2014年5月

2014/5/27 <屈筋と伸筋、二の腕>

 

今週は棒を使った練習をやっている。

生徒さんと一緒に練習していると思いがけない発見がある。

 

私がまとめて購入した通称”太極棒”は実は『太極尺』と『太極棒』を併せた便宜的なつくりになっている。初心者だからこの程度で良いだろう、と”尺”と”棒”の違いをあまり考えずに購入した。

しかし、実際に使ってみると尺は尺なりの棒は棒なりの用途がある。なるほど~、と納得することあり。

 

 尺は両手に挟んで使う。

 が、この”挟む”というのが曲者。生徒さん達と一緒にやってみて、あら?と気づくのが、棒(尺)を落とすまいと妙に腕に力が入っている人が案外多いこと。

 

  棒を手の平で挟んで左右からギュ~ッと棒を力一杯押し続けると上腕に力こぶができて大胸筋が鍛えられそう(そういえば豊胸のためにこのポーズをやっていた 女友達もいたなぁ~)だが、このような屈筋群(関節を屈曲する時に使われる筋肉:肘関節に関しては上腕二頭筋等、手首に関しては前腕の掌側にある筋肉群) は力が入れやすいがために往々にして力が入り過ぎる。

 これらの屈筋群の拮抗筋は関節を伸展させる伸筋群だ。上腕ならいわゆる”二の腕”(振袖と呼ぶ人もいる。本名は上腕三頭筋)。

  私達人間は生まれてすぐ”物を掴む”という動作を覚え生涯この動作を行っていくのだが、これはまさにこの屈筋の作用。物を掴んで握りしめて「人には絶対にあげない!」、と物を取られまいとする時には腕の屈筋群が最大限に作動している。そしておそらく肩にも力が入り多分背骨も多少丸くなる。この時の身体 は全身の筋肉が硬くなり力が内向きにこもった感じ。流れがない。

 これとは反対に、人に自分のものを「どうぞ。」と差し出した時はどうか? 掌は開き上を向く。どうぞ、の気持ちが真のものなら、その気持ちが肩や腕の中を通って掌まで達するだろう。この時腕のみならず全身の筋肉の緊張はないはず だ。胸も気持ちよく開き、背中も真っ直ぐになる。このような時は屈筋群と伸筋群のバランスがとれ、ニュートラルな形になっている。

 さらに 進んで、パン生地をこねるような動作、マッサージをするような動作を考えてみる。手首が背屈した形だ。掌の付け根部分(掌根)を突き出したような形をする と腕の伸筋群が優位に働く。伸筋群は屈筋群ほど疲労しない。そしてたとえ「くそ~!」とパン生地に敵意を持ってこねていたとしても、力はコンスタントに掌 に流れていく。筋肉のどこかに溜って筋肉疲労を起こすような感じは非常に少ないだろう(もちろん体力が続かずそのための疲労感はあるだろうが)。

 

  話を尺に戻すと、尺を両手で挟む時は上記のパンをこねる動作のような腕、手の形を僅かに取り入れたようにするのがコツだ。こうすると労宮のツボが自然に開いて(出てきて)そ こでうまく棒が”挟まった”ようになる。脇は体温計を潰さない程度に軽く挟んだようにして、肘の先を下方に軽く落とすようにし(つまりこれは「沈肩墜 肘」)、その上で命門を開く(帯脈を開くように)調整すれば、腰の力が手の平まで達するように感じられる。もっとうまくいけば、腰で棒を挟んでいるよう な、身体全体で棒を挟んでいるような感覚にもなる。これは内功の双手開合法の”合”の形(労宮の合、丹田の合)だと気づく(第十一式の途中にもある形)。

 なんてことない尺の挟み方だが、これをきちんと把握せずに様々な動功を行ってもただの腕の運動になって全身運動にならない。ひょっとしたら腕や肩が凝った~、ということにさえなりかねない。

 

 上で述べたような多少伸筋優位の持ち方にすればいわゆる二 の腕がうまく使える。

 二の腕は中国語で『膀 bang』と言うが、その意味は”上腕の肩につながる部分”だ。逆に言えば肩と腕を連結させるには二の腕が使えなければならないということ。また、二の腕 を作動させると脇の下後方が活性化してくるが、それはその辺りで広背筋と連結するためのよう(私はタンクトップの脇ぐりがきつくなって次第にサイズを上げているが、これはひとえに脇下の発達のため。究極のモモンガ状態になれば腕と背中が一体化し空が飛べる!)。二の腕は脇から背中にもつながっているということが分かる。

 こう見ると、腰→肩→肘→手首→拳、と腰の力を拳に伝えるにあたって、最大の難関ともいえる”肩”を越えるには”二の腕”の力を使わずには不可能ではないか?と思う。

 

  陳式太極拳の特色を表す言葉の一つに『身肢放長』というのがある。全身を少し長く伸ばしたように使うのだが、これにより関節にも適当な隙間ができ身体の弾力性が増す。身体を伸ばすというのは心理的にも心地よく感じるから、”舒畅(伸びやかで気持ちが良い)”という感覚が生まれる。そしてこの”伸びて気持ちの良い感覚”というのは屈筋を伸ばして伸筋優位の動作をすることから生まれるのではないかと思う。

 この伸筋を使う感覚は握って使う『太極棒』で遊んでみると良く分かる。太極棒の捻じり功法を試してみると、腕が捻じ りに捻じれて「二の腕に効く~!」という感じがある。捻じり動作でさんざん二の腕を意識させた上で改めてやりなれた24式の動作をやってみると、どの腕の 動きも二の腕主導で出来上がっているように感じられる。

 そういえば伸びやかさしなやかさが命のバレエの動作も伸筋を十分に働かせることでできている。腕は捻じりの芸術、とバレエの教則本に書いていたが、二の腕をきれいに使うには捻じり(肩関節の回旋)が必要になる(冒頭の写真)。

 

 女性の生徒さんの中には二の腕のもたつきが気になる人もいるようだが、日 常的にこの部分を使うように躾ければ、コーヒーカップを持ち上げる動作、歯磨きをする動作、包丁を使う動作等、あらゆる動作に柔らかさ、上品さが出るはず (と私が言っても説得力がないのでしょうか?)。

2014/5/20

 

今日は雷雨で公園内の休憩所に避難して練習。

最初は同じように避難してきた人々の視線が多少気になったりしたが、そのうち(少なくとも私は)そんなことも気にならなくなり、棒を振り回したり24式の練習をした。

 

この春あたりから新しい生徒さんが増えた。一方で諸々の事情から辞めていく生徒さんもいるから総数としては多少増えたという程度。それでも24式をとりあえず最後まで覚えた生徒さんが少しずつ増えてきて、新しい生徒さんを教えるのを手伝ってもらえるようになった。

これは大きな進歩。

私が新しい生徒さんを教える時に先輩生徒さんにも一緒に復習してもらう。第一回目に学んだ時よりは細かい点に注意できるようになる。外形だけでなくその意味、できれば体内の気の運行にも気が付けるように導く。

 

一通り24式を覚えた段階で教えられるのはせいぜい大まかな動作の形。それを精密化して正しい形にしていくのが第二回目の復習。正しい形が作れない箇所があれば、その原因を探る。身体のどの箇所に問題があるのか?その部分は基本功などで使えるようにするための意識的な練習が必要になる。

この外形的な練習をしながら体の中で力(気)がどのように動くのか、身体の内側を見る練習を徐々に始める(この時までにタントウ功などで内視の要領を身に着け体内の気の流れを意識できるようにしておくのが大事)。

この内側の感覚をちゃんととれるようになるには身体が自動的に外側の動作を作れるほどまでに”やり込む”必要がある。動作に頭を使っているようでは内側は見られない。身体が勝手に動くところまでやり込むには何度も何度も復習する必要がある。

その際、大事なのを動きを正確にしていくこと。不正確な外の動きは身体に負担をかけたり身体本来の動きの幅を制限させたりする。また内側の気の流れも滞らせるから内側を見ることも難しくなる。何度も復習しながら、テキトーにやっている動きを徐々に減らし意識的な(意味ある)動きを増やしていく。

 

私の場合、24式のうちこの第×式はOK!というように、まず一式毎にチェックをかけていった。そのうちクリアした式の数が多くなり、いつまでもクリアできない式が残ったりした。第三式や第七式、第十二式、第十七式、第二十二式あたりがなかなかしっくりこなかった覚えがある。48式の二起脚は本当に苦手だった。脚は上がるのになぜうまくいかないんだろう?といろんな先生の動画を見たり研究もしたが、ある時コツを掴んですんなりできるようになった。できてしまえば大したことではないのだが、できるまでに結局5年程費やしていたのではないかと思う。

そしてそんな外側の作業をしながらタントウ功や動功の時に感じた体内の気の動きを24式の動作の中でも感じるように注意していく。本当にどれも円(弧)になるのか?ゆっくり動きながら腹の中を見ている。腹の中の気の動きが途絶えたら、そこは見直しどころ。

そうやってどの動作にもスキがないように調整していく。

 

ちょうどこのホームページを開設した時のこと。

ホームページに載せるための写真を探していたのだが、ポーズをとって写した写真は動きが止まっていて躍動感が感じられない。なら動画から静止画像を切り取ってそれを使おうというアイデアが浮かんだ。

それから動画から静止画像を切り取る作業に着手。まず私の動画から始めた。連続写真のように静止画像を切り取っていったが、そのうち、OKと思える画像はポーズを決めた(定式:各式の最後のポーズ)画像にほぼ限られていた。

次に劉師父の動画から静止画像を切り取る作業をした。すると師父の連続画像はどれをとってもOK、動いている途中の画像でもホームページに載せられる。動きをコマ送りにした場合にどの瞬間をとっても形が正確、崩れがない。ああ、ここが私と師父の大きな差なのだと愕然としたのを覚えている。まだまだ精緻さが足りない、更に意識的な練習をしなければならない、そう痛感させられた一件だった。

 

それから3年近く経った。あの頃よりは(自分で言うのも何だが)かなり進歩した。

いつもまだ”足りない”部分、即ち課題があるから、それをクリアするためには進まなければならない。逆に言えば、足りない部分、課題があるから練習が続けられる。一歩進めばまた次の課題が現れる、だから面白い。

 

24式を始め、様々な套路の一連の動きを覚えるのも大事だが、覚えてからが本当の練習になる。一つ覚えたらまた別のものを覚え、拳が終われば刀、剣、と次から次に進んでいくやり方もあるが、それはあたかも浮気性の人の恋愛のようなもの。表面を進むだけでいつまでたっても恋愛の深みは体験できない。一つのもの、一人の人をを深く探ることによってしか得られないものがある。外形から内側へ、そして内側からまた外形へ、と行ったり来たりしながら更に深く進んでいく。太極拳の練習には『太極』という底なしの深みにつながらせるものがある。

 

深みを追求することによって初めてあらゆるものの本質は同じである、という認識が生まれる。私の生徒さんの中に声楽家がいるが、もし私がただ体操のように太極拳を学んでいたら声楽家の発声を教えることはできなかっただろう。発声の大先生は私に「ほんと、太極拳は発声と同じね」というが、それは体の内側の使い方が同じだから。手足の動きの話ではない。生徒さんの中には他にもヨガやピラティスの先生、ダンサー、ピアニスト、ギターリストなどもいるが、皆太極拳の練習の中に共通点、得るもの学ぶものを見つけてやってきているようだ。道を究めていくと皆同じところに行き着く。太極拳はその一つの道といえる。

敏感な感覚そして悟性を大事に進み続けたいもの。

 

 

2014/5/17 <太極棒で丹田を探す、虚領頂勁、首の揺らぎ>

 

 太極棒を使っていつもの動功練習をしてみると面白い発見がある。

 ただの腰回しでも棒の握り方、棒の動かし方で身体の内側に様々な違った感覚を生じるのが分かる。棒を握らなくても、手を開いてアンの形で腰回しをする場合、軽く握って(拳にして)纏糸をかけながら腰回しをする場合、それぞれ腰・腹の感覚は全く異なるが、棒を持つとそのような違いが倍増され初心者でも身体の内側の感覚がつかめやすいようだ。

 「丹田って、そんなものあるんですか~?」というような人でも、棒を立てて持たせて雑巾絞りのような動作を繰り返してもらい腹の感覚を探してもらうと、ああ、ここに力が集中している、と腹の中の力の集中点(丹田)がすぐに分かるようだ。棒を握った上の手により力がかかっていれば丹田は腹のやや上部にあるように感じられるし、意識的に下の手の絞りに力をかければ丹田は下の方に感じられる。棒をうまく動かせば、丹田は腹の表面、臍近くまで移動し(前丹田)、また、後ろは命門まで移動させられることが分かる(後丹田)。

 生徒さん達の反応を見ると、太極棒を使った練習はまさに内功練習にうってつけ。『太極棒尺内功』と名付けられた理由が良く分かる。

 

 この数日の練習で気になったのは首。

 首が棒のように硬い人が思いのほか多いことに気づいた。中でもこれまで太極拳や他の武術、武道を真面目に(?)学んできた人の首に不自然な真っ直ぐさがある。

 腰回し(帯脈回し)をした場合、自然な身体なら腰椎の動きは頸椎に連動して首も立ったまま少し旋回する。(やってみると分かるが)腰が回っているのに首がビクともしないのは不自然だ。背骨は頸椎から尾骨まで蛇腹状につながっているから、どの脊椎が動いてもそれが他の脊椎に影響を及ぼすのが自然。

 私の師父は首回しの時に一緒に腰回しをするが(これは一石二鳥と自慢していた)、首を水平回しにすれば腰も水平に回るし、首を竪回し(正面を見たまま回す)すれば腰も竪回しになる。逆も真なりで、腰を回せば首も回る。首と腰を一緒に回すように言った時に、すぐに要領を掴めない生徒さんもいるが、いつまでやってもできず、「どうやって動かすんですか~?」と聞いてくるような生徒さんの場合は、背中や首に余計な力がかかっていて”背骨”が感じられていないのだと思う。私達がみな骸骨だったら、ジャラジャラといとも簡単に動けるようなことでも、筋肉や靭帯やらにがんじがらめになって動けなくなっていることは往々にしてあるようだ。

 

 さて、「虚領頂勁」というのは太極拳で良く使われる言葉。この「虚領」の”領”は首、なじの意味。すると「虚領」は首を虚にする、即ち、首の中をスッカラカンにする、という意味だと私は理解している。馮志強老師がよく言っていた人体の18の球、即ち18の関節の一つが首。首は頭と胴体をつなぐ関節に過ぎないのであれば、首自体に力を入れて首を”立たせる”ということはあり得ない。首は尾骨、仙骨、腰椎と脊椎が下から積みあがってきた結果”立たされて”しまった、というのが本当のところのはずだ。

 実際、首の力を抜かないと背骨の下から上がってきた力が首で詰まってしまって、頭頂に”抜ける”ことはない。首を素通りしなければ、上丹田(眉間の奥のツボ、祖窍)、ましてや百会(頭頂)まで気が達することはなく、「虚領頂勁」の後半の「頂勁」(てっぺんに勁(力)が達する)の現象はあり得ない。

 ただ私達は立っている時、座っている時でさえ無意識のうちに首の力(そして肩の力)を使いがち。本当に首や肩の力を使わずに背骨を立たせて置けるようにするにはかなり強力な腰が必要(蛇が立ち上がるような感じ)。逆に腰の力が足りないと首や肩の力を借りて背骨を立てなければならない(立ち上がる時に何かにつかまって立ち上がるようなもの)。

(なお「頂勁」は裏声で声を頭頂に抜く感じに近い。そして裏声で頭頂から声を出すようにする時の首の状態は「虚領」になっている。首の筋肉のどこにも当たらないように声を頭頂に抜いている。)

 

 私がこれまで見てきたところ、武術や武道に限らず体操やバレエ、バトン等の練習でよくありがちなのは、”真っ直ぐ”の立ち姿を作るために後ろの首筋を思いっきり立たせ首筋の筋肉の力で頭を支えるようにすること。こうすると首が硬直し自然な背骨の動きは生まれない。

 対人練習のあるスポーツ種目なら分かることだが、首が硬直していては躱すこともできないし、振り返ることもできない。頸椎は脊椎の中でも一番可動域のある箇所だが、それは頭部がすばやく動き敵の動きを目で追えるようにする意味もある。小学生のサッカー少年や野球少年を見るとまだ首がゆらゆらしていたりして、その首のゆらゆらが可愛かったりする。中学生、高校生になって筋肉がしっかりついてくるとそのゆらゆらがあまり顕著でなくなるのだが、それでも微妙なゆらゆらはずっと残っているのが理想的。歯医者さんが人工のインプラントはビクともしないが自然な歯なら××マイクロン程度動く(正確な数字は忘れた)、というような話をしていたが、ファジーな揺らぎがあってこそ自然、と思ったりする。耐震建築と非耐震建築の対比のようだが、ビクともしない身体は思いのほか弱いのだろう。

 冒頭写真は首ふりペコちゃん。

 首はバネでボヨヨ~ン。これならムチ打ちにならない?!

 

2014/5/13 <太極棒尺で遊ぶ>

 

中国滞在中にたまたま購入した『道家太極棒尺内功』という本に触発され、太極棒を一本購入。この一週間余りは日替わりで生徒さん達に使い心地(?)を試してもらっている。

以前からこの棒の存在は知っていたが、とても地味な動きで太極拳の恰好良さからかけ離れているような印象があり、あまり興味がなかった。

 

が、今回本を購入し巻頭ページを読んで見方が一変。

なんとこの太極棒による修練法を勧めた名人趙中道老師は119歳まで生きている。

冒頭の書は117歳で書いたもの。ここまでくると説得力が半端ない。

太極棒に対する興味がむくむくと湧いてきた。

 

最初は100円ショップの麺棒で良いかと思ったが、やはりここはとちゃんとしたものを購入(中国で買えばもっと安かったのに~、と少し後悔)。麺棒との違いは歴然としている。棒を通販で購入したのは無駄にならなかった・・・、とほっとする(心が小さい?!)。

この一週間棒で遊んでいる感じだが、遊べば遊ぶほどいろいろな発見がある。

詳細についてはまた後日記すことにして・・・。

 

趙中道老師についてのメモ。

1844年~1963年(享年119歳)。

太極柔術、太極内功を修練。90歳の時でも目は見え、耳は聞こえ、歯は揃っていて、歩くと他の人が追いつけなかったとのこと。

常に言っていた言葉には

”武術は人を傷つけるためにあるのではなく、健康長寿の道を求めるためにある”、

”尺(太極棒・尺のこと)で練功すれば功法は足りる、100歳まで生きるのも何ら難しくない”

等があるそう。

 

以下、左から、①『道家太極棒尺内功』(王風鳴著)、②太極棒尺(棒:握って使う、尺:はさんで使う、これは棒と尺を合わせたもの)、③趙中道老師。

2014/5/7 <極小から極大、静から動、体育とスポーツ>

 

 やっと(?)連休期間が終わった。連休中少し帰省したりしただけだが何だかせわしなかった。春で気持ちも浮き立つのかもしれない。少し静かに一人落ち着く時間が必要だと思う。

 

 連休中昔の生徒さんで一年前から中国に移り住んでいる男性が顔を見せてくれた。私と一緒に練習していた頃は身体が鋼鉄のように硬くて、タントウ功の時にも力を抜けず、股関節もなかなか緩まなかった。中国では形意拳の師について練習しているとのことだったが、一年前よりも随分身体が柔らかくなって進歩が感じられた。聞けばタントウ功ばかり、それもいろんな種類のタントウ功をしているとのこと。両足を180度開いた形で中腰とか、爪先立ちのタントウ功とか、私が見たことない形も見せてくれた。

 そう言えばどこかでタントウ功は本来形意拳の基本功だという文章を見たことがあったような気もする。そう見ると私が練習でやっているタントウ功はその最も基本的なもの。そしてタントウ功”ばかり”しているわけではない。タントウ功の要領を元に、あたかもタントウ功をしているかのように動けるようになるのが目標だ。タントウ功は「死桩功」(動かない杭になる練功)、套路は「活桩功」(動く杭になる練功)と呼ばれたりもする。

 人間はじっとできることも大事だし、身体を最大限に使って動けることも大事。太極拳の”太”の字は”大”と”小”の組み合わせからできて、その意味するところは”大よりも大きく小よりも小さい”だという。極小から極大、この幅の広さが太極拳の醍醐味。ということは、じっとしている”静”から動きの”動”の幅も最大限に広げるのが太極拳のはずで、それを念頭に置いた練習が必要だと改めて思った。

 

 武術の他の流派のことはそれほどよく知らないが、他の一般的なスポーツに比べて見ると太極拳は身体を総合的に隅々まで使えるようにする(これも”太”の理念)ところに特徴がある(はず)と思う。そこにはどこか”体育”の香りがあり、単なる”スポーツ”とは一線を画すと言っても過言ではない。

 スポーツ選手を見れば一目瞭然だが、あるスポーツを専門的にやればそのスポーツに適した身体付きになる。よく使う場所と使わない場所があり歪さも出てきやすい。例えばラケットを使うスポーツなどは身体の左右が非対称的になる。前方にしか敵がいないので横や後方への注意力は開発されない(視野が限られている)。重量挙げの選手は軽快な動きが苦手そうだし、マラソン選手に重いものを持たせるのは酷。高跳びの選手は柔道には向かないだろう。野球選手とサッカー選手の身体付きは全く違う。

 最近では太極拳の老師は太っていて腹が出ているイメージがあるようだが、それは推手の大会で勝とうとすると重量があった方が得だという所謂スポーツ化がもたらした現象だという話を聞いたことがある。本来太極拳には蹴り技、跳び技などの足技があり(病人、老人、女性(?)を対象に編纂した24式はこれらを割愛)、脚は上がらなければならないし開けなければならない。素早く動き跳べなければならない。とすればそんなに太ってはいられないはずだと私は思う。中肉中背でオールマイティな身体が個人的には理想的だと思っている。

 なお、スポーツはそもそも「気晴らし」「楽しみ」「遊び」という意味らしいから、そこにはそもそも”身体づくり”の意識が薄いのは当たり前。ではその“身体づくり”をどうやってするのか?というのが問題で、それが子供の頃なら学校の体育の授業でやっていたようなことなのかもしれない。

 

 生徒さん達とよく話すのだが、私達が今小学校の体育の授業を受けたら・・・と想像すると笑えるかもしれない。開脚前転なんて無理~!、とか、ブリッジもだめ、鉄棒の連続逆上がりも不可能、縄跳びの二重跳び、三重跳び、跳び箱、雲梯、・・・と思えばいろんなことをした(させられた)けれども、これは子供の身体を育むのために、と然るべき大人達(国)が考えたプログラムだった。そこには筋力や瞬発力や持続力、柔軟性など身体の持つ様々な運動能力、そして体力を向上させようという意図があった(ここでそもそも「体育」とは?と疑問が湧く。「運動能力」「体力」というのも引っかかる言葉。このあたりについて突っ込むとハマってしまいそうなので今日はスルーします)。

 大人になると自分で「体育」をしなければならない。

 ちらっと調べたところでは、小学校の学習指導要綱では「体育」を「心と体を一体としてとらえ、適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して、生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り、楽しく明るい生活を営む態度を育てる。」と規定されている(中学校もほぼ同じ)。

 ”心と体を一体にして”というのは太極拳でいうところの「身心双修」。健康についての理解も「体育」の定義に含まれているのをみると、太極拳はベースに「体育」の要素をもっているのは否めない。ここから養生重視の”老人”太極拳が広まったのも頷けないことはない・・・が、実際には「体育」の精度をこの上なく高めていったところに真の太極拳があるのだけれども。

 

 

2014/5/1 <『含胸』から『沈肩』へ>

 

 『含胸』の要領、そして実態がやっとつかめてきた。

 『含胸抜背』と言われるがごとく、この『含胸』は『抜背』につながるべきであるが、よくよく見ていると生徒さんのみならず太極拳の老師の中にも『含胸』をしようとするがあまり『猫背』になってしまっている人が案外いる。

 反対に、武術大会などで背骨をピーンと真っ直ぐに張って演武しているのも見受けられるが、この場合は往々にして背中が板のように硬直していてとても『抜背』とは言えない状態になっている(上半身の力が抜けていない。この状態で中腰姿勢を続け腰や膝を痛めてしまった太極拳愛好者はかなりいるようだ・)

 

 実際に生徒さんに『含胸』を教えようとするといつも同じ問題点にぶつかる。

 少し胸を引くようにすると肩先が前に出て背中が丸まる。肩の位置を元に戻すとまた胸が出てきてしまう。つまり『挺胸』と『凹胸』を行ったり来たり。目指すべきところはその”間”なのだけど・・・と教える方も苦心する。(この”ちょうどその間”を見つける作業が太極拳にはとても多い。股関節を緩めて、でも腰を伸ばして、そのせめぎ合いの中で丹田を見つける作業がその代表。行き過ぎず足りな過ぎず、その微妙な塩梅で身体のバランスがとれるということ。)

 

 試行錯誤を重ね分かったことが、『含胸抜背』を実現するためにはその前提として『沈肩』、即ち、正しい肩の位置を見つけておくことが必要だということ。

 

 一般的に私達日本人の肩先は身体の真横ではなくちょっと前方に向いている。着物姿の女性を想像すればよいが、着物を着なくなって久しいといっても私達の肩は往々にして前に出て小胸筋が縮こまったようになっている。西洋では胸の大きくあいたドレスを着て、美しいデコルテを見せるような風習があるが、比較すると西欧人の方が肩や胸がゆったり開いて鎖骨が低い位置にあるようだ。

 また、前肩だと僧帽筋が前に引っ張られるため肩こりに悩まされる。(逆に胸が張り出て肩も後ろに反ってしまったような初老の生徒さんがいたが、その人は肩が凝ったことがないと言っていた。肩は後ろに引っ張られるべきでそうすれば肩は凝らないということ。冒頭の写真参照。後に簡単に説明。)

 

 さて、正しい肩の位置というのは肩先が真横を向いてその結果、冒頭の写真のように、背中側の僧帽筋や広背筋が赤い矢印の方向に下向きに落ちるようになっていることだ。この図には書いていないが肩の位置を正しくすれば肩甲骨も下に軽く引っ張り降ろされるような感じになる。

 今日の練習では、生徒さんに両手をゆっくり大きく前から上げて後ろに一回転させ、そのまま腰の後ろで両手をつないだままにして肩が後ろに回転したままの状態を維持させてみた。この棒立ち状態のところを私が前から近づき、いやらしくも生徒さんの身体を前から後ろに軽く押してみる。そうするとどんな生徒さんでも私に倒されまいと胸を張るのをやめ、胸を少し凹ませて重心を腹の方へ落そうとする。もちろん、両手を後ろ手組んでいるから胸を少し凹ませても猫背になることはない(できない)。そして胸を下に降ろせば降ろすほど足が地面に貼りついたようになってくる。この感覚がまさに『含胸』。

 

 そういえば私もよく電車の中で両手を後ろで組んだまま棒立ちで立っている。この状態で身体のバランスを取ろうとすると嫌でも胸を少し降ろしたようにして重心を下さなけばならない。足裏まで降ろせれば電車がかなり揺れてもゆらゆらと凌げるので倒れることはない。

 

 この肩を後ろに回したような状態(肩先を真横の状態)を味わうにはたすき掛けを一度やってみるのも有効かもしれない。ずいぶん昔、肩こり解消法としてたすき掛けが紹介されていて私も家でやっていたことがあった。確かに肩がとても楽だった。

 そして『含胸』を実現するには、まずたすき掛けで肩と腕の接合部分を後ろに回転させ、背中側の胴体と腕の接合部分のラインを下側に引っ張り降ろしておく(上の左側の写真)。

 肩を後ろに落とすと前の肋骨が上がり胸が張り出てくるので、それを”ふん!”と息を吐いて下向きに降ろす(下の右側の図)。

 

 これで理論的には『含胸』の出来上がり、と書きたかったのだが、ここまで書いて、いや、この順番ではダメだ、と気づいた。実際には私自身は順番を逆にしてやっている。つまり写真でいうなら、まず右図の胸を下す方を意識的にやり、それから左図の肩の調整を徐々にやっていくというのが本当のところ。

 ここで最近交流している大先輩老師からのメッセージが頭に浮かんだ。

「バレリーナの『挺胸』を基本とした『含胸』と太極拳の『含胸』を基本とした『挺胸』は違う」という話。発勁するためには後者でなければならない、ということだったが、確かに、上の図で先にたすき掛けをやってから胸を下げるのと、胸を下げてからたすき掛けをするのでは、胸の奥の充実度が全く異なる。前者では何か胸の奥がふわふわしていて腹まで気が落ちない。この状態では腰の力が使えないから発勁は無理。先に胸を下して胸と腹とつないでおいてから肩を後ろに回し降ろしていけば、それにつれて多少胸は開いてくるものの、それでも腹の力は奪われない。それどころか、胸が開きそうになるのを腹が下向きに引っ張るようにするため、腹・胸をつなぐ部分にまで気が充満していく感がある。

 『含胸』の醍醐味は、その状態からすぐに発勁が可能となる『蓄勢』ができることだという。反対に言えば、いつでも動ける、いつでも発射可能、準備OK,という身体の状態が実現できていなければ『含胸』はできていないと言ってよいということだ。

 それにしても先輩老師のメッセージは本当に的をついている、と今また実感。

 

 なお、『含胸』においては、胸と背という前後から軽く空気をはさみこんだようになるのだが、その胸腔における前後からの圧力は下に向かうと腹を膨らますし(横隔膜を下している?)、横に向かえば脇を押し広げるように働く(前鋸筋が張り出てくる?)ようだ。(頭で考えると前後から軽く挟んで胸腔の体積が減ってしまうのではないかと思うのだが、やってみると、かえって胸腔が広くなったように感じるのは何故なのかまだ完全には分かっていません。)

 

 たすき掛けで示したような肩の要領は太極拳では『沈肩』と表現されているが、これは肩の上の部分を下に沈ませる、というよりも、肩関節につながる僧帽筋や肩甲骨、そして鎖骨を下げる、というように理解した方が良いのではないかと思う。ただ肩を上から下に降ろしただけでは(ひげダンスの時の肩の上下の動き)、本当の意味での肩の位置、状態についての条件を全くクリアできず、よって、『含胸』も『抜背』も実現不可能ということになる。

 こう見てくると、太極拳の様々な要領は一つ一つ独立しているのではなく、みな関連しあっているのだと想像がつく。よってある部分を調整したければ、その前提となる部分の調整、またその前提となる部分の調整のために、そのまた前提となる部分の調整が必要・・・とグルグル調整しながら進んでいくしかないのかもしれない。

 

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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