2014/3/27 <身体の感覚の表現の難しさ、大腰筋>
鄭州から帰ってきてからまた身体の内部に新たな感覚が発生。
腹部の張りが強くなり会陰を引き上げればあたかもそこから空気を吸い上げたがのようになり、その空気のようなものが腰から背中の筋肉の下側を上向きに上がって首まで達する。その上でうまく首の位置を調整すれば玉枕くらいに達するのだが(以上、すべて今は身体の左側ラインで感じている)、そこでまたまた会陰の位置を調整したりして微妙に調整すると、会陰から祖窍(私は頭部の中で目と耳の交差点の位置と感じている)が直接、筒状の柱のようなものでつながる。本来、眼はこの位置にあるべきなのだろう、という感覚。この”柱”をもう少し上に引っ張れば頭頂の百会に達する(が、現状は祖窍までつなげておくのがやっと。百会につなげるにはかなり意識をし続けなければならない。)
一体身体の中で何がどうなっているのか?感覚としてははっきり捕まえられても、これを説明するのはとても難しい。同じような感覚を体験している人とは拙い言葉でも分かり合えるが、感覚を体験したことのない人にそれを”分かってもらう”のは不可能。でもちょっとした雰囲気は伝えることができるのかもしれない。
この2、3日、上のような感覚をもたらすための原動力となる腹部(腰、腹、骨盤を含めて)の状態だけでも説明したいもの、と、筋肉や骨についていろいろ調べていた。
筋肉でいえば、感覚的には、様々な筋肉とその拮抗筋が同じくらいの引っ張り合いで釣り合うような微妙な姿勢を保持しているよう。
それにしても腹の中のちょっとした締めの正体は何なのだろう?
腹部も背中側も張り出た状態での引っ張り合いがあるのだが、それは腹直筋と脊柱起立筋のような身体の表面に近い部分の筋肉による引っ張り合いというよりも、もっと身体の奥(内側)の方での何かの引っ張り合い。タントウ功などでしばらく時間をかけていけば、その引っ張り合いする物(?)どうしの距離がますます近づき、それにつれ、身体の表面から次第に内側に向かって”松”(力をいれる必要がない)する範囲が広がってくる。・・・それがいわゆる丹田なのでは、と思うが、達人になればなるほど丹田は小さく点にまで凝縮できるよう(冯志强老師の動画を見るとそう思う。大小自由自在。極小になるからこそ極大にもなれる)。
今日は生徒さんの中に鍼灸、マッサージ、カイロプラクティスをすべて行う施術者がいたので早速筋肉のことを質問。私はタントウ功の姿勢、即ち太極拳の基本姿勢が大腰筋を時に鍛えていると思ったので、果たしてこの姿勢は大腰筋を伸ばしているのかどうか、そのあたりを聞いてみた。私の感覚では少し伸ばしていると思っていたが、彼は、これは縮める姿勢だという。彼が言うには大腰筋は股関節を屈曲させる筋肉だから、それを伸ばすには骨盤を後傾させてかつ脚を後ろに伸ばす(前後開脚のときの後ろ脚)のようにしなければならないとか。私の中では大腰筋がお腹を膨らませているように感じていたけれども、彼からするとそんなことはあり得ないとか。
その後両者納得しないまま時間切れ。
議論は議論として、それよりも、彼自身で体感して自分でそれを説明してもらった方が早い。そこで私はかれの両手をもって二人で引っ張り合いの姿勢をとってみる。
そして彼に腹にポン!と力の入ったあの状態を探させるのではなく、まずは私が丹田に力の入った状態だの、わざと会陰を開いてしまって脚で立った状態だの、胸に気を上げた状態だの、様々な”理想的でない”立ち方をしてみる。
私が少し力の所在地を変えると引っ張り合いをしている手を通して彼もそれに気づく。
会陰から力を抜いてしまえば私の力が減ってしまったのがすぐに察知できるし、腹ではなく胸に気を上げてしまえば、彼としては私をちょっと押してやろうかな(私がすぐに倒れてしまうのは明らか)、と感じてしまう。唯一、私が丹田に落ち着いているときだけ、彼としては私に何もしかけられない、という感覚が発生する。これは眼を閉じていたってできることで、初心者でも身体のこのような感覚はすぐにとることができる。
その時に、何故私の力が抜けてしまったりしているのが分かるのか?と逆に聞いてみると、皆、何故か分からないけど分かってしまう、とそれはそれで不思議そうだ。
今日の彼には私が少しずつ姿勢を変えて引っ張り合いをした後、逆に彼の方に私のやったことの真似をさせてみる。そして、私が何の手出しもできないようなスキのないところに立ってみて、と言うと、うまく丹田に落ち着く場所で立つことができた。そこが例の場所なんだけど・・・、ではこの状態で自分の大腰筋やら他の筋肉がどのようになっているか説明できるかしら?、と聞くと、彼は頭を使いだして、せっかく作った絶妙な姿勢を崩してしまった。
もう少し練習して自分でその状態を保持できるようにならないと、自分の身体の状態を筋肉や筋膜やらなんやらの言葉を使って説明できることはできないだろうなぁ。
私は内側の感覚が正しければ自分の練習としてはそれで満足なのだけども、人に伝えられないのがもどかしいので、やはり説明の仕方を模索したりしている。
大腰筋は起始が腰椎で停止が大腿骨の小転子(内腿)だから、脚を固定していれば命門を開けば(腰椎のカーブが少なくなるように腰椎を後方に引けば)筋は伸びるだろう。
そのうえで骨盤を後傾させることなく真っ直ぐを維持して、塔腰(腰を垂らしたようにする)をすると同時に、内腿を少し外旋させれば、筋の起始と停止部の距離が少し大きくなる(筋が伸びる)のではないかしら・・・。で、こうするとなぜお腹が張り出すようになるのかというと・・・、等々、まだまだ頭の中では議論が続いている。いっそ腹部のMRI写真でも撮れば何がどうなってるのかもう少しはっきりするのかも。
ともあれ、練習の時には感覚に徹し、議論は極力避けるべし!(自分自身への言葉です。)
2014/3/23 <鄭州から帰国して 「含胸」>
中国鄭州への旅から予定を早めて帰国。
PM2.5を気にして日本からそれ用のマスクを持参していったが、現地ではマスクをして歩いている人はいなかった。時にオートバイに乗った人が布のマスクをしていただけ。
私はマスクをしたりしなかったりしていたが、そもそも空気が乾燥していて砂埃が多い地域だから現地入りしてすぐに鼻が詰まるようになった。ほどなく喉が渇いて声が出にくくなり、そのうち風邪の症状がでてきてしまった。環境の変化に身体がすぐには適応できないよう。
公園では早朝からたくさんの人が様々な運動のグループを作って鍛錬をしている。私が参加した太極拳のグループは朝7時ごろから11時半ごろまで練習、そのあと昼食になる。
今回は2度目の参加で友人も増え、毎日代わる代わるご飯に連れて行ってくれた。私を「師姉」と呼ぶ年上の男性が多い中、食事の席では酒とタバコと議論が延々と続く。よく飲みよく食べよくしゃべる。酒の席でも”道理”について議論し合っているのが面白い。話が抽象的で大きく、孔子のこの言葉は・・・、いやいや老子はこう言った・・・、とか、まあ、私には半分くらいしか聞き取れないのだが、具体性を欠いた抽象論が好きなのはお国柄?(そういう教育がなされているのか?)と思ったりした。
私がPM2.5とかは気にならないのか?、と聞いたら、それはどうしようもなく気にしていても仕方がない、何事もあまり気にしてはいけない、気にしすぎはいけない、過ぎたるは及ばざるがごとし、中庸、寛容の精神こそが太極の精神・・・と話がやけに膨らんでいく。ふと私が小学生の頃、まだ子供の私に向かって明治生まれの祖父が大真面目でそんな話をしていたことを思い出したりした。
私達のグループではタントウ功をする人が半分としない人が半分。身体を動かす楽しさを求めてくる人はあまり立たずにゆっくり動いている(休憩しておしゃべりしている時間もかなりある)。ちゃんと身体の内側の感覚を得たい人たちはタントウ功をしてから動功に入る。この手の生徒さん達はとてもまじめで、私が前に立って24式をいっしょにやると、もう一回!、もう一回!、と最低3回はやるように頼んでくる。
その後各々しっくりしない箇所を自分自身で練習。一斉練習の時間よりもこのような個々人の練習時間の方が長い。老師が回ってきたときにアドバイスをもらたり質問をしたりする。
私は今回「含胸」と「斂臀」が甘いことをタントウ功で指摘されたため、24式の動作の中でもそれが崩れないようにできるかをゆっくり動いて試してみていた。
胸の気(空気)を腹に落とすための「含胸」はこれまでも随分注意されてきたところ。今ではある程度できていると自分では思っていたのに今回また直されて内心がっかり。でもまるでダメなわけではなく、”まだもっと(含胸を)できる”ということのようだ。
「含胸」の反対は胸を張った「挺胸」。
「挺胸」にすると胸式呼吸になり身体の重心が胸の位置に上がってくる。「挺胸」にすれば「でっちり(突臀)」になる。胸が出てお尻の出た状態(ハイヒールを履いて歩くマリリンモンローみたいな感じ?)では足の地面を踏み込む力が弱くなる(脚が浮いたようになる)。
反対に「含胸」で気(空気)をみぞおちまで下げて更に「斂臀」をすると気が腹部に落ちてくる(これに更に「松胯」(股関節を後方に折りこむこと)を加えれば、腹部の気がさらに下腹部、鼠蹊部あたりまで落ちる)。結局「含胸」は腹式呼吸には欠かせない要領だが、さらに一歩進んで、腹をいちいちパクパクさせずに吸っても吐いても充実させたままにする(会陰を引き上げたあたりで呼吸する)には以下に述べる「塌腰」や「斂臀」、そして「松胯」が必要になってくる。このように会陰を引き上げたり引き下げたりしてそのあたりに力を集め続けられて初めてその他の身体の部分が「松」するのだというのが最近の理解。
太極拳で力の源となるのは下半身。「踵から力が起こる」と言われるがそれは足裏が地面にドリルで捩じりこんだように食い込むことで力が生まれるから。それには「含胸」「塌腰」「斂臀」は欠かせない。
人に後ろから抱きかかえられ連れ去られようとするときに、それに抵抗するなら「含胸」「塌腰」「斂臀」をした上で股関節も膝関節も曲げてしまえば(つまりしゃがみこんでしまえば)相手にとってとても重い身体になる。もし反対に、「挺胸」「突臀」をすれば膝の裏も伸びがちになり、相手は楽々と自分を持ち上げてしまうだろう。
子供の時に体重を測るとき、できるだけ軽くしたいと背伸びをして計測したことがあった。背伸びをすれば軽くなり、しゃがみこめば重くなる・・・なんて有り得ないのだが、直感的にそう思うのは重心が上にあるか下にあるかの違い。
人は加齢とともにますます足が浮いてくるから(最後はこの大地から浮き離れてあの世行き?そういえば幽霊は足がなかった?あの世まで行かなくとも、精神を病んでいる人は足元がおぼつかないし、どっしり歩く酔っ払いもいない。いずれも気が頭の方に上がってしまっている状態。気が上がったままでは心身を病んで最後はあちらに逝ってしまう。放っておけば水蒸気のように気は上に上がるから、意識的に下に引き下げて全身を循環するようにもっていく)、常に意識して地面を踏み込んでいなければならない。足裏がべったり地についてしっかり踏んでいてこそ“根”ができ、ちゃんと立つことができる。
河南省の鄭州から北京に戻ってくるだけでもかなり都会に来た気がしたが、東京に戻ればそこは温室のような安心感。動物の国から植物の国に戻ってきたかのよう。
なお帰国途中もずっと「含胸」を練習していたら、胸の気が前肩の奥深くを通って腕に流れ込んでいくのを察知した。胴体と四肢をつなげる時の関所が股関節と肩関節。前肩(肩甲上腕関節)を通過させる、つまり、肺経の中府、雲門を開けるには、「含胸」をして気を身体の奥(背中側)の方に圧し沈めて手の方へ流れるようにもっていけばよいよう(それにしても前肩を開けるには肩甲上腕関節の下をくぐり抜けるように気を通さなければいけないようで、私にとっては前肩がこんなに奥にあったのか~、と初めての感覚と驚き)。こうすることで前肩がちゃんと開き胴体と腕が分離する。
手をよく使う仕事の人の中には腱鞘炎やイップスを患う人も多いが、肩関節を開けて胴体の力がそのまま手先に届くような動かし方をすればそのような症状は出てこないだろう。前腕や手、指などの末端のみで力を使うのが筋や神経系統の損傷につながる。”たとえ指一本を動かすにしても身体の中心部(丹田)とつなげていなければいけない”、という太極拳の教えは全くの抽象論ではない。末端の動きが中心部で統御されていて初めて正しい身体の動きが可能になる。そのためは、繰り返しになるが、中心から末端にいく過程にある「関所」、即ち関節を開けなければならない(”関節を開ける”という言い方は正しくないのだろうが、どう表現してよいか分からないので今はとりあえずそう表現します)。
私がピアノの詰め込み練習をしたときに手首の小指側(小腸経の陽谷穴あたり)に痛みを感じるようになり、その原因が右肘内側の力(肺経の尺沢穴)をうまく使えないことにあることまでは分かったのだが、ではどうやったら内肘が使えるようになるのか方法が分からなかった(ただ揉んだり回したりしていた)。今になって肘内側をちゃんと使えるようにするにはまずは前肩を開けなければならないことを認識。そしてそれには「含胸」が大事な要素になっているよう・・・このあたりを意識してしばらく練習してみたい。
2014/3/12 <4スタンス理論から考える>
先々週の週末に『全力教室』というテレビ番組で廣戸先生の『4スタンス理論』を紹介していた。以前から話題になっていた理論のようだが、私にとっては初耳。
人の身体のタイプを4つに分けて、その特徴にあった身体の使い方をするように教えていた。ちょっと身体の動かし方を変えてあげるだけで、50メートル走がその場で1秒近く早くなったり、逆上がりができなかった人があるコツを教わることで逆上がりに成功したり、とても説得力のある番組になっていた。
4スタンス理論でいう4つのタイプは、重心が足裏の前後、内外のどこにかけているかで決まってくる。そしてそれを決定するための様々な実験をみていると、足裏の前→任脈、足裏の後ろ→督脈、足裏の内側→手足の陰の経絡、足裏の外側→手足の陽の経絡、という対応関係を見てとれる。番組の中で実験に参加した人たちは、「え~、なんで~?」という反応を頻繁にしていたが、経絡の大雑把な走向を知っていれば何も不思議なことはなく、すべて納得ができる。
足裏の重心が前(脚掌)にあるか後ろ(踵)にあるかは、しゃがんだ時の体勢で判断していた。
前重心の人は、しゃがみ始める時にまずおしりが後ろに出て、そのままおしりを突き出したようにしゃがんでいく。それを4スタンス理論では、「みぞおち、膝、足裏(私は脚掌だと解釈)の3点が一直線に並んで軸を作っている」と表現。
他方、後ろ重心の人はしゃがみ始める時にまず膝を前に出し、それから腰を丸くしてしゃがんでいく。できあがり図は「首、腰(股関節と解釈)、踵」が一直線に並び軸を作ることになる。<以上、冒頭の写真を参照>
このような2タイプのしゃがむ姿勢を見せられると、すぐにタントウ功を思い出してしまうのは私の性。どちらもタントウ功としては×。自然にしていれば人間はこの2タイプに分かれるというから、ということは、タントウ功はとても不自然な姿なのか???
確かにふつう何も先入観なく中腰にさせれば、上の二つのどちらかのタイプになる。
でっちりタイプは胸が張り出ていて一見強そうにも見えるが往々にして腰痛もち(腰椎が伸びない)。西洋風の良い姿勢。上半身は上半身、下半身は下半身、とはっきり分かれている。骨盤の傾斜でいえば、しゃがむ動作とともに骨盤が前傾していく(黒人風)。
腰が丸くなるタイプは胸が凹んでいて少し弱い印象。しゃがむのは得意で和式トイレはへっちゃら。ただ身体前面(任脈)の発達が悪いので腹筋が弱く、そのために腰に負担がかかってしまうことがある。骨盤は後傾(お尻がすべったようになる、日本のおじさんに多いタイプ?)。
これを任脈と督脈の関係で言うと下のような感じになる。
でっちりタイプは任脈が発達して督脈が縮んだ感じ、お尻が滑っていって膝の出るタイプは督脈の伸びがよくて任脈が貧弱。(橙の線が任脈、水色の線が督脈)
そしてタントウ功をして最終的に目指しているのは、任脈も督脈も伸ばされて身体が”豊満”になった身体。身体の容積が最大になる。
任脈をとれば督脈を失い、督脈をとれば任脈を失い、というのが何も努力をしない、ある意味”自然な”形なのだろうが、これを放っておけば偏差はますます大きくなり、いずれどこかに支障をきたすようになる。
できるだけ、前にも後ろにも偏らない、中正の姿勢をとるというのが東洋的考え方。
前後の偏りを、前後の距離を縮めて、あたかも、任脈と督脈を合わせて一本の線にするようなことをすると(つまりただの直立姿勢)、結果、マッチ棒のような身体になってしまい身体の内部に何の力も生まれない。力を出す姿勢をとるとき、だれでも少し腰をおとしてしゃがんだような形にするのは、それによって任脈と督脈の距離を開け、身体の容積を増やそうとしているからかもしれない。そして、身体の容積を最大限にするのは、任脈と督脈で前後に引っ張り合いをさせて両脈で一つの円を描くようにさせることで、このようにすることで丹田に力が発生し豊満な身体になる(こうしてやっと小周天も可能になる)。
上の4スタンス理論の言葉を使って言えば、でっちりタイプの人は膝の位置を変えないようにしながらお尻(股関節)の位置を踵ラインまで前に寄せてこなければならないし、膝が出るタイプの人は首→股関節→踵のラインをなるべく保持しながら膝を足裏まで(少なくともつま先まで)後ろに引いていかなければならない。どちらにしろ、その過程で腰や股関節周辺の筋肉、靭帯などが緩んでいかないと前後のバランスのとれた理想の状態には至らない。
前から後ろからとせめぎ合っているうちに、ふと下っ腹の奥の方に力が入っているのを感じられたらしめたもの。そこからはその感覚を頼りに姿勢を調整していけばよい。
4スタンス理論はその応用方向が、長所を伸ばしてパフォーマンスを向上させるというところにあるが、これに対し、太極拳では短所を少なくしていって偏りのない身体と動作を得ようとするところがある。個性を伸ばすかそれともバランスをとるのか、はたまた、いびつな天才を作るのか、あるいは円満な凡才を作るのか・・・?と、話は宙に浮いていきそうだが、ともあれ、西洋的な考え方と東洋的な考え方の違いを垣間見るようでいろいろ考えるのはとても面白い。
2014/3/4 <24式背面の動画>
動画のコラムに24式を背面から撮ったものを載せました。
生徒さんが24式を覚える時の助けになれば、と思いますが、撮り方、編集について試行錯誤の段階です。(→動画はこちら)
2014/3/3 <教える中での気づき>
人の身体は面白い。基本的な構造は同じなのだけどどれ一つとして同じものはない。
生徒さんを教えるということは自分と違った身体を扱うということ。
その中で気づくことは限りなく多い。
今週もいろいろあったが、以下自分のための備忘録。
1. 一連の動作を覚える時に必要とされる能力の多様さ。
①動きを真似する、そして②覚える。
①だけでもかなり大変。そこに②がはいると更に難しくなる。
年齢が高くなればなるほど覚えられなくなる。脳の働きの問題が大。
若い人でも覚えられない人はかなりいる。頭の使い過ぎ。腰(身体)で覚えられない。
2.息を腹まで落とし込む難しさ。
胸で息が詰まりそれより下にいかない。
・少し動いたりしゃがんだりして腰や股関節を開いてから立つと息が落ちやすい。
・「Where am I?」とか「Who am I?」と自分の身体の中で自分を探す、といった瞑想技法を使って意念、そして気を腹の方に下げていく。この方法はある生徒さんには有効だったが別の生徒さんには逆効果だった。
・排尿、排便の要領
・眠りにつくときの要領 吐いて~、吐いて~、吐いて~、吐く息で腹の奥を開けていく。最後までたどり着いたころには眠っている?
3.内胯と内足との対応。
4.18球の回転。
・どの部分の回転も大事だが、首の微妙な回転の大事さをある生徒さんの動きから学ぶ。首は固まっていてはいけないと痛感。
・肩と股関節は同じような造り。一回転させるのは大変。可動域を広げる必要あり。
股関節を開けば肩関節も開きやすい。連動。
・肘と膝。裏側をちゃんと使えるようにする。
・手首と足首。皆簡単に回せる、と思いがちだが、ちゃんと回すのは難しい。
・右お尻と左お尻は別人格。
5.深い弓歩の形を使って、脚ではなく腹腰で立つ感覚をとらえる。
その腹腰の感覚を保って、馬歩や、馬歩からの左右の体重移動をしてみる。
この方法はほとんどの生徒さんに対し有効だった。
6.2人で手をつなぎ、ほどよい引っ張り合いを保ちながら動く練習。
自分と相手の腹腰が引っ張り合いになっているような感覚。相手に合わせる練習をすることで自分の動きをコントロールする練習ができる。
とりあえずはこのくらい。