2021年7月

2021/7/30 <フェンシングを見て気づいたこと>

 

 今日はフェンシングで日本男子が団体で金メダル、エペで金メダルは快挙♪ とのこと。フェンシング、リーチが長い欧米人の方が有利そうだけど・・・ と決勝ダイジェストを見て驚いた。

 下半身の機敏さがものすごい。

 フェンシングの技は全く分からないのだけど、それだけは分かった。

 

 足は機敏でなければならない、と推手の時に師父に注意されるが、じゃあ、常に動かしてステップを踏んでれば良いのかなぁ〜、なんて止まらないようにただ動かしたりしていた。

 が、今日のフェンシングを見ていて、足が機敏というのはただ足を動かすのが速い、というだけでなく、それによって全身のロックを外して伸び縮み自在の身体を作ることができるのだと感じた。

 

 ロシアとの決勝戦。向かって右が日本選手。上は宇山選手、下は山田選手。

 日本選手は身軽で下半身の動きが相手を上回っている。

 特に目立つのが、“裆”! 股の開きが自由自在。

 相手のロシア選手達はなかなかそこまで使えないよう・・・

 日本選手達は思いっきり裆を広げてリーチを伸ばし低い位置に突っ込んでいける。

 

 こういうコスチュームだと裆がよく見える・・・ 太極拳とかその他武道では裆や胯の動きは見せないような服を着る・・・

 

 見て気づいたのは、フェンシングは順歩(右手で突く時に右足を出す)ばかり・・・たしかに、ここで逆足を出す拗步にしたら身体が真正面に向いて刺される面が広くなってしまう。だからいつも敵に対して身体は斜め。

←先月書いたメモを思い出しました(左は6/19メモに乗せたもの)

 

この時の師父の前足は南向き、後ろ足は東向き、90度の開き。

で、上のフェンシングの選手達が思いっきり裆を広げる時は、やはり、足先は90度に開いている。

 

  が、足先が90度、という表現は誤解を招きやすい。正確に言うと、股関節がぐるっと回転している内踵が回っている。

 

 そして、このように股関節を回転させて内踵から内腿を使わないと床からの反発力が上半身から腕、手、そしてエペへと貫通しない。節節貫通させて勁を通すためには身体の内側に”捻り”の力が必要になる。これが太極拳でいうチャンスー(纏糸)勁だ。

 

足先が前に向けば向くほど裆が緩むので足で地面を押した力が太もも付け根でストップしてしまう。チャンスー勁生まれず貫通の力ではなく筋肉の力で打つ感じになる。

 上のフェンシングのフォームを真似してみると力の貫通の感じが分かるかもしれない。前足に対して後ろ足はどのように広げるべきか、身体は真正面に向けるのか、それとも斜めに向けて(顔は前に向けて)ねじって使うのか? 

 そんなことを考えたのでした・・・

2021/7/28 <「90度に開けばいいというものではない」について>

 

  読者の方から「爪先を向きを90度に開けばよいというものではない、膝の向きが大事だ。」というコメントがあったので誤解を避けるために少し書きます。

 

  90度に開けばよいというものではない、というのはその通り。無理に開いて膝を捻っては元も子もない。実際、私も師父から「90度に開け」ときつく言われたことはなく、足の位置は八卦のライン状に置く、と言われていた。とはいえ、師父の弓歩は両足の爪先の向きが90度で私には真似できない。だから45度くらいでも良いかなぁ〜、と適当に狭くしてやっていた。師父もそのあたりは何も言わなかった。

  が、今年に入って剣を学んだ時に、体の向き、足の起き位置がぴったし八卦に合っていなければならないことを知った。拳以上に正確、でないと切れないのだと感じた。剣を学んだ後に拳の練習に戻ると、方角がとても気になる。中途半端なところに足は置けなくなる。そこで初めて、何箇所かテキトーに置いている場所があることに気づいて師父に直してもらった時に知ったのが、原則90度、それなら両踵に重心が集まり体の軸が頭まで通る、ということだった。そう言われて試してみると、両足先の開きが45度の弓歩で重心移動をすると裆が使えずにすぐに股関節から股関節、下手すれば、すぐに前足の前腿や膝に乗ってしまう。しかし、90度にすると、後ろ足(軸足)で地面を踏んだ時に内腿を使わざるを得ず、結果としてその延長線にある裆が使えてしまう。裆を使えると首まで劲が通る(首が折れない)のも分かる。

  と、それに驚いて書いたのが7/25のメモの後半部分だった。

  なんと、爪先の開きでこんなに勁の通りがこんなに変わってしまうのか、と。

 

  ただ、前提として、爪先を開いた時に重心が踵に乗っている必要がある。両足先を90度に開く、というよりも、股関節から踵までの脚を一本の棒と考えて、その棒を内踵を支点として股関節からぐるっと回した結果、爪先が90度に開く、というのが正確な表現だ。

 

  まだ腰や胯が開いていない場合は90度の弓歩で通して動くのは難しい。けれど、練習の中で試しにやってみると、腰が開いていないとか、胯が開いていないとか、まだ開発できる部分に気づく可能性がある。そして、何よりも、”裆”とか”园裆”というのがどんな感覚のものなのかを実感できる可能性もあるかと思った。私なら生徒さんに一度は試してもらうだろうなぁ〜、と。

 

  バレエのアンディオールは体を内側から開いて節節貫通させるための姿勢だが、これも最初から180度開けるわけではなく、長い訓練を積んで次第に開けるようになっていく。指導者は必ず生徒の膝下がねじれないように注意する。(フランスのバレエレッスンでは8歳(か10歳、うろ覚え)まではアンディオールをさせない。その後も無理に開かせない。訓練で身体が開いてきたら自然に足も開くようになってくる、そんなスタンスだ。日本では早いうちに両足を180度に開かせて故障させてしまうことがあると聞いていた・・・10年ほど前の話。今では変わっているかもしれない。)

 

  ということで、90度でやってみよう、と思ったのは今の私の段階。これまで長い間、そうではなかった私がそうしてみよう、と思ったという話。その方がさらに勁が通る、という確信があるからそう思った。初心者にいきなり90度でやれ、とは言えない。45度で十分だ。だけど、45度でずっとやってきて、今ひとつ体重移動が引っかかってうまくできない、というような人はもう少し開いてやってみると突破口が見つかるかもしれない。内側の開く感覚がわかれば、そのあとは45度でも70度でも自由自在・・・昨日の陳項老師がその境地。実践になればそんな”形”はなくなってしまう。 ただ、套路で身体を開発したい人は90度がおすすめ、そういうことです。 (90度で起こるチャンスーについてはまた書きます。)

  

<番外> 私の大好きな動画。いつ見ても美しい。 ポイントは、彼女の両足の内腿から踵にかけて力が集結していること。中心に力を集める=”合”することによって、関節が解放され身体が”開”く。『開の中に合あり』の典型だ。 このくらい内側の軸が強いとどんなポーズをとっても均整がとれていて美しい。馮老師の形の美しさもそれに通じるものがあると思う。

 

 太極拳は両足を開いたバレエの2番ポジションが多い。足からヘソまでねじり上げる必要あり。臍丹田が重要になるのはそのため?

 しかし剣にある歇步:右の写真、は4番ポジション。胸(だん中)あたりまで内側で捻りあげる必要がある。

  下の写真は動画では”捻り”が外には見えないが内側で捻っている。チャンスー勁は全身を一つにして使う動きには普通に使われている。

⇩このくらい強い内腿が欲しい! 

爪先立ち、だけれども、爪先で立つ意識ではなく、”内腿から踵”の軸が引き抜かれることで強い甲になり結果として爪先立ちになってしまう。意識は内側の軸。太極拳も同じ。

(内腿が使えると裆も使えて節節貫通が可能になる。馮老師も内腿から踵の軸がすごい。)

2021/7/27 <裆の位置>

 

  両足のつま先の向きは原則90度・・・馮老師や劉師父、そして写真で見る楊澄浦はそうなっているけれど、他の(陳式の)老師たちが皆そうではない。

  結論から言うと、90度でできるような身体を作っていれば、爪先の開きはもっと狭くしても円裆を維持できる方法があるようだ。(→メモ最後の4人の老師達の斜行の比較。後日書きます。)

 

  円裆と松胯はセットで使うと股関節が使いやすくなる(股関節の”球”=大腿骨骨頭を回転させられる)。

股関節が自由になるとその連動で肩関節も開いてくる。

 太極拳の築基功でまず腰椎2番と3番の間の命門を開け、その後はひたすら下に向かって脊椎を開けていく。

 「下に一寸(開けば)、上に三尺(開く)」

 そんな言葉があるように、腰椎、そして仙骨を構成する骨を一つづつ使えるようになると、自然に命門より上の脊椎が開発される。

 

 そして、裆の位置というのは図で見てわかるように背骨の下。

 尾骨の下、高さで言えばお尻の割れ目から太ももの付け根(承扶穴)。骨だと恥骨と坐骨。

 

 股関節のソケットは腸骨と恥骨と坐骨、三つの骨で構成されている。腸骨は中国語で胯骨というようだが、胯と裆がうまく使えることによって股関節の可動域が高まる。

 逆に言えば、松胯と円裆ができないと股関節の球が思うように操作できない→膝の故障などに繋がる

股関節は腸腰筋で動かせるが、それだけでは足りない、と高岡英夫氏は『キレッキレ股関節でパフォーマンスは上がる』に書いているが、私が太極拳的に理解したのは、股関節は”胯”の操作だけでは不十分、”裆”の意識が必要、ということだった。

 

 

 ”裆”は思っているよりもずっとずっと下に位置している。私の今のレベルだと、その日の第一回目の套路練習で初っ端から”裆”を使うのはまだ難しい。終盤にかかるころに、やっと気が”裆”まで落ちて、足が貼り付き動きに粘りが出てくる、そんな感じだ。

”裆” は左の赤線の部分。

任脈と督脈をつなぐ、会陰を通過する胴体の”底”の部分だ。

 

 

 この赤線部分を使うには、両足は引き離した方が使いやすい。開脚すればするほど会陰は引き上がっていく。180度開脚すれば勝手に会陰は引き上がって胴体も引き上がる。

 両足を揃えた状態が会陰を引き上げるのが最も難しい状態・・・骨盤底筋が緩みやすい姿勢だ。両足を揃えて会陰を引き上げるには両脚(いや、体全体)にチャンスー(捻り)をかける必要がある。

 

 ここから先はまた追々書くことにして、馮老師、そしてその一番弟子の陳項老師、そして馮老師の套路をできるだけ誠実に再現しようとしている日本の老師、この3人の「斜行」の時の爪先の向きがそれぞれ違って面白かったので載せます。(あとで陳家溝の陳正雷老師も追加しました。) 気づいたことはまた後日。

2021/7/25 <ナンバ歩きと蹬脚 震脚、円裆と弓歩の両足のつま先の開き >

 

 

 昨日のナンバ歩きの動画を見て『裆』が気になった。

 自分も真似してナンバ歩きをやってみているが、慣れてくると前に出す足のアキレス腱や踵の伸びが感じられてとても気持ちいい。踵の皮が引っ張られて伸びる感覚は蹬脚の時と同じ。

  前に出した足が着地する寸前、そのアキレス腱、踵の皮が引っ張られると足が自然にフレックス(背屈)になる。体が前方に移動するに任せてそのまま足を着地させると感覚的にはフラット着地になる(踵から着地させるつもりでも踵を着く時に体が移動してきているので結果的にフラットに近くなるように思う)。

 このフラット着地の感覚は、震脚の時の落脚と同じ。

 震脚はフラットに着地させなければならないが、足を落とす時は足を精一杯フレックス(背屈)させて、微妙に踵から先に着地するようなつもりで落とすと結果的にフラットに地面に当たり、地面からパーン!という歯切れのよい音が戻ってくる。フラットに落とすのを失敗すると、地面から歯切れの良い音が戻ってこない。震脚は地面から跳ね返ってくる音でうまくできたか否かが分かる。

 

  一日のうち何度も犬の散歩に出かけるので、そのたびにナンバ歩きを決行。次第に変化させていくと、昨日見たあの不思議なチャンスー(あれは太極円のバリエーションだった)も自然に出てくる。様々なチャンスーがナンバ歩きから引き出せるのが面白い。体のリズムを引き出すのにナンバ歩きは使えそう・・・しばらくやってみるつもり。

 

 ナンバ歩きでアキレス腱や踵の皮が引っ張られると『裆』(股ぐら)も引っ張られて開いてきた。

 歩きながら『円裆』というのを意識したことがなかったが、この『円裆』というのも名詞的、静的な意味ではなく、動詞的、動的なものであることを実感。粘さの継続が必要。ただ開脚すれば『円裆』になるというものではない。

 

 『円裆』についてはもう少し掘り下げてみたいのだが、今日の練習で師父につま先の向きを直されたことからはたと気付いたことがある。

 陳式太極拳の弓歩の時の両足のつま先の向きは90度・・・八卦に合わせる、と言うものの、常に90度を維持するのは大変で套路の中で数カ所は90度より狭くして、またその後で広げて・・・ということをしていた。が、やはりそれも直すべきで、今日改めて改善すべき箇所を確認していた。

提収の片足立ちの時も両足のつま先の開きはほぼ90度。

その直前の斜行は90度を維持しないと斜行の意義が失われてしまうけれど、提収も90度というと、かなり体の内側を捻る必要がある。骨盤の中を広さも必要。

 

私は左足軸だと簡単にできるのだが、右足軸だと相当意識的にやらなければできない。「なんで45度くらいでやってはいけないのか?」と今日師父に聞いたら、「それだとつま先の方に重心が逃げてしまう。90度に開くことによって踵にちゃんと乗れる。」と答えてくれて、ああ、なるほど〜、と合点がいった。

バレエのアンディオールと同じ原理だ!軸を中心に集めるためには両足を180度近く開いた方がよい。(これはつま先を開く、という話ではなく、体の内側をぐぐぐっと内側から外向きに開くことによって両足が外に向いていく、ということです)アンディオールすることによって股関節、肩関節、その他の関節がひらいて動いた時に”つっかからなく”なる、とんな作用がある。

 

 太極拳はバレエほど体を開く必要はないけれども、空手やその他の拳法よりは開く必要があるだろう。筋肉勝負ではなく”柔” 関節の柔らかさ、全身の連結、が持ち味の拳だから。

 

 でも今普及している太極拳の多くはつま先をそこまで開かないのではないかと思う。前足が正面に向いていたら後ろの足はのつま先は45度の開き程度。空手も流派によって違うと聞いた。前、前へ、と前方への攻撃を重視する流派なら後ろの足はあまり開かない、と。

 

 私が以前日本の太極拳のマスターから少し聞いた話では、太極拳は両足の位置を動かさないまま広い範囲の攻防ができるようになっているということだった。だから両足の足先の開きは、基本が90度になる・・・と長方形を書いて説明してくれた。

 楊式太極拳はどうなのだろう? と以前感動した宗師の楊澄浦の写真をチェック。やはり90度が維持されている。しかしその弟子、董英杰になると、つま先の開きは狭くなっている。(下の左二枚は楊澄浦、右端が董英杰)

 やはり、90度の開きがあると、頭まで軸が通って体の線に”たるみ”がなくなる(張りがある)よう。円裆も90度だと簡単にできるが45度ではかなり大変。太極拳の『円裆開胯』という股関節や股間、お尻の開きは90度に近くすることで自然に実現できるのではないかなぁ?

中国のサイトに左のような写真入りの説明があったが、左は✖️で右が◎。(https://www.163.com/dy/article/E1SMPFV90514AIS4.html

 

膝の位置が云々などと説明があるが、よく見ると、◎の方はつま先がかなり外に開いている。両足の足先を90度近くに広げれば自然に円裆になるのでは? 

  今週はそのあたり、円裆の周辺を意識して練習してみようかと思っています。

 

<番外>楊澄浦とその弟子董英杰を比較している写真があったので紹介します。(首を繋げるには円裆が必須)

 https://3g.163.com/dy/article/FK02KR7O05498STJ.html

2021/7/24

 

  動画を検索するとナンバ歩きの説明はいく種類かあるようだ。私にはどれが”本当の”ナンバ歩きかは分からないが、一昨日のメモで最後に紹介した動画のバージョンは太極拳の基本的動作(左右陰陽転換や左右按掌)に非常に似ているので、この両日、この歩き方を意識的にやってみていた。

  師父はそれを見て、基本的には太極拳と同じだ、と言った上で、「が、(もちろん)太極拳の方がさらに”完明”(完璧)だ、我々のはただの上下運動ではない、あらゆる回転を含んでいる、上下運動はその一部分にすぎない。」と言っていた。

  私はこれまでに師父に言われて、普段歩く時に、丹田の縦回転、水平回転、斜め、そして左右分けて車輪のように回す前回転、後ろ回転などをやってきたけれど、あのナンバ歩きのような、単純な上下のピストン運動、というのをやったことはなかった。しばらくやって慣れてくると、体の中で二軸の縦の勁が現れてくるようだ。按をしながら足を前に出すと前足裏にむかって勁が伸びていく。前に落とす足を意識すると、左右交互にひたすら前に伸びる伸びる伸びる伸びる、となるようだ。

 

  家に帰ってから同じ方の別の動画を見てみた。https://youtu.be/QTrku1FulXk

  そして動きをよく見ると(スローで見てみると)

 ①左手と右手の按(アン)による左半身および右半身の2つのピストンは連動している→微妙にネバさがある。(左と右は分断されていない。左が下がると右が上がってしまう、右を下げると左が上がってしまう。どちらかを上げればその反対側が下がってしまう。そういう関係)

 ②上の右側のスクリーンショットに緑の線で表したように、体に伸びが出ている。

 ③そして赤の矢印で示したのは、裆(dang)の開き。前方に出した足が着地する前にぐ〜んと股が広がる(→結果として歩幅が広がる)。

 (④裆(dang)が広がる:円裆の結果として後ろ足の踵から力が出る=地面からの反発力が得られる、ということも言えるのでは? ただ上の歩き方は腰の力が使えていない(命門が張り出ていない)から後ろ足の粘りが今ひとつか? 太極拳だと腰の力をもっと重視する。)

 

 そんなことを感じた。

 ネバさと円裆、結果としての踵の力。

そして上の動画の一場面、これには驚いた。https://youtu.be/QTrku1FulXk

 

太極拳の基本技のよう。

 

 

上の外人の先生は腰の力、全身の勁がうまく使えている・・・あるレベルに達した武道家の風格のあるお方。気が沈んでいて柔らかい。

 

ナンバから円運動、チャンスーが出てくる可能性があるとは・・・とても面白いです。<続く>

2021/7/22 <『逢転必沈』から 左右陰陽転換→左右按掌 そして ナンバ歩き>

 

 『逢転必沈』の”転”は「回転」の意味ではなく、「体の方向、位置、状態が変わる」という意味。熟語で言えば「転換」の意味だ。「回転」ではない。念のため。

 (私が”転”を第四声で発音したら、師父が驚いて、正しい発音、第三声で発音して正してくれた。同じ”転”でも声調を間違えると全く違う意味になる(第四声は回転、第三声は転換)から注意しろ、と何度も言われました。)

 

 そして『逢転必沈』について考えていたら、ずっとずっと昔に習った放松功の中の動作を思い出した。習ったのは、馮老師が来日した際に参加したセミナー。私は太極拳を習い始めたばかりでたくさんの年長者の参加者に圧倒されて一番後ろで受講しようとしていたら、その時の先生が、せっかくだから一番前に行きなさい、と引っ張り出してくれた。馮老師のすぐ前で受講できたのだが、当時はほとんどモノマネで何をやっているのか全く理解していなかった。今記憶にあるのは、これから紹介する左右陰陽転換の功法と、「意守丹田」と言って馮老師が黙祷のようにしていたこと、そして、セミナー後におばちゃん達がどっと馮老師のところに集まり、老師の身体をあちこち触っていたこと、くらい・・・(ああ、もったいない・・・苦笑)

馮老師の編纂した放松功についてはhttp://hunyuan-taiji.la.coocan.jp/new_qigong.html

を参照してください。

 

 私自身全てを習ったことはなく、劉師父も昔そんなのを少しやったかもしれないがほとんど覚えていないとの答え。現在それを練習している団体は中国でもほとんどないのかもしれない・・・面白そうなのだけどなぁ。

 

 が、放松功の中の功法名を見ると、多くは混元内功のバリエーションのようだ。混元内功になくて重要だと思われるのは、左右転換、左右車輪、左右按掌。これらは重心移動に関係する動きだが、左右転換→左右車輪→左右按掌、と自然に移っていけるようになっている。

 

 46式炮锤のDVDのイントロで見つけたのが、上の馮老師による左右陰陽転換の動き。(丹田に気を戻してから左右転換に入る様子→https://youtu.be/bv-banVuLDA

 上のセミナーの時に、馮老師は、「私は今回日本に来る時に飛行機の離陸が数時間遅れたが、私はずっとこの左右転換功をやっていたので何も苦にならなかった」と言っていた。その時は、このゆらゆらしているだけの動作がなんでそんなに大事なのか分からなかった私。今見ると、丹田を左右に沈ませる練習になっているのが分かる。それによって足裏まで気は落ちて自然に地面からの反発力を得ている、『力起于脚跟』になる・・・両足を前後に開いてやれば前後の重心移動になる・・・重心移動、そして進歩、退歩の基本的な気の運用の仕方の練習ではないか? 『逢転必沈』の練習でもある・・・

 

 そんな風に思って放松功について調べていたら、馮老師の高弟の一人の潘厚成老師が『左右按掌』について詳細に語っている動画を発見した。https://v.qq.com/x/page/q0764k2pjsc.html

丹田を右に転(回)して、「坐丹田」→「坐胯」→「坐臀」。

 それから丹田を左に転(回)して、「坐丹田」→「坐胯」→「坐臀」。

 

 そんな説明をしているのだが、「坐胯」と「坐臀」は知っていたが、「坐丹田」:丹田にも坐るのか・・・ でも確かに、一気に「坐胯」や「坐臀」をしてしまうより、一度「坐丹田」を経由した方が胴体と脚の連結が途切れずその後の動きがなめらか(一気にお尻に座ってしまうと、次に戻ってくる時に脚力に頼らなきゃならなくなる)。坐丹田を意識する、というのも一つの方法なのかもしれない。

 

 正面の潘老師と後方の弟子達の動きを比べるとその差がよく分かると思う。

 こんな簡単そうな動きでも功夫のレベルでこれだけの差がでる(上のgifではなく動画だと体重移動の差がはっきり分かります。)

 動画の最後の方で弟子の動きを直しながら、後ろから弟子を突き飛ばしているようなところもある・・・この左右按掌をしていたら、足が根付いて、後ろから不意に押されてもビクともしないはず、ということらしい。

 

 左右按掌かぁ〜、と少し練習していたところに、昨日、能のメモを見た読者から面白い動画を紹介してもらった。本当のナンバ歩きはこうだった、という動画。実は私もずっと前に見たことがあった。が、あれ、これは『左右按掌』と同じ? このナンバ歩きならとても親近感がある。基本は太極拳と同じ。ただ、丹田の回転がないのかなぁ(能もそうだった)。

 

←これを立ってやればナンバ歩き

 

この床に座って歩く動きは私もレッスンでよく使いました。体全部で歩く感覚を思い出す練習になる。

こうすると進歩退歩には”回転”が不可欠なのが分かる。単純な上下運動、前後運動では前に進まない。(←の画像では踵の骨まで回転させているように見える。ナンバ歩きにも回転が含まれているのでは?)

 この動きは太極拳の体の使い方を知る上でとても役立ちます。

 

2021/7/20 <名詞的 静止的 から能の”沈”、そしてその足さばきに注目>

 

  少し前に「収脚」ということを師父に尋ねたら、師父は後ろ足を前に引きつけていくその過程を「収脚」だと理解して説明を始めた。私はなるほど、と思って聞いていたけれど、心の中で、「収脚」という言葉を習ったことのある日本の人たちはおそらく足を引きつけ終わった時点、片足になった時点の状態を「収脚」と理解しているのではないかなぁ〜、とえ思ったりしていた。

  一応動画を撮ってアップし、その後、「収脚」という言葉を私に教えてくれた読者の方とメールのやりとりをしていたら、やはり、師父の収脚の理解は日本の太極拳の連盟で使っている意味とはズレていたようだ。その方が指摘した通り、私たち日本人の理解は”名詞的”だ。動作も静止画像でイメージしがち。

  英語、中国語、そしてその他多くの言語は動詞的だ。日本のトイレの中で日本語をそのまま直訳した英語の注意書きの張り紙を見て吹き出しそうになることがあるが、でもかといって、自然な英語ならどう言うのか?と、考えるとうまい英語が浮かんでこない。しかしその後でネイティブに聞いてみると、なんだ、そんな簡単な表現でよかったのか・・・というのが常。日本語ほど複雑に考える必要はなかった。英語の表現はシンプルな動詞で済んでしまう。中国語も主語の次はまず動詞。動詞が文末にくる言語の方が少ないだろう・・・

  日本文化は名詞的、静止的、そして平面的、二次元的。そこに独特な美があるのだと思う。こちらフランスでも日本の漫画ブーム。漫画は静止画像を並べることによって動き、流れを出している。日本文化の代表だ。

 

  ・・・今日はそんな話を師父にしてあげた。師父は面白そうに聞いていた。

 『開合』の”開”だって、日本人はひょっとしたら、手を開いた状態の静止画像でイメージするかもしれない、が、師父のような中国人は、両手が合わさった状態から離れて開いていく、そのプロセスを”開”としてイメージしている。開ききった状態はすでに”合”に転じている状態・・・

 

 そんな話をしていたら、私の頭の中に突然”能”のイメージが出てきた。 

 能は平面的な動きの感じがするけど、実際はどうだったかしら? 腰を落として中腰。日本人のイメージする太極拳(陳式ではなく簡化式の類)はもしかしたら能に近いのかしら?

 

 そこで、その場でyoutubeを検索して適当に能の動画を選んで師父に見せてみた。どう見えるのかしら? 

私は能の知識は全くないので、上の演目が何かも知らなかったのだが、この動画の5分あたりから真ん中の人(これは狐のお化けだったと後で知った)が動き出したら師父はじっとその動きを見ていた。横から私が「能は武士の芸能だったのですよ・・・京劇とは違うでしょう?」と言ったら、「武士がこれを好むのはよくわかる。ずっと丹田が沈んでいて全く浮かない。これを見た後に戦いに出られそうだ。」と言って、師父は立ち上がって、能の歩き方の真似をしてみせた。「彼らは跳んでも沈んでいる。」

跳んでも沈んでいる? どういうことだろう? 

 師父は、戦うものはただ高く跳ぶ、ということはない。跳んだらすぐに降りてこなければダメだ、と言った。・・・確かに、実践ではそうだ。

 

 能はかなり気に入ったらしい。師父はもともと”武”の意識の強い人。能の謡いはズンズン丹田に響く。能の動きは沈み続けた丹田を中心としている。丹田を沈めるから、上半身が軽くなる。身の捌きが鋭くなる。武に通じるところがある。功夫が必要な芸能だ・・・そんなことを言っていた。

 

 思いがけず、”沈”の話が出てきた・・・

 あの『逢転必沈』の”沈”だ。

 

 最後に、「太極拳も能と同じように、ずっと丹田を沈みこませ続けるのが良いのか? そうすべきなのか?」 と聞いてみた。すると師父は「ちょっと違う。沈んでいても回転させる必要がある」と一言。

 沈ませて静止させるのではなく、沈ませても動かさなければならない。

 言葉でそう表現すると分かったような分からないような気がするが、実際に、丹田を沈ませて静止させたまま歩いてみて(能のような歩き方)、それから、沈ませた丹田を回転させながら歩いてみれば、内側の身体の感覚の違いが分かる。

 沈ませて静止させたままでは関節の開きに制約が出る。実戦向きではない。

能は制約をかけた動きの美、動態の中の静態、というのを表現しているのかもしれない。開放感バリバリのラテン系ダンス、サルサ、とは対極にある。丹田を沈ませて静止させることで骨盤の動きに制約をかけている。太極拳、実戦なら丹田を骨盤の中に沈ませても骨盤の中では動きがある。

 

 

能の動きの特徴は”沈”。

 足袋を履いた足の動きがとても美しい。

 

 太ももがパンパンになるような中腰の仕方をしていたらこんな機敏な足さばきはできないだろう。

 これが中腰でも膝に全く負担のかからない姿勢・・・7/5のメモで紹介した整体師が膝に最も悪い姿勢として中腰姿勢をあげていたけれど、この能のようにすればいいのでは?(が、この真似をするためにはかなりの練習、功夫が必要。)

 

 

  足が常に機敏に動ける、という中腰を目指す。そのための”沈”。丹田だ。

2021/7/19 <地面から反発力を得る、について私見>

   

 「地面からの反発力を得る」というのは太極拳にとって最も根本的、核心的なことだと思う。地面からの反発力を得ることによって、体の中がバネ状になり、瞬間的に鋭い発勁が可能になる。

 

  例えば・・・

  トランポリンだとものすごく高くジャンプができる。が、反発力が強すぎて、体が丸ごと跳ねてしまう。体の内側の勁を感じることはできないだろう。それに対して、最近の体操選手が床運動で使う床マットは昔よりも理想的な弾力性があるらしく、それによって昔はできなかったような技が可能になっているという。そのような適度な床、地面の弾力性は体の中の弾力性を大きくする。

  ジョギングシューズなどはとてもクッションが良い。靴も競技に合わせて様々な工夫がなされている。

  私は以前、娘のニューバランスのクッションの良い靴を借りて練習に行ったことがあったが、歩いている時は履きごごちがよくても、いざ太極拳をやったら足裏で地面を感じられなくて、こりゃだめだ、と一回で履くのをやめてしまったことがある。クッションが良すぎると体の中に地面の反発力、当時なら、地面からの気を吸い上げられない、そんな気がした。

  では、裸足が一番良いのか? というとそれも疑問。まず、師父を含め、中国人はよほどのことがないかぎり裸足で運動しない(はず)。家の中でも私たちと違って、すぐに靴を脱ごうとはしない。師父などを見ていると靴下はよほどのことがない限り脱がない。

  昨年だったと思うが、私が一時期公園で裸足練習をしていた時、師父はそれを見て、「その練習も得るところはある。が、気を沈めることができないなぁ。」と横で言っていた。確かに、あまり深く沈むと足裏に砂つぶがささって痛いから沈む前に動いてしまっていた。芝生の上ならマシだったが、でも、今思えば、靴を履いている方が安心して足裏(踵)を使うことができる。日本の太極拳のマスターが、「中国武術には靴が大事だ、日本の武道とは違う。」と言っていたのを、今では「地面から反発力を得る」そしてそれを可能にする『力起于脚跟』(力は踵から)という観点から納得ができるようになった。

  

  足には地面を押してその反発力を体内に引き入れる、という役割があるけれど、そのためには足裏の敏感さ、そして足裏アーチが必要。

  ここで足の虫様筋の重要性を思い出した・・・・(→最後に補足)

 

  太極拳の練習が体づくり(タントウ功や内功)に時間をかけるのは常に地面の反発力を得られ続けられるような体を作る必要があるからだろう。

  『力起于脚跟』(力は踵から)は「地面からの反発力を得る」ということに他ならず、『力は踵から』を可能にするのは『逢転必沈』、すなわち、”転換する時”(動きを変える時)には必ず”沈む”ことだと知った。

   

  確かに・・・立位からジャンプしようとしたら、私たちは、一度”沈む”。

  沈んでからジャンプする。

 『逢転必沈』によって『力が踵から』(地面の反発力を得る)となっている簡単な例だ。

 

  でも、私たちは、このジャンプする直前の”沈む”動作で何をやっているのだろう?

  この沈み方の上手い下手で地面からの反発力の得具合、ジャンプの高さが変わってくるだろう。

  ”沈む”は次の気になるトピック。

 

 <補足>

  そのうちまた触れると思いますが、地面の反発力を得るのに、足裏アーチの強さ、虫様筋の強さは不可欠。足が弱いと反発力が得られない。だから、最初にタントウ功で何が何でも気を足裏まで下ろして足を強化する鍛錬をするのだと思います。足裏まで気を落とす練習をしていると、足が分厚くなる。薄っぺらい足ではなかなか力が出ません。バレエダンサーが入念に足を動かし鍛錬するのと似ています。馮老師の裸足を見てみたかった・・・・

  下のブログは足の使い方について参考になると思います。

   https://kikoukairo.com/archives/2237

   

  途中に”踵を遠くへ押すようにして、結果、アキレス腱を伸ばす感覚が必要なんです。”とある、”踵を遠くに押すようにして”というのはとても大事。これによって結果的につま先まで使えるようになる・・・

  

  足は太極拳の練習とは別に、家で毎日少しずつ鍛錬するべき。足(foot)が弱くなると片足立ちも安定しません。足腰が弱る、と言った時に、腿だけに注目せず、 footに気を配るのがとても大事だと思います。

2021/7/16 <この半月のメモの足跡を整理>

 

  ここしばらく足のことを書いているが、かなり散漫になってきたので一旦整理。

 

  今月に入った時は眼法の話にハマっていた。

  自分の中でひと段落した頃、子供の転け姿が目に入り、そうだ、眼法の根幹にはお尻があった、と思い出した(7/4)。

 

  ここで読者の方から、動画が紹介された。 

  膝が悪い人がやりがちな動きVS地面の反発力を得る動き。

  太極拳でよくとられる体勢(ゆっくり、中腰)は膝が悪くなる典型では?(7/5)。

 

  ここから、膝に負担をかけない『地面の反発力』を得る動き、について考察を開始。

  ここが太極拳のミソであり智恵、かつ、現代の太極拳で疎かになってしまっている部分抜け落ちてしまいがちな部分。

  地面からの反発力を得る、というのは太極拳では『力起于脚跟』で表されていると考えたので、足首、足の力、そしてその柔軟性に着目 (7/6  7/7)。

 

  そして、足とは言っても、足裏全体ではなく踵骨を使うこと、すなわち、足を構成する骨を分離して使えること、が『力于脚跟』に必要だ、と気づいた。踵はあたかも回転するかのような運動をする(7/9  7/10)。

 

  踵を使う、というのは(踵を地面に打ち付けることではなく)踵骨があたかも回転するように使えることだと分かったので、自転車のペダリングはどうなっているのか調べてみた。

  注目したのは、歩行なら地面から踵が離れる時点(『力起于脚跟』の時点)。

  ペダリングでは ”引き上げ回す”と表現されていた。足裏にペダルが吸い付くように回転させる。そのためには、足首のある程度以上の柔軟性が必要だ (7/11)。

  

  そして街中大人、子供、そして師父の歩き方をチェック。

  子供の踵はくるっと回る。大人は回らない。師父の歩き方は、子供より足に重量感があるが、大人のように引きずった感がなくどこか軽快だ。足裏が最後まで地面について最後に踵がくるっと回る。 ここで、股関節と踵が繋がっていて、股関節の回転と踵の回転がシンクロしていることに気づく(→これが足首の柔軟性に結びつく)(7/12)。

翌日、股関節と踵の回転のシンクロを馮老師の歩き方で検証。

 

  歩行の時も、脚は前後に動くのではなく(伸展、屈曲の繰り返しではなく)、回転している(股関節が回転している)のだと気づく。

  脚もポン→ジ→リューアンをする(7/13)。

<補足>

 起式の時の ポン→ジー→リュー→アン(逆回転=前回りの円)。

 

 この動画(https://youtu.be/bRX8jqHj8AI)の2分前後の字幕は 「ポン リュー ジー アン」 の順に書かれているが、馮老師の動作の順番はそうではないのことに注意。(ポン→リュー→ジー→アン は順回転=後ろ回りの円の時の順序)

 

   このように回転させていると、いつでも蹴りが繰り出せるようになる。

  例えば歩きながら蹬脚が随時可能・・・足は常に機敏に動けなければならない。

  ただどっしりとした重い足では武術にならない。安定感のある下半身づくりは機敏に動けるようにするための基礎(7/14)。

 

  そして新たに師父から教わった『逢転必沈』。重心転換の時は必ず沈む。(7/15)

  中国のサイトではこれについてたくさんのブログが書かれているが、日本ではあまり知られていないのかもしれない。私も聞いたことがなかった(師父にとっては当たり前のことだったらしいが。)

  

  ここで『力起于脚跟』の大事な要素が判明。沈まないと踵から力は発揮できない、言い換えれば、沈まないと地面からの反発力が十分に得られないのだ・・・確かに、ジャンプする時、私たちは少し”沈む”。

  といっても、”沈む”って何なのか? ただ膝を曲げるのが沈むことではない。身を屈めるのが沈むことではない。ジャンプする直前に私たちがやっているあの動作は何なのか?

  ・・・と、ここで、『気沈丹田』に話が戻ることになりそうです。

  次回は何が沈むのか、どこに沈むのか、そのあたりを書きたいかと思っています。

 

 以上、この半月の足跡でした。

2021/7/15 <逢転必沈と収脚>

 

 歩法において『収脚』というのがあるというのを読者からのメッセージで知り、それについて師父に尋ねた時に撮影した動画をアップします。

 結論的には『逢転必沈』が『力起于脚跟』と結びつく。『収脚』は『逢転必沈』に付随するものと見た方がよさそう。『収脚』は意識すべきではない。『逢転必沈』すれば『収脚』が現象として現れてくる、と理解するのが良さそうです。

2021/7/14

 

  蹴りは至る所に隠れている・・・そういえば、太極拳の一番の凄さはその歩法にある、と聞いたことがあった。「師は弟子に手法や身法を教えても歩法は教えない」という言葉があるくらいだ。

 太極拳の技をよく見ると、空手のようにただ拳で打つような技は少ない。太極拳らしくない。ジーしながら足はしっかり相手の足を封じていたり、差し込んでいたり、掃腿で払ったりしていることが多い。足は機敏でなくてはならない、と師父はいう。足、腿が器用に動くような体はとても若々しい・・・

 

 師父に蹬脚について質問した時の様子を撮った動画をアップします。

 太極拳で最初に学ぶ套路は蹴りや跳ぶ動きが少ないので下半身が重くなってしまいがちだけど、本当はこんな風に動くことが想定されている。ここでどう蹴れるのか?なんて考えながら套路をすると、全身の動き方が変わると思います。参考にしてください。

   

2021/7/13

 

   師父は歩行時に股関節の球が回転していた。股関節を回転させられると踵(足首)も回転する。股関節と踵は非常に密接な関係がある。(股関節と踵が発生学的にシンクロしている、ということについて以前どこかで書いた。カエルの骨格図を見ると一目瞭然だ。)

 

 一般の大人は歩行時に股関節の球は回転させていない。腿を前後に出して歩いている。関節の意識はない。股関節と踵の連動が切れている。

2021/7/13 <股関節の回転と足の回転のシンクロシティ>

 

   師父は歩行時に股関節の球が回転していた。股関節を回転させられると踵(足首)も回転する。股関節と踵は非常に密接な関係がある。(股関節と踵が発生学的にシンクロしている、ということについて以前どこかで書いた。カエルの骨格図を見ると一目瞭然だ。)

 

 一般の大人は歩行時に股関節の球は回転させていない。腿を前後に出して歩いている。関節の意識はない。股関節と踵の連動が切れている。

 

馮老師はどうだろう? と見てみた。

 

この速さでは分からないのでスローモーションにしてみると・・・→下の連続画像へ。

 

 なるほど、思った通りかも。

 

パッと見ると上の画像の3、4あたりは、サッカーボールを蹴る直前のような姿・・・これが股関節が効いている(回転している)証拠。

 

1、2、で地面を押して離地が始まり(リュー)。

3、4で足が持ち上がる(ポン)。

上がった足は5、6、7で前方へ(ジー)。

7、8で接地(アン)。

 

足首は自転車のペダルを踏むような動きに近くなる。

 

最近見たテレビ番組の中での林先生のウォーキング。

 右足が離地して最も高く上がったところ(左端画像。馮老師画像の4、5あたり)から、前方にジーすることなしに、そのまま右足が落下する。

 これが一般的な歩き方。

 

 つまり、馮老師や師父の歩き方は、『ジー』がある(馮老師5~7あたり)というのが特徴的。しかしそれこそが太極拳の歩き方。

 そして普通の歩き方の場合、ジーがなければ、その対極にあるアンもない。すると、ポンとリューの繰り返し。上げて下げて、という歩行になる。『力は踵から』には地面と設置するアンが大事だとしたら、一般的な歩き方は地面からの反発力をほとんど得ずに自分のマッスルパワーだけで歩いているのでは?

参考までに、番組で冨永愛が見せてくれたウォーキングはファッションショーでよく見る歩き方。踏みしめて踏みしめて、力強く歩く、という歩き方だ。『リュー→アン』が強調されている歩き方。

踏みしめる(跺脚)と地面の反発力は得られない。

 

  下の動画で、『力は踵から』と股関節の回転の関係について説明を試みました。股関節の回転が踵(足首)を回転させるし、踵の回転が股関節を回転させることもできる。股関節と踵が”合った”感覚を掴むのが非常に大事だ。

2021/7/12 <師父の歩き姿 連続キック?>

 

 この数日、人が歩く時の踵の持ち上がり方に着目して盗撮を繰り返していた。『力于脚跟』というのだから、踵が持ち上がる時がキーになるだろう・・・

 昨日は練習の帰り道に師父の歩き姿を盗撮。見慣れた歩き姿で、踵が特にどうってことないなぁ〜、と思ったのだが、家に帰ってから、スローモーションで見たら、あれ?これは・・・と驚いてしまった。

 

 下にいくつかの歩き姿のGIF画像を載せます。

 上の段は師父と子供、そして下の段はその他大人。

 子供と大人の違いはどこか? そして師父の歩き方の特徴は? 

 

子供は撮るのが憚れるので少ししか撮影できなかった・・・

が、この親子の歩き方は似ているようでどこかが違う。撮影してスローで再生してみて初めてその違い、大人と子供の違いがはっきりしました。

 

 その後、師父の動画をスローで見たら、子供の歩き方を同じような箇所を発見。

 

 

 

 後ろ足の踵が地面を離れた時(離地)の体勢が大人と子供は違うようだ。

 

 師父の体勢を見ると、後ろ足はこのまま前方に蹴り上げることができそうではないか?!

 そう見ると、子供もそのままボールを蹴れそうだ。が、一般の大人達は・・・蹴れなさそう。蹴るつもりなら、そのように歩き直さなければならないだろう。が、師父は普段歩いているそのままのフォームで蹴ることができる。言い換えれば、前蹴りの連続で歩いている?

 

 どうしてそう感じるのだろう? ああ股関節だ。

 

 実は踵は踵だけの問題ではない。股関節と密接に関わる。股関節と踵がダイレクトに連動しているのが師父や子供。だからキックが可能に見える。大人の場合は・・・ここから先のペダリングと関連しそうな話は日を改めて。<続く>

2021/7/11 <自転車のペダリングを参考にしてみた>

 

 気になっていた、歩行と自転車のペダリングの時の足の使い方の比較。

 

 まず、『力于脚跟』は歩行のどこの段階で問題になるのか、を絵を使いながら整理してみた。

 

 

  上のように歩く人の右足だけに着目すると、その足の動きの軌跡は円になる。「力は踵から」となる部分は、上の絵の6→1→2のあたりだ。右足が接地してその右足を支点に身体が前方に移動していく、その間に、右足は地面からの反発力を得る準備を整えることができるのだろうけれど、果たして私たちの普段の歩き方で地面からの反発力は得られているのだろうか?

  1→2で踵が上がるところがキーかと思ったのだが、ここは自転車でのペダリングでも大事な箇所なはず・・・そもそも歩行時と自転車のペダリングの時の足の使い方は似ているのではないか?と、ペダリングについて少し調べてみた。

 

 気づいたのは、サイクリングをする人たちにとっては、いかに疲れず走れるか、というのが関心事項だということ。疲れるのは、踏み込みの時の前太ももにぐっと力がかかるから。だから、その踏み込み時のかかる力を減らすか、というペダリングの方法論がいたるところで紹介されている。(これは、太極拳の体重移動で、進行方向の腿にぐっと乗り込んでしまう、膝を痛めてしまう、という問題と似ている。)

 

 女性向きには、どうやったら競輪選手のような太ももにならずにサイクリングを楽しめるか?という観点から、男性や本格的にロードバイクを楽しむ人たちには、どうやったら最後まで疲れずに力を残しておけるか、という観点から論じられているペダリングの方法は共通点がある。

 自転車についてはど素人の私でもすぐに理解できたのがこのサイトの説明(https://jitensha-hoken.jp/blog/2020/05/difference-between-rowing-and-turning/) 図でまとめると下のような説明だ。

 時計でいうと3時から6時、9時から12時は脱力していく区間。これは分かりやすい。

 問題となるのは、12時から3時の”踏み込み”、そして6時から9時の”引き上げ回し”だ。

 このサイトは女性の初心者用の説明だったので、6時から9時の”引き上げ回し”については深く説明はなかった。まずは、12時から3時、ここで、「踵を上げ気味にして、水の中にポチャンと足を差し込むように踏む」ということだけ練習させていた。そうすることで、踏み込む時の太もものギュッとなる力を削ぐ意図だ。

 

また別のサイトでは、踵で円を描くように、という説明がされていた。(https://funq.jp/bicycle-club/article/10462/

 

 なぜなら・・・

①踵で円を描くと足裏が全体でペダルを踏める→力が(クランクの回転に)伝わり続ける (下図左)

 

 ②つま先で回すと力が伝わらない部分ができてしまう。(下図右)

 上図の左のように踵を保ち続けると(足首が落ちていない)ペダルの回転がそのままタイヤの回転、自転車の推進力へとなっていくという。

 右のように、足が落ちると(足首がぶら〜っとなってしまうと)、そこでは力が伝わらず自転車の推進力とならない(ペダルの回転とギアの回転が”かまない”部分がでてくる)。

 

 ただ、その他の人の説明をざっと見ると、人によって、レベルによってどこを意識するかは違う(踵を意識している上級者はいなさそう)が、結果的にフォームは似てくる。脱力が大事、というのは誰もが言うところ(太極拳と同じ)。

 私が実験してみて気づいたが、6時〜9時(一番最初の歩行シルエットの1~3)で踵、アキレス腱を使って”引き上げ回す”なら、着地時12時〜3時(シルエット4)の時に太ももを固めてはいけない。ここで太ももを硬くすると6時の地点に来た時に足首が固まってその後アキレス腱が伸びず踵が使えない。アキレス腱の伸びがなく踵が使えなければ、前に脚を降り出して着地に向かう時に太ももに力が入ってしまう。悪循環。

 このあたりの余計な力が入る感覚とか、逆に脱力ができている感覚は、歩行よりもペダリングの方がわかりやすいのかもしれない。

 

 今日師父の歩く時の足運びを写させてもらって、家でスローで見てみたら、上のペダリング写真①と同じようなことになっていた。街で撮った人々の足は②。②は膝に負担がかかり、①は膝に負担がかからない・・・師父の歩き方を真似てみて、なるほど、と納得。次回そのあたりの話を整理しながら書きたいと思っています。ペダリングと太極拳の歩き方はとても似てそう。

2021/7/10 <踵が最後まで粘る 関節の数、回転>

 

  昨日は、『力は踵から』であって、『力は足裏から』ではない、と改めて気づいたのは大収穫だった。なんとなく”踵から”やっているのと、足裏全体ではない、と知ってピンポイントで意識的に踵の骨を使うのでは精度がかなり違う。今日の練習ではそれを確認できた。

 

  太極拳では左から右、とか、後ろから前に、と重心移動する時に、最初に体重のかかっていた軸足が”蹬”することで地面の反発力を得てその力を手まで通すことが可能になる(勁となる)。

 

  ”蹬”deng は簡単に言えば足裏キックもしくは足裏でのプレスだ。

  しかし、足裏べったりでキックやプレスをしても地面の反発力は得られない。外側の筋肉を鍛えてしまう。地面の反発力を得るには、踵でキックする必要がある。踵骨を使わないと体の内側に力が引き込まれない。ここが面白いところだ。

 

  一般のレッグプレスは足裏べったりでやるようで、やればやるほど脚の筋肉が鍛えられて割れていく。が、そういえばイチローが使っていた小山氏の初動負荷理論に基づくマシーンなら太極拳に近い動きをするのでは・・・・? と調べてみたら、思った通りだった。

 上の動画の説明では、まず伸びた両脚を内旋させておいた上で、膝を曲げる時は膝を外向きに回転、そして伸ばす時は膝を内旋させる、そして膝は伸ばし切らない(ロックしない)と言っている。そして踵をしっかり使う、という指示がある。

 

  同じような器具を使ったイチローの動きを見ると、押し込む時に内旋をかける動きがはっきり分かる。チャンスー、そして蹬脚につながるような動きだ。

  もしこれを足裏べったりでやると、足首や膝が詰まってロックがかかってしまう。

  踵を使えば距骨も回転し、足首回転、膝回転・・・と回転が連携してチャンスー勁となり、節節貫通する可能性が出てくる。

 

 

 なお、『力于脚跟』で地面の反発力を得るのは、押し込んだ後、戻ってくるところ(膝が曲がっていくところ)だ。イチローが戻ってくる時に意識的に足裏から気を引き入れているかどうかは怪しいが、太極拳の練習なら押し込むだけでなく、引き込む時も意識的に行い、ねば〜い動きをするだろう。(押し込む方は”開”、引き込む方は”合”、開合の動き)

 

 いずれにしろ、踵骨の回転を使うこと、すなわち、身体中の関節の回転を使うこと、は地面の反発力を得るためにも重要だと再認識した次第。

  

関節回そうとするとその関節を構成する骨全てが動くことになる。回せる関節が多ければ多いほど、使い勝手のよい体になる。人体模型を買おうと思った時に、その模型の関節数が多くなればなるほど値段が高くなるのに驚いたけど・・・・

 

 人間の関節の数は206個とか260個、365個とか言われているようだけれども、とにかく、できるだけ動かせるように、いや、動かし続けられるようにしたいものです。

 その中でも体の土台になる足を構成する関節はとても大事。足はたくさんの骨から構成されている。踵を使う、というのは、踵骨を他の骨から多少分離して意識的に使う、ということ。言い換えれば、足の関節を全て使い切る!と言っているのに等しいのではないか?

 

こんなイチローの体の動きを見ると、えっ?大丈夫? と思ってしまう。けど、私たちが関節として十分に使い切っていない部位を使い切ると、こんな動きが可能になる。まさに、しなる体、になる。力(パワー)よりも柔らかさ、関節の連携(節節貫通)による勁の威力を使う方向性。それは太極拳の方向性だ。

こんな風に踵(アキレス腱を含む)から徐々に足が地面から離れていくには、足の中の関節が非常に良く機能していなければ不可能だ。

普通の大人は、踵が上がったと同時に親指付け根のラインまで一気に足が上がってしまう。それでは踵が分離していない。地面の反発力は得られない。

反発力を得たかったら、普段歩いている時よりも、踵が最後まで地面から離れないように”粘る”必要がある。ジャンプする時、私たちが知らず知らずのうちにやっていることだ。

 

 太極拳の練習がまず、両足を地面につけたまま体重移動をするところから始めるのは、この、”踵ができるだけ粘る” ということを会得させるためかもしれない。

 踵の骨が起動すればそれに続く関節、膝や股関節などの使い勝手も変わるのが実感できるはず。

2021/7/9 <『蹬』の意味 力はなぜ足裏からではなく踵からなのか? 私論>

 

  「地面の反発力を得る』、ということと『力于脚跟』(力は踵から)というのは同義だが、厳密には、『力于脚跟』は地面の反発力を得るための具体的な要領を言っている。古人は、反発力を利用するには、”踵”(踵骨)の使い方が鍵を握っていると教えてくれているのだろう・・・

 

  が、力は踵から、と言われても分かるような分からないような。

  人によっては踵を地面に打ち付けたり押し付けて力を得ようとするかもしれない。

  私も以前、何度も「踵から力を出せ!」と言われたが、自分では踵の力を使っているつもりなのにダメ出しばかりされて途方にくれたことがあった(特に第7式の斜行で拗步をするところ)。その時、師父が決まって使う言葉が、『蹬deng!』(蹬脚の蹬)。でも、日本語にない漢字で、これまた分かるような分からないような感じだった。

 その後何年かして感覚的に掴んだのは、踵から力を出すには、地面をもっと丁寧に柔らかく踏むことが大事だということだった。

 しかも、もしぶかぶかの靴を履いていたとしても足を地面から離す時にその靴が脱げないように、踵を後ろに引き出すようなつもりで使う、ということだった。踵の骨の最後方いっぱいいっぱい使い切るということだった。

 そのようにしていると、次第に踵の骨とその上の骨(距骨)やその前の骨との間に隙間ができて、踵の骨(上の図の水色の部分)が少し独立して動く(回転)するような感じになってくる。踵の骨が少し回るようになってからは、師父からそれほど注意を受けなくなった。(うっかり忘れて注意を受けてもすぐにそれをやって見せることができるようになった。まだ意識していないとできない段階・・・・。)


 師父の言う”蹬”の意味が感覚的に分かってきたのだが、
 改めてその意味を調べると面白いことに気づく。

 

 日本語で ”蹬”という漢字は使われないが、よく見るとこれは足偏に登。山を登る時のように足を背屈させた状態でキックするのが”蹬”ということだ。

 (ちなみに、中国語では、蹴る、の”蹴”という漢字は使われていません。ボールを蹴るは「踢球」。 「踢ti」が日本語の蹴るという意味。日本語で「地面を蹴る」、と言うけれど、「地面を踢する」ということは考えられない、と師父は笑ってました。「踢」は力が前方あるいは後方に向かうイメージ。「蹬」は下向きに押すことによって上向きに力を得るようなイメージ。そして「踏」は下向きオンリー。そんな感じのようです。)

中国語で”蹬腿”といえば、蹬腿力量を訓練する器具としてレッグプレスマシーンが連想されるようだ。

 

 ん? これは別に踵の力を使っているわけではなさそう。脚の筋肉モリモリ。節節貫通の太極拳では絶対にやらない練習・・・

 

 ここで気づいたのが、なぜ、『力は踵から』と言い伝えられてきたのか。なぜ『力は足裏から』ではないのか。

 足裏全体をべったり付けて押してしまうと、この写真のような脚、筋肉で分断された脚になってしまう。全身を勁で貫く体を作れない。

 

 やはり踵の骨を少し動かして使えないと地面からの反発力を体の内側に吸い上げられないだろう。踵の骨を動かす、ということは、足の基底部の7つの骨を使えるようにすることに他ならず、やはり、足の開発(健康)はとても大事だ、ということだ。(私も目下足の修理に最も時間を割いています。)

 

 

 子供の場合は足を構成する骨がまだ癒着していないし変形もしていないから、踵の骨もクルっと回る。しかし私達大人の足の場合は一塊りの石のようになっていたり、(私のように)自由勝手に使いすぎて変形してしまっていたりしてなかなかやっかいだ。

 しかし、太極拳の練習の時に、、踵の骨を少し後ろに長く引き出すような意識で”蹬”するようにしていると、少しずつ骨も動いてくる。踵(足の基底部)がしっかりしてくると指の変形も少しずつ改善する。

蹬脚の時も踵の骨を瞬間的に引っ張り出してキックすることが必要。ただ脚を高く上げても蹬脚とは言えない。ただ足を背屈させるのではなく踵を突き出して丹田の気を発さなければならない。蹬脚で発勁する練習も必要(左は馮老師の蹬脚。電気が走るかのような瞬間技。この素早さ:節節貫通が太極拳の売り(だからゆっくり練習している)筋肉もりもりではできない。)

 蹬脚は英語でいうとheel kick。踵でキックする踵落としだって踵の骨をぐっと引き出してやるだろう。

 陸上のクラウンチング・スタートの時も足裏で蹴っても最後までアキレス腱の伸び切るように踵が残る。踵の骨が最後にクルッと回ってその後ろ足がものすごい速さで腹の方に引きつけられる。

 ジャンプもただ足裏で跳ねても大して跳べない。最後までアキレス腱、踵が残る・・・バスケットのシュートでも同じような足の使い方をするはず。

 

2021/7/7 <足首とヒールの可動域、柔軟性>

 

 今日は街中で子供が歩く時の踵=heelばかり見ていた。

 (そう、踵は”ヒール”だと思うとイメージが変わるかも?)

 

 

 前に出した足が後ろになって、そして再度前に動き出す時(バックからフォワードへの転換点)、子供のヒールはくるっと小回りする。だからなんだかパタパタ歩いているような感じがする。自転車のペダルを漕いでるような。


 大人だとヒールは回転しない。持ち上げられたヒールは落ちるだけ。(スリッパを履いて歩いている時のような感じがしないでもない。)

 

 足が後ろから前に移動する転換点を比べるとよくわかる・・・

大人は左の線で示した部分が硬直してほとんど動かない。子供はまるでサッカーの球を蹴っているかのような足の使い方だ。足首以下がぶらぶらしている。

 

子供には足首の回転:踵骨、距骨、それ以下の足の中の関節の動きがある。

大人は足首以下の”足”が一かたまりの石のようになりがち。

 

ここで改めて馮老師の足首やヒールに着目してみる。


 どうだろう?足首やヒール、足がとても柔らかく感じないだろうか?

 子供の足にはないどっしり感、地面に貼り付く感がある一方で、子供の足のような柔らかさも残している。

 

 もう少しスローで見せる必要があるが、実は、『力はヒールから』を可能にするには、足首の柔軟性がとても必要になる。足首が硬いと地面からの反発力を得られない。

 

 私の娘がこちらで最近久しぶりに自転車に乗ったら、足首が硬くなったせいでペダルから足が離れてしまって大変だったと言っていた。昔はペダルに足が吸い付いていたのに・・・と。

 ペダルがどんな角度になっても足がその上で吸い付いたようになるには足首のそれなりの可動域が必要。同様に、地面の上でどんな体勢になっても地面に足裏が貼りついたようになるには足首の柔軟性(足首の柔軟性は足の中の関節の柔軟性と多分に関連する)が必要になる。

 

 馮老師の足は本当に地面に吸い付いたようになっていて見ているだけで惚れ惚れする。

 どうやればこんなことが可能になるのか・・・太極拳の練習で目指すところ・・・<続く>

2021/7/6 <地面から反発力を得る 力は”脚跟”から

 

 昨日の動画を見て、「太極拳、絶望的?!」と思った人がいるかもしれないけれど、基本の立ち方で、『地面からの反発力を得る位置が正しい』としっかり脳と身体に覚えさせれば、その後間違った方向にいくことはない。膝や股関節に負担がかかりそうになったらその度に修正しなくては、と気づくはず。

 

 太極拳で腰を落とすのは太ももの筋肉を鍛えるためではない。足腰を鍛えるために太極拳をやろう、と思ったら最初から間違っている。

 結果として足腰は強くなるだろうが、身体全体で動く・・・どちらかといえば水泳をしている(実際、馮老師は太極拳を地上の水泳と言っていた)、と思った方が安全。水泳で足腰を鍛えようと思う人は少ないはず。

 

 太極拳で腰を落とすのは、よりたくさんの地面からの反発力を得るため、と考えるべきだろう。そのために様々な要領が言い伝えられてきている。それらの要領はルールーではない。それらは、地面からの反発力を得て余計な筋肉や関節の負担がかからないような身体の使い方をするための指標だ。なんで沈肩が必要なのか? なぜ松胯が必要なのか? なぜ含胸が?抜背が?・・・なぜ丹田が必要? 全ては同じところ、最も無理なく自然で最も合理的な動き方、に行き着くはずだ。

 

 地面からの反発力を得る、というのは太極拳の核心ともいえる『節節貫通』とか『周身一家』『体のポン勁(張力)』を支える不可欠な要素。

 反発力を得るのは、上から下向きに力を下ろす必要があるのみならず、地面へと降りていった力を上に引き上げるような体の使い方が必要だ。上→下には、沈肩、含胸、抜背、松腰、松胯、曲膝、など、放松系の要領が揃っている。一方、地面から力を引き上げるには、湧泉、会陰、舌、頭頂を引き上げるための要領がある。

 と、理論的に考えるととても難しくなってしまうのだが、軽く跳ねていると反発力を体験できる。どのようにすれば膝や太ももの力でなく足裏で跳ねられるのか?足裏をとても敏感にして足裏から股関節、あるいは腰にダイレクトに力が伝わる場所を探してみるとよいと思う。

 

 そんなことを考えて動画を撮りました。

 地面からの反発力を得るには足裏、足首の強さが必要。

 『力于脚跟(力は踵から)』、というのは「足裏で反発力を得る」ということを言い換えた表現だろう(つま先では反発力は得られない。脚跟=足の踵の骨全部、を使え、と言っている)

 そして撤歩。とっさに後ろに飛び退く動作はまさに地面からの反発力を使ったもの。

 立ったり歩いたりする時に反発力を得ることを心がけるのも立派な練習だと思います。

<追記>

 書いた後に、もしかして? と心配になったので念のため。

 『力は踵から』と言った時の”踵”はどこ?

 

 ひょっとしたらこんなイメージを持っている人はいないかしら?

 

 私たち日本人の足のイメージは平べったいから、ともすると、踵は左の青丸の場所のように思うかも。

 

 

 しかし、中国語の脚跟は踵骨のことをさしているから、英語のheelもそうだと思う。左の図のように3Dでイメージする必要がある。

脚跟は上の包帯の緑で囲んだL字の部分。

 

そうすると、気づくのは、踵と足首(アキレス腱)は一体化している、ということ。そして、もちろん、踵は足裏へと繋がっていく。

 

地面からの反発力を得るにはアキレス腱や足裏の膜、腱などがしっかりしている必要がある。

(踵の骨だけ使っていたら踵が痛くなります。)

2021/7/5  <赤ちゃんの動き or 老人の動き?>

 

 昨日のブログを見て、読者の方から面白い動画を紹介してもらった。

 

 膝、股関節に問題のある人は膝、股関節をかばいがち。かばうから筋肉が硬直してさらに関節の隙間が狭まってしまう。かばってはいけない、動作を速く、大きく、そして力を抜いて行うことで日常的に筋肉をストレッチする癖をつけるべき・・・

 

 そんな主張をしている整体の先生の動画だ。

 その中でどのように座り、立ち、歩くか、が説明されているのだが、その座り方(腰のおろし方)が昨日の赤ちゃんの動作にそっくり、ということだった。

2021/7/2 <内三合 心と意が合う、心意と目光の動向が合う>

 

  『眼が先に動く』、と言うのは太極拳(内家拳)の眼法ではっきり述べられている。(6/30のメモに馮老師のテキストの該当部分の抜粋を再度下に載せます。ちなみに、馮老師のテキストの総論部分は基本的にそれ以前の伝統的な経典を焼き直した内容になっている。中国で太極拳を本格的に学ぶ人なら皆どこかで聞き、目にしているような語彙や言い回しがほとんどのようだ。)

 

 目は心を伝える器官である。

 一度心が動けば目に伝わる。

 眼法が先、即ち、眼法は身、手、歩を導き、心、神、意を導く。

 一般的に言われるような、「眼が手に随う」のではない。

 眼法が先、それが眼法の練習の要求であり、それによって功夫が高まる。

 

  

  昨日私は、なぜ眼が一番先に動かなければならないのか、を、解剖学的な身体の構造の面から裏付けてみたけれど、経典ではそんな説明は一切ない。経典ではもっぱら心と意との関係から眼法が述べられている。

 

 目は心の苗、心と眼は合する。

 目光は心意の動向と一致しなければならない。心が向かう方向に目は向かう。

 心に感覚があれば意は必ず動く、意が向かう方に全ての神(目のエネルギー)を貫注する。

  

  眼法では『眼は心の苗』と言う。それは私達がよく耳にする「目は心の窓」(byプラトン)というのとほぼ同じで、心の動きは眼に表れる、ということ。

  が、眼法の記述はそこにとどまらない。『目光は心意の動向と一致する』とあり、さらに、「心が向かう方向」そして「意が向かう方向」に目が向かう、ということが述べられている。

 

  ここで、心と意の関係が問題になるのだが、それは内三合と呼ばれるものを知っていると役に立つ。 内三合とは、心と意の合、意と気の合、気と力の合、だ。

  心、意、気、力 このうちの、意と気の関係、気と力の関係、については以前どこかで詳しく書いたことがありそうなのでここでは簡単に触れるだけにします。

  

  太極拳の練習をしていって、内側の”気”が分かるようになると太極拳(内家拳)に”入門”したと言われる。筋肉の”力”、でない身体の内側のエネルギー(気)を錬る練習に入っていく。この段階で、力と気の違いがはっきりする。違いがはっきりしているからこそ、後々、それを”合”(合わせる)必要が生じてくることになる。

  同様に、その次の段階に進むと、自分の中で意が気に対してどのような作用を及ぼしているのかを気づくようになってくる。気を錬るにしろ、運用するにしろ、気に対して意が徹底的に重要な役割を及ぼすことが分かってくる。次第に気ではなくて意を通す練習に変わってくる。この段階で意と気がはっきり区別され、後々、意と気を”合”する必要が生じてくる。

  そして、心は意の先(元)にある。

  この心と意を合わせたところに眼法がある。だから、人によっては眼法を心法と呼ぶことがあるという。

  心と意の関係を自分の中で観察するのは大変だが、心が思っただけでは拳が出ないのはすぐに分かると思う。心→→→→力 で、心で思ったことが力になるにはその過程を経なければならないのだ。

 例えば、心の中で「掃除をしようかな。」と思う。 が、そう思っただけでは身体は動かない。

その思いはその場で漂っている。が、それが、「よし、するぞ!」と決心した時、それは”意”になる。意思がはっきりし、そこで初めて行動の方向性が定まり、脳からリニア(直線的)なエネルギーが指令として発出する。意は火で象徴される。この火が気(身体を動かすためのエネルギー)を焚きつけそれが外側にパワー(力)として現れ、重い掃除機でも(フランスの掃除機は大きくて重い)ぐいぐい引っ張り回せるようになる。

 

 『心と意が合う』、すなわち、心で感じたことが即、意という方向性のあるエネルギーになる。これが内三合の第一の合。

 その心と意が合体したものと目の光の動向を合わせる、というのが眼法の説くところだ。

 心意の動き、方向と目光(目がピカッと輝いているような状態)が合っている時、目はよどみなくブレがなく、司令塔として身体を操ることができる。

 

 経験的にわかるのは、例えば、卓球の試合の中で、ああ、ミスった!と思った瞬間、心が震えて萎縮し意と乖離してしまうことがあった。そうすると身体もバラバラに動いてさらにミスを呼んでしまう。ミスをしても心と意が合ったまま、しかも目もしっかりその場の状況を見ていたなら、心の萎縮も免れるのだろうと思う。心を一人ぼっちにするとどこを彷徨うか分からない。心は意と目とに連動させて方向性を持たせておくのが冷静さを保つ秘訣なのかと(書きながら)思いました。

 ジェットコースターに乗った時も、目をつぶってしまわずに、心意目を三位一体にして、つねに進む方向へエネルギーを集中させていれば恐怖感は襲ってこないのか(も)?

 

 心や意という非物質的なものを、目という物質的なものに結びつけて眼法としてしまうところが中国文化っぽいと思うのだが、心や意を操ることを試みるまえに、目を操る、目を鍛錬することを試みたほうが分かりやすいのかもしれない。

 

 意(火)には方向性があり、目(光)にも方向性がある。意も目(内収すると眉間の奥)も上丹田、脳内に位置する。脳は司令塔だが、指令には方向性が必要だ。

 脳が司令塔として機能していれば、すなわち、脳に方向性があれば、目がぼや〜っとしたりはしないのだろう。方向性を失うと目に勢いがなくなる。脳に方向性を与える、目に方向性を与える、というのは高齢者になればなるほど重要な問題になってくる。心と意を合わせる、心を常に意に変えられ続ければ脳の老化は遅らせられるだろう。上丹田の練習は痴呆症の防止とも関連するはずだから私自身とても興味がある。少しずつ練習の方向性もシフトしていくかもしれないなぁ。

2021/7/1 <目が先に動くと脊椎が連動する>

 

  なぜ目が先に動かなければならないのか、について解剖学的な説明がある。

  私がこれを知った時、目から鱗だった。

  私なりに図示してみました。

 

  まずは予備知識としての頚椎・・・

 まず、私達の頭蓋骨は頚椎一番の上に乗っかっている。

  そして、面白いことに、私達の頚椎1番2番は単純に首を回しても動かない。単純に首を回すと動くのは頚椎3番以下、メインは456番あたり。頚椎1、2番を動かしたければ目玉を動かす必要がある。6/18のメモで紹介したストレートネックのセルフ解消対策(動画)はそれを前提にして目玉を動かすエクササイズを紹介していた。

 

  補足だが上の右側のツボの図で、頚椎一番のラインに風池のツボがあるが、ここは目のをとり頭をすっきりさせるツボごして有名。

  自分で目玉を動かすとこの風池のあたりの奥が動いているのも実感できるはず。

 

  以上を前提として本題。

  目(目玉)を先に動かしてから頭を動かすのと、目玉を動かさずに頭を動かした時の脊椎の動き方の違いは下の図のようになる。

  目玉を先に動かしてそれに引っ張られるように頭を動かすと、その下の脊椎が連動して回転する。(当然のことですが背骨を正しく立てられているのが前提。猫背では連動しません。)

  一方、ただ頭を左に向けると頚椎の下部が回転するだけで、それより下の胸椎や腰椎は連動しない。

 

  これは解剖学的な話だが、自分でやってみるとなるほどその通りと実感できる。

  私が真っ先に思い浮かべたのは、後ろから肩をトントンとされて咄嗟に振り向くような動作。下手すれば首に熱い血が走ったようになりしばらく首の痛みに苛まれることになる。これは頚椎だけを捻った、いわば頚椎の捻挫。上の右の図の例だ。

  右側のような例は普段の生活で使われてるかなぁ?思い出したのは、学生の頃、後ろの席の子の勉強を手伝ってあげようと身体を捻った時の感じ。その時は目で身体の捻りを引っ張っていたと思う(180度振り向かなきゃならないからそうせざるをえないだけ?)が、バレエのピルエットのように回転をしなければならない人たちにとっては、目が真っ先に侵攻方向に向く、というのは当然のことだろう。目線を間違えると背中もうまく反れないし脚も上がらなくなってしまう。私達一般の人から見ると信じられないような身体の形を作るのだが、それを分析すると目線や脊椎の捻りなどをうまく利用しているのが分かる。

左のようなポーズも、そのような目線があるから可能になる。目は手指の先の遠くを見ている。そうすることで身体(脊椎間)が伸び、自然に脚も引き抜いて上げていくことができる。

もし、この女性が上げた手の指先に目線を固定していたら、脊椎間が伸びないので腰が詰まって脚が上がらないだろう。いて伸ばすことができない。

 

太極拳でも目線はとても重要だ。

しかしその目線は、バレエやフィギュアスケートのように目線を遠くに向けて身体を引き伸ばす、というものではない。目を内側に引き込んで対象を見ることにより目線を広げ脊椎の伸びを可能にしている(抜背)。かつ、重心を下方に下ろし安定することができる。

 

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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