2020年8月

2020/8/31 <気功と内功、調身・調息・調心、息>

 

   六字訣をやって、久しぶりに『気功』という言葉を使ったが、ふと『気功』と『内功』はどう区別されるのかしら?と疑問に思った。

 

 例えば四大気功と呼ばれるの六字訣、五禽戯、易筋経、八段錦。

 六字訣は其々に対応する臓器を想定していて内臓を調える効果がある。これに対し易筋経は”易”=変わる、”筋”=スジ、すなわち拉筋の要素が強く、主に筋骨皮、に効果を発揮する。そして五つの動物の動きから成る五禽戯、八つの一連の動作から成る八段錦は拉筋とともに内臓を調える効果がある。どれも動作に呼吸を合わせることが要になる。

 

 『内功』という言葉は、武術の世界において主に(筋肉ではなく)内気をパワーの源として使う内家拳の修練で使われる言葉だ。「内練一口気、外練筋骨皮」と言われるが如く、”内”とは”気”(エネルギー”を指している。ここでは”筋骨皮”は”外”の練習と位置付けられる。(内臓は物質と見れば”外”になるのだろうが五臓の”気”をターゲットにすれば”内”と捉えられるのかと思う。確認の必要あり。)

 呼吸をエネルギー(気)に変え、そのエネルギーを体内で増やすこと、そしてそのエネルギーを使いたいところに届けられるようにすること(身体の”節節貫通”を完成させること)、これらを狙っているのが内功だ。

 

 気功には3つの側面がある。調身、調息、調心だ。

 今この「調身、調息、調心」という言葉を見て思い出したのは、ヨガにはそれぞれのためのヨガがあるということ。

 

 調身はアーサナ・ハタヨガ(フィジカル体=第1身体のための修練)

 調息はプラーナヤーマ:呼吸法(エーテル体=第2身体の修練)

 調心はラージャヨーガ:瞑想(アストラル体・メンタル体=第3、4身体の修練)

 

 気功の場合は、どの気功法にも調身、調息、調心のどれもが含まれているとされるが、厳格に見ればやはり気功法ごとにターゲットとする調整箇所は異なるように思う。

 例えば、八段錦や易筋経は調身:フィジカル体の調整の色合いが強いし、六字訣は調息の側面が最も強い(もともとは動作もないし、最終的には声を出さずにやるというから、そうなればエーテル体そのものの修練になる)。調心にターゲットをおいているのは静功だ。

 

 内功は調息にはいるのか?

 文字通り「息を調える」というだけでは内功のダイナミックなエネルギーの発現は得られないが、この”息”という言葉を呼吸がなくなったような”胎息”だと読めば内功は『調息』だといえそうだが・・・

 すなわち、吸って吐いて吸って吐いて、という鼻から肺までの呼吸(”外呼吸”)をいつまで繰り返してても息からエネルギーを取り出す感覚は出てこない。肺にとりいれられた酸素が血液に溶け込んで心臓から送り出されて隅々の細胞にある届いてはじめてミトコンドリアでエネルギーが取り出される。この”内呼吸”を調整するのが調息だと厳格に定義すれば、調息は内功そのものになるだろう。

 同じ”息”と言っても、呼吸を意味しているのか、呼吸の先にある”息”を意味しているのかで、エネルギーに関わるのか否かが変わってくるようだ。

 

 呼吸は意識と無意識をつなぐもの、意識的に無意識につなぐことができるもの、操作することができそうでできない、びみょうなもの。六字訣などで、一度、意識的から無意識的な呼吸に変わるところを見極めることができれば(その妙を知れば)、呼吸を使って作為から無作為へ、意識的世界から無意識的世界へ、有為から無為へ、と、努力から無努力(お任せ)へ、という身を任せて流れていくTAOの世界が垣間見られるようだ。

 

2020/8/30 <六字訣を教えてみた>

 

   予定通りにzoomで六字訣を教えた。

 今回は1時間半のレッスンで、中国体育総局作成の動画(昨日紹介したもの)を理解させてその後各自動画をみながら練習できるようにする、ということを目標にした。

 

 この動画は大きく3つに分けられる。

 1、各音の発音と吐気の方法 (5"30~14"40)

 2、各音を出す時の動作(14"40~30"15)

 3、通し練習(30"15~ )

 

  前提として理解すべきことは

 

五行と五臓の関係 (東西南北と中央)

 →左の図

 

 五臓と五腑の関係ー表裏の関係

→肝ー胆

 心ー小腸

 脾ー胃

 肺ー大腸

 腎ー膀胱

 (六腑の一つ三焦は心包と対応)

 

 

 

六字訣は木火土金水(もっかどこんすい)の順 (東から陽が昇る 季節は春から開始)

 ①木=肝②火=心③土=脾④金=肺⑤水=腎臓、そして⑥三焦 の順。

    

<発音>

①嘘(xu)   牙音  肝    木

②呵(he)   舌音  心  火

③呼(hu)   喉音  脾    土

④呬(si)   歯音  肺  金

⑤吹(chui) 唇音  腎  水

⑥嘻(xi)   牙音  三焦

 

 詳細は動画を見ると良いが、注目すべきは、牙音と歯音があること。牙音は奥歯の隙間から音を出す。歯音は前歯の隙間から出す。

 ①のXUのUの音はイの口型でウと言う感じだが、この発音をした時には左右の奥歯の隙間を通って息が出て行くようになる。日本語で「シュー」というとshuの発音になり前歯から息が漏れてしまうので注意。

 ②のheのhは問題ないだろうが”e"はエではない。喉の奥のほうで軽くアかオかわからないような曖昧な音を出す。英語のshuwa母音(/ə/)を長く伸ばしたような感じ。舌音となっているのは舌の奥が少し盛り上がりそこを息が通る時に音が出るため。実際にhe~と音を出した時に、気管から心臓あたりが開くように感じられたら成功。やはり口の奥は少し横広にする必要がある(でないと舌の奥が上がらない)。

 ③は喉の音。唇を丸く突き出す。hu~と音を出したらケーキのロウソクを消してしまうのではなく、お腹が膨らむようにする。

 ④前歯の隙間から音が出る。siと書いているけれどシではない。私たちにはスに聞こえるけど、日本語のスではない。口をイの形にしてス〜と言うとうまく前歯から息が出て行くはず。(スイカと速く言う時のスに近いかな?)

 ⑤は唇の音。chuと言った後、唇の皮を素早く動かして”i”を発音する。chuの時は唇が丸く突き出ている。舌は舌打ちするような感じ。その勢いで素早く i に移動する。滑舌よくやること。曖昧にイを言わない。

 ⑥は奥歯の隙間から出る音。xiはシだが日本語のシよりももっと奥の方で発音する。左右の奥歯を使ってシを言おうとすればよいかと思う(口の奥を左右に開くことが必要)。

 

 いずれの音も、喉を締めたら効果なし。

 喉を開いて行う。喉を開くということについては7月あたりにいろいろ書いたような気がする。

 今日生徒さん達の発音を聞いていたら喉を開いて発音することが意外に難しそうだった。日本語は喉を開かずにしゃべれてしまう(こそこそばなしがとてもしやすい言語だと思う)ので、オペラ歌手になったつもりですこし大げさに真似をしてやってみると良いかと思う。

 姿勢も大事。

 

 が、今回やってみて、やはり、座ってただ発音するだけでなく、この動画のように動作をつけた方が効果は何倍も高いだろう。

 しかも、この動作は、とてもよく考えられている!

 隅々まで丹念に研究されて考案された動作で無駄がない。

 太極拳をやっているからよけいにそれが分かる。

 

 すなわち、

 六字訣は音を出す時にその該当する臓器を調整するのだが、音(声)を出す、ということは吐気。

 太極拳で考えると分かりやすいのだが、太極拳で息を吐くのは打つ時。発力の時。

 理論的に言えば太極拳は套路のどこでも発力が可能とはいっても、実際には発力の前には息を吸って、そして溜めて(蓄)、という準備が必要だ(連打するならその前には単打以上に気を溜めておかなければならない)。

 そして、太極拳の套路で学んでいるのは、いかに発力するか、という以上に、いかに発力に備えるか、ということ。その準備なしに発力はできないのだ。準備がちゃんと整っていれば、あとはスイッチをいれれば発力してしまうようになっている。

 つまり、この六字訣の動作を見て分かるのは、音を出す時の動作自体よりも、その前後の動作がとても大事だということ。

 

 例えば②の心のheの動作を見てみると、he~~と言う時は単に両手を胸から下へ按していっているだけだ。とても簡単。でも一連の動作では、按した後に腹の前で両手を回したり、その後に両腕を揃えて両手を胸へと持ち上げたり、と、何をやっているのか? と思うような動作がくっついている。これをはしょってやったらどうなるのか? と、私は好奇心でやってみたけれど、そうしたら案の定、ターゲットの”心”に効いている実感がほとんどない。あの一見余計な動作があるからこそ、最後に按しながらhe~-と言うと、確かに心の気がスッキリ通るのだ。

 理屈で言うと、按した後に腹の前で両手を回しているのは、そこにある小腸の気を掬うため(小腸は心と表裏)。そして両腕を揃えているのは、心経と小腸経(ともに小指の経絡)を合せるため。そして小腸の気をすくい上げたようにして心まで持ち上げ、やっと、he--が始まるのだ。心の気が降りたらまたそこで小腸の気と混ぜる・・・そんな動作だ。

 どの動作も経絡の表裏を使っている。

 

 ・・・とそんなことを解説しながら生徒さん達にやらせていたら、1時間半いっぱいいっぱいだった。生徒さん達は初めての六字訣で細かいことまで言われて消化不良だったかもしれないけれど、私は教えながら随分学びました。太極拳が役に立つ、し、太極拳の役にも立つ。

 随分昔、太極拳と気功の関係は?と聞かれて師父に尋ねたら 「気功の老師は必ずしも太極拳を教えられないが、太極拳の老師は必ず気功を教えられる。」と教えてくれた。気づいたらそうなっている。気功は太極拳に含まれている。

2020/8/29 <六字訣と星野稔先生>

 

   明日の生徒さん達とのzoom練習では、リクエストのあった『六字訣』の六字全てをやってみる予定。

 私が六字訣を学んだのは、太極拳を学ぶ前。日本に気功を広めた立役者の一人の星野稔先生から教わった。私にこの太極拳をやるように勧めてくれたのは星野先生でした。(と、今、日中健康センターのサイトを見たら、今年5月に亡くなられたようです。しばしショック・・・)

 

 星野先生の真の師父は焦国瑞先生だったのだけど、師父亡き後は馮志強の混元太極拳も学び、馮老師が来日の際には通訳をしたりどう老師の日本語訳本を制作されていた(日本語訳の本は現在なかなか入手できない。が一度借りて中を見たら、その文体が星野先生の文体そのものだったので笑ってしまったことがある。)星野先生は1982年に北京体育学院に1年間留学をしていたのだが、当時中学生だった私はその年の3月に2週間足らず卓球遠征をしていた、そんな偶然の一致を会食の時に知って、それから星野先生との縁を感じるようになったのは事実。娘を出産後気功を始めたのも星野先生の本を読んだことがきっかけだった。中でもオレンジ色の本(題名を忘れた)に書かれていた、「気功はインデックス付きの悟りへの道」という言葉は決定的で、これで、これをやろう、と決めたのでした。

 先生からは気功法をいろいろ学びました。タントウ功、丹田のことも随分学んだ・・・それが本当に分かるようになったのは劉師父に学んだ後でしたが。思い出せば懐かしい思い出がいろいろあります。(星野先生、どうぞ安らかにお休み下さい。この道を教えてくださり深く感謝しています。なお星野先生のプロフィールはhttp://ohyama-museum.com/kiko.html

 

 六字訣の話に戻ると、

 星野先生の六字訣は坐禅の形で目を軽く閉じて、息の続く限り長く音を出し続けるものだった。

 呼(HU)〜〜〜〜〜と声を一斉に出すのだが、毎回、最後まで星野先生の声だけがU〜〜〜と低く鳴り残っていた。私なんてとっくのとうに息が途絶えてしまっているのに。

 なんでこんなに息が長いのだろう?ととても疑問に思ったのを覚えている。

 その後、太極拳の練習を随分積み、ある時生徒さん達と同じように六字訣をやってみたら、あれ?なんだか私の声がずっと最後まで残っている・・・あの時の星野先生のようだ、と驚いたことがあった。丹田を使って発声すれば自然にそうなるのだが、それが自然にできない時には根比べのようになって辛くなる。

 

 中国の中国体育総局が制作したのはこの動画。こういう風に動作をつけると該当する部位の気が整えられるのがより分かりやすいのだろう。明日はどういう風にやるかな?

 

2020/8/28 <無極タントウ功 無極について>

 
 8/24の馮志強老師の無極タントウ功について、バカンス中の劉師父と話したら、私の大きな誤解があったことが発覚。無極タントウ功でも僅かに松胯、屈膝をします。師父との会話は以下のようなものでした。
 私が、「馮志強老師の無極タントウ功は股関節や膝を緩めずに棒立ちでやるのだけれども、それで本当に命門が開くのか?」と尋ねたら「松胯曲(屈)膝なしでは命門も開かないし気は落ちない。無理だ。」と師父の一言。私が「でも馮志強老師は棒立ちで無極タントウ功をやっているけれど?」と言ったら「どこに松胯曲膝なしでタントウ功する者がいるだろうか? あり得ない。」と言う。そこでテキストの馮老師の写真を見せたら、師父はふ〜ん、と見て、「こんな馮老師の真似をしたって何にもならない。誰が真似できるだろうか?」と笑われてしまった。私は少し気分を害したのだけど、まあ、それもそうかも、と納得。
 そしてその後、もう一度テキストの記述を見たら、最初に、”両膝を僅かに屈し両股関節(胯)に僅かに坐る”と書かれていました。なぜ見落としたのだろう? 馮老師の棒立ち写真に気を取られすぎたよう。あれで屈膝坐胯してるようには見えなかった(今も見えないけど)。
 そしてもう一つの誤解は、馮志強老師の無極タントウ功は、あくまでも気を頭頂から足裏、上から下へと下ろすもの。
 
 テキストには
 『意を祖窍穴(眉間の奥にあるツボ)から下ろして中丹田から下丹田へ、それから両腿を加工して足裏の湧泉穴へと至る。
 全身の骨と関節は、上から下へと、経絡やツボを通過しながら放松して開いていく。
 全身の筋肉・皮膚・体毛は上から下へと放松して開いていく。
 あたかも炭酸水が上から下へと体内や体表をさらさらと四肢へと流れていくように。』
 『その後、入静状態に入り、無物無我、無形無象(形もイメージもない)、無声無息、空空洞洞(空洞くうどう)、という無極の境地に至る。』
 と書かれている。
 意念を丹田に持っていって気を集めるようなタントウ功は、この無極タントウ功の後で紹介されている。すなわち、中環2種類(中丹田、後丹田)、下環(下丹田)、そして上環(上丹田)のためのタントウ功だ。
 今になって初めて気づいたが、無極タントウ功は入静状態に入ると記述されているが、それ以降の丹田に意念を集中して気を溜めるタントウ功は入静状態に入るとは記述されていない。
 が、確かに、意念を丹田に集中させていたら入静状態に入るわけがない。
 ということは、これまで入静状態に入った時は丹田への意が消えていた、ということだ・・・(なんと、そんな単純なことさえ気づいていなかった・・・。) 

 と、ここまでくると、今更ながら、なぜ、無極タントウ功、入静状態に入ることが、太極拳に必要なのか?という疑問が湧いてしまう。
 そして、ああ、と、思い出したのが、かつて私が最初の数行でリタイアしてしまったあの最初の章の表題。
『練拳須従無極始』
(拳を練習するなら無極から始めなければならない)
その章では、
『万物が生まれる前の静的な何もない状態(=無極)から、動きの兆し(有極)が生まれそこから陰陽が展開を繰り返し万物が創生されてきた。その”無極から生まれた有極”を太極と呼ぶ。』
 『静的な無極が動的な有極に転じ太極が生まれ、その太極の動静により陰陽が分かれ、陰陽開合により万物が生まれる。それは途絶えることなく循環する。
 これが太極の陰陽の理で、この理に沿って個人は太極拳を編み出しこの理論の指導によって練習することを求めてきた。』などと書かれている。
  ともあれ、太極は無極から生まれるので、太極を知るにはまず無極を経験してそこから生まれてくる太極を経験するしかない、だからまず無極を練習しろ、ということなのだろう。
  今どれくらいの人がそうやって練習しているのかは謎(馮老師がぼやいていたようにドイツ人くらいか? 苦笑)
  以前、私がこの馮老師のテキストを、馮老師が初来日したお世話に当たった陳発科の孫弟子にあたる日本人のマスターにプレゼントしたら、中身をざっと見て、「これは太極拳の本ではなく道家の修行法の本だなぁ。」と大笑いしていた。馮老師のテキストにある上丹田の祖窍穴は道家に独特なツボ、普通の陳式太極拳の人たちは祖窍穴は使わない、印堂穴を使う、と教えてくれたのもそのマスターだった。
  私は道家の修行法だと聞いてとても嬉しかった。宇宙、この世における自分の存在、そんな壮大なスケールまで念頭に置いて練習できるのは光栄なこと。劉師父も最初から「私は太極拳を通じて太極をあなたに教える。」と言っていた。太極拳が目標だと、細々とした技や戦法まで学ばなければならない。楽しいけれど、きりがない。実際の使い道がない。本当に使えるもの、死ぬ時でさえ使えるもの、その先にまで持っていけるもの、そこまで念頭に置くなら、太極を学ぶのはとても意味があると思った。
  が、そのためには、何度も無極に戻ることが必要だった。
  また一から始めよう。
 

2020/8/25 <欧州少林寺のマスター>

 

  無極タントウ功の話の続きを書くべきかと思っていたら、今日、こんな動画を見てしまい、そちらに心が奪われてしまった。

 欧州少林寺のマスター、释恒義老師のドキュメンタリー。私が知っている中国の少林寺の僧侶達とは顔つきも雰囲気も違う・・・

 静功を深くやっている人だとすぐに分かる。それに説明もとても理論的。理知的。英語もドイツ語も話す。功夫も高いし、一体何者なんだろう?と調べたら、少林寺の第35代に属するけれどうまれも育ちもドイツでドイツの少林寺で修行をした人でした。もともとは親の期待に沿って学歴を積みMBAまでとったらしいが、やはり何かが足りない、自分はまだ自分を知らない、と少林寺で僧院生活に入ったという。

 現代の中国で生まれ中国で育つとなかなか目は精神性を高めるところに向き辛い。社会の環境がそうさせない。その点、ドイツはフロイトやユングが出た国で、メンタル、スピリチュアル面に非常に関心が高いから、馮志強老師が生前、「タントウ功を教えても真面目にちゃんとやるのはドイツ人くらいだ。(中国人はやらない)」と言っていたというのは納得がいく話だ。

 現代の中国人には年金暮らしの人でない限り、毎日ただ何時間も立つなんていう暇はない。もっと手っ取り早く結果を手に入れて、それで生計を立てなければならない。経済を自由化する前のようなのんびりと練習するような暇はなくなってしまった・・・と師父も言っていた。

 

 いずれにしろ、上の释恒義老師は、そんなお金や地位に興味を持つ段階を超えた人の境地。

 欧州少林寺のサイトも見てみるととても参考になり面白そうなのですが、TEDで講演をしている動画を発見。彼自身の生い立ち、考え方が分かります。

 

 上のドキュメンタリーの中で、「人間は身体と心から成っているが、”心”は仏教・道教・儒教の三つから導くことができる、一方、”身体”は功夫・太極拳・気功、の三つから修練することができる。」と言っていたのが興味深かった。少林寺でも太極拳をやるのか?(私が知っている中国の少林寺のマスターは太極拳のことを相当バカにしていた記憶あり(苦笑))と疑問に思ったけど、欧州少林寺オリジナルかなぁ? 

  

 同じマスターでも太極拳と少林寺はかなり異なる風格がある。

 太極拳は道教ベースで、快楽的。節制が少ない。陰陽原理から男女の交わりも可。何もかも含めて大きな腹になる(例えです)

 少林寺は仏教。僧侶生活で世俗を捨て、節制。削ぎ澄ましていく。

 久しぶりにこの釈恒義老師のようなシャープでストイックで真っ直ぐな老師を見たら自分もも少し真面目に生きなければと思いました。歳下から学ぶことが増え始めている・・・。

 

2020/8/24 <無極タントウ功を再考>

 

  陽陵泉を引き上げて坐骨と繋げることを試した生徒さんから、「そうすると足裏のアーチも引き上がりますね。」というコメントをもらった。

 全くその通りで、逆に言うと、足裏アーチが引っ張り上げられてなかったら陽陵泉と坐骨は繋がっていない。

 足裏アーチが上がるということは会陰が引き上がるということ。舌も奥へと上がるし目も後ろに引いたようになる(収まる)・・・結局、タントウ功の要領そのもの? 

 

 が、ここで馮老師の無極タントウ功の姿を思い出した。

 私自身が試していて気づいたのは、私たち(大人)は、”引き上げる”ためにきちんと放松して気を足裏まで下ろさなければならないということ。いつも私が師父に「下!下!」と叱られるのは、欲張ってすぐに気を上にあげてしまうからだ。気は放っておいても上に上がるから、意識的に落として循環させなければならない、という。

 

 自然に膝も曲げずに立って、ゆっくり気を天から地(頭から足裏)へと落としていく。

 これが『無極站桩タントウ功』。ただ上から下へと落とすだけ。丹田に気を溜める意はない。全身の筋骨皮毛などが上から下向きに放松して広がっていく。(あたかも炭酸水が上から下へと体内体表をさらさらと末端へ流れていくように)

 

 私が師父から最初に学んだのは「無極」とはいいながら実はもう既に「極」が出現しているものだった。そのことを一度北京の馮志強武術館で指摘され、そのことを師父に言ったら、それはまだ30代で腹の気が多かったから最初から「下環混元桩」を「無極タントウ功」に少し混ぜて教えたと言われた。

 その頃は分からなかったことが今では分かるのだが、腹の気が溜まっていない状態で股関節や膝を曲げると気がすっこ抜けたようになり身体が落下してしまう。(頭の”領”もなくなるし)膝を痛める格好になってしまう。

 

 姿勢を低くする時は、腹の空気(丹田)に掴まってそれを大きくするように腹底に沈める。すると股関節や膝が曲がってしまう。意識は腹の空気に鼠蹊部が押された時に、そのロックを外す、それだけだ。膝もロックだけ外して上げればいい。

 このあたりの練習は動きながらはできないので、直立の無極タントウ功から、意識と気を操作して丹田のタネを作って、そこからどうやって股関節が緩み膝が緩むのかじっくり自分の身体を観察する必要がある。腹の気が下に押されて胯(股関節)が緩んだのであれば、その時点で、陽陵泉と坐骨はほんのりとつながっているはず(足裏のアーチも少し出てくる)。それは腹の気で股関節が緩んだのか、もしくは腹の気とは無関係に股関節(や膝)を緩めたのか、のメルクマールになる。

 

 いろいろやってまた経典に戻ると、前よりも理解できる箇所が増えているようだ。最初は全くチンプンカンプンだったことを思えば大きな進歩。それに、今「無極タントウ功」を思い出したのはとても良かった。また降り出しから一歩一歩やるべきということだろう。

 

<下の写真>

 左から無極站桩功、中環站桩功、下環站桩功。

 私もおさらいしたいのでテキストの訳文を書くかなぁ、と思いながら、このサイトにある『タントウ功の考察』を見たら、すでに書いてました(苦笑)

  続きはまた書きます。

2020/8/21 <胴体と脚を鼠蹊部で切り離す 上半身を軽くして浮かせる>

 

  <陽陵泉を引き上げて坐骨とつなげる>というテクニックは、バレエを整体として使っている方の動画で知ったことですが、試してみたら、バレエの動きに止まらず、タントウ功や、しゃがんだり、片足立ちになったり、重心移動したり、太極拳の動きでも常にそうなっているべきだということに気づきました。普段の生活の中での姿勢でもそうなっているべき・・・と、今パソコンを打ちながら自分の座っている姿勢を見たら外しまくっている・・・これを四六時中やろうとするのはとても良い(厳しい)修練になりそうです。椅子に座ってやってみると会陰が引き上がり、叶姉妹座りのようになる。足裏がピタっとするのが心地よい・・・。

  動画を紹介します。陽陵泉の位置、その坐骨との関係等、とても丁寧にわかりやすく説明されています。この方の動画はどれもおすすめです。

 

 動画を見ながら、脚を後ろに上げるポーズをやってみたら、上げた脚の鼠蹊部(前胯)が伸ばされたのですが、これがまた、大きな気づきにつながりました。師父から何度も何度も言われてきた「前クワ(胯)の力で打て!」という言葉。 「前クワの力?」と尋ねたら「前クワを緩めて(松して)力を出せ!」と説明してくれたのだけど、それが身体ではっきり分からない・・・が、この要陵泉を坐骨に繋げて脚の後ろ上げをしていたら、少し前のzoomレッスンで生徒さんの一人がヤムナボールを使った鼠蹊部のストレッチを教えてくれと時に言っていた「胴体と脚を引き離す」という言葉を突然思い出しました。

 ああ、太極拳で言う(師父などが言う)「前クワを松しろ」というのは、「(鼠蹊部で)胴体と脚を引き離せ」あるいは「胴体と脚の間に隙間をとれ」ということだった・・・胴体の一番下(股間、鼠蹊部)で下弧を描いて胴体を上に浮かばせる、脚は下向きに重力で垂らす、胴体は上、脚は下へ、それによって胴体と脚が引き離されて鼠蹊部に空間が生まれる。 ただ、この感覚が生じるには、胴体の一番下まで気を下ろしてこなければならない。気が中丹田にある状態では胴体が浮上しない。胯(クア)や裆近くまで膨らまして下ろしてくる必要がある。(関元穴からさらに曲骨に向けて気を下ろしていくと鼠蹊部が回転し始めて胴体と脚の間に隙間が発生するようだ。)

 

 便宜上、図の中の丹田の回転は竪円(左右)で表示したが、タントウ功だと最初は立円の逆回転(任脈下がる)の時にこの感覚が得られると思う。動功では主に竪円、立円でこの感覚を掴める。套路では例えば、第1式では立円、第2式から第4式は竪円の右回転だ。

 いずれにしろ、丹田を回す、というのは、胴体を浮かせる(胴体を軽くする)作用がある。これによって脚が胴体から引き離れ、脚が俊敏に動くようになる。(そして、胴体と脚が引き離れると、その隙間を使って鼠蹊部でも発勁ができるようになる。発勁は隙間のある関節の足し算。ツボがその指標になる。自分で意識的に使えるツボが増えるとその分発勁の威力も増す。)

 

 この丹田の気の球の回転がないと、胴体が脚に重くのしかかり股関節や膝に負担がかかってしまう。歳をとってくると膝が悪くなったり足腰に自信がなくなる(ジャンプしたりしゃがんだり走ったりできなくなる)大きな原因は、上半身の空気の球が減って脚に重くのしかかるからではないかと思う。 

 私が練習している公園で毎日集まって気功の練習をしている高齢者グループの動きを見ていると、姿勢はとても高いのだけど上半身がどしんと重く脚にのしかかっている。上半身の軽さがない。子供は下半身が重くて上半身が浮いている。大人の私たちが子供と全く同じようにはなれないが、雰囲気を知っているといいと思う。

 上半身を軽くする第一歩は気持ちを軽く、上むきにすること。仏頂面をしないこと。坐禅や気功の秘訣に”微笑をする”というのもそのための要領だ。胴体を脚と切り離す練習をする以前に胸を軽くしておかなければいけない。子供のように楽しく、生き生きと。深刻になり過ぎない。

 "Playfulness" がキーワードかな。

 

 <下は今日写真で撮った写真>

 左は大人と子供の立ち姿の違い。大人の身体は全部下向き、重力に引っ張られてる。子供は上半身が浮いてる、上向き。子供は頭頂(百会)の”領”が見て取れる。

 右は二人の子供のplayfulな走り。見てるだけで笑美が溢れてくる・・・オリンピックで金メダル取りたい、なんて大人が仕込んで言わせる前の無邪気な心。目標のない遊びを無邪気というなら、目標があって行う行為は既に”邪気”が入っているのか?(苦笑) いずれにしろ遊びとして遊べないと気持ちは重くなってしまう。にしても大人がこんな風に走っていたら・・・精神病かと思われるかなぁ(苦笑)

2020/8/20 <陽陵泉を引き上げて坐骨とつなげる>

 

 先日紹介したバスケットボールのステファン・カリー選手が使っていた”athletic position"という言葉。これは太極拳の基本姿勢でもあり、文字通り、どんなスポーツにも共通する基本姿勢だ。

 力強く、かつ、敏速に動くために、私たち人間はこんな姿勢をとる。

 

 太極拳をスポーツのようにする人たちは重心を低くして膝に負担をかけがち。一方、養生のためと高い姿勢で雰囲気で動いていると下半身の力が使えず上半身だけの踊りのようになってしまう。

 

 カリー選手が言っていたように、足裏アーチの力はダイレクトでお尻に伝わる必要がある。

 途中の膝で遮断されてはいけない。

 足裏の力がダイレクトでお尻に伝わる・・・そんな感覚を確認するために、膝にある陽陵泉というツボを引き上げて坐骨とつなげてみる練習を生徒さんたちとやってみました。効果を感じられた人がいたので、動画で紹介します。

2020/8/19 <腹の中の動きについて生徒さんからのコメント>

 

 昨日のメモと合わせて描いた2つの図について、生徒さんの一人に意見を聞いてみました。

 私よりも腹の中の気の動きをよく観察していてびっくり。

 さすがに腹を④のように気でパンパンに膨らませることはできないから、通常は気を溜めて③の状態で練習している(この③の状態になるまで気を溜めるにもそこそこの練習時間がいる)。

 

 <以下コメントを引用>

 前後に割る?のではなく、先生と同じく胴の内側と外側、オレンジと白で動く感覚です。むしろ割るの意味がわからないです。

 私の今の感覚では、まず図のオレンジが常に上向きに引き上がり、周りの白の部分が下向きに引き下がっていることが前提条件としてあり、それがないと何も起こらないかなと思っています。

 前に行こうと思ったら、オレンジが一瞬早く前に膨らみ(または引き上げのベクトルが前傾し)ほぼ同時に白の後(背中側)が引き下がる(地面を押しているとも言える)ことで移動もしくは腹を回しています。他の方向も同様。

 オレンジと白がほぼ同時に動くことで、結果的に、胴が垂直に保たれる。オレンジだけまたは白だけで動くと崩れてしまう。

 オレンジの膨らみで動いている感じと地面を押している感じが同時にありながら、頭はオレンジの位置を追っているだけで胴が水平に移動していく他動的な不思議な感覚です。

 あくまで現段階での感覚ですが。

 

 

 ・・・私よりずっと細かく正確に描写している。白の空間が下向きに引き下がっている(按をかけ続けたようになっている)、ということは気づいていませんでした。これは含胸や塌腰を使って横隔膜を下げたままになっているのがそう感じられるのだと思う。そしてその中に気を少しずつ溜めていくと白の空間の中で自由に動けるオレンジの気の球(丹田)が現れる。動き方も上の生徒さんが言う通り。言われればその通りだなぁ、と。

 敢えて自分の身体の中を観察すればそのようになっている、というだけで、普段はそんなことを考えては練習しません。頭が狂ってしまう(苦笑)

 丹田に気を溜めて、それを動かして身体を動かす。

 ただそれだけでは外の形が歪になるので適宜外も修正してそれに合わせて内側も修正したり発展させたりします。

 内気の動きが分かるようになると、分かった人同士で内側の会話ができる。これが楽しい。

 一人でも多く内側の世界を知ってもらって自分の会話相手になってほしい・・・一人だけ分かっても何も楽しくない・・・と、日本にいる時は一人ずつかなり突っ込んで教えてきました。手間はかかるけど、頼もしい仲間を育てられた時の嬉しさは格別。

 これが継承というものにつながっていくのだろう。

 

2020/8/18 <空間が現れる過程 無極から生機、そして太極へ>

 

  昨日、一昨日のメモに対して、「身体を前後に割るという意識が大事なのですね。」というコメントがあったので、”割る”ということについて少し考えてしまいました。

 

 私も以前よく使っていた、身体を割る(左右に割る)という表現。武道の世界でよく使われる言葉だ。前後に割る、という言葉はこれまで聞いたことがなかったので、あるのかしら?と自分の感覚と合わせて”割る”ということを改めて考えてみたら・・・

 

 割る、というのは、開く、ということを言っているのだと思う。

 割ると開く。開き切ると左右、前後は消える、けど、しばらくするとその中にまた前後左右が現れる・・・

 割る、という言葉が今の感覚では出てこないのは、割る、というのは、気を押し込むから空間が分割される、という結果にすぎないからのよう。意識は”割る”ところにない。気を集めて”押し込む”ところにある。

 

 やっとマックで少しお絵描きができるようになったので描いてみました。

<上の2つの図について>

 左の図のような意識で腹に気を押し込んでいく(気沈丹田)

 

 右の図は胴体を輪切りにして上から見たもの。

 ①全く丹田に気が集まってない状態。前後左右がない。(一種の無極状態)

 ②少し丹田が現れる。私たちが動こうとする時はこのオレンジのタネが必要。(タネは”生机”と表現される。生命、エネルギーの兆しが生まれる。)これが動くと身体が動く。(意識→気→身体の動き の意気力を簡略化して一つの点で表している。実際には意・気・力が時間差でバラバラに動いてしまいがち。)

 ③丹田の気を多くしていった状態。左の図の過程。

  ある程度大きくなると身体の中に前後左右が現れる。

  中正を保って動けるのはオレンジの円(球)の範囲内。

  それを越えて白の領域に入ると中正を失う。

 ④さらに気を溜めて、丹田の気を膨らませて腹に充満させた状態。

  この状態だと前後左右がない。(一種の太極状態)

  

  このまま丸ごと動くと、自分の背中や太ももの裏側も自分の前にあるような感覚があったりする。身体が全部前にある。(師父は踵は身体の中央にある、と言ったことがあり、「ん?踵は後ろにあるでしょう?」とチンプンカンプンだったが、チャンスーで自分を巻き巻きして動けるようになったら、確かに背面が自分の後ろにはないように感じる(一種の錯覚)。

 

  7/16の練習メモの中で、師父が「もっと前で動け」と言ったのは、私が③の状態でしかもオレンジの球を後ろの方に寄せて動いていたので、「このオレンジの球をもっと前に押し出して、背面も引っ張って速く動け!」ということだったのだろう。オレンジの球を前に前に押し出すことで ”威力”が生まれる。推手も同じ。オレンジの球を後ろに下げるのは相手の力を交わす時(化勁を使う時)。しかし寄せすぎて白の空間がなくなると後ろに倒れてしまう。前に出しすぎるとつんのめってしまう。

 

 ④の状態はその入り口しかまだ分からないのだけど、オレンジの球を一度前後左右に広げてしまうと身体の”撑”という四方八方に張り出す力が出てくる(パンパンに空気のはいったボール)。するとどこから押されても弾けてしまう(弾いているんじゃなくて、勝手に相手を弾け飛ばしてしまう)。このパンパン度が大きければ大きいほど、 Invincible:無敵になる。邪気も弾く。影響を受けない。

2020/8/17

 

 昨日の散漫なメモについて。

 

 <前から後ろ、後ろから前>、という話は、周身一家、即ち、全身を一つの気で丸ごと取り囲む、を実現する過程で行う作業だ。一度周身一家になれば前も後ろもない。が、その状態を四六時中保持できる人は滅多にいない。どんなにレベルの高い老師でも毎日地道に調整をする。

 

 周天で任脈と督脈を通すのが王道的な方法。が、いきなり周天はできないから、中丹田で気を前後に動かす練習から始める。そうやって気の量を増やしつつ、気の圧で身体の空間を開けていく。昨日紹介した六字訣などはまさにそのための一つの方法。後ろ向き歩きやバスタオル歩きはそれによって自分の内側の気の状態に気づくきっかけになる(これを繰り返しても気の量は増えない)。

 

 身体を割って分けていくのではなく、分断されている身体をひとまとまりにしていくのが太極拳の練習方法。身体を外側から操作すると身体は分断する。身体を内側(の感覚)から操作して内側から身体の空間を一つにまとめる。内側で一つにまとまれば、分断されていた外側(筋肉や骨など)も連携プレーで動いてくれるようになる。

 

 内側からそのように作った身体は万能。何にでも使える。

 外側から作った身体は、その競技、その目的にしか使えない。

 太極拳を練習して太極拳にしか使えないことを学んでいるとしたら太極の意味に反している。

 

 実際、どんな分野でも一流の人は、太極拳の原理に沿った心身の使い方をしている。

 以前、声楽家の生徒さんに馮老師の動画を見せたら、「この先生は一流のオペラ歌手みたいですね。」と言われた。

 一流の人たちには共通点がある。それは立ち姿、動き、佇まい、などに現れてくるのが面白い。

 

 最近娘から絶対に見るべき、と一押しされたのが、NBAスーパースターのステファンカリー選手の動画。なぜに今バスケット?と思ったけど、私が視聴しているマスタークラスでカリー選手が講師として講座を担当しているのを知ってとりあえずそちらの動画を見てみた。そうしたら・・・

 バスケットの試合の動画を見ずとも、立ち姿だけで只者でないのが分かる。

 ああ、すごい。この立ち方はただのバスケットボールの選手ではない・・・。

 

 立っているんじゃなくて立たされているよう。

 足裏ばビッタリ床に吸い付いてる。

 中心軸がまっすぐ。全くブレない。

 虚領頂勁

 身体の松

 

 下のドリブル姿は圧巻。

 

 そして彼が”アスレチック・ポジッション”と呼ぶのが太極拳での基本姿勢。

 シュートの時は脚の力を腕に伝える。

 ということで、膝は前に出てはいけない、ヒップに力を伝えられなくなるから、とデモンストレーション。腰が高くなる。

 そして脚の力でベースのなるのは足のアーチだ、と言って、足の使い方をスローモーションで見せてくれた。足のアーチのバネを連鎖的に下から上へと全身に伝えていく。足のアーチのバネを効かせるには踵からつま先までめいいっぱいに使う必要があるのが見て取れる。

 

 最初の立ち姿で周身一家、シュートの映像で昨日のメモの後半の要点(推進力、後脚の突っ張り)が見て取れる。

 周身一家のまま動こうとすると、膝は前に出られないし、足のアーチは潰せない。動きはそうならざるを得ない。

 

 総論<周身一家>

 各論<虚領頂勁 沈肩墜肘 含胸抜背 塌腰松胯 曲膝圆裆 扣脚 などなど>

 

 各論の全要領が同時にクリアされると総論が実現し「気」の世界に入る。

 練習を重ねて言ううちに「気」を整えれば各論が揃うようになってくる。

 

 ともあれ、彼のシュートの時の身体はクレーン車のよう。

 節節貫通、そのもの。

 そして足、脚、股関節、腰、背骨、肩、のバネ。身体がどっしり軽そうなのがバネのある身体。

 太極拳の命は弾性。

 参考になることがたくさんある。

 

 娘から見るようにと言われたyoutube動画。まさに”自由自在”に身体を操っている・・・若さっていいなぁ〜、なんて既に他人事のように見てしまっていた私でした。

2020/8/16 <前と後ろ 意識と気で身体を包む=ポン 後脚の突っ張り>

 

 一昨日の生徒さん達とのzoom練習会では、「後ろから前へ」ということを教えることに挑戦した。 

 が、この「後ろ」や「前」というのが曲者で、普段私たちは自分が自分の体の中で前の方にいるのか後ろの方にいるのか、自分がどこにいるのか、身体のどこまでが自分なのかをはっきり認識していない。

 

 分かりやすいのは、私たちが後ろにバックする時。

 以前、日本にいる陳式太極拳第伝承者の先生が興味深いことを話してくれた。その先生はその昔、中国や台湾で武者修行をしていたのだが、向こうの道場でまず習うのが、打たれた時にすぐに後ろに跳ぶ、ということだったらしい。道場といっても中国では基本外で練習する。絶対に回避しなければならないことは後ろに倒れて後頭部を地面に打ち付けること。だから、打たれたらまずは咄嗟に後ろに跳んで転倒を回避できなければならない。(youtubeなどで太極拳や気功のマスターが弟子を飛ばすデモンストレーションがあるが、それも多少そんなところがあるのかも?と思ったりもする。)

 私たちが、後ろに跳ぶ、後ろに退くとき、自分の意識は身体の前の方にある。もし身体の後ろの方に意識をもっていったなら転倒してしまう。とっさに後ろに下がる、後ろに跳ぶ、時に、もし目をつぶったら・・・間違いなく後ろに転倒するだろう。目はしっかり前方に釘付けておかなければならない→これが、『退歩の時は印堂穴(眉間のツボ)』という要領だ。後退する時は眉間のツボで後退する、絶対に目をつぶってはならない、これは套路の中の倒巻肱の時にその技の使い方と合わせて習うことだ。(八法それぞれ意識しなければならないツボがある。ポンは会陰、ジーは夹脊 ・・・cfhttps://www.sohu.com/a/252231437_300612

 

 以前ブログに書いたが、後ろ歩きがなぜ腰に良いか、というと、意識(自分)が体の前の方にある一方で後方に腰が膨らむようになるからだ。いわゆる腰が”空”になる。

 では私たち(大人)が進歩(前進)する時は?というと、時間に遅れそうで焦って歩いている時は意識は自分の前の方(腰は凹んでいる)、ゆっくり考え事をしながら歩いている時は意識は後ろの方(腰にどかっと座っている:腰は凸、骨盤後傾)、きちんと正しくあるこうと意識を真ん中におくと体はガチガチで腰も腹も凹みかなぁ?

いずれにしろ、後退する時に現れるような、<前方と後方への引っ張り合いのペクトル>が現れにくい。

 

後退する時は、意識は前方へ、腰は後ろへと引っ張られ、その結果、体がポンする:膨らむ。 イメージ図はこんな風かなぁ。

 

左が後退時。

右がよくありがちな前進時。

気の球(あるいは意識の球:身体を取り囲む紫色の線)が前進時には歪になってしまう。

 

 最終的な理想は、自分(の気、意識)が身体を取り囲んでしまうこと。自分が身体よりも大きくなること。簡単に言えば、子供の時のような身体に戻る、ということだ。そのために、丹田の気をせっせと溜めて気の球を膨らまそうとしている。(意識と気には密接な関係がある。気功や太極拳のマスターの中には相手が触れるか触れないかで跳ね飛ばしてしまう人がいるようだが、紫の気の球がパンパンに張っていればそれも可能、と思ってしまう。)

 

 先日紹介したバスタオルウォーキングは、腰にバスタオルを巻いて前に引っ張る時に、腰がバスタオルに押されるのに対抗して微妙に後ろに張り出すような力を使っている。すると後退時のような感覚で前進できる。皆が、歩くのが楽♪と言う所以だ。

 身体がひしゃげずに丸くポンすれば筋肉も神経も内臓も、全て自然によく働く。地球がひしゃげてしまっては困るのと同様、人体もひしゃげてはならない。(老齢になってたとえ肉体:第一身体がしぼんでも意識より高次の身体を丸く大きく広げられるようにするつもりで練習していくのだと思う。そこまで太極拳が想定しているかどうかは分からないが、道家なら射程範囲のはず。)

 

 そしてここからはイメージ図で。

 zoom練習ではまた六字訣を使ってみた。Huは脾、Chuiは腎だが、これは各々、身体の前方、後方を気で膨らませる効果がある。

 

Huの時は両手をお腹に、Chuiの時は両手を背中に(両腎の場所に)当てると膨らむのが分かりやすい。

 

この2種類の息の要領が分かったのを前提に、今回生徒さん達に要求したことは、このhuとchuiを同時にやってみようとすること。この時は声を出す必要はない。Huを言いながらChuiを言ってみる。

言ってるような感じでやってみる。

お腹と背中が同時に膨らむのが分かれば成功。

 

HuとChuiを同時にやったまましゃがんでみると、股関節ではなく、胴体が杭を打つように(股関節を割って)落ちていくのが分かるはず。これが太極拳的な(子供的な)身体の使い方。胴体力だ。

 

下は今日たまたまメトロのホームで見かけた女の子。離れた場所から一目見て、ああ、いた!まだ力に汚染されていない自然な立ち姿、歩き姿。立っているんじゃなくて、立たされてる。こんな風になりたい・・・と憧れもあって写真を撮らせてもらいました。

 

 

https://ameblo.jp/regalo318121/entry-12144239296.html
https://ameblo.jp/regalo318121/entry-12144239296.html

私たち大人が正しい姿勢を”作ろう”とすると、左のようにがちがちになって自分が身体の中に閉じ込められてしまう。意識・気の球(紫の球)も小さくなってしまう。

 

これに対し、上の女の子は、遠くから見ても、全身が一つになって、まるごと一つの球でほわ〜っとしている。

周囲のがちがち大人の中で、一人だけが天女のようだった。

 

後頭部から背中、腰、アキレス腱、踵まで身体の背面のラインがしっかり使えながら、前面のおでこ、腹、つま先までしっかり使えている。

 

大人がこの状態になるには一歩一歩進むしかないが、それにはまず背面のライン、腰、お尻、ハムストリング、アキレス腱(崑崙穴 太谿穴)をしっかり自分のものにすることが必要かと思う。

脚はしっかり踏ん張る。

女の子の後ろ足(右足)の踏ん張りに注目。

左のイラストの女性は足が踏ん張れていない。ただ床に乗せているだけ(→つま先が使えない)

 

 意識と気の球を膨らませるには後脚の突っ張りが必要なはず・・・

 (直感的、感覚的にそう。論理的にぱきっと説明できないので、その周辺をうろうろしています・・・以下、頭の中でのうろうろした考察です。)

 

 

 よく見かけるいわゆる”良い姿勢”がどこかおかしい、人工的で上の女の子のような自然な美がないのは、外側から筋肉を固めて形を作るからだろう。外側を固めると紫の球(意識と気の球)が小さくなってしまうので胴体の中で重心が移動できない。すると重心移動を脚でやるようになってしまう。胴体という箱を乗せた下半身だけが歩いている・・・老人にありがちな歩き方だ。

 

左の図をあげている以下のサイトでの重心移動の考察はとても説得力がある。

https://xn--fhqs97o.com/sprint-up-10/

 

上のイラストの正しい姿勢のお姉さんも、多くの太極拳の演武の形も、みな左のように、「進む力」=推進力がない状態になっているように思う。

 

重心が動くだけの胴体の中のスペースがない・・・

→蹴る脚の力が使えない・・・

 今では「後ろ重心はだめだ」という話をよく聞く。でも前に重心を移動させるためには、その前に背面を自分の意識・気で包み込んでおく必要がある。

 

 最初の話に戻すと、太極拳では進歩(前進)の時に使うツボは会陰だ。

 会陰を意識して前進するのだが、私が師父から教わった要領は、会陰を命門に向けて引き上げておくというもの。

 こうすると背面を包み込んでおくことができる。

 套路の中の斜行とか、その他前方への重心移動の時は会陰を命門に向けて引き上げておくことで後ろ足で地面を突っ張ることができる。

 

 後ろ足のつっぱり・・・とキーワードが頭に湧いて、その後、ペットショップにいったら、こんなワンチャンが。

 

そう、後ろ足が突っ張ってるからことの前進力。この突っ張りがなくなると前進力がなくなる。身体が箱になって四肢が机の脚のようになってしまうだろう。

 

人間も同じ(だったはず)。

女の子の身体に見たものは、このワンちゃんのような突っ張った後脚。これが足首、足に現れていました。

 

・・・今ひとつ話がまとまらないのだけど、考察としてはいっぱいいっぱい。今日はここまで。

2020/8/14 <”自分を信じ切る”から三性帰一へ>

 

   少し前に紹介した生徒さんのメッセージ。

 弱いと思い込んでいた自分の身体。それを一旦脇に置いて自分の身体を信じ切ってみたら、ずっとよく分からなかった”ゆったり安心して”という感覚が掴めた、という報告だった。

 

 この、”ゆったり安心して” というのがまさに”放松”した状態なのだが、面白いと思ったのは、放松するためには自分を信じ切る必要がある、という事実。

 一般的には、まず力を抜いてリラックスして放松すれば、気が腹に落ちて安心して、山のように泰然となる、という。

 が、やった人は誰でも分かるが、この”放松すれば”というところが曲者。

 「もっと放松しろ!」と言われてもできない。「どうやって放松したらいいのでしょう?」なんて尋ねたら「もっと力を抜け!力を使うな!」と返されて、それが分からないから聞いてるんだけど・・・とがっかりしてしまう。

 

 7年前になくなった馬虹老師は文にも長けていたが、同老師の「(太極拳は)松に始まり松に終わる」というのは劉師父もよく口にする名文だ。

 まずは、とにかく、できる範囲、わかる範囲で、「松」をする。

 静功では放松すると丹田に気が集まり次第に腹がどっしりしてくるのが分かる。静功が終わった直後は、視界もはっきりし、頭もはっきり、身体もしっかりどっしり落ち着いた感じになる。自分の周囲の空気がゆっくり流れているような気がしたりする。そこら辺の周囲の人が妙に落ち着きなくバタバタ動いているように見える・・・が、そういう自分もしばらく時間が経つうちに落ち着きのない世界に戻ってきてしまっている。

 そんな繰り返しを何度も何度もやって、落ち着いた時の自分の状態を少しでも思い出せるようになれば、その記憶を手がかりにその状態に入り込みやすくなる。

 

 少し”松”の感覚がとれるようになったら、それから”松”の程度を深めていく必要がある。

 すこし”松”しているのと、後ろで爆音がしても動じないような”松”、究極には、命が危険に晒されている時の”松”は程度が違う。

 生徒さんが課題にしていた、「ゆったり安心して」というのも、日常的にずっと「ゆったり安心して」いられるならマスター(師)レベルだ。

 少し身体を松させられるところから始めて、次第に心を松させられるようにする。

 心が松させられれば身体は緊張しない。

 練習は次第に身体から心に入り込んでくる。

 

 そして、上の生徒さんは「自分の身体を信じ切る」という方法に行き着いたということだったが、これを聞いて私は、あれ?これは『三性帰一』のことかも?と心が踊った。

 『三性帰一』というのは丹田に気を鎮める時に必ずやること。始めてタントウ功を習う時には必ず教わる要領だ(2回目以降はもう言ってくれないかもしれない・・・私も2回目以降は生徒さんに言わない・・・なぜだろう?)。

 簡単には「目で丹田を見て、耳で丹田を聴いて、心で丹田を想う」と言われる。

 それを『三性帰一』と呼ぶのは、「目の見性、耳の霊性、そして心の勇性を丹田で合わせて真性になる」からだそうだ。

 で? と普通は初心者の頃にこんなことを言われても分かるわけはないのでスルーする。けれど、どこかでずっと残る言葉。それに中国の老師達ち皆当たり前のようにこの言葉を口にする。

 そのうち練習していくうちに、目の”見性”は目を内収することによって曇りのない目、偏見のない目で見えるようになること、 耳の”霊性”は、耳を内側に引っ張り込んで耳を澄ますことで”冴える”感じになること、そんな風に感じるようになった(どんぴしゃ解答でなくとも方向的には間違えていないはず)。が、心の”勇性”が今ひとつ分からないまま・・・。

 

 しかし、私の生徒さんの”自分を信じ切る”の話で、はっと気づいた。これこそ、”勇性”の質。

”勇性”は強さの質だ。そしてその強さはどこにあるか、というと、心の中、自分に対する無条件の信頼にある。自分自身への信頼は”無条件”であって、決して客観的なデータ(eg.身体の強さや成績の良さ、他人からの賛辞など)からくるものではない。ここがミソだ。

 

 心の中に自分に対する深い底なしの信頼感、これが知性的な見性、直感的な霊性と合わさることで、真性になる、というのが丹田に落ち着くことの意味ではないか?と思うに至ったところ。

 頭(目と耳)だけでは怖くて戦えない。道を切り開いて進んでいくには心の勇性が必要だ。

 逆に、頭なしの心だけでは盲目的。正しい判断ができないだろう。

 

 ・・・と、そんな風に考えると『三性帰一』でなんと大それたことをやらせようとしているのか?と驚いてしまうが、普通はただ、丹田に集中する方法、丹田を内視する方法として使う言葉で、それ以上踏み込んでいく人は少ないのかもしれない。

 

 バクティというのは神を絶対的に信じることで、それによって解脱をするという方法(ヨーガ)もある。信じる、というのは頭ではなく心の領域。言葉のない領域だ。心の力は絶大で、心の力で頭や身体は良くも悪くもなってしまう(心で自分の身体を破壊できる:暗示の働き)。だからこそ、心を制する頭(特に見性=智慧)が必要になる。

 そういう意味では、神などの外の対象物を盲目的に信じるのではなく(気は自分から外向き、上向きに流れる)、自分自身への信頼感として落ち着く(気は自分の中にと内向きに、上から下向きに流れる)のはバランスのとれた賢明な方法だろう。

 

 私が劉師父に始めてレッスンを受けた時、開口一番に真顔で言われた言葉が、「太極拳をするなら強くなければならない。」だった。その時は、「打ち合いになったら勝たなければならない。」と言っているのかと思い、まさかそんなことするわけないし・・・と、心の中で思った覚えがある。その後師父と付き合うにつれ、「強い」というのは「身体が強い、病気をしない」ということ、「心も強い」ということだ、「ブレない」ということだ、と”強い”の意味するものが広がってきた。そして今は、「自分を信じ切る」というのも強さだと感じている。

 

 最初の話に戻ると、その時点で即座に自分を信じ切ることができれば速攻で放松ができる。身体を表層から徐々に緩めていくよりもずっと速い。フィジカル身体(第一身体)から一気にアストラル体(第三身体:感情体)まで飛び越してしまうのだと思う。身体や気を操作しているうちはなかなかアストラル体に入り込めない。静功で入静状態に入るというのはアストラル体(かその先のメンタル体)のこと。自分を信じ切ってそれを腹まで落としてしまえばその間はこのアストラル体の緊張が”なくなる。この状態を保持できている間は懐疑心や不信感とも無縁だろう・・・

 

 勇性の理解を進ませてくれた生徒さんに感謝。

 

2020/8/12

 

 今日まで猛暑。公園でエクササイズする人はめっきり減った。

 芝生で寝っ転がっている人達を横目に一人で練習・・・

 

 ちょっと前から、お腹の筒が何層かに分離してズリズリっと時間差で動くようになった。発勁の時のブルルン♪がこういう風にして起こることが分かってきた。関節はエネルギーの貯蔵庫(とヨガのマスターが言っていたのには驚いたが)で、関節、関節に溜めがあり、それを一気に使うことで爆発的な力がでる。が、関節以外にも、筋肉の層(深層、中中層、表層など)にも隙間がとれて、骨の回転が深層の回転へ、そして深層に擦られた中層が回転、中層に擦られた表層が回転、と連鎖反応を起こせることに気づいた。

 

 そんなことが分かるのは今のところ腹だけ。(そのうちお尻や太もも等でもできるようになるのか? 師父に聞かないとわからない。)

 腹の筋肉はどんな風についていたのだっけ?と家に帰ってざっくり調べた。

 腹筋と呼ばれるもの、これまたざっくり、4つ。腹直筋、腹横筋、そして腹斜筋(内と外)。

 へぇ〜、と嬉しくなったのが、腹直筋は縦軸、腹横筋は水平軸、この2つでお腹に赤十字のような印がはいる。そして内腹斜筋と外腹斜筋が左右にあって斜めのバッテン。何を思い浮かべたかというと、基本の動功での丹田回しが筋肉の走向そのままだった、ということ。驚きというよりも、然もありなん、という感じ。

 

 左は『世界一ゆる〜い解剖学教室』のサイトからお借りしたイラスト(https://anatomy-yoga.com/onakatokotubannnokinnniku/)に腹部と骨盤に丸印を私が書き込んだもの。(私はこのイラスト本を持っています。)

 

 

このイラストを見てたら、太極拳が、「腰・クワ」というのは、オレンジ色の丸と緑の丸、この二つを連動させる、ということに他ならないなぁ、と改めて思った。

 

そしてオレンジの丸は、中丹田。

緑の丸は、下丹田。

どちらも必要。

どちらかだけではダメだ。

 

頭の中にあるのは、昨日のブログの最後に付け足しのように書いた、「ウエストは細くしたまま広げる」ということ。

 

女性はオレンジの丸が作り辛い。

男性は緑の丸が作り辛い。

 

 女性は骨盤が広いから放松するとすぐに気が骨盤に落ちていく。

 しかし、その時に腹のオレンジの気がなくなってしまい、全てが緑丸になる→加齢とともにお尻が下がっていく。

 

 一方、男性は骨盤が狭いから、多少放松しても骨盤の上縁より下に気が落ちない。腹ばかりが大きくなりがち→加齢とともにお尻はただ小さく退化していく(女性のようには垂れない)。

 骨盤の中に気を落としていくには、女性以上にお尻を割ったりさまざまな努力をしなければならないのが性。

 

 男性が骨盤の緑球を作るにはオレンジ球を押し込む圧をかなり増やす必要があり、女性のように、オレンジ球が一気に落ち込んで緑の球になったりはしない。最初にオレンジ球が作れればその後は徐々に膨らませて押し込んでいけばいいのだが、男性の中には、もともと腹筋を鍛え過ぎて緩められない人もいて、緩められないとオレンジの球が作れないのでその先どうやっても太極拳の中には入っていけない。緩めて初めて気が溜まる、気が使える。

 

 

 

 オレンジ球があって緑球まで気が落とせていない場合、下半身、足裏に気が落とせない。根ができていない。が、姿勢も高く、ゆるい太極拳なので、身体を痛めたりはしないだろう。タントウ功や坐禅で少しずつ気を骨盤の中に補充していけばいい。自分のペースで。

 

 危ないのは、女性にありがちな、オレンジをなくして緑だけになってしまうケース。

 上半身が重過ぎて股関節や膝に過度の負担をかけてしまう。骨盤も開き切ってしまい、腰の締まりもなくなる。

 中腰の時はオレンジ球で身体を少しだけ浮かせてあげなければならない(バレエなら鼠蹊部を上に引っ張り上げて胴体と脚を切り離すような感じ、と言ったりする。太極拳なら松胯と会陰の引き上げの組み合わせで同様の効果になる)

 骨盤がバーンと開いて閉じられないような身体になってはいけない。骨盤の中で開合運動があることで子宮周辺も動くことができる。中医学の先生が言っていたが、女性の子宮はリュックの一番下に詰め込まれた物に似ている。その上にいろんな臓器が乗っかってきて、子宮に常に重さがかかって圧迫される。腹部は回して子宮に乗っかる重量を散らしてあげる必要がある・・・

 太極拳は開合拳。開いたものは合できないといけない。合の感覚は開ができないと分からないから、最初は開から練習するが、ある段階にきたら、合の練習をするのは特に女性は大事(と私自身の体験からもそう思います)。

 

 オレンジの球を失わないで骨盤に気を下ろしていく時に大事なのは、腹部を諦めない、深層に合を保っておく、ということ。(OMなどのマントラを使う時にもこの要領が必要。声楽家は絶対に知ってる・・・)

 が、それ以上、うまく説明できないなぁ、と思っていたら、今日、たまたま腹筋絡みで、面白いイラストを発見しました。

 https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/15/101900044/120400001/?P=2

 

 イラストをぱっと見た時、イケてるかも?と思ったのだけど、説明をよく読んだら、これでは伸縮性、弾力のある腹は作れない。

 

呼吸が問題。

 

口から息を吐き出してしまうと腹はしぼむ→内側の気が枯渇、弾力のある腹は作れない。筋肉ガチガチの腹になる(腹横筋より内側のコアとなる腸腰筋が使えない。腹がポンしない。)

 

実際には口から息を吐き出さず腹底に息を吐き込む

 

「口から息を吐き切る」で口から外にため息もらすように息をもらしてはいけない。

 喉を通して腹底まで吐き込みます。会陰をしっかり上げておくこと(ヨガのマスターは「ルート ロック」(root lock)と表現していました。)

 そうすると、腹は気をホールドしたまま膨らみます。

 

 そのあと、息を吸う時に、決して音がしないように、用心深く吸う。

 腹の奥がキュッと締まるはず。

 そうしたら次から吐いても吸ってもそのキュッとした締まりを外さないようにする。

  腹が大きく広がっても奥は掴んで離さない。

 

 そうやってゆっくりした呼吸を続けて次第に吐き込む息を強くしていくと腹のオレンジ球を失わずに緑球を形成していくことが可能です。

 

 これは普段でも練習できる。

 というか、普段でもやっていなければならない呼吸。

 息を常に腹底と連動させておく・・・吐き切ってそれから吸い始める時には決して慌てない。音がしないように、鼻のフィルターを細かくしてストローのように使い、ゆっくり吸う。暑い時もこうして空気の中の一番涼しい成分だけを吸い込むと多少涼しい気がしたりする。暑い時は雑な呼吸はご法度・・・と中学の時に担任(実は過去に少林寺拳法の日本チャンピオンになった人だと知ったのは随分後のこと)に教えられたのを思い出しました。 

2020/8/11 <バスタオルウォーキングの効用>

 

  昨日のブログの続きは先送り。

 

 外反母趾について調べものをしていたら面白いものを見つけた。

 その名も「バスタオル ウォーキング」。

 外反母趾になる理由は、「後ろ重心過ぎて、足が”ゆりかご”のように使えていない=足指が使えていないから」ということから、このバスタオルを使って歩く方法を考案したらしい。

 https://www.dreamnews.jp/press/0000207960/

 

 やってみたら、ああ、これこれ。タントウ功で生徒さんに説明しようとして説明しきれなかった現象。

 踵、アキレス腱、背中、後頭部とつないだ身体の最も後ろのライン(督脈)を通したら、できるだけ身体全体を前へ前へと寄せていく。百会と会陰をつないだラインをまっすぐ下ろしたら両足の真ん中にくるのがど真ん中のラインだが、面白いのは、最初からこのラインで立つ練習をしたらおそらく永遠にそのラインでは立てないということ。狙ったところには立てない。後ろから攻めていって気と意識で包んだ背面をそのまま前へ前へと移動するうちに、気がついたら自分が身体の前の方で立っていたりするが、たとえ身体の前のほうに自分がいても、背面がしっかり自分の意識、コントロールの中にあることが実感できる。もし背面が消えてしまっていたら、すでに中正を欠いている=リューされたら引っ張られてしまう。逆に後ろにいて、もうそれ以上後ろがなければ、推されれば倒れてしまう。

 だから、太極拳では周天(督脈と任脈で気を循環させること)を基本に練習をすすめる。真ん中のラインは督脈と任脈で挟まれた空間を凝縮したようなものとして現れてくる。

 

 ・・・と、書けば書くほど、分からない人にはますます分からなくなるのだけれども、このバスタオル歩きをすれば、タントウ功で背面(督脈)を通して、その背面を前方に推していく、という感覚が分かる。走るのが遅い子供を教える時に、コーチが後ろから腰を推して走ってあげるのと同じ原理だ。

 太極拳の練習では、時々この感覚を思い出すのが大事。

 どかっと中腰になると、後ろにいすぎて身体が重くなる。重い身体を一生懸命動かすと身体のいろんなパーツに支障がでる。養生のための太極拳がスポーツ障害を引き起こすような太極拳になりかねない。

 

 バスタオル ウォーキングをすると、文字通り、腰から動く、という感覚が分かる。

 慣れたらバスタオルを外して、同じように歩いてみる。

 腰ではなく、腰の前の空間、腹の空間で動いているような感覚もとれるかもしれない。

 動く時は何よりもまず腰、もしくはその前の空間が率先して動く。四肢はその後だ。

 腰は最も俊敏であるべき。

 私は今日の練習中、仙骨の前あたりに、ぽっかりと空間が空いて、ただその空間を潰さないように套路をしていました。

 

 家に戻って、左のような図を見てピンときたのは、人間の重心は仙骨の第二仙椎の前あたりにある、と聞いていたけれども、このバスタオルウォーキングをして、その後バスタオルをとって歩くと、その場所がぽっかり浮き出てきたりする、ということ。

 丹田は黒く固まった丹田ではなく、伸び縮みする白抜きの丹田のようにして現れる。

 

 一つ女性が注意すべきなのは、腰を広げ過ぎない、ということ。男性はその身体の構造上、骨盤が広がってしまう危険性は小さいが、女性は太極拳を男性と全く同じ感覚で練習すると腰が落ちクワが開き過ぎてしまう。腰を高くする=ウエストをいつも細めにする(腰を開いても腰は内側で締めておく)のが大事。腰=ウエストが崩れると全てが落ちていく。会陰の力だけでは内臓は引きあがらない。太極拳を練習して尿もれや痔になったという人が中国には多いようだが、それは会陰の引き上げだけの問題ではなく、ウエスト・腰でのホールド力がなくなっているから。大会の演武でよく見かける腰が落ちた太極拳は若者のエンターテイメントとしては楽しめても、養生としてやる太極拳ではご法度だ。

 ・・・と、腰が(空気で)広がっても”腰が高い”とか”腰に締まりがある”とか、”ウエストが細め”という感覚も、このバスタオル ウォーキングをすれば味わえるのではないかと思うので、紹介してみた次第です。

2020/8/10 <生徒さんのメッセージから>

 

  私の生徒さんの一人から、8/6に書いた二種類の坐禅への入り方のメモは、まさに混乱してよく分からなくなっていたところなのでグッドタイミングだった、とメーセージをもらった。

 その生徒さん(女性)とはかなり長い付き合い。

 最初の1年くらいは、毎週レッスンに来て一番前で真面目に練習するのだけど、いかんせん笑わない。私のレッスンは不満なのかなぁ?なんて頭をよぎったこともあった。が、毎回必ずレッスンに来る。クールで人とは付き合いたくないタイプの人のような印象があったが、その後、それまでの室内会場が使えなくなって御苑の屋外練習に移行した頃から、彼女はみるみるうちに心を開いてくれるようになった。屋外練習になって心が開いた?なんて彼女に言ったことがあるかもしれない。練習に対してもとても意欲的になり、他の生徒さん達とも積極的に交わるようになっていった。私がパリに来る直前の壮行会は彼女が幹事になってくれた。

 

 ところで、左の写真は目下、フランスでも中国でも大人気の柴犬。彼の座り方は完璧!督脈が立派に通っている。叶姉妹の比じゃない。こんな風に座れるなんて。。。理知的でカッコいい♪ Shibainu が人気があるのが分かる気がする。しかも立派な胴体に比べて太もも以下が貧弱で妙にかわいい。立ち上がるのはちょっと無理そう・・・腰のS字カーブが必要になる。


 坐禅を上から放松してやるのか、下(台)から作るのか、どちらからやっても完成形は同じ=右の柴くんの頭部と胴体のようになるのだが、太極拳、道教の無為自然のタイプはまず放松から始めて腹を養う。最初から柴くんのように骨盤を立てて座ると私たちの場合は腰が反って胸が出てしまい放松がし辛い。柴くんのようには身体が緩まない。心がリラックスしない。こうしなきゃ、ああしなきゃ、これはダメで、こうもダメ、あ〜、できない!! そんな風になってしまったら自己嫌悪の悪循環。自己嫌悪は自己否定、自分を弱くする・・・

 

 話を戻すと・・・

 上の生徒さんが面白い発見を教えてくれました。

 自身のメッセージを私のブログに載せることを快く了解してくれたので、以下、私たち二人のやりとりを紹介します。

 放松の正体・・・”敢松”(勇気を持って放松する リラックスするには勇気がいる)と昔師父が言った言葉が突然蘇ってきた・・・そんな彼女との会話で私が気づいたこと、私の新たな発見はまた後日整理します。

 

<生徒さんからのメッセージ>

 昨日の先生のブログ、まさに私が最近しっくり来てなかった坐禅についてのお話でした!

座って骨盤立てると、気が溜まらない、気を溜めようとすると、骨盤が寝てしまう、、、あれ?坐禅ってどうやるんだったっけ?と頭の中??になって結局立ってタントウ功やってました。

 

少し前の、心身強いか弱いかの話の時から、だいぶ前に劉先生から言われていた「ゆったり、安心してやる」こととはどういうことかとずーっと考えてました。「ゆったり、安心して」というのはもしかしたら自分の身体に対する信頼感ではないかと思い至るようになりました。

自分の身体を100%信じられれば「強い」(もしくは強ければ信じられる)、信じられなければ「弱い」(弱ければ信じられない)

私は自分の身体が「弱かった」記憶があるので、100%自分の身体を信じ切ってませんでした。多分それが、「ゆったり、安心して」やることを阻害してたのかなと。どこかで自分の身体を疑っていたような(?)

最近、ベッドに入って寝る前と、朝目覚めたとき、横たわったまま「自分の身体を信じ切ってみる」ことを意識的にやってます。すると、タントウ功の要領そのまま「目が引ける」→「喉の奥が開く」→「肩甲骨の間が開く」→「含胸になる(!)」→「腰が緩む」→「お腹がゆったりする」

ことを発見しました。寝ててもタントウ功ができる!(笑)

これを発見してから、套路がちょっと変わったかな?

「ゆったり、安心して」ってずっと、どういうことなんだろう?とちょっと前までピンとこなかったのが、なんだ、こんな単純なことだったのか!とちょっと拍子抜けした感もありますがたぶんそういうことなんですよね。

 

<私の返信>

結局それが、「放松」のようです...

劉先生が、"敢"松、と言ってたそれをもっと具体的に言ってくれた感じです。

ブログで説明した方が良いかな。

あと、信じ切る、と、ブレがないから意が定まる、気が丹田に落ち着く、身体もしっかりする、となるはず。

 

ヨガのバクティヨガの手法のようだ。

実際には"信"は胸のチャクラが開く(膨張する)。これを腹に下げると気が落ちつきどっしりしっかりする。

このあたりも関係ありそう。とても面白い体験ですね。

 

<生徒さんの返信>

「信じ切る」→意 が身体を開くの、面白いです。

でも、ただ言葉で「信じ切る」と唱えてみても駄目でしょうね。

 

先生の解説聞きたいです。

ぜひブログで解説お願いします。

でもよくよく考えてみると、私が自分の身体をどこか「疑っている」ことを気付いてすらいなかったんですよね、つい最近まで。あれ?私、自分の身体疑ってる?→ なら信じてみよう

私の疑い深い性格とも関係してるのかしら?(苦笑)

 

<私の返信>

してると思う(笑)

というよりも、過去の記憶をずっと持ち続けて刷新していなかったことが問題。

子供の時に褒められて育つと自信がつき、貶されて育つと自信がなくなる、そんな現象に似てる。

過去の評価で自分にレッテルを張り、何度も思い返すことでレッテルを自分に擦り込んでいく。暗示がかかります。

どうせなら暗示は肯定的に。

さらに進めば、今、ここ、だけみてればいいから、強いも弱いも関係ない。その時対処するのみ。弱いとか強いとか考えた時点で丹田外してる(苦笑)

 

自分を信じ切るのは思考じゃない(頭、言葉の世界じゃない)から丹田を外さないしかえって強固にします。

(弱いとか強いは頭で考えてること。言葉のない次元では弱いとか強いとか思えない。仏教では、妄想、と言います。)

 

 

・・・今日はここまで。

 

 と、追記。

 中国サイトで検索して出てきた柴犬の写真、実は出どころはイギリス。TV、ネットフリックス中毒になった柴犬、Chikoとのことでした。https://www.catersnews.com/stories/quirky/watch-dog-the-shiba-inu-addicted-to-tv-movies-and-netflix/

  びっくり。

2020/8/9 <拍手功 下半身の秘密>

 

  今日から師父は1ヶ月不在。いない間に46式をやり込んでおくことを命じられたけど、できれば太極剣の予習を一通りやってしまって師父を少し驚かせたい。

 と、思っていつもの公園に向かったけれど、今日は劇暑。昨日から熱波が到来していて日の出時間が遅いパリでも午前中のうちに34度まで上がっていた。あまり余計なことはできないなぁ、とルーティーンの練習をする。

 拍手功はこの一年で充実度が数倍になった。拍手しながら、片足ずつアキレス腱を蹴りながら前に進んでいく。たったこれだけ、の単純な練習だが、師父が特別重要視している理由がやればやるほど分かってくる。先週はやりながら、足首に錘をつけているような感じになり(アンクルウエイトなるものがあるようだ)、とたん脚さばき(股さばき?)が軽快、かつ足(feet)の威力が増した。右脚を出せば左脚が吸い付くようについてくる、左脚を出せば右脚が吸い付くようについてくる・・・なるほど、46式(炮锤)の打撃の時に師父と足さばきのリズムが違う、と感じていたのは、これが理由だったんだ、と納得。(48式の連珠炮の足さばきなども同じ原理)

 今日は、この拍手功が実はヨガのカパルバティ呼吸法と似たような効果があると気づいたけど・・この話はまたいつか。

 

 脚さばきの感覚が少し分かってからマスター達の動画を見ると、その下半身がまさにそれを基礎にして作られていることが見てとれる。上半身よりも下半身に秘密があるのだ。

 太極拳は下半身の力を腕に伝えている。いかなる動きにおいても地面に垂直に吸い付く足、これが可能になるような身体を作ることで地面からの反発力をロスなく拳に伝えている。

  

 上の左のGIFは馮志強老師の炮锤の中の进步螺旋冲炮。この技の発勁の要になるのは、右脚についてくる左脚の足だ。右脚と左脚が別々だと技にならない。右脚と左脚が丹田で繋がって一本の脚になっているからこそ可能な技。

 太極拳はこのような下半身が拳の核心になっている。

 若い頃の陳小旺老師の発勁の連続の動画を見ても、下半身に注目すると実はそのような下半身の動きの連続だということが分かる。

 

 拍手功を道でやっていると、フランス人のおじさんがニコニコして真似してついてくることがあるけれども、実は単なる養生法に止まらず、その先にはこんな凄い打撃の世界が広がっていたのだ・・・外から見る人にはそんなことを考えて拍手しているとは分からないだろうなぁ。

 太極拳の練習はほんとうに地味だ・・・。

 

 久しぶりに陳小旺老師の過去の動画を見たらワクワクしたので動画を紹介しておきます。

 そして私の好きな馮老師の若い頃の動画。こちらの下半身も同じ使い方。馮老師の方が全身が丸く柔らかい。その後養生の色合いがさらに強くなっていく。混元太極拳の特徴。

 2020/8/8 <大地に根ざす→虚領頂勁 自分の身体に落ち着く 自然な開きと伸び>

 

 パリにはアフリカから来た人たちが沢山いる。

 どちらかといえば、ロンドンにいるアフリカ系の人たちよりものんびりしている感もあり、何と言っても女性が華やかだ。

 特に夏のパリは彼女らの大胆さ、美しさが目立つ。彼女らどっしりおおらかな安定感がある。たとえ若くてモデルのような体型でも活き活きと健康的で大地に根ざしている。

 

 今週練習中に大きな荷物を頭に載せて普通におしゃべりをしながらどっしり歩く女性を見かけた。彼女が振り返って仲間を待っている時、私は彼女のほぼ真正面にいたのだけれども、彼女の存在感に圧倒されてしまっていた。(その存在感は馮老師や劉師父を凌いでいたかもしれない・・・)彼女が向こうへ歩いていって、やっと、そうだ、写真を撮らなきゃ、と慌てて携帯を取りにいったが、撮った時には彼女は相当先に・・・

 そうしたら、一昨日、家の近くでまた荷物を頭に載せたアフリカ女性を発見! 今日こそは、とビデオを撮りました。彼女が歩いていたのはブルキナファソという国の大使館の前。きっとその国の女性に違いない。

 

 よく見たら頭に載せてるのはスーパーの大袋。ジッパーもないペラペラの袋。これに荷物をいっぱい入れて持ち手を縛って頭に載せてる。よくぐらぐらしないなぁ、と感心するけど、動画の中にあるように、ぐるっと後ろを振り返ったり、手放しでも何の危なげもない。写り込んでしまったフランス人の女性の立ち方がかえって気になったりする。

 右端の写真は最初に公園で見かけた女性。この女性の荷物も大きかった・・・

 

 ブルキナファソ、という国のことは全く知らなかったのだけど、上の女性を見て気になり検索してみました。そうしたら頭にミルクの入ったボールを載せて歩く女性たちの写真(冒頭写真)などが出て来た。なんて美しい〜

 

 私が羨ましいのはこの堂々とした肩のライン。現代日本人が失ってしまった肩の本来の枠組みだ。この肩枠があるから首が自然に立ち頭頂にものが普通に載せられる。虚領頂勁を自然にやっている。頭頂の百会は「百脈の会い交わる場所」(百脈交会之処)。ここに力があるというのはその下の身体の全ての経が滞りなく流れている=アライメントが正しい、ということだ。

 本来人間はどのように立っていたのか、私たちは彼女たちから学んだ方が良い。

 

 得るものがあれば失うものもある。

 私たちが失ったのは身体に対する自然な自信。彼女たちの身体は自然に開いている。たとえ裸でもいやらしさがない。

 

 下は今日練習の帰り道に撮った写真。

 同じような広告でも欧米人と比べると健康美が前面に出てくる(下の上段の2枚の写真)このアジア人バージョンがあると雰囲気はまた違うだろう。

 駅のホームに立つ人を見ても、欧米人の立ち方は日本人よりは真っ直ぐ、とは言っても、アフリカ系の女性達には敵わない。太ってようが痩せていようが、身体に対するストレスが少なそうなのだ。

 電車に乗っていた女の子の首筋もきれいに伸びていて、膀胱経をそのまま見ているようだった。降りて歩く姿からは、きれいなアキレス腱・・・アキレス腱がしっかり伸びているのは身体が”撑”している証拠。

 そして最後の3人組は実はアメリカ人(アメリカ英語を喋っていた)。歩き方がパリにいるアフリカ系の女性より崩れていたけれど、一番右の女性は真っ直ぐだった。アキレス腱が伸びてきれい。

 

 

 こんな風にアフリカ系の女性達の身体を見ていると、私達日本人女性は世界の中でも最も身体に対して呪縛があるのではないかしら?なんて思ってしまう。仕方がない、小さい頃からいろんな躾を受けてきているんだから・・・。私の娘も、小学校の時にキャミソール姿で登校したら先生に肩を見せてはいけないと注意を受けたと言っていた。痴漢がこんなに酷いのも日本くらいで、フランス人に痴漢の話をしても何が面白いのか?とチンプンカンプンのようだ。日本は性の倒錯も酷い。隠す文化が陰湿な文化になりませんように。

 呪縛は縮こまった身体になる。(私も含めて)日本人の身体は特に縮こまっているように見える。伸び伸びとしていない。子供の頃からすでに縮こまっているなんてとても不幸・・・。

 心が縮こまっていたら当然身体も縮こまる。身体を開く、というのは開脚や前屈ができるようになることではない。ストレッチする、ということではない。

 ブルキナファソと検索して見つけたこの写真は圧巻! スーパーモデルも敵わない。

 説明は要らないと思います。  (以上、写真はリンクをつけています。)

2020/8/7 <お尻は股関節 腰腹とハムストリングスで股関節を使う>

 

  加齢とともにお尻が衰退していくのは人間だけではない。動物達も皆そうで、犬や猫の年齢はお尻を見るとすぐに分かる。うちの老犬や老猫は、食べて太ってもお尻は大きくならない。お尻は痩せる一方だ。動物にはお尻という概念がなくて、お尻に見える部分は太ももだから、下半身(後ろ足)が前足よりも先に衰退していくのが良く分かる。

 人間の女性のお尻の形の加齢による変化は私も良く知っている。こんな写真がとりあげられているブログがあった。https://ameblo.jp/rinrin46ping-biyou/entry-12422536749.html

 

 上の写真に私が思い当たることを書き込むと下のようになる。

 ①30代のお尻に書かれた”たわむ”位置。このお尻と太ももの境目に承扶ツボという膀胱経のツボがある。太極拳で「坐クワ」という時はここのツボに坐る。昨日の叶姉妹座り、で姉妹が指導していた通りだ。

  立つ時もここに乗って立てたら・・・子供ならともかくも、大人でこの位置に自然に立てたら達人だろう。骨盤がクルッと前回転している必要あり(加齢とともに骨盤が後傾する→腰が伸びていく=落ちていく)(ごくまれに骨盤が前傾していく人がいるけれど、その場合は腰椎の狭窄症になっている場合がほとんど。)

② ヤコピー線は骨盤の上の縁の高さのライン、腰椎4番の位置だ。40代、50代でお尻が下がってくるのはお尻の問題よりも、その上の腰・丹田(肋骨下縁からヤコピー線まで)の気が減り力がなくなり下がってきたせいだ。丹田。腰に気を持ち上げておく力が減る(会陰の引き上げ力の減退)

③60代以上でお尻が内側にすぼんでしまうのは②の延長線の現象だが、丹田と腰に気を引き上げておけないと側面の外クワ、中臀筋や仙骨から尾骨を走る膀胱経を引っ張って桃のようなお尻のラインが描けない。いわゆる内クワに力がないと左右のお尻を引き離しておくことができない。

 

 なお、タントウ功をある程度やっていくと、外クワは足の外くるぶしから小指のライン、内クワは足の内くるぶしから親指のラインに相当することが分かってくる。足(feet)とクワが対応するようになれば、足でクワを開くなど、調整が可能になる。

 最近分かってきたのは、立った時に、身体のある部分に対応する足の中の場所を探せるのだということ。功夫が上がれば上がるほど、足で操作できる身体の部分が増えていく。それは即ち、足の上にそびえる身体のどの部分も足の上にマッピングできるということ。これがまさに足裏療法の原理なのだ・・・けど、本人に繋がりが感じられない時にも効果があるのかどうかは私には分からないのだけど(師父はあると言います)。

 

 男性の場合は、女性と違って、ヤコピー線から気を下ろすのがとても大変なので(仙骨が動きにくい)、加齢とともに下丹田や足に気が落ちず、中丹田(腹、腰部)が大きくなってお尻が相対的に小さくなり脚が細くなっていくのだと思います。

 

 結局、お尻、下半身の衰退を最小限に止めるにはタントウ功をするのが最も効率的で、女性の美容向けの記事に書いているような、マッサージや補正下着ではどうしようもない、というのが本当のところ。しっかり使えるようにするために、きちんと立ってきちんと坐る練習をするしかない。

 

 「老化は脚から」とか言ってやたら歩いたりする人がいるが、日本人にありがちな”脚を鍛える”という意識で運動をすると膝を壊してしまう。脚を鍛えるのではなく、”股関節のあるお尻”、そしてその股関節=お尻を胴体に引きつけるための”腹・腰”を鍛える感覚で歩いたり運動したりする必要がある。まさに腰とクワ、この二つの連動、太極拳の要の要だけれど、それは太極拳の話ではなく、人間の動きの基本だ。

 

 陸上に関係するサイトですが、とても分かりやすい記事があったので紹介します。

 めちゃめちゃ楽で反発を逃がさず利用する腰を乗せた走り」

 https://xn--fhqs97o.com/form-koshi-noranai/

 この中の”反発”と”腰を乗せた”という言葉に飛びつきました。

 

 膝を曲げて腰を低くしない!

 <手押し車を肘を伸ばさずに曲げっぱなしでやるようなものです> ←なんて素晴らしい例え

 

 膝は伸ばして腰は高く!!

 

  そう、巷で普及している太極拳は膝が曲がって腰が低い。馮老師や師父などの真の武術家の太極拳は腰が高い(でないと実践で使えない。膝が曲がって腰が低いと動きがトロくなる。ブルースリーだって、ボクシングの選手だって皆腰が高い・・)

 

 そのあと、どう意識して身体を使うのか、なども書かれています。参考になります。


<下の画像>

 左上(上のサイトから) 脚はおへそか腰のくびれから動かすイメージ。

 右上(上のサイトから) ハムストリングスを使うとお尻が使える。

 下の写真は私のタントウ功(昔と今) 腰が低い VS 腰が高い

 

2020/8/6 <坐るための二種類の方法:含胸型VS坐胯型 坐クワ=お尻に坐らない>」

 

 座り方について。

 これも一昨日と師父と確認したばかり。

 

  昔は坐禅をするのに、まず胸の気を下に下げて丹田の気の量を増やす、ことを重視した坐り方を教えられた。

 

即ち、含胸、命門を開くことを重視。

クワに坐ることは諦めて、骨盤を立てないまま坐る。

 

ちょうど左の写真のおじさんのような坐り方だ。

心地よく坐って、ほっと安心、気が腹に落ち、静かになる。心拍数も脈拍も落ちる。眠たくなる可能性も高いけど、足が痺れて困ったりもする。

 

こうやって坐って次第に丹田の気の量が増えたら、徐々に丹田の気を回して(逆回転:任脈側を下げ督脈側を上げる)骨盤を立てていく、そういう過程で進んでいった。

 

 今では、できるだけ早いうちに骨盤を立ててしまう。骨盤を立ててクワに坐った状態からスタート。仏教の坐禅の練習やヨガの練習のようにお尻の下にクッションを入れたりしてクワに坐りやすくしてもよいが、最終的にはクッションなしでクワに座れるようにする。

 クワに坐ると、相当の修練者でない限り、腰が反って胸が突き出る。

 これでは気が上方向にしか動かず、根無し草になってしまうので、そこから含胸をして命門を開き、気を会陰の方に下ろす。S字カーブを描いていた背骨はほぼ真っ直ぐになる。

 突き出た胸を含胸で入れて腰を開くためにはかなりの気の量が必要だ。

 

 最初の「含胸・命門開く」から始める方法(ここでは「含胸型」と呼ぶ)は、背中や腰が左右に広がって気が腹に落ち、放松しやすくなる。まず開いて下げて、後から締め(合して)上げていく方法。

 一方、「クワに坐る=骨盤を立てる」から始める方法(ここでは「坐クワ型」と呼ぶ)は緊張形。気が頭の方に上がり、そのままでは丹田に気が溜まらない。内側に入っていけない。だからそこから徐々に含胸をして気を下げ、身体を内側から広げていく。これはまず締めて(合して)上げて、あとから下げながら開いていく方法。

 

   「含胸型」上から下(面をつくる:開)、それから下から上へ(中心線を通す:合)

 「坐胯型」下から上へ(中心線:合)それから上から下へ(面:開)

  

 ・・・収功でこの二つを交互に自然にやっていそうだ。

  

 この「含胸型」と「坐クワ型」、それぞれ坐禅中の気の使い方はこんな風になるかなぁ〜、と描いてみたのが下のイラスト。最終的にはどちらも同じ形になる(右端のドラム缶)。

 

 

 

 私自身、今でも疲れている時は「含胸型」から始める。気が溜まって元気が出てきたら立ち上がっていく。股関節の開きが良くて、最初からある程度腹に気が溜まっている時は「坐クワ」から始める。上から気を入れていき、含胸にする時に関門になるのが、喉と肩。首や肩がゴチゴチだと息で首や肩の形を変えられなくて含胸ができない。首や肩の力が抜ければ息が突破できる。含胸ができれば横隔膜が動くので少し楽になるが、その後もおそらく上の図の赤の横線の部分が関門になる。息の強さは丹田の気の量に比例する(?)と思うので、息が上から下に貫通させられなかったら、少し坐クワを譲って「含胸型」でやることになる。

 師父でさえも、気を抜いたらドラム缶一歩手前の坐り方になると言っていた。馮老師はドラム缶だった。私は相当頑張らないとドラム缶にならない、し、なっても短時間で崩れそうになる。

 坐ること自体が相当な練習。

 外で練習できない時は坐禅だけしておけ、と言われるのはそういうこと。

 入静状態に入るための坐禅もあるけれど、身体を開発するための坐禅もありありです。

 

<坐胯について>

 坐クワは太極拳でも大事な要領。クワに坐ると股関節の可動域が広がり(狭まらず)股関節や膝に負担をかけるのを防ぐ。体躯もしっかり使える。

 最初のうちは股関節が硬いので、まず、松クワ、をします。

 

 

 これまで何気なく坐クワと言っていたけど、改めて叶姉妹の「叶姉妹座り」を見たらしっかり、坐クワ、とはどういうものか説明していました。

 お尻をつぶさない! つまり、坐る時はお尻に坐ってはいけない、ということ。

 叶姉妹の動画を見せたら、さすがの師父も少しはにかみましたが、すぐに、「胸が出て腰が反ってるから良くない!」と正してました。彼女らはここで完成ですが、内側の自然な調和に進むには、ここから気を腹に下げていかなくてはならない・・・

 (下の少々過激な画像たち、画像にそれぞれリンク先を貼っています。)

2020/8/5 <体験と理論の一致 気が満タンで垂直 坐る 脚の伸び>

 
  缠丝劲とか抽丝劲とかについて書いてはみたものの、こういうものはできるような身体の状態になった時にやればできてしまうという類のものだから、全くピンとこない間はそういうものがあるということを知っていればいいと思う。今チンプンカンプンのものは考えても分からない。
 
 馮老師のテキストは劉師父に習いだした時にすぐに購入して、套路を一式学ぶたびに、そのテキストの該当部分に書き込みをしていた。と言っても、文章を読んでも全く分からない。中国語の問題もあったけれど、中国語で意味がわかったとしても意味が分からなかった。ただ馮老師の写真に書き込みをしていただけ。
 テキストの前半部分はまさに太極拳の経典で、中国でもいろんな老師が馮老師の文章を引き合いにだしている。もちろん最初は数文読んでギブアップ、いつか読めるようになるのかしらん?と疑心暗鬼だった。劉師父は本を読むな、と言う。読むと理論が先行して練習に支障を与えるからだ。
 太極拳は哲学ではないから、身体を使った実践で知る必要がある。本などで知った理論を追いかけて練習するのではなく、練習で知ったことを理論で確認する、という方法だ。先に体験があれば、理論を聞いた時に、なるほど〜、と腑に落ちる。体験が理論で裏落ちされるとしっかり理解される。
 馮老師のテキストは、どこを開いても素晴らしく、開いた場所を少し読めば「ああ、そういう事だったのか・・・」と宝に遭遇する。経典を読むというのは宝探しをしているようなものかもしれない。宝が見えない人はスルーしてしまう。宝が見えるかどうかは自分がその体験をしているか否かにかかっている。体験が増えれば増えるほど多くの宝に遭遇する。
 
 今日師父と一緒に馮老師の動画をいろいろ見ていて、歳をとっても気が満タンであることに二人で感嘆していた。年取っても子供のような全身一個の鞠のようなのだ。気が満ちている、というのが太極拳、養生法、修行法、すべてにおいて最も大事なことであることを再確認した。気が満ちていれば自然に身体は内側から整うし(関節にも気が満ちるので、腰痛や膝痛と無縁になる)、心も広く寛大になる。ストレスにも強くなる。お金は貯めすぎると負の面がでてくるが、気はどれだけ貯めてもいい、と言うらしい(中国人が皆そう言うとは思えないけど 苦笑)。
 それにしても、なぜ馮老師は最後まであんなに気でパンパンだったのか?と師父に聞いたら、「もともと先天性のものもあるし、それに加え、タントウ功を重視していた。それに、あるレベルに達すると、何をしていても練習ができるようになる。特に座っている時は坐禅でなくても気を溜められる。」と言った。
 それを聞いて、私は、2013年(うろおぼえ)に馮老師の家を団体で訪ねた時のことを思い出した。私はラッキーにも馮老師の隣に座っていたのだが、その時馮老師は(おそらく大腸ポリープの)手術をした直後ということで椅子の上にドーナツ型の座布団を敷いて座っていた。が、馮老師はすこぶる元気で快活に冗談をとばしながら皆に話をしていた。横に座っていた私は、となりに大きなドラム缶が座っているようで、そのズドーン!とした感じに圧倒されていた。今思い出すと、馮老師の座り方はズドーンと垂直。頭のてっぺんの皿と骨盤底筋の皿を上下とした鉛のような円柱になっていた。密度が普通の人間より高く、体積に比べて重そうなのだった。私たちが帰る時に、エレベーターのところまで歩いてきてくれた時も、スタコラ歩くのに重そうだった。そしてエレベータのドアの前に立った馮老師はやはり垂直だった。しっかり重力に引かれている・・・磁力もしっかり得ている・・・そういうことなのだろうか?
 座り姿に付随して、私は自分の母親の座り姿も思い出した。彼女はいつも垂直にどっしり座っている。そういえば崩れて座っているのを見たことがない。私の生徒さんの中に私の母親と同じ歳の現役映画監督の女性がいたが、彼女も垂直にたち、垂直に座っていた(=骨盤がきちんと立っている)。二人は今年78歳だけど、共に現役。とても健康だ。私の母親は数年前に、田んぼの溝に車の後輪が落ちかけているのをどうにかしようと、自分一人で頑張って車を少し持ち上げようとして腰椎を圧迫骨折してしまった。3ヶ月仕事を休んで(彼女は看護師)また復帰、腰椎を負傷して踵が痛いなどと言っていた頃もあったけど、今も毎日病院で走り回っているからすごいと思う。家にいても暇を持て余すから仕事をしている、というけれど、そのエネルギーは健康だからこそのもの。
  話を戻すと、座り方はとても大事。いや、座り姿を見ればその人の身体、中でも丹田の気の状態が丸わかりだ。会食をしていても座り方がだらしなくなる男性はとても残念(女性なら悲惨?)で、丹田鍛えた方がいいなぁ、と内心思ってしまう(職業病)。先日紹介した若いロシアのピアニストも、今はとても良いけれど、10年後20年後に姿勢がどれくらい崩れるかと思うと心配になってしまう。丹田の気が減って骨盤が後傾してしまうと、それまでと同じように弾いているつもりでも同じにはならない。本人もその理由が分からないかもしれない。歳とっても気が満タンでお尻がどっしりと座っていたルービンシュタインやホロヴィッツは特別な健康法をやっていたのか?と疑問も湧くけれど、そんなことをしていたようには思えない。ピアノを弾くこと、弾く姿勢、心構えすべてが修練であり健康法になっていたのだと思う。
 しっかり落ち着いてどっしり座れたら、それだけで健康法になる。
 そしてそのよう座れるようになるために、私は太極拳の練習をしているのかもしれない。
 ハタヨガで坐禅のできる身体を作る、それと同じように。
 立つのと坐るの、これがちゃんとできるならすでに健康だ。
 椅子の理想的な座り方についてはまた書きます。
 ここでは一昨日駅で出くわした、理想的な立ち方、脚。
 「内腿の伸びが良く、内腿から内踵に向かったラインが親指へとスッと抜けていくような脚、そんな脚の身体の腰は弾力があり締まりがある。」そんなことをある整体の先生の本で知って、それがどんな感じかずっと分からなかったけど、この女の子の脚を見た瞬間、ピンと来た!これだ‼︎と。これは私自身の体験ではないけれど、他人のその状態を見て分かった、という例(苦笑)
 ・・・太極拳をやって、こんな脚になりたい!(と言ったら、師父が、無理だ、と平然と答えてくれました。大人には無理、だと。でも方向性は正しい、と言ってくれたので一安心。太極拳やって太く短い脚になったら間違えてる。筋を伸ばす。筋肉をもっこりつけない。)
<下の写真>
 太極拳の時、タントウ功の時は膝を緩めて腰を落としていますが、立ち上がっている時は膝裏はしっかり伸ばします(気を溜める時はクワや膝裏を緩める)。すると腰は細くなる(締まる)背骨がすっとまっすぐ通り、背が高くなったようになります。
 彼女の立ち方が美しいのは、足裏まで気が落ちてしっかり地面を踏んでいるのに、地面からの反発力ですくっと上に伸び上がったような脚であること。この脚のように、突っ張り棒のようになっているのを、”撑cheng"と中国語で言います。太極拳はこの”撑"の力が基本(合気道も同じ。伸筋を繋いでいくのだと理解。)
 練習では、まず足裏まで気を落とすのが第一段階、それから会陰を引き上げて足裏から気を上に引っ張り上げていく(=丹田に気を溜めていく)のが第二段階。
 この女の子の正面を見ていないのだけど、きっとりっぱな丹田をしてるに違いない。先天の気のなせる技。
 自然で力強い健康体の女の子。見ているだけで微笑ましい。
    

2020/8/4 <『転換如缠绕 開合似抽糸』 チャンスーとチョウスー>

 

  以前もらった質問への回答を先延ばししていたらうっかり忘れてしまっていました。催促のメールが来て思い出し急遽動画を撮りました。

 

 質問は今年の3/27のブログの中の、『転換如缠绕 開合似抽糸』の中の後半の意味は何かというもの。

 私の感覚としては、(重心/陰陽/順逆の)転換の時に”缠绕(chanrao)"する、という方が難しいかと思うけど、”抽糸”というのは聞いたことがない人も多いのかもしれない。

 随分前に北京の本屋で陳家溝の四大金剛の一人、朱天才老師の本を購入してざっと読んだ時に、その本の中で、「チャンスー(缠糸)か、あるいは、チョウスー(抽糸)か?」というような議論をしている部分があった。私は当時まだチョウスーという言葉を聞いたことがなかったので、師父に尋ねた覚えがある。その時師父は第5式の単鞭の一部の動作で簡単に教えてくれた。

 

 拳経には「太極拳の運動は抽糸のように」と書かれているらしい。つまり、太極拳の動きは抽糸勁が基本だ。意識的に套路をやると、よく耳にするチャンスー(缠糸)勁よりも抽糸勁の方が断然多いようだ。というのは、太極拳の動きはほとんどが開合。太極拳は開合拳と呼ばれていたくらいなのだ。開合が抽糸なら、太極拳の動きは抽糸に他ならない。

 

 

 缠绕(チャンラオ)は絡んで纏わりつく、という意味。

 代表的なイメージはツタが絡まっている様だ。

 

 重心移動の転換点や、円の順逆の転換点、左右、上下、どんな転換点もこの缠绕が必要になる。腰や丹田を空にしてくにょっと沿わせて回ってくるようになる(言葉で表現できないので下に載せる動画を見てください。)

 推手の時の転換点(推しきって戻るところ、戻ったところから押し出すところ)もこの動きになる。俗に言う”腰のキレ”を曲線で描くみたいな感じか?

 纏糸勁は缠绕の動きから勁を手足の末端へと引き出していったもの。(缠绕では攻撃の技にはならないが、纏糸にすると打撃になる。)

 

 

これに対して抽糸は、カイコの繭から糸をチューっと引き出すような感じ。

”抽”は抽出や抽選の抽。タバコを吸うという中国語は、抽煙。細いものを引っ張り出してくるイメージだ。

 太極拳だと潜在的に発勁できるようなところはみな抽糸勁になる。「開の中に合あり、合の中に開あり」、とか、「開は難開のように、合は難合のように」というのは抽糸勁の別の表現だと言えるようだ。

 

 下に説明の動画を載せます。

 師父に示範してもらえば完璧な缠绕と抽丝が見せられるのだけど、功夫がとても高い人の内側の動きは外からとても見辛いという欠点がある。その点からすると、私の身体や動きの方が、内側で何をやってるのか(やろうとしてるのか)が比較的見やすいはず。

 丹田が空になって周身一家になると抽糸勁が現れてくる、と師父の一言。確かに、抽糸勁の動きをすると丹田の気が散って全身が一つの球の中に入ったようになる・・・私にとっては結果論。狙って丹田を空にはできない。何かをしようとすると空になる・・・(これ以上はまた話題が移ってしまうので今日はここまで。)

 

 

2020/8/3 <チャンスーから作る三戦立ち>

 

  週末に東京で練習をしたグループから、第19式の閃通背の後半の三戦立ち(さんちんだち)のようなところが上手くできない生徒さんがいた、と報告を受けていたので、昨日、後ろ歩きの動画を撮ったついでに、三戦立ちのところの経の繋ぎ方を説明する動画も撮りました。

 

https://martial.website/karate/
https://martial.website/karate/


  太極拳は膝を開いた形で腰を下ろしていることが多く、膝を内側に閉めたような形は少なく見える。以前、若い頃の馮志強老師の動画を見つけて見てみたら、膝の内旋が目立って攻撃性が強いようなものがあって歳をとってからのゆったりとした拳と随分違うなぁ、と思ったことがある。

 

(←左の図は空手の三戦立ち)

 

 

 実は、両膝を内旋させると腰は広がり、かつ、腰の軸(腰椎)がギリギリっと締め上がるようなチャンスーの力が使える:逆チャンスー)。(逆に、両膝を外旋させると、腹が広がりチャンスーの力は足の方へ落ちていく:順チャンスー)

 攻撃の時は逆チャンスー(膝の内旋)で足から手へと力を伝える。

 (防御の時は順チャンスーの方が下半身がどっしりする。)

 

  空手でどうやってこの形を作らせるのか知らないが、腰椎が柔らかい頃ならともかく、腰が固い人がダイレクトに腰椎を締め上げたら腰を更に硬くして腰を痛めてしまいそうだ。

  第19式のように動きの流れとしてチャンスーを意識してこの形を作ると負担がかからないと思う。

 

 

  ここで、チャンスー(纏糸)勁について最近やっと会得できたことをいうと、チャンスーをかけるには腰だけでなく胸腹折畳が必要だ。胸腹折畳というのは文字通り、胸と腹の折りたたみ、胸腔と腹腔を心臓のポンプのように使って腰椎で捻った力を手足に押し出す必要がある。

 

 左は馮老師の本の中のチャンスーに関する記載の一部。「腰脊の螺旋回転運動と胸腹の折り畳みの運動変化によって」(赤線部分)、「上下四肢の螺旋チャンスーが起こり貫通し、全身の螺旋チャンスーに至る。」(青線)

 

 空手の場合は背骨を真っ直ぐにしたままなので胸腹の折り畳み運動ができないので、腰の力を筋肉の締めで伝えることになりそうだ。このあたりが、内家拳と外家拳の力の伝え方の違い。内側の空間VS外側の筋肉

 

 

 丹田は筋肉を締めるためのものではなく、内側の空間を開けるためのもの。

 丹田で腹に空間を作っているから腰椎をスクリューのように捻る動作が、腰をさらにほぐしてくれて心地よく感じる。 

 

 このあたりは、基本練習を繰り返してそれを套路に応用していくことで次第に感覚が掴めてくる。どんな動作も最後は3つの円、立円(前後の円)、水平円、竪円(左右の円)、それらの順逆回転に集約される。套路の中で基本の3つの円がどのように応用されているかが分かりだすと太極拳はさらに面白くなる・・・と、動画を撮りながら思いました。

 

<付け足し>

 メモを書いたあとで、三戦立ちについて、この形で突きをすることによって骨盤の正しい状態=骨盤の逆三角形、を作ることができる、という記述を見つけました。https://ameblo.jp/n-krt-no1/entry-11789696348.html

 

 たしかに、チャンスーをきつくかけて三戦立ちをすると骨盤がキュッと閉まる。

 このとき、「骨盤底筋をイメージしてしっかり締めること」と上のブログで書いていますが、私が動画の中で(恥ずかし気もなく何度も)手を股の下に通してチャンスーのイメージを伝えようとしていたのが、それなのかもしれません。骨盤がキュッとうまく入れば、自分でも、キマった!と分かるはず。(本当は股だけでなくて、膝も足首もひっかけてチャンスーをかけます。)チャンスーは日常生活にもっと応用できそうだ。

 

2020/8/2 <後ろ歩きの効用と応用 会陰を引き上げて命門を開く>

 

  中国の朝の公園では、おばちゃん達がおしゃべりしながらズンズン後ろ歩きしている姿をよく見かける。後ろ歩きは手軽で賢い健康法だ。

 後ろ歩きの何が身体にいいのか?

 やってみると分かる。

 まず腰が開く、腰が楽。膝も楽。

 それは何故か?というと、会陰が後方斜め上の命門に向けて引き上がるから。

 これが養生法の要であると同時に太極拳の要でもある。

 下丹田(会陰)と中丹田の合体。精が気となる。腎臓を養う・・・

 

 私は太極拳の練習の初心者に、会陰が引き上がって命門が開く、という感覚を教えるためにこの後ろ歩きを使ったりする。

 内臓下垂系の人(加齢に伴い誰もがそうなる)にはとても良い。

 

 後ろ歩きの時の腰・骨盤・脚、すなわち下半身は、前歩きの時よりも理想的だ。

 (後ろ歩きの際、怖くて腰が丸くなって頭が前に突き出そうになるかもしれないが、できるだけ後頭部からお尻までを真っ直ぐにして、ゆ〜っくり歩いてみると良いと思う。転倒しないように目は前を向きながら同時に意識は会陰から命門あたりに置いておくこと。後頭部に意識があると転倒の危険あるので絶対にやってはいけない。(やらないと思うが、目を瞑るのも危険)退歩の時は上丹田は前の方に置いておく。)

 

 後ろ歩きの要点(会陰が命門の方に引き上がって命門:腰が開く)が分かったら、その要点を逃さないように前歩きをしてみる。

 

 また、片足立ちも、後ろに下がって行うと簡単にできる。

 

 と、このあたりを動画で説明してみたので、見て下さい。

 会陰を引き上げて命門を開くというのは太極拳だけでなく普段の身体の使い方においてとても重要。忘れそうになったらこっそり廊下や道で後ろ歩きをしてみると良いかも。

 

 

 

2020/8/1 <吸ったまま吐く? 喉を開く ヤムナ?>

 

  今日は久しぶりに生徒さん達とZoomで一斉練習をした。

 グループラインを見ていると土日に練習しているグループは毎週集まって練習しているようだが、平日組は各々個人練習になっている模様。

 私たちは一人一人様々な事情があり、かつ、様々な出来事が起こる。まさに”無常”。常に練習が続けられるわけではない。こうやって顔を合わせて練習して笑えるのは幸せだと思う。

 

 今日も十数人、うまく時間の都合のついた生徒さん達が集まってくれた。

 私は一人前に立って一方的に集団を教えるのはとても苦手。一人一人の動きを見てアドバイスしながら、その次、次へと教えて行く・・・最後どこに行き着くか、自分でもよく分からないこともしばしばだ。

 

 今日のレッスンを振り返ると・・・。

 最初は収功(降気洗臓功)を繰り返してもらって、頭から足裏へと気を下ろしてもらった。

 それから、全く同じ動作で、頭から首、胸部、腹腰、クワ、太もも、膝、脛、足首、へと気を詰めながら降ろしていくことを教えてみた。

 さっと水が流れて落ちるような気の流れが第一段階目(準備段階)、その後、気を身体の中に充填しながら降ろしていく、すなわち、身体がポン(空気で膨らむこと)しながら気を足裏まで落とせるようになるのが、第二段階(本番段階)だ。

 この気を溜めながら降ろす、ということに挑戦しだすと、丹田がとても大事になってくる。第一段階目では丹田は必要にならない。

 

 いつもは丹田と会陰を命門に向かって引き上げる、という要点を使ってこのような動きをさせるのだが、今日は呼吸を使って説明してみた。

 要点は、”吐きながらも吸い続けている”、という自分の身体の状態にしっかりと気づくこと。

 ただ吐きながら気を降ろすと、気は落ちてしまう。(形的には膝に乗っかってしまう)

 それを、吸って気を丹田に入れた状態から、吸い続けながら小出しに吐いて行くときれいに気を通せるようになる。丹田の貯水池ならぬ貯気池から、池の栓を抜くことなく、別の通路へと水(気)を通していくような感じだ。

 

 この感覚を教えるために、マスクを用意してもらって、マスクなしでの立位前屈と、マスクをつけての立位前屈を比較してもらった。マスクをするとなぜ簡単に前屈できるのか?

 呼吸が鍵だ。

 しっかりと自分の呼吸を見てもらって、マスクなしの時、マスクした時で、呼吸がどう変わるのか気づいてもらおうと導いた。

 マスクをしていると、あるところまで呼気だったのが、ある時点で吸気に変わる。

 ここがミソだ。

 吸気に変わったあと、吸っているけど吐いているような、そんな感じがするのでは?と。

 

 この呼吸は太極拳をするにあたってはとても重要だ。

 開の中に合あり、合の中に開あり、と同じこと。これによって、動きは”極大より大きく、極小より小さく”(=太極拳の”太”の漢字の意味)が可能になる。

 なお、開は呼気、合は吸気。呼気の中にも吸気あり、吸気の中にも呼気あり・・・丹田の呼吸だ。

 このあたりは頭で考えるよりも、やってしまったほうが簡単。文章にするとおかしな気がするが、やってみると、確かにそんな感じだ、と納得してしまう。

 

 

 そのあと、マスク付きで前屈をした時に呼気から吸気に移行してしまうのは、下にうつむいて行くとマスクで鼻と喉がつまるからだ、ということを確認。そこから、喉を開ける、というトピックになった。

 喉は喉だけの問題ではない。

 首の後ろも、首の横から肩にかけてのライン、背中上部、胸上部も、喉の領域だ。このあたりが開かないと喉は開かない。

 それを六字訣の吹(chui)(腎に対応)で教えようとして、その ”イ”の音には”H”を混ぜたほうが良い、ということを教えた。日本語のイの発音では、腎(腰)には届かない。口の奥の方でイという必要がある。ヒと言った方が喉の奥が使えるが、ヒは喉から下に落ちてくれないので、イを発音する前にうっすらヒ(H)を混ぜるといい・・・そんなアドバイス。(これがうまくいった生徒さんからはレッスン後こんなメッセージが。「今日のイーの音も大変面白かったです。首が空いてきて、お腹がドーナツ状にポンと出る感じが最高でした。」大成功の例。)

 

 音が身体のどこを開けるか、響かせるか、はとても面白いのだけど、ヒヒヒ・・・と動けば首が楽になる。フーーと言うと丹田がしっかりする、が、首は固まりがち。(逆に、ヒーでは丹田に気がたまらない。)

 

 その他、私が一昨日こちらで買ったfeet mobilityのグッズと同じものを生徒さんが画面に出していてその偶然にびっくりした一件も。それはヤムナというところのものだったのだけど、別の生徒さんはヤムナボールを取り出しで鼠蹊部を開き腰を入れる方法を教えてくれた。私が買ったのはフランスの安価なコピー商品のようなものだったようだけど、十分役に立ちそう。

 生徒さん達を話してると私も知らなかったことを知って、また世界が広がる。

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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