2021年6月

2021/6/30 眼は心の苗 心と目の合 目が先>

 

  太極拳の身体の使い方は、手法、眼法、身法、歩法の4つに分けて論じられている。

  馮老師のテキストでは第二路の炮捶のテキストにそれら4つが説明されている。(入門テキストには書かれていない。)

 

 

  それらの中で眼法は”令旗”と言われている(右図参照)。

 眼は手、身、歩、全てに司令を与え引っ張っていく。

 眼法について書かれている箇所を以下少し抜粋します・・・(できるだけ中国語の言い回しのまま抜粋するので、漢字から意味を理解して下さい。)

 

 拳術において眼法は令旗である。

 意が眼神心意の統称であるのど同様に、眼法は眼神心意の統称である。

 眼は心の苗、目は神の窍(ツボ)である。 

 五臓の精華は目に集まる、神意は目から出入りする。

(注:神とは精気神の神、気が上丹田で昇華したもの。目の奥のエネルギー。神様ではありません。)

 

 目は心を伝える器官である。

 一度心が動けば目に伝わる。

 眼法が先、即ち、眼法は身、手、歩を導き、心、神、意を導く。

 一般的に言われるような、「眼が手に随う」のではない。

 眼法が先、それが眼法の練習の要求であり、それによって功夫が高まる。

 

 目は心の苗、心と眼は合する。

 目光は心意の動向と一致しなければならない。心が向かう方向に目は向かう。

 心に感覚があれば意は必ず動く、意が向かう方に全ての神(目のエネルギー)を貫注する。

 もし心意が上へポンをするなら、目光は上ポンをする。ポンの方向で一致する。

 心意が前方へジーをするなら、目光も前方へジーをする。ジーの方向で一致する。

 心意が円を描くなら目光も円を描く。心意が中定するときは目光も中定する。

 

 このように、普段の練習の時から、目光は心に随って意の方向へと動くようにする。

 同時に、手眼身歩法と心意の動向は一致させなければならない。

 心がよそ見してはいけない。心がよそ見をすると、意と気が散って勁が一体でなくなる。

 また、呆視(ぼおっと見ること)もいけない。ぼおっと見ると、強張って滞り意が素早く動かない。

 そして心は正、頭も正、目も正、身体全体が正でなければならない。(正:まっすぐ)

 すると二つの目の余光は全身を取り囲むことができる。

 

 

 このような文章を読むと心が洗われ気が引き締まる。

 眼法は太極拳だけのものではない。普段の生活でも実践すべきものだと改めて感じさせられる。(心、意、目をきちんと合わせると上丹田がパキッ、目がすっきりはっきり、頭が冴える。生活の中で実践していれば痴呆症を防げると思う・・・やらねば。)

 

 眼法を使うとどういう感じになるのか、馮老師の運手と一般の老師の雲手を比較してみて下さい。

 

 上丹田(眉間の奥)の眼神は心意の発露。一般的に普及している太極拳では「目は手を見る」と教えているので、上のテキストの言葉で言えば、”呆視”(ぼうっと見ること)になってしまう。敵(他者)を全く想定していない動きで至る所隙だらけの間抜けな感じは免れない。

  

 「右に行こう」と心が感じて、「右に行く!」と意(脳)が生まれた時には目光はもう右に行っていなければならない。身体や手、足はその意=目に引っ張られている。これが眼法の意味。

  分析して説明すると難しく感じるけれど、それはとても当たり前のことで、例えばボールを投げる時も、心がある標的に向かって投げようと思ったら、よし投げるぞ!と意が固まり、その時には既に目は標的の方に向かっている。目が標的の方向に向いた時には身体や手足は動き始めているだろう、が、目が一番先だ。たとえわざと目が標的を見なかったとしても(たとえばバスケットのフェイント、卓球にもよくある)、心の目と呼ばれるような上丹田の奥の目はしっかり的に向かっている。

 

 上の一般的な太極拳の動画をみて気づくのは、それらは初心者用、入門用に編纂されたものだからか動物の動きとして自然に使われる眼法が全く使われていない。そうすると、意による身体の推進力が全く働かないから、身体が亡霊のように動くことになる。意が身体を引っ張らないから身体にブレーキがかかり、少し動くと腰やら膝やらに力がつっかえてしまう。司令塔のない身体の運動があたかも太極拳だとの誤解を与えかねないような・・・

 眼神が身体全てを統べる、というのは上の写真の比較から分かるのではないかなぁ?

 目が内収していないでただ手を見ている、というのは踊りでは?

  そもそもなぜ「目は手を見なければならない」と言うのか? 目と手の関係、目が先なのか手が先なのかをはっきりさせる必要がある。

 

<追記>

  上の一時停止画像を見て驚いた・・・

 

 「目は手を見る」と教えられてそのようにやると、実際には目は手を見ていない(上の写真の下段2枚の写真(左は李徳印老師))

  「眼神で手を引っ張る」(手は目を追いかけるようになる)と、目と手はぴったり合う(上の上段の2枚の写真 馮老師老師)

 

  「目は手を見る」「目は手を追いかける」というような教え方は初心者には有効だと思うが、ある段階になったら見直す必要があると思う。目が手に固定されると目の伸びがないから身体に伸びがなくなる。膝や股関節、肩関節、足首、いたる関節がロックされてしまう。

2021/6/28 <閑話休題 どんな太極拳を目指しているのか自問自答>

 

  毎日何かしら新しい気づきがあって、だからこそ練習を続けられるのだけど、ふと、このままエンドレスでどこにも行き着かないのでは? いや、どこに行こうとしているのだろう? と疑問が頭をよぎることがある。

  

  太極拳を始めた30歳の頃はただ上手になりたい、の一心だったが、簡化24式を一通り学んだ頃から、もっと奥を知りたい、と思った。「意識の使い方についてもっと知りたいのです。」と仲良くなった当時の先生(北京体育大学出身の中国の先生達)に言ったら、ここでは教えられないから習いたかったら自分たちの道場に来なさい、と言われた。子供が小さかったのでさすがにそれはできない、と一旦諦めたのだが、その後、別の中国の少林寺系の先生にハマってそこで気功を本格的に学ぼうと決めて、授業料捻出のためにパートも始めた。

  運命というか縁というのは面白いもので、自宅のある横浜近辺のカフェでバイトをしたかったのだがどこも断られてしまう(使いづらいと思われたかなぁ?)、最後に雑誌で見つけた新宿の英語教師派遣会社に面接に行ったら即採用、そして安心して気功の授業を受けられると手続きをしたら、なんとその場所はパート先から徒歩10分足らずの場所だった。そんなこともあって、その後5年くらいはパート先と気功の事務所を行ったり来たりして、少林寺の先生にも聞きたいことが聞けるような関係になった。気功というのは健康法と同時にオカルト的な要素もあって、私は後者にはほとんど興味がなかった。けど、自分自身がこれまでに不思議な体験をしたことがあるので全てを否定することもできなかった。

  気功よりも太極拳を学びたい、と思ったのは、少林寺の先生に連れられて鄭州で行われた武術大会に団体で参加した時だった。太極拳の演武を見たら少林拳や長拳にはない静けさがあった。静けさの奥に何か、オカルトではない何かがありそうな気がした。

  私が少林寺の気功をやめて太極拳をやりたい、と言った時、その先生は「太極拳なんてかっこ悪いのにそんなのをやるのか?」と言った。でも私の心は決まっていた。早速太極拳の先生を探したら以前お世話になった星野稔先生が太極拳も教えていることを知り、その教室に伺った。そうしたらその教室で当時助手をしていた長谷川律子先生が自宅でレッスンをしてくださることになり超特急で混元太極拳の形を学んだ。

 そして突然のパリ赴任。やっと太極拳を学び始めたのに〜、と未練たらたらでパリに行った(2005年夏)。パリで先生を探すが満足できる先生がいない、がっかりしてその年末にフランスから北京の馮志強先生の武術館に趣き、三女の冯秀茜先生に一週間個人レッスンをしてもらった。フランスに戻ったあと、ここでは適当に太極拳をやって本格的にやるのは日本に戻ってからにしよう・・・とある意味諦めた矢先、現在の劉紅旗師父に出会うことになった(2006年1月)。

 

 劉師父との付き合いは15年を超えた。今振り返ると、最初は中身がゼロだった、それを少しずつここまで教え込むくにはさぞかし忍耐力が必要だったと思う。内側、中身は育てるのに時間がかかる。『静心慢練』(静かにゆっくり練習する)と馮老師がテキストの最初に書いている言葉はそれを指している。スポーツ選手のようにひたすら鍛錬をする、という類の練習ではない、外から見ると何をやっているか分からない、というのが内側の練習、全くカッコよくないのだ。

 李小龍とかジェットリーとか、私が一時憧れたようなカンフー映画に出てきそうな派手な動き、ではない。けど、ただの立ち姿だけでなにか風格を感じるような、そんな”マスター”、やはり、マスターの風格、静けさ、大きさ、懐の深さ、・・・そんなものにずっと憧れていた。

 

 マスターの近くにいたい、と思い続けてきたけれど、次第に自分自身がそんな存在に近づいていきたい思うようになってきた。もともとガサツで落ち着きがなくて注意散漫で・・・とマスターとは真反対の性質。ただ運動神経が良かった・・・が、好き勝手にスポーツをしてきたために身体が歪になってしまっている。この数年はその歪になった身体を素直さのある身体に戻すために太極拳を利用してきた。

 太極拳は整体にもなる、いや、そうあるべき、というのが私の信念。やればやるほど身体が不調になる、としたらやり方が間違えている。太極拳が悪いのではない、やり方を修正しなければいけない。

 練習すればするほど身体は素直になる。放松、というのは”素直”な感じではないか? 心も素直になるべきだ・・・

 が、身体が素直になったら心も素直になるのか? 

 身体と心の関係は昔からとても興味のあるところ。身体は素直で心が歪んでいる人はいるのか?

反対に、心は素直だけれども身体は歪んでいる人はいるのか? 

 太極拳なら身体→心、仏教なら心→身体。

 身体を変える方が容易いのか、それとも心を変える方が容易いのか? 

 心はアストラル体。一瞬にして変わり得る(時間軸がない)。一方、身体、フィジカル体はこの世に属する。変えるには”時間”がかかる・・・そんな話も聞いたことがある。

 

 太極拳は身体から始める、と書いたけど、いや、本当は身心双修。心と身体を同時に修練するのでした。(日本語の心身は中国語だと「身心」、身を先に書くのが中国的、物質的だ。)

 

 ・・・と、これだけ書いてきてはっきりしました。

 今進もうとしている道は、身体と心を素直にすること。わだかまりのない身体、わだかまりのない心。太極拳はそんな身体と心を作るのにとても適している。

 腕っ節が強かったり、何かの大会で優勝しても身体が痛んで心が悪感情でいっぱいだったら元も子もない。そもそも他者と競争するだけで心は汚れる。他者と比較する心自体が既に濁っている。うまくいかないからと落ち込む心も濁っている。鬼の形相で太極拳はできない。太極拳は歌舞伎ではない。感情は不必要だ。心を開く、というキーワードがあるが、それは身体を開くことから連想され得る状態だ。ここから身体と心の連結が可能かもしれない。

 

 身体も心も”自然”に戻る、けど、その”自然”、ナチュラルは今の私の次元より高い次元での自然さだ。螺旋階段を上がらなければならない。落ちて野獣のような自然さになってはいけない。

 幸運なことに、馮志強大師や身近にいる劉師父はそのような道上にいる。

 そもそもそれが修行者の道だったということ。

 私もそんな太極(拳)の道を進んでいきたい。

 

 <以上、自分のためにいろいろ書きました>

2021/6/26 <左顾右盼がなぜ歩法なのか 平視 両目の間の張力>

 

   半身、太極拳なら四隅の形をきちんとやると眼が自然に決まるのに気づいた。

 しかし、そのためには、ちゃんと脊椎を下から回転させていなければならない。ただ首だけ前に向けたり、股関節だけで前に向いてしまったら眼は決まらない。いわゆる、『左顾右盼』にはならないのだ。 (いつものことですが、練習メモの多くは自分に向かって書いています。書きながらはっきりさせて言い聞かせている。うん。)

 

『左顾右盼』はずっと謎だった。(中国人の)誰に聞いても、左を見て右を見ること、と言う。左も右を見回す、そんな意味のようだった。(日本語には右顧左眄(うこさべん)というのがあるようだ。この意味は右をみたり左を見たりして迷うこと、とある。)

 しかし納得できないのは、なぜ『左顾右盼』が歩法なのか?ということ。歩法の五行は進・退・左顾・右盼・中定。 前後は進退、真ん中で定まるのが中定。でも、左顾・右盼は眼法、歩法ではないのでは? 

 が、先日の師父の一連の構えの話を聞いててはっと気づいた。確かに、左を見れば右へ、右を見れば左に身体は自然に動く。逆に言えば、とっさに右に移動したかったら左を見ればいい。とっさに左に移動したかったら右を見ればいい。なんて賢い!!!  と感動したので師父に言ったら、眼法は歩法にもなるし身法にもなるのだ、と言った。

身体は自撮り棒のようだとよく思う。

てっぺんにつけているカメラ(携帯)が目。自撮り棒は背骨だ。

背骨のてっぺんに目がついている。

目が左に向く、左顧というのは、ヘッドのカメラだけをくるりと左に向けるのではなく、自撮り棒を持っている手をぐるりと回して棒自体を回してカメラを左に向けなければならない。

自撮り棒は関節(脊椎)がないから、手を回したのと同じだけカメラも回るが、背骨の場合は脊椎間が関節になるから、そこで少しずつ回転に微妙なズレが出て、らせん状で力がカメラに伝わることになる。

 

  この下から上への力の流れその連結が消えないような練習をしていると、次第にそれが身体に定着し、今度はカメラを左に向けたらその下の棒まで左に回るようになってくる。つまり、左を見ようとすると背骨が左に回転してしまう。すると右足が右に一歩出てしまう。自然に右に一歩移動できるのだ。

 これはとっさの動きには不可欠なメカニズム。右から人が飛び出してきて右を見た瞬間に身体が固まってしまった・・・なんていうことにならないような身体を常日頃から作っておける、ということ。

 

 ただ、最初は目玉の動きだけで背骨を全て連動させるのは至難の技だ。

 6/18の目もでストレートネックの解消のエクササイズの動画を載せたが、その中に、目玉を動かすエクササイズがあった。目玉を動かすと頚椎の1番2番が動く。ただ首を回しても動くのは頚椎3番以下だそうだ。目玉を左に向けて、その下の頸椎、胸椎、腰椎、仙骨までが一斉に動くようになるにはかなりの熟練が必要。しかし、私自身がやってみた感じでは、首をしっかり回して顔をちゃんと左に向ければ首より下の背骨、腹腰の内側が回転するのが分かりやすい。

 先日の弓歩の動画の中で、師父が私の顎を持ってぎゅっと回転させたのはそれをさせていた。

それまでこんなに首を回して構えたことがなかったから驚いたが、師父の言うように、顎を左肩にぐっと近づけ、顎と右肩がマックスで離れるようにするととたんに目がはっきりする(それまで目がぼやけていたことが実感できる)。あるスポットにはまった感じ。

 

動画の中では頭をむりやり回されて胸が上がってしまっているが、慣れたら鎖骨以下がリラックスするようにする。首と肩の可動域が必要だ。

 

こうすると左目が主で前を見るような感じになる。(後ろ側の目:右目を主で見れたらとてもレベルが高いのだと以前別のマスターから聞いたことがある。)そしてこのように肩を開いて顎(首)を回し切れれば、目はまっすぐになる(平視)。

 

  弓道なら平視が分かりやすい・・・と思って<弓道 達人>と画像検索をしたら、思ったほど眼が決まっている人はいなかった。最初の白黒2枚は達人。彼らの眼、眉は床と平行、一直線。この二人を見てから他の画像を見ると、少し上を向いていたり、右と左がばらばらだったり、目が前に出ていたり、睨みつけていたり、そしてついでに見た空手だと、もはや怒気を含ませている(というか、そういう演武です。もはや別物)。 

  

 平視だと眉毛がピシッと一直線、という感じになるようだ(以前の馮老師の画像も参照)。それは、平視というのが、ただ前をまっすぐ見ているのではなく、目が後ろに引けて眉間の奥のあたりで見ているようになるからだと思う。

 

 それにしても達人の首と肩のラインはピシッと決まっている。これが自然なのだが、それが私たちにはなかなかできない(他の画像を見てもそれが分かる)。首がきっちり回って肩が真っ直ぐ、これができたら相当なレベルなのだろうと思う。

 

 にしても、平視の感覚の一端が何らかの形で得られればその後の練習に役立つだろう・・・

 それには真正面を向いたタントウ功だけでなく左顾もしくは右盼でのタントウ功をやってみたらどうかと思ったりしている。

 前後の弓歩なら、左足前で左顾の構えをやってから、右足前で右盼の構えをやる、これを交互にやっていって次第に正面に向くと、左目と右目が奥で引っ張りあいしたまま正面を見ることができる。この時両目は内収、眉間の奥で見る感じになる。上丹田、第3の目・・・同じことだ。

 結局、両目にも張力が働くということが斜め、斜め、片目、片目、の練習で分かったのでした。

 生徒さんにうまく教えられるかどうか・・・そのまえに、脊椎の回転や肩の開き、首の可動域の問題をクリアする必要がありそうだ。

 

<追記>

 左は馮老師の纏糸功の「転頭」。

ただ顔を右と左に向けるだけじゃん、なんて軽く見ていたけど、そうではなかった・・・(苦笑) これだ脊椎全部(おそらく尾骨まで)回している。

2021/6/25 <包丁を使う時の構え>

 

 実は半身(斜めの構え)が基本では? と思い出した私。

 四正よりも四隅、いや、四隅が基本でその上に四正があるのでは? と仮説をたてたりしてこれから検証していく予定。

 

 スポーツで半身は当たり前。仁王立ちのような姿勢は...

重量挙げ? 

 泳ぐにしても、半身の連続のクロールの方が真正面を向いた平泳ぎよりも速い。スケートも斜め斜めに進むし、そういえば、包丁を使う時の構えも斜めでは? 師父の包丁使いはプロ級で、いつ見ても惚れ惚れするが、プロの板前さんと素人の構えの違いはどこにあるんだろう? と 少し脱線しそうだが、常々気になっていたことを少し調べてみた。

 

  文部科学省の動画があった! のだが、あれ、身体は真正面に向けて立つ? (右足を少し後ろに引いてもよい、とそのあとで追加コメントもあったが)。(https://youtu.be/O8Kf-puzCTU)

貝印のサイトでは左のように説明されていた。

身体をまな板に対して45度開く・・・四隅勁ではないか! 右足は後ろに引いているはず。

 

半身になる利点は、肘が張って二の腕が使いやすくなるということ=肩甲骨が使える=全身の力を使える。

(文部科学省のように)正面を向いてそのあとちょこっとひねっただけでは、手先(前腕から先)しか使えない→力で切ることになる。

 面白いので中国のサイトも含めて包丁を使う時の構えを画像検索してみた。

 下は辻調理師専門学校の新学科開設のページにあったもの。(https://www.tsuji.ac.jp/college/chorishi/blog/cat1279/post_329.html)

 やはり半身の構えを学んでいる。

 が、右と左の学生には違いがある。

 左の男性はプロっぽいけど、右の女性は素人っぽい。どこが違うのか?

 右足を後ろに引いて斜めに構えているのは同じなのだが、左の男性は肘が張っていて二の腕がしっかりでている。肩甲骨がひっぱりだされている。全身を一まとまりにして使っている。勢いが感じられる。

 これに対し、右の女性は手元だけで切っている・・・というのは、肘が張っていない、肘や二の腕に意識が通っていない・・・というのは、背中が張っていない=抜背ができていない・腰が使えていない・丹田がない・胴体が膨らんでいない・体幹がしっかりしていない・腹圧が足りない、から。だから首が折れて頭が下に落ちている。

 左の男性は同じように前かがみだが、彼の首は仙骨から始まる背骨で支えられている(頭が支えられている 頭が領している)。

 別の角度から見ると、男性は縦線だけでなく横線がある。女性は縦線のみ。

 結局、包丁を持った構えも太極拳と基本的な要領は同じ。(身体の合理的な使い方、というのはどの分野でも共通する)

 右の男性は含胸にもなっているので丹田に気が落ちている=腹・体幹がしっかりしている。

 沈肩、墜肘、を見ても、左の男性は沈肩、墜肘がさらにできる状態にある(既に肩と肘の操作可能)が、右の女性は肩甲骨や肘に意識が届いていないので、沈肩や墜肘、といっても何をどうしてよいかわからないだろう。 

 そして手首に注目すると、左の男性の包丁を持った右手の手首は真直ぐ、右の女性の手首は曲がってしまっている。肘や肩がちゃんと使えていないと手首は固まり松できない。二人の左手に着目しても、男性は指先まで気が通っているが、女性は気が手首の手前で止まってしまっているので指に力がない。手首は手指の根っこ。どんな分野でも、手首が松できて指が素直なのは全身の調整がうまくできている証拠=功夫が高い証拠だと思う。(毎日の包丁使いでも練習ができる・・・手首を通すのは難関だなぁ)

 

  下の4枚の写真のうちの上段2枚の手首、手指には余計な力が入っていない。ギュッとした感じがない。これは全身の力が使えている証拠。

  下の2枚になると、指や手首にぎゅっと力が入っている。ギュッ、となった時点で力が入って気が滞る。

最後に中国のサイトで見つけた小学二年生の男の子の初めての調理の姿。

 

全身丸ごと、力をいっぱい使って切っている。

力、なのだけど、全身の形はとても整っている。肘と二の腕の感じが板前のよう・・・

中国の男の子だと皆こんな風に包丁を使うのかしら?包丁の形が日本とは違う・・この形だと肩や二の腕を使わざるを得ないかも。

日本の一般的な包丁は省エネで切れる分、小手先になってしまいがち・・・本格的な自転車でなくてママチャリみたいなもの?(笑)

 

彼が初めて作った料理はトマトと卵の炒め物。馮老師の得意料理で、来日した時も作ってくれたと話を聞いたことがあります。

とっても単純な料理なのにほんとに美味しい・・・やっぱりフレンチより中華が好きな私。

2021/6/22 <脊椎がズレて回転すると威力になる>

 

 

 改めて杨澄浦(楊式太極拳開祖)の前弓歩(左図)を見てみた。

 

 これは6/19の師父の弓歩の写真、<A>それとも<B>?

 楊式だからBだったりして? なんて思ったら、やはり<A>だった。

 

 上の杨澄浦と下の師父の違いは、上は拗步(aobu)(前に出した脚と逆側の腕が前に出ている)、下は顺步(同じ側の手脚が前に出ている)。

 

 が、ひょっとすると、上の杨澄浦は師父の<B>のタイプ、体が正面に向いている形だと思う人がいるかもしれない? ので少し説明を加えます。

 

  AとBの違いは、単純に言えば、体が正面(打つ方向)に向いているか、それとも半身(斜め)になっているか。 しかし、その核心は、『脊椎の回転』すなわち、捻り、言い換えれば、チャンスー(纏糸勁)があるか否か。

上の杨澄浦は拗步なので順歩よりも体は正面に向いたようになるのだが、その分捻りの幅は大きくなる。

 

左の輪っかは体の水平回転を示している。

下から、胯(骨盤下部)の回転、腹(骨盤上部)の回転、腰の回転、胸の回転、そして首の回転。

 

面白いのは、腕が後ろから前に出される時に、これらの輪っかが微妙にズレて回転する、ということだ。このズレによって内側の勁(チャンスー)が生まれる。だから、写真のように定式になった時に、それぞれの輪っかの中心が向く方向が少しずつズレている。

 

(なお、下の輪っかから上へと順に微妙に時間差で回転させると内側の勁がわかりやすい。それ(勁)を確認し続けるために太極拳はゆっくり動いて練習します。ゆっくり動くのが太極拳ではありません。なぜゆっくり動くのか?の話。)

 

例えば、打つ方向が東だったとして、最終的には手と顔は東に向いているのに対し、胯は南東、腹は南東微東、腰は東南東、胸は東微南・・・(と、呼び方がよくわからないので)

せっかくなので、八卦を使った方位盤を使って示します・・・。

 

それぞれの輪っかの正面(任脈ラインの点)は丸をつけたような方角を向いている。

打撃は真東の方向、赤の矢印。

(股間は紫、へそは橙、みぞおちは緑、ダン中は紺、喉は黄、の円で囲んだ方向に向いている・・・大まかな方向。rigidに考えないように。)

6/19の二つの形の違いは、脊椎の回転があるか否かにある。

  Bがおかしいのは、胴体がダンボール箱のように一斉に前方へスライドしていること。

  およそスポーツ競技では、ボクシングであれ、ゴルフ、テニス、サッカー、卓球、水泳、野球の投球、バッティング・・・全ての運動には脊椎の回転、捻りが不可欠だ。脊椎が微妙な時間差で回転することにより、威力が増大する。(脊椎が関節化する。関節を経るごとに威力が増えていく・・・物理的に説明できるはず・・・テコの原理?いや違うなぁ?だれか分かったら教えて下さい。)(また、捻る時に、下から捻っていく:ゴルフが分かりやすい? が、達人になればなるほど、下から上まで一斉に回転させて同様の威力、いやそれ以上の威力、を出せるようになる。が、この場合の一斉の回転は、上の写真のBのような脊椎が未だバラバラになっていない状態の時の回転とは雲泥の差。見かけが似てくるので初心者が達人の形を真似するのは危険。)

  ちなみに捻らないのは、能。・・・あれはスポーツではない・・・威力が全く削がれている。芸術だなぁ。(能に威力と覇気があったらおかしい 想像して笑ってます。)

 

  目下世界中に広がっている太極拳の多くはBタイプになってしまった。

  中国で国民の保健のために制定された太極拳は太極拳の核心部分の脊椎の回転による威力を抜き取ってしまった。それによって太極拳は国家にとって何の危険もないただの国民体操になった。

  胴体を全くうねらせず、あたかも定規を背中にいれたまま動くような運動は拷問だ。(小学校の時に背中に30センチの定規を差し込まれたまま授業を受けさせられた経験がある・・・猫背になるのを防ぐための手段だったのだけど、もし体育の時間に背中に定規を入れられていたら・・・考えただけでもゾッとします。)

  歳をとると脊椎がバラバラに動き辛くなるから、背骨を固めて動く体操=四肢の運動はやりやすいのかもしれないけれど、加齢とともに胴体(脊椎)が動かなくなるからこそ、脊椎を動かすような運動が大事なのだと思う。そのほうが脳の健康(痴呆症の防止)にも良いはず・・・(以上、私見)

 

 ともあれ、脊椎がズレて回転する、という観点から下のような画像を改めて見ると、また見方が変わると思います。

以前ブログに掲載した画像。

 

 左と右の違いを<体の向き>、という観点から見ることができる。

 具体的には、回転と捻りがあるか否か。

 

 別に分析しなくても、直感的に分かれば良い話ですが。

 なぜ右に威力を感じて、左に威力を感じないのか? 彫刻家ならそのあたりをはっきり分かった上で彫像を作るはず。

 

  この下の画像の中には、パッと見て、脊椎に全く回転がないのが丸わかりなのもある一方、ん?少し捻りがあるかな、というのもある。

  その場合はもっと詳細に見て、上の、クワ、腹、腰、胸、首、のどの輪っかの回転ができていないのか分かれば、そこを直すようにすればさらに太極の形に近くなる(そんな指摘をしてくれるのが師)。(一段目左はクワの回転が不十分(クワ、臀が張っていない、円裆できていない)。 真ん中は腰の回転が不十分(命門が開いていないから回転できない)、右端は脊椎が物差し状態(外家拳だと思います)。 二段目左と真ん中は脊椎が棒状態で回転なし。右端は超完璧。三段目左は良さそうなのだけど、同じ形を上の楊澄浦の画像と比べると違いが分かる。前腿で前進の勢いにストップがかかってしまう(後ろ足が突っ張れていない)、そして右側の女性は雰囲気は良いけれど、下からの回転が上へと連動していない(胴体の中が軟らか過ぎて勁が伝わらない)・・・これは女性に多い問題。放松できているようで軟化してしまう。柔と軟は違うという・・・)

2021/6/20 <後弓歩の体の向き 前弓歩⇄後弓歩(後座) での体の移動>

昨日の弓歩の説明を受けた後、右のような構え(おそらく八卦掌)を見て、この時は体が正面を向いてるけど・・・?と疑問に思った。

ので、今日、その点を師父に質問しました。

 

回答はとても明瞭。

 

左の構えは後弓歩 (後坐)。

後坐から前弓へ、あるいはその逆の動きは、前進後進、すなわち、『進退』になる。

 

そういえば歩法(進・退、左顾・右盼、中定:五行)についてもその含意が分かっていないままだった。(『五行八法』と言われるものの五行が歩法、掤、捋、挤、按、采、挒、肘、靠が八法、併せて十三勢) これからそのあたりを理解して整理していきたいところ。

 

 まずは、前弓歩と後坐についてちゃんと理解したいと思いました。

 動画を参照してください(字幕がついています)。

  

最後に、興味本位で馮老師の画像検索をしたら、なるほど、全て捻れていました。着目して初めて気づいた事実。

2021/6/19 <弓歩の際の体の向き>

 

 左の構え、AとBどちらが正しいのか?

 

 師父に説明してもらった動画を下に載せます。

 そしてその適用例。

 

 眼法に注意しようとしていたら、その前に顎をどうにかしなければならなかった。そしてそれには首、肩、胸の問題・・・

 開合は奥が深いです。

 まだまだだ・・・

 

2021/6/19

 

  今日の練習、基本中の基本が本当には分かっていなかった!

  どちらが正しい? それはなぜ?

  普及している太極拳は・・・・だから不自然で不合理な動きになるのだのだ・・・

  人間の合理的な身体の使い方はとても面白い。

2021/6/18<ストレートネック改善と三関の関係>

 

    前回紹介した三関(周天(気を巡らすこと)の際の関門)は上から玉枕、夹脊(だん中の裏)、 尾闾。

  練習では下から順番に開けていく。

    尾闾は坐骨から仙骨(股関節、骨盤)、夹脊は腰椎から胸椎(腰、胸郭)、玉枕は頚椎から頭頂(肩、首)にかけてのアライメントを調整する要になる。

 

  内側の気を循環させることによって外側(筋骨)が正しいアライメントに調っていくのが周天だが、内気の勢いで外形が変わるには、内気の勢いの強さだけではだめで、外形がある程度緩んでいる必要がある。(硬化したゴムに強い水圧をかけたらゴムが破損してしまう、そんな危険がある。ゴムに弾力性、変形性があることが必要)

  そのため、太極拳の練習は外形を緩める練習と内気の練習を併行して行う(内外双修)。

 

  下から調整していくと、最も難しいのは玉枕だ。

  おそらく、この関門を開けられるのはマスター級。巷の老師(先生)程度では無理だろう。

  けれども、この部分は首や脳に関係するところ。本当に関門を開けられなくてもそれなりのケアすることができるのでは?と私自身問題意識をもっていたところ、よく見ている専心良治さんの動画がありました。

 

 この動画のタイトルは「ストレートネックの原因と3つの対策」。

 かなり長い動画なのでかいつまんで説明すると、ストレートネックの原因はパソコン、スマホ、座っている時間が長いことからおこる姿勢の崩れ=猫背。

 そして3つの対策として、<1>猫背対策 <2>頭の重さの負担の軽減 <3>寝る時の首の保護、について説明しています。

<1>猫背対策

 

←背骨のS字カーブの崩れ。猫背の姿勢。

 

 

しかし、これを治すのは厄介。

というのは、単純にS字を作ろうとしてもうまくいかないから。

 

←猫背を直すには身体全体を調整する必要がある。それを3つのパーツに分解して紹介している。

 

①骨盤を立てる

②背中を反る(胸椎の回転)

③前肩の調整

 

 

 

  猫背対策を見ると、健全なS字カーブを取り戻すにはまず骨盤、それから背中、そして肩、と順番に調整していかなければならないということが分かる。首の問題は首だけではない、それは尾骨から始まっている・・・(中医学では仙骨尾骨と頚椎が密接な関係があるという。尾骨が曲がっていたら頚椎も曲がっている・・・というのも全く不思議ではないと理解できます。)

 

   上の三関と対応させると、①の「骨盤を立てる」は『尾闾』、②の「背中を反る」は『夹脊』、そして③の「前肩調整」は『夹脊』と『玉枕』。①②③のエクササイズはそれぞれの関門を(内気で)突破するためのお膳立て的エクササイズだとも言えそうだ。もちろん、太極拳ではこのようなエクササイズをせずに、同様の効果があるような練習を知らず知らずのうちにしています・・・

 

  太極拳の要領、練習の中で①②③、それぞれに対応するものは何だったか整理すると意識的な練習ができる。一つの動功を練習するにしても、①②③のどれを意識して行うかで違った効果が得られる。漫然と練習しているとあるレベルで停滞してしまうので注意。

  (①は塌腰/松胯/圆裆/提会阴 ②の要は含胸だろう ③は含胸/沈肩/墜肘/収下顎・・・)

 

 なお、動画では対策の<1>としてこれらの猫背リセットのエクササイズを挙げたあと、 <2>の「頭の重さの負担の軽減」で非常に興味深いエクササイズを紹介してくれている(29分あたりから)。これは首、そして上丹田、そして太極拳の眼法と関連している。私は以前受けた専心良治さんの講義で太極拳の眼法の意味、なぜ眼が手の先を行かなければならないのか、なぜ眼が手を追ってはいけないのか、がはっきり分かったが、この動画の中でもそれをさらっと説明してくれている。この動画で一番紹介したかったのはその部分なのですが、眼法については次回に。

 猫背リセットの部分も試してみるとよいと思います。

 

 太極拳や武術、武道をやると、力で首を立てる癖がつくケースがとても多いので、首は下から積み上げてきた結果スッと立ってしまう、というのを忘れないようにしておくべきだと思う。(立てるのではなくて立ってしまう。運気と行気の違いと同じかな?)

2021/6/16 <チャンスーの先にあるもの 太極拳から太極へ>

 

 今日師父と話したら、突然これまであまり耳にしていなかった言葉を連発していた。

 『開節展窍』と 『 通经活络』

 

 『開関展窍』は修道(道教の修行)の中で使われる言葉で、三つの関門を開き(開関)、九つの窍(急所となるようなツボ)を展く(展窍)、という意味だ。

 

 三つの関所と九つの窍は下のような図で表されている。(ここでは深追いしません。こんな絵があることを知っているとよいと思います。)

 

 

 師父が併せて言った『通経活絡』は中医学で使われる言葉で、経絡の”経”(縦の気血の流れ)を通して、”絡”(横の流れ)を活性化する、という意味だ。

 上の『開関展窍』の修練をすれば、自然に『通経活絡』は達成できる、そんな関係だ。

 

 師父の最近の練習の意識はそんなところにあるらしい。

 ふ〜ん、と思いながら聞いていたが、ん?と突然思った。

 

 修道者が皆太極拳をするわけではないけれど、道教と太極拳は馴染みが深い。太極拳の練習はこの『開関展窍』に役立ったのではないかしら?と。(太極拳の創始者と言われる張三豊は修道者。もっとも、この流れは武当太極拳の方で、陳家溝の方とは関係ないといわれているが)。

 

 つまり、昨日話題にしたチャンスー(纏糸)は、外形の話だけれども、これが内側から行えるようになると『開関展窍』が簡単になるはずだ。反対に、坐禅で気を溜めて『開関展窍』をしていけばチャンスーは内側を通す勁となる・・・

 

 そんなことを感じて師父にそう言ってみたら、全くその通りだ、との返答。

 しかも師父の言葉では、チャンスーは「太極”拳”」だけのはなし。『開関展窍』は「太極」の話。次元が違う、という。

 外形に止まれば太極拳、拳法の話。

 それが内側に入っていくと、次第に拳法を超えた太極の話になってくる。

 拳法に興味のある人は外形にとどまるが、太極拳を通して拳法を超えた真理のようなものに近づこうとする人は内側に入っていく。太極拳のいろんな技よりも、太極拳の本質を捉えたい、そんな風になる。

 

 馮老師がテキストの冒頭で、自分は太極拳は修めたが太極には入門したばかりだ、と言っていたのはそういうことだった。

 

 チャンスーは内側に連れていってくれる外側の動きだ。

 しかし内側に入っていくには併せて丹田、気を養っておく必要がある。

 丹田の気を使わないチャンスーは力のチャンスーでいつまでたっても内側に入れない。(が、巷ではそのようなチャンスーが多くなっていると師父は言っていた。)実は、昨日、私自身が適当に撮ったチャンスーの説明動画は、ただの手脚の回転で丹田の気を全く使っていなかった・・・だから自分で見た時に、この動画はダメだ、と思って削除してしまいました。真剣モードでやらないと丹田の気を使えないなぁ、と反省。そのうち撮り直します。

 

 <追記>私の生徒さんたちへ。

 当初帰国はこの夏を予定していましたが、少し延期されました。おそらく11月末です。もう少し練習をしてから帰ります。

2021/6/15

 

 昨日の続き。

 

 太極拳の動きは螺旋運動。馮老師のテキストではそれを「外形螺旋路線」と呼んで各式の動きを詳細に説明している。その螺旋運動の説明に欠かせない概念が、「3つの円の軌跡(6種の弧線)」と「纏糸」だ。

 「3つの円の軌跡」については昨日紹介したので、今日は「纏糸」。

馮老師のテキストには非常に簡潔に「纏糸」(チャンスー)の定義が書かれている。

 

翻訳して整理すると

①<手腕の場合>

順纏:小指が手心(手のひら中央)を経て親指の方向へと回転するような手首と肩の旋転。肩は沈み、肘は合になる運行。

逆纏:親指が手心を経て小指方向へと回転するような手首と肩の旋転。肩は松し、肘は開になる運行。

②<脚足の場合> 外旋の運行は順纏。内旋の運行は逆纏。

③<胴体の場合> 身体が動く時は胸腹は開合折畳の纏糸があ必要。

 胸腹が開く(斜めの開も含む)は逆纏、胸腹の合(斜めの合も含む)は順纏。

(チャンスーの時は、①②③は全て連動して全身纏糸になる。)

 

 定義を知ってそのようにやってみても、最初は、だからどうした? という感じで、チャンスーの奥深さが分からないかもしれない(私は分からなかった)。逆だの順だの、いつもいつも言われているうちに、次第にその含みがわかるようになってきた。特に順逆の転換点の妙は鳥肌もの(そういえばもうすぐ夏至・・・)外側のチャンスーをやりながら次第に内側の勁(エネルギーの流れ)もわかるようになってくる。

 それらについてはまた別の機会に触れることにしてまずは基本を押さえたい。チャンスーは太極拳には欠かせない要素。陳式だけに関するものではない。楊式で多用される抽糸勁も纏糸を前提にしている(抽糸:巻いた糸の中から一本の糸を(抽出して)引っ張り出してくるような勁)。

 

続く

2021/6/14 <外形螺旋路線と意気運行路線、3つの円と3つの軸>

 

 套路はまず外形を学んで、それから内側を学ぶ。

 外形がある程度できるようになって初めて内側、すなわち意や気に焦点を当てることができる。

 

 馮老師のテキストでは24式の各式毎に、①外形螺旋路線 と ②意気運行路線、が分けて書かれている。

 ①は外形、すなわち、胴体や手足がどう動くかの説明だが、それが”螺旋路線”だということに注意が必要だ。太極拳は全てが弧形運動。太極図の絵を描くかのような動きになっている。直線も弧線が限りなく直線に近づいたもの。弧形の動きが全体として螺旋運動になっている。

 

 この外形の螺旋運動を説明する際に欠かせないのが、纏糸と3種類の円形の軌跡だ。

 これらは外形を表すものだけれども、内側(意気)の動きと密接に関わってくる。外形と内側をつなぐもの、橋渡しするようなものだ。

 この纏糸と三種の円の軌跡は丹田を前提とするものだが、一方で、これらを練習することにより丹田の使い方が分かってくる(丹田が何か、が分かるのではなく、使わざるを得なくなってしまう)という関係にある。だから、外形を練習する時に、纏糸の基本と三種の円の軌跡の基本を意識できるようにすることは非常に大事だ。それが次第に内側へと導いてくれる。もしこの二つの要素を無視して外側だけ練習したならばいつまで経っても内側に入れないだろう・・・

 

 ということで、馮老師は混元内功と纏糸功を編纂された理由はそこにあると思う。

 前者は三種の円とその応用の練習、纏糸功は文字通り纏糸(チャンスー)の練習だ。

 私達はこれらの練習をしながら、套路の中の動き、それぞれが、どの円の軌跡の一部なのか分かるようにする必要がある。この動作は順逆どちらのチャンスーで、どこで順逆が転換しているのかを意識できるようにする必要がある。(はっきりしない箇所は先生に尋ねるか、テキストを参照します。)

 

  三種の円は以下のようなもの。(馮老師のテキストより)

竪円、平円、立円、この3つ。

 右のような3次元のXYZ軸を想定すれば分かりやすい(かな?)

 

 ここから上下の弧線、左右の弧線、前後の弧線、そしてそのバリエーションとして斜めの弧線が出てくる。

 

 太極拳の形はこれらの弧線の組み合わせで成り立っている。ちょうどバレエのパのようだ。それを意識できるか否か・・・馮老師は太極拳の見えない部分(見せない部分?)をとても明快な形で皆に分かるようにしたことが画期的だった。混元太極拳は本来の太極拳が見せない部分をとても露わな形で現している・・・円だらけ。

 

 そしてこの3つの円は推手において化勁の基本的な軸として作用することになる・・・

上の文章は左の推手のテキストからの抜粋。

 

第二章第三節 「太極推手『腰脊を以って軸とする・ひとたび触れると即座に旋回する円形運動』の理」

 

「どの関節も旋転できるが、体全体の旋転運動としては4種類の基本の軸がある」

 

そのうちの3つ、縦軸、横軸、矢軸が上の3つの円に対応している。

軸がとれるようになるにはまず上の円がきれいに描けるようになる必要がある。逆に言えば、円の練習をしていると次第に軸が作られてくる。

 

 回すことで軸がはっきりする→軸がわかってくると回転が正確になる→さらに軸がしっかりする→さらに回転が安定する→・・・

 

 最初に軸を作ってから回すわけではない。ということに注意。

 (体の中心軸も回すこと、すなわち、督脈任脈の回転:周天から次第に現れてくる。先に軸を作るのではない・・・というのは、軸は実ではなく虚だからだと思う。余談です。)

 

 混元太極拳は最初覚えるのが大変だが、その理由は馮老師が歳を追う毎に上の円を加算していったから。初期のシンプルな24式のバージョンにはそれほど円が多くない。多くしていった理由は、1日に24式を2回やれば一通りの練習ができるようにする、というところにあったのかもしれない(馮老師が老師自身は1日に24式を2回やれば十分、と言ったのを聞いたことがある。)そのくらい、24式の中に内功や纏糸功を組み入れてしまったのだろう。

 

 套路は分析するととても面白い。順番もよく考えられている。その式で何を学ぶのか、その課題もはっきりしている。形を覚えて終わり、ではもったいない。

 <続く>

2021/6/11 <チャンスーと胴体の回転 逆螺旋と順螺旋>

 

 胴体の脊椎の回転(軸の回転)は纏糸(チャンスー)勁の核心部分で、これによって胴体と四肢が一体化する。チャンスーは全身を一つに纏める最初の段階で、このチャンスーをやり込んでいくことによって内側を全てぶち抜いて打ち出すことも可能になる。楊式太極拳のドリルような勁(钻)も陳式の基礎が不可欠で、チャンスー勁は太極拳に限らず、身体を一つにまとめて使うダンスやその他のスポーツにおいて自然な身体の使い方として現れてくるものだと思う。チャンスーは特別なものではなく人間の身体の構造に沿っている。

 上は馮老師のチャンスー功の中の、『单臂螺旋缠丝』(片腕の螺旋纏糸)。

 左側が逆チャンスー(内旋)、右側が順チャンスー(外旋)。 

 この身体の使い方は全ての腕の外旋(立円、竪円、水平円、斜円)に共通する。

 套路はこれらのチャンスーのオンパレードだ。

 

 ←内旋の逆チャンスーは雀地龙でほぼそのままの形で使われている。

 このチャンスーがあるために身体を落とすのが容易になる。(チャンスーをかけずに腕だけ回転させると身体を腕で引き上げられないので落ちてしまう。か、脚に不必要な負担がかかる。素早い動きができない。

 

 ←外旋の順チャンスーは金鶏独立でほぼこのまま使われている。

  腕のチャンスーによって脚が素早く上がる。

 

 画像は出さないが、運手(雲手)は外旋(順チャンスー)の連続。 

 

←二起脚は逆チャンスー。

 

チャンスーをかけないと脚の蹴りがバネのようにならない:威力が出ない。高さよりも、速く重い蹴りが出るようにする。そのためにはチャンスーで手から足まで全身を纏めてしまう(繋げてしまう)のが必須。身体がばらばらにならない。

 

六封四閉。この中には外旋、内旋、両方が混ざって使われている。

 

太極拳の節節貫通はチャンスーの前提でもあるけれど、チャンスーによってますます節節貫通できるようになる。

  

  チャンスーの基本となる『单臂螺旋缠丝』を分析すると、手が動いていくに従って、その高さに対応する胴体部分が回転していくようになる。実際には、その部分の胴体が回転することによって腕や手が動いていく。→前回書いただるま落としの胴体の回転が使われている。

 そして、内旋の逆纏、外旋の順纏の全身の流れは下のようになる。

 最初これを習ったころは、「何で?」と疑問が湧いた。逆と順でなんで流れが違うのだろう?と。けれど、実際にやってみると、確かにそうなってしまう。

 左の逆纏の画像は第7式斜行に入るところだが、腕を内旋させるためにはまず足裏が内旋してそれが一気に手まで伝わる必要がある。 第11式の披身捶をやってみると実感しやすい。

 右の順纏は第9式前蹚拗步の最後の両手を開くところだが、この外旋の勁は腰から出発して上下に向かう。運手(雲手)をすると外旋の時の全身の勁の流れが分かりやすいと思う。

 

 (なお、ここに載せたのは2種類の全身の勁の流れ。どちらにおいても、手のチャンスーだけとりだしてみれば、その中に順も逆もあります。順纏と逆纏を合わせて一つの円になります。)

2021/6/9

上の二枚は構えの比較。左は落合博光選手、右は大学生。目の引きの違いは全身の引き具合の差に表れている。

 どれだけ引けるか=どれだけ”収”できるか 

 →身体の”溜め”=エネルギー(気)の溜めになる

 振り切った時の写真を集めて見た。

 最初の長嶋選手の写真は圧巻だった。内側の目の光が身体の隅々まで行き届いて、打った瞬間に身体が光り輝いたのではないか? なんて想像できるようだった。全身が丹田になる、という表現があるが、それは上中下の丹田が全て一体化することでもあるから、中丹田からみれば全身丸ごと気の球になるし、上丹田(目)からみれば、全身が内側から光り輝く、ということになるのだろうと改めて知った。(太極拳の進歩の段階にたしか”光明”の段階があったと記憶・・・)

 

 そして一段目真ん中2枚は松井選手、右端はイチロー選手。振り切っても目が後ろに残っている。

目の引きが残る、ということは身体が前に持って行かれていない、まだ回転中・・・インパクトの瞬間も加速度がついている、ということだ。太極拳が”当てにいかない”のと同じ。

 二段目左端は落合選手。背中や脇のユニフォームのシワを見ると、まだ捻れている=回転が残っている、即ち、目は前を向いているようで、内側の目はしっかり後ろを捕まえている。そのあとの3枚の写真はその他の選手(青いヘルメットは清原選手。その他はリンクを参照)。清原選手のインパクトの瞬間、バットと球が衝突しているような感がある。これは太極拳でいう”抗”の状態、力がぶつかり合っている状態だ。それを見てから、長嶋選手から落合選手までの画像を見ると、その衝突感がない。力でむりやり球を運んだという雰囲気がない。そのあたりが達人芸、太極拳の原理に関わるところなのだと思う。

二段目清原選手以下3人のフォームをよく見ると、それまでに紹介した達人系選手とは異なり、振り切ったあとにもう捻れが残っていない。胴体にストップがかかって力技に転換している。

 腕のついている肩甲骨と腰のパーツが一体化しているので腰が回ってしまうと全て回ってしまって、もう回転できるパーツが残っていないのでは? 目をさらに後ろに引いて残せれば(=頭と首を残せれば)、肩甲骨と腰にズレが生まれるののに・・・と思ったりするけれど、先に肩甲骨周りの分離(→高岡理論の肩包体)を作らないと目は残せないのか?。(この肩包体が作れると推手が全く異なったものになる。太極拳でこのような身体を作るような練習が望まれます・・・推手は不可欠では?)

 

 3人の打者も一般的には強打者、その上に載せた天才的な打者と言われる人達が別格なのは、”目の引き”とそれに伴う”(身体がズレながら)捻れる”、という点からだけでも検証可能だ。

 

 ”目の引き” ”内側の目線” がないと全身はうまく使えない。

 首を立てるのはその最も基本的な例。

 パソコンや携帯を操っている時に画面だけに集中してしまうと頭は前に出て首がストレート化してしまう。画面を見ながら(外側の目線)、内側の目は引いて(目を収める)おく必要がある。内側の目が後頭部の方向を指したまま、それと引っ張り合いをする形で目線を画面に向ける。すると首はまっすぐに立つ。首が曲がってしまうのは目の引きが足りないから。そして姿勢が崩れて猫背になるのも目の引きが足りないからだ

 姿勢の崩れはまず頭が前に出るところから始まる、と整体の先生が言っていたが、頭が前に出てしまうのは目の使い方に問題があるからだろう。

 

 そして実は初歩的な”命門を開く”(腰を開く)というのも、目を使う必要がある。というのは、腹(へそ近く)にある気を後ろに導くにも目線が必要だからだ。内側の目線が弱いと気を操れない。意の強さは目線の強さでもあるのだろう。

 内側の目の力は火。これを丹田の水に合わせることで気が発生する・・・そんな風に経典では書かれていたかと思う。内側の目の力は静功で養うことができる。

2021/6/6 <目と脳 目の前方と後方への引っ張り合い 気づき 目の引きと周身一家>

 

  昨日の目線の話は”内側に向けた”目線の話。 

  少し説明不足だったようなので説明を付け加えます。

 

  私たちの目は外界を見る外方向への目線があるが、それと同時に、頭蓋骨の内側方向へ向かう目線がある。

  内側に向かう目線については普段あまり意識していないかもしれないが、その目線は脳を意識的に刺激するためには不可欠だ。もし目を石のように固まらせて絶対に動かないようにさせると、簡単な算数、「4+5」でさえ答えを導き出すことはできない。ちょっとした計算でさえ、一瞬目の奥が動いている。

  探し物をしている時、最後にどこで見ただろう?なんて考えている時は、目の奥が行ったり来たりしている。遠い過去の記憶を探す時は目は頭頂より少し後ろ側を見るようになる。さっき食べたばかりの食事の内容ならおでこの上あたりを目で探す・・・この手のことは、自分自身でも実験できるし友達と実験し合っても楽しい。対面で会話をしている時に相手の目がどう動くか、脳のどのあたりを刺激しているのか見るのは面白い。

  

  脳を意識的に使う時には必ず目が内側で動く。目で脳を刺激している。

  ぼおっと考え事をしている時は内側で目は泳いでいる。

  集中力とは目を一定の方向に向けたままブレることなく保持し続ける力だ。

  目は脳の一部。

  目は心の窓、とか言うけれど、私は機能的に言えば、脳のスイッチであり、脳の働きを読み取れる脳の窓といえるのではないかと勝手に思っている。

  

  話していて、目が前へ、前へ、と出てくる人は、次第に我を忘れている。後ろに引っ張っておけないというのは気づきを失っている証拠だ。

 

  太極拳の倒卷肱(混元太極拳24式なら第16式)は後方に撤退しながら相手の攻撃を躱しつつ攻める技だが、ここで学ぶ大事なものとして退歩の際の目の使い方がある。

  八法五行歩法はそれぞれ要となるツボが定められているが、五行歩法のうち進歩(前進)は会陰穴、退歩は印堂穴(眉間のツボ)。

  つまり、退歩は眉間のツボで行う。具体的には眉間のツボをぐっと後ろに引くことで退歩を行うということだ。

  想像してみたら分かるが、とっさに後ろに下がる時に目を引かずに下がると後方に転倒してしまう危険性がある。身体が後方に下がりだすより前に目は頭の後ろまで引いておく必要がある。しかも正面からガンガン殴られそうになっているという状況、その攻撃を躱すには目をしっかり後ろに引いて相手の動きを冷静に見ながら自分の軸を保っておかなければならない。目が前にあると怖くて目を開けてられないだろう・・・

  

 ジェットコースターで目をつぶると恐怖感が増すというのはよく聞く話。目を開けていた方が良いらしいが、同じ目を開けるにしても、目を後方に引いておけば恐怖感は減るはず。それは気づき(awareness)が出るからだと私は思うが、気づき、という、外界と内界がピタッとバランスをとった時に表れる、今・ここの澄んだ意識のスポットに近い位置に意識を持っていって恐怖心を和らげる方法が紹介されていた。(https://www.retrogadgeter.com/2014/07/blog-post_77.html)    

 それは、落ちる前に「落ちる」、曲がる前に「曲がる」と口に出していう方法だそうだが、落ちる前に「落ちる」と言うためにはまず、どんなに怖くても前方を常に注意し続けていなければならず(目の前方へのベクトル)、それから、口に出して「落ちる」というためには、意識を自分の肉体に戻さなければならない(目の後方へのベクトル)。恐怖で目が固まってしまうような状況の中、意識的に前方を注視し、それから意識を自分に戻す。前方を注視したまま「落ちる」と言う自分を意識できれば前方ベクトルと後方ベクトルが釣り合って気づきのスポットに入る可能性が多分にあるような・・・

 

 神経勝負の武道では眼法は必須だ。

 武道と瞑想の馴染みがそのためだろう。

2021/6/5 <目線の位置と脳>

 

 実は先週頭に急にお腹をこわして発熱、2日ほど家で休んでいた。熱が下がってもお腹の調子が悪いので医者に診てもらったらガストロ(胃腸炎)、何か悪いものを食べたらしい。にしても、そもそも疲れていたのもあるかな?

 

 体調が悪いと何もする気がしない。身体を使いたくないのは当たり前としても、頭だって全く使う気がしない。思考どころか妄想さえする気がしないのだから面白いなぁ、と思う。

 本当に不調だと寝てしまって起きている時間がとても短くなるが、そこそこ回復すると起きる気はしないけど眠れもしない、という状態になる。ベッドの上で寝っ転がってて、ただ周りの風景を見ていたりする。普通なら本を読んだり携帯を見たり、頭の中でいろいろ考えたりするのだけど、そんなことはしない。

 今回そのような状況の時に自分がまさにそんな状態であることに気づいて、一瞬、「何故なのだろう?」とぽっと考えが浮かんだ。通常なら、そこからぐるぐる思考をめぐらし、「・・・だからである。」と行き着こうとするのだけど、案の定、「何故なのだろう?」と問うた後、そのまま目線は目の前に戻った。思考を続けるには目を上の方(即ち、脳の方)に上げておかなければならない。けれど、体調が悪いと目を上に持ち上げておくことができない。

   

 目を目のラインも上に持ち上げられない、ということは、眉間の奥にある上丹田を使えない、ということだ。

 それは無理もない。だって、体調が悪くて中丹田の『気』がすでに枯渇している状態、『気』が昇華して意や精神を司る上丹田に届くはずもない。まずは肉体、中丹田の気をどうにかしなければならない。上丹田の『神』が輝くのは肉体の生命を司る『気』が十分にあるのが前提。身体はまず生命の維持を第一として機能している。脳による思考などの高度な働きには気の貯金が必要だ。

https://public-psychologist.systems/06-%E8%84%B3%E3%83%BB%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E3%81%AE%E5%83%8D%E3%81%8D/%E5%85%AC%E8%AA%8D%E5%BF%83%E7%90%86%E5%B8%AB%E3%80%802018%E8%BF%BD%E5%8A%A0-127/

 

 とても興味深いところなので、上の図を使っても少し詳細に私自身の観察結果も含めて書いてみると・・・

 

 私たちの脳と目の位置の関係はだいたい上の図のようになっている。

 脳は大雑把にいえば、上から、大脳ー<間脳>ー中脳、橋、延髄。 小脳は後方下部にある。

 (上の図は引用サイトから借用させてもらったもの。そこに私が加筆しています。)

 

 目の位置に水平ラインを引くと上のようになる。

 私が体調悪くてベッドに寝っ転がっていた時、目は目の水平ラインでただ前方を見るだけ、もし内側を見るにしても④のように多少下方向のみ、③から上には持ち上げられなかった。

 

 ③は視床や視床下部、それに松果体や脳下垂体のある間脳に向かうベクトル。上丹田の位置だ。タントウ功や坐禅、そして太極拳で丹田を内視するには目線はここを通過させる必要がある。言い換えれば、内側の目はここに作る。眉間の奥の第三の目とか言われるが、あまり神秘的な意味ではなく、ただ、そうしないと内側から身体を見られない、気の流れが見えない=内視ができない、ということだ。

 病気の時の私は、内視をしようなんて思いもしなかった。目を後ろにひっくり返して上にあげるにはそれなりのエネルギー(気)が必要だ。その余裕がなかった。

 

 が、④に落とすことは簡単だ。このあたりは運動を司る小脳に位置していて、その働きも体の運動や感覚をコントロールすることなどで、思考とは関係ない。

④は言い換えれば、爬虫類脳(左図)

生命維持のための本能的な脳だ。

目線がそこにしかいかない、ということは、身体が絶不調の時は意識レベルがそこに止まっているという証。

 

本能的な要求がクリアされて初めて次の哺乳類脳(③)の位置に目線をあげることができるということだ。

 

上の図の①と②はどちらも人間脳(大脳新皮質)で、人間のみがもつ高度な脳の領域だ。病気の時はここに焦点を合わせることは非常に難しい。病人なのに目が光を放っている人は普通いない。ここが開花すると目が輝く。中医学的には、『神』(上丹田)から光が出る、即ち、下丹田の『精』が中丹田の『気』を介して上丹田の『神』として花開いた、として、『精』と『神』、『精神』が現れた、中国語では「非常に元気がある」という意味になる。元気な人、というのは、目に光がある、ということだ。

馮老師の師、胡耀真のテキストには、タントウ功を始める前の準備として、「静かに立ち、しばらく遠方の一点を眺める。それから次第に目を自分の方に引き戻して一度”泥丸”(頭頂:百会))に上げた後、そこから丹田の方へと下ろしていく」というような文章があったと思う。

 一方、馮老師のテキストでは、外に向かって居た目の光をダイレクトに眉間奥の祖窍(上丹田:左の図なら印堂穴の奥の方)に引き入れている。

 

 普通は馮老師のテキストの指示のようにやれば良いと思うが、眉間奥の祖窍穴に目を引いていくにも目は上げていなければならない(眉間が開いていく 眉間にシワが入るようなら目が下がっている)。

 しかも最初の頃は、そこから丹田の方を内視して行った時に、しらずしらずのうちに祖窍が外れて目線が下がっていってしまう場合がある。目線が下がっていくと、坐禅なら眠たくなってくるし、タントウ功なら知らず知らずのうちに別のことを考えていた、ということも多々ある。(タントウ功の場合は坐禅と違って居眠りすることができないので、目が下がりだすと無意識でピッと目が上に動いて妄想が始まるようだ。)

 

 と、そんな失敗を何度も繰り返しながら、丹田の内視を続けると目線がだいたいこのあたりと上定まってくる。

 加えて、套路で内視を続けると、例えば運手(雲手)で全身(頭のてっぺんから足裏まで)を一眼で(目を動かさずに)内視しようとしたら目の位置は③も含めた①の位置まで上げられないとならない。身体の隅々まで意識が通っているかどうかは目でもある程度わかるものだ。そして自分自身についても、今自分の目がどのあたりにあるのかは、時々チェックするべきだと思う。目が落ちてくると不機嫌になりやすい。声も低く乱暴になる。目が高いと心も晴れやかだ。

 心が晴れやかな時に自分の目はどんな位置にあるのか、不機嫌な時にはどうなのか、自分自身でその違いがはっきり認識できると、人々の目からもいろんな情報がとれるようになる。

 相手をしっかり観察して無駄な動きを省く。それは武術の鉄則だが、それは自分を観察することから始まるのだろう。結局、私たちは同じ人間。同じような構造で作られている・・・知ると思った以上に自分が機械的に作られていて我ながら面白いと思う。 

 

 身体より先に脳が退化しないよう、太極拳をうまく利用したいもの・・・

021/6/3  <言葉と体験 whatとhow 脳を閉じない>

 

  太極拳の核心を示す言葉はとても奥が深い。

  その意味は深くて知り尽くすことはできないけれど、まずはそのような言葉を知っておくべきだと思う。言葉として知っておいて、練習しながら、あるいは日常生活の中で、あれ?これは? と場面に応じて思い出せたりしたら、その言葉の意味合いが次第に深みを持って行くのだと思う。

 その言葉にどのような意味合いを持たせるのか、どこまで奥行きを持たせるのか、はその人次第だ。

 

 『松』は究極の一言だ。

 この一言で全てを理解できてしまう人はまずいないだろう。

 もうすこし噛み砕いたものには「太極拳は松に始まり松に終わる」という馬虹老師の名言もある。けど、どうして松に始まり松で終わるのか、その一言を聞いて分かる人は既に太極拳を修めた人、修めつつあるレベルの人だろう。私達一般の者は、松はそれほど大事なのだ、という程度の印象しか持つことができない。

 

  前回書いた『以意行気』や『用意不用力』というは『松』よりもずっと具体的だが、それでもこれらの言葉を聞いてハッとするような人は特殊な人だろう(それまで外家拳でガンガンやっていた高レベルの武術家が内家拳に転向するとか?師父が出してくれた例です)。

  一般的によくあるのは、先に言葉を知っていて意味は良く分かっていなかった、という状況の中で、ある時、「あれ? もしや、これが、それ?」、と後に体験して意味を補充する、ということ。3年も5年も経って初めて納得できるものは案外多い。ただ、一旦納得したとしても練習を進めるにつれその理解が更新されるのは普通のこと。いつまでも一緒だとしたら進歩はしていないということなのだろう。

  

  (上のように)ハッとしたり、あれ?っと思って、突然意味がはっきりする、というのは頓悟の類だが、これに対して、意味はよく分からないのだけど、ずっとやっているうちに何となく分かるようにやってしまっていた(漸悟の類?)というものもある。

  例えば、初心者に「丹田の気を回せ」、と言っても「丹田」も分からないし、「気」も分からないし、「回す?」というのも分からない。太極拳を習いにくる人の中には「僕は丹田を知りたい」とか「私は気を感じたい」という人達が少なくなく、最初は、丹田とは何か?気とは何か?と悶々としながら練習しているのだけど、とりあえず、このように動作をしてこうやって・・・と動きや呼吸、意識の持ち方を教えて真似させているうちに、半年経つ頃にはその人たちから「丹田」や「気」を問う言葉が出てこなくなってしまう。その頃を待って、改めて、「××君、丹田って何?」と私が聞くと、ニヤッと笑って答えない。使えるようになってしまったものについて改めてそれは何か?とは問わない。見よう見まねでやっているうちに使えるようになってしまった。これが太極拳の漸悟の類。

 ちなみに、太極拳を2年も練習してまだ丹田や気が分からないなら師を変えた方が良い、と昔は言われていたと師父から聞いたことがある。丹田や気は道具に過ぎないから、早く使えるようになるに越したことはない。

 

 

  この世の中で私たちが「what is this?」と問いかけたら答えられないものはごまんとある。

 科学者や哲学者は日々そんな問題に挑んでいる。

 が、私たちが生きて行く上で必要なのはwhatではなくhowだ。

 太極拳も「How to do it?」の世界。

 『松』も、”どうやって”松するのか? を追求すべきで、決して『松』とは何なのか?とは追求しない。『以意行気』も『用意不用力』も同様だ。

 どうやって力を用いずに意を用いようか? と問えば、脳は道筋を見つけようとしてくれる。

 もし、「力を用いずに意を用いるとは何なのか?」と問うたら、脳はポカ〜んと、思考、空想の世界に入ってしまい、そこからどこにも進めなくなる。大地から浮いてしまう。

 

 『節節貫通』や『周身一家』も最初はちんぷんかんぷんの言葉。

 あまりにも分からないと、それって何だろう? としばし考えてしまうのは仕方がない。

 『螺旋纏糸』も最初は全く分からなくてDNA配列を見たりしていた。

 頭の中でイメージが湧いても、それが体現できるか否かは別問題。

 そうしたらその言葉はしばし宙に(クラウド)に浮かしておく。

 いつか繋がりそうな時に、ふとその言葉が降りてくる。

 

 自分の中で、分からない〜 と思ったまま覚えていた言葉、それが突然分かった時の喜びは一入。その時分からないからといって、「分かりません」と言ってはいけない。「分からない」と断言した瞬間に脳はその事項をシャットアウトする。「今は分からないけれど、そのうち分かるようになるかもしれない」とループを閉じずに開いて置くのが肝心だと思う。脳は開いておく。閉じない。

 脳を開いておく、というのは、心を開いていく、というのと同じではないかなぁ?

 すぐにキレたり怒ったりするのは脳や心がシャットアウトするからだろう・・・気をつけよう。

  

 体験と言葉を対応させることは、左脳と右脳を併せて理解させること。左脳派でもなく右脳派でもなく、両方がバランスよく開発できるのが太極的では?脳梁の開発と関係する?(推測で書いています。いつかも少し調べよう。)

 例えば、言葉を知らないまま体験した場合、体験が正しい道上のものなのか、脇道に逸れてしまったものなのか自分で判断がつかず道に迷う可能性がある。体験を言葉に対応させる表現ことで体験を客観的に判断することができる。経典はそのような言葉の宝庫だ。

 一方で、むやみに言葉を知っていると、その言葉に合わせて体験を想像して作り出してしまう危険性もある。<周天で気をぐるぐる回した>、というような体験談はその典型例。分かる人が見れば想像的体験だと分かる。坐禅をして観音様を見るのも想像だ(まさかタントウ功をしてそんなものを見ないとは思うけど・・・変な想像をしていると姿勢が崩れてしまう)。体験する時は言葉は忘れて真っ新でいなければならない。

 

 このあたりの話は個人的にはとても好きなところなのでいくらでもかけそうだが、まとまりのない雑談のようになってしまうのでここで切り上げます。

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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