2013年6月

2013/6/29 <再度站樁功について、アナロジーによる右脳的理解>

 

私達は普段知らず知らずのうちに身体に余計な力をいれて生活していて、身体に支障をきたして初めてそのことに気づいたりする。

站樁功はそのような毎日の身体の微妙な歪みをとり、身体をホームポジションに戻すようなものだが、単純なはずのこの練習がこの上なく難しく感じたりもする。

 

そこでもう一度(私の頭の)整理。

Q1.站樁功で最も大事なことは何か?

A.全身の筋肉の力(緊張)を抜くこと(松)

  →実際には、全部脱力してしまったら立っていられない。

   全身の力を丹田一点に集めることで身体のその他の部分の力を抜く

   (身体の開合の”合”の状態:”合”は力を溜める、”開”は力を発する)。

  

 

Q2.丹田以外の力を抜いて立っていられるのか?

A.骨を正しい位置に組み立てていれば可能。

  →正しい骨組みは足裏に身体の重さがストンと落ちる場所。

   関節で力が引っ掛からない、関節、筋肉を力が素通りする場所。

 

Q3.丹田にどうやって力を集めるのか?

A. 胸の気を下げ(上半身の力を抜く=重力に逆らわない=下方向に引っ張り下げられる)、会陰を引き上げ、上下から挟み込んで丹田を作り出す。

 

・・・とここまで書いて、このようなQ&Aはいくらでも書き続けられるのだが、それよりもやはり、私達が一般的に知っている似たような感覚で説明したほうがてっとり早いと思ってしまう。

「站樁功とは何か?」という説明もあるが、「站樁功とはどんなものに似ているか?」という説明もある。前者は西洋的、左脳的な説明で、後者は中国的、右脳的な説明とも言える。

 少し付け足して説明すれば、西洋の理論は「Aは何か?What is A?」という問いを立てて理論を組み立てていくが、一方、中医学では「Aとなどのようなものか?(Aは何に似ているか?)What is A like?」を基準に理論を構築している(例えば五行理論)。これは分析的VS統合的、という違いでも表せる。

この西洋と東洋の違いは左脳と右脳の違いのようで、私としてはとても興味深いところ。同じ「頭を使う」と言っても、左脳のロジック(論理)と右脳のアナロジー(類推)があるのなら、せっかくなら私としては両方から攻めてみたいところ。(もっとも、理想的なのは頭なしの身体での理解かなぁ。)

 

私がよく例に挙げるのが、かけっこのスタート時、あの「よ~い!」の姿勢。今にも「ドン!」が来るようで来ない時、あの体勢がまさに、全身の力を腹の億(丹田)に集約させたような状態。この時、股関節や膝関節が緩み(少し曲がり、)力(気)が足の裏に落ちていつでも地面を蹴れる体勢になっている。(もしこの時、胸を反らせ、上半身に力をいれている子供がいたとしたら、その子は確実に走るのが遅い。)

この「よ~い」の姿勢はいわゆるスポーツの基本の構えでもあり、多少の角度の違いはあっても、テニスにしろ卓球にしろバレーボールにしろ、レシーブの際の構えはいつでも動けるようにそのような体勢になっている。

 

站樁功の面白さは「よ~い」で静止して、永遠に「ドン」を来させないこと。

こうすることで腹底にかかった圧力(丹田の力)を増大させて、やがてあふれ出した気が全身を循環するようにもっていく。溜めた力を外に出さずに自分の中で循環させることにより、自分の力で内臓や骨、筋肉などを鍛えたり癒したりしながら調整していく(自然治癒力を最大限に使う)。

 

昨日站樁功をやっていて、足が地面を踏みつけることにより地面から反射的に力(気)が自分の丹田へ戻ってくる(脚を経由して)のを感じていたが、その同様の感覚は寝た状態で足で壁を押しながら蹴ることでも味わえるのではないか?、と、今日さっそく生徒さんに写真を撮ってもらった。

 

 

 

一番上が足をまっすぐに延ばした状態。

これでは足の裏に力がなく、壁を押すことはできない。

 

真ん中は最も効率的に床を蹴れる脚の角度。

膝とつま先がほぼ一直線上に並んでいるのが分かる。これだとちょうど丹田の力が感じられる(腹の奥の方に力の集約点がある)。丹田に力があると”力み”がない(一番下写真と比較するとよくわかる)。

 

一番下は太腿全面に力がこもって、その分足裏の力が少なくなっている形。

太腿裏側(ハムストリングス)の力が使えず、力んで”腹筋”(丹田ではないことに注意!)に力が入っている。

実は站樁功も同じ原理。

足裏にストンと力が落ち、腹に力が集まるのは上の真ん中の写真の状態。

上の写真では腰がビッタリ床についているので、足が壁を押したときに、その押した力が足裏から丹田に跳ね返ってくるようになる。もし腰が反っていたら、壁を押す力も弱まり腹にも力が集まらない。胸をひっこめ腰を伸ばしてまっすぐにする(含胸、塌腰)の要領が大事なのはこれを見ても良く分かる。

 

下は上の写真を回転させたもの。

もっとも姿勢の高い位置での站樁功になっている

ちなみに姿勢を低くすると、腰が踵よりも後ろに出てくる。膝はつま先の上のまま。

参考までに私の站樁功の写真も載せます。

2013/6/25 <ずぶ濡れの練習から思ったこと>

 

今日はゲリラ雨に直撃を受け、傘をもっていない生徒さん達は練習場所の杉の大木の下から動けなくなってしまった。大木の下でしばらくは雨宿りができたが、降り続く雨を葉っぱが支えきれなくなり、木の下にいた私達もずぶ濡れ。

初めて来た生徒さんが二人いたが、濡れながらも第一式の練習をやりきった。

後でなぜ私のところに習いにきたのか、と聞いたら、二人とも屋外で練習したかった、とのこと。

屋外は暑かったり寒かったり、風があったり、時には今日のように雨にあったり、いろいろなことがあるが、そんなところに身をさらすことで私達は本来の身体を取り戻すのかもしれない。

 

一日のうち、どのくらいの時間を外で過ごすだろうか?一日のうちどのくらいの時間を人工的な光なしに暮らしているだろうか?

昔働いている頃、ふと職場の蛍光灯を見上げ、「なんで昼間なのにずっとこんな光の下でいるんだろう?」と疑問が湧いたが、結局あまりにも自然から乖離した不規則な生活は私には合わなかったようで、働いて半年もしないうちに今流行りのうつ病のようになってしまった。もともと精神病に少し興味もあったこともあり、上司の勧めで精神科に一度いったが、そこで処方された薬を飲んだとたん、頭が鉛のように重くなり眠らざるを得ないような状態になった。起きてから、こんな薬を飲んではいけない、と、うつ病の真似事をするのはやめて、仕事を辞めることを真剣に考えだした。

結局、本当に仕事を辞めるまでにはそれから5年くらいかかったが、今思うと、やはりあの環境は私に向いていなかったのだと分かる。そもそも大学に進学して上京した時も、どこか田舎臭さが残り、どうやっても”垢抜け”なかった。

 

今日久しぶりにずぶ濡れになり、とても清々しく感じたのは何故?

濡れ始めた最初は「濡れちゃいやだなぁ~。」と思っていたのに、あまりの大雨に途中から観念。観念したとたん、気がすっと楽になり、濡れるのを味わえるようになった。

辺りを見渡せば人影がなくなり、木々の緑色と雨の白色の中に私達だけが取り残されたようになっている。都会にいながら、”自然界”、を垣間見た感あり。

 

太極拳には「相手の力に抗わない」という大きな特徴があるが、抗わないどころか、受け入れてしまうと思った以上の力がでる・・・今日の”観念”はそれにどこか似ているような気がしなくもない。

今日のずぶ濡れ練習はいつまでも記憶に残りそうだ。

 

 

 

2013/6/23 <站樁功についての記述のまとめ>

 

最近新規の生徒さんが多いので、基本のタントウ功について再度整理する必要があると実感。毎回初心者を教えていて感じることだが、站樁功の意味や大事さを理解させるのは一苦労。特に普通の人は、頭での理解なしに”ただやる”ことができないので、理解させるためには身体を使った練習と言葉がともに必要になる。

 

サッカーを上達させたかったら、まずはボールを蹴ってみなければならないし、泳ぎたかったらまず水の中に入らなければならないわけで、あくまでも言葉は”サブ”。が、動物的勘の非常に強い人ならまだしも、私達一般的な人間は言葉で気づくことも多いので、私も手を変え品を変え言葉を使って教えたりしている。

 

站樁功も簡単そうで難しく、どこから始めてよいか分からないかもしれない。

が、まず間違えていてもよいから立ってみること。

間違えているかもしれないから立たない、などと言っていると、永遠に立たないで終わる。頭で考えないでまず”やる”、というのは私のモットーでもあるが、頭を使い始めると、ああ、今日はこれをしなきゃならないし、ああ、今日は暑いし、ああ、今日は天気が悪いし、ああ、今日は時間がないし・・・とうだうだしているうちに時間だけが過ぎていく。結局間違えないで物事をできることなんてないし、いつも不完全な状態でいるのが終わりのない進歩につながる。

 

思考と感情を入れないで淡々と物事を為す、というのが私の目指すところだが(かなり道のりは長い!)、その練習をするにも站樁功はうってつけだ。人一倍思考と感情に翻弄されていた私がこの練習をしてからかなり変化した(”まとも”になた?!)。

忍耐力、自律心、集中力などといったいわゆる精神力が鍛えられる。

よく理解できない、混沌とした中でどのくらい安定していられるか、それは心や意識を拡げる練習になる。自分の頭の理解が及ばないところに進んで入っていく冒険のようなところもある。

 

と、書き出すと余計初心者を惑わせるようなことを言い出してしまうのですが、まずは、立ち方を形から入って身体だけを見るようにするのが大事。

 

站樁功の形についてずこれまでのサイト内の記述をまとめた欄を作ってみましたのでご参照下さい。

 

⇒站樁功の考察へ

 

 

 

2013/6/18 <馮志強老師の本から学ぶ>

 

志強老師が1992年に著した『陳式太極拳入門』という本は、まさに経典の域に達するもので一般の太極拳関連の本と一線を画す感がある。

私はパリでこの太極拳を始めた時にすぐに中国書店で購入し、劉老師に一式学ぶ度に本の後半の24式の解説部分を読んで復習したり、劉老師に習ったことを本に書き込んだりしていた。その頃は前半の“入門に際しての心構え”的な部分はやたら四字熟語のようなものが並び抽象的な概念が羅列しているように見え、読んでも文字の上っ面を追っているだけでチンプンカンプンだった。しかし、劉老師の発する太極拳の要領を示す言葉の多くが馮志強老師の本の中にあることを知り、劉老師の言葉をより理解するためにも一度は本に目を通す必要があると思っていた。

 

この本の偉大さは練習を積めば積むほど分かってくる。

通しで読むことはないが、どの一節を読んでも、経典と同じで、毎回新たな理解がある。

そのたびに先人の知恵に感服するのだが、それと同時に、先人の通った道を私も歩いているんだという変な嬉しさがある。

 

まだまだこの本を読み切ることはできないが、自分の勉強のためにも、少しずつ“入門の心構え”の部分を整理してみたいと思った。

日本語の翻訳本も出ているが、やはり中国語でそのまま理解した方が微妙なニュアンスもよく捉えられる。私達日本人も漢字を使うから、漢字を使った言葉の意味、ニュアンスはかなりよく感じられる。できるだけ中国語から離れずに整理できたらよいと思う。

 

今日は試しに、前回の話題でもあった“腰”についての記述を少し整理してみた。

まだその記述部分(全8段落)のうち3段落だけだが、コラム欄に載せてみた。

この続きも近いうちに整理して載せる予定。

興味ある人はこちらへ

 →コラム『陳式太極拳入門』第三章(六)「虚実転換全在腰」

 

 

 

 

 

 

2013/6/12 <腰、腎の気、精力、男性のための修練法>

 

久しぶりに一日家で過ごす。

先週からいろいろな出来事が重なり、自分でも疲れがたまっているのがはっきり分かっていた。今日はその蓄積した疲れをとろうと、気合いを入れて昼寝をした。

 

太極拳で最も重視するのは腰だが、その腰がエネルギーの源であることを痛感したのが、この(3時間近くに及ぶ)気合いの入った昼寝後。

先週は睡眠時間が足りない日があったり、生理が重なって站樁功ができず(站樁功は下っ腹に負担をかけるので生理中はやってはいけない)、腰がなんとなく反り気味になって気が下に落ちずらかった。練習中は腰に注意しているものの、夜になると腰を下に引っ張る力自体が足りないようで、そんな時は眼を後ろに引っ張る力もなく、目が疲れて仕方がなかった。

さて、今日の昼寝で目が覚めた時、まず気づいたのが、腰がべた~っとベッドに張り付いていて、(腰から)足先まで力が漲っていくること。腰は充実して膨らんだようになり、腰の湾曲がほとんどなくなって(命門が開き)、ベッドを押しているようだった(これは紛れもない”塌腰”!)。すると腰の力が下半身に伝わり足先まで達し、つま先がビーンとなるほど力がある(攣っているのではありません)。

練習の時に塌腰(腰を伸ばすこと)を心がけるが、気が腰(腎臓)に漲れば自ずから塌腰になる、というのを発見。とすれば、逆に言えば、腰(腎臓)に気が足りなければ、腰は反りがちになる、ということにも気づく。

 

ここから様々なことが連想ゲームのように頭の中に浮かぶ・・・。

 

腰痛を訴える男性はとても多いが、その大きな原因の一つは腎の気、即ち精気が減ってしまうからだと中医学では説明する。確かに、腎の気が多ければ、腰は”豊満”でそんなに簡単に腰椎を傷めることはない。もう少し説明すると、”腰”は”腰間”が大事だと言われるが如く、腰椎の部分だけを指すのではなく、背中側から見た時の肋骨と骨盤で挟まれる”肉”しかない(腰椎以外の骨がない)一帯を指す。特に身体の側面に近い、中年男性が太った時に、パンツの上に贅肉がボニョっと飛び出てしまうあの場所がとても大事だ。

腰は豊満で丸くなければならない、というが、どんなにスポーツジムなどに通って筋肉隆々としていても、腰が反っていて硬い男性は精気が溜められず、房事では見かけほどの強さがなかったり、忍耐力がなく怒り易かったりする(腎の”引き止め”たり”溜める”力に欠ける)。

 

太極拳の練習でなぜこれほど站樁功を重視するかと言えば、もともとそれが精気を養う方法だからだ(元来この修練法は男性の男性による男性のためのものだった!)。”精気”とは何か?と改めて考えるとまた簡単そうで難しい説明になりそうなのだが、この練習では、精(下丹田)を煉って気(中丹田)に変え、それを煉って神(上丹田)にまで変えていく、という、「精→気→神」というのが根本にある。”精”はエネルギーの燃料で人間の肉体を構成する根本的なもの(可視的なもの、固体や液体)、それを燃やして”気”というエネルギーに変え(気体)、さらに昇華させて”神”という意を司る無形のものに変えていく。(一旦その通路ができれば、神→気→精という下っていくこともでき、以下、グルグル循環することになる。)

 

いずれにしろ、人間を構成している物質は、肉にしろ、骨にしろ、血にしろ、体液にしろ、全て”精”と言えるのだが、その中でも精が気化できる形で存在しているのが生殖に拘る器官が集まる部分(下丹田)だ。ここの精を溜めることで多くの気(エネルギー)を得ることができ、結果として身体は健康になり、脳の働きも良くなる。

身体を鍛える以前に”養生”が大事なのは、しっかり休んでしっかり食べないと”精”が作り出せないからだ。寝不足だったり、ずっと食べていない時に身体がどのような感じになるか思い浮かべれば、”精”が足りず”気”も足りない状態が分かるし、その反対の状態が”精”も”気”も足りた状態だ、という推測がつく。

 

話が腰に戻るが、腰には腎臓という先天の気が宿る場所がある。ここは生命力の源でもあるが、生殖の際にも(別の個体の生命を生み出す際にも)この腎の気が多大に作用する。具体的には、男性の房事の後の腰の状態がどのようになっているかをちょっと注意して観察すれば生殖行為と腎の気の関係が分かる。大概その行為の後はその前に比べて腰が硬く板のようになり、腰の力が減り、どっと疲れたようになる。それは取りも直さず腎臓の気を消耗しているからなのだが、このようなことが続くと、腰はますます硬く反り気味になり、腰痛を発生するようになる。そして”腎”の気の低下は腰痛のみならず、男性が加齢とともに気にする所謂”精力”の低下も引き起こすことになる。

 

両腎の間には命門があるが、ここは”後丹田”とも呼ばれ、中丹田(気海)を前後に分けた際の後ろにある丹田だ(前丹田は臍)。そして下丹田(男性の場合は前立腺、女性の場合は子宮)には”精”(一種の液体)が蓄えられ、中丹田では”気”(一種の気体)が蓄えられている。(注:中丹田、下丹田は場所が近く、膨らむと一体化してくるので、これらを合わせてそのあたり一帯を”丹田”と呼んだりする。また、大多数の流派では中丹田を胸の膻中穴、下丹田を気海穴としているよう。なぜ私の学ぶこの流派では膻中を中丹田としないのかについてはそれなりに面白い説明ができそう。ここでは割愛。)

 

腰(命門や両腎)が膨らんでいて充実している時というのは、まさしく中丹田(気海)の気が増加して後ろの腰にまで達している、ということだ。この状態は精気、ともに充実していて、頭はスッキリ、上虚下実の理想的な状態にある。

ここでまたまた男性の房事のことを想像したのだが(他の動物も想像してみた)、その際、みな腰を振るのは何故か?腰を振らずにはできない・・・?私から見ると、それはとりもなおさず、腰を振ることによって腎の気(中丹田の気)を性器(下丹田)に押し送り届けているようにしか見えない。気→精への方向への循環。だから房事の後の男性は力を消耗して疲れたようになる(が、女性はその反対だったりする)。気を精として排出してしまうのだからそのダメージは大きい。

 

太極拳の練習では「固精、保精」ということを一般の人以上に重視するが、それは精を失うことが気を失うことであり、生命力を失うことでもあるからだ。

太極拳を本格的に練習する場合は100日の築基功があり、その間は妻帯者と言えども性生活は慎み、寝ている間に出てしまうのはともかく、それ以外に漏らさないようにするという。でないと、片や練功(特に站樁功や坐禅)で「固精」をやっているのに、片や私生活で精を漏らしていては、練功の効果が半減、もしくはそれ以下になってしまう。いつまでやっても気の量が増えず、気の量が増えなければ内気、内勁が身体の経絡を押し開けて広げていくほどには育たず、身体が内側から開くこともなければ、力が丹田から身体の末端に行きとどく感覚を得ることもできない。

 

思いつくままに書いてしまったが、今日の昼寝で起きた時の閃き(?)は、男性の”性器”の状態は身体の”精気”の状態そのままを反映しているということ。朝寝起きの状態が男性の健康、若さのバロメーターだったりするのは本当のことだと妙に納得。精気漲れば自ずから性力も増す、ということだが、では肝心の、どうやって”精気”を養うかを知っている人は案外少ない(薬などに頼っていてはいけません)。

精力=性力は、うまく養生し、よく練功できているかどうかのメルクマールになるはず(と、私も男性になったつもりで練功しようと思ったのでした)。

 

 

2013/6/10 <発声法と太極拳の共通点、感覚の世界、身体の脳化>

 

月一回のペースで発声の大先生の下に集まる声楽家達のレッスンをやっている。

もう1年以上続いているレッスンだが、第一回目から来ている人もいれば、初めて来る人もいる。レッスンの内容はぶっつけ本番の即興。メンバーの雰囲気、問題点、成行き、等で腰回しから始めて徐々にいろいろなことをしてみる。

 

ここに集まる声楽家達が学ぼうとしているのは、如何に自然に、声帯を傷めることなく声を出せるようにするか、というところにある。それには身体の内側に息(気)の通り道を開け、そこを腹から頭まで(会陰から百会まで)声が突き抜けるようにする。脚を使えば、足裏から頭頂まで突き抜ける声を出す、ということになる。胸を使わずに腹を使う、というところがミソで、これができるかできないかで歌手寿命が断然変わってくる。

胸で歌っていると、声帯にかける負担が大きく、40歳手前くらいから声に艶、伸びがなくなり、明らかな下降線をたどってくる。あの有名なマリアカラスも40半ば頃には随分声がでなくなってしまっていたという。

それに比べれば、エディッタ・グルベローバ等は60歳を越えても素晴らしい歌声で歌っているが、その歌う姿を見れば、会陰(下丹田)がキュッと気を下(腹)に引き下げていて、その”引下げ力”の反作用的な作用で声(息)が頭頂へ抜けていっているのが分かる。立ち姿にしても通常の歌手よりも一段重心が後ろにあるようで、尾骨から頭頂まで一直線になっているような感がある。

 

今日伺った発声の先生は80歳を過ぎているが、今でも3オクターブが出るようで、毎日お弟子さんを教えて忙しくしている。その先生ご自身は若い頃に著名なドイツ人の先生の家に住み込みで教わったそうだが、それが先生の発声法のベースとなっている。日本では大学でも発声の先生、というのはいないようで、声楽科では表現やレパートリーを増やすようなことを教えるだけなので、気が付けば喉を傷めて歌えなくなってしまう学生も多いらしい。そのような人達の駆け込み寺のようになっているのが、知る人ぞ知る、この先生ということだ。お弟子さんの中には20年、30年来の弟子、というのもザラで、先生の辛抱の厚さが良く分かる。

 

この先生は、まだまだ知りたいこと、研究したいことがある、というものすごい情熱がある。勉強すればするほど、更に知りたいことが増える、と言う。お弟子さん達も口を揃えて、先生の教え方は益々“進化”している、と言っている。本当に教師の鏡だと、私も毎回気持ちを引き締められる。学ぶことには終わりがなく、死ぬまで学び続ける、その意欲、姿勢は私が理想とするところ。その場にいてとても気持ちが良い。

 

先生は毎回、「ほんと、太極拳はベルカント唱法と全く一緒なのね~。」と私がお弟子さん達を教えているのを見ながら感慨深そうに言う。今日もそう。不思議なくらい一緒だと言うが、実は発声の先生の中で、このように身体の中から”開ける”ことをちゃんと教える先生はなかなかいないようだ。それは太極拳の世界でも同じ。太極拳の形を教える先生はたくさんいるが、身体の中を開けたりするような”内功”をちゃんと教える先生はやはり少ない。そんな点まで含めて、この発声法と太極拳の内功はとてもよく似ている。

このような”身体の内側”の話は単なる技術の話ではないから、とても教えるのが難しい。そして時間がかかる。感覚が捉えられなければ何を練習しているのかよく分からず、効果が出てくる前に諦めてしまうこともある。そこのところをどうやって生徒さんに分かりやすく、できるだけ早く効果を実感させられるようにするか、というのが教師の役目でもあり、手を変え品を変えいろいろやらせてみて、生徒の意欲をつなぎとめながら一歩一歩身体の感覚を捕まえられるようにしていく。生徒さんが試行錯誤して、やっとうまく感覚が捉えられた時などは、教えている私自身がとても嬉しくなったりする。

 

感覚を教える、というのは、学校の勉強を教えるのとはまた違う。大脳だけの話ではなく、身体全体を”脳化”させてフル活動させなければならない。細胞一個一個に精神が宿る、という言葉をどこかで聞いたことがあるが、骨や肉等の身体の表面のみならず、自分の内臓や様々な感覚器官にまでも意識を届けるような細密な神経が必要だ。頑張って意識しようとすれば、神経は枝のように伸びていく、というから、やはりまずは”意”ありき、なのだろう。身体の開発もまずは”意”から始まる。意が散漫な練習では身体の中の開発はできない。”身心合一”というが、形あるもの(身)と形ないもの(心・意)が一体となって私達を作っているが、形ないもの(心・意)が形あるもの(身)を形作っている・・・?だとすれば、外見はまさに心の現れ。当たり前のことのようだけど、よく考えるととても奥深い話。

(最後は話が逸れたよう。)

 

2013/6/4  <馬のお尻が理想?、仙腸関節を緩める、お尻を張り出す>

 

先日たまたまテレビで安田記念レースで優勝したロードカナロアの走りを見て、競馬については無知だが、その美しい身体、走りっぷりに久々に惚れ惚れ、かなり感動してしまった。

これが人間だったらどんな感じなのだろう・・・、と想像すると、やはり黒人系短距離アスリートを想像してしまう。

少し興味があって馬主のブログなどもちょっと覗いたが、馬主が馬を買う時はその馬の骨格や筋肉のつき方、性格など、様々な要素を考慮するようで、あるブログでは、肩と腰の比率はどうあるべきか、背中はどうあるべきか、とかなり細かく馬の見方を書いていた。

 

私はとりわけ馬のお尻に惹かれ、あんなお尻になりたい、と新たな目標を立てた。

実際、馬のお尻はお尻というべきではなく、あれは太腿だ。私達がよく目にするローストチキンレッグの太い部分に相当する。

じゃあ、私達人間は?と振り返ると、運動選手でもない限り、一般の人はお尻がただの肉の塊になってしまっている。歩き姿を後ろから見た時に、股関節から下の部分は前後に動いていても、お尻の筋肉はほとんど動いていない。その傾向は歳をとればとるほど顕著になる。子供の時丸かったお尻が、次第にひしゃげた丸になり、おしりが中心に寄ったような形になる。そして老人になったころには萎んでしまう。

 

「老化は足から」という言葉があるが、それは太腿やふくらはぎの筋肉の力の問題よりも、お尻の筋肉の退化が一番大きな問題だと私は見ている。お尻が使えないままスクワットをしたり、ウオーキングやジョギングをしても、股関節で上半身と下半身が断絶しているため丹田の気が足の裏まで落ちず、無駄に脚の筋肉や関節に負担をかけることになり、しまいに膝を傷めたりしてしまう(このあたりの詳しい筋道についてはここでは割愛)。

 

歩行を含め日常的な動作でお尻を使っていれば、歳をとったからと言ってそんなに簡単にお尻の筋肉が退化することはないはず。もし私達が4本足歩行をしていれば、きっと老人になってもかなりお尻は立派だろう。二本足で立っているがために、お尻を使わなくても歩けてしまう。それが足腰の退化になり、気が付けば上半身と頭が目立つ「上実下虚」の身体になってしまう。

若い女子学生で脚が立派なのを見ると、うん、いい、と妙に嬉しくなってしまうのは私だけではないと思うが、歳をとればとるほど脚を太くするのは難しくなる。特に内腿とハムストリングス(太腿裏)の退化は著しく、格好を気にする女性の場合は男性のように大胆に脚を使えないためか、お尻と太腿の境目が30歳前に既になくなってしまうのが大半のようだ。

 

私もこの練習を始める前は確かにお尻と太腿の境目がそれほどしっかりしていなかったような気がするが、立ち方を学んで次第に脚が全面的に使えるようになってきたらお尻の形も変わってきた。

それでもロードカナロワなどの競走馬を見ると、まだまだ、お尻の横の張り(胆経)の部分が足りないなぁ、と思う。

人間は老化とともにまず陽経の中でも最も外側にある膀胱経(身体の背面を上下に走る経絡)が衰え、次に胆経(身体の側面を上下に走る経絡)が衰える。この二つの陽の経絡は身体の運動に特に大事な経絡だ。だからこそ、站樁功でも太腿裏側や外側をまず使えるようにするのだが、そのためには、太腿を意識するのではなく、お尻の仙腸関節や環跳のツボを意識することも必要になる。

 

站樁功の要領として、①お尻を中にいれて腰を伸ばす(塌腰)一方で、②股関節を後ろに引いておくという一見矛盾したものがあるが(2013/1/25メモなど、以前ブログで何度か書きました)、最近また別の角度から表現することも可能だと感じてきた。

まず、①の時の”お尻”というのは、仙腸関節でお尻を三つに分けた時(右の腸骨、中央の▽形の仙骨、左の腸骨)の仙骨部分を指すということ。そして②の股関節を後ろに引く、というのは、恥骨が前に飛び出ないようにする、ということ。

即ち、①後ろから前に向けて少し仙骨を押え、②前から後ろに向けて恥骨を少し押える、ということで、骨盤が真っ直ぐ立つとともに丹田に力が集約する、ということだ。

しかし、これを可能にするには、仙腸関節が少し緩んで、その部分でちょっと切り離れるような”隙間”が必要だ(”関節を緩める”というのは、その部分で骨と骨が離れるかのような”隙間”を開ける、ということ)。

ではその隙間はどのように開けるか、というと、站樁功の時に、右尻一帯(右太腿、右腰含む)は右へ、左尻一帯(左太腿、左腰含む)は左へ、と踏ん張りながら引っ張り、仙腸関節を左右に引っ張り開くようにする。

実はこのようにすると、左右のお尻の盛り上がりの中心が外側に移り、お尻は左右にボンと開いたような形になる。 誇張したイメージだろうが、身体の側面の腰骨あたりにお尻の盛り上がりが来たように感じる時は、右左の腰の横に車輪を付けたような感覚になる。そしてこのようなお尻はとりもなおさず、あの、左右のお尻がはっきり分かれた、かつ、おしり中心部分に締まりのある、競走馬のようなお尻に他ならない(これも大げさ?)。

 

仙骨と恥骨で前後から丹田部分を挟み込むことによって丹田に力が出る(パワーの源)が、だからといって大臀筋などの臀部の筋肉を硬直させては脚の自由な動きが阻まれる。

気を溜めるための仙骨と恥骨の軽い締め、と、気を足裏まで流して自由に脚が動くようにするための(腕のように動くのが理想)臀部の筋肉の緩め、これは締めと緩め、陰陽のバランスだなぁ、と感慨深く思う。

 

改めて站樁功を別の角度から考察しみると、仙腸関節を緩める(開く)という、大事な要素があることが分かる。これもまた、毎日ちゃんと意識的に立っていればいずれ漬物のように身体が漬かってきて徐々に効果が現われてくる。結果だけを求めず、過程の試行錯誤や変化を楽しみながらできればとても良いと思う。

 

薄着の季節になり(特に女性)のお尻の形が露わになるが、これも勉強と思って年齢を問わずいろいろ観察したりしている。

 

下は走る馬。お尻も肩もムキムキ。

こう見ると、騎士は四つ足姿に近く、①命門が開き腰が伸び、かつ、②お尻が左右に張り出ている。上で書いた要領そのまま。

気功法でも動物の動きを真似るものがあるが、動物から学ぶことはとても多い。この練習も私達が二本足になって失った四本足の動物の運動能力(敏捷性、直観力、第六感等を含めて)を少しでも取り戻そうとしているような感がある。

 

站樁功の要領として、①お尻を中にいれて腰を伸ばす(塌腰)一方で、②股関節を後ろに引いておくという一見矛盾したものがあるが(2013/1/25メモなど、以前ブログで何度か書きました)、最近また別の角度から表現することも可能だと感じてきた。

まず、①の時の”お尻”というのは、仙腸関節でお尻を三つに分けた時(右の腸骨、中央の▽形の仙骨、左の腸骨)の仙骨部分を指すということ。そして②の股関節を後ろに引く、というのは、恥骨が前に飛び出ないようにする、ということ。

即ち、①後ろから前に向けて少し仙骨を押え、②前から後ろに向けて恥骨を少し押える、ということで、骨盤が真っ直ぐ立つとともに丹田に力が集約する、ということだ。

しかし、これを可能にするには、仙腸関節が少し緩んで、その部分でちょっと切り離れるような”隙間”が必要だ(”関節を緩める”というのは、その部分で骨と骨が離れるかのような”隙間”を開ける、ということ)。

ではその隙間はどのように開けるか、というと、站樁功の時に、右尻一帯(右太腿、右腰含む)は右へ、左尻一帯(左太腿、左腰含む)は左へ、と踏ん張りながら引っ張り、仙腸関節を左右に引っ張り開くようにする。

実はこのようにすると、左右のお尻の盛り上がりの中心が外側に移り、お尻は左右にボンと開いたような形になる。 誇張したイメージだろうが、身体の側面の腰骨あたりにお尻の盛り上がりが来たように感じる時は、右左の腰の横に車輪を付けたような感覚になる。そしてこのようなお尻はとりもなおさず、あの、左右のお尻がはっきり分かれた、かつ、おしり中心部分に締まりのある、競走馬のようなお尻に他ならない(これも大げさ?)。

 

仙骨と恥骨で前後から丹田部分を挟み込むことによって丹田に力が出る(パワーの源)が、だからといって大臀筋などの臀部の筋肉を硬直させては脚の自由な動きが阻まれる。

気を溜めるための仙骨と恥骨の軽い締め、と、気を足裏まで流して自由に脚が動くようにするための(腕のように動くのが理想)臀部の筋肉の緩め、これは締めと緩め、陰陽のバランスだなぁ、と感慨深く思う。

 

改めて站樁功を別の角度から考察しみると、仙腸関節を緩める(開く)という、大事な要素があることが分かる。これもまた、毎日ちゃんと意識的に立っていればいずれ漬物のように身体が漬かってきて徐々に効果が現われてくる。結果だけを求めず、過程の試行錯誤や変化を楽しみながらできればとても良いと思う。

 

薄着の季節になり(特に女性)のお尻の形が露わになるが、これも勉強と思って年齢を問わずいろいろ観察したりしている。

 

下は走る馬。お尻も肩もムキムキ。

こう見ると、騎士は四つ足姿に近く、①命門が開き腰が伸び、かつ、②お尻が左右に張り出ている。上で書いた要領そのまま。

気功法でも動物の動きを真似るものがあるが、動物から学ぶことはとても多い。この練習も私達が二本足になって失った四本足の動物の運動能力(敏捷性、直観力、第六感等を含めて)を少しでも取り戻そうとしているような感がある。

 

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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