしまう。そんな身体の瞬時の判断ができるような練習をしてみると、地面に垂直の軸だけに頼ってられないことがすぐにわかる。

 以前、第19代の老師が、太極拳の練習は柔道の受け身からやるといい、と言っていて冗談かと思ったが、今になってやっとそれは本当だと感じるようになった。畳の上でごろっと転がるような動きは子供の時はなんてことなくても、今やるとたった一回転で目眩がしそうになる。でも、推手から技をかけたりかけられたりする時は慣れるまで一瞬方向が分からなくなったり、足と手のリズムが分からなくなったり、未知の世界が現れるのだ。套路の時のように安全な世界で決まった動きをしているのとは全く違う。でも、一旦その未知の動きを知ると、その動きが実は套路の中に組み込まれていることに気づき、套路が再び活性化する。でないと、套路はやればやるほどワクワク感が減ってしまうだろう。毎回、今回はどんなハプニング(気づきや失敗、思いがけない動き)が起こるだろう?とワクワクしながら套路の練習をできればどんなによいだろう?

 

 そのためには、幽霊かロボットのように一本の垂軸で動いている場合ではない。人間の身体はもっともっと複雑で一本の軸は臨機応変に分化する。

 今日から私は呉式風の形で立つ練習が始まった。ある問題をクリアするために師父がとった策だが、これも見方によっては軸を増やすための練習だ・・・

2021/4/7 <中正についての考察 静態と動態 静中有动 动中有静>

 

 昨日のメモの呉鑑泉(呉氏太極拳)の型が気になって練習の時に師父に見せた。

 師父は一目見て「非常好(とても良い」の一言。

 えっ?前にのめり込みすぎでは? と言ったら、

「少し行き過ぎた感があるのもないとは言えないけれど、例えば、この写真(左の写真)は、あなたには分からないかもしれないけれど、打ち出した右の肩が撑していてとても良い。打ち込んだ時の形だ。」と説明してくれた。

言われれば、拳と肩が前後に引っ張り合いしているのが見える。このような時は(腰ではなく)お尻のクワが出たようになる。そして前足のつま先(親指側)から内踵の方向へ力がかかる。抜背も完璧だ。

 

 けど、これで「中正」と言えるのかなぁ?、「中正」の定義自体がよく分からなくなってしまった、と師父に言ったら、師父は、「そもそも静態と動態では中正のとり方が違う」とこれまで考えてこなかった点を気づかせてくれた。

 

  

  なるほど・・・それなら納得がいく。

 と、頭の中で右のようなトムアンドジェリーのイラストが浮かんでいた。

  静態での中正を崩し、動態での中正をぎりぎりまで崩した極端なバランスでものすごい躍動感を出している。

 

  中正とかいう概念は美術、特に彫刻では非常に重要なはず・・・

  と、少しギリシャ彫刻に脱線。

  そしたら、簡潔に説明してくれているサイトがありました。https://artfans.jp/ancient-greek-art/

  そのサイトの説明によると、ギリシャ文明(紀元前7世紀頃から紀元前3世紀頃)は3つの時期に分けられるらしい。

  ①アルカイック期 ②クラッシック期 ③ヘレニズム期

  各期の代表的彫刻として下のようなものが挙げられている。

  (左2つが①、左から3番目が②、右端が③)

 

 ぱっと見て気づくが、①はエジプトの絵画っぽくて棒立ち、静的な感じだ。

②の棒をもった片足立ち(片足虚歩)の像は当時流行った「コントラポスト」という表現らしい。

 

「コントラポスト」の効果については左図を見れば一目瞭然。

(「いちあっぷ」は絵が苦手な私には夢のようなサイトです。

https://ichi-up.net/ )

 

 中正を崩して躍動感を出し始めた、と言えそうだ。

 

そして③のヘレニズム期になるとさらにうねる。より強調されたコントラポストを「S字曲線」と呼ぶらしい・・・

 

 うねりにうねるとトムアンドジェリーになるのだ・・・と勝手に結論付けて考察を無理やり完了。

 

 太極拳に話を戻すと、太極拳は中正を保つ、と言っても、決して古代エジプト絵画のように変面的なものではない。かといって、ヘレニズム期はその後のルネッサンスの彫刻のように自由に身体をうねらせることもできない。約束としては頭頂を極力真っ直ぐに保つ。その中でできるだけ自由に動く、ということではないか? もし背骨の可動域(身体の可動域)が狭いとただの棒立ちになって紙人形のような平面的(二次元的)な動きになってしまう。どれだけ立体的に動けるか、そこが内功の作用になってくるのだと思う(表面の筋肉をつけただけでは役に立たないということ)。

 

 昨日の楊澄浦の写真を師父に見せて、とても良いと思う、と私が言ったら、「当たり前だ!」と言われた。私が評価して良いようなレベルの人物ではなかった(苦笑)師父からすれば、恐れ多い、自分の道の尊敬すべき先人。  

この写真を見て、「やはり内功の差がはっきり出ている」と師父が言ったのを聞いて、ああ、これが内功の差なのだ、と改めて知った。

 

違いがあるのは見てすぐに分かるが、これこそが内功の差、一言で言えばそれに尽きるのだ。

左の楊澄浦ほどの内功を得るのは至難の技。本当にすごい、と師父も唸っていた。写真を見つめる師父の目を見ながら、きっと師父は私には見えないものを見て、私には感じないものを感じているのだろうと思った。

 

 が、私は全く別のことに気づいた。

 右側の写真の老師は静止して見える。せいぜい上のギリシャ彫刻の③クラッシック期程度の動き。だけど、左の楊澄浦は静止しているように見えて④のヘレニズム期くらい躍動感があるということ。

 仮説だが、太極拳の中正は、動いていても止まっている、止まっていても動いているような、そんなバランスのところにあるのではないか? だから静の中に動あり、動の中に静あり、となるのでは?

 もし明らかに動いていたら(例えばトムアンドジェリーのイラストのように)、それは太極拳的な中正を逸している。もし内側まで死んだように(しょんぼり)立っていたら、それも太極拳的な中正ではないだろう(縦線が貫通しない)。

 

 

昨日のこの写真などは、師父が惚れ惚れとして見入っていたが、これも止まっているのか動こうとしているのかが分からない。今にも動き出しそうなそんな気配だ。

 

 

 

上の大師の形ばかり見続けていると、(私自身を含め)私達のほとんどはどこか身体にブレーキをかけながら動いているように見えてきてしまう。

どこかに強張りがあるのだ。

強張りがあるのが普通の状態だから私達はなかなかそれに気づかない。やはり本物をちょくちょく見返してそのイメージを脳裏に刻み込みたいものだ。(と、毎回のことですが、自分自身に言っています。)

2021/4/6 <楊澄浦 中正は単純ではない 勢い>

 

  昨日のメモを見た生徒さんから画像が送られてきた。

昨日の最後のイラストの元になる写真? 

ん? が、これまた似て非なるもの・・・

前傾姿勢が特徴的

これは陳式でも楊式でもない・・・

 

私がイメージしていた画像はこちら。

楊氏太極拳宗師の楊澄浦(1883~1936)。

陳発科(1887-1957)と同世代の武術家だ。

 

なんとどっしりと安定感があるのか。

股関節の開き方が陳式のようだ(後脚の股関節を少し外旋させている)。

 

楊澄浦の画像は検索すればたくさん出てくる。

どれも均整がとれ、かつ、勢いがあってとても美しい。

私自身なんでこれまで注目してこなかったのかが不思議。

 

顔も歪みがなくてきれい

 

 

http://www.51pptmoban.com/hangye/3149.html
http://www.51pptmoban.com/hangye/3149.html

 

楊澄浦は陳長興から拳を学んだ楊露禅の孫。

 

←陳氏から楊式、呉式、武式、孫式、(そしてその後趙堡=和式)が派生した。(陳王庭は陳氏第9世。陳長興・陳有元は第14世。その他、図は簡略化されたイメージ図です。)

 

なお、冒頭の生徒さんが送ってくれた画像は呉氏太極拳宗師の呉鑑泉(

1870-1942)のもの。

 普段見ているものに比べると随分前傾している印象がある。

   呉式は尾闾の中正に特徴があって抜背が徹底した感がある。呉式は実戦に強いとか聞いたことがあったような気がするけど、関係あるのかしら? 

 中国のサイトでも呉式と楊式の比較とかしている人がいる。

 

 今日師父も言っていたが、中正;縦軸は、ただ立っている時と動いている時では異なってくる。

単純に背中に物差しを入れて地面に対して垂直になっていれば中正がとれているという訳ではない。どちらに向かってどのくらいの速さで動いているのか、何をしようとしているのか、どこを固定しておくのか、などの動きの要素によって変わってきそうだが、おそらく、基本となる中正、縦軸があって、それを動きによって変化させていくのだと思う。

 

 

 

https://precious.jp/articles/-/11405
https://precious.jp/articles/-/11405

 羽生くんの得意の滑り(具体的な名前が分からない)。

 ある動画で、安藤美姫さんが羽生君にこの滑り方を教わっていたが、なかなかうまくできない。羽生君が一言、「なんか骨盤が違う気がする・・・」

 出産後の女性の骨盤は確かに男性とはかなり違うけど・・・すると中正のとり方も随分変わるのかもしれない。

 頭蓋骨、胸郭、骨盤をどう配列させてそれを足までつないでこけずに安定させるのか?・・・私達の脳を含めた身体はそんな難しいことを瞬時に判断してやっている。ロボットにはまだ真似できない技だろう。

https://www.meipian.cn/8wffyn5
https://www.meipian.cn/8wffyn5

 

そして最後に付け足し。

画像検索をしていて気になったのが右の写真だった。

 

 楊澄浦と現代の有名な老師との比較をしているらしいが、形はそっくりでも勢いが違う。

”勢い”は太極拳ではとても大事。

第一式、第二式は、もともと、第一勢、第二勢・・・と言っていたというのだから。(式と勢はどちらもshiで発音が同じ)

 

 で、楊澄浦の勢いはどこから感じられるのだろう? 写真だけを見てそう感じるのだから、手を合わしたりその場にいなくても、見た目、形に既に勢いが滲み出している、ということだ。単純に形をコピーしても勢いは出てこない。その人の気持ち、覇気は全身から現れていているから分析がとても難しい。右のように並べてみると、楊澄浦は心意気力が一体になってそれが丸ごと写真に映し出されているようだ。比較するのも悪いが、比較すると各々の特徴がはっきりする。そういう意味では、右の老師は”緩い”(ばらっと解けている)かなぁ。

 歴史に名の残る大師の風格とはどういうものなのかが分かる貴重な写真。生で見てみたかった。。。

 

 

 

2021/4/5 <子供と大人の動き どこから動き出すのか?>

 

   縦軸をスライドして横軸を作っていく。まずは縦、縦軸を通す。

 この具体的な方法については次回書くことにして・・・

 

 今日は祝日で公園では小学生らしき子供達が走り回っていた。あら、上半身から突っ込むのね・・・と見ていた。何かが身体を引っ張ってそれに足が付いていっているようだ。”何か”はきっと気持ち:心と意。心と意が身体を引っ張っている。頭から突っ込んでいくような走り方の子もいる。大人なら足が付いていかなくて前倒れしそう・・・その周りでジョギングする大人たちがいた。ああ、大人は脚(足)から走るんだ。面白い!

 

 太極拳の有名な言葉に『力起脚跟』(力は踵から起こる)というのがある。

 これを聞くと、”踵から動く”、と思いがち。実際、私もそう信じていた。

 その後、『稍節领 (中節随) 根節催』という言葉を知った。

 全身で考えれば、稍節は手、中節は腰、根節は足。つまり『手が力を導く(領)、 腰は従う、足が力を促す・駆り立てる(催)』という意味になる。

 あれ?足ではなく手が先?

 一体、足(踵)が先なのか、それとも手が先なのか? この2つの言葉は矛盾しないのか?

 そんな問いが湧き上がってきて師父に質問したものの、はっきり理解できないまま放っていた。

 

 今改めてこれら二つの言葉を並べて見ると、何の矛盾もないことに気づく。

 『力は踵から』=身体の縦軸を重力に従って地面に下ろすことで踵から地面からの反発力を得る。(身体の縦軸は踵に落ちるということだ。)

 そして『足(踵)が力を駆り立て。手が力を導く』:やはり力は足から生まれる、手からは生まれない。手は足で生まれた力の行き先を導く作用をする。

 

左のイメージ図は『稍節领 (中節随) 根節催』の解説をしていたサイトで使われていたもの。

実際にはこんな風に指は使わない(指先が放松していない)けれど、『稍節领 』のイメージを誇張して理解を助けようとしてくれている。というのは、手指の放松を意識するがあまりふにゃふにゃの指になってしまって、力が指まで引っ張ってこられないケースがある程度のレベルの人に多いからだ。(初心者のうちは手はふにゃふにゃになるくらい放松して、徐々に指先まで気を通す練習をしていく。)蛇口をひねって水を出したあと(足から力が起こる)、その水をある木に向けて飛ばしたければ、そこにホースをつけてその先端を木の方に向け、必要に応じて絞ったりする。中間のホースが『中節随』、そしてホースの先端が『梢節領』。

 

 整理すると、『力起脚跟』は力がどこから起こるか、『稍節领 (中節随) 根節催』は力を体内で貫通させるための要領を言っている。

 逆にいえば、私が抱いた「どこから先に動くのか?」という問いとは無関係だ。

 

 では私たちは動く時にどこから先に動くのか?

 まず、『意到気到力到』 意・気・力は、意→気→力 ではなく 意気力が同時だった、と知ったのが今回のフランス滞在中の練習での最初の衝撃だった(ヴィヴィアンとのピアノのレッスンでもそのことを学んだ)。もちろん、それをしっかり同時に合わせられるように、太極拳の練習ではゆっくり動いて意と気と力をバラバラに見る練習をする。バラバラ練習をしないと、それらをぴったり合わせることはできない。オーケストラのそれぞれの楽器が自分のパーツをしっかり練習してから一斉に合わせるのと同じだろう。

 

 そしてこれとは別に、身体のどの部分から先に動くのか?という問題もある。

 私たちは走る時にどこから動き出すのか?

 おそらく、(私が試した結果だが)、これから全速力で走るという設定で、よ〜い!と構えてドン!となった瞬間、最初に意識するのは脚(腿)だろう。走る練習を積んでいる人なら異なるかもしれないが、私のような大人の素人は、走る時に気になるのは脚。だって、腿がちゃんと上がって回転してくれるのか、そこが心配だから。

 けれども、私たちが子供の頃はどうだっただろう?そう言ってもはっきり思い出せないのが残念なのだけれど、推測するに、気持ちが先走って身体のことはそれほど意識していなかったのではないかなぁ。気持ちに身体が付いてきていた・・・気持ち(心)と身体が一体だったような。心と身体が分離していないから、身体のことを心配する必要がない。大人になると、心に身体がついてきてくれないのを知っているから、身体を労って動いてあげなければならない。そんな風に感じる。

 

 

 左上はトムクルーズ(ミッション インポッシブル?)。その他は子供達。

 子供の走り方を大人が真似したら脚が空回りしそう・・・

 ただ感覚的に全身が一つ(の円、球体)になっているのは子供達。比較するとトムクルーズは前に走っているのにどこかにブレーキをかけているような印象を与える。縦線は垂直。縦線が常に垂直、というのがかえって不自然?

 

 身体は一斉に動き始める。足を待って胴体が動くのではない。軸も常に地面に垂直とは限らない。

左は24式の第8式提収の後、第9式に入る箇所のジーの動作だ。

このジーは上げた左足が着地するのと同時に行うもので、両足を地面につけた状態でのジーよりも難易度が高い。身体全体を総動員しなければならない。身体が一斉に動き出し、縦軸が上の子供のように斜めになる。やってみると丹田の抑え(堪え)がかなり必要だ。実戦ではこのような使い方が多く、動きながら打撃を繰り返す二路で多く使われる。これができるようにするために、一路で縦軸を太くする(丹田の気を増やす)練習をしておく。

 

比較してみると分かるが、このように両足を床につけてやるジーだと、足から動き始めてダラダラダラと繋げてしまいやすい。身体全体が一斉に動く感覚が分かりにくそうだ(対面の人を一気に押し飛ばすような練習が必要?)。ただ太腿の運動になりがちだ。頭から会陰の縦軸が垂直なままなのがかえって不自然・・・

そしてこれを縦軸の水平移動といえるのかどうかが疑問(答えは否だけど、その説明・証明は難しくなりそうなので省略)

 

そう見ていくと、よく見る左のような形が説得力を持ってきた・・・

 

楊式太極拳もやはり全身丸ごとの勢いのある拳法。

子供の動きのようだ。

2021/4/4 <アーチェリーと弓道、縦軸と横軸 武道とスポーツ>

 

  昨日の続き。

  更に調べたらアーチェリーの基本的なshooting positionは「Tポジション」と呼ばれるものだった。 

 

 縦軸は頭を抜けない。(虚霊頂勁がない)

 肩ラインの水平ライン(横軸)を支えるための縦軸。

 いかに標的に当てるか?

 心は100パーセント標的に向かっている。

 それに伴い目(意)もただ標的一方向に集中している。その集中の仕方は(おそらく)標的だけしか見えなくなるような集中の仕方・・・視野を狭めて一点に絞る。

 

 弓道の場合は縦軸が貫通する。(阿波研造範士の写真にラインを入れるのも恐れ多いのですが薄く加筆させて頂きました。)

 そして胸をゆったりと開いて脇のラインで水平線が伸びている。

 目も真っ直ぐ。

 

 写真を比較するとアーチェリーと弓道では構えの趣がかなり違うのが分かる。

 方や、的にどれだけ正確に当てられるか、その結果だけで成績がつくもの、そして方や、その精神および形の美しさまでも問われるもの。

 ゲーム(スポーツ)と武道の違いが姿に現れていると思う。

 

 

 

  shootingポーズを作るまでの動作を見ると、縦軸横軸がどう作られているか分かる。(下のGIF写真 動画のリンクを貼っています。)

 

 アーチェリーは両手を引っ張り合いさせて水平ラインを作りながら構えに入る。

 縦軸の形成動作はない。弓は胸肩腕の力で射る。

 

 これに対し、弓道の場合は、まず両手を頭上まで上げて縦軸を貫通させ(ここまでは合)、それから前後に腕を分ける(開)。合(縦軸)を残した状態での開。これが身体のバネ力になる。

 丹田がしっかり下っ腹に沈む。足が床を推して反発力を得ている。全身で射る・・・太極拳の身体の使い方と同じだ。

 

   目が違うのも比べると分かる。

 弓道は遥か彼方を見ている目。底なしの目。眉と眉の間が開いている。視野が広がった状態で的を見ている。(目を内収して眉間で見ている)

 →視野の広がりの中には”自分”も含まれている。

 

 アーチェリーの目は上述の通り。言葉は悪いが、睨みつけた目に近くなる。標的だけを狙っていて目(意)は前方に出てしまって”自分”を含まない。

 

 <以下私論>

 縦軸は自分を貫通する軸。

 横軸は目標、目的物へと向かう軸。

 縦軸は今、ここ。

 横軸は未来(あるいは過去のことも?)

 

 武道はそれによって自分を見つめ自分を改造する修練を目的とする:縦軸が大事。縦軸を移動させることによって横軸が作られていく。もし縦軸が動かないなら、縦軸を膨らませることによって横軸を作る(縦横の面になる?)

 

 スポーツ、ゲームは得点を得る、勝つのが目的。気持ち(心)はその目標に向かう→横軸の道。

縦軸(自分)は横軸に資する範囲で必要とされる。

 

 太極拳の原理から、武道系の縦軸と横軸、丹田の関係をイメージしてみました。

 

 (本当は射る構えに向けて両手を開いていくコマ送り写真を使うべきなのだけど、省エネのため一枚の写真を繰り返し使いました。)

 

 ①まずは縦軸を通す。気沈丹田。

 ②それから両手を開いていくにつれ、横軸(緑線)が発生。が、実はそれは縦軸が左右(前後)に広がったために形成されたもの。そしてこの縦軸の広がりは丹田の広がりによって引き起こされている。

  つまり、丹田の広がり→縦軸の広がり→水平線の形成

 ③以下、丹田の広がりが拡大

 ④丹田広がってもはや丹田がなくなった(自分を包んでしまった)時に”開”。両手が最大限に開いて、射る準備完了。

 

 身体の合→開。丹田の極小→極大。

 水平線はその中で生まれてくる。

 

 まずは縦軸:督脈任脈を通す。それから12経絡(地球儀の経線)、そして帯脈(赤道)

 ←そのためには丹田に溜めた気の力が必要

 

 太極拳の推手も腕で水平に推しているのではなくてブルドーザーのように身体の縦軸で推している。

 套路の中でも意識的に縦軸を通す動作が各所隠れている。混元太極拳だと馮老師が”隠れた気の動き”をわざわざ明確な動作にして種明かしをしてくれているから気づきやすい。

 

例えば第10式掩手肱捶。大技の前には縦軸を通してそれから身体を開いて(前後に引っ張り合いさせて)それから縦軸のスライドで打っている→”今”(縦軸)が空間を押し分けて時間(横軸)を作り出しているような。

 

その他、丹田を回す時は常に縦軸も通している。

起式は縦軸を通すのが目的・・・

 

 

  私たちは目標志向、未来志向になって目が水平に外に出て行きがち。

  テレビやパソコンに釘付けになっている時は完全に我(縦軸)を忘れている。

 常に縦軸を失わないように生活できれば心は常に今、ここ、理論的にはストレスゼロになる。

 水平軸に気をとられて縦軸を失わないような訓練は套路でもできるし、推手でもできる。ジーも縦軸が通らないとうまくいかない・・・(注:縦軸をスライドさせて動くことで全ての動きが出てくる。縦軸を動かさずに静止させることが中正ではないことに注意)。

  

  なお、軸を通すに当たっては、気で軸を通せるようになりたいもの・・・ここが関門かもしれません。

2021/4/3 <アーチェリーと弓道の違いから学ぶこと 途中まで>

 

 メトロのホームで毎日みかける広告写真。見るたびに、肩はもっと下げて腕の力みを減らして、気は腹に沈めて、正中線を通さなきゃ・・・なんてつい思ってしまうのだけど、そういえば、アーチェリーの正しいフォームというのを確認したことがなかった。

 

   そこで少し調べてみた。

 弓道とは似て非なるもの。

 下半身の重要性が薄いのか、画像検索をすると上半身ばかり出てくるのだが、動画で全身を見ると、 歩幅はそれほど広くなく、普通に立っている、もしくは、突っ張ったように立っている、ということ。気を胸、もしくは胸より上に上げている。上半身の力がメイン。足が地面を踏む反発力を使って射るようなものではなさそうだ。

 

 

  縦軸よりも横軸メイン。

  縦線を通す感覚は薄そうだ。

  目が内収していない。前を向いている(=内側を見てはいない)

 

 弓道はどうだったか? 比べてみた。

 

 

 ここまで書いて時間切れ。

 上の写真の説明、そして太極拳の練習との関係は明日続きを書きます・・・

2021/4/2 <練習メモの読み方 経典の読み方 エネルギーを老化させない、とは?>

 

  今日ふと思った。

  これまで随分長い間練習メモを書いてきているけど、自分で見直したことがない。その時その時に自分が気づいたこと、考えたことを記した日記のようなものだから、過去に書いたものを訂正するような必要性はないのだけど、このブログを長期間読み続けている人、遡って読んでいる人の中には、今書いていることと昔書いていることが異なっていたりして戸惑うことがあるのかもしれない。いや、それも練習の過程の一部だと理解してくれるかしら?

 

  最近の具体的な例だと、これまで何回も取り上げた「含胸」。またまた新たな理解が発生。実は内旋だった、と気づいた。(私のように)身体が開きがちな人(メルクマールとしてはガニ股、外反母趾、挺胸、出っ尻)は身体全体に内旋をかけて”合”を心掛ける必要がある。反対に身体が閉じてしまいがちな人は開を心掛ける必要があるだろう。含胸は首を立てる(頚椎と胸椎上部を繋げる)要領でもある。また、肩の中に空間を作るための要領でもある(身体の横ラインを作る:十字架の横ライン)。

  以前の含胸についてどう書いたのか覚えていないが、練習をしていくと以前の認識にさらに新たな認識が加わっていく。(最初の認識が覆されることはとても少ない。例をすぐには思い出せないくらい) 大変なのは初心者の人が現在のブログを読んだ時。おそらく何を書いているのか分からないだろう(最近の話題もかなり高度だったと思う)。そういう場合は同じ話題のタイトルでサイト内検索をしてもらい、古いブログを読んでもらうのも一案だ。昔の私が試行錯誤しているのがわかると思う。今全く理解できないものはどれだけ考えても分からないので、それはスルーする。分かるところ、もしくは分かりそうなところだけを理解してもらうと良いかと思います。

  コツコツ練習していくうちに何を書いているのかが分かるようになってくる・・・初めて馮志強老師の本(これは経典)を読んだ時に、本当にチンプンカンプンで、1ページも読めなかった。本で予習して師父のレッスンに備えよう、なんて考えた私の甘さを思い知らされたことがある。師父も笑って言っていたけれど、太極拳は絶対に本(経典)では学べない。本は確認のために読む。自分の練習がうまく進んでいるのかどうか、の確認になる。もしくは、この先の練習のヒントになる。まずは練習ありきだ。

  泳げるようになりたかったらまず水の中に入るしかない。教室でいくら理論的に泳ぎ方を学んでも役に立たない。失敗を恐れない。

  ブログはあまりにも無責任だと思う反面、どんなに立派な本を書いても全ての太極拳愛好者の必要を満たすことはできず、もし本当に真実だけを書いたら経典のようになってしまってかえって役に立たない可能性もある。私はこの手の経典を噛み砕いて説明できるようになれば良いかなぁ、と思う。(経典は一文一文に大事なことが書かれていて読み飛ばせない。通常の本は経典のほんの数文の記述について一冊を費やして説明していたりする。解説なしに直に経典を読めるようになったら相当なレベルだ。)

  

 上の含胸についてはそのうちまたメモに書くことにして、今日は友人に見せようと思っていたイチロー先生の動画をここに貼り付けて終わります。「エネルギーを老化させない』、まさに”気”の話。「気の量を減らさない!」ということだ。

 じゃあ、どうやってエネルギーの老化を防ぐのか?

 それはさすがにイチロー先生も答えてないのかしら?

  外見が老いてもエネルギーは老いない・・・

  究極的には仙人になるのか?(笑)

  太極拳の練習とも関連する面白い論点です。この論点だけで余裕で一冊本が書けます。

  

 (イチロー先生動画シリーズ、編集の仕方、最後の無理やりの締め言葉が面白くて一気に見てしまいました。)

2021/3/31 <心到意到 意到気到 気到力到>

 

 前回触れた内三合『心与意合、意与気合、気与力合』(心と意の合、意と気の合、気と力の合)をもう少し考えてみる。これは別の言葉では『心到、意到、気到、力到』、一般的には『意到、気到、力到』と言われる。

 内三合は太極拳に限った話ではなく、私達の日常生活における全ての場面に当てはめられるものだ。

 

 心と意の関係については前回書いたが日常の場面だとどうなるだろう?

 例えば、心の中で今日の晩御飯は何にしよう、と考えながら電車から降りた、とすれば、心と意は乖離している。というよりも、意、自体がはっきりしていない。電車から降りるという明確な”意”がないまま身体が自動的に動いている。

 こうなったら、その後の 意と気、気と力の合は論じることができないだろう。

 

 私たちはあることを考えながら別のことができる。カフェで携帯を見ながらコーヒーをすすっていたり、テレビを見ながらご飯を食べていたり、イヤフォンで音楽を聴きながら歩いていたりする。外から見ると変だなぁ、と思うけれど、自分がやっていると気づかなかったりする。

 以前一度だけ本格的なヴィパッサナー瞑想の合宿に参加して心と動作を徹底的に一致させる練習をしたが、その時分かったのは、私たちが2つのことを同時にできる、と思っているのが実はそうではなく、心がものすごいスピードで2つ間を行ったり来たりしているということだった。そのスピードがものすごく速い(お釈迦様は心の速度は光の速度の約17倍と仰ったとか?)から、私たちは2つのこと、もしくはそれ以上を同時に行うことができる。しかし、もし100パーセントイヤホンから流れる音楽に集中していたら歩くことは不可能だ。100パーセント食事に集中していたら向かいの人とお喋りすることは無理だし、お喋りに没頭していたらタバコを吸うことはできない(フランス人の姿が浮かびました)。

 心は時空的なもの、時間を含む、時間を超えられる(過去にも未来にも動ける)が、意は”今、ここ”からしか出発できない。「お茶を飲む!」と意が形成されたら、それは今なのだ。「明日お茶を飲もう」はまだ心だ。明け方トイレに行きたくなってでも起きたくなくて、「どうしよう、まだ寝たい、起きるの面倒臭い・・・」とむにゃむにゃ思っているのは「心」だ。そしてついに、よし、トイレに行く!と決めて起き上がった時は”意”→気→力になっている。意は動作の始まりだ。意は発火だ。(意は火で形容される。)

 

   これに対し、「トイレに行く!」と決めて起きようとしたら、あれ、身体にうまく力がはいらない・・・と自分が未だに頭の中にいるようだったら意→気に問題がある。

 「行く!」と決めて身体に力が入ったのに、起き上がれない、となったら気→力の問題だ。

 

 前者は「意が達したのに気が動かない(達しない)」

 意=will powerが発動したのに身体にエネルギーが回ってくれない状態。麻酔をかけられて神経系統が機能しなければ当然そうなるし、機能していても繋がりが悪ければ動かしたい場所にエネルギーがいかない。(例えば、耳を動かそうとした場合。私のように動かせない人にとっては耳を動かそうという意があっても気が達さない:耳を動かせる気がしない・・・)

 

 後者は「気が達したのに力が出ない」

 使おうとする部位にはエネルギーが達していつでも動かせるのに、そこから先、外界へと力を発せない状態。たとえば中途半端な寸止めの状態。触すだけで力を発しないおままごとのような推手もそうだろう。お互いに気を感じ合うことはできるかもしれないが、お互いの力を感じ合うことはできない。

 

 最近推手の練習で、師父から「丹田のことは考えるな、ただ足の指と踵、それから手(から発すること)、その途中は要らない。」と注意された。「丹田は内視しなくて良いのか?」と思わず聞き返したら「丹田なんて見てどうする?力が出ないだろうが!」と言われ一瞬面食らったことがあった。

 けれども、そう言われれば、確かに、推手の時に丹田を見ていたら手から先に力が出ていかない。それでは相手を推せない。丹田を内視するのは丹田に気を溜める時。気を力として外に発する時は丹田は見ない。(丹田が存在するうちは”気”。ひとたび気が力になった瞬間に丹田は消失する。*説明する必要あるかも)

 これは気功と武術の違いでもあると思うが、気功として套路を練習する時は丹田を内視し、武術(力を発する)として套路を練習するなら丹田は内視しない(意識しない)。これは一路と二路の違いでもある。ただ、力を発するためにはそれだけの気(エネルギー)の量とそのための通路が必要なので、その前提として丹田を使って気の量を増やし身体の中の通路を開通させるための内功が必要になる。丹田が最終目標なのではないということ。丹田はそれによって体内のエネルギーを増やし開通させるための道具。節節貫通が達成できたら丹田は忘れて身体の中を素通りさせるだけ。身体は空になる。

 

  <追記>

 翌日師父に上の話をしたら、まずは「意到気到」を目標とすること、最初から「力到」を考えると間違った力の使い方になるので、「気到」がしっかりできる(自覚できる)ようになったらその次の段階に進むべきだ、と話していました。気到には丹田が不可欠。

 

2021/3/29 <篠田桃紅さん 心と意 心は時空を包含する>

 

  ここ数日は今月亡くなった美術家の篠田桃紅さんに関する動画を見ていた。

 私が篠田さんのことを知ったのは『103歳になってわかったこと』という本の紹介を机上雑誌で読んだのがきっかけだった。早速本を購入して読んだが、一番心に残っていたのは、100歳は90代と一線を画すというお話。

 以下一部抜粋・・・

 この歳になると、誰とも対立することはありませんし、誰も私とは対立したくない。100歳はこの世の治外法権です。100歳を過ぎた私が冠婚葬祭を欠かすことがあっても、誰も私をとがめることはしません。パーティなどの会合も、まわりは無理だろうと半ばあきらめているので、事前の出欠は強要されません。当日、出たければ行けばいいので、たいへんに気楽です。しかも行けば行ったで、先方はたいそう喜んでくれます。今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。』

 

 90代までは社会の中の人間、多少であれ責務を感じていたのが100歳になると社会から出る。それを「治外法権」と表現したり「半分あの世にいるようなもの」と言ったりもしている。

 私の現在の位置からは90代と100歳以上の差ははっきりとは見えない。20代の時には50代も60代も同じようにしか見えなかった。下から見上げても雲の上がどのようになっているのかは分からない。それを通り抜けてのみ更に上から見下ろして雲の上の世界を知ることができる。

 『この歳になると、誰とも対立することはありません・・・ 今の私は、自分の胃に染まないことはしないようにしています。無理はしま

せん』 100歳を超えた彼女の姿は老子や荘子を思い出させた。彼女のように100歳を超えてもしっかりと自分の道を追求し続けられたら、いつの間にか自然と解脱の境地に達するのかもしれない・・・ 篠田桃紅さんからは長生き、長寿の意義を初めて教えられた。死ぬまで貫いた熱い一本の意、これが彼女の一本一本の線に表現されているようだ。

 

 動画を見ていたら、はっとする描写があった。(https://youtu.be/TUkNgs_JaL0) 

 

 

『墨色にたすけられるように、想いが充ちてくれば、ある機が訪れてかたちが生まれるような気配もある。心の中に煙のように立ち昇るもの、煙よりもとらえがたく、見がたい、人の心という不可視のもの、しかし不可視であっても形を持つもの、を可視のかたちにしたい、と希む。』

 

  なんと、上の篠田さんの言葉は、馮志強老師の『陳式太極拳入門』における、<無極から何かが生まれ(生機)それが両儀(陰陽)に分かれ太極になる>という極めて抽象的な説明の中の、混沌とした無極から生まれる何か、の描写にとても似ているのだ。

 混沌としたものから生まれる命を持ったもの、とは、心?

 

   太極拳の内三合とは『心与意合、意与気合、気与力合』と言われる。心・意・気・力の関係だ。

 意→気→力 については過去になんどかメモを書いたことがあると思う。(とはいえ、そろそろ更新バージョンを書いても良いかなぁ?)

 意は達しているが気は達していない状態、気は達しているが力は達していない状態、というのがはっきり分かるようになれば、内三合のうちの後ろの2つははっきりする。(例えばタントウ功や坐禅で周天をやろうとすると、意と気の乖離がしょっちゅう起こるのに気づく。)

 

 私自身は、意(上丹田)をはっきり捉えるにあたって、その前段階の”心”をもう少しちゃんと理解したいと思っていた。しばらく「心の科学」とも言える仏教をかじったのもそれが目的だったが、仏教はとても分析的で細かく、肉体で悟る太極拳にはそこまで細かい理解は必要なさそうだった。心と意の関係、心がどのように意を形成するのか、これは套路を練習している時も問題となるのだが、套路を練習している時に身体や気、丹田などに意識があると、心や意や観察できない。かといって意を観察しようとすると気が頭に上がって動きがおかしくなる。師父には「意は重くしてはいけない」と注意された。「有るような無いような意が真の意」これが太極拳で言われる「意」についての言葉だ。分かるような分からないような・・・?

 じゃあ、その前の”心”は? となると、太極拳で心について深く語った言葉はこれまで聞いたことがない。仏教のように「心とは何か」については論じたりはしないのだ。

 

 が、上の篠田桃紅さんの心の描写を読んだら腑に落ちた。心、胸の奥で煙のように渦巻いているもの、これが心で、ここから頭に向けてすっと立ち上げていったものが意。心は渦巻いていて方向性がはっきりしないが、意になった時には方向性がはっきりとしている。心はつねにうごめいていて一瞬よりも短い刹那刹那の刺激に反応して形態を変え続ける。ここからその瞬間に合った意識的な動きをするには、心の中から何かを”意”として引き出してこなければならない。意として脳が命令をかけた動きを身体にさせることによって意識的な動きが可能になる。 目の前にハエが飛んでき無意識でハエを手で払った、というような動作や、貧乏ゆすりなどが、心が意を通さずに勝手に身体にやらせているようなもの、無意識の動作だ。

 心というかたちがあるようなないようなものを形あるものとして外に出した時、それはすでに意となっている。逆に言えば、意の前に心が必要だということ。たとえば、最近の練習での例でいうと、旋風脚。ぐるっと回転しながら左足で蹴る技だが、蹴る位置を師父に直された。これまでは南方向で蹴っていたのを西南西にすることになったのだが、そうなると、脚を振り出す前にすでに”心”は打点(蹴る位置)を感じている必要がある。が、ここでもし”心”ではなく”意”を使ってしまうと振り出しのスピードが落ちてしまって結果として打点まで脚が届かない。振り出しの時は心で蹴る位置を感じていた上で、意を打点に向けて線のように引っ張る必要がある。

 套路をやりながら、今は心なのか意なのか? としばし観察していたら、突然、昔聞いた、国際松濤館の金澤弘和宗家の言葉、「心の目で見る」が出てきた。目は上丹田=意、だから、「心の目」とは心と意が一体になっていることを指している。内三合の最初の部分だ。

 

 なんで目だけで見てはいけないのか? それは目だけだと深さ、広さが足りないからだと思う。視野を広くするには心を使う必要がある。その視野の広さは眼科で測定するような面積的だけのものではなく、時間的な幅をも含んでいるようだ。

 上の旋風脚の例だと、左足を振り出す直前に心はすでに打点までカバーしている。心は時間をも含んだ面、空間で事象を捉えている。そこからエイっと足を振り上げたら意はその心の時空の中を矢のように線で動く。目や頭が泳がないようにしっかり抑えが効いている必要がある。

 双推手から技をかける練習をしているが、まだまだ慣れていないから、心の中で技をかけるタイミングを測ってよし、今だ、と動き出したところで、ん? 足はどうするんだっけ? と分からなくなったりする。これは技をかける前に、技をかけ終わるところまでを心が包み込めていないから。心の中の像が技をかけ始めるところまでしかないのが分かる。これも熟練すれば最後までイメージ(といっても時間ゼロの動画、あるいは動きを包含する静止画)ができてくる。

 書きながら思い出してしまったけれど、昔、ピアノの先生に、「曲を弾き始める時には曲の最後まで感じていなければいけない。」ということを言われたことがあったけれど、きっとそれも同じことだったに違いない・・・当時は、どうやって最後まで感じながら今を弾くのだろう、無理、と早々にギブアップしたが、ああ、これは心の問題だった。私は頭でやろうとしていた・・・頭には広さと奥行きがない。心の時間をも包含する広さ、これは含胸とも関連しそうだ(と感じた今日の練習の一コマについてはまた今度)。

2021/3/27 <収縮させながらストレッチ マジックハンドを作る>

 

  時々チェックしている山内流整体の動画。ただのストレッチの先をいく手法で、ポイントは「筋を収縮させながら伸ばす」ということ。実はこれが太極拳の時の身体の使い方に感覚がよく似ている。そもそも「収縮させながら伸ばす」という言い方自体が太極拳的。ただ伸ばしてはいけないし、ただ縮めてもいけない。縮めようとする力が働いている中で伸ばそうとするから引っ張り合い(撑)、張力がでる。

  太極拳での「合の中に開あり」「開の中に合あり」というのも結局は引っ張り合い、張力を生まれさせるということだ。ただの哲学的な理念ではない。いたる箇所で張力が働いているような身体→それは弾力性のある身体、ということ。太極拳の目標とする身体は弾力性のある身体、鞠のような身体、そんな身体から出てくる力は弹簧力(バネ力)。特に二路で練習する力だ。私たちはそんな目標に向けて一歩一歩練習していく。

 

 逆から言えば、到達点は弹簧力、身体の弾力性。そのためには張力を効かせる必要あり。張力を効かせるには、内側を気で膨らませる必要がある(この点についえは前回のメモで説明しました)。

 ①内気の充実→②内気が満タンになって内側が空洞化→③張力発生→④弾力性、弹簧力の発現

 一路では主に①から②の過程を練習、二路では③④を練習する。

 太極拳を練習する大半は一路を練習しているから、②の内気が内側を満たして内側が空洞化する状態(節節貫通)が目標になる。ただ静功で丹田に気を溜めただけでは節節貫通できないので、併せて動功や套路をする。動静双修といわれる所以だ。

 

  最初の動画の話に戻ると、例えばジーの時に感じる腕の内側の”勁”は、下の動画のセルフ整体を行った時にとても近い。

  たった10秒の整体。(具体的な動作の説明は4分20秒あたりから始まります。)

 

  肘、そして二の腕(肱)は太極拳の要。ここがちゃんと使えたらもう太極拳の身体の使い方はマスターできていると言えても過言ではない(私もまだまだ不完全・・・)。一般人が見落としているとても重要なパーツ。

  と、上の山内流動画を見たら、なんと、肘には手の位置とスピードを把握する大事な感覚センサーが埋め込まれていた。なるほど、掩手肱捶は一見パンチに見えるけれど、古人はちゃんと、「それは手ではなくて肱(二の腕)でやるんだよ。」と技の名称で教えてくれている。倒卷肱もしかり。そうか、私たちが通常、手(前腕)で行いがちな動作は全て肘より上、二の腕でやるのだ・・・とそのうち気づけば(というより、身体がそう躾けられてくれば)もう太極拳的身体の使い方、力ではなく勁を使うという道を進み出している(入門したということ?)。

 

 上の動画では、まず①片手を前に伸ばしてグーにして、②もう片方の手の平で伸ばした腕の肘を覆い、それから手のひらを二の腕の方へスライドさせて肘の皮膚を持ち上げる。③伸ばした腕のグーを2秒かけてパーにする、を二回。④最後にグーパーグーバーを速めに3回。、と動作を指導している。

 

 このエクササイズをした時に気づくのは、肘を覆って上にスライドしたまま伸ばした腕のグーをパーにすると、5本の指が肩や脇の中まで繋がってくるということだ。

 

 そのイメージは右の図のようなマジックハンド。

 

 肘の皮膚を覆って上に引っ張り上げると、手をしっかり開いた時に肩や腋の奥まで広がるのが分かる。

 が、もし、肘の皮膚を覆う云々などの技を使わずに、ただ片手を前に出してグーパーしたらどうだろうか? おそらく、肘より先端部分の前腕の筋肉がギュッと締まる感覚しか出てこないだろう。

 

 つまり、山内流を使った前者の感覚(腕の中から腋や肩甲骨まで繋がる感覚)が『勁』、そして技を使わない後者の感覚(前腕の筋肉の収縮)が『力』だ。

 

 前者の勁の感覚についていえば、もし丹田が膨らんで肩や腋までもが一つの空間になっていたらグーパーの感覚は腹まで繋がるだろう。うまくいけば手のグーパーは足のグーパーまで繋がるかもしれない。

 

 最初は片手で肘の皮膚を上にずらして勁を感じてみて、それから補助を外して、片手だけで同じ感覚が得られるようにグーパーの練習をしてみるのも良いかと思う。腋や胸の中を開けなければならない・・・ひいては、丹田が必要になる、丹田で引っ張っておく力(合)の力が必要になるのが分かるかもしれない。丹田で引っ張りながらグーパー、つまり、合しながら開=張力が働く、となる。

左の画像は陳正雷老師(黒い服)だが、その手、腕を見れば、上のマジックハンドのようになっているのがすぐ分かる。撑している手だ。

 

よく見ると、身体全体が撑している。

撑は身体全体から生まれる。

反対に、左の画像のような腕は肘で通路が断絶していて勁が通らない(腕相撲の時の腕のよう)。こうなると前腕の筋力に頼った”力”、身体の内側とは無関係の四肢の鍛錬になる。

 

 生命は四肢ではなく頭を含めた胴体に宿る。

 四肢を胴体の延長として繋げる知恵をぜひ学びたいものだ。

 

2021/3/26 <内棚外撑について>

 

   昨日アップした動画の中で師父が言った『内棚外撑』とはどういう意味なのか?という質問があったので以下そのあたりの説明を試みます・・・

   

 師父は動画の中で私に「力でなくて勁を使え」と注意している場面があるが、、太極拳では一般的に『力』と『勁』を区別して使う。『力』は外、筋肉の力、『勁』は身体の内側、どこから出てきたのか察知できないような力だ。世の中のどんな分野でも達人と呼ばれるような人はみな『勁』を使っている。お茶のお点前でも『力』を使ってお茶を点てている初心者と、『勁』を使って点てている人の身のこなしは全く違う。『力』を使うとごつごつと硬くてうるさい感じ、『勁』を使うと柔らかくて静かな感じだ。私が簡単に思い浮かぶ例は、柔らかい食パンをパン切りナイフで切る時に『力』で切るとパンが潰れてしまう。うまく”通しながら”ナイフを入れていくと潰すことなくうまくスライスできる。『勁』を使う時はそれに似たような”通す”感じがある。

 

 動画の中で師父は、「勁は内側を撑していないと出てこない」と言っている(動画の中では師父が力と勁を逆さまに使っている場面があるが、これは後に訂正。外が力、内が勁。)

 では「内側を撑する」とはどういう状態か?

 焼きたてのふわふわの食パンをスライスしてみてほしい・・・息を止めて力をこめるとぐしゃっとなる。ぐしゃっとさせないように切ろうとすると、少しだが身体をふわっと膨らませようとしていないだろうか?息を吸って肺を拡げるようにしているかもしれない。

 それは内側をあたかも風船のように膨らませようとしている状態。

 内側の空気は身体で言えば『内気』だ。

 

 

その後で師父は「内側も外側も撑する」と私の身体をなぞりながら言ったが、最終的には『内棚外撑』ということだ、とまとめた。

 

まず、はっきり分かる必要があるのは、『撑』(引っ張り合い、張力)を得るためには、その前提として内側の『棚』が必要だということ。

『内棚』なしには『撑』はあり得ない。

 

 上の風船の『内棚』と『外撑』を書き込んだのが右のイメージ図。

 

 風船の中の空気がパンパンに膨らむと、外側のゴムが張ってゴムの表面のどこをとってもピンと張った引っ張り合いの力(張力)が働くようになる。

 もし風船の中の空気が足りないと(内棚が少ないと)ゴムは伸びない=外側の引っ張り合い(外撑)は得られない

 

  つまり、内棚は外撑の前提条件、内棚なしに外撑は得られない、即ち、勁は得られない、ということだ。

  

  なお、師父が内撑とも言っているのは、右の風船の図で、ゴムの内側の壁(橙のライン)がピンと張っているところを指している。風船のゴムの内側の壁が”撑”すれば、外側の壁(水色ライン)も”撑”するのは自明の理。が、内側の壁の撑の前提は内側の内気の棚勁(四方八方に膨張する力)だ。・・・ん?皮膚のたるみの構造も同じ?たるみの原因は内側のハリ不足・・・

 

  

 推手で相手の力と釣り合っておく時は内側のポンが内側の空間を満たして外側の囲いがピンと張っている状態を維持し続ける必要がある(左は陳項老師のジー)。

 少しでも内側のポンが減ると、身体の風船がしぼんで外撑が失われ、動画の中で師父が見せてくれたような相手の攻撃を受けてしまう。

 

 (なお、ジーの時の主要な内ポンは胸のところにあるが、その大元は丹田から広がった身体内部の内ポンです。外撑も主要なのは腕の高さのところの円で描きましたが、内側のポンの結果身体の外側全体が撑します。)

 

 

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 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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