2014年9月

2014/9/27 <意気相合、意到気到力到>


 昨日の練習で生徒さんから、タントウ功の時に意念で足を内旋回転させていても良いですか?という質問があった。

 タントウ功を久しくやって丹田に気が溜まってくると多少の意念を使って、へそ(前丹田)→命門後丹田)→会陰(下丹田)→へそ といった順回転やその反対回りの逆回転で気を循環させる。これは中丹田と下丹田をミックスさせて、気から精を作り、また精から気を作り出す。これが生命エネルギーを養う最も重要な練習、内功になる。

 では生徒さんが質問したような足の回転はというと、これもやり方によってただの足の運動になったり生命エネルギーを増加させるような内功になりうる。

 ポイントは足の動きが丹田とつながっているか否か、だ。

 つながっていれば、足が少し動けば腹の中も(ぐにゅっと)動くし、反対に腹の中を(ぐっと)動かせば足が動く。


 この状態を説明するために、手に太極棒を持たせて、その棒の先端まで気を届かせる実験を行ってみた。棒の先にまで生命エネルギーが達するように、棒の先端が命を帯びるように持ってみてください、とそれぞれの生徒さんにやらせてみる。

 私自身もやってみる。

 棒の先端まで気を達しさせた場合と、気が手までしか達していない場合、両ケースをやって見せて生徒さんの反応をみる。

 私の二つの動作を見て違いが分かった生徒さんは、すぐさま私のやったように二つのケースを分けてやってみせることができる。これに対し、私の二つの動作を見ても違いが分からなかった生徒さんは、やはり棒に気を通すことができなかった。


 今日のクラスでもこの実験をしてみたが、私が何の話をしているのかチンプンカンプンの生徒さんも案外いたような。

 そこで家に帰って胡耀貞先生の気功法の本を少し読み直して整理してみた。

 概要以下の通り。


 練功の要領で最も大事なのは「気沈丹田」と「丹田呼吸」。

 (ここでは「丹田呼吸」の説明は割愛、後にゆずる。)

 「気沈丹田」は「意気相合」のこと。

 「意気相合」とは「意」と「気」がミックスされること。

 「意」とは

 ・古人は上丹田、両眼の間を「心」とし、両眼を「神」、シン門或は泥丸を「性」と称した。

 ・その三つは慣用的には一つのもの。

 ・それら大脳の一切の注意を一つにまとめると「意」になる。

 「意」(大脳の一切の注意)を丹田に集中させることで「意気相合」が行われる。


 上の説明を私なりに図化してみた。

 丹田はへその奥、神、心、性の位置関係はこんな感じと思われる。

 普段の私たちは眼を外界を見るためだけに使っている。それが真ん中の図。

 だが、練功では眼を内側に引き込むように使うことが必要になる。これによって神、心、性、すなわち大脳が一個にまとまり一つの「意」が作り出される。

 「意」ができたら眼を引き続き下方に向け丹田まで降ろしていかなければならない。

 このようにして脳内の意が丹田内の気に達し、丹田が刺激されエネルギー(気)が作り出さることになる。(一番右の図)


 昨日、今日試した棒に命を吹き込む実験は以下のようなことになるだろう。


 多くの生徒さんが見せたのは左のような動作。

 頭の中を集中させ「意」を作って、それをそのまま棒の先端に向けて送る。いわば「念」を送っているような、むか~し、ユリゲラーが来日してスプーン曲げが流行った頃に私もやった方法。

 しかし実は、棒の先端まで気を達するようにするには、右の図のような過程が必要。

 意はまず気とつなぎ、そこからその気を体内で通過させて棒まで届かせる。

 

 左図は棒の先端には「意」だけが達している状態。

 右図は、『意到気到力到』と言われる、意→気→力が揃った状態。

 実際に棒の先端を人にギュッとつかんでもらうと、左では棒を使って人を振り回すことができないが、右では棒を少し動かせば持った人が動いてしまうような力が出る。

 

 ある生徒さんが私に、なぜ二つの違いが外からでも分かるのか?と聞いてきたが、それはその人の目線(左では眼神が外に出ている、右は内向きに収まっている)だったり、肘や手首の角度だったりするのだと思う。生徒さんの中でこの違いが分かる人に説明を求めると、う~ん、そんな感じがする、とはっきり答えられなかったりする。確かに、実際には全体像から分かってしまうことだ。

 

 さて、棒の先端に気を巡らせることのできた生徒さんに質問。

  「自分の体内から棒まで達する、”それ”は何?」「気です。」

  「気って何?」「う~ん、う~ん、・・・」

 答えに悩んだあげく、「生命エネルギーです。」

 ここで私は心の中で笑ってしまう。

 だって、ここで私が「生命エネルギーって何?」と聞き、そのうち「生命って何?」「エネルギーとは?」と続けていったら、どんな優秀な科学者でもそれをそのまま定義することはできないのだから。

 

 私が今生で一番知りたい「愛」だって、いまだかつて定義できた哲学者はいない。

 真に大事なものは体験できるのみ。言葉ではどうにもならないようだ。

 

 

2014/9/26 <練習の想い出、師とは、弟子とは>


 太極拳を学ぶためには様々な練習をしなければならない。

 大きく分ければ身体を動かさないもの(静功)と身体を動かすもの(動功)。

 そして身体を動かす練習の中にも、一人で行うものと二人で行うもの(対人練習)があり、一人で行うものの中には内功、套路、単式練習(技の使い方)、そして刀や剣などの器機を使うものなどがある。

 

 毎日の練習時間は限られているからこれらをすべて行うことはできない。

 どれ一つとってもじっくりやれば1時間なんてすぐに経ってしまう。

 

 私の場合、タントウ功と坐禅、内功3種類と套路(24式、48式、46式)、という三本柱で毎日練習をしてきた。練習をして開始して3年間は一日も休むことなく練習をした。やむを得ず(?)家族で旅行に行くときも、まずは大きな公園をチェックしてホテルをその近辺にとった。家族がまだ寝ている時間に公園に出かけ、1時間立って、1時間動いて、朝食の時間にホテルに戻る、そんな旅行だった。南仏を車で周った時も車の中ではほとんど坐禅をし、できるだけ一人で練習する時間をとれるよう画策した。

 フランス滞在中の3年半は頭の中が太極拳の練習一色になっていたので雑念がなかった。頭が空っぽのまま、疑問も浮かばずただのめり込んだ。今振り返れば、中学校時代の卓球、中高時代のピアノ、そして大学受験や外務省受験のための受験勉強・・・そんなものとは比較にならないくらい全身全霊を打ち込んだのではないかと思う。

 

 大学時代、正直言ってどの科目にも興味を持てなかった。あの頃太極拳を学べる学部があったら・・・と思ったりするが、太極拳は大学で学べるようなものでないことも十分承知している。

中国では体育大学で太極拳が学べるようだが、そこで学んだ人たちは”学院派”と呼ばれ、本来の太極拳を伝承している”民間派”からは”別物”とみなされている。

 太極拳は知識や技だけの伝達ではないから、師とともに修行することがとても大事になる。

いっしょにいることで、その気場や精神性、温かさや厳しさ、信頼、安心感など、形にはならないものを受け取る。頭と心をすべて明け渡した弟子と、心を決して明け渡さず頭だけで学ぼうとする生徒では学ぶものが全く変わってくる。

 

 「良い師を見つけるのはとても難しい。同じように、良い弟子を見つけるのはとても難しい。」

当時劉師父がよく私に言った言葉だ。

 

 現在私自身が教える立場になって、上の言葉の後半部分の意味が分かるようになってきた。

 今はまだ弟子をとるような段階ではないが、師になることを想像するとそれは新たに子供を育てるのと同じような責任感を感じる。

 弟子の間違いも何もかもを呑み込めるような、布袋さんのような大きな腹がないと師にはなれないのかもしれない。

 

 自分が進歩していればそれで満足だった私が少しずつ変わっているのかもしれない。



 

 

2014/9/21 <今週の練習メモ>


ここ一週間のクラスで自分がしゃべったことを振り返る。

いつも即興なのでそのままにしておくと自分でも何をしゃべったのか記憶に残らない。

クラスの最後に生徒さんに、帰ってから今日習ったことを復習しておいて下さい、と言ってはいるが、生徒さんがどのくらい覚えているかは疑問の残るところ。ある生徒さんは、私のクラスは情報量が多すぎて・・・とボヤいていた。


そこで私自身で記憶をたどる。


 ・腰の会合(これは今週のメイン課題)

   命門から尾骨まで一節一節開けていく

    →腹と腰でしゃがむ、脚力を使わず脚は折りたたむだけ

    →タントウ功もこの練習

 ・手の薬指、小指と脇下肩甲骨とのつながり、このつながりを消さないように腕を使う   

    →肩があがらない、肩は脇下?

 ・舌の位置、Keの発音、日本語と他の言語の違い

 ・腎の位置の確認、腎をつなげて立つ→腰を開く→股関節の旋回(内外、ともにある)

  →外旋と内旋を組み合わせる(次第にどっちをやっているのか分からなくなる)

 ・四足歩き、マット運動の前転の姿勢を使って百会と会陰をつなげる

  →四足歩きは背骨に手足が生えている感覚で動く。四肢は自然に協調する。

 ・呼吸

   Keを使って下っ腹まで息を通す、苦しくなるまで声を出し続けて息の在り処を確かめる

   →腹から声を出す、腹まで息を通す→一度通路が開通すれば息は腹まで入りやすくなる

   →タントウ功では自然にそのような状態になるのをじっくり待っている

   →自然の中にいると身体が自動的に深呼吸をしてくれる。

    そのような環境にない時には意識的に深呼吸をする必要あり。呼吸がその人を決める。

 ・腹を回す(収腹功)

   →中丹田と下丹田をミックスさせる(下っ腹全部を一個の丹田にするのが目標)

   →五臓六腑、五臓(陰)はあばらに守られていて触ることができない。

    あばらの下にある六腑を回すことにより、対応関係にある五臓も養う。



 中でも一番大事なのは腰の会合と四足歩き。

 このあたりはもう少し詳しく書きたいところ。


 数人の生徒さんからHP内にある私の動画を更新した方が良いのでは、という意見あり。

 確かに自分ではその拙さに恥かしくて見られない箇所が多々ある。生徒さんにはバレないかと思って放っておいたが、練習を始めてそれほど月日の経っていない生徒さんが「僕にでも分かりましたよ。今の先生とは随分違います。」と言っていた。ちゃんと進歩しているという嬉しさのある一方、更新せずに放っている怠慢な自分を認識。

 目と耳から入ったものは直接人の精神(神)に影響を及ぼす。口から食べる行為と同様、何を目で見て、何を耳から聞くのか、は人を形成する上でとても重要な要素になる。中医では養生のためには『抑目静耳』が大事という。

 目と耳を乱用せず、できるだけ美しいもの、良いものを見て聞く。とすると、自分が見たくないものを生徒さんに見るようには勧められないのは自明の理。

 近いうちに動画を更新できるようにします。

 

2014/9/17 <内側の練習、神、意識の拡大>


 内外双修、性命双修、身心双修とか言うが、本格的に練習を始めて間もない頃は、身体の鍛錬がどう心や精神の修練につながるのかよく分かっていなかった。

 当時はまだタントウ功が肉体的に苦しかった時期だから、苦しいことを通り抜けることで我慢強さや忍耐力がつくということだろう、とぼんやりと感じていた。それは、部活がとてもハードで苦しかった中学時代、「この経験は大人になってきっと役に立つから。」と先生などの大人が言っていたのと同じ意味で、根性やら、決断力やら、判断力、忍耐力、いわば”精神力をつける”、という意味だと理解していた。


 劉師父に習い始めた頃、「身体が開かなければ心は開かない」とか「身体が正しくなければ心も正しくならない」というような言葉をよく聞いた。左耳から入って右耳から抜けていくような言葉で然もありなん、くらいにしか聞いていなかったが、ある時立ち止まって良く考えると、本当かしら?なぜそんな関連があると言えるのかしら?と疑問が湧き出てきたことがあった。


 あれからもう8年以上の歳月が過ぎ、昔曖昧なまま放っておいたことがふと明らかになったりする。もちろん、この先練習を続ければ、今の理解がまた更新されてしまうのだろうけれども、昔分からなかったことが分かった瞬間の嬉しさは格別。


 今では上に書いた、内外双修、性命双修、身心双修などが、俗に言う”精神力の強さ”にとどまらないことははっきり分かる。そのあたりはスポーツや苦しい労働などで鍛錬できる。太極拳の練習、特に静功を通して変わってくるのは、意識の深さと広さ。意識の拡大。


 人は起きているようでもほとんど半分眠って生きている。

 道行く人の顔を見ていると、ほとんど皆頭の中で何かを考えながら自動的に歩いている。つまづいて転びそうになりハッとして初めて我に帰る。朝の通勤時などは夢遊病者のような状態で歩いている。電車の中でも、意識がはっきりとしているのは小さな子供くらい。子供はしっかりと見ているから、子供の近くでは電車の中でタントウ功の姿勢をとらないことにしている(大人は見ているようでそんなに見ていないから、多少人とは違う立ち方をしていてもバレていない、と思う)。

やっていることと、考えていることがチグハグになってしまうのが一般的な私達の状態。

 初めて車を運転するときは全身全霊をかけて頭も体も一つにしていたのだが、慣れてくれば携帯をいじりながらでも車を運転できてしまう。

 携帯をしながら音楽を聴いて食事をしている人もいる。・・・・これらはみな『分神』といって、『凝神』(心を一つにまとめる)の反対の状態だ。

 中医学で『神』は精神や意識作用を示すが(脳内に位置する)、この『神』がいくつにも分かれている時は頭と体が分離してしまっている(気が頭に上がっている、頭の中だけに意識があり身体は忘れられている状態)。『神』を一つにまとめて(一つのことだけを思う)、そのまとめたものを意識的に下向きに降ろし胸と胃を通過させ下っ腹につなげれば、頭を使うときに身体を使って頭を使うような根っこのある思索になる。心身症になったり精神病になるのは浮いた思索状態(頭が身体と離れて暴走している)だから、この要領を早いうちに取得するのは精神衛生上とても大事だと思う。


 自分の意識がどのように使われているのか、心がどのように作られてくるのか、言葉がどう湧き出てくるのか、意念がどうどこから出てくるのか、脳のどの部分をどう使うと心が広くなるように感じるのか・・・そのようなことは静かに立ったり坐ったりしているときに見えてくる。

 タントウ功や坐禅は最初の内は身体の躾の要素が大だが、身体が大体落ち着けば、自分の内側の形無いものを観察するための練功法になる。


 同じ太極拳の練習といっても、人によって目的は様々。養生目的でやる人もいれば、スポーツとして、舞としてやる人もいる。大会に出て良い成績をとるのが目的になってしまう時もある。(私の生徒さんの中にもいるようだが)漫画や映画でみた中国武術の絶技に憧れて練習する人もいる。

これらは正しい正しくないという問題ではなく、人それぞれの興味の違い。

 私自身、上に書いたような目的をどれも以前持ったことがある。が、どこかでいつも本当のものを、一番の核心を知りたいと思っていた。そしてその核心は形にならないものにあることもうすうす感じていた。

 身体の一番外枠から始め、やっと内側に入ってきた。

 ものの見え方、見方が次第に変わっていた。人一人見た時も、声、目つき、物腰、しゃべり方、手の感じ、色、つや、言葉づかい、体つき、そしてなんといっても全体の雰囲気、から以前では考えられない程の情報を得ることができる。中医学の医者が見ただけで患者の状態が分かる、というのも嘘ではないのが察せられる。


 このような”見透す”力は目を外向きに使って養うのではなく、目を自分の内側に向けて自分を探索することで養われる。ちゃんとした中医の医者はタントウ功や坐禅などの静功を行うと聞いたことがある。自分が自分自身を見えるようになった程度にしか相手のことを見ることはできない、というのは本当だと実感できる。

 太極拳を極めている人はその修養の程度で分かる。

 そして修養には静かに坐ったり立ったりして、頭、そして心をからっぽにし、身体の内側の大掃除をすることが必須のようだ。

・・・こっちの大掃除に取り組んでいる間は家の大掃除の時間がないかも?


付け足し

 「身体が正しくなければ心が正しくない」は「形不正、心不正」と表現します。

 では「形正」なら「心正」かと言うと、そうは言えないので、「形正、心正」という表現はないようです。



2014/9/13 <身体にまつわる思い出、養生について>


 最近娘に指摘されて気づいたのだが、私は昔からかなりの健康おたくだったようだ。


 そのきっかけを遡れば大学1年から2年にかけて顔中ニキビだらけになったこと。

それまでも脚が太いやら、指が太いやら、毛深いやら、頭が大きいやら、身体に関する不満はつきなかったが、ある時ビデオに映った卓球をする自分の姿を見て、なんて醜いんだろう~、とショックをうけた。

 それからニキビを治す闘いが始まった。

 油抜きダイエットをしたり、洗顔料を変えたり、漢方薬を試したり。中でも食事が大事だと思ったので徹底的に食事を見直した。友人と自由にごはんを食べることもできなくなった。

そのうち体重がかなり減った。が、ニキビは治らなかった。肌がきれいな人を見るととても羨ましく、どんな格好をしても無駄だと外見をあきらめた。


 大学3年の時、一年間の休学をしてロンドンに語学留学をした。

 受験英語は勉強していたが聞き取りと話すことが全くできなかったので、それをどうにかしたいというのが目的だった。

 語学学校では読み書きができるために実力より上のレベルのクラスに入れられた。

周りのヨーロッパの生徒たちはみなネイティブのようにペラペラしゃべっていて、どうしてもその輪の中に入っていけなかった。学校には日本人もいたが私は日本語はしゃべらないことに決めていたので、その結果、一人でいることが多くなった。言葉がしゃべれないということは、自分のアイデンティティまでも喪失してしまうことを思い知った。

 が、孤独な苦しさと引き換えに一つだけ良いことがあった。それは知らないうちにニキビが治っていたことだった。ロンドンに渡ってからは四苦八苦していて自分のニキビを気にしている間がなかった。ただ放置していた。そうしたらきれいに治っていた。


 この時に身体の自然治癒力のすごさを知った。

 鏡を見て気になるニキビをつぶしたり、ダイエットをしたり、薬を使ったり等、そんな風に頭や心を介入させなければ身体は自分の力で調整をしてくれる、なんと、私は自分の頭を使って自分の身体を傷めてきたのか・・・と身体に対し申し訳なく思った。


 昔コンプレックスだった身体の様々な部分もこの練習を始めてから気にならなくなった。

 私は小さいころ頃からふくらはぎが太くて人前に出せなかったのだが、ある時師父が私のふくらはぎを見て一言、「太いからといって強いと思うな!」と言った。・・・この師は太い脚を妬んでいるのか??? 私の指を見た時も、「太い!很好!」と言う。そう言えば、以前別の中国の男の先生に学んでいた時も、私の毛深い腕を見て、「いいなぁ、強そうで。」と言ったのを聞いた。

 価値観はいろいろ。脚が長ければ見た目がカッコ良いかもしれないが、短い方が安定感はある。男性のハゲも西洋の女性にはセクシーだと人気があったりする。これらは好みの問題。


 話はそれたが、身体の気持ち悪さには耐えられない私は、朝の排便がうまくいかないとその日は学校にも行きたくないと思っていた。就職してからも同じだった。寝不足の時は何もしたくない。 着る服の肌触りにもうるさく、化繊の混ざった下着や毛のセーターなどは子供のころから着られなかった(母親にかわいい下着を着せられて幼稚園に行くと、すぐにトイレで下着を脱ぎ、下校する時には母親にバレないようにまたそれを着て帰っていた。もう時効の話)。


 このように身体に対し神経質なところは往々にして欠点だったのだが(外務省を辞めた大きな理由は寝不足)、これが太極拳の練習を始めてかなりプラスとして作用するようになった。太極拳の練習のベースは中医学に基づく養生法。養生法は美容法でもあるから、”一応”女性である私にとっては一石二鳥!

 美しくありたければまず健康でなければならない。いや、心身が健康であれば自ずから美しくなる?


 中医学の養生法は中国人の生活の中に深く浸透していてとても身近なもの。

 痩せたいなら、三食、定時に定量食べればよい。それだけ。

ちょっとしたコツは「吃好,吃饱,吃少」。朝は良く食べ、昼は満腹食べ、夜は少なく食べる。

その他、女性は足首を冷やさないとか生理中は冷たい水を触らない、冷たいものを食べたり飲んだりしないとか、こまごました注意がある。

 師父からは「便は尿よりも速く出せ」と言われ、排尿や排便にも養生の道に基づく”やり方”があることを知った(ここでは割愛)。


 今日の生徒さんの中に気管支炎になりかけているような人がいたが、毎年夏が終わると肺炎や気管支炎の人が出てくる。秋はそもそも肺を養う季節。逆に言えば夏の間に肺に負担をかけていることが多いということだ。

 ここで中医学の「夏は冷たいものを飲まない」という教えの説明。

 夏は体表に熱があり体内は冷えている。そこに冷たいものを飲むと内臓がますます冷える。胃袋が水球のように膨らむとそれが上の肺を冷やすことになる。これが肺を患う原因になる。

 また、胃の中の水が体液となって体中を巡るためには水の温度が体温まで上がらなければならないが、水の温度を上げるにはかなりのエネルギーが必要で結果体力が消耗することになる。だから夏は温かい飲み物を飲むのが正しい。乾きも早く癒える。

 昔中国で夏、氷売りが家々を回っていた頃のお話。氷売りは氷を売る変わりにその家の人からお湯をもらって飲んでいたということ。乾きを癒すのは自分が持っている氷ではなくお湯であることを経験的に知っていたのだ。

 逆に体表が冷えて体内が温かい冬には冷たい食べ物を食べても大丈夫という。自然界に氷があるのは冬。人も自然の一部、自然を同じだ。


 養生法は人間の知恵の集積でもあるのでとても興味深い。

 普段の生活で丁寧に養生の道を歩むことは最も基本的な練習。が、まだまだ丁寧さに欠けるなぁ~。

2014/9/11 <身体の外枠は内気に従う>

 

 この練習はまさに中医学に基づく気功法、と改めて感じる今日この頃。

 そんなことはとうに分かっていたはずなのに、今までの主に頭での理解とは違った身体での理解が芽生えてきた。

 

 私の師父はこれまで一回たりとも、××筋やら△△骨やらが云々、などの筋肉や骨を使った話をしたことがない。私が生徒さんに説明するにあたって、筋肉や骨を使って説明しようと助言を求めた時も、「我々(太極拳をするもの)は経絡を用いる。筋肉や骨などの”外”のことは話さない。」と少し突き放されてしまったことがある。

 その時は内心「経絡が体感できる程練功を深めていない人がほとんどなのだから、経絡よりも筋肉や骨で説明した方が親切なのではないか?」と多少不服だった。が、職業柄身体のことに詳しい生徒さんなどがしきりに筋肉や骨を操ろうとしているのを観察していると、筋肉や骨ではあまりにも外枠の練習になってしまい、身体の内部のエネルギーを調整するという核心には触れることができないというのが分かってきた。

 

 今日も整体師で身体のことをよく知っている若い男性がタントウ功の間、しきりに筋肉を使って丹田を膨らませたり、命門を出してみたり、いろいろ画策していた。

 タントウ功には『虚領頂勁』から始まり下へ向かって様々な守るべき姿勢の要領があるが、それらの要領をすべてクリアできるようになるのはかなりの修練を積んだマスタークラスの老師くらい。完成形の要領は理想とするもので、初めからすべてをクリアしようとするのは不可能なこと。だから練習では一歩一歩少しずつ練習していく。

 

 私の祖母は95歳で畑仕事をしたりしながら一人暮らしをしているが、彼女の腰は60歳の時にはすでにかなり曲がっていた。昔から畑仕事が多く、気が付いたらもう曲がっていたという。

 このように腰が曲がるにも、数年から数十年の間の毎日のうつむく姿勢の蓄積が必要だ。

 姿勢が崩れるにも毎日毎日の蓄積が必要なのだから、同様に崩れた姿勢を正すにも毎日毎日の少しずつの蓄積が必要ということ。身体は物質。頓悟は無理だとあきらめるのがよいのかもしれない。

 

 さて、姿勢を直すにしても、中身がないのに外を整えてもすぐに外は崩れてしまう。

 私自身がタントウ功をしていて感じるのは、気が下に落ちないうちは意識でどう身体を操ってもまたもとに戻るか歪な形にならざるを得ないということだ。

 初心者でよくある例は、命門を出すと腹がへこみ、腹を膨らませると腰が反る(命門が閉じる)というジレンマ。腰を伸ばせば(塌腰)、股関節が緊張し(鼠蹊部の折り目がなくなった状態、骨盤が後傾している)、股関節を緩めると(尾骨を上げるような要領)、腰が反ってしまう、これも恒例のジレンマ。含胸をすると肩が前に出てしまい、肩の位置を正しく保とうとすると胸が張り出て左右の肩甲骨の間が閉じてしまう、というのもある。

 このようなジレンマをうまく調整したバランスの上に内力のある身体が作り上げられるのだが、逆からいえばこの陰陽の2つの要素からなるジレンマがない限り、身体の内力は生み出され得ない。

 身体の内力は内気の力だが、結局、身体の外枠は内気に従う、というのが私の今週の一番の体感。


 今週タントウ功でそれを実感した後、帰り道に何を想像したかというと、下の写真のようなマヨネーズ達。


 <左から右の写真へ>

①子供の頃はマヨネーズが満杯状態。胴体も顔も手足もみな膨らんでいる。

②20歳くらいになるとすでにマヨネーズは減り始めている。精が漏れ始め下っ腹部分のマヨネーズが減っている。この頃は胸あたりがもっとも充実している。

③中年以降、腹部がかなり凹んでいる。腰や腹に問題が出る。生殖器官の性能も落ちている。てっぺんの頭の方にはまだマヨネーズが残っているような。

④最後には中身がなくなる。全部なくなったところで肉体は終末を迎える。

 

 と、マヨネーズの量とマヨネーズ容器の形態の関係はとても単純。

 中身がたくさんあれば自ずから外形は理想的な形になる。

 中身が少なくなってくると、その中身をどこに優先的に振り分けるか、という話になり、振り分けられなかった場所には凹みがでる。

 このマヨネーズの減少を食い止めるには、まず使うのを控えること(無駄にエネルギーを使わない)、そして、補充すること(食べ、寝て、漏らすより作り出すのを多くする鍛錬をする)。これしかない。

 

 エネルギーの無駄遣いを減らす、というのはなにも地球環境に限ったことではない。それは老化を遅らせる要領でもある。ヨガもこのあたりをよく研究して、消化はエネルギーを特に消耗させるからあまり食べなかったりする。中医学の世界では、精気を固め漏らさないこと(固精、保精)や情緒を安定させることを重視する。

 補充の方法の中の練功法が気功法に基づく内功だ。

 

 実際、上のマヨネーズは中医学の精気神学説における人の身体の見方でもある。一番底のところ(生殖器官)で精を作り出し、それが腹部でエネルギー化(気化)され、そのエネルギーが全身を巡って、脳にまで達したものが精神(神)として発露する。

 これから再度中医学を勉強すれば、以前の頭の理解とは違った、体験に照らし合わせた深い理解ができるかもしれないなぁ(が、しばらくは怠惰モードかも・・・)。

 

 

2014/9/6 <息を吐きこむ、声から息へ、六字訣を使った練習>

 

保土ヶ谷での練習。

腹に息を吐き込む練習をしてみる。

タントウ功で正しい姿勢がとれたとしても、息が腹に届かないと気は溜まらない。

中国語で『息』は普通『気息』と言う。息によって気が体内にとりこまれる。

だから息の仕方の良し悪しで気の取り込み方、ひいては身体の強さが変わってくる。


息が外にでて音に出たものが声。

声でその人の健康状態、人となりまで分かるのは、それがその人の”気”の発現であるからだ。

声がどこから出ているか(口の中、喉の浅い部分、深い部分、胸、臍あたり、下っ腹など)、どのくらい頭頂へ抜くか、どのくらい声帯を摩擦させるか・・・などで声量、声の質が変わり、その人独自の声が作り出される。

声はハリと艶があるのが良い。それはお肌といっしょ。

声楽家が日頃から自己の身体を楽器化するために体腔を開け腹から声を出す訓練をするのはそのような声を作り出すためだ。声量を豊かにするには身体に蓄えられる気の量を増やさなければならないし、透き通った声を持つためには通り道に障害物や突っかかりがないように、道を開ける必要がある。

それは太極拳で作る身体と全く同じだ。


息を吐き込めない生徒さんは意外と多い。

タントウ功をしている様子を見てみると、鼻で吸って、鼻(か口)で吐いて、とプラマイゼロ、の呼吸をしていたりする。これでは気は溜まらない。吸えば体内に気を取り入れられるのは当然として、吐いた時に息を体外に吐き”出して”しまっては、稼いだお金を即座に使い果たしてしまうようなもの。吐く息は腹の底に向かって吐き”込む”ことが必要だ。身体の内側に吐き込むことによって体外に漏れる息を極力少なくする。これによって体内の気の量が少しずつ増加していくことになる。


今日は六字訣の脾を養う「hu」と腎を養う「chui」だけ少し練習。

両手を腹あるいは腰に当ててそれぞれの音を息の続く限り発声し続ける。

まず分かるのは、腹に息を溜めておかないと長い時間発声し続けられないということ。

また、自分の息が使い果たされて胸、あるいは腹が空っぽになると、身体はその後さらにたくさんの空気を吸おうと内側から開いてくれる。この時の”吸う“、は、胸や腹が内側から開いて必死に空気を取り入れようとする全身運動になっていて、単なる鼻による呼吸とは異なっている。呼吸が鼻ではないところで行われることを実感するにもよい機会。いずれは丹田や会陰あたりで呼吸をしているように練習していく。

そして両手を腹や腰に当てておくと、「hu」の時は腹を内側から前方に押し出す力が感じられ、「chui」の時は腰(腎臓の位置)を斜め後方に押し広げる力を体感できる。これが吐き込んだ息の作用。タントウ功の時はこのような押し込んだような息を”底辺の方”で持ち続けなければならない(上方では澄まして細く長く息をし続ける。底辺の下丹田あたりで常に「んーーー」というようなバスの音が保持されている。これが身体を沈ませ重くさせる、少し前に書いた起き上がりこぶしの重りの作用をするのだと思う。)


六字訣の練習は最終的には無音でやると言われている。

声を出せば気を漏らすから、無音でやった方が身体には良い。

生徒さんにも徐々に声をなくして心の中で発声してもらう。それでも声を出している時と同じような体内の感覚は残る。その心の声をさらに小さくしていき、ただ腹の奥の方だけで発声しているようになるとそれは腹の中が脈打ち腹で息をしているようになってくる。これがタントウ功の時に起きる最初の丹田の現象だ。


生徒さん達も何かを少し感じたような、そんな表情だった。

声から息に入る、という練習も効果的のよう。もう少し試してみよう~。



2014/9/2 <今日のタントウ功、命門から会陰へ、『松開』から『松沈』へ>


今日は一人で練習。

久しぶりに広々とした公園で一人っきり。公園には散策に訪れる人も少なく(デング熱?)、少し見渡すと周りは木々と芝生、そしていつものカラス。


やはりタントウ功をする。

会陰を引き上げて命門を出すように高い姿勢でちょこんと立ち始める。

命門から開始。

そして徐々に力を抜いていく。

まずは『松開』。

気持ちを”ほっと”させれば(やっとトイレを見つけて座って安心。そんな感じ)、自然に肩や胸が落ちる。肩井や膻中のツボを少し中に引きこんで下向きに落とすような要領を確認。肘は曲池のツボを開くようにすれば腕が長く落ちるような感じになる。臍ラインより上はその程度で緩むが、そこから下を緩めていくのは少し時間がかかる。

命門あたりから下向きに腰椎を緩めていくにはお尻が落ちなければならない。環跳のツボが開かないとお尻が落ちないのだが、今日は右の環跳のツボ(=股関節)が開かない。そこでその場所にちょっと圧をかけて坐るようにする。

この圧のかけ方は、陳項老師による”漬物を漬けるように”という表現がピッタシだ。愛情を持って少し圧をかけたままにしておく。身間違えても、くそ~、とやけを起こしてズドンと圧をかけたりしてはいけない。身体に大丈夫だよ~、と言い聞かせるように。時間はかかるが、その方が身体が言うことをきいて徐々に開いてくれる。

『松』するまでの過程も味わえるようになりたいもの。


20分か30分経過しただろうか? 命門(臍、中丹田)に集めた気が関元・仙骨ラインからさらに下、会陰(股間ライン)に達する。ここまでくると『松』した、という感覚がある。

命門から『松下去』していき、会陰に達して『松下来』する。

『松下来』すれば、馮志強老師の言うところの『松沈』が始まり、ここに至って初めて太極拳の核心である『内勁』を育てていく段階に入ることになる。


結局、気が命門、臍の中丹田にあるときはまだ「松下去、静下去」という感覚だが、中丹田の気が増大して会陰ラインまで達し、中丹田と下丹田が一つの丹田になると「松下来、静下来」という感覚になっている。

ここからが身体の外枠(筋肉や骨、皮など)を忘れて中に入ることのできる時間になる(内勁を育むのもここから)。



 タントウ功の一つの目標は命門から下向きに尾闾(尾骨、狭義では長強のツボ)まで、一節一節開けていくことだ。

 私は師父から「下!下!」、と、耳にタコができる程言われ続けている。それは上に意識を向けると物体としての気の蓄積が止まって、そのうち実体のない想像上の”気”を意念で導いた気になり、本人にも何が本当かウソか分からなくなってしまうような危険性があるからだ。気を身体で物体的に感知できて初めて運用することができる。

 

 内気で背骨を命門から下向きに開けていく要領は「下一寸、上一尺」と形容されるたりする。下方向へほんの少し開けられれば、気は自然に上向きに上がっていく。陳項老師の講話記録にも同様の趣旨のことが書かれていたが、これは裏返せば、下向きに気を導くのは非常に骨が折れる作業であることを指している。 

 気を下に導くには引き上げた会陰をそのまま下に引っ張り下ろすような要領が必要になったりもする。このあたりは太極拳特有の陰陽の道理(相反する動きの存在)があってとても面白いところだがいつそのような要領を使うかを適切な時に弟子に伝えるのが師の役目でもある。

 

 さて、気が中丹田からから会陰まで達し身体が気にならなくなると(『松下来』『静下来』)、身体の内側の微妙な動き、あるいは沈黙に気づくようになってくる。自分が一本の筒のようになってしまったり、皮膚が溶けてしまったかの如く外界との境目が分からなくなったり、自分が丹田の中に入り込んでしまって極小化してしまったかと思ったら、そこからムクムク成長して自分の体を大きく越えて広がってしまったり・・・。

 中に入れば入るほど、外に出ていくのは一苦労になる。

 今日は一人だったからその心配はなかったが、練習の最中に生徒さんがやって来て私に挨拶をしようものなら、私はその声が聞こえていてもどう声を出すのかも分からない。外界との距離がとてつもなくあって、そこではただすべてがはっきりと見え聞こえしているが、頭の中が全く動かないようなシーンとした宇宙の静寂の中にいるような感じがある。

 普段の生活はガヤガヤとした社会の中で表面的に生きているが、自分の実体はこの静かな無音の奥の奥の方にあるのだと分かる。これが実感されている間は何にも煩わされない。練習が終わって普段の生活に戻ってもこの感覚を維持できたらそれは超人だろう。「坐立行臥不離練功」、いわば二十四時間体制の練習で一歩一歩進むしかない。

 

 今日は身体を調整して丹田に気を溜めるまでが30分、その後約30分はずっと中にいた。

 今日の新たな感覚は臭覚。この前までは聴覚で何層にもなった外界の音を感じながらそのまま同化するようなことをしていたが、今日はいきなり鼻の奥が開いた。空気の中の様々な匂いがある中でそこから最も入りやすい匂いに同化。身体が内側からみるみるうちに開くのが分かる。嗅覚の身体への影響度は視覚や聴覚の比ではないよう(私の場合は匂いから入ればかなり早く内側を開けられるようだ)。

 

 身体と心は連結しているが、よ~く見ていると、中丹田あたりにいる間はまだ雑念が出てきたりもする。が、会陰まできちんと落ちれば、雑念を出したくても出せなくなる。もし何か言いたくても言葉が出てこなくなる。意があってもふわふわとした思考は浮かばせられない。

 このあたりのメカニズムははっきり分からない(調べてもいない)が、坐禅で禅定の状態に入るのと同じなのだろうと思う。

 

 「静下去」している間はまだ自分がいる。

 「静下来」した時はもう自分がいない。

 

 このあたりが馮志強老師の言うところの”無極””無為”の世界で、多くの先人達が追求した境地に違いない。

 

 

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 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

ようせいフォーラム2017プログラム
3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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