2016年12月

2016/12/30 <身体を左右に割る、身体を開く>

 

 今日は自由練習として何人かで集まって各自自分の練習をした。

 私も久しぶりに広い場所で誰に気兼ねもなく24式、48式、46式を練習した。

 最初は自分(意)が自分の身体を動かしているのだが、徐々に身体にエンジンがかかっていくと、身体が私を引っ張ってくれるかのようになる。私(意)は身体がちゃんと正確に動いているか、身体の動きによってどこかに気の詰まりが起こらないか、じっとチェックをしているような感じだ。もし身体の動きに不正確なところがあればそこでストップして意(と気)を使って身体の動きを調整する。そして身体に正しい動きを覚えてもらう。

 

 何か所かしっくりこない場所を発見。

 ゆっくり動いて直してみる。複数の箇所が同じ要領で修正可能だった。

 右脚の付け根(即ち股関節)と左脚の付け根を別々に一回転させる。

 両脚の付け根が同方向に半周ほどずれて回転することもあれば、反対方向(ともに外旋、ともに内旋)に回転することもある。

 要は、右脚と左脚が完全に別人格になるということだ。

 

 これができると身体の中にひっかかりがなくなり、しゃがもうが片足立ちになろうが蹴ろうが、身体がスルスル動く。自分自身の身体に感動してしまうほど。

 身体の中の風通しがよくて、しばし身体の中が”空”になる。

 

 家に帰ってきて、一体あれはどういうことだったのだろう?と思い出してみる。

 股関節が別々に動く時にはその上部にある腹も左右に分離している。腹の中の気(=丹田の気)が分かれて動いていることが前提になっている。腹が分かれると腰も左右に分かれ、その上の肩までの胴体が左右に分離している。

 日本の武道では、身体を左右に割る、という言い方をするというのを聞いたことがあるが、まさに身体は左右に分かれる。左右に分離してできたその中央の空間に、背側には背骨、腹側には、心、(胃)、丹田が浮彫になったようになる。

 背骨は)は”通す”のではなく、(二つに割った結果)”通る”。中心線(中正の軸)も然り。

 心も空間が開くことによって、初めてゆったりと安座できる。

 

 ではどこから身体を左右に割るのか?

 私達の脚は最初から左右に分かれているからまずはその付け根が割りやすい。これがどんなスポーツでも開脚や股割りを重視する所以(決して太ももの内側のスジを伸ばす訓練ではないことに注意:股関節が回転できるようにすることが目的)。

 しかしその時に大事なのは腰を割ること。股関節だけでは上半身が割れない。

 上半身が割れなければ息が丹田に届かない(深い呼吸、腹式呼吸ができない)。

 丹田を育てるために息を丹田に吹き込む過程でも徐々に身体は左右に分かれてくる。

 

 このあたりの身体のイメージを図にしてみるとこんな感じ。

(最終的には肩井穴と湧泉穴が上下でつながる。)

 

 

 

 そして今日は自由練習の後、いくつかの推手を肘の攻撃に注意して練習してみた。

 肩はもちろん、腰、そして全身の使い方がいかに甘いかが思い知らされ、皆、へとへと。

 最後の収功の姿をみたら、思いがけず、生徒さん達の身体の中が"開いて”いるのが見えた。

 2時間以上の練習をする前の身体とした後の身体ではその中の空間の開き具合が全く違う。

 私が、「今なら腹式呼吸は全く問題ないでしょう?」と聞いたら、数人の生徒さんが首を縦に振り、口をそろえて、「身体の内側が開かないと腹式呼吸は無理ですね。」と答えた。

 ”身体の内側が開く”という感覚がとれるようになったとは・・・。

 外部の人には通じない言葉。そこそこ練習した人同士でないと通じない言葉。

 

 生徒さん達とこんな言葉を使って会話できるようになったのが本当に嬉しい。

 私にとっては今年最後の練習を締めくくる感動的なひと時だった。

 

 

2016/12/24 <『草枕』の一節から 端粛と太極>

 

 最近文学的素養のある友人から数冊の本を勧められた。

 その中に夏目漱石の『草枕』があった。なんでもあの奇才ピアニストのグレングールドが愛読していた本だという。

 これまで私は文学とは無縁で実のところほとんど小説を読んだことがないのだが、グレングールド、という名につられて、初めて夏目漱石の小説を読むことになった。

 

 と、冒頭から凄い!テンポとキレ、深みと厚みのある語彙、漢語の基礎の上に築き上げられた日本語に中国文化、日本文化、そして西欧文化の教養が織り込まれている。

 最初の15ページほどで、主人公の画家の、人間の感情を超えた透明な意識による芸術への志向を芸術論としてまとめている・・・・禅画などの境地だが、この手の浮世離れした芸術は西欧ではなかなか見ることができない。グレングールドが心を震わせただろうことが察せられる。

 

 絵であれ、文であれ、音楽であれ、踊りであれ、透明な意識をそのまま外に表現するには、それ(テクニック)を隠せるほどの極めて高度なテクニックが必要になる。自分の一番内奥にあるもの(意識)を途中で感情やマインドや身体に引っかからないよう、ズドンとそのまま出すには内側に十分な空間が作られていなければならない。その空間を作り出す作業が、技術を磨くということなのかもしれないなぁ、と思いながらそのあたりを読んでいた。

 太極拳の練習はまさにその内側を開けて、空ける練習。開けていけばいくほどそれまで知らなかった自分の本質が外に現れるようになってくる。とても関連が深い話だ。

 

 第一章の芸術論でもうその後を読まなくても良いくらいの満足感があったのだが、せっかくだからと今日、その先も読み進めてみた。

 すると、心臓がパクパクするような一節に出会ってしまった。

 

『…美術家の評によると、ギリシアの彫刻の理想は、端粛の二時に帰するそうである。

 端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。』

 

 ”端粛とは人間の活力の、動こうとして、未だ動かざる姿”

 

 ・・・これはまさにタントウ功で丹田に気を溜めている時の姿ではないか!

 タントウ功の要領を伝える時に、よく比喩として出すのが、かけっこをする直前の「よ~い」の状態。「よーーーい」と号令をかけられて、今にも「ドン!」が来る、と息をも殺して全身耳になってしたった状態を、「ドン!」が来ないまま長時間保持する。

 もちろんその間ずっと身体の筋肉を硬直させていてはもたないから、活力(エネルギー)の中心点を見つけてそこだけを沸騰させ続けながら周辺部分は筋肉の緊張を緩めていき、いつでもダッシュできるような状態を作り出すようにする。

 

 この文章の後、夏目漱石は”端粛”を動と静の点から次のように説明している。

 

 『動けばどう変化するか、風雲か雷霆(てい)か、見分けのつかぬ所に余韻が縹渺(ひょうびょう)と存するから含蓄の趣を百世の後に伝うるのであろう。

 世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然(たんぜん)たる可能力の裏面に伏在している。

 

  動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。

 一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、既に一となり、二となり、三となった暁には、拖沼帯水の陋(ろう)を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳にはいかぬ。

 この故に動と名のつくものは必ず卑しい。

 運慶の仁王も、北斎の漫画も全くこの動の一文字で失敗している。

 動か静か。

 これがわれ等画工の運命を支配する大問題である。・・・・・』

 

 結局、画工が狙うのも、動でもなければ静でもなく、静からまさに動が生まれ出ようとするその永遠の瞬間。そこに百世の後まで伝え得る含蓄の趣があり、その可能力(潜在力)にこそ素晴らしい作品の尊厳と威儀が含まれているという。

 

 そして、この静から動が生まれ出ようとするその瞬間こそが、まさに太極拳における”太極”、太極拳の核心だ。

 混沌として何も無い”無極”から、そこに生(有、動)の兆しが、ぽつっと現れる。これが”太極”。

 『無極から太極が生まれる』

 『太極の本(もと)は無極である』

 ”それ(太極)は未だ形や声がなく、陰陽にも分かれていないが、確実に動きの兆しが現れている。”

 

 無極から太極が生まれる。すると太極は通常、瞬く間に陰陽に分かれて二が四、四が八、八が十六と分化して宇宙(この世)が展開していくことになる。太極でぽつっと生まれた凝縮した点のエネルギーが万物を創生していく。

 道家の人々はこの万物創生のメカニズムをミクロコスモスである人体にも当てはめた。

 人間の無から生まれ、生まれた直後は臍奥一点(丹田)に凝縮したエネルギーを持っている。このエネルギーが拡散、展開しながら人間は成長していき、この丹田のエネルギーが枯渇した時に息絶えてしまう。であれば、この丹田の気を如何にすれば枯渇させずに済むのか?

 不老不死の憧れの強い風土ではそんな風に探究が始まったに違いない。

 そして編み出したのが、意守丹田による様々な練功法。

 中でも、タントウ功や坐禅等の静功は丹田のエネルギーを増幅させるのに最も効果的な方法で、内丹術と呼ばれた。

 無極から太極が生じた後、じっと静止しておく。

 無極からどうやって太極を生じさせるのか、そこが最初の関門。

 そして太極の生機(動、有の元になる潜在的エネルギー)が生まれたら、それをを分化させずに(動いて消耗させることなく)一種の沸騰状態においてエネルギーを増幅させていく。

(ここで要領については深入りしないが、さらっと比喩的に言えば、”心の火と腎の水を合わせる”)。

 

 ここで夏目漱石の描いた画工の観点に戻れば、太極拳の有名な先生方の写真を見た時によくがっかりするのは、単にポーズを作って、下手すればカメラ目線になって、なんの”太極”も見られない形を披露していたりすること。死んだポーズ、失敗作、になってしまっている。

 が、今にも動きださんばかりの静止したポーズは実際のところなかなか作ることが難しい。一層の事、動画から静止画を切り取った方が活きた静止写真が得られる。

 蝋人形や石像のように立っていては丹田の気(活力)(=太極)は育たず、育つのは忍耐力ばかりかもしれない。太極が現れるような練習ができてこその太極拳。が、芸術も同じだったとは・・。(個人的には端粛な絵画の例を知りたいところだが・・)

 まさに『太極包容万物』ということだろう。

 

 

 

2016/12/21 <丹田の力を使う、真似をする、使ってから分かるもの>

 

 今日は遠方から個人レッスンのためにわざわざ上京してきてくれた生徒さんがいた。

 午前中の合同練習の後、その生徒さんに一番知りたいことは?と聞くと、タントウ功でどうやって丹田を感じられるのかが分からない、ということだったので、それに焦点をあてた個人レッスンをすることにした。

 

 まず、その生徒さんに普段のタントウ功の姿を見せてもらう。

 背中、腰側に乗りすぎて腹側の力が足りない。踵重心とはいっても足指腹はしっかり地面を掴んでいなければならない。それがないと腹に力が出ない。それが彼の問題点。

 腹の方に重心を寄せると(=足の指先にむけて重心を移動させていくと)太ももの前面に力が入ってしまい腹の力が脚に滑り落ち、逆に腰の方に重心を寄せると(=踵の方に向かって重心を移動させていくと)腹の力がすっこ抜けてドカッと坐ったようになってしまう。

・・・どちらの場合も丹田の力、即ち、ざっくり言えば、下っ腹で踏ん張る力、が抜けてしまった状態だ。

 

 このような、力が抜けてしまっているのか否かは一人で練習してもなかなか意識できない。相手がいて、二人で様々な力を掛け合ってみると良く分かる。太極拳で対人練習が大事になる所以だ。 

 必ずしも推手まで行わなくても、その前段階として相手の力を感じる(聴く)様々な練習方法がある。そして感じる練習をしながら、次第に相手の力に”合わせる”練習をしていく。推手の醍醐味もそこにある。

 相手となる人がいない場合は、壁や木や机やらの"物”相手にやってみる。指一本、物に触れているだけでも自分の力が自分で感じ取れやすくなる。いずれにしろ、最初から鏡となる対象物が全くない状態で自分の力を感じる、というのは不可能に等しい。

 

 私がレッスンする場合は、丹田の力を腕や手に通して相手の力対抗した場合と、反対に丹田(お腹)の力は使わず、腕の筋肉の力だけで対抗した場合の二種類の力を感じてその差異がはっきり認識できるようにしてもらっている。

 通常、たとえ自分でその二種類の力を分けて出すことはできない場合でも、私の(相手の)力の違いは比較的簡単に感じとれる。知覚神経(末端→中枢)の作用だ。

 そしてその後、反対に、生徒さんの方に私がやったことの真似をして二種類の力を分けて出してもらう。

 腕の筋肉をゴチゴチにして丹田とは無関係に推すような力の入れ方は皆即座に真似ができる。難しいのは、丹田から”通して”末端に力を伝える方法だが、何度か私が相手にその見本の力をかけてあげれば、次第にその真似ができるようになってくる。知覚神経から運動神経のチューニングへと練習がステップアップしていく。

 

 真似をする、真似をさせる、というのはとても良い練習方法で、人間は肉体に張り巡らされた神経やその他諸々(があるなら)を使って知覚し、知覚して得られた情報をもとに同じように動かす能力を持っている。

 きっと、今日の生徒さんが知りたいといった”丹田”の感覚も、そのような”丹田”の感覚を持った人と一緒に練習して真似をしていれば、少し時間はかかったにしても、知らず知らずのうちに(丹田とは何かなんて分からないうちに)”丹田”を使って動いてしまっているだろう。(・・・だから中国には師と生活を共にして学ぶような内弟子制度もあった・・・)

 

 今日の生徒さんにも言ったが、丹田は”分かる”のが目的ではなく、”使う”のが目的。

 丹田の力を使えばそれほど力まなくても相当な力が出せる。大きな荷物を持ち上げたりする時、私が定期的に指導するママ達が赤ちゃんを抱っこする時にも丹田は活躍する。

 身体という構造物の重心、中心付近の力を使うと省エネである、という感覚ができてくると、ああ、その力がもっと強かったらもっと楽だろう、とか、身体がもっと力強くなるだろう、という丹田の気を育てる意欲が湧いてくる。

 まずは今ある丹田の力を使ってみる練習、経験が必要なのでは?

 

 丹田が分かったら使いましょう、という態度では、分かるまでに恐ろしく時間がかかって、気が付いたら一生が終わっていた、ということになりかねない。(かなりの時間練習をしている”先生”が未だ丹田を見つける練習をしていると、一体この人は何年費やすつもりなのか?と不思議に思ってしまう。短ければ1年、長くても3年で使えるようになっていなければその先生の下で学ぶ意味はない、と中国では言われたりしているようだが・・・(厳しい!)。)

 人によって丹田の気の量に違いはあっても全く存在しない人はいないのだから(全くなければもう死んでいる!)、少しでもあるものを意識的に使ってみその感覚を掴み、その後、それをどうやって増大させるか、という課題に向けての練習に取り組めばよい。

 

 この手の、”使ってなんぼ”のものについては、先に経験して後で育む、統括するという順序で進むべきだと思う。”愛”とは何か、を一生考え続けても完璧な愛の定義が得られる訳ではなく、拙いながらさまざまな経験をするうちに、断片断片が合わさって、いい歳になった頃にはそれなりの、”愛”の感覚が形成されてくる・・・・丹田もその手のもののよう。

 ”使う”には相手(鏡)が必要だが、一緒に手合わせしてくれる人がいれば何よりだが、それがなければ壁や木や机(はたまた空気)など、さまざまな物が代用できる。このあたりは知恵が必要。

 

 

2016/12/13 <生理的現象による身体の調整>

 

 来年度の日本養生学会フォーラムでは呼吸法を取り上げるということで、先日私に対し太極拳の観点から講演ができないかと依頼があった。

 主催者の先生の中に私のこのブログの愛読者がおられるらしく、中国の気の理論を含めた実践と理論を交ぜた講演を期待してのことらしい。

 これまで雑多な練習をしてきていて、その中にはもちろん呼吸に関連したものも多々あった。が、呼吸関連だけを整理してまとめたことはないのでうまく話がまとまるかどうか正直言って自信がない。そこで一度主催者側の先生方と会って打ち合わせも兼ねたざっくばらんなおしゃべりの時間を持つと決まり、今日早速出かけて行った。

 話は盛り沢山。理事が期待しているのは次々と湧き出てくる活きた知恵。

 

 実は中国の呼吸に関連した養生法には、日本でもっばら呼吸法としてもてはやされている、順腹式呼吸や逆腹式呼吸などという頭まで使って行うものだけでなく、もっと生理に即したものがある。

 その典型的なのが咳、くしゃみ、あくび。

 

 咳は毎朝起き抜けに何度かやって、寝ている間に肺に降りてきた濁気を排出させる、という効果を狙う。肺経が活動するのは朝の3時~5時。その後に咳をするのが効果的。

 うまく咳をすれば、肺だけでなく、腹や丹田までも刺激できる。

 咳をして腹のどのあたりまでを動かせるか(波打たせられるか)自分で実験してみると面白い。

 

 くしゃみは思いっきりやればかなりの濁気を排出できる。

 くしゃみで自分の身体が後ろに跳んでしまうのではないかというくらい、思いっきりやれるとスッキリ爽快感この上ないが、都会ではなかなかそれを許すような環境ではないのかもしれない。

 

 あくびも思いっきりすれば喉から胃だけでなく、下は丹田、上は鼻の中、目の奥(上丹田)、うまくやれば脳の中まで”開ける”ことができる(空間で押し分けて内から外向きに広がるような感覚)。これは体内で感じるプチ”空”。 その後ははっきりパッチリする。

 

 これらは口から出すものだが、下から出すものにおなら、排尿、排便がある。

 おならはまさに濁気そのものだから遠慮して小出しにしたりしないで一気に思いっきり出すのが良い。とはいっても、なかなかそうできないのが都会的人間の暮らし。知らず知らずのうちに我慢している。

 

 大便は小便より早く出せ、というのが教え。

 排便の一連の要領はタントウ功にとても似ている・・・(これについて書くと長くなるので割愛:無意識ながら私達が排便の時に使っている呼吸の方法(二段階あるはず)はとても参考になる。)排尿は男性の場合腰を反らずに行えるように毎回鍛錬する。腰(腎)の気を使わずに排尿できるようにする。女性も立って排尿する訓練がある。これで任脈を下向きに通す力(息を恥骨付近まで通す力)が鍛えられる。

 

 その他、声を出して呼吸を導く六字訣のようなものもある。

 

 いずれにしろ、今日先生方と雑談をしていて改めて思ったのは、私達はなんて窮屈な環境で生きているんだろう、ということ。電車の中、オフィスの中で思いっきりくしゃみなんてしたら、どんな目で見られるか分からない。咳を下だけでも向かいに座った爺ちゃんに睨まれたことがある。おならなんてとんでもないし、あくびだって涙がでるほどやるのはめったにない。子供の頃は授業中あくびをしたらやる気がないと思われるから噛み殺してたっけ。

 

 中国に行って公衆トイレにはいると、至る所から”音”が聞こえてくる。

 日本には音姫なるものがあり、"音”を消すために音を出したり、余分に水を流したりする。そのくらい日本の女子は用を足しているのを察知されないよう慎重な配慮をするのだが、中国に行くと全くそれがない。これは男子トイレか?というくらい好き放題している。(と言っても私自身男子トイレの実態は知らないのであくまでも想像。最近の若い日本男子は女子化しているかもしれません。)

 最初は私も一応日本女子、なんて下品な、なんて思ったりもしたのだが、それに慣れてしまうとこちらも気を使わなくてよいからとても楽になる。逆にしばらく中国にいて日本に戻ってくると、公衆トイレの各部屋で皆が息をひそめて入っているような不自然な沈黙が息苦しく感じられたりする(まあ、すぐに日本の感覚に戻りますが)。

 

 生活水準が上がり、マナーがうるさくなれば身体がしたいようにはできなくなる。身体に徐々にうっぷんが溜まる。気分も悪くなる。

 ・・・・これを呼吸法で戻すのか?

 本当の根本的な解決は自然な深い呼吸をもたらすような社会と環境の構築。が、これは難題。

 個人レベルでは自然の豊かな場所へ移住、という手もあるが、とりあえず今、この場でできるのが、呼吸法、ということなのかもしれない。

 

  <追記>

 私が、「くしゃみくらい思いっきりしたいもの」、と言ったら、「横でくしゃみをされるのは嫌いです」という声も。その一方で、「自由にやり合って免疫力をアップさせましょう」、という斬新な意見。身体に不安があれば前者、身体に自身があれば後者の意見になるのか?

 にしても、こんなにマスクをしている国民は他にない・・・・。

 

 

2016/12/8 <お尻=股関節>

 

 前回のお尻の話の補足。

 今週教えていて気付いたこと、それは、「お尻は股関節である」、あるいは「股関節とはお尻である。」ということ。

 即ち、「お尻=股関節」、こうはっきり認識し直すべき、ということ。

 もしかしたら、股関節が簡単に脱臼しないように、その周りをぐるぐるとたくさんの筋肉が取り巻いて2つのお尻の膨らみを作っているのかもしれない。右のお尻は右の股関節、左のお尻は左の股関節、とはっきり分けて認識し、きっちり別々に動かせるようになるのが理想だろう。

 

 そのように左右の股関節としてお尻を認識し直した場合、その左右の車輪ともいえる股関節の中心は中殿筋あたりになる。私達が通常”お尻”と認識している部分(大殿筋)よりも横・上方に位置しているのに注意しなければならない。

 

   お尻=股関節をしっかり使うための練習の代表的なのはしゃがむ練習。

 お尻にしっかり乗っかったまま腰を落としていく。途中お尻の力が逃げて太もも(の前面)に力が入ってしまう、その転換点に注意。そこが練習すべき(開発すべき)箇所。どこまでお尻だけに頼ってしゃがんでいけるか、どこからお尻に乗れなくなるのか、その転換点を把握せずに漫然としゃがむ練習をしても股関節の開発はできない。

 

 足技(蹴り技)の練習も股関節の開発に役立つ。

 足技の効用については近いうちに書きたいところ・・・。

 

 

2016/12/1 <脚力はお尻から>

 

 先日師父からこんなことを言われた。

 「あなたの脚は強い。脚の筋肉が発達している。が、大腿部が良く発達しているせいかそれに比較して臀部の使い方が良くなかった。今は以前より良くはなっているようだが・・・。」

 

 確かに私の太腿は師父と同じくらいの太さだし、ふくらはぎに至っては私の方が太いくらいだ。

 私は単に師父の脚が細めなだけだと思っていたが、よくよく思い返すと、私がこれまで知っている限り、総じて中国人の男性も女性も日本人より脚が細い。この前行った韓国でも、男性の脚までは見られなかったが、女性の脚は断然日本人より細かった

 

 日本人の脚が太い理由としてよく言われているのは、畳の生活だから、ということだが、それだけが原因ではないのでは・・・、と太極拳の練習を振り返ってみた。

 

 歳をとってくると身体の衰えは脚から始まる、とかいって歩いたり走ったり、他の運動をしたりして脚を鍛えることが多い。

 そして私達が”脚を鍛える”と言う時、無意識に思い浮かべているのは太腿ではないだろうか?

”脚の衰え”=”大腿部の筋肉の衰え” という公式で考えているようだ。

 しかし、太極拳の練習でいつも言っていることだが、大腿骨が骨盤とつながっている部位(=股関節)は決して所謂”太腿”ではない。股関節は臀部の奥にある。

 四つ足で馬のように歩いてみると分かるが、脚はお尻から振り出すようについている。

 ”関節”に注意。

 関節は骨と骨のつなぎ目。

 師の言葉によれば、

「脚が強い、ということは、クワ(股関節)と膝関節と足首が良い、ということ」だそうだ。

言われた直後は、???と思ったが、ちょっと考えてみれば、股関節~膝関節=大腿骨、膝関節~足首=脛骨。関節の可動域が広いということは、2つの関節に引っ張られた筋肉を最大限に運動させられるということ、効率よく筋肉を鍛えられる。即ち、脚力が増す。

 

 関節の可動域が狭いということは、筋肉の先端部分(=中国語では”筋”)の伸びが悪いということ。筋肉の筋の伸びが悪いければ筋肉の弾力性に欠け、運動しても効率的に筋肉を鍛えられないし関節を傷める結果になる。

 太極拳では、筋肉を肥大化させるよりも、筋を伸ばす練習をする。筋肉が伸びる時に力を発生させるのが特徴だ。普段筋肉を収縮させて力を出すのに慣れている私達にとっては180度転換の発想が必要になる。これほど「松(ソン)」(余計な力を抜く)が強調されるのもそのような筋肉の使い方を前提にしているからだとも言える。

 

 上は股関節回りの筋肉図。

 骨盤と大腿骨骨頭のつなぎ目の関節をくるくるスムーズに動けるようにしたければ、とても多くの筋肉の筋の弾力性を高めなければならないのが分かる。

 特に上側背面図の大殿筋奥の筋肉や中殿筋は、所謂”太腿”そのものだと言ってもよいくらい。

 

 英語で股関節はHIPと訳されるようだが、どれだけHIPを開発できるかが脚力の鍵を握る。

 HIPを軽視あるいはタブー視しがちな日本文化を抜け出る必要あり。(腰やお尻を激しく動かすような動きは日本文化では許されないが、世界を見渡せばその動きを強調するダンスはとても多い。少し動物チックになれ、ということかも。)

 

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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