2015年9月

2015/9/29 <雑感:サンクトペテルブルク 三人の指揮者>

 

 サンクトペテルブルクからパリに戻りほっと一息。サンクトペテルブルクはロシアの中でも西欧都市に最も近い開けた場所ですが、やはりパリの開放度には比べ物にならず、ロシアの出国審査をちゃんと通過できた時は変な安堵感がありました。

 

 それでもロシア、それも19世紀後半革命前までの時期の芸術(特に音楽と文学)は最も心惹かれて、どんな土壌でこのような芸術が培われたのかというのを身体で感じてみたいと思ったのがそもそもの始まりでした。

 農作物でも動物でも、やはりその土壌、気候に大きく左右されるのだから、人間も、そしてその創作物である芸術もやはりその風土が大きく影響している。その風土を感じることなしにその土地で生まれた芸術も理解できない・・・と、実は今年の2月の寒い時期に初めてサンクトペテルブルクに行ったのですが、不思議なことに、それまで何度もトライして挫折していたドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を、サンクトペテルブルクからの帰国後はあっという間にのめり込んで読破してしまったのでした。短い時間の滞在でもその間に自分の身体がいろんなことをキャッチして反応していたのだなぁ、と我ながらビックリしたという経験でした。

 

 今回は第二回目の旅行でしたが、正直なところ、第一回目の真冬のロシアの方が印象が強かったように思います。マイナス10度くらいでもまだ寒いとは言えないようで、ドライバーにはあまり寒くない時に来て良かったね、と言われました。滞在中はマイナス2,3度の雪交じりが多かったのですが、このくらいならまだ歩いて観光ができる、という状態。フードをかぶって足ばやに歩く現地の人達を見ていると、どうして彼らの姿勢が良いのか、腰がちゃんと伸びて顎が引けているのか、理解できるような気がしました。

 

 と、ここからやっと本論に入るのですが、私は太極拳をやっていることもあり、人の姿勢に無意識に目が行ってしまいます。そして、(成人に関しては)”姿勢が崩れている”、というのが普通な世の中、そこに姿勢の良い人がいたりするとやたら注目してしまいます。この姿勢が良い、というのは無理して真っ直ぐにしているのではなく、内気が上下に貫通してすっと伸びている感じのことです。(植物と同じ。私がよく見ているのは穂が垂れる前までの猫じゃらし。頭が重くなりすぎると垂れてくるのは人間も同じかと。だから頭は軽く、気を足の方に降ろす、頭寒足熱が必要なのでしょう)。

 

 日本人はこれまで私が行ったことのある国の中で最も姿勢が崩れてしまっている国民のようですが(ほとんどの人の膝の裏が伸びていない)、これに対し冬のサンクトペテルブルクの人の姿勢は感動的なくらい平均値が高かったのです。

 そして、音楽家、演奏家や声楽家、指揮者についても、姿勢の良し悪しで演奏の良し悪しのほとんど決まってしまうのではないかという偏見(?)を持つようにもなりました。(芸術の評価は主観的な要素、好き嫌い、が多分にありますが、好き嫌いを超えて、普遍的に”良い”と言われるものはその外形も整った普遍的な美がある、という一つの見方です。)

 この見方は太極拳的には至極自然な見方で、以前、クラッシック音楽については何の知識のない師父にいろいろな演奏をyoutubeなどで見せた時、音を消して演奏を見ても師父には良し悪しが分かってしまう、というのは大きな驚きでした。何の先入観もなく、見ただけで、これは良い、悪い、と判断できてしまう。やはり中身は外の入れ物に沿う、ということ。まず外形から入り徐々に内を練る。すると内の変化に応じて外形も変わってくる。するとまた内側も変わる・・・という循環は、芸術も太極拳も同じのよう。

 

 指揮については、たまたま指揮者の生徒さんを迎えるようになってからいろいろ学びました。

それまで指揮者は跳んだり跳ねたりしてしているくらいにしか見ていませんでしたが、話を聞いたり自分で調べているうちに、こんなに人の気を操るような職業が他にあるだろうか、これは専門技術のある気功師ではないかと思うようになったのでした。

 ただ気功師の中には怪しい者が多いのと同じで、指揮者の中にも怪しげな、パフォーマンスによって雰囲気だけ作っているようなのもいる・・・。バラエティに富んだ指揮の形態がある中で、私(そして師父)をうならせたのはソ連時代にレーニングラード管弦楽団(現在のサンクトペテルブルクフィル)を約50年間率いたムラヴィンスキーという指揮者なのでした。

 その指揮ぶりには全く余分なものがなく、タントウ功のような直立姿勢と開合自在な大きな翼のような上肢に放松した指(太極拳でいうところの垂指)。内気を腹に落とし込み顔の表現は最小限。

 まあ、言ってみれば軍人、将軍のようなのですが、このような指揮の元には彼に随う、いや、彼の統制下にある楽団員達がいる。これはまさにソ連体制下の指揮、という感じです。(楽団員もソ連の一流の演奏家の集まりだったが、それをシゴキにシゴイた、という話も。厳しい~!)

 

 このムラヴィンスキーの没後継承したのが先日私が見に行ったテミルカーノフ。

 ムラヴィンスキーに比べると随分マイルドになっています。それでもまだ直立、気沈丹田、が残っていてロシアの自由化とまだ残る緊張感がうまく調和した感もあります。

 そしてその次の代、現在のロシアの音楽会を担っているのがゲルギエフ。(実は一昨日マリインスキー劇場で彼の指揮するオペラを見に行ったのですが、私の坐っている場所からは指揮がほとんど見えず、舞台上部の英語字幕を見ながらオペラを鑑賞するのに余りに疲れて一幕だけ見て出て来てしまいました。情けない話・・・)

 ともあれ、ゲルギエフの指揮を初めてyoutubeで見たときは河童かと思うくらい汗で頭が濡れていて笑ってしまいました。その指揮者がとても有名な指揮者だということはその後知ったこと。ただ指揮だけでなく音楽会のいろんな面で実力があるということなのでしょう。

 現在のロシアはどうやって外貨を得るか、お金を落としてもらうか、ということが主要命題になっているので、ただ指揮をしているだけではダメなのでしょう。そのあたりは、ソ連時代のムラヴィンスキーが、リハーサルの出来があまりにも良かったので翌日の演奏会をキャンセルした、というのと真反対です。音楽だけのために音楽をできる時代が復活するというのは、もうなかなかなさそうです。

 聴衆の質が高まらないと安っぽいパフォーマンス性に長けていたり話題性のある演奏家達が生き残り、これに対して、核心に向かう中身のある地味な演奏家達がやっていきづらくなるかなぁ、と思ったりもします。いや、でも分かる人には分かるから、本当に良いものはやはり残っていくのかなぁ・・・このあたりは太極拳界も同じ事情だと思います。

 

 話が長くなりすぎたので、最後に私の大大大好きなムラヴィンスキーの動画を貼り付けます。

続いてテミルカーノフ、そしてゲルギエフです。雰囲気の違いが分かるかしら?

 

 ムラヴィンスキーやテミルカーノフの内気、呼吸については帰国してから書けるとよいと思っています。


2015/9/28 <パリからサンクトペテルブルクへ>

 

 先週パリに入り、週末だけコンサート目当てでサンクトペテルブルクに来ています。

パリではまだ正味2日間しか練習していませんが、初日師父に再会したとたん、唐突に『粘』の話が出てそのまま推手の練習に入りました。

 パリにはこれまで私が会ったことのない生徒さんが来ていましたが、男性はどの生徒さんもジャンボで平均身長190センチ近くあるのでは?と思ったほど。師父が比較的小柄に見えました。

が、良く見ていると、大きな身体は操るのも大変そう・・・。ギクシャクしているし俊敏さに欠けるかしら?

 

 その後パリから右左3列ずつしかない小さな飛行機でサンクトペテルブルクに飛びましたが、小さな座席に身動きが全くとれないほどぎゅうぎゅうになって坐っている人達(主にロシア人、フランス人、アメリカ人)を見ていると、子供のような身体をしている自分が得した気分になったりしました。

 以前少林寺出身の中国人の先生が中国武術は175センチくらいが限界、と言っていましたが、パワーと俊敏さのバランスをうまくとるのは非常に難しいのかもしれません。

 

 話はサンクトペテルブルクでのコンサートに移りますが、お目当てはテミルカーノフの指揮するサンクトペテルブルクフィルの演奏でした。一度この目でテルミカーノフの指揮を見てみたい、その想いで現地にわざわざ赴いたのでした。(http://www.philharmonia.spb.ru/en/afisha/73450/)(動画が見られそうなのだけど、ホテルのWi-Fiでは重すぎて静止がしか見られない~。)

 1曲目はブラームスのピアノ協奏曲。ピアニストはギャリック・オールソン。アメリカ人の巨漢!でしたが、期待以上に良かった~~。

2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第9番。やはりショスタコーヴィチは本場が一番、と思わせてくれました。

 そしてこの演奏会を通して大きな発見がありました!

 指揮者のテルミカーノフは思っていた通り。太極拳の道理に基づく指揮ぶり。立ち方と言い、振り方と言い、呼吸法、内気の使い方・・・前から4列目に坐ってしっかり足さばきも見てきました。

 ピアニストのオールソンは冒頭の『粘』、そしてそれと密接な関係のある『圧』がとても感じられました。『圧』は腹に息を押し込むことで生まれるのですが、この点は指揮者のテルミカーノフも同じで、『圧』によって自分の内部のエネルギーを漏らすことなく表現に変えることができるのだと気づきました。

 

 ・・・と、このあたりは、ワクワクするほど太極拳とのつながりがあるので、また日を改めて(明日パリに戻ってから)書きたいと思います。


 

<付け足し>

 ここには24時間営業のお店があちらこちらにある。基本的に深夜営業や日曜営業のないパリとは大きな違い。どちらが社会主義国家なのか???

 そして毎回送迎のドライバーにはプーチンの正当性と西側諸国の偏見(特にウクライナについての)についての講義を聞かされるけど、私にはチンプンカンプン。申し訳ないけれど、政治・経済からは距離を置いてせっせと自身の心身を鍛えるというのが今の私の姿勢です。

 

2015/9/19 <腹に気を沈めたまま動く>

 

 昨日は天気も悪く常連の生徒さん二人だけの練習になった。

 雑談をしながらゆるゆる練習していたが、人数が少ない分、彼らの動きを見たりいじったり、疑問を聞いたりと、普段は時間の制限でできない”寄り道”の練習ができる。

 で、その”寄り道”の結果、私達は大事なことに気づいた!大発見!

 

 その大発見とは、背骨を立てたり、とか、股関節を緩めたり、とか、会陰を上げたりとかの身体の姿勢に関する要領(太極拳的に言えば、虚領頂勁、沈肩墜肘、含胸抜背、塌腰敛臀、松胯、提会陰などの要領)は、それを一つ一つ意識してクリアしようとすると、矛盾する要領があるために全体としてなかなかひとまとまりにならないが、ここを、ただ一つ、”腹に気を沈めたままにする”ということだけを意識していれば、上に挙げた様々な要領が大体クリアできてしまう、ということだ。

 

 昨日の生徒さんのうちの一人の長い間姿勢を正しくすることに努力してきたが、ここを直せばあそこがだめになり、あそこを元に戻せばここがダメ(例えば、挺胸を含胸に直すと骨盤が後傾し胯

が緊張する、股関節を緩めると胸が出る)とシーソーゲームのようになりがちだった。

 昨日は彼女が双腿昇降(しゃがむ練習、前日のメモに載せた動き)をするところをじーっと見ていた。彼女的には背骨を真っ直ぐにしてしゃがんでいるようだが、それは前日のメモのしゃがみ方③のパターン(上半身が真っ直ぐ傾いている、百会が上に向いていない)形になっている。水曜日の生徒さんの中にもそのような人がいて、頭頂を上に向けたまましゃがむには股関節をもっと外旋しなければならないとその人なりに結論づけていたが、昨日の生徒さんの場合は、ただ一つ、気を下っ腹に沈めて”ぶーっ”と膨らましたまま昇降するよう気をつけてもらった。効果は予想以上!

 頭頂も上を向くし、背骨もうまく弧を描き含胸から命門の開きがうまくつながり、骨盤も水平のまま股関節がうまく緩んで降りていける。もう一人の男性生徒さんに同じ指示を与えてやらせてみると、しゃがみきる直前で股関節の開きが止まってしまい完全に最後まではしゃがみきれなかったが、そこまでは姿勢の要領をちゃんとすべてクリアできている。 

 半ば感動を覚えながら、女性の生徒さんに最初自分がやっていたしゃがみ方と腹にぶーっと気を落としたしゃがみ方と二つのパターンをやり分けてもらった。そして彼女に質問。

「最初のしゃがみ方では何に注意していたのですか?」

「背骨(頸椎から尾骨まで)を真っ直ぐにしようと意識していました。」

「二番目のしゃがみ方では?」

「腹に気を落として腹圧をかけ続けることを意識していました。」

「身体の感じはどう違いますか?」

「二番目の腹に気を落とした動きではすぐに身体の奥が熱くなります。」


 ・・・腹に重石があるかないかでここまで変わるのか~、と私も内心ビックリ。

 そういえば、師父は何かにつけて、「まだ腹に気が落ちていないから」とか「腹に気が溜まっていないから」ということを、股関節が開かない理由、重心移動がきちんとできていない理由、首が立たない理由、いや、なんだも”できない”理由は”腹の気”が不十分であることに起因するような言い方をする。「だからまだまだ立ったり坐禅をしなければならない」というのが話の流れだ。

 私はそんな師父の言い方にあまりにも慣れてしまって、その重大性にはっきりと気づいていなかったのかもしれない。

 そのあと、24式の中の第19式閃通背の最後の部分を練習。空手の三戦立ちのような部分と続く背負い投げの部分。ここは大技だが大抵身体が浮いてしまってうまくいかない。最初に二人の動作を確認。やはり身体が少し浮く。この式は東に進んでまた西に戻ってくるが、イメージ的には戦車のようにタイヤ(丹田)がゴロゴロと地面上を転がることで身体が進んで行くようなもの。絶対に浮いてはいけない。

 その後、しゃがむ練習でやったように、腹に気を落とし続けて第19式の最後の部分の動作をやってもらう。

 これも予想以上の仕上がり。二人は腹がきつい!と言いあっている。

 そう、腹がずっとキツイまま、これが腹に気が落ちている感覚。


 その後、一人で考えたけれども、恐らく、この”腹に気を落とす”感覚は一定以上の練習をしなければ得られない感覚なのだろう。腹に気を落とす、とか腹に気を溜める、腹に気を沈める、腹の気を逃げないように動く、このあたりの感覚が自分ではっきり分かるようになれば、その後の練習は腹の感覚を頼りに進められる。


 今日のレッスンは比較的多数の生徒さんがいたが、試しに、腹に気を落とした姿勢と腹に気を落としていない姿勢を区別してつくれるかやらせてみた。

 完璧にできる生徒さんはとても少なかったが、できかかっている生徒さんは数人いた。できかかったいる生徒さんにはさらに肩(肩井)を丹田で下に引き込む要領を教える。肩まで腹に引き込められるようになれば相当なもの。練習を初めて2年半くらいの男性が最近その感覚が定着したようで、すると以前硬化していた背骨が蛇のように動くようになっていた。


 気を通すとか循環させる、つなぐ、という練習はどの太極拳教室、気功教室でもやっている練習だが、気を溜める、という練習をしているところはとても少ないと聞いたことがある。気を溜める重要性がまだ十分伝わっていない(もしくはどうやって良いのか分からない)のかもしれない。

 が、①(気を)溜めて、②(その気を)通す、というのが事の順序で、気が溜まっていなければ流す気もない、ということだ。(当然のことだが、気が溜められないと丹田の感覚も出てこない。)

 加齢とともに着実に気の量が減るので、この減少を如何に少なくするか、どうやって少しでも増やすか。「固精、保精、护精」(精を無駄に使わない)、心(気)を使いすぎない、頭(神)を使い過ぎない・・・静かに立つ、静かに坐る、心静かに生きる。

 日常生活すべてが修行になる。まだまだスタート地点だなぁ。


 

2015/9/17 <しゃがみ方の3パターン>


 今週は生徒さん達の套路撮影をしているが、生徒さんから逆に私の動作を撮影したいというリクエストもある。

 これは基本功の一つのしゃがむ動作。

 しゃがむ動作をコマ送りして静止画像を取り出せばそれはまさにタントウ功。

 タントウ功を高い姿勢から最も低い姿勢まで移動させていくのがしゃがむ練習だと言ってよいと思う。


 クラスではお手本的なしゃがみ方以外に、よくやりがちな二つのパターンのしゃがみ方をやってみせた。(ここでまず下の動画を見て下さい。それからこの先の文章を読んだ方が理解できると思います。)


 これらはどれもタントウ功、太極拳の基本姿勢の要領をどれだけクリアできるかの話。

 ⑴虚領頂勁、⑵沈肩、⑶含胸、⑷抜背、⑸塌腰、⑹敛臀 、⑺松胯等の胴体部に関わる要領をすべてクリアできれば中正がとれ丹田が現れる。


 しゃがみ方①は 特に⑵、⑺に問題があるため、⑴、⑷が達成できない。

 しゃがみ方③は、特に⑶、⑸、⑹に問題があるため、やはり⑴と⑷が達成できない。⑺については前胯(鼠蹊部)を緩めただけで  后胯(お尻側の股関節)が緩められていない。


 結局、一連の要領はすべて”intertwined”(絡まりあっている)から、ぐるぐるまんべんなく練習していなければならないのかもしれない。リニア(直線)的な練習方法ではなかなかうまくいかないような・・・(教える側としてはこの辺りが悩みどころ)。


2014/9/16 <太極棒を使った簡単な練習>

 

来週再来週はパリの師父のところへ練習に行くのでこちらのレッスンはお休み。

その間、太極棒を使った内功の練習をしたいという生徒さんがいたので、急遽今日簡単な動画を撮りました。参考にしてみて下さい。(その場で考えながら動いているのを撮ってもらったため、カメラ目線になれず目がグルグルしています。その点は笑って無視して下さい。)

棒を使うと身体の内側(気)を練り練りすることができます。

その他の棒を使った練習法は機会があればまた紹介します。

2015/9/15 <身体をつなぐ、体験で想像を超える、産みの痛み>


 また一週間が過ぎてしまった。

 先週は大阪から個人レッスンを受けに来られた生徒さんがいた。オートバイ事故で右肩を複雑骨折しリハビリ中ということだったが、一日目に個人レッスンをした後、二日目からは他の生徒さん達に混じって一般の練習に参加していった。

 右腕が思うように動かない状態での練習だったが、5日間の滞在の後大阪に戻る際、リハビリよりもこの練習の方が効果がある、というような(嬉しい!)ことを言ってくれた。


 彼の気付きは、肩だけを動かそうとするのではなく、身体の他の部分と連動させて動かしていく、ということだった。

 私との一般練習ではずっと私の身体の動きを見ていたらしく、身体全部が総動員されて動いているのがすごい、と言っていた。「使われていない部分がまだあるのですか?」と聞いてきたくらいだが、もちろん、私自身、使えそうで使えない部分、使いたいけど使えていない部分、まだ意識にも上がってきていない部分、があるのをよーく承知している。

 いつも身体のどこかしらに違和感、不快感があるから、毎日練習をし続けなければならない、というのも嘘ではない。


 この生徒さんの場合は肩に問題があったが、手首は動くし、腰も動く。肩はその間にあるのだから、両方向からつないで動かしていくというのが太極拳的な発想かもしれない。

 タントウ功をずいぶんやった後に出てきた感覚だが、お尻の環跳穴と肩の肩井穴は内側でしっかりと線で結ばれる。ああ、この二つのツボは胆経だった~、じゃあ、その途中のツボは・・・?、とまたまた話が続いてしまう。

 その後、脚までつなげるようになると、肩井穴が足裏の湧泉とズドンとつながるようになった。

以前よく、中医学に関する中国のテレビ番組を見ていたが、その中で、『肩の”井戸”は足裏の”泉”から水をくみ上げるようにできている。だから立つ時は肩井穴と湧泉穴を直線でつなぐように立つのが良い』というような話があったが、自分の身体でそれを体験して、ああ、なるほど、あの話はまんざらコジツケでもなかったんだなぁ、と思った。


 なお、私の経験上、そんな身体の”つながり”、経絡やツボの存在を感じるためには、前々回メモに書いたような、身体の軸、背骨を通して立てるようになることが必須。身体の外枠の条件ができていないのに、内側の感覚だけ捕まえることはできない。外ができていないのに内だけ分かるとしたら、きっとそれはただの想像ではないか、と思う。想像での感覚と、実体としての感覚をどう区別するのか?一つのメルクマールは、実体としての感覚は思いもよらない場所、思いもよらない感覚として現れる。頭で考えられるものは既知のもの。未知のものを頭は考えられないし、想像できない。思い描いていたような経路、思い描いていたような感覚が得られたとしたら、それは恐らく想像上のものだろう。

 先に体験、それが頭に経験としてインプットされる。

 頭を捨てられないと体験されるものが頭の範囲内に限定される。頭の容量を増やすには想定外の経験が必要だということ。練習は常にその部分を探るべき。身体にやらせる!


 先週、私の生徒さんの中に、仙骨が痛くなって練習をしてよいかどうか心配だ、という人がいた。原因が10年以上前に仙骨を強打したことにあるのではないか?なぜ今頃?、と心配が尽きない。

 彼女は生徒さんの中でもかなり真面目に練習してきている人。彼女の身体、動きを頭の中で思い浮かべてみる。最近はどんな動きをしていたかしら?彼女の構えはかなり高めでなかなか低姿勢になれないから、すこしはしゃがめるように指導していたけれど・・・と、ふと、ひょっとしたら、あの硬い仙腸関節が少し緩みだしているのだはないのか?と思うに至った。とすればこれは良い兆候。出産の時にお尻が痛くて仕方がなかったが、産道を赤ちゃんが通る時に仙腸関節が押し広げられる痛みだったはず(と今は分かる)。あれはものすごく痛い!出産未経験の彼女はそれを練習の成果として経験しているのでは?となんだか同情と共に喜びの気持ちまで湧き上がってくる。

 もちろん、しばらく練習をサボっていたとしたら、仙骨の痛みは何かしら悪い兆候かもしれない。

 良い痛みか、悪い痛みか、これは練習しつつ様々な痛みを経験しながら次第に自分で区別できるようになってくる。


 と散漫な文章になったが、締めくくると、身体の開発は終わりがないということ。そして、考えようによっては、身体は死ぬまで飽きないおもちゃのようだ。

 大事に遊んでいきたいもの。




2015/9/8 <秋は収斂、キツさ>


涼しくなって雨ばかり、と思っていたら9月に入ってもう一週間経ってしまっていた。

猛暑の頃は早く涼しくなって欲しいと思っていたが、涼しくなってもこんなに天候不良が続くとあまり嬉しくない。

少し前にテレビ番組の中で、アニメ監督の細田守氏が「人間を含め何でも夏に大きく成長する」と、自分のアニメ作品の中に入道雲が多く現れている理由を語っていたが、まさに、夏は伸びる時期。人間でいえば青年期。中医学では、春夏秋冬を、『生長収蔵』、と形容する。春は『生発』(芽生え)、夏は『生長』(伸びる)、秋は『収斂』(文字通りの意味)、冬は『収蔵』(蓄える)ということだ。(春は少年期、夏は青年期、秋は壮年期、冬は老年期、という感じ?)


そして今年は8月半ば過ぎまでガンガンに暑くて汗ダラダラで身体が開ききっていたところに、天候の急激な変化。一気に”収斂”命令がかかったようで、身も心もついていかない。秋は収穫の時期。春夏の成果をここで刈り取る。いらないものはここで捨てる。選別もなされる。五行で言えば秋は『金』。金属、刀とも関連がある。昔の中国では死刑は秋に行われていたというが、これもいらないものを切り取る作業?秋には春とは違う手厳しさがある。

練習も少し気を引き締めてやるべき、ということだろう・・・。


と、今週の練習では、ひと夏過ぎて一段進歩した生徒さんが数人いるのに気づいた。

練習を続けていれば、夏にグンと伸びる、というのは私自身も感じるところ。

生徒さんがこれまでなかった身体の感覚を体験しているときはその表情で分かるから面白い。

大部分はキツさで顔をゆがませている。

知らない人が外からみたら、その動作のどこがそんなにキツイのか分からないだろう。

ただ手を挙げるだけ、ただ手を下げるだけ、ただ左足から右足へ重心移動するだで、ただしゃがむだけ、それで、口がへの字になるくらい苦しそうだったりする。

身体の内側をつなげる、通す、というのはそれくらい大変なことだ。


太極拳の大事な基本練習が内功だが、しっかり”内”が分かれば、その”内”の感覚を頼りに練習を進めていくことができる。

例えば、ジャンプをする直前の姿勢(足首まで折り込む)で、肩を足裏で引っ張り込む、その肩と足裏のつながり。肩が痛くなるほど下に引っ張られたまま動き続ける、これが『沈肩』。(日曜日の練習でこれを体験した男性生徒さん数名はいずれもキツさで顔がゆがんでいた。)

左右の重心移動の時に左右の腰骨を引っ張り合いさせたままにしておくという要領。これも内側にキツさがある。

しゃがむ時にできるだけ背骨を脚につなげておくという要領、即ち、背骨を脚にするという要領を一生懸命実現させようとしていた生徒さんもいた。これができるようになってはじめて『虚領頂勁』の感覚が芽生えてくる。太極拳の練習で何故まず命門を開かなければならないのか、それがはっきり分かる、納得できるようになればこの練習のパズルが解けてきている証拠。

ある生徒さんは仙骨が痛むと心配していたが、それも長年の練習の成果である可能性が大きいよう。それまでしっかり閉じて固まっていた部分に気が流れて押し広げていく時は疼いて痛い。痛めて痛いのか、開こうとしているから痛いのか、この区別が最初はなかなかできないが、練習を続けていれば進歩の証の痛みと、痛めた負の痛みの違いが徐々に分かってくる。


秋を迎え身体も収斂してくるので、無理やり筋を引き伸ばすような練習よりも、身体の内側をみる内功がやりやすくなる。

季節に応じて身体も変わるし練習も変わる。同じ動作でもいろいろな練習ができる。そんなところを楽しめると練習に飽きがこないし終わりもない。







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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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