2018年7月6月

2018/7/30

 

 武術キチの生徒さんから回ってきた馬虹先生の動画。

 中国語なので少し訳して生徒達に紹介してもらえるとありがたい、とのことでした。

 

 youtubeの自動翻訳機能を使えば?と思ったけど、使えない。

 少しやってみるかなぁ・・・。

 

 この動がは5つに分かれています。取り敢えず(一)の行けるところまで。

 馬虹先生、何をどうしゃべっているんだろう?楽しみ・・・。

 

<訳:ざっと、でもできるだけ漏らさないように訳しています>

 

太極拳は現在に至るまでにいろんな流派を形成してきました。

雰囲気や要領は皆違います。

私達は河南省の陳家溝の太極拳の套路を学んでいますが、これは太極拳第9代(陳家大17世)‌伝承人の陳発科が1928年に北京に行ってから公開したものです。

陳発科は私の師父の父親、私から見れば師爺になります。

この北京で公開された拳の第一路拳は83の式、第二路拳は71の式から成ります。

この套拳は1957年に陳発科が亡くなった後、その息子、私の師父である陳照奎が北京、上海、南京、鄭州・・・・で教えていきました。

 

私は元々身体がとても弱かったので多くの仲間たちと同様に最初は楊式太極拳を学んでいました。1970年になってこの陳式太極拳を学ぶようになりました。

もちろん1963年に郭民新と沈家貞がこの拳の本を出して以来、私はずっとその拳理や造型に興味がありました。が身体が弱いためずっと練習できないでいました。

低い姿勢(架子jiazi)や複雑な動きは練習できないと思ったのです。

が、1970年になる頃には、それまでに文化大革命の前段後のとても苦しい労働を経験したこともあって、この拳の難度の高い動作もそれほど難しくないと思うようになりました。

そこで私は1970年から上海出身の労働仲間と一緒に練習を始めました。

1972年、政治上の幹部の問題から給料は支給されるが仕事がなくなりました。私はその時間を利用して、81年に師父がなくなるまで8、9年間、師父とともに北京へ行ったり鄭州に行ったり、

それから師父の家に住んだりして、この套拳を学びました。

 

この拳を学ぶととても多くの特徴、優れた点があることが分かります。

 

第一に、動作は多少複雑で難しいが、鍛錬の効果は全面的であるということ。

 動作は複雑、姿勢も低い、そして他の太極拳同様沢山の要求、例えば、放松や松沈、軽沈兼備、動作は円表示、虚実分清・・・などがあります。

 他の太極拳と違うのは、姿勢が低いこと、腰を緩めて降ろさなければならない、そこが難しいところです。

 腹と股関節(鼠蹊部)の溝のところ(ここ!5'19)を凹ませなければならない。

 こうではいけない、こうでもいけない(5'19~5’50) 

 だから脛、脹脛(=小腿)は基本的に床に垂直でなければならない。この部分(鼠蹊部)は凹ませなければならない。

 

 上半身は真っ直ぐ。

 この低架子(低姿勢)では三本の直線が要求されます。(6'00"あたり)

 しかし生徒各々の身体は異なるので、師父は父親からは子供の時から低架式で学んできていましたが、外では中架子や高架子を教えていました。(注:馮志強は低架子を勧めていません。中、高架子の場合は三本の直線ではなく、大腿、小腿併せて弧線、弓形になるようにします。)

 この低架子は難易度が高いですが、自分が40年近く練習してきて感じるのは、これは下肢の鍛錬にとても有効だということです。

 そのおかげで、私は現在75歳ですが、沢山の人が私の脹脛を触って、そんな歳の人には思えないと言います。私の大腿や小腿は細くなっていないのです。いや、昔より太くなっています。

 低架子では脚の筋肉をよく使うのでそこが発達するのです。

 

 またすべての動作は丹田の帯動で行います。とても小さな動きです。

 このように・・・・・(8'00"~8'45でその動作を見せながら解説)

 

 そして次に胸腰。丹田だけではなく胸腰が一緒に旋転しなければなりません。(8'45"~

 金剛捣碓の最後の動作では、胸が僅かに左、右、前、と三つ、次の動作も、右、左、前、と三つ、”一波三折”です。(8'59~9'17)

  全ての動作は”非円即弧”です。もし円を描かないのなら弧線、若しくはS線です。絶対に 直来直去(直線で行って直線で戻る)はありません。

 これもまたこの拳の難しいところです。

 

(9'35~)

  以上のように見てくると、この拳は、架子、そして全身性、即ち”周身一家” (9'50"~)(注:ここから話が周身一家に流れていきました。)

 こんな風に(9'54)ただ一つの勁では発せられません。どの勁も全身で配合されます。

 

 そして纏糸勁があります。(10'03~)

   全ては3つの円から成ります・・・・   

   (なんと3つ? この纏糸勁の説明で、この陳式太極拳の第一の特徴の説明が終わるのですが、3つ、でつっかえ疲れたのでここで一旦終了。)

 

 

※ 松腰に関して股関節の緩め方(5'19~5'50")

  丹田の帯動 (8'00~8'45")

  胸腰の旋転 一波三折 (8'59~9'17)

     周身一家 (9'50~9'55)

 

  上の4か所は馬虹先生の動きを動画で見てみて下さい。

  ここまでの説明ではそれら4つの要領を把握するのが大事です。

  分からなければ練習の時に質問してください。

 

  次回は纏糸勁から続けていきます。

 

2018/7/23

 

 頑張った発表会。

 ピアノの発表会ほど緊張するものは何故だろう?

 単に実力以上のものに挑んでいるからだけではないと思う。どんなに簡単な曲でも人前で演奏するのは緊張するだろう。ミスが許されないから?途中で立ち往生しそうだから?

 太極拳や卓球の試合でそんなに緊張したことはない・・・し、学校の試験なんて間違えれば消しゴムで消せるし・・・。

 

 対人の試合は意識が相手にくぎ付けになっているから緊張する間もない。

 けれどもピアノ演奏の時は、演奏しながら頭の中でチラッと不安がよぎったりする。

 その意識のブレが問題。その解決策は中に入り込んでしまう(曲と一体になってしまう)ことだということは頭では理解できたのだが・・・。

 実際にやってみると、ミスタッチする度に意識が動きそうになる。どうにか曲の最後の方まで行きついた、と気が緩みそうになったらとたんに音符が分からなくなりそうになった瞬間もあってドッキリ。

 

 劉先生に演奏の動画を見てもらったら、「左手はとても素早く動くけど、右手がダメだ。最後の一分間は身体と手が一体になった(それまでは一体になっていない)。」とズバリ。動画、あの角度でよく左手の動きが分かるなぁ、と関心した。

 右肩が左肩ほど開いていない、胸の開きも悪いのが腕が硬く手の動きが良くない原因。

 この曲の練習をして右肩、右胸、右腰(そして右足の土踏まずから親指のライン)まで開けて通すことを知ったのだが、そこまで開かせるにはまだまだ鍛錬が必要。それはこれから太極拳の練習で徐々にやる予定。

 

 まあ、立ち往生しなくてよかった。ひと段落。ピアノのプロ、目指さなくて良かった・・・

2018/7/20

 

 ピアノの練習のためにせっかくお休みしたのに、弾けば弾くほど諦めムードが強くなり、かえって太極拳の練習がしたくなってしまった。

 以前は太極拳⇒ピアノ、と、太極拳をピアノに役立てようという気持ちが強かったが、最近はピアノを弾くことで太極拳でまだクリアできていない課題が見つかるようになってきた。ピアノ⇒太極拳。

 

 肩甲骨、腕、はまだクリアされていない。練習途中・・・

 (動画など撮ったので、続きはLINE仲間のページへ。)

2018/7/20

 

 週末のピアノの発表会に向けての追い込み(?)のため太極拳のレッスンはお休み。

 技術的にはもう向上させる時間はないけれど、せめて気持ちだけでも音楽へ寄り添っていきたい。

 ピアノの先生に「なぜ舞台で上がらないのか?」と聞いたら、一言、「自信」と答えてくれた。そして、その自信はどこから?というと、練習量、曲と自分が一体になったという感覚、その辺からくるらしい。「延江さんは絶対的に練習量が少ないわね。」、そう言われてしまうと何も言えない。毎日ちょこちょこ、っと撫でるようにさらっているだけではピアニストのようには弾けない。

 楽譜を見て曲が一通り弾けるようになったら、曲を分割して分割した一つ一つを細かいところまで注意を行き届かせられるように練習していく。指使いは本当に吟味して決めなければならない。フレージングにも注意し、テクニック的に難しい箇所はそこだけ取り出して反復練習、リズムを変えて練習してみたりする。

 ・・・と、実は太極拳の練習と同じ。

 套路が一通り通してできるようになったら、一式一式の単式練習を行う。単式練習がどれだけ精密にできるか、それで套路全体のレベルと質が変わる。

 太極拳の練習では単式練習が苦にならない、というよりも、そこには技があり、”妙”があるので、何度繰り返しても飽きないのだが(劉師父は第二式金剛捣碓だけで一生練習できる、とか言っていたことがある)、ピアノのパーツ練習は何故かすぐに飽きてしまう。パーツ練習の重要さが分かったのはつい最近で、よ~く細かく見ていくと、面白い和音だったり、絶妙なリズムだったり、作曲家が頭を絞ったのか直感的に思いついたのか分からないが、凄いなぁ、と思うところがボロボロ表れてくる。これまでどれだけザ~っと弾いていたのか・・・・ぼぉ~と生きてんじゃねぇよ~、とチコちゃんに怒られてしまいそう(笑)

  観察力、注意力、というのはまさにヴィパッサナ―瞑想で養われる質。あの瞑想合宿も無駄にはなってないのかもしれない・・・。

  観察力と技術が組み合わされると非常に安定感が出ることも分かってきた。太極拳やピアノ演奏はメインは肉体労働で技術はマスト。そこに観察力(上丹田)が加わると全体的に安定感がでる。ブレが少ない。

  昨夜の練習で生徒さん達の目線が正しくなくて、そのため頭がブレて中心軸を逸してしまうのが分かったが、眼がどこをみて、眼をどう使うのか、所謂”眼法”は身体全体のバランスをとるためにもとても大事だ。

  ピアノ演奏では演奏中何を観察してるのだろう・・・・ホロビッツのように、ほとんど目線を鍵盤から外さずしかも”収”している(目を後方に引いている:凝神)のが太極拳の眼法に合っている。

 

  昨夜になって発表会で弾く曲を男性以上にしっかり弾いているロシアの女性ピアニストの動画を発見。凄いなぁ~と見とれてしまった。ちょうど肩甲骨の外側と内側で操る指が違うことを気づいたばかりだったので、彼女の背中、坐る姿勢、柔らかい手を見て、まさに太極拳的演奏スタイル、と思った。丸く、身体がピアノを制す。天宗のツボからくる小腸経の小指の使い方をみればどのくらいピアノを包み込めているかが分かる。その域に達しているピアニストの演奏は、別格。安定感が違う。

  劉師父に彼女の動画を見せたら、「非常好。背很开。阳脉用的很好。下盘坐的很稳定。手指很灵巧。」とコメントをくれた。・・・運動的には太極拳の訓練がかなり有効。が、肝心な音楽性はどうする? 馬虹老師は太極拳は芸術でもあると言っていたけど、太極拳の練習で芸術的感性が磨かれるということが・・・あり得なくはないかも? 

 

 

それ以前に聞いてた日本の女性ピアニストの演奏も雰囲気があって好きだが、身体の太極拳的完成度が上のロシア人女性に及ばない・・・余裕が違う。

 ついでにですが、この曲をテクニック的にも音楽的にも理想的に弾いているのはキーシンかなぁ、と思います。やはり、余裕・・・。天才・・・。

2018/7/17
  天宗穴を使って肩のゼロポジションを作る。
同時に天宗穴は腰へ引き込み丹田化する。
  この要領を保ったまま動けたら、もう私達はマスタークラス♪
  動かない状態で繋いだ感覚を掴み、それを崩さないように動くのがどれほど難しいか知るだけでも大きな進歩。あとはそちらに向かって地道に鍛錬すれば良い。
  
  私が仲間とやりたいお遊び→動画
  この要領がある程度できていないと遊びにもならない....頑張って早く遊び相手を作りたい!
2018/7/16
 今日は義父の葬儀で、予定していた24式特別レッスンは弟子M君に代行を頼んだ。
   結果はVERY GOOD!
   私が普段できない繰り返し練習や個々の生徒さんの動きの細かなチェックなど、形を覚える為の練習がしっかりできたようだ。
       
    ここ数年は生徒さん各々に一式ずつ教えることができなくなってしまったので、新しく参加した生徒さん達が24式を覚えるのが難しくなってしまった。
  「24式を覚えたい人は自分で進度を管理して、レッスンの際にどの式を学びたいか言って下さい。」とこれまで何度も頼んだのだが、やはり我々は日本人?、そこで手を挙げて、「第10式をやって下さい!」とか言う人は滅多にいない。他の人に気を使う前に自分をどうにかしなければならないのに、遠慮してもじもじ、もぞもぞ。いつまで経っても24式は虫食い状態。先生が教えてくれないから....なんて子供のようなことを言ってる場合でなく、お金払ってレッスン受けているのだから、全て先生の言う通りの受け身ではいけないと思う....が、ひょっとしたら私がいつ間にか妥協をして生徒さんに覚えることを要求しなくなったのも覚えの悪い原因か? 確かに最初はタントウ功についても動功についても毎日これだけやる、というノルマを課していた。約10年前に代々木公園で教え始めた頃は、24式も毎回一式ずつ、マンツーマンで教えていた。
  私の生徒さん第一号は今でも学び続けていてくれているが、彼女(と言っても私の人生の先輩)はこの10年の私の教え方の変化、変遷のアイウィットネス。自分の身体や意識の変化に応じて教える内容も内側重視になっていく。二度同じことを教えるなんて有り得ない私の性格なのか、毎回毎回展開して生徒さんが追ってくるのが益々難しくなる....
そんな中で、弟子の存在はとても重要なのかもなぁ、と薄っすら思い出した。
  彼らが私と新米生徒さん達の架け橋もしてくれる。
  
  私が何となく目指していたのは、歳とっても皆で太極拳して遊べる仲間作り。私も仲間の一人だから私と遊べる人がいないと面白くない。その遊び仲間の育成をしてるようなもの。その人達が更に彼らの仲間を育ててくれれば....なんだか楽しい。いつまでも、先生VS生徒達 では面白くない(苦笑)
 
  内外兼修。
  内も外も大事。
 気ばかり追って外形が崩れているのはダメだし、外形だけ整っていて内側がない(隙間がない)のもダメ。
  二元論。
 
 今日のトウロ練習は外をしっかりやって頂きました。M君ありがとう。今度私の24式も細かくチェックしてほしい。
 

2018/7/15  

 
(グループLINE用の説明)
昨日今日は肩の天宗のツボに注目しました。
肘を操るには肱(上腕骨)の意識が必要、肱を操るには肩、中でも天宗穴→上腕骨→肘、が一直線でなければなりません。
一般的に、肩のゼロポジション、甲腕一致ということを、太極拳的にツボの意識でやるなら天宗穴を外さないように腕を使えば良い。(更に肘のツボや手首のツボも使わなければならないけど、それについては追い追い....)
http://korikiku.com/?cat=87
http://korikiku.com/?cat=87

 

推手の時はここのツボ外すと一気に崩され崩れます。

套路の時も、動功の時も、いや、普段腕を使う時も、このツボを外さないように注意しなければならない・・・(と目下、私はピアノ演奏で練習中)

 

このツボからまっすぐに肘に向かう一直線の感覚は、両手を斜め上に上げた、ハンモックの姿勢、を取るのが分かりやすい。

 

ネットにはいろいろ資料があります。http://olivia.sports.coocan.jp/new/scapula/scapula02.html

https://ameblo.jp/yamatokawashima/entry-12355526527.html

 

 

 

  いずれにしろ大事なのは、そのように腕を使い続けようとするとずっと丹田が必要になる、ということに気づくこと。肩甲骨の意識は通過点に過ぎません。天宗のツボが腰とつながり、脚、足とつながることでやっと本当に使える肩、腕になります。(上の数枚のイメージの左上のものがそれを表しています。)

  このあたりは練習で少しずつ感覚を深めていきます。

 

  これに気づいてしまうと、今まで、どうしてこんな風に手を回していたのか、と恥ずかしくなります。

 

  甲腕一致、肩のゼロポジションは腕を斜め上に上げたところが一番分かりやすい。

  ではその腕を徐々に下げるとどうなるか?

  試してみて下さい。

  腕を下げようとするといとも簡単に天宗穴が外れてしまいます。

  これでは使い物にならない。

  では、どうすれば腕を降ろしてもなお天宗のツボが保持できるか?

  これが分かれば、功夫は必ず1レベルあがります。あとはそれを使っていつもの基本練習を繰り返せばよい・・・。

 

 <以下、肩のゼロポジションの資料>

 

2018/7/11
夏の発勁の続き
ある生徒さんから平日の鬱々した状態をさっぱり短時間で解消するための良い方法、できれば発勁を教えて下さい、とのリクエスト。
私は特別そのような練習をしたことがないので劉師父に聞いてみました。
 
すると、発勁は単にこもった気を発散するだけでなく、背中や肩、腕の陽気を活動させることで冷房にやられないためのバリアも作れるとのこと。....なら、私も真面目にやらねばならない。
先生が4種類やるよう教えてくれました。
双推手、采、肘、掩手肱捶。
これを左右9回ずつ(肘に関しては、前方、横方、後方3種類)、力を入れてやる(つまり発勁、発力)すると良いとのこと。
生徒さん用に撮った動画はLINEの仲間のページに後で貼り付けます。
追記
劉師父の足裏、どこが凄い? と聞かれました。
数カ所見るべきポイントがあります。
足裏は三次元の肉体を二次元の平面に投影したもの。足裏を見れば身体の状態はほとんど分かる。本当に見る目があれば身体の状態にとどまらず、心、その先の状態も分かるのではないかなぁ?
修行者は仏足に近くなる....
2018/7/11
夏の発勁
夏は気が上がって上半身に滞りがち。
劉師父に対処法を尋ねた。
回答後回し。
が、会話の途中で足裏ツボを教えてくれた時に見た師父の足の裏。
やはり....すごかった。

2018/7/5

  ピアノの発表会まであと3週間を切った。
  先月頭のヴィパッサナー瞑想合宿以来、肝心の我欲ではなく意欲が落ちてしまったようで、ピアノを弾くどころか音楽を聴く気もしなかった。テレビもつけた途端、雑音と雑電波で目がチカチカしてしまう。パソコンに向かう気もしない、ご飯も作る気がしない、人と喋るのも気合いがいる。身体の調子は悪くないのだが、エネルギー量、気の量が減ってしまった感じがしないでもない。
  
  太極拳はヴィパッサナーの導入になるはずなのに....なぜ太極拳→ヴィパッサナーにならないのか?と模索していた。そのうち、ヴィパッサナー→太極拳はいける!と確信。なら、ヴィパッサナー→ピアノもいけるはず.... 前回のレッスンで、暫く弾かなくても良いから楽譜をしっかり見てきなさい、と先生に言われた意味が分かった気がした。雰囲気で適当に弾いてはいけない。雰囲気で太極拳をやっていると詰めが甘くなるのと同じ。身体(小脳?)だけで動くのではなく、脳、それも前頭葉(大脳皮質、進化脳?)がしっかり身体の指揮をとり統率しなければならない。
  細かなところまで”気”の行き届いた動き、演奏ができるのか、ノリはよくてもノリが崩されたら復活不可能になるのか、実はスキだらけの動きなのか・・・太極拳でもピアノでもサッカーでも料理作りでも、仕事でも、結局みな同じことなのだろう。
  丁寧に細かく気を付けるとノリ(流れ、ダイナミックさ)が失われがち。
  流れ、ノリがよいと細部がおざなりになる。
・・・・・以下は本当に独り言・・
  流れ、ノリは気の世界。腹の丹田で動く。第二身体、エーテル体、生気体の中心。第一身体フィジカル体にエネルギーを注ぎ込む。
  細部まで行き届いた意識、統率、観察は上丹田。第三身体(アストラル体)と第二身体の架け橋。
  ヴィパッサナ―瞑想は方法としてまず第一身体(身体の動き)を観察し、その後第二身体(身体の感覚)を観察させる。それで上丹田(アジュナチャクラ)を機能させて、それから心(アストラル体)の観察に入っていく。
  第三身体アストラル体(心の身体)⇔第二身体エーテル体(気の身体)⇔第一身体フィジカル体(肉体)
  太極拳は丹田を見守る練習から始めて第二身体を活性化し第一身体とつなげる。
  仏教の解脱へ向かう道は、第一第二身体の観察から初めて第三身体へと意識を上げていく。
  身体の動き(第一身体)の観察には上丹田の前丹田(印堂穴)が機能するが、第二身体(身体の感覚、気の動き)を観察しようとすると、上丹田は少し後ろ(脳の中央辺り)に移動し、道教の修行で使う祖窍穴になる・・・(と、昔、陳発科の孫弟子のある先生に馮志強老師のテキストを見せたら「祖窍穴は使うとは・・・!これは道教の修行法だ!純粋な陳式太極拳では印堂穴を使う。」と驚いていたが、それはそういうことだったのだ!)
  そして私の感覚としては、第三身体を見ようとすると、上丹田はその祖窍穴からさらに後方か上方に移動させなくてはならない(というよりも、移動してしまう。それは今後見ていこう・・・)。
  (上位の身体になるほど繊細だから、上→下に応用できても、下→上への応用はできない。
だから、ヴィパッサナ―→太極拳→ピアノ、はあり得るけど、ピアノ→太極拳→ヴィパッサナ―にはならない、のかと・・・総論、各論の関係かなぁ。)
  今日のピアノのレッスンは普段の太極拳の練習よりずっときつかった。というのは、体力が枯渇する前に気力が枯渇してしまったから。
  音の中にずっと気を貫かせて弾く、ということはこれまで全くできていなかった。だから私のピアノはただのスポーツのようだった。太極拳の練習でその違いが分かるようになった後でも、それをピアノ演奏に入れ込んでいくのはとても骨の折れる仕事。小さい頃のピアノの習い方を間違えてしまい、身体だけで弾く癖をつけてしまったのだから、それを換えるのはとても難しい。
  他の場所でスポーツあるいは簡単な健康法として太極拳を学んできた人が私のところに来て最初大きくためらい、訳わからなくなるのも同じこと。拳を学ぶのは簡単、拳を換えるのは難しい、という。最初についた癖をまずとらなければならない。が、一旦除去すれば、その前に培った身体の使い方が活きてくる・・・ピアノも同じ原理だろう。
  それにしても、気で指を引っ張って弾いていく、と指のトロさが自分でも嫌になる。
  だからそれについていくだけの身体能力が必要になる。
  丹田(気)が身体を引っ張る。それについていけるだけの身体の開発は別途にしなければならない。だから皆訓練に訓練を重ねます・・・。

 

 

2018/6/30

 

 明日で最終日のターナー展。

3月頃駅の広告で見てとても惹かれていたのに、実際に足を運んだのはついこの前。

20代にロンドンで住んでいた頃、少なくとも3回はテート美術館に連れて行かれたけど、全くピンとこなかったターナーの絵。天気の悪いイギリスの気候のようなぼやけた絵ばかり・・・なんて思っていたくらい。当時の私はバレエの公演ととピアノのリサイタルが大好きで、絵画に対しては全く興味がなかった。

 が、今回ターナーの絵を見たら、そのすごさが分かる!と言っても、絵画の技術的な事は全く分からないのだけれども、その視点、ミクロからはいってマクロへ抽象へと向かっていくその流れ、それは4月に大感動したルドン展と同じ。

 微細な所までありのままに観察する。。。

 観察・・・最近挑戦しているヴィパッサナ―瞑想、そのものではないか?

 その目は我で汚れていない。

 ターナーの絵を見た後で、写実主義の言われるミレーの落穂広いや晩鐘を見たら、そこにミレーの意図、我のようなものが見えてしまって、そういう意味ではターナーの方が水墨画的な無我の境地に近い気がした。我がないのに、これはターナーの絵、と分かる個性はしっかりある。面白いなぁ、と思う。

 ぱっと遠くから見ると滲んだ色のグラデーションの絵に見えるのだけど、近づいてみると、とてつもない細かさと正確さで物や人を描いている。こんなに細かく、どうやって筆を使うのか?いや、視力が跳び抜けてよいのか?

 絵に顏をひっつけて見たくなる。あら~細かい・・・あらら、人の顔がピーターラビットになってる?

 そしてまた遠くから見てみる。そしてまた近づいて楽しむ。

 そうやって繰り返し見ていると、眼の体操をしていることになるのか、自分の目が良くなって焦点が合いやすくなった気がする。

 焦点が合う・・・ほんとに、ぴったりと焦点が合う。

 画家の眼の焦点がきっちり合っていたところに私の眼の焦点も合ったのか?

 ターナーの絵を見ると眼の焦点、いや、上丹田に焦点が集まる。目が良く見えるようになる。

 画家自身もそこに焦点を集めて描いていたのではないか?

 

  その美術館には常設でゴッホのひまわりがあったけれども、ターナー見た後でそれを見たら、大雑把過ぎて素通りしてしまった。おそらく上丹田で味わう絵ではないのだろう。焦点が合わなかった。去年ゴッホ展に行った時はとても感動したことを思うと、きっと見る絵に応じて自分をチューニングしているのではないかと思う。

 時代性、その背景もあるし・・・。

 

 でも、ルドンとターナーはフランスとイギリスの大きな違いはあるけど、私にとってはとても共通点がある。極小から極大まで、無為自然、太極拳的。

 

 

2018/6/27

 あらら、皆脚で歩いてる!
朝、駅で歩く人々を見て浮かんでしまった言葉。
これじゃあダメだ....
若い子でも腰が引けて既に老人歩きになりかかってる。胴体力=腹力=丹田、弱すぎ。
腹にピョン吉つけて前に引っ張ってもらわなきゃ....
  心の中の独り言。
  セネガルと日本のサッカーの試合を見ていた時、サッカーのストラテジー等は殆ど分からないので、ただただセネガルの選手達の身体を見ていました。猫科のような強くてしなる身体....あの身体能力に対抗するには私達は頭を使わねばならない。太極拳も知恵から生まれた拳法だった....
  と、セネガル選手と日本選手を比べたら顕著な違いがありました。
  昨日そのヒントになる資料を仲間のLINEに貼り付けました。言わんとするところ、分かるかしら?
(休憩いれたらそのまま2日過ぎてsimatta///)
腹圧=丹田ではないけれど、腹圧は丹田の元。
この先生のブログはためになります。
さっそく腹這い、クラスでやらせてみよう。
https://www.bini.jp/column/5089/

2018/6/24

 日曜組の練習後の雑談、雑巾の正しい絞り方について話が盛り上がった。正しい絞り方はあるのか? ありました。
 私を含めた男性陣は腕の力だけを使った好ましくない横絞り(苦笑)。女性陣、皆正しい"縦絞り"をしてました。さすが。
 『足の親指、手の小指』....中学の担任が卓球選手の私につぶやくように教えてくれたのを思い出しました。ただの社会科の先生が何を言ってるんだろう?当時はまさか廊下を摺足で歩く初老の地味な先生が、元少林寺拳法の日本チャンピオンだとは知らなかった。それを知ったのはわずか8年前。そしてやっと、あの先生の静けさと眼光の鋭さ、不良グループがなぜか黙り込んでしまうそのプレゼンス、そしてベランダで椅子に座りジッと動かず掌を見てた姿、不思議な言葉の数々....全て腑に落ちたのでした。
 山の中でミツバチ飼って自給自足の生活をする仙人のような人。学校の他の先生達から完全に浮いていました。中でも卓球部の顧問で学年主任である数学の先生とは生徒から見ても反りが合わないのは丸わかりだった。似たような初老の先生でも方や業績主義、方や精神主義。
 私は卓球部の顧問に叩かれたり罰を受けたりしてしごかれ、嫌な思いをかなりしたけれども、私が一度全日本の大会でまぐれで3位になったら、その顧問は手のひらを返したように私に一言も注意をしなくなった。その時、大人ってそんなもの?成績が良いと多少素行が悪くても見逃すんだ・・・と大人に失望した覚えがある。が、静かな、けど内側にどれだけの厳しさや鋭さを秘めているか分からないその担任は、成績が良かろうが悪かろうが、一人一人の内側、家庭環境、家庭問題にまで心を配って、深いところからサポートをしていた。同じクラスにいた学年一番の不良が今では建設会社の立派な社長になっているけど、彼から同窓会で聞いた話では、放課後河川敷で彼が仲間を引き連れて煙草を吸いながらバイクを飛ばして遊んでいると、毎日幸雄ちゃんが表れて、道の端で右手を左胸に当てたままずっと立って眺めていたという。皆のバイク遊びが終わるまで、ある意味、タントウ功のように立って、皆が帰るのを待って先生も帰っていったそうだ。何も言わずにただ立って見ている。それを毎日毎日やっていたらしい。不良達は、そのうちその先生の忍耐に負けて、徐々に心を開いていった。中学出た後も彼らは幸雄ちゃんの家に遊びに行っていたというし、幸雄ちゃんがいなかったら、皆どんな人生になっていたか分からない、という。昨年初めてそのクラスの同窓会をしたが、誰一人としてその先生の悪口を言う人はいない。みな幸雄ちゃん(担任の先生の名前)には本当にお世話になった、と言う。本当に口数の少ない先生だった。今思えば、じっと私たち一人一人のことを観察していたに違いない。(席順も幸雄ちゃんが全部決めて、二年間席替えなしだった。)
 
 先生は去年なくなったのですが、8年ほど前、同級生から、その先生が私に是非会いたいと言っているとの連絡がありました。夏に帰省をした時会いに行ったら、中学卒業の時に言いたかったのに言えなかったことがある、それをどうしても伝えなければならない、だから今日来てもらった、と、竹炭に囲まれる和室で先生は話を始めました。
(休憩・・・続く)
2018/6/22
昨夜は夏至。やはり気(?)のせいか、坐禅をした時の入静度が違う。陽極まって陰が生まれる。太極拳の動きでも一番大事なのは陰陽転換点、即ち順纏→逆纏、逆纏→順纏。48式の第33式、金鸡独立で穿掌の練習をしたが、穿掌の含意を知れば、腕に対する認識が変わり、そう簡単に無造作に腕を使えなくなってしまう。馮志強老師などの大師が腕で右円、左円を描く地味な練習を一人でやっている、というのが理解できてくる。腕で正円を描ければもう太極拳の大師レベル。
2018/6/18
丹田が分かりたいといって練習に来始める人は多いけど、いつしか丹田探しを諦めて、よく分からないけど使ってしまっている。
丹田は機能だから使えれば分からなくても良い。おそらく探したら見つからない....
丹田なんて一個のエネルギーセンターは無いのです!細胞全てが伸び縮みしているだけなのです‼︎
と長老に言われましたが、確かエネルギーは細胞内のミトコンドリアで作られている....。
仏教は丹田使わないのか?と思ったら、円覚寺の坐禅では白隠和尚の言葉使っていて、その中に丹田があった。
丹田の元はヨガのチャクラだろうから、初期仏教ははっきりヨガと決別するためにその概念を取らないのか? いや、ヴィパッサナーは一点集中型瞑想ではないからそこにこだわらないのか(一点集中型はサマタ瞑想、止観法の止の瞑想)。
 全ての感覚は錯覚と悟らせるなら丹田も錯覚の何者でもない....けど、まずは皆に共通する錯覚を使って進んでいかないと、出発ができない。
そのうち丹田や気の錯覚に拘らない、いずれは捨てる時が来るのだろう、と朧げに思い始めました。

2018/6/17

 

 合宿から戻ってから何人かの生徒さん達からヴィパッサナ―瞑想はどのようなものですか?と聞かれました。ヴィパッサナ―は気づきをもってありのままに観察をする、という瞑想法で、仏教の基本的な瞑想法、『止観法』の”観”の方法です。(cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3)

 私が参加した合宿ではその入門的段階として、常に実況中継をして妄想を遮断する、という方法をとっていました。

 常に丹田を意識して行う太極拳もヴィパッサナ―になり得るのですが、更に厳格に精密度を上げて行うと、いかに普段一つのことを行いながら別のことが頭に浮かんでいるのか、その妄想、心の勝手な動きを思い知ることになります。仕事を含めた日常生活でうまく応用すればストレスが減り、仕事の能率があがります。そして、食事の観察、と、食事の際のすべての動きを実況中継しながら食べると食べ過ぎることはできません。かなり疲れますが、試してみる価値は大です。

 どんなに身体を鍛えても身体はいつか衰え滅びてしまう、絶対に逃げることのできない”死”を真正面から見るにはどうしても仏教の智慧を借りる必要がある、と思い、ただ丹田に気を溜めるだけでない、その先の瞑想法をやっていきたいと思いました。

 スマナサーラ長老の手ごろな資料がありましたので、ご参考までにご紹介します。

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ヴィパッサナ―瞑想 人格形成を目指す人の心構え
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2018/6/15
銀座線。向かいに座っている一人の女性に眼がいく。なんだか美しい。眼がしっかり、ここにいる。明らかに他の人達とは違う。そう、意識がここに落ち着いてる....ああ、妊婦さんだ。カバンにバッジをつけてました....。なるほど。
 自分の身体の中で別の生命が育っていっている時、自分の身体は自分だけのものではなくなる。いや、実際には自分の身体が自分のものという意識は消え、自分の身体は人のものになる。自分の身体を正しく使う義務、責任が出てくる。
  すると一人の時のような勝手な身体の動かし方、使い方はできない。一つ一つの動作はゆっくり丁寧に、意識的になる。優美になる。食べるものにも注意し、見るもの聞くものにも注意する。もしこれを余裕を持って観察できたならヴィパッサナー瞑想になってしまうだろう。
  丹田を育てるもの胎児を育てるのに似ている、と思ったことがあったが、今日改めてそれを感じた。男性は胎児を育てられないが、丹田を育てていった大師達の物腰は柔らかく秀美になる。力強くても決して荒々さ、雑さはない。
  自分の中の自分じゃないものを守る時に付随して起こる変化、というのはどこか共通していて面白い。そして守っている"そこ"から光、充実感が溢れ出てくるのも全く同じ。
  電車内で、内側から放射する光、美しさ、久しぶりにそれを目にできたのはとても良かった。ほんと、綺麗だった.....(本人が全く無自覚なところがミソ。意識した瞬間に魔法は解けてしまいます。)
2018/6/14
 お義父さんのお見舞い。食事が取れなくなって久しい。痩せて骨と皮だけになると、どの人も同じように見える。
 身体は全く動かないが、意識ははっきりしていて、目が彷徨う。身体が弱くなると心が暴走すると仏教の心の分析で学んだばかりだが、お義父さんの目を見てるとそれがよく分かる。タガが外れた心。妄想が渦巻く。仏教の業の話では、死ぬ直前の心が次の生の心になる。死ぬ直前に何を考えるか、なんて前もって決められずはずもなく、朦朧とした意識の中で生まれた最後の心(死心)が次の生の結生心となりその生の基本的な心の在り方を決めてしまう、というのだから、怖ろしいといえば怖ろしい話。酔って暴言を吐くような人は死ぬ間際も似たような暴言を吐く確率は高そうな気がするが、果たして自分の理性が機能しなくなった時に美しい心が現れるのか醜い心が現れるのか....? 結局、元気なうちに、心の底まで浄化する努力をしておかなければならないのだろう。
 ヴィパッサナー冥想をしてると、途中で度々全く関係ない変な想念が浮かんでくるのが分かる。脈絡のない想念がどれだけ浮かんでは消えているのか....覚者はもうそのようなばらばらの想念がなく、思考は糸のように繋がる....それがスートラの核心的意味だと昨夜知ったばかり。散り散りバラバラの想念、アイデアばかりでは困ったもの。脳の中の制御が必要で、これがやはり上丹田、神、の開発なのだろう。
 人間に生まれる意義は、その間しか心の成長をさせられないから、と聞いたことはあったが、身体のある時にしか心を成長させられない、というのも注意して見れば自明の理のようだ。身体の枠が無ければ心は勝手気ままに動いてしまう。が、心は身体の枠を窮屈がる。心で身体を統制すると同時に、身体で心を統制する、双方向の統制が必要なようだ。
   ....ふと二年前に亡くなった黒猫デビを思い出した。彼は癌に侵されながらも死ぬ間際まで覚醒を保っていた。お願いだから目を閉じて眠って欲しい、と、彼の瞼に手を当てて目を閉じてもらおうと思ったが無理だった。修行僧のようにじっと、数週間何も食べず(食べられず)ただ座っていた。
  とても体力のある猫だったから命尽きるまでに長い時間がかかった。が、今思い起こすと、あんな風に覚醒を保ったまま死ねる人間はどのくらいいるだろうか?私達はいとも簡単に意識を失ったり朦朧としてしまう。なんだか恥ずかしい話....。
 業の中に殺害業とかいうのがあって、もう畜生界は終わってレベルアップ、という時もその業が働いて思いがけず短命に終わったりするようだから、そもそも人間のように意思疎通ができそうだったあのデビは業を早々に全うして人間界に生まれ変わっているのかもしれない。(と思うと安心します。もちろん、業の話が本当かどうかは分からないのですが。)

2018/6/14

 

 ヴィパッサナ―瞑想合宿では随分ショッキングなこともあった。

 自分の癖、ともすると内向きに入り込み過ぎてしまうがために、肝心な目の前の”理”に気づかない。

 ヴィパッサナ―瞑想は観察、気づきの瞑想。ヨガや気功法でやるようなサマーディ(恍惚とした一体感)を求める瞑想とは異なる。初期仏教では後者の瞑想をサマタ瞑想と言い、その価値(特に定力をつけるのには効果的)は認めるものの、智恵を開発できるのはヴィパッサナ―だとの位置付けだ。

 仏教に特有の智慧の開発。智慧とは何か最初は良く分からなかったが、合宿が終わって戻ってきてから徐々に分かりだした。智慧は真理を見透す力。しかもその真理は全く隠れていない。一見神秘とは無関係なドライな事実。言われれば自明の理。

 「味噌汁を作る時に大事なことは何か?」と聞かれ、「味噌をお湯の中に溶いて入れること」なんて答えたら、「そんなことを言ってるから人生全て失敗するのです!」とお叱りの言葉がくる。「鍋をとって水を入れて火にかけること、その間に材料を取り出して洗うこと、全ての手順が大事なのです。すべての一つ一つの手順を正しく踏めば最後には自ずから正しく味噌汁ができているのです。」要は、結果という存在しない妄想概念を頭に思い浮かべて、そこに向かって走ったところでもうすべてが間違えている。現前にあるものに集中せず、存在しないものに焦点を当てたところで、もうここから逸脱している。立つ瞑想というのがあったが、それは坐った状態から徐々に立ち上がっていって立った後20分位そのままでいる。その間ずっと動作を逐一実況中継する。が、「あなた達は立つ瞑想でそれに気づかず、ずっと何の瞑想をしていたのでしょうね?坐った状態から足をずらし、腰を上げていく、その間、一瞬一瞬の動作を正しくしていれば、自ずから正しく立てる・・・智慧というのはそのようにして開発されるのです。」と後で長老から言われた時、はっとするとともに愕然とした。全く視点が違う!一体私はぼぉ~っと何をしていたのか?

 

 戻ってから太極拳をしたら、太極拳だって同じこと。この、瞬間瞬間しかない、プロセス、流れしかない、結果がない、というのは套路をやれば気づくこと。第五式単鞭と言って、最後のポーズを思い浮かべた時点であなたの人生は全て失敗なのです!!、と長老なら言うかしら?(笑)

 が、確かにそこに気づかなければ太極拳にはならない。ポーズ(定式)はその前からのエネルギー(気)の流れの行きつく先、けどそれも通過点で、またそこから次へとエネルギーは流れていく。最初から最後までエネルギーの流れは止まることもなく続いていく。それに気づけば、人生も同じこと、無常の真理が見えるはず。ゴールがない。流れだけ。

 

 自分の体内の気の感覚だけに埋没するとそのような真理は見えてこない。

 感覚に埋没することは感覚から次の感覚へと延々に感覚世界の中で循環することになる。それは合宿中に気づいたことだった。だから輪廻を繰り返す。感覚を観察するには感覚の中に入り込んではならない。だから太極拳の経典には、『力者、折。気者、滞。意者、通。』とある。

 私はこれまで何度も師父から、気を操ってはいけない、と言われてきた。確かに気を無理に遠そうとするとどこかで詰まったりするのだけれども、それでもなかなかやめられない。どこかでまだ、気を操るのを楽しんでいたりして、なぜ、気を運んではいけない、と言われるのか本当には腑に落ちていなかった。(気は行かせるもの。行気。✖運気)(体内の気の流れが分かりだした人の陥りがちな罠。私は以前運気をやり過ぎて首が動かなくなってしまった。パリの師父のところで間違いを正してもらって治った経験がある。まだ気が分からない人は心配ありません・・・まず気の流れが分かるようになるのが先決。)

 でも今回の瞑想合宿で身体的な意味だけでなく、仏教的にもそれがまずいことがはっきり分かった。気を操ると自分が感覚の中に入り込んでしまい、永遠に循環、サンサーラ、輪廻の輪から飛び出せない。感覚から離れた場所(意、上丹田)から観察、見下ろしていなければならない。結局、そうした方が気がスムーズに流れるから不思議。自分が関わらないところで却ってうまくいく・・・結局、”自分”が身体の自然な智慧を妨害している。任せる。自然に預ける。無為。・・・・。

 

 ヴィパッサナ―で食事をしていて気づいたことだが、(ヴィパッサナ―で実況中継をしながら食事をすると40分くらいで疲れて満腹になってしまう)、味わう時に味わってしまうと、味わっていることを観察できない。味わってるのを観察すると、やはり自分の意識を少なくとも上丹田に上げなくてはならない。目が落ちると感覚に埋没してしまう。目を上丹田に置いておくには鼻から吸った息を脳に入れ続ける。裏声を発する要領で目を上げておく。脳の北半球は全て眼の領域だが、南半球に落ちれば仏教的に言えばこの世に落ちてくる(その目線で坐禅をすればすぐに居眠りしてしまう。覚醒できない。)が、仏教の修行は身体の開発がないので全く言及されないが、その位置に目を持って行って観察し続ける(覚醒を保つ)にはそれなりの身体が必要。そのために太極拳の練習があるようなところもある。会陰が上丹田とつながれば自然と目は落ちなくなる。ヨガの修行も最初は身体から始めるのも、そのような目を作るにはそれなりの土台がいるからだろう。仏教は上丹田からスタートするようなところがあるが、読経1時間すると思った以上に下丹田中丹田が活性化されて、その土台の上で坐禅をすれば上丹田が機能することになるのだと思った。

 

 ヴィパッサナ―、観察瞑想はまさに上丹田、ヨガでいうアジュナチャクラの開発の瞑想。

 上丹田で二つの目は一つになる。二で成り立っているこの世が一で見えるようになる。見透せるようになる。だからここで真理を発見する。現代の太極拳はせいぜい身体の開発で終わってしまう。このレベルまで上げている老師はとても少ない。

 

 が、そんないろいろな細かな、長老が読んだら、「それもあなたの妄想思考なのです!」と喝を入れられそうなことも考えてしまいましたが、一番大事だと思ったのは、静かに、ゆっくり、でした。

 静かに、ゆっくり、意識的に一瞬一瞬を過ごせるのなら悩み苦しみとは無縁。

 『心神虚静貫始終』『静心慢練是活桩功』馮志強老師の本で強調されていることでした。

  

 

2018/6/10

 

  一昨日夜に下界復帰。

 人は何でこんなに憑りつかれたように慌てて歩いているんだろう?と、途中通過した東京駅で滑稽に感じていたら、ちょうど、そこに田舎から出てきたと思われる母子がいて、「皆はよう歩いとるやろ、頑張って歩こうな。」とお母さんが小さな娘の手を引っ張って歩いて行った。

 やはり郷に入れば郷に従え、不自然でも合わせなければならない。合わせているうちに慣れて不自然なものも自然になってくる。こうやって人は本来の自然の感覚、姿を失っていく。・・・・仏道を進むには全世界(中でもとりわけ両親)を敵に回してでも一人立って戦っていく勇気が必要、と長老が言っていたけれど、世間に合わせず本当のところ、真実のところで生きていこうとすると、世間(俗)から見れば異端児になることは否めない。世間でうまくやっていこう、なんて思っている人には全く不向きな道。が、そもそも世間に合わせるのが苦手な私にはやりやすい側面もある。

 仕事帰りの人々で往来の激しい東京駅。今までならそんな雑踏を抜ける時に、膨らませた丹田を頼りにズンズン進んで行ったり、逆に合で丹田を粒にして自分の気配を無くすようにしてすり抜けて行ったり、あるいは、歩法の練習も兼ねて、人々の足の隙間を狙って足を差し込んでいったり、とか、最近では上丹田のレーダーで路を開いて歩くとか、せっかく学んだ太極拳の応用実験をしたりしていた。 しかしながら一昨日は、一週間近くも太極拳から離れ瞑想していた影響で、東京駅の雑踏の中でもいつもの”これらの敵にどう対処するか”というマインドが働かない。ヴィパッサナ―歩行の癖がついてしまっていて、ただ、自分の足を、「上げます、運びます、下げます、置きます・・・。」と意識しているだけ。さすがに瞑想の時よりもかなりテンポを速くしているが、それでも周囲の人達より歩くスピードはかなり遅い、しかも斜め下を向いたまま目を上げられないから、周囲を見ることができない。最初ちらっと、これで人とぶち当たらないかしら?と不安がよぎったが、とりあえずそのまま歩いていると、不思議不思議。向こうから速足で歩いてくる人々は私の目の前まで来ると、皆悉く進路を変え、私を避けていく。私の視界に入るのは近くにいる人達の下半身だけなのだが、私の周囲にはちょっとした空間が残されていてちょっとした真空スポットができているかのよう。あらまぁ、不思議、どういうことなんだろう?と目線を上げて周囲の状況を見ようとしたらたちまち前から来る人と衝突しそうになってしまった。慌てて下を向き直す。

 ゆっくりゆっくり、目線を下に落としたまま注意深く歩を進める。すると敵は自ずから自分を避けていく・・・これは凄い技。闘う、対抗する意が全く失せた時に現われる最高の技?太極拳にそんな技、そんな境地があったような気もするけど、これではなかった?

 と、私の頭の中で突然木枯し紋次郎の姿が出現。一人で笑ってしまった。

 なんなんだろう、この現象。劉師父に聞いてみるかなぁ。

 

2018/6/5

 合宿第4日目。
 無言で暮らすのがこんなに快適だとは知らなかった.... 
 実は2日目午後、無言でスローモーションで歩く夢遊病者の館に嫌気がさして一度脱出。近くで見つけた公園でドロップアウト気分で暫し過ごしたのだが、帰るならとりあえず長老の個人面談を受けてから帰ろうと腹をくくってホテルに戻った。が、ホテルに入ったその瞬間、あたかも自分の家に戻って来たかのような気がして、外よりここの方がいい!と感じてしまったのは、自分でも不思議。
  人が無言で意識的な動きをしている時は"我"が消えている(引っ込んでいる)。だから3人部屋でも一人のようだし、館内に80人ほどの人がいるはずなのに10人くらいしかいないような気がする。
  ホテルの人達がバタバタ動くのがとても滑稽に見える。
   毎朝4時起きで7時と11時半に食事が出るのだが、私は夜すぐ眠れず眠気が残ったまま朝食、昼食を食べているので、ヴィパッサナーで実況中継しながら一箸一箸食べているうちに何度も睡魔に襲われ意識が遠のきそうになる....普段はあり得ない現象。40分くらい食べるともう意識もお腹もいっぱいで、3分の2食べられればマシな方。夜ご飯はないのだが不思議とお腹が空かない(もし夕食まであったら疲れて仕方ないと思う)。スナックコーナーでいろんな飲み物や小さなお菓子があるので、私は痩せないように、夜クラッカーにギー(インドのバター)と蜂蜜をつけて食べている。(ギー、初めて食べたけど、バターより味が濃くて美味しい!)

  昨日は長老との面談があった。10人申し込んで私は最後の方。スタッフから最初に30分の人もいれば1時間以上話している人もいる、早く出てくる人もいるし、時間は読めません、と言われた。午前から始まったが案の定私は午後になり、随分用意して緊張して面談に臨んだのだが....。
  長老、挨拶しても無視、質問をしている間も横を向いて全くこちらを見ない。私がヴィパッサナー瞑想で得た感覚を一生懸命伝えていたら、次第に頭を抱えて次第に丸くなっていった。喋りながら、マズイ....と思ったが話し始めたから仕方がない、最後まで話し終えた時には、対面している長老は妖怪のように頭抱えたままぐにゃぐにゃになってしまっていた。
   それから初めて私を見て、「それだけですか?
どうぞ勝手にいろいろ実験して下さい。でも良い結果に執着だけはしてはいけません。」と言って、「私からはそれだけです。はい、終わり。」と打ち切られてしまった。 瞑想は言った通りやりなさい、ということなのだろうが、怒られたり否定されたわけでもなく、どう解釈して良いか分からないまま退室。
  暫く突き放されたように感じてショックが消えなかったが、そもそも長老は誰も褒めない、し、皆突き放す、それに、あの頭を抱えた姿からすると、ひょっとしたら夜の法話で何か私の質問に絡んだ(何か大きな)ことを話してくれるのかもしれない、とりあえず初心に戻ろうと気を取り直した。
  夜は17時から読経1時間、それから立禅、坐禅合わせて45分程度。それから法話2時間。
  そして昨夜の法話は、なぜ悩み苦しむのか?その原因は? から話が始まった。要は、そうあって欲しくないことが起こったから。竜巻で家が飛んだ、脳卒中で半身不随になった、会社が倒産した、どれも、起きて欲しくないことが起こっただけ。期待する方が間違っていることに気がつかない無知な人間....(説法の論理はもっとしっかりしているのだけど適当に端折って書いてます。)
  そしてヴィパッサナー瞑想でよく観察していれば....とその辺りは後日まとめることにして、私の質問との関連で言えば、要は仏教の目的は悩み苦しみを無くすこと。老化、病気、死で悩まない、苦しまない境地を作ること。手が一本無くなろうが、目が見えなくなろうが、悩まない、そんな境地。そして、そのような心の境地を作るのに足しにならないものは全て排除する。私がたとえサマーディ体験、神秘体験したとしてもそれはその役に立つかは極めて疑問、そういうことだったらしい。
  確かに、もっともな話....
  何が起ころうとも、まさに何が起ころうとも、全く影響を受けない心が得られたら....そんな心はこの世の心ではないのだけど....可能なのだろうか?
  このレポート書きにまた公園に来たのだけど、私の歩くペースが超スロー過ぎてなかなか到着しなかった。太極拳も超スローでしかやれない....肉体の動きは心に比べてとてつもなく遅いから、肉体に心をきちんと合わせようとするとこんなにまで遅くしなければならない.... 朝、ホテルの庭で一人、張り切ってラジオ体操してるおじさんがいたけど、バカにしか見えなかった....なぜこの瞑想生活していてあんな滅茶苦茶に動けるのか理解不能....が、世の中に戻ればあちらが普通で意識的な瞑想状態の動きはただのノロマにしか見えない。
 太極拳、そのうち戻るのかしら?
2018/6/3
 昨日から守谷でのヴィパッサナー瞑想合宿が始まった。無言行なのでスマホも当然禁止、と思ったらそこまで厳格ではない。個人がどれだけ厳格にやりたいか、それだけの話のよう。
 昨日は第一日目なので午前はオリエンテーションを兼ねての法話、午後は初心者向けの瞑想指導。
 参加者85名、初心者指導を受けたのは20名程。私は全くの初心者ではないけれど参加(そしたらスタッフから、あなた初心者ではないでしょう?と声をかけられて適当に躱した。)
  瞑想指導は14時に始まったが、案の定、長老の話は長く、スタッフから、そろそろ指導を....とリマインドされた。長老は「仏教の瞑想は正見のための説法がまず大事。ヨガとは違う。私の説法をちゃんと対話しながら6時間聞けば預流果くらいにはすぐなれる。」と言ってから指導に入ったが、最後の坐禅で私達のできがあまりにも悪いと時間延長、終わったら20時だった。坐禅キツ過ぎ....股関節おかしくなりそう....骨盤立てて坐骨で座って背骨を全て上向きに立てて、それから上から力抜いてお尻の力だけで身体をまっすぐにしておく、この要求は私でどうにかクリアするか否かの怪しいところ、初心者には無理。身体の条件、柔らかさと、長老曰く、精神のどっしり感(私は丹田の気力と解釈)が足りない。
     
  太極拳の練習に酷似しているので疑問点いろいろ出てくる。
  後は忘れないようにメモ。説明は後日。
食事の観察....ヴィパッサナーで食べると食べ過ぎない。ピタッと止まる。不思議。夕食なしでも大丈夫なくらいの充実感....痩せてしまわないか心配。
食事の観察、箸を置きます置きます置きます、と置いた後、次にどこに箸を伸ばして良いか分からずしばし動作が止まる。この点を瞑想指導でス長老に質問した。やはりここばかりは、意、思考が必要になるとのこと。ヴィパッサナーの目的は思考を殺すことだが、最終的にはそこは綱渡りバランスになり、智慧が現れれば解決するとの話。だけどそこは先のレベルなので、他の人は気にしなくて良い、と答えてくれた。
やはり二元論....ナーマとルーパー。
夜はこっそり超スロー48式をやってみて気がついたが、要は、感覚神経の流れを見てるから、運動神経の流れを見てるか、静脈を見るのか動脈を見るのか、そんな話のよう。ちなみに48式、約50分かかった。
 あとよく分からないままなのは、立つ瞑想で足を少し開いて両半身均等にバランスをとる際、均等になります均等になります、と言って重力にやってもらう、という話。均等にします!は間違い。
これは太極拳と同じなのだが、なぜ、自分がやるといけないのだろう?自我がでるから?
   手をあげますあげます、と言ってやるヴィパッサナーの瞑想は一人称、坐禅で腹の膨らみ縮みを見るときは、膨らみ、膨らみと名詞にして言うのは三人称。自分は消える。こちらがより高度。
  長老は瞑想を早く進ませるために、ステップ1の肉体を見る練習とステップ2の感覚を見る練習を同時にやらせてる、と言ってたから、これもステップ、最終的には無我に向かわせるのだろう。
  ちなみにステップ4で見清浄の境地、だったかなぁ....。
  結局昨日は長老の話を通算8時間くらい聞いてたから、ずっとお喋りしてるようでした。
  今日から本番
  朝4時起き、5時からの読経と坐禅は、眠気と身体の硬さもあって久しぶりの拷問。音をあげる寸前までいった。坐禅、どーにか対策を考えなければ。
  坐禅間違えた姿勢でやるから変な神秘体験しか起こらないのです‼︎(by 長老)
2018/6/1
 子供の頃から整理整頓と時間厳守が苦手で、特にお片付けについてはどれだけ母親に怒られてきたか分からない。勉強しなさいなんて一度も言われたことがないが、片付けなさい!は毎日言われていた。
  大人になってもその癖はなかなか治らず、いや、そもそも治そうという気もしていないようで、断捨離や、ときめきの....、あれやこれやの整理整頓、お掃除のマニュアル本を買って読んではいるのだが、ただただ本が増えるばかり。片付けは収拾、心まで狭くなるようで、散らかすのは心が解放される....なんて思っているようではいつまでもこのままだろう。
  が、最近、太極拳の練習とピアノの練習で、偶然にも同じ課題を発見した。
  "合"が苦手。
 開合の合。
 太極拳は最初は開合拳、と言われていた。そのくらい"開合"は太極拳の要。もちろんこれは丹田の開合だが、丹田の開合は全身の開合になる。
 右股関節の開きがイマイチ、と長年開く努力を続けてきていたが、実は、開きが足りないのではなくて、開き過ぎて、"開中有合"の、合、が消えてしまっていた。股関節を無理に外旋し過ぎて股関節が外れる方向の力のかけ過ぎ、これでは脚が捻れ、膝や足首に負担がかかる。これに気づいたのは大腿筋膜張筋の緊張からだった。
  ピアノでも半音階を高速で弾く時に自分の手首を閉めればうまくいくことを発見、オクターブの連打でも、指を開いても手首に収束をかければ、丹田の力がうまく指先に達して、速い操作が可能になる。合、は手足の親指の操作。なぜ卓球で外反母趾になったのか、それも合点がいった。身体が開く癖があった....
  片付けが苦手なのもその辺りからきているのでは?
   と、まずは身体の合の練習....、と、結局片付けは先送り(苦笑)
  昨日のピアノのレッスンでは、自分のテンポが如何に崩れているか、をメトロノームをかけて演奏することで痛感させられた。ほんと、恥ずかしいくらいテキトーに弾いてる。「酔ってそうでも酔っていない、ピリッと統制の効いた、清潔感のある演奏を目指して下さい。」と先生に言われたが、何だか自分の欠点を指摘されているようでもじもじする。極めつけに、「引き出しを開けたら、ピッチリ整理整頓されている、それが基本ですよ。そこから少しだけ崩せば良い。」と言われた時には、引き出し見られたのか...?まずは片付けろ、ということなのか?と複雑な想い。
  統制は上丹田....
  明日から6日間、瞑想合宿に行くのだけど、きっとそれもその辺りの修行になるのではないかしら?
全日無言....最終日まで残れたらすごい!自分を褒めてあげ用途に思っています。別の自分の出現を期待。

 

 

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練習メモ』

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

ようせいフォーラム2017プログラム
3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
ようせいフォーラム2017プログラム.pdf
PDFファイル 3.1 MB

 

2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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