2015/1/30 <正座、コサックダンス、股関節の回転、呼吸の神秘>
今週は忙しかった。
毎日教えた、ということ以上に、毎回のクラス毎に頭をフル回転させた感がある。遠方(関西)からはるばるレッスンを受けに来た生徒さんもいたし、個人レッスンを受けに来た生徒さんもいた。また、最近このHPを見て練習に来るようになった生徒さんの中には、いつになったら”気”や”丹田”の感覚が得られるのか・・?と、次第に半信半疑になってきているような人もなきにしもあらず・・・。ということで、教える側の私としては、通常以上にいろいろ考えて教えた一週間だった。
その中で面白い発見だったのは、正座で行う練習。正座を正しく行う、即ち、骨盤を立て会陰が真下に向くようにする(肛門は斜め後方を向く)と、下半身の要領に煩わされることなく上半身の動きに注意を向けることができる。
正座でいろいろ遊んだ後、そのまま第一式を練習。ポン、リュー、ジー、アンで会陰がどう動き、胸と腹の間を気がどのように動くのかを意識しやすくなる。丹田の感覚もとりやすい。・・・テレビ体操で3人のお姉さんのうち一人が坐って体操をしているが、太極拳の套路を坐って行うのも一つの練習方法になりそうだ。
その他、前回書いた、しゃがんで歩く練習に、しゃがんだまま24式をやってみる、という遊びもやってみた。第8式提収で片足を上げたポーズをしゃがんだままやってみせる。生徒さん達から笑いが起こる。全部しゃがみ切ってしまって動くには、足首や脛以外にも腰の中の空間(股関節の可動域)等もいろいろ必要なようだ。しゃがんで歩くだけでも、ほとんどの男性生徒さんには拷問のようだが、これで套路をするとなると、それはあたかもコサックダンスをしろ、と言われているようなもののよう。ふーん、超低姿勢の太極拳はコサックダンス並みの運動量になるのね~、と、なんだかワクワクしたりしたのは、折にも再来週一週間ロシア旅行に出かけようとしているからかもしれない。まさか現地でコサックダンスを習いに行ったりはしないと思うけど(サーカスくらいは見てくるべき?)。
この秋口から、毎日の45分~1時間程度の坐禅の後、痺れた足を回復させるのも兼ねてしばし開脚をするようにしていたが、次第に両足(の股関節)の外旋の角度が大きくなり、ほぼ180度になった後、股関節が外旋から内旋に一転して脚が後ろ側に抜けるようになった。これは私にとっては快挙!バレエダンサー達の練習で、180度開脚から脚を後ろに抜くのを見たことはあったが、私にはそこまではできないだろう、とずっと昔に諦めていた。しかし、坐禅して開く、坐禅して開く、を繰り返していたら、徐々に開くようになっていたよう。股関節がどのように回転するのか、というのが実感として分かったとともに、股関節がお尻の奥にある、ということもはっきり分かるようになった(鼠蹊部が股関節ではない、ということ)。
股関節が回転できるようになると、太ももと胴体の付け根の一周部分がどこでも使えるようになる。即ち、太ももの縦に走る経絡6本がどれでも使えるということ。中でも、最も使いづらいと言われている腎経が使えると(太ももで言えばハムストリングの一番内側の筋肉、ふくらはぎで言えば後脛骨筋)、その安定感と省エネ感はこの上ない。
今日金曜日の和室の練習では、ある生徒さんの疑問に答えるために、呼吸に的を絞った練習をした。呼吸は単に、吸って、吐いて、という単純なものでないところがとても面白い。深めていくと、吸ってるのか吐いてるのか自分にも分からない、という不思議な感じになってくる。吸いながら吐いている、という感じも出て来て、このあたりは声楽家の感覚と同じになってくるだろう。
呼吸は簡単そうだが、掴まえに行くといくと逃げていってしまうような微妙なもの。自分でコントロールできそうでできない、半分この世にあり、半分あの世にあるような、神秘的なもの。
呼吸についてはまた改めてメモに書くことにしたい。
2015/1/25 <力を抜くために鍛える、緊ー松ー懈、きつい練習>
今日は天気が良かったが室内で練習。
病み上がりの生徒さんもいて、室内でラッキー、という声もある。
一般的には、太極拳はお年寄りや身体の弱い人にでもできる、”楽な”運動と思われているフシがある。力を抜く、とか、ゆっくり動く、という特徴から”楽ちん”と思うのかもしれない。
が、そう思って私のところに来た生徒さんは思いもよらないハードさにびっくりする。
まだ教え始めて間もない頃は”手抜き”ということをしらなかったから、特に男性に対してはかなりの要求をしていた。その結果、50歳以上の男性はことごとく、一回目の練習の後来なくなった。「ちょっときつ過ぎます。」と言い残して去った人もいた。
女性には無意識に手加減していたから残存率は高かった。
ある日、女性の生徒さんから、「先生は男性に厳しすぎますよ。」と指摘されてから、性別に拘わらず、その人その人の状態に合わせて教えなければ、と態度を改めた(つもり?)。
太極拳は力を抜いてゆっくり動く楽な運動、という一般的なイメージがある。
そんなイメージで私のところに練習に来てびっくりする人も少なくない。
太極拳は力を抜くのが大事、と皆言うけれども、所謂”力を抜く”ためにどれだけ鍛えなければならないのかを知る人は少ない。
本当に身体の力をみな抜いてしまったら立ってはいられない。腑抜けになる。所謂”力を抜く”というのは、決して、腑抜けになる意味ではない。このような腑抜け状態は中国語では『懈』(xieだらける)と表し、これは緊張の意を示す『緊』と対置される(緊⇔懈)。
では『松』は?というと、これは『緊』と『懈』の間に位置付けられる。つまり、緊ー松ー懈。
ガチガチ(緊)でもダメだし、腑抜け(懈)でもダメということだ。
例えば、坐禅でウトウトし始めたりしたら”懈”の状態に入りつつある。練習して気持ちよくなって、ぽわ~っとしてきた時も要注意。松も行き過ぎて懈になると集中力も欠けてくる。
私の練習では両腕を肩から扇風機のように思いっきり回したりする。肩から腕が吹っ飛んでしまうのではないか、と心配になるくらい回すと、身体の中心、丹田に自然に力が集約してくる。逆にいえば、腹がしっかりしないと怖くて腕を振り回せない。
試しに、これとは逆に、両手でギュッと固く握りこぶしを作って、腕に力を入れて同じように肩から回してみる。こうすると腹には力が必要ない。
前者のように、力を腹(丹田)に集結させて、その他の部位の力を抜いてただの”管”のようにするのが太極拳の『松』の感覚だと私は思う。後者のように周辺部分に力を使って丹田の力を使わないのが通常の私達の力の使い方だから、これを前者のように変えていくには丹田の力を強くする必要がある。丹田の力が弱いと、たとえ頭で他の部分の力を抜こうと思っても、身体の方では、抜いてはバランスが崩れてうまく機能しないと察知して、やはり他の部分の力を使うことによって丹田の力を補おうとしてしまう。
力学的に本当はどうなっているのか分からないが、私の感覚では、力を入れようが入れまいが、身体の中にある力(気)の量は同じなのだと思う。違うのはその分布状態。
そして、丹田に力を集めれば、そこで増やすこともできる(それが、丹田、の意味)。丹田でないところ、例えば前腕に力を込めてもその部分で気を増やすことはできない。
そして丹田で倍増させた力を、途中で自分の筋肉の締めによってロスしないよう、末端に向けて”すっこ抜ける”ように使えば、その威力は見かけ以上のものになるのだろう。
周辺(首、肩、腰、四肢、背中など)の強張った力を抜くためには、やはり腹の奥の丹田を鍛えなければならない。そして”鍛える”には多少なりの苦しさがある。苦しさ、キツさが全くない練習では進歩はなく、そのちょっとしたキツさが癖になればしめたものなのだが・・・。
立っても、坐っても、いつも腹の奥にちょっとした締め感が必要。でないと、私達の身体は、緊か懈のどちらかにブレてしまうだろう。
最後に、昨日今日の練習でお遊び的にやったアヒル歩き(冒頭の写真のイメージ)。
両足を揃えてきれいにしゃがんだ状態(かかとを浮かさない)から、足首から下だけで歩いていく。まずは右足を前に出しながらつま先を45度に上げて踵を着地させ。その後、左足が前に出てくると同時に着地した右足は踵→つま先、と足裏がべと~っと地面をなめるように移動する。
私はそもそも、足の冷える生徒さんを念頭に、足の甲や足裏を柔らかくし、足裏に意識や勁を通す動きとしてやってもらったのだが、この歩く動きは腰や会陰の引き上げなど、様々な重要な要領を総動員する必要があるようだ。
キツ~イ!
と、悲鳴をあげていたのは男性生徒さん達だったかも?・・・逃げないでくださいね。
2015/1/23 <基本功について、意→気→力>
昨日は室内で練習。
いつもやっている基本功を見直して一からきっちりやると2時間がすぐに経ってしまった。
馮志強老師は混元太極拳を、功法、拳法、器械(刀や剣など)、推手、散手、の5つから成るとする。
そして功法はその他4つのすべての基礎となる。
所謂”基本功”と呼ばれているものだ。
そしてこの功法は大きく二つに分かれる。
動かないもの(静功)と動くもの(動功)。
静功は坐功とタントウ功。
動功には、基礎内功、缠丝内功、養生内功、太極棒内功がある。
(動功の一つである太極棒内功は、基礎内功、缠丝内功、養生内功の3つをすべて集めたワンランク上の内功との位置付け。)
私の普段の練習では、上の功法のうち、静功(午前は站桩功、夕方は坐功)の他、動功として基礎内功から5つの動きを行っている。
具体的なメニューは以下の通り。
1.(タントウ功→)『収気帰丹功』(腹を両手で抱えるようにして左右に36回ずつ廻す)
2.『降気洗臓功』9回(これは収功として、以下、一つの動功が終わるたびに行う)
3.『労宮旋転功』前回し、後回し、36回ずつ(車輪のように廻す)
4.『双腿昇降功』18回 (しゃがむ)
5.『帯脈磨盤功』左回し、右回し、36回ずつ
この後、首を回したり、肩を回したり、圧腿(脚を上げて上体を倒す)、歩く練習、をする。
そして、24式や48式などの套路の練習へとつながる。
上の動功だけでもちゃんとやれば(心身を鎮めて意を通してやれば)30分はかかると思う。
私は一度師父から毎日24式を20回やるように言われて実践したことがある。タントウ功で1時間から1時間半、そして動功で30分強、ここで既に2時間が経過。その後、一回通すのに10分近くかかる24式を真面目に20回もしていたら練習時間が足らず、途中からただ回数をこなすよう、意念の伴わない身体だけの雑な練習をしていたら、その次のレッスンで、「言った通りに練習してきてないだろう!」と言われ、心中、「数はこなしたのに~。」と悔しくて涙が出そうになったことがある。(その後は回数を10回→5回と減らしていった。)
現在は当時より”意”を使うので、あの頃のような練習はできないだろうなぁ、と思う。
意を通す、即ち、意が全く逸れないように動き続けるのは相当な集中力がいる。家で一人で念入りに24式をやっていると、途中の第10式あたりで精根果ててしまうような(ちょっと大げさ!)疲れを感じることさえある。身体だけなら10回でも20回でも機械のように動かせるが、意を伴わせるとなると、速くは動けないし、数はこなせない。重労働になってくる。
練習がある程度進むと、タントウ功のまま意念で24式をやったりするが、この練習をすると、意と気だけで動く(力は使わない=身体は動かさない)のがどれほど疲れるかがよく分かる。
身体が動く(力が働く)前段階に”意”と”気”が伴っているか否かで発出する”力”に雲泥の差がでるという、一見神秘的な現象は、”意”の練習をしていくと次第に実感として分かっていくのだと思う。
そのためには、まず、静功や動功の基本内功をやり込んで、身体の緊張を緩めて身体を内側から開き、身体と自分の間に距離をとれるようになること(”意(心)”と”力(身体)”を分ける)が必要だろう。
(頭の理解ではどうにもならないので、毎日身体を使って実践するしかありません。)
2015/1/19 <習慣化についての雑感>
どうやったら練習を習慣化できるのか?
そんな問題を抱えている真面目な生徒さんがいる。
そんな問題も抱えずに練習を毎日コンスタントにできるのが望ましいのだが、そもそも毎日練習するのを諦めている人、さらには毎日練習する気のない人に比べれば、とても真面目な悩みだと思う。
私自身の個人的な感覚では、習慣化の背景には様々な思惑、心理状態があるように思う。
以下、思いつくがままに書いてみると・・・。
一つめ。
やらないと皆に後れをとるから。恥をかくから。
二つめ。
うまくできるようになって勝ちたいから。褒められたいから。
三つめ。
上達や進歩を感じるのが嬉しいから。
四つめ。
サボると実力が落ちるのが分かるから。
五つめ。
内容が面白いから。探究心を刺激されるから。
六つめ。
しないと気持ち悪い。儀式的。惰性的。
まだあるかなぁ~?
一つめと二つめは他人の目、他人との比較に基づくもの。負けず嫌いな子供(大人もいる?)にありがちなインセンティブ。
三つめと四つめは自分の自分に対する感覚。自分を磨いたり高めたりする努力に満足感と充実感を感じれば肯定的。実力が落ちる怖さが強くなると強迫観念に駆られてマイナスになる恐れもありそう。
五つめは最も純粋なインセンティブだろう。ゲームにハマるのはこれ?
習慣化が行き過ぎると六つめ。惰性になってしまっては進歩がないだろう。
太極拳にも試合があるが、試合で良い成績を収めることを目標にすれば努力を継続しやすい。表演会も然り。上の一、二、の要因が強く作用する。
試合もなく、表演会もなく、昇段試験もない、という場合、はひたすら自分自身との対話になってくる。そして、私のやっているこの練習は、上達、成果が感じられるまでに時間がかかるから、その間、上の三、四のインセンティブは使えない。とすると、残るは五つめの内容の面白さ、だけでしばらくやっていくことになりそうだ。
ふむふむ・・・(書きながら考えている)。
成果が出始めるとこの練習はとても楽しいのだが(毎日変化があり気づきがある)、成果が出始めるまでには毎日の練習を続けなければならない。
私はどうその時期を乗り切ったのだろう・・・?(思い出している)
成果を求めただろうか? 否。
気とはどんなものだろう、それを知りたいと思っただろうか? 否。
どうやって練習を習慣化しようかと考えただろうか? 否。
何を考えていたか? そう、何も考えていなかった!
師父に毎日1時間立て、と一言言われたら、そうしなきゃ、と毎日立っていた。
今日から1時間15分毎日立つように、と言われたら、そのように立っていた。
そこに何の考えも挟まなかった。無心。
(意は使うが)心を介入させない、というのは高度な修練法だが、今思えば当時の私は度々そのような状態にあったようだ。いや、私に限らず、誰でもそのような経験があるのだろう。そんな時、事は思いの外うまくいく。(逆に熟考していては迷いが出て結局うまくいかなかったりする。)
練習を続けられるようにサポートするのが私の生徒さんに対する役目。
そのためには内容に興味を持ち続けられるようにすること。そして、なるべく早く成果が感じられるよう合理的な教え方をしなければならない・・・が、”合理的な”教え方、って何だろう?(この話題は壮大なのでここで止めます。)
2015/1/16 <掲示板についてのお知らせ>
これまで生徒さんの中だけで使っていた掲示板(仲間のページ)を一般公開することにしました。
遠方に住んでいる太極拳愛好者の方もどうぞお使い下さい。意見、感想のみならず、各自の練習風景などを載せて頂ければとても有益だと思います。
投稿記事は一旦私の方でチェックしてから掲示板に載せます。
取り消したい場合は『お問合わせ』から私に連絡を下さい。
しばらくは試行期間のつもりでやってみます。
投稿お待ちしています。
2015/1/16 <金鶏独立、片足立ち>
今日は片足立ちに重点をおいた練習。
『金鶏独立』は24式には入っていないがとても基本的な型だ。
脚を上げる、いや、膝を上げる時に、太ももの筋肉を使わず丹田の力で上げる感じを習得させたいと思った。丹田で膝が上げられれば、片足立ちがとても安定し、上げた脚でいろんな方向に蹴りだすことが可能になる。
コツは、陸上部の腿上げのように膝を幾分鋭角に曲げて胸に引き寄せるように使うこと。
筋肉的には、腸腰筋を使って足を上げるということになるのだろう。
私達の歩行も実は片足立ちの繰り返しで成り立っている。
太極拳の動きに多い左右の重心移動も実は交互に片足立ちをやっているようなもの。
片足立ちが正確に、完璧にできるようになるという頃には、足指先から腰の帯脈までの縦に走る六本の経絡が総動員できるようになっているはず。膀胱経と胆経を混ぜたラインと腎経、即ち、太陽と太陰の二本が使えるようになればひとまずOKだと思う。
『金鶏独立』も、他の定式(各式の最後の所謂決めポーズ)と同様、タントウ功のできる形だ。
片足を上げたまま静止する練習も効果的。5分持てばよいかなぁ~。
2015/1/11 <引く 、推手or引手?>
今週木曜日、古い生徒さんと超スローモーで平円単推手をしていて大発見。
推手は”推す”よりも”引く”に重きを置くと二人の間に円環が生まれエネルギー(気)が消耗しない!
”推手”というくらいだから普通は”推す”に意識がいく。相手に推されて引く時は受動的で意識が薄くなる。ここで意識的に手を丹田へ引っ込めていく(ウツボが獲物を銜えて巣に引き込むような感じ?ウツボの口が手、巣が丹田にあたるような)。
手は常に丹田から伸びて(推す)丹田に引き戻されていく(引く)。
推して引く。すると自分で作り出され一つの円環ができる。
各自が円環をそれぞれ作ったうえで、二人合わせて陰陽の大きな円環を形成。
相手のエネルギーを自分の丹田に引き込み、それを自分のエネルギーとミックスさせて相手に譲り渡す。相手はそのエネルギーを丹田に引き込み、それをまたまた自分のエネルギーとミックスさせて自分に戻してくる。
そんなグルグルの循環がうまくできれば、二人の間で受け渡すエネルギーを雪だるま式に増やしていくことも可能かもしれない・・・。
生徒さん曰く、「これは”推手”ではなく”引手”ですね。」
引く、は”吸う”につながる。
エネルギーは外から自分の中心(丹田)に向かって戻ってくる。
この前に話題にした”聴く”も”引く”や”吸う”の仲間だろう。
推す、吐く、見る、はこの反対の動き。
エネルギーは中心(丹田)から外向きに出ていく。
自分をエネルギーで満たすには”引く”、”吸う”の類が大事になってくるだろう。
これは養生の秘訣でもあるようだ。
明日もいろいろ試してみよう~。
2015/1/8 <『聴く』についての独り言>
心の中にあるトピック。
『聴く』
聴き方は三つ・・・頭(上丹田)で聴く、心(所謂中丹田)で聴く、子宮(肚、下丹田)で聴く
⇒理知的に聴く、感情的に聴く、実存的(※後述)に聴く(頭も心も交えない)
⇒批判的に聴く、共感的に聴く、ただ聴く(yesやno、良いも悪いもない)
最も理想的で最も純粋な聴き方は子宮、肚で聴く方法。
肚で聴く、というのは即ち全身で聴く、ということのよう。
全一的に聴く、全存在をかけて聴く。全身耳にする。
・・・このあたりは推手で練習できるのではないか?
推手が「聴力」を鍛える、と言われる所以?
『見る』は平面的、二次元的。『聴く』は三次元的。
『見える』範囲よりも『聴こえる』範囲の方が断然広い。
頭の中にある、目と耳の交差点においては、見ているのか聴いているのか分からない。
鼻もつなげてしまえば、この交差点においては視覚、聴覚、嗅覚が一体化する。
ここが上丹田(だろう)。
肚の丹田に気を溜めて、その溜めた内気によって上丹田まで貫通させれば(身体の中が空洞の柱のようになる)上丹田と中丹田、下丹田は一つになってしまう。脳内で聴いたり見たりしたものが、あたかも下丹田で聴いたり見たりしたように感じるのはそのせいかもしれない。
肚が脳化する?
結局この練習の最大の目的は全身を脳化させること?
夜の散歩。
満月を過ぎた月を見ながら、眼で聴く練習をしてみたりした。
眼で聴こう、聴こう、としばらく頑張っていたら、無音を聴くような状態になってくる。
すべてが肚の丹田に集まってくる。
タントウ功、こうやれば早く入静状態に入れそう。
こんな話を生徒さんに言って理解してもらえるかしら?
※実存的
分かるようで分からないままの、この言葉が鍵になるだろう。
高校生の時にこの言葉に出会い、複数の先生に問うたが納得できる回答を得られず。
そんなことを追究していては受験に失敗するぞ、と言われ、素直に納得。以後封印していた。
この練習を始めて、子供の頃、学生の頃に封印したものをかなり開けてきたが、この大トピックについては未だ手つかずのまま。この機会に正面から向き合ってみてもよいかも。
2015/1/7 <推手の練習、一に功夫>
今年は4日から練習を始めた。
4日日曜の練習はほとんど推手で終わってしまったが、生徒さん達の様子を見ていると、二人組で練習するのは思っていた以上に楽しそうだ。もちろん、二人組の双方が何をやっているのかチンプンカンプンだと練習にならない。推手で何をやっているのか分かる生徒さんを早急に増やす必要がある。
と言っても、私自身、劉師父から推手の理論的な説明を一切受けたことがない。単推手にしろ双推手にしろ、ただひたすら”廻す”(打輪)練習をさせられた。まずは”松”、すると腕が重くなる。そしてアメーバーのように相手の腕や手に絡みつきながら腰を使って回していく。
私が師父から習ったのは(現在でもそうだが)、いかに功夫を上げるかということ。
冯老師は常々、太極拳で一番大事なのは功夫、二番目に胆力、三番目に技巧、と言っていたが、師父も全く同じ考えで、「まずは身体の力、功夫をつけろ、技術は後からでもいくらでも学べる」と口癖のように言っていた。
ただひたすら”廻す”練習はそれはそれで面白かったが、推手の本などを見ると、みな、これがポン、これがジー、ここでこの技、とか、技術的、理論的なことがいろいろ書かれている。読んでもあまりよく分からず、師父に聞いても、そんなことはやっていれば次第に分かってくる、というような答え。
結局、こんな状態のまま生徒さん達に推手を教えていくことを決めたのだが、生徒さんに教えるためにと数年ぶりに推手の本に目を通したところ、昔分からなかったことが分かるようになっていたりする。生徒さんを教えながら私も学んでいる、いや、生徒さんを使って私が学んでいる? ちょっと申し訳ない気持ちもあったりしながらの練習。次第に何故師父がただ廻す練習をさせていたのかも分かってきた。
が、推手をすることで最も良く理解できるのは、”第一に功夫”という上の話。逆に言えば、ただ套路や動功など一人の練習をしていても、上の冯老師の話は本当には理解できないだろうと思う。実際、私はかなり長い間、「師父達の言うところの”功夫”って一体何?」と疑問に思っていた。師父に聞いても、功夫は功夫だ、という答えにならない答え。これが分かるようになったのは師父と打輪をして推しに推されて全く太刀打ちできなかった時だった。
相手がいて手を交わした時に真っ先に感じるのは相手の”力”。技に至る前、手を交わした時点で、「ああ、この人には適わない!」と思わせるような相手もいる。これが”功夫”の差。こんな場合は、技を使う(技に入る)こともなく勝敗が決まってしまう。
このあたりの実験的な練習はとても面白く、手を交わすと、生徒さん達が(男性の生徒さん達も含めて)「何で先生の手はそんなに重いのですか~?」、とハアハアしながら聞いてきたりする。それは一言でいえば、”松”しているからなのだが、その”松”の仕方、程度が功夫の成果だ。タントウ功と同じ状態、即ち、力(気)をすべて丹田に集結させてその他の部分の力(気)を抜く(≒丹田が手足を引っ張り込むようにする)と、脚や腕は鉛 のつように重くなる。丹田にどれだけ気を集約できるか、これが功夫の差をもたらす最大の要因になる(他にも身体の開き具合などもあるだろうが。)
気を丹田に溜めていく作業は毎日少しずつ貯めていく貯金のようなもの。コツではどうにもならない。師父の話を聞いていると、この人は5年の功夫とか、この人は10年、この人は20年・・・という表現が出てくるが、太極拳を本当にやり込んでいる”内行”(玄人)の中ではお互いの功夫がどの程度のものかが一番の関心毎になっていたりする。
まだ教え始めて少ししか経っていないが、いくつかの教則本や有名な老師が出しているDVD等を見比べたりしていて、最終的にはやはり冯老師の教えている手順に従って練習するのが良いかと思っている。
まずは単推手で片腕どうしでグルグル廻す『小臂(前腕)立旋圈』『大臂(上腕)立旋圈』で腕の”松”と重さを実感し、丹田を使って腕を振り回す練習。
それから『単手平推』や『螺旋単推手』。螺旋の方をしっかりやると平推の時の腕の正しい使い方が分かりやすそうだ。
双推手はまずはただ相手を推すように廻す『四正手ポン勁』をやりたい。
新しいことをするには頭も体もフル回転させなければならない。
フル回転すると、とても爽快!
2015/1/1
2015年のスタート。
今日明日は家族サービス(?)のため練習はお休み。
母親が上京し、中華街で弟家族や旦那の両親などが集まって元旦ランチを楽しむ。私は前もって一度行ってみたかった上品な上海料理の店を選んでおいた。
弟家族は同じ横浜に住んでいるが、一年に一度くらいしか顔を合わせることがない。弟は中学から大学までバスケットをしていて国体にも出場していた。背は190センチ近くあり当時はかなりイケメンでモテていた記憶があるが、就職してからは仕事が忙しく運動をする時間もなく、会うたびに不健康度が増していく感も無きにしもあらず。
今日は中2の息子がバスケットの県大会に出場するという話を聞いた。食べることが嫌いでちゃんと成長するか心配だったその甥も、一年会わないうちに背が伸び173センチになっていた。しかしまだまだ細く、体重は47キロ。すばしっこいけどスタミナがない、と弟が言う。
「そうそう、重くて速い、というのが理想よね~。」と、私も弟の話に突っ込んでいく。
そしていつしか、私の最近の関心事である、如何に高く跳ぶか、を弟に質問。滞空時間をどうやって延ばすのか、それにはどのような身体の使い方をするのか、バスケットの選手の練習の仕方を聞いてみた。弟の回答は、脚力、広背筋の力、そして相手より長く空中にいようと堪える気持ち、最後に跳ぶ練習を多くすること、というようなものだった。
太極拳で跳んだり跳ねたりする練習は主に2路で行う。一路の練習で十分力を抜き(放松し)気が足裏まで落ちるようになってから、足裏から地の気を吸い上げるようにジャンプしたり素早く動いたりする練習をする。気を足裏に向けて下に沈めていきそれが極まると、一転、その気は地面から上向きに脚をあがり身体が持ち上がるようになってくる。つまり、陰極めれば陽となる。そんな時、身体は軽くなりスキップをしたくなるほど。・・・そういえば大人になるとスキップをすることはなくなる。スキップしたくなるような身体の状態、というのは子供に近いということだろう。
跳ぶことは今年の課題の一つ。
そして個人的には双推手もやりこんでいきたい。
これについては私自身まだ練習が少なくよく理解できていないため、年末30日、31日に時間のある生徒さんに来てもらって一緒に練習してもらった。第一日目は理論的にはっきりしないまま教えたため生徒さんもチンプンカンプンだったようだが、第二日目仕切り直しをして別の生徒さん達を教えてみたらそれなりの手ごたえがあった。教えながら学ぶとはこういうことかもしれない。今後生徒さん達と試行錯誤しながら練習していきたいもの。
夢は歳をとった時に推手をして遊べる仲間を作ること?
今年も面白いことがありますように。