2014年6月

2014/6/29 <肋骨と寛骨の間、左手を使う、腰割り>

 

 今日はいつ天気が崩れるか分からないため普段は公園で行うクラスをスタジオで行った。

 いつも外で練習している生徒さん達にとっては鏡を見て自分の姿をチェックできるというのは屋内練習の一つの利点。

 日曜の屋外クラスには1年半ほど前にたまたま同時期に練習を開始した生徒さんが5人いた。そのうち2名は仕事の都合なので今は不定期に練習に来ているが残りの3人は今も日曜日に練習に来ていて、その後から入った別の生徒さん達と一緒に練習したり、少しお手伝いをしたりしている。

 

 今日はその3名とその他若干名で練習。

 3名のうち一人は60代の女性だが、もともと膝が悪かったりその他身体の不調があったりしたが、話によると膝の調子も良いし、体重は変わらないのに腰回りのお肉が減ったとか。彼女曰く、この歳でもまだまだ身体が良い方向に変わるということが嬉しいとのこと。私もその話を聞いてとても心強く思う。

 あとの2名は40歳前後の男性。二人ともとても練習熱心だ。最近特に尋ねたことはないが以前はちゃんと家でタントウ功の練習をしてきていた。その分進歩が着実で、ゆっくりながらも確実に下半身の土台ができていくのが見て取れた。じっと立っていることで「静下去」「静下来」し、丹田に落ち着くことができる。最近は穏やかながらもちょっとしたどっしり感が芽生えてきたようにも見える。

 

 さてこの2人の一人の最近の問題点は肋骨と寛骨の間の隙間が狭くそこがうまく開かないこと。

 肋骨(あばら)は胸椎についていて腰椎には何らあばらに相当する骨がない。だから腰椎回りの筋肉やその他の組織が弱いとすぐに腰椎に負担をかけて腰を痛めることになってしまう。重量挙げの選手が革製の太いベルトをしているのもまさに腰椎を守るため。

 テレビの通販番組などでも腰ベルトを宣伝しているが、実はこの部分は自分で自前の幅広ベルトなりコルセットを作らなければならない箇所。そのための要領が『含胸』『塌腰』『斂臀』(プラス『提会陰』)などの一連の要領で、これによってこの肋骨と寛骨の間の、中年のおじさんが太るとパンツのウエストゴムの上に贅肉がのっかったようになる、あの部分をしっかり膨らませるようにする。こうすることでそこ(腰)からお尻、太ももへと脚はつながっていくようになる。

 これは腰と脚をつなぐための重要な要領であるが、それと同時に、腎を養うためのよい方法でもある。腎は先天の気が宿る場所。腰の使い方如何で腎の状態が大きく変わってくる。

 

 もう一人の生徒さんの問題点は左の腰と肩に何らつながりを感じられないことだと言う。右についてはタントウ功の時に腰を肩のつながりを感じられるようになったが、左についてはそうはいかず、どうしたらよいものか、と悩んでいた。

 私は彼は野球をする人だというのを知っていたから、まず右手でボールを投げる恰好をさせて、それから同じように左手でボールを投げる恰好をするように促してみた。彼はすぐに、「左手ではうまく腰が入りません」と返答。タントウ功で左側が右側のような感覚を得られなくて当然だ、ということを理解してもらって上で、しばらく左手で投げる練習をしてもらった。

 右利きの人が左手を使う時は自分の身体ではないかのような歯がゆい思いで動作をしなければならない。右手につながる神経ほど左手側は開発されていない。だから普段右手でやることを左手でやるようにしたりして、徐々に開発していかなければならない。意識的に”使う”練習にタントウ功で”内側の感覚”をつなげる練習を併用するのが最も効果的なのかと思う。

 この話を聞いていた60代の女性が、「私は最近歯磨きは左手でしています。」と教えてくれた。理由はというと痴呆症の予防のためとのこと。慣れない左手を使うことで脳の活性化をするらしい。

 どちらにしろ、普段無意識に右手でやっている動作を意識的に左手でやってみるのは試してみる価値がある。階段の上りはじめや下りはじめの一歩目の足を反対にするのも同様だろう。

 

 最後にせっかく室内の練習だからと床に坐って脚を広げて骨盤を立てる練習をしてみた。、と、男性陣の脚の開きが90度ぐらいにしかならないのに唖然。これでは骨盤を立てることは無理だ。140度くらいは開いてほしいもの(適当な数字です)。お相撲さんが股割をするのもそれなりの意味がある(年取ってから無理やり開いたり伸ばしたりするのはご法度です。取り返しがつきません)。股を割るというより、腰を割るというのが正しい言い方だと思うが、ともあれ、身体が緩む夏の時期に練習後少しストレッチをしたり鼠蹊部の押して痛い部分を揉み解すなどして、少し脚が開けるようになった方が良いだろうと思った次第。小学校の体育の授業でやる『開脚前転』ができるくらいにはなりたいもの。

 

 

2014/6/24 <吸いながら発する、哼哈二気>

 

 パリに来る少し前の先輩老師の練習会で、”吸いながら力を発する(打つ)”ということ初めて教わった。

 これまで力を発する時は息を吐くもの(吸で蓄気、呼(吐く)で発する)と公式化していたので、吸いながら力を出す、というのは少し意外な気がした。が、その時はそんな力の出し方もあるのだろう、と深く考えずにそのままにしていた。

 

 これもパリに発つ直前の話だが、最近、胡耀貞老師(馮志強老師の師の一人)の著作一式を偶然入手していた。胡耀貞老師は馮志強老師の2人の師父のうちの一人。

 私が学んでいる馮志強老師の太極拳は現在でこそ『混元太極拳』と呼ばれているが、最初は『陳式心意混元太極拳』といい、胡耀貞老師の心意拳(及び内功)と陳発科老師の陳式太極拳を合わせたものであることが名称上にも表れていた。

 胡耀貞老師の『保健気功』という薄い本は随分前に目にしたことがあったが、それよりも前に出された『気功及び保健功』という内容が豊富なものは見たことがなかった。偶然その著作を手に入れたので、せっかくパリに行くのだからこれに目を通して理解できないところは師父に尋ねよう、と久しぶりに集中して読破した。時間がなかったから一つ一つの功法を試すことはできなかったが、ざっと読んで、あれあれ?というような興味を湧かせる箇所が数か所あった。

 そのうちの一つが丹田呼吸に関する記述。即ち、丹田で吐いて吸うのはまさに” 哼哈二气”だと記されているところ。私は哼(フン)も哈(ハ)もともに”呼”で(哼は頭頂に向けて吐く、哈は腹に落とし込むように下向きに吐く)、”吸”には使われないと思っていたから理解ができなかった。まさかタントウ功や座禅の時の静かな丹田呼吸の時に哼哈が出てくるとは・・・?

 

 パリに着いてからの最初の練習でまず師父から言われたのは、これまで吐きながらやっていた動作を吸いながらやるように変えることだった。まずは下にしゃがむような動作の時に吸いながらしゃがんでいくように言われた。背折靠とか中盤などの下に坐っていく動作からコツを掴んで、その要領で他の動きもやってみる。師父曰く、そろそろ呼吸を入れ替えたような練習をしてみるべき、とのこと。

 来る直前にちょうど吸いながら打つ、という、今までと反対の呼吸の使い方を知ったばかりだったから、そんな事情を知らない師父が冒頭でこのような練習を提案したことに正直言って驚いてしまった。偶然なんだろうか?

 

 その日の練習が終わるころに、哼哈二气の質問をしてみた。

いや、質問をしながら、すでに、自分の中で答えができかかっていた。吸いながら打つ時は身体の中で哼が出ている。哈で吸うことはあり得ない。この感覚を身体の動きを止めた静功の中でやれば、微妙に哼を使えば丹田で吸った息が上下に伸びていく。身体の空間が縦長になる。そして哈で吐けば全部が丹田より下に溜る。身体が横長になる。ああ、静功でも哼哈二气はありなのね、と大発見をしたようでとても嬉しい。

 師父も同じ感覚のようですぐに話が合う。感覚を共有していると話はすぐに合う。感覚を共有していないとどれだけ言葉を尽くしても分かり合えることはない。分かり合うというのがこの上なく嬉しいのは氷山の一角である言葉によって、その下に隠れている大きなものが共有できていることが確認できるからだろう。

 

 その後一人になって私の運動の原点である卓球のことをふと思い出す。確かによ~く注意してみれば、打つ瞬間はまだ息を吐いてはいない。ボールがラケットに当たった瞬間に息を吐いてしまったらそれはまったく腑抜けの打ち方になってしまう。打つ瞬間はむしろ吸っているかのようで、そう言われてみれば打つ瞬間に”哼(フン)!”と言っているようなところもある。打ちながら”哈(ハッ)!”とは言わない。・・・でもテニスの人たちはどうなんだろう?テレビを見たりすると、打ちながら”哈(ハッ)!”と言っているような気がしないでもないけれど・・・。

 

 このあたりまで考えて時差ボケか本当のボケか、頭が回らなくなったので、もう考えるのをやめました。ぼちぼちやります。

 

追記

 このメモを書いて就寝。朝目が覚めかけてそのまま呼吸を見てみたら、ハ~で吸ってフ~で吐いている。ハ~で息が丹田から命門の方に膨らみ(腰、帯脈が広がり)、フ~で息が丹田に戻る。あれ?これは昨晩メモで書いたものと反対ではないか?ハ~と哈、フ~と哼は別物かしら?

 中国語の哼哈は日本語の阿吽。サンスクリット語の「A-hum」から来ている。お寺にある金剛力士像等で口を開けているのが阿、閉じているのが吽、宇宙の始まりと終わりを表す音だという。聖なる音の「Aum(オーム)」(ここからアーメンも派生)、「あ」ではじまり「ん」で終わるひらがなもそれのよう。

 ・・・気が遠くなるくらい深い深いお話。哼哈二気がそう簡単に理解できないの無理はないかも。(探究は続けます。)

 

2014/6/21 <パリに到着して>

 

今日夕方にパリに到着。

今回は突然パリ行きを決定。一家の主婦が家を空けてしまうと犬猫を含めた家族にかなりの迷惑をかけてしまうことは百も承知(猫はそうでもないか・・・?)。これまで何度もやっているとはいえ、春に二度も中国に行ったばかりだという負い目もあるのは否めず、今回は4泊5日のごく短い滞在にした。

 

今日は夏至。パリは10時半過ぎまで明るくホテルの外の広場では仮設ステージでバンドが歌い人々がお祭り騒ぎをしている。日本での忙しなさから逃れて静かに練習しようと来たのだが、そう、夏のヨーロッパは皆浮かれ気味だった。ちょっとした誤算。

とはいえ、サマータイムで思いっきり時間を後ろにずらしているので、朝は日の出が遅く午前中はいくぶんヒンヤリとしている。明日は早めに公園にいって練習をしよう。久しぶりの師父との一対一の練習が楽しみ。

 

毎回パリに来るときには何かしらハプニングがつきものだが、今回は携帯(i phone)を朝トイレ(?!)に置き忘れてそのまま空港に行ってしまった。羽田に着く手前で気づいたがもう取りに帰るわけにもいかず、携帯のアプリを使っての無料通話を期待していた家族に公衆電話からお詫びの一言。これで家族との絆も絶たれてしばらく糸の切れた凧になろうかしら、とそんなイメージが湧いたのだが、今回はパソコンをスーツケースに入れてきていたからメールでの連絡は取れるのだった・・・と、ほっとしたような、僅かながらがっかりしたような・・・。

携帯やパソコンという文明の利器は外界と接触するのにこの上なく便利なものだが、それらを使いきれるようになると「必要な時だけ使う」という節制した使い方が非常に困難になる。四六時中外界とつながっていなければ怖くなってしまう、という若者の心理もよく分かる。

私が大学生の頃や就職した頃はまだ携帯電話がまだそれほど普及していなかった。あの頃の友人との待ち合わせはどうしていたかしら?”ない”なら”ない”で、どうにかなっていた、と、今思えば不便だったであろうあの頃が懐かしく思えたりする。

便利になればなるほど更に忙しなくなるという皮肉な現象があるからこそ、余計に自分の内的世界に浸りたいという欲求が出てくるのかもしれない。

陽極まれば陰に転じ、陰極まれば陽に転ず。うまくバランスをとりたいもの。

2014/6/13 <「静下来」>

 

 久しぶりの屋外練習。梅雨入りしてから屋内練習が続いていた。

 昨日までの雨のため土も湿っていたが、土の茶も木々の緑も、全ての色が濃くて新鮮。

 

 しばらく皆でタントウ功をする。静かになる。

 木々の中で止まっていると、自分のテンポが次第に落ちていって周囲の自然のテンポに同期してくる。植物もしくは空気に合わせていくと、近くで何かを探しているカラスが神経質に見えてくる。人間はさらに”浮いて”いる。

 本来のテンポはこんなものだったのかと思い出す一時。

 

 今日は早めに練習を切り上げなければならない事情があり、タントウ功は30分足らずで終えて動功に移ることにしていた。タントウ功の感触を残しながら少しずつ動き出すのだが、見ると一人の生徒さんがずっと立ったままで動かない。中に入ってしまった様子。彼女はそのままにして残りの生徒さんと動功をする。

 

 師父と話していると、よく「静下来」という言葉が出てくる。今日のタントウ功はなかなか「静下来」できなかったから、短めに切り上げた、というように使う。静かになれた(静下来)、静かになれなかった(静不下来)、という意味だが、私は常々、「静」の後の「下来」という部分が絶妙な表現だなぁ、と(勝手に)思っている。というのは、静かになるときは、まず自分が腹の底の方へ、つまり下の方へ移動して行って(ここまでは「静下”去”」(「去」は行く)、そしてそこまで行くと、何だかほっと”戻って来た”、つまり「来」の感じがするから。

 ネイティヴが中国語を使う時はそんなに深く考えていないのかもしれないが、漢字を並べると一文字一文字の漢字のイメージが重なり合って重層的な感覚が表現されて面白い。「静かになって下に来る」という日本語はおかしいが、ただ「静」と「下」と「来」を三つ組み合わせると、その3つが合わさった感覚が表現できる。感覚は直線的な論理では表現できないのだろう。ぱっと掴むしかない、それには漢字という象形文字はうってつけのようだ。漢字を使う国に生まれて良かった~。

 

 

 そういえば太極拳関連の本を読んでいても漢字からイメージを得ることがとても大事になってくる。以前話題にした「含胸」や「塌腰」「斂臀」などはその一例。臀部だけでもその他に「泛臀 」やら「裹臀」やらあったりして、例を挙げていけばきりがない。

 以前「含胸」がどうしても分からなかった時、師父の友人の太極拳愛好家が、「飴を口に含んでいる状態が”含”。力が弱すぎると飴が口からこぼれてしまうし、力をいれると呑み込んでしまう」と説明してくれた。なぜ「凹胸」や「凸胸(挺胸)」ではなく「含胸」なのか、その意味がこの説明で”何となく”分かったような気がした(イメージとして分かった。でもまだ体がそれを把握していない状態)。

 古人は”それ”を伝えようと、的確な言葉(漢字)を探してきたのだと頭の下がる想いがする。斜め読みですっ飛ばして読んでいい本もある反面、一言一句、咀嚼しながら読まなければならない本がある。

 

 今日の練習で嬉しかったのはこれまでほとんど「静下来」できなかった生徒さんが初めて「静下来」できたこと。タントウ功を終えた彼女に落ち着きが出て何かしら美しさを感じさせたのはそのためかと思う。

 

 これから気温が高くなり、蚊まで出てくると「静下来」しずらくなってくる。

 ここは上手に(俗世の?)”隙間”に同調させて静かに涼しくいたいもの。

 

2014/6/3 <全身のしなり、神経系統の働き、楽しむ>

 

週末にNHK特集で見たブラジルのサッカー選手、ネイマールの姿が忘れられず、今日またその録画を見ていた。

175センチの小柄な選手でブラジルのエース。サッカーに関しては全くの素人で技術や戦術も何もわかっていない私だが、それでもこの選手の動きを見るとその総合的な身体能力が群を抜いているのが分かる。

番組では主にネイマールの卓越したドリブルに注目し、様々な科学的手法を使ってその秘密(?)を解明しようとしていた。

小柄できゃしゃな彼が体格の良い敵の選手達を翻弄させ振り抜いていくその様は、あたかも成年のライオンに囲まれた若い鹿がその臨機応変な素早い動きで包囲陣を突破するかのよう。見ていて実に爽快だ。

 

番組ではネイマール選手の身体や動きを細かく分析していた。細かな動きを司る左脳が他の選手よりも活発に使われているとか、ボールを蹴る時に足の甲が最後までボールに接触しているとか、身体を小刻みにかつ素早く動かせるとか。しかしながらそのような分析結果は1秒間に2000枚写せる高性能のカメラを使う前から容易に想像できたことで、何も”秘密”を解明できていないのではないかしら?そんな思いが残ったのが率直なところ。

 

番組を見終わって少し物足りさが残るのは、私が知りたいことが、彼のそのようなプレーを可能とする根幹は何か?ということなのかもしれない。何故左脳がより活発に使われているのか?何故足の甲が最後までボールから離れず使えるのか?何故身体を小刻みに素早く動かせるのか?・・・それが分からないと何も分かった気がしないのだと思う。

 

といってもこのあたりは私の個人的興味の範疇だろうから自分で考えてみることにする。

私がまず感動したのは彼の身体の若さ。もちろん彼はまだ22歳だから若いのだが、背骨のしなり、腰・股関節の柔らかさ、全身の弾力性は10代の身体のようだ(彼を見てから他の選手達をみると皆”おじさん”に見えてしまったりするから面白い)。背骨や腰・股関節を含めた全身のしなり(柔軟性+弾力性)は10代前半から既に下降線をたどり始める。それは筋肉がしっかり発達してくるのと反比例している。筋肉ががっしりつけばつくほど”しなり”が失われやすい。最も理想的なのは筋肉がしっかりしていて、かつ、柔軟性と弾力性のある身体。ネイマール選手を見ると現時点においてこの両者が非常に高いレベルでバランスをとっているのが分かる。

 

次にすごいと思ったのがその敏捷性。敵の裏をかく技。技巧性。

このあたりを少し整理してみると、まず相手の裏をかこうとするには瞬間的に脳で作戦を作る(ひらめく)必要がある。そしてこの咄嗟のアイデアは即座に神経系統を経て全身に伝わるのだが、有効な技にするためには往々にして速さ(敏捷性)が必要となる(ものによってはわざとスローにしたりもするのだろうが、どちらにしろ相手の感覚に合わせないような意識的な動きが必要。この意外性が技巧性になるのではないか?)。これら一連の身体の反応には、単に100メートル走をするのとは違った、更に複雑な神経系統の働きと身体の末端、隅々まで意識化された身体が必要になる。

サッカーのドリブルで敵を交わすような場面は息を詰めて見ていたりするが、それは選手同士の”神経”戦が見ている側の神経にも作用するからかもしれない。

 

そう見ていくと、対人競技の醍醐味はその神経と神経の対峙にあるような気がする。相手が人だということはいつでも変わるということ。相手の出方が変わればこちらの出方も変わる。お互いその変化、変化に対応していくことは取りも直さず神経系統の鍛錬をしているということ。太極拳の対人練習はまさにその練習だ。相手の裏をかくことができるなら、逆に相手に合わすこともできる(はず)。相手に合わすのも相手の裏をかくのも自由自在となれば、通常の社会生活で人と付き合っていくのもお茶の子さいさいになる(というのが正しい練習のあり方のはず)。

 

 

再度ネイマール選手の話に戻すと、彼の技巧性の高さはその神経系統の働きの良さ(本能的なものも含めて)、プラス、その神経系統からの指令を正確に再現させるだけの身体の条件が揃っていることだろう。

身体の外枠の条件は筋肉の発達や筋の伸び(弾力性)、骨の強さ、関節の柔軟性、可動域等があるが、これらスポーツクラブでも鍛錬することのできる身体の”外枠”だ。体力をつける、とか、スタミナをつけるといった練習はこれよりも内側の内側の練習になる。そしてこの先に(もしくはこれらと並行して)神経系の鍛錬があるように思われるのだが、一般的にそのような鍛錬は脳の老化が気になり始めて初めて着手するというのが現実かもしれない。若い頃から意識的に鍛錬する人はごく少数だろう。しかし身体の動きのベースには神経系統の働きがあるということをきちんと認識しておかなければ、使えない筋肉を集めただけの身体にもなりかねない。”賢い身体”には覚醒した神経系統が必要、と思う。

 

私達の背骨に沿って中枢神経である脊髄が走っている。しなやかな背骨は脊髄の流れを良くする。ネイマール選手の背骨は他の選手に比べて一段としなっているが、これを見ると、神経系統の働きが非常に良いのだろうと思う。そして股関節や腰が緩んでいて流れをせき止めるようなブロック箇所がないのも足が手のように使える一つの要因。が、一番大事なのは、意識的な練習をすることだろう。練習量も大事だが、身体の各所をピンポイントで意識していくような練習も大事だ。ネイマールのお父さんは彼が子供の時にしょっちゅう彼の足の甲の一点をつねって、「ここでボールを蹴るんだ」と教えたようだが、それが現在の彼を作るのに大きく役立ったと言っていた。

 

最後に、番組中何度か出てきたネイマールの靴に書かれた『Alegria』(楽しむ)という言葉について。これは彼の父親がずっと彼に教えてきたことだという。「どんなに辛くても楽しむのを忘れるな」という父の教えを守り、ブラジルのエースになってプレッシャーに負けそうになった時も「自分の今のプレーに集中し楽しんでいれば結果は自然とついてくる」という気持ちでやってきたらしい。

このあたりは私の憶測だが、楽しんだり、遊んだりするような時に神経系統は最大限に活性化、身体も開き動きやすくなる。怖がったり萎縮したり、いやいやながらやれば全ては閉じてしまう。

 

中国では、”儒教を学んで「拿得起」(行動を始めることを知り)、仏教を学んで「放得下」(手放すことを知り)、道教を学んで「想得開」(心を開くことを知る)”という言い方があるそうだ。

以前馮志強老師の三女馮秀茜先生が「気持ちよくなければ太極拳ではない」と言っていたのを覚えているが、道教と関連の深い太極拳にはその根底に”開いた”感覚があるのだと思う。身体を縮めず開いて伸ばすのもその一面だが、心も開いて楽しさ、気持ち良さを追求するのも結局は神経系統の働きをスムーズにするのに大きく役立つではないかと思う。

楽しみながら練習したいもの。

 

*ネイマール選手の写真について

冒頭の写真では腰から脚が振り出されているのが分かる。

もう一枚の写真では、この崩れた体勢でも走り続けられる身体能力の高さが分かる。全身が一つにまとまっている。四足動物的身体能力の顕れ?

 

 

2014/6/1 <混元太極尺・棒の成り立ち、動画>

 

引き続き太極棒の話。

 

 以前メモに載せた『道家太極棒尺内功』という書籍は、馮志強老師の弟子かつ娘婿であった王風鳴老師(現在米国在住)が馮志強老師から伝授された内容をまとめたもの。

 この本には馮志強老師が広めた『混元太極尺・棒』の成り立ちの経緯が書かれている。

 

 馮志強老師には二人の高名な師がいた。

 一人は”近代気功の父”と呼ばれる胡耀贞先生、もう一人は”太極一人(太極皇帝)”である陳発科先生だ。

 

 陳発科先生は1928年に郷里の陳家溝から北京に移り太極拳を教え始めた。その後間もなくして道家気功及び心意六合拳の著名な伝承人である胡耀贞先生と知り合う。二人は意気投合、互いに尊敬し合う仲になる。 

 ある時陳発科先生は昼食の後午後暇があったので胡耀贞先生の家にふらっとおしゃべりに出かけた。胡先生の家の庭に入った時その庭で胡耀贞先生がちょうど站椿功をしているのを見かけた。陳発科先生は、胡先生の練功の邪魔をしてはいけないと静かに庭から退出し、近くの商店街に散歩に出かけた。1時間以上経ってもう一度、胡先生の家に行ってみた。胡先生はまだ立っている。そこで陳発科先生は付近の茶館にお茶を飲みに出かけた。その後再度胡家に行ってみると門からちょうど胡先生の奥さんが出てきた。奥さんは陳発科先生を見ると庭に行って胡耀贞先生にその旨伝え、胡先生は収功をして陳発科先生を迎えた。

 その後二人は練功について様々な話を交わした。

 その中で陳発科先生は胡耀贞先生に次のようなことを言った。

 「あなたは常に站椿功と太極棒尺内功(注:道家の高レベルな修練方法。昔は秘伝、口伝)を練習しているが、その技術理論と練功方法はとても独特だ。実は私共の陳式太極拳の中にも棒を使った纏糸功の練習方法がある。もしこの二つを結合できたなら、更に良いものができるのではないか?」

 これを聞いた胡耀贞先生は

 「陳兄が言うところは尤もだ。早速試してみましょう。」

 そう言って部屋から二本の太極棒を取って来て二人は練習を始めた・・・。

 

 馮志強老師はこの二人の師から受け継いだことを更に発展させて『混元太極尺・棒』を編纂した。その結果それまであまり広くは知られていなかった尺・棒を使った練功法の周知度を高めることになった。

 

 以下、馮志強老師の高弟で継承者になるのではないかとも思われていた陳項先生の太極尺棒の動画。この動画は後ろに生徒さん達がいるため、その比較から、陳項先生の何気ない動きの凄さが分かるのではないかと思う。(ある生徒さんは後ろのおばちゃん達の動きだけを見て楽しんでいたとか。)

 パート1は主に内功。普段の内功を尺を持ってやったもの。

 パート2は主に纏糸功。全身がうねるのは陳項先生の特色。馮志強老師とは異なる動きだが、このように動いてみると体内の気のうねりが感じられて気持ちよい。 

 (動画の雑音がひどいので注意)

 

 

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3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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