2012年8月

2012/8/31 <養生の大原則> →コラムへ

 

今日で8月も終わり。

夏は気が散じる季節だが、このように暑い日が長く続くと、(ニュースで騒がれている水不足だけでなく)体内の気も枯渇してくる。

実際、私の周辺でも体調を崩してダウンしている人がちらほら出てきている。

冷房の弊害もあるのだが、この機会に、養生法についての一般論を簡単にまとめてみたいと思った。

当たり前のことしか書いていないのだが、当たり前のことを実行するのが如何に難しいことか!

コラム「養生の大原則」にまとめましたので読んで見て下さい。 →コラムはこちら

 

 

 

2012/8/30  <眼と丹田>

 

まだ気温が下がらない。が、公園には数名の女性が集まって練習。

コンクリートや建物の密集した場所の外気は耐えられないが、木々に囲まれた自然の中の夏の空気は独特のものがある。

 

最近練習をしていて、特に気になるのが「眼」。

自分の站樁功中の気の流れが、背骨から首を通って後頭部(玉枕穴)の方へ行く経路に加え、喉の奥の方から直接上に上がって、目の奥やら鼻の奥やら耳の奥やら、全てが交差するような場所を通る経路、後頭部から脳に入り込む経路、等、とても複雑になってきて、大周天や小周天のような単純な形では説明できなくなっている。

站樁功の時によ~く頭の中を見ていると、頭の内部の空間はとても広く、様々な場所が別々に意識可能なことが少しずつ分かってきた。練習の後で、脳の内部の図と照らし合わせ、ああ、あの後ろの方は松果体、あの部分はたぶん視床下部、そして一番感覚を集結させやすい場所が脳下垂体、その上に直接上げたところが百会かなぁ~、など、模索している。

 

最近つとに鼻すじの一番上からおでこにかけて”開いていたい”衝動にかられ、家では前髪を上にあげてピンでとめたりしていたのだが、ここをさらけ出すとなんだか眼がはっきりし、見た光景の明度が上がるように感じる。頭が、ぱきっと、はっきりする。

 

自分の感覚としては鼻すじの一番上、わさびを食べてツーンと抜ける一番上の辺りがあたかも”眼”のように感じていたのだが、今週始めに発声の先生と話をしたり、師父に質問をしたりして、これが脳下垂体に気が達した感覚で、所謂『上丹田』なのだと整理がついてきた。

ここと下丹田がちゃんとつながっていると、眼の奥で会陰から力を上に真っ直ぐ引き上げて来られるようで、身体の内部の気の軸(柱)がきちんと立つのが分かる。

眼と会陰(又は下丹田)が身体の中で強いゴムバンドでつながっているようだ。

眼の力は下から来ることを実感できる。

 

ここで興味深い練習を思い出す。

室内の練習では、生徒さんに仰向けでテーブルのような恰好(左の図参照)をしてもらうことがあるのだが、下・中丹田の力が弱い人は、すぐに顎が上がって胸を開いてしまう。顎は引かなければ丹田の力が使えない。この違いを体感してもらい、立ち上がった時も同じ道理であることを分かってもらう。顎を引くと丹田にロックがかかるような感じだ。

 

そして眼の作用が気になっていた今週、同様の練習をした時に気付いたのは、顎を下げる作用は眼の奥と下・中丹田をつなげることにあるのではないかということだった。

顎を引いて、少しにわとりが頸を伸ばした時のような姿勢をとると、喉の奥が開き、胴体と頭がまっすぐ連結する位置になる。その位置になると、下・中丹田と眼の奥の上丹田が一直線に並び、力(気)が上下に貫通する。

太極拳で打撃をするにしろ、歌を唄うにしろ、ただ見るにしろ、眼が下・中丹田とつながっていてこそ身体はブレず、拳や声、眼力にパワーが出るようになる。

 

今日の生徒さんに実験代になってもらった。

立ったまま、空を見上げてもらい、その姿勢のまま私が彼女の胸を(いやがらせのように)後ろに押してみる。もちろん、彼女はうしろに転びそうになる。

次に、私がいつ彼女を押すが分からないという状況を設定した上で、空を仰ぎ見てもらう。一見彼女は前回と同様の姿勢を保っているようだが、準備をしている分、私が軽く押しても転ばない。

何が違うのか?それは、いつ押されるか分からないと思うと、顔は空を向いているのだが、眼は必死に下のお腹の方(下・中丹田の方)を見ている。するとお腹に力が入り、押されてもすぐには転ばない。逆に言えば、眼が上に上がった時点で、お腹の力は抜けてしまうということ。

 

人の眼をみれば、その人物の大体のことが分かると言うが、すぐに眼が上に動いてしまう人は下っ腹の力が弱く、実際見た目にもどこか弱い感じ。視点が定まらない人は、自信がないか落ち着きがない。

師より、『眼観鼻、鼻観心、心観丹田』(眼は鼻を観て、鼻は心を観て、心は丹田を観る)という言葉を聞いたことがある。これは中心線を通す要領。仏教の坐禅でも同様の要領が使われている。

眼が直接丹田を観るのはなかなか難しいから、眼が定まらない動きをしがちな人は、まずは<眼が鼻を見る>ところから始め、徐々に丹田とつなげていくのがよいかと思う。

 

※注 くれぐれも目を真ん中に寄せて鼻の頭を見たりしないよう。これでは見た目もおかしい人です。眼球を小脳の方向、即ち後ろに伸ばすような感じで、鼻の奥の方の感覚とつなげます。こうすると実は視野が広くなります。武術の際の「見ずに観ろ」というのは、一点凝視するのではなく、視野を広くとって相手の全体を観なければならないという意。「観る」ためには目を後ろに引かなければなりません。

2012/8/27

 

発声の先生宅での声楽家のためのレッスン。

不定期で行われているこのレッスンも今日で5度目ほどになる。

80歳を過ぎてもまだまだ学ぶ意欲が衰えない発声の先生のお宅には今日も新メンバーの顔がある。

 

一部屋に6、7人が集まり練習するのだが、この特別レッスンは私にとっても本当に特別で、毎回その場に行ってからメンバーの身体を見ながら様々な練習を試みている。

場所にも時間にも限りがある中、太極拳など全く縁のない人達にどれだけ「なるほど!」と感じさせられるか。まさに真剣勝負の場。

 

第一回目の時は、さすがに私もある程度準備をした。

①<太極拳と発声の共通点は?>

→それは<気(息)を溜め→流す→溜める→流すという循環運動である>

③<溜める>について

  ではどこに気を溜めるのか、どう溜めるのか?その方法の紹介

④<流す>について

  溜めた気はどう流すのか?→通路が必要→身体の中の空間が必要→開ける練習

このようなレッスンの大枠を計画していた。

 

しかし集まるのは歌の専門家達。私の長ったらしい説明などよりも、すぐに身体を使って実践練習をしたいというのが見て取れた。まずは身体の感覚ありき、という態度。

 

気を胸から腹に下げる重要性は皆頭でよく知っている。

しかし歌を歌おうとすればするほど、かえって胸に気が上がってしまうのが通常で、そこをどう解決するかということに一般の人よりもより大きなジレンマを抱えている。

「含胸」というのは太極拳ではとても重要な要領だが、これは膻中のツボ(左右の乳頭の中間点)を微妙に後ろに引いて下に引っ張り落とす要領なのだが、これがなかなか難しい。そのためには肩が下がり肩関節もある程度開ていなければならないし、小胸筋の緊張も解けなければならない等、前提としてクリアしなければ条件も実は多い。(太極拳の先生の中でもそれが本当にできている人は案外少ない。正直言うと私もまだ完璧ではないのだが、この発声の先生の『含胸』は完璧!気功の老師のような身体使いだ)。

 

この『含胸』の要領を掴ませるために、各生徒さんの身体をいろんな方法でいじってみる。

すぐに要領をつかむ人もいれば、なかなかつかめない人もいる。しかし声楽家達の真剣さは私も圧倒されるほどで、「分からないけど、もうこれでいいか~。」という人は皆無。

しぶといくらい、これでもか、あれでもか、と試している。

私も引きずられて、感覚を掴むための様々な方法を捻り出している。

 

今日は初めて参加する声楽家とピアニストがいたので、初心者向けに身体の背面に気を通す練習をしていたのだが、たまたまピアノ奏法の話から、身体の背面から力が手に伝わった場合と、身体の前面から力を手に伝えた場合の違いを実際に見せることになった。単純な太極拳の動作でも、二者には明らかな違いがある。それぞれ使う場所も違う。

すると、横から発声の大先生も一言。発声もまったく同じだと言い、背面を通した声と前面を通した声がどのように違うのか聞かせてくれた。

 

レッスンが終わった後、「開眼しました!」と嬉しそうにお礼を言って帰った生徒さんがいたが、私はとても嬉しく思うと同時に、その生徒さんの「知りたい」という気持ちが「知る」ことにつながったのだろうと思った。

同じように教えてもそこから何を得るかは生徒さん次第だったりする。

そう思うと私は意欲の高い生徒さん達に囲まれている・・・。

 

最後にしばらく発声の先生と雑談をした。

先生たるもの、生徒に教えることで常に学ぶことができる、とおっしゃっていた。

そして私の(必死に?)教える態度をとても褒めてくれた上で、先生たるもの、常にお手本を見せられなければならない、ということを強調していた。

80歳になってもまだお手本を見せ続けられるためには、日々のたゆまない努力が必要なのが本当によく分かる。私も頑張らなければ、と思った。

大先輩からまた学ぶことあり。

 

 

 

 

 

2012/8/23 <気持ちよさ、心地良さ>

 

今週も日中は猛暑続き。

練習場所に向かう道で既に大汗をかくが、木陰で練習をしていると微風が感じられたりしてそれほど暑さを感じない。

 

このような中で毎日いろいろな生徒さんを相手に様々な練習を試してみる。

どの生徒さんに対しても、まず第一段階としては、如何に余分な力を抜かせ、気を丹田(より下)に落とさせるかが最重要課題になるのだが、そのためにクリアしなければならない身体の条件、状態がいくつかあり、人により特にネックとなる箇所も異なっていたりする。そのネックとなる箇所を解決するために有効な練習を即興で考え出すこともしばしば。でもそれらのヒントはこれまで自分がやったことのある練習の中に含まれている。

こうやってうまく生徒さんに新たな身体の感覚を体験させられた時は私も達成感を感じ、いい練習ができたと自己満足している。

 

そんな中で、ある生徒さんから、私がこの太極拳の練習で何を目指しているのか、と聞かれた。究極的には”悟り”、とか言うのだが、もっと実際的には、単に、心地良い心と身体を持ちたい、ということに過ぎないのかもしれない。気持ち悪い不快な心や身体の状態が嫌だという、えらく単純な理由。

 

人間も含め動物は”快・不快”を基準に行動をする、ということを聞いたことがあるが、自分の行動を振り返るとまさにその通りなのかと思う。

ここでかなり以前に北京の道場で馮志強先生の三女の秀チエ先生に個人レッスンを受けた時に言われた言葉を思い出す。それは、「太極拳は老子の道教を基にしていますから、気持ち良くなくては太極拳とは言えません」という言葉。決して「苦」ではないということ。

その時はそんなものなのか、と大して注意を払わなかったが、最近になってその意味の深長さに気付くようになった。

 

人間が手っ取り早く快楽を求めた場合、それは、暑いからといって一日中冷房を効かせた部屋でいたり、おいしいからといって食べ過ぎたり飲みすぎたり、疲れたといってごろごろしていたり、楽しいからといって夜更かししたり・・・と、その後確実に不快な状態の発現するような行動になりがちのようだ。しかしそれは私が思うところの真の意味での心地良さではない。もっと持続的、恒常的な心地良さ、気持ちよさを追求するのが太極拳を学ぶ道なのだろうと思う。

自分で気持ちよく感じるような身体の状態、心の状態を作り上げ維持していくその努力の過程までもが快く感じる、というところがこの練習の醍醐味なのだろう。苦しいだけの練習では長続きしない。時に自分の身体が積極的に心地良く感じる時、自分の心がとても美しく感じられる時、そんな時に自分の存在までもがとても肯定的に心地良く感じたりする。そのような感覚はまだそれほど長続きしないが、このまま練習を積めば、外的な環境はどうであれ、自分の感覚をその状態に持っていくことが可能になるのではないかと思う。

 

蛇足だが、先日練習後のお茶の席で、歯の治療の際如何に不快な気持ちになるか、という話題が出た。しかし、私にとって歯の治療のあの時間は”じっくり味わいたい幸せな時間”だったりする。それを聞いた友人達は信じられない、という反応をしていた。今改めて考えると、歯を治療してもらうことで自分の身体がより良いものになっていくところに心地良さを感じるのかもしれない。痛みはそのために払うちょっとした対価と思えば大して気にならなかったりする。

 

ともあれ、心と身体がより軽く、より純粋、より良いものになる、そんなところに私自身心地良さを強く感じるのだが、何を心地良く感じるかは人によってかなり差違があるのかもしれない。しかし究極的な真の心地良さとは、自己の存在自体が心地良く感じることだということは人間皆奥深くで知っているに違いない。

2012/8/17 <”外”と”中”>

 

今週初めはお盆で久しぶりに帰省していた。

高校時代の恩師達や同級生と再会。

25年以上ぶりに顔を合わせる。

 

みんなもちろん歳をとったわけだが、その歳の取り方が姿形に現れる。

一人の恩師はじっと私の顔を見つめ、「上手に歳をとったなぁ。」と私にとってはこの上ない褒め言葉をくれた。「優しくなった」とか、「声が良くなった」(以前はひどい声だったとのこと)とか、はたまた「鼻が高くなった」とか、先生方でいろんなコメントをしていたが、総じて良いコメントだったので一安心。

 

今回の集まりで面白かったのは、再開した恩師の一人である音楽の先生が、お酒の席でしきりに「顔」の重要性を語っていたこと。歌を唄う際にはとりわけ重要、何故なら実際に歌を聴く際には無意識のうちに歌い手の顔に影響を受けている、声だけ聴いている人は滅多にいないのだから、と言っていた。

 

顔は身体の一部だが、その中でも最も人の注意を引きやすい部位だ。だからこそ、顔をどう見せるかは、特に女性にとっては非常に重要な問題になっている。塗ったり、描いたり、試行錯誤を繰り返す。しかし、少し鋭い目を持った人なら、化粧や人工的な細工を通り越してその人を見抜いてしまう。それは全く難しいものではない。

 

太極拳を学ぶということは、物事の本質を見抜く練習をすることだと師父に言われてきた。外を見た時に中まで透けて見えるようになってくれば練習が進んだ証拠。

外をどれだけ着飾ろうが、塗り隠そうが、どれだけ財産を持とうが、どれだけ素晴らしい仕事につこうが、全てを剥がした時のその人の素の姿が見えるようになる。

 

結局、外は中の反映だと知り、中を磨くことに精を出すようになる。

 

”外”、”中”は相対的な概念に過ぎない。

まずは自分自身の中でも最も”外”にある肉体を磨き、調え、クリーンな状態にする。身体が不調で重いと更に”中”に入ることはとても難しい。

身体中に意識が巡り調ってくれば、更に内側の「心」が見えるようになってくる。「心」の動きは「身体」の動き以上に捉え難い。注意深く見ていないと、すぐに「心」は暴走する。勝手に考えさせない訓練。無意識では思考を浮かばせない。身体と同様、心も私自身の意識が命令した時のみ作動するように躾ける。これはなかなか難しい。

 

こうやって内側を注視する練習は静功(站樁功や坐禅)を使うのが一般的。

丹田をずっと注視する練習だけでも意識を一か所につないでおく練習ができる。

そのうち丹田の気が全身を巡り身体の内側から空間が押し分けていくようになると、その空間の中で自分の心を見ることができるようになる。

外からみれば毎日同じ形で練功しているように見えるが、実は一日たりとも同じことはしていない。毎日内側では変化がある。それが進歩の印。

 

まだまだ修行途上だけれども、今回恩師達が”外”を褒めてくれたということは、私の”中”に確実な進歩があるということだと、少し自信を持ったのでした。

2012/8/11 <心の操作>

 

昨日は声楽家向けのレッスン、今日は保土ヶ谷での室内練習。

練習自体は動功メインで、生徒さん達の状態を見ながら様々なことをやってみる。

 

この両日、生徒さん達と話をしていて、心理的、精神的な問題について考えさせられることがあった。

人がどうやって心の健康を保つか、というのは生きていく上で非常に重要な問題。

身体は身体、心は心、と分けて対処する方法もあるが、太極拳では『性命双修』(性:精神、命:身体に対応)とか『形神合一』(形:身体、神:精神)といって、心身双方の鍛錬をする。

 

身体と心は密接なつながりがあるから、比較的操作しやすい身体を使うことで心の健康を保つというのは通常よくある方法。スポーツをしたり歌ったり、踊ったりすると、気持ちが晴れてさっぱりしたりするというのがその例。

しかし、これで心が完全にさっぱりするなら大成功なのだが、しばらくするとまた同じ問題が心の中に浮上してきたりする。実は何かに興じている間、心はしばらくそちらに忙しくて、問題のことを考える間がなかっただけ。本当に解決した訳ではなかった。そのお楽しみの時間が終わったら、また心は問題を考え出してしまったりする。

 

太極拳をやると心がどう変わるのか、これはまさに私が自分自身で実験している最中。

まだ結論を出す段階ではないが、これまでの自分の体験から言えることもある。

 

「身体が開けば心が開く」とか「形が正しくなければ、心も正しくない」というのは私が師父について習い始めた最初から言われたこと。そのころはただの抽象論としてしか聞いていなかった。しかし、数年練習してかなり身体が正しい状態になってきたら、自分の心の中も以前のような暗鬱な感情がなくなっていたことに気がついた。心の中が以前より軽くなり、何かあっても心を立て直すのにそれほど時間がかからなくなった。

ある時、お世辞を決して言わない母親が、昔より顔がきれいになった、と言った。以前あった邪気のようなものが顔から落ちたのだろう。顔のつくりは変わるものではないのだが、顔から邪気のようなものが落ちると、人は一般的に純粋な美しさが出るのではないかと思う。

街行く人々を見ながら、人の内面が顔や身体などの外側に表れる、というのもはっきり見てとれるようになってくると、ますます、身体と心は密接につながっていることを思い知るようになる。

 

もともと私が太極拳に興味を持ったのは、意識と身体の連携にとても興味があったからだった。ただのスポーツではどうしても注意が外向きになり、意識を掘り下げて研究することができない。スポーツの要素もありながら、身体の内側や心や意識の働きを重視する太極拳はまさに私にうってつけだった。

 

なぜ身体にかかわりながら心が変わっていくのだろう?と改めて考えてみる。

太極拳の練習では、常に意識を丹田に結び付ける練習をする。どんな動作をしても丹田から離れることはない。対人の練習をしても、丹田を意識している。

つまり、意識のベクトルは常に2方向に向いていることになる。

一つは外界に向けて実際に力を作用させている身体の場所。手だったり、脚だったり。

そしてもう一つは自分の内側、丹田。

 

このような練習をしつこいほどやり、次第に普段の日常の動作の時にもこの「2つのベクトル」の道理を持ち込んでくる。そうすることで、どのような作業、動作も比較的軽々と、緊張せず、優雅に、自分を見失わず行うことができることが分かってくる。

ただ、余裕がないと、すぐに「内側(丹田)」に向かう意識のベクトルを忘れてしまう。

何度も何度も忘れて、また思い出す、の繰り返し。

こうやって、太極拳で身に着けたことを日常に持ち込み、自分をしつけていく。

一日24時間、寝る直前まで、いや、理想的には寝てる間も忘れなくなるまで、この鍛錬は続けていく。もちろん長い道のり!

 

そのうち、何か心が乱れた時の自分の心を見るようになる。その乱れはどこにあるのか?身体のどこから起こってくるのか?

注意深く自分の内側を見てれば、自分の意識(気)が頭の中にある時に様々な心配や雑念が渦を巻いて湧きあがってくるのが分かる。しかし、意識(気)を頭から喉より下に導き落としていくと、もはや言葉が生まれてこない。言葉がないと、雑念も具体的な形では浮かんでこられない。なんかもやもやした感じは残ったとしても、それが何であるかは識別不可能のようだ。そして、もし意識を丹田まで下げ、そこに意識を完全に釘づけにさせられたなら、妄想や雑念、余計な心配ごとは絶対に浮かんでこない。そしてしばらく丹田にいられれば、そのうち、抱えている問題や雑念は、自分から遠く離れたところにあるように感じられてくる。問題との距離が出てくる。距離が出てくると、その問題はもはや第三者に起こっているかのように客観的に見ることができるようになる。そこまでいけば、問題は既に問題でなくなってしまう。

 

きっとこのような方法は、仏教などの瞑想と原理は同じなのだと思う。

瞑想中どうやって雑念をはらうか、は瞑想者の最初の壁。眠くなってしまったり、座っている間ずっと違うことを考えていたり・・・と「何も考えない」状態にずっといることはとても難しい。

この太極拳を練習して会得していったもの。それは、身体を使う際に丹田に常に意識をつないでおくのと同じ方法で、心を使う際にも丹田に意識をつなぐことができるようになってきたこと。意識(気)を導きたい場所に導けるようになる。これこそ気功法たる太極拳の醍醐味。

私自身、更に心の操作の研究、鍛錬をして、近い将来生徒さん達に具体的な指導ができるようになりたいものだと思う。

 

2012/8/7  <蹲墻功>

 

常連生徒さん達の練習を今日は久しぶりに屋内で行う。

ストレッチや普段外ではできない練習も試してみた。

 

初めて挑戦したのが、『蹲墻功(dun qiang gong)』。

要は壁に貼りついてしゃがんで上がってくる練習法。

 

中国に古来から伝わる気功法や武術の基本功には、私達日本人には馴染みの薄い興味深いものがたくさんある。そしてその動作がやたら単純だったりする。

タントウ功もその一つ。

ただ立つだけで、どこが鍛えられるのか?というのは通常皆が疑問に思うところ。

だけど、実際にやってみれば次第にその効果が現われてくる。そしてその効果は底なしで、やり込めばやり込むほど、それまで隠されていた新たな効果、効用が開示されてくる。

開脚の練習も、壁に向かって脚を約180度近くにあげ、その状態で30分くらいおいておく、というのも聞いたことがある。無理にこじ開けないで、開けられる範囲で開けて、その状態を長時間続けさせることで身体に染み込ませるような練習方法だ。

漬物を漬けるように、ゆっくり時間をかけて徐々に身体に浸透させていく練習方法が多い。

 

今日試してみた”壁に張り付いてしゃがんで上がってくる”練習もそんな練習法の一つ。

詳しい説明は → こちら(動功コラムの中の『蹲墻功』)

(ちょっと恥ずかしいですが、ご参考までに私自身がやっているプライベート動画を載せています。)

 

家でも手軽にできるので、試してみて下さい。 ただ、結構大変です。(ちなみに今日の常連メンバーは「後ろにひっくり返る~!」と大笑い。ギブアップしていました。)でも、毎日トライしているうちに効果があるはず!

 

2012/8/2  <ほぐす=『緩めて(松)』+ 『開く(開)』>

 

今日は自分の練習。

 

一昨日、人気テレビ番組で、肩甲骨に挟まれた部分にある褐色細胞を活性化してダイエットする、ということで肩甲骨の運動の仕方を紹介していた。とても面白おかしく紹介していたので、早速テレビを見ながら娘とやってみる。4つの動かし方があったが、腕や肩の動かし方は太極拳とよく似ているが、力の入れ方は全く違う。ギューッと背中の肉を絞るようで、なんだか効き目(何の?)があるような気はした。

 

早速この番組の復習サイトをパリにいる友人に教える。彼女は肩甲骨を動かす運動を私のサイトに載せて欲しいとかねがね言って来ていた。私も彼女のリクエストに答えようと、どの動功が良いか考えてはいたのだが、私が通常行う動功の中に肩だけとか背中だけ、と一か所にターゲットを絞って行うものはとても少ない。なかなか彼女にこれ、というものを紹介できずにいた。

そんなところに、このテレビ番組での”効果絶大!”という肩甲骨体操を目にして、すぐにその情報を彼女に送ってしまった。

 

彼女からすぐに返信。「この手の体操はもう全て経験済みです。」との一言。

あらあら・・・、そうだったのね。そんなにいろいろ試してもだめなのかしら・・・?とすぐには私も返信できずじまい。

 

翌日朝、私も娘も背中や肩が重く凝った感じがする。昨日のあの運動の効き目?とにかく早く練習に行ってほぐしたい!。

公園について、站樁功をして、その後、背骨や腰をゆらゆらしたり、いつもの腰回しをしながら一緒に肩や背中も回してほぐす。そこに生徒さん達も現れ、一緒に練習をする。

そのうちの生徒さんが私がした肩甲骨の体操を以前真剣にやったことがある、と告白してくれた。DVDや専用ブラも買って試したらしい。「効果は?」と聞くと、「ツリました。」と笑う。

 

私の身体の質は決して柔らかい方ではないが、この練習を始めてから、知らないうちに気がついたら股関節や肩関節が以前より随分開いていた。

実はそれほどストレッチもしない。ただ、①立って(站樁功)、②動功をして③套路をする。それだけ。無理に開いたり伸ばすこともない。立っているときも、動いているときも、常に自分の身体の中に引っ張り合いがある。これは内側から伸びて、開いていく感じで、これが太極拳の動きの特色だ。単純に言えば、人が両手を挙げてあくびをしながら伸びをすると、身体が上下に引っ張られ、牽引されたような感じになるが、それが四六時中感じられるということ。

 

今日も自分で練習しながら、改めて肩甲骨を意識してみたが、肩甲骨ばかり動かそうと人工的な動作をするよりも、定番の腰回しをしながら、その延長線で背骨を動かし、そして肩甲骨に連動させていく方が自然で気持ちが良い。実際、太極拳の技も腰の力が背骨を伝わり肩甲骨を通って腕に伝わるようにする。それと同じ原理。

 

開くためにはまず緩める。

『松』→『開』が原則。

 

ああ、この原則に逆らって、力を抜かずに無理やり動かしたから、背中がツリそうになったのね。としばらくたって分かるようでは、ちょっとマズイなぁ。

追記

 

まずは背骨を柔らかくしなやかにするという意識が大事。尾骨、仙骨、腰椎、胸椎、頸椎の一節一節が蛇腹のように動くようにします。腰回しの時、そんな”蛇腹”の意識を持って回すのも一つの方法です。

 

←こんなしなやかな後姿は女性の憧れ・・・(という私の後姿はボクサーに近い?!)

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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