2014年2月

2014/2/26 <自分の練習メモ>

 

毎日の練習はとても地味なもの。

立って(タントウ功)、動功して、ゆっくり意識を通しながらの套路。

立った時に現れたその日の感覚を捕まえて、その後の動功や套路につなげていく。

 

毎日毎日身体の中に現れてくる”新たな”感覚を捕まえる。シーンと静かに身体の中を見続ける。

あれっ?こんな場所があったの? なんていうところを突き詰めていく。

それは案外身体の表面に近い部分であることもあるし、表現の難しいような身体の奥の方の感覚のときもある。

 

 今日は日差しがかなり強かったからか目をつぶっていてもとてもまぶしかった。太陽の位置と自分の眉間の位置をつなげておいて光線を眉間で吸うようにするとそれに連動したかのように、耳も鼻も喉も臍も会陰もみな”吸った”ような感じがでてきた。

 吸うとか吐くという言葉はスー、ハー、といった鼻や口をつかった空気の出入りを連想しやすいが、私の中で”吸う”というのは、身体の外から内側に(中心に向かって)引き入れる動きを指し、その反対に、”吐く”というのは身体の中心から外側に流れていく動きを指している。だから眼や耳、臍や会陰も吸ったり吐いたりできるように感じる。

 中国語で七窍(面部の穴、両目、両耳、両鼻、口) 九窍(七窍に尿道と肛門を足したもの)という言い方がある。”七窍通”というのを聞いたことがあったが、今日の感覚はまさにその通り。気を腹から全身に充満させて、あたかも自分がミシュラン人形(?)のようになり、そのうえで、うまく角度をとって姿勢を調整すれば、それらの”穴”は中で全てつながってくる。眼と鼻を吸ったようにすればそれらは眉間の奥でつながり、その点を少し後頭部の方に引けば、耳の奥とつながる。そこを下向きに進めば喉の奥の方につながる(喉は引いて吸ったようにしておく。天突のツボを引いた感じにするのが肝要)。喉を下に貫通して、それが胸を素通りできれば(ここが関門!含胸の大事を痛感するところ。私の感覚ではダン中のツボを喉奥と会陰を結ぶラインにまで奥に引きこんでおく)、喉と会陰につながる。ここで尿道から肛門までの距離を広げたようにしておけば(これは骨盤底筋の前後のストレッチ。普通は合わせて左右の内胯の距離も広げて左右にもストレッチさせておく。)、尿道や肛門の位置まで広げることができる。

自分の身体が風船のようになっていて、身体の内側が空気だけのようだと身体の表面の穴が実は内側でつながっている、という感覚がでてくるから面白い。

 

 昨日は何があったかしら?と記憶を探ってみる。

 そうそう、昨日は鎖骨の両端がかなり下がっていって腕が落ちてしまうのではないか・・・みたいなことがあった。腕が下がる~、というところで、ボキっと鎖骨と上腕の連結点あたりの関節が開いた。鎖骨あたりの力が緩み(松して)鎖骨が左右に水平のまま下に沈んだようになる。結果、肋骨もまとまり、胸の気がさらに腹に落ちる。腹に落ちた気を腰や会陰の力を動員してさらに引き下げお尻から脚へと落としていく。そのあたりで、環跳(臀部のツボ)が身体の内側から肩井(肩のツボ)を下に引っ張っているようなつながりを感じる。微妙に姿勢を調整してその連結の感覚を強めてみる。ああ、もっと後ろに重心をかけないとしっかりつながらない・・・ともぞもぞしてみる。ほどなく上半身が前傾姿勢から真っ直ぐ立ちあがってくるようになる。気が腹底に沈めば沈むほど、自然に背骨は立ち上がってくる。自分はただ背骨に寄り掛かっていればよい。尾骨にまで達すれば上は頸椎まで立ち上がる。

 ああ、本来「虚領頂勁」はこうやって出てくるのね~、とか、師父が良く言っていた「下一寸、上一尺」という言葉が頭ではなく身体で実感できる。(このあたりの細かい説明は省略。別の機会に説明に挑戦したいところ。)

 

 じゃあ、一昨日はなんだったけ? ・・・と本来は毎日メモをつければよいのだろうけれど、最近眼の保養のためにパソコンに向かう時間を減らしつつあります。

 記憶は流れてしまうから少しでも記しておいたほうが良いとはいうけれど・・・。実際私自身、自分で書いたものを読み返すのは皆無なのだが、書く作業中に頭が整理されるというメリットがあるよう。なんでもサボらず継続したいもの(自分に喝!)。

 

 

2014/2/21 <雪の中での歩行からの気づき、股関節の回転>

 

大雪から一週間近くたったが、いつもの公園は雪害で立ち入り禁止の場所が多くなっている。今回の雪は重かったためたくさんの木が折れてしまっていて公園内ではその片づけ作業が行われていた。

それでも練習できる場所を探して皆で練習。

気温は低いが日の光は確実に強くなっている(紫外線に注意しなければならない時期に入った感あり)。

前回メモに書き損ねた雪道散歩での気づき。

50センチ近く積もった雪の中を長靴を履いてざっくざっく歩いた、というのは恐らく私にとっては人生初めての経験。足が雪に埋もれる~!なんて内心ワクワク叫びながら、誰もいない、誰の足跡もない場所を進んでみた。すぐに身体が暖かくなる。ただ歩いているだけなのに抵抗が多く運動量が格段に増えている。 

 

 ほどなく、下半身の動きが通常と違うのを感じる。お尻の回転が顕著。正確には、腰骨から下弧を描いてお尻に達しそこから上弧を描いて腰骨に戻る、というような回転(上の写真の緑の○参照)。

 中でも、雪に埋まった後ろ脚を引き上げる時の腰の動きが面白い。

 長靴がほとんど埋まってしまっている状態から後ろ脚を引き上げるには、長靴が抜けないよう脚をなるべく真っ直ぐ引き上げることが必要になる。一度脚を胴体に引きつけてからやっと前に振り出すようになる。普段の歩行のように後ろ脚を引きずったように前に振り出すことができない。

 これは腰に効く!背中側の腸骨と肋骨に挟まれた部分、まさに太極拳で最も大事と言われる所謂”腎”の部分の動きがよく分かる。ここ(帯脈、ウエスト部分)は背骨以外に骨がない弱い部分。身体を支えるにはしっかりした肉(筋肉)と腹圧が必要になる。腹圧をかけずに細~いウエストにして腰を捩じって使っていれば腰を痛めるのは時間の問題。腰(背骨)はその周囲の筋肉や身体の内側からの膨らみ(腹圧)で守る必要がある。そうすると、よく通販で売っているような骨盤補強ベルトやコルセットのようなものを自分の身体で作り上げているような感じになる。腰が強くなること間違いなし。

 

 後ろ脚を雪の中から引き抜いて身体に引きつけ、それから前に振り出す、という一連の動作を繰り返していたら、次第に頭の中にハードルの選手の姿が浮かんできた。

 ハードルを跳ぶ時、即ち、後ろ脚を前に振り上げる時、下から上にキックするように振り出す人はいない(ハードルを蹴ってしまう!)。後ろ脚は直線で前に蹴り上げるのではなく、いったん後ろに回して股関節を回転させてから前に振り出すはず。つまり、身体を横からみると、常に上の写真の緑の○が回っているように動いている。

 とりもなおさず、これは普段私達がやっている『双手揉球』の時の腰や股関節の動き。『双手揉球』の逆回転(前回し)は進歩(前進歩行)につながるし、その順回転(後回し)は退歩(後ろ向きの歩行)につながる。腰と股関節の動きが脚の動きを引き出すことになる。

 

 普段の歩行では脚はただ前後を直線的に動くだけでどこにも股関節や腰の回転を感じることはあまりない。が、何かしら負荷がある状態だと本来の動きが浮き出てくる。

 股関節はお尻の横の奥にあるので、股関節を回して歩くとあたかも骨盤の横にあるタイヤが回っているような感じだ(車軸にあたるのが股関節)。そのタイヤは大きくすれば右腰・右股関節を中心とするならば容易に右腕、右脚を巻き込んだ大きな車輪になる。左側も然り。すると身体は左右に2つのタイヤがあるような構造になる。

 これは人間の動作の最も基本である歩行法でもあるし、太極拳の最も基本的な勁の構成にもなる。ゆえに、股関節と腰は固めず、常に使えるようにしておかなければならない。

 

 ハードル競技を思い出したので、下に集めた写真を張り付けておきます(Dayron Robles, Aries Merrritt, Brianna Rollons )。お尻がかっこいい!

 

 

2014/2/17 <自然に向かい合う、気づき、そして雑談>

 

先週末はまたまた大雪。不便なことも多いが気づきも多々ある。

 

 せっかく長靴を履いたのでわざと雪の深いところを選んで散歩してみる。

 40センチから50センチ積もった誰も通っていない道をザクザク進んでいく。小高い丘の上で木々に囲まれているような場所だと、このまま遭難?とか、ここで倒れて眠ってしまえば凍死?とか、頭の中は変なドラマの筋書きを始めたりする。とは言っても家の近辺を歩いているだけなので実は何の危険もない。

 5分、10分歩いているうちに妙に楽しくなってくる。身体の奥からエネルギーが湧いてきてハイになってくる。

 と、ふと冬のオランダで自転車通勤していた時のことを思い出す。環境保護の意識の高いオランダやドイツの外交官は零下になっても自転車で会議場に来ていたが、丸テーブルにみな着席したときに、自転車でやってきた私とそれらの国の外交官の顔が耳まで真っ赤で、お互い目配せして笑っていた。仕事を始める前に既に大仕事を終わらせたような状態。心も体も最高に活性化している。

 もともと私はアウトドアのスポーツには興味がなかった。若い頃アウトドアスポーツの好きな主人に連れられて山登りやダイビング、スキーに行ったが、どれも好きにはなれなかった。過酷な自然に対峙するよりも、卓球などの対人競技で心理戦を繰り広げる方が楽しかった。所謂”自己との戦い”といった忍耐と通じるようなものは生理的にうけつけなかった。

 

 今の師父について太極拳を屋外で練習するようになったのは私にとっては大きな転換点だった。毎日言われたことをただやるのに精一杯で、外だの中だのを気にしてられなかった。いつの頃からか気が付いたら屋外が好きになっていた。外界、自然には人間の頭では計算できないような変化が毎瞬毎瞬起こっている。普段の生活を送っているとそんなことに気が付かない。いや、単に私が知らなかっただけで、農家の人や漁師さん、自然を相手にしている人にとっては当たり前のことなのかもしれない。鳥の活動を観察しているとその動きが外界の変化の移り変わりに即対応していることがよく分かる。・・・”自然”を視野にいれず生きていたとはなんと視野の狭かったことか。そして今もまだまだ狭い世界で生きているに違いない。

 

 自然の中には勉強の材料が無限に隠れているがそれを”見る”にはそれなりの眼が必要だ。無意識に見ていれば、ああ、雪が降った、ああ、この花はきれい、ああ、紅葉になった、と表面の浅い認識に終わり、何も自分を変化させるような新たな発見には結びつかない。同じものを見てもそれを刺激として自己の中に何か新たな回路を作り出せるか、それがどれだけ生きても進歩のない人間と進化し続ける人間の差なのだと思う(折よくスキージャンプの葛西選手がまさに”進化し続ける男”と報道されています)。

 

 太極拳の練習で最も私に有益なのは”気づき”を気づく(?)眼(能力)を開発してくれること。

 実の所私にとっての身体の開発は、健康の維持とか体力の増強よりも、洞察力を高めるための土台となる身体作りのように思う。頭と身体はつながっている(これも当たり前。だがその含意は深い。脊椎の形、髄液の流れを思い出すのは理解の助けになる)。極め付けの洞察力が必要となる究極的な問題(自分は何故生きているのか?自分の存在意義、など)に取り組む際には、所謂”頭”だけでは堂々巡りになって行き詰まってしまう。故に古来から覚者と呼ばれる人たちは身体と頭を一体化して丸ごと開発してきた。

 私はほんの入り口にいるだけだが、それでも身体の感受性を高め、それにたいする適応能力を高めることなどによって、以前よりも気づくこと、見えることが多くなってきた。これがずっとずっと進めばいつか究極の問題も問題ではなくなってしまう(自分がその問題より上にたって見下ろしたようになる、つまり包み込んでしまう、すると問題自体が消滅してしまう)のかなぁ、とぼんやりと予感。

 

 本当は雪道で歩いた時の足腰の使い方について気づいたことをメモに書きたかったのだが、話が脇道にそれてしまったので今日はこれで終わり。

 身体のメカニズムの話についてはまた後日。

 

 

2014/2/10 <呼吸にまつわる話>

 

 自主練習。

 大雪の後の練習場所探しでうろうろした後、最後は幼稚園に接する公園に落ち着く。

園庭では雪遊びをする園児がキャーキャーはしゃいでいたが、もう少しして昼ごはんの時間になれば静かになるはず、と立ち始めた。

立っていて一番困るのは子供達が「あの人、何してるの?」と騒ぎ始めることだが、今日の園児たちは雪に取り組むので精一杯で私に注意を払うこともない。内心良かった~、と安心して立っていた。

 そのうちご飯の時間になり園児たちは先生の号令で園舎に入り始める。それにしてもギャーギャー騒ぎ続けている。先生方はずっと声を張り上げている。「靴下ぬれちゃった人~いませんか~?」とか「上着はここに欠けて下さ~い!」とか「かまくらを壊しちゃったひと誰ですか~?」「××君、それはいけません」・・・ご飯が始まっても園舎からは園児や先生たちの様々な声が聞こえていた。それはそれで幸せな光景。

 

 1時間弱立ってその後ふと最近生徒さんとの間で話題になった呼吸について気づくことあり。園児たちのギャーギャー、一語一語一生懸命発声するあの姿はとりもなおさず腹からの発声。それは息が腹まで達しているからこそなせる業。大人では歌舞伎役者のような人達ならともかく、日常生活であのように一語一語腹から声を出しておしゃべりすることはない(そんなことをしたら非常に煩い)。

 

 站椿功の時にどんな呼吸をするのか?と何度か聞かれたことがあるが、普通は「自然呼吸」とだけ答えている。腹式呼吸ですよね?と念を押されたりするが、そうです、と答えたところですぐに”自然な”腹式呼吸をできるような人はめったにいない。順腹式なら吐いた時に腹が凹んで吸った時に腹が膨らむ、逆腹式なら吐いた時に腹が膨らんで吸った時に

凹む、と頭で知っていることを身体にやらせようとすると大半の人はこんがらがってくる(少なくとも私はそう)。呼吸は意識と無意識の境目にあるようなものなので、意識的に操ろうとすると不自然になりやすい。

 

 「自然呼吸」と言われるが、その意味しているところは、ゆっくりとした、細く、長く、均一な、漏れのない(音や風が外に出ていない)呼吸だ。鼻から下っ腹の奥まで細いストローが貫通していて、その間を息が行き来しているように、と言われることもある。うまくやれば次第に眠っている時のような状態になる(心拍数も呼吸数も減っていく。)。

 が、このような状態はそれほど簡単に作ることができない。心拍数を意識的に下げることは非常に困難だが、呼吸を意識的に深く静めていくのにもそれなりの身体の準備がいる。眠りにつくのと同じで気合いだけではどうしようもできない。

 

 達人ならともかく、普通の人が腹で深く静かに呼吸するには安静な環境が必要。気持ちを静めて余計なことを考えない。そして身体の外形(姿勢)もそれに適したものにする。沈肩、含胸、束肋などは胸に息(気)を溜めさせず下に降ろさせる要領だし、塌腰、 松胯、曲膝などは、胸から素通りして落ちてきた空気を溜めるための下腹部の空間を開ける要領だ。棒立ちで胸を張り出して立っていたら(所謂学校で習う「気をつけ」)本当の深い腹式呼吸はできない。

 

 私見だが、太極拳の練習であまり呼吸についてうるさく言わないのは、外形や動作、意念がちゃんとできれば自然に呼吸はそれについてくるからだと思う。

 特別に順腹式とか逆腹式とか学んでいなくても、ツキ(打)をやれば自然にその時に腹から息が出るのが分かるし、推手など相手のいる練習をすればあからさまに口や胸で呼吸をしている場合ではないことが分かる(スキだらけになる)。

 

 普段あまり呼吸を意識した練習をしていなかったが、生徒さんに質問されて自分の息を観察してみると、タントウ功、動功、套路練習の時、どれも吐いても吸っても腹が膨らんだ(帯脈が張り出した)状態だと分かった。調べてみると、それは順腹式でも逆腹式でもなく、密息というものみたいだが、ずっと腹圧をかけたままにしておくのは日本の武道では当たり前だし、スポーツの世界でも普通にやっていることだと思う。呼吸にともなって腹・腰に力が入ったり抜けたりしていては困るのだ。

 吐いても吸っても腹圧がかかっているというのはどういう状態か?例えば、武士が重い刀を差した帯がズレ落ちないようにするため常に腹圧をかけていた、とか、剣道の時に垂れを常に腹を膨らませて押しておく、といったことのようだ。これによって腹腔が膨らみ腸腰筋や大腰筋が使いやすくなる、という説明まである。

 

 私は常々生理現象の中に様々な息の使い方があると思っていたが、吐いても吸っても腹圧がかかった状態が顕著なのは排便の時だ。出そうとしている時の身体は息を吸っても吐いても下向きに圧力をかけ続けている。もし吐いた時だけ下に押して、吸った時に腹圧を抜いてしまったら、便が行ったり来たりしてスムーズに落ちていかない(・・・と思うのだが他人に確認したわけではない。)

 その他、くしゃみを思いっきりすれば帯脈を押し広げる吐息の感覚が分かるし、あくびをおおげさなくらい大きくやれば、のどから腹のそこまでが筒状につながっているのが感じられる。おならも控えず積極的にすれば腹と肛門のつながりが分かるし、タントウ功の形で腰を前を出さずに(腎臓の力を借りずに)排尿をすれば任脈を下向きに通す練習ができる(尿の勢いをつける練習をする)。

 呼吸の浅い人は声も小さい。日本人は総じて声が小さくカフェでおしゃべりをしていると向こうの離れたところにいる外人さんの声ばかり聞こえたりする。あまりうるさいのもどうかと思うが声を腹から出すことも少しは気にした方が良さそうだ。その点で、何の抑制もなく大声ではしゃぎまわれる幼児の頃が懐かしい。

 

 

2014/2/4 <外気、嗅覚、触覚>

 

今日は立春。

立春は二十四節気の第一番目。一年の始まりという意味で練功もいつも以上に気合いを入れてやるように言われている。

 

今日は突然気温が下がり天気も悪くなった。一般練習を明日に変更して今日は自分一人で家の庭で練習した。

少し雨が降っていたので庇の下で立つ。最初は寒いかなぁ、と思ったが、外気に触れると身体が喜ぶ(開いた感じになる)のが分かる。きっと細胞が活性化しているのだろう。室内で立つと丹田に集中しやすい反面、身体(細胞)が開きにくい。これに対し屋外で立つと丹田への集中力は多少減るものの、身体(細胞)が自然に開いて呼吸を始める。身体主導になるには外気に触れるのが一番。

 

家には犬一匹と猫二匹がいて共に寝起きしている。彼らは多少ペット化しているが人間よりは自然に近いので彼らから学ぶことも多い。

朝一番、彼らがすることは庭に出ること。窓を開けてあげると犬猫共々クンクンと鼻を動かしてそれから勢いよく飛び出していったりする。でも外が荒れていたりすると、クンクンした後で尻込みして外に出るのを止めたりする(それを無理やり後ろから庭に押しやると窓の外から「にゃ~ン、入れて~」とか言うから、やはり本能的に良くない天候というのがあるのだろう)。私達人間はそうあからさまに外の匂いを嗅がないが、彼のその姿を見る度に、そうそう、そうだったよね~、と一つ忘れてしまった人間の大事な感覚を思い出させてもらう気がする。

 

外気に接した時それを知覚するのは嗅覚と触覚。

嗅覚は人間の最も退化してしまった感覚であるが、嗅覚は直接脳に入っていくから非常に影響力の強い大事な感覚だ。だてに鼻は顔の真ん中についているわけではない、鼻で察しろ、と言っていた大師もいた。時にタントウ功をしていて眉間から鼻先まで力が通る感覚があるが、眉間は”鼻の付け根”で、鼻の付け根から先端で内臓全てを表すというから、鼻筋に気が通れば内臓全てが健康な証拠だと言われたりする。鼻に少し力を入れれば胆が据わる。実際、鼻先にフンと力を入れれば丹田に力が入る(胸の気が腹に落ちる)。

 

触覚、皮膚感覚というのは全身くまなくあるはずだが、私達は普段衣服を着ていてその感覚は鈍ってしまっている。せめて夏は裸族で暮らすのが良いはずだが家族が一緒だとそれにも遠慮がいる。裸で立ったり練功したりすると分かるが、身体には実は上半身も下半身もない。パンツを履いて初めて身体が二つに分かれたようになる。裸なら全身は一つになる。いろいろ身にまとううちに身体はいくつにも分断される。

冬の練習は寒くない恰好で行うが、手袋は履かないことになっている。パリでの練習ではフランス人の生徒さんが何度注意しても手袋をしていた。零下でも手袋をしないのは何故かと師父に聞いたことがあったが、手が最も敏感だから(武術家にとって手の感覚は非常に大事)というような答えだった。が、最近私が気が付いたのは、衣服を着ていると外気に触れるのは顔と手だけで、その触覚によって脳に外の冷たさを伝えているという事実。それによって脳から様々な神経系統へそれに応じた働きを促すような信号が導かれる。身体の中では想像を絶するような複雑な信号のやりとりがあり身体はその信号に従って機能する。身体を鍛える、というのは何も筋肉をつけるとか開脚ができるようになるということだけを指すのではい。冷たい、熱いという単純な刺激から始まって次第に更に繊細な刺激に対する神経系統の働きを活発に流暢にする、というのが特に大事なのではないか。神経系統は鍛えなければ衰える一方。しかも手(指)の脳に与える刺激は身体の他の部分の非ではないから、脳を刺激するには手を鍛えるのが最も効率的に違いない。

 

と、庭で一時間ちょっと立って目を開けたら、竹林の向こうの家の屋根で猫が交尾をしていた。あれ~、立春に目出度い(?)としばし観察。寒いし雨が降っているのにすごいなぁ、と見ていると、ああ、上の雄は斂臀(お尻を下げている)、下の雌は氾臀(お尻を上げている)、陰陽関係うまくできていることを発見。すぐ終わるかと思ったらかなり長い時間やっていて、最後は雌が怒ったように雄を振り切って終わってしまった。何が起こったのか私には分からないが、ともあれ、動物の世界ではもう春なのだろう。

 

 

2014/2/1

 

 あっという間に一週間が経った。

 先週土曜日にこの世界での大先輩にあたる某老師の教室にお邪魔させて頂き、身体と頭がパンクするくらいの啓発を受けた。消化するのにかなりの時間が必要。興奮を鎮静化するだけでこの一週間が過ぎてしまったかのようだ。

 

 自分の問題は問題として、毎日のように生徒さんを教えている。新規の生徒さんもちらほら。するとやはり話は基本の構え、立ち方になってしまう。太極拳の武術としての技を学ぶ以前のところでいつも話が終始してしまうのだが、土台としての身体が作られていなければその先には進めない。

 一方、上の老師のところでは武芸としての太極拳をほんの少しだけ垣間見た。老師は「力学的なトリックだ」とおっしゃっていたが、”力を使わない”技であればあるだけ、そのためのより”高度な”身体能力が必要になることを直感的に感じた。

 自分のいつもの練習と某老師のところでの練習を比べることで、これまで漠然と「身体づくり」と考えていたことが、実は階層的な要素から成り立っていることに(やっと?)気づき始めたところ。

 以下、自問自答しながらの思考過程。

 

 「身体づくり」にまず必要なのは十分なエネルギーとパワー。ふらふらしていては武術どころではない。これは生きるための大前提。

 そして次にそのパワーを漏らさず全身に送り届けることのできるような”通り”の良い身体。血管と同じでエネルギー(力、勁)の流れる経路にも詰まりがあってはいけない。管(ホース)の中には空間がある。エネルギーの通る道(管、ホース)を作り出すにはそれなりの練習が必要。冯志強老師の言い方だと、まずは丹田を充実させ内気を養い、その充満した内気を使って経絡を通す。そして徐々にその道(管)を太くしていくような感じだろうか。
 ・・・このあたりまでは今まで意識的に練習してきたこと。でもまだ必要なことがある。
 それは神経系統の連絡の良さ、速さ。反応の良さ。いくらパワーがあっても、それを通す道を作っても、神経系統の働きが鈍かったり、繋がりが悪かったりすれば実際に作動させることができない。もしくは鈍重な動きになってしまう。認知してからの反応の速さ、このあたりも鍛えなければならないところ。
 ・・・そう考えると、あるシーンが浮かんでくる。
 レジでお会計をしている老人の姿。財布からお金を取り出すのも、おつりを財布にしまうのも、全てが遅い。急いでいるときは多少列が長くてもお年寄りのいない列に並ぶようにしている。加齢とともに反応は遅くなり動作も遅くなる。私自身は以前、レジ打ちを体験したくてクリーニング屋でバイトをしたことがあるが、その時はすべて客よりも速く動いて、客を待たせるどころか逆にこちらが客を待つようにするのを目標としていた。そのような目標を作ると脳と身体がフル回転し、単調な仕事も単調でなくなる(一人の客が来る毎に戦闘モード?)。
 ということで、俊敏さは太極拳の練習の大事な要素だが普段の練習ではまだまだそこまで達していない。このあたりは実践、対練が必要になるところだと思う。
 
 この神経系統の練習に加えて、最近気になるのは眼の使い方。眼と脳は密接に関係しているから、この使い方で脳の使い方、ひいては神経系統の流れも変わるはず。と、そんなことを考えていたら、今週、気が胸から下がらず、高血圧気味だったり、胸が苦しくなるといった症状のある生徒さんがたまたま3人いた。それらの生徒さんの共通点は、目が真っ直ぐ一点凝視したようになって止まってしまっていること。眼球が岩のように固まってしまっていては脳も固まり息も固まり、身体も硬直する。気が胸のあたりに貼りつき腹に下がらない。目の緊張をほどいて放松すれば身体の力も少しは抜ける。
 目の玉が前に出ていくように物を見ると視野が狭くなり、かつ、目だけに意識が集中し自分の身体全体に対する意識が減ってしまう。これとは反対に、目を後ろに引くように物を見れば視野は広くなるし、自分の身体全体に意識が回せるようになる。これは、例えば道を歩いている時にもし後ろから変な人がつけてきていたら、目は後頭部の方に引いたようになって後頭部から背中全体が”眼”になったかのようになる(背部がすご~く敏感になる)、そんな感じだ。
 站椿功の時も脳の中の眼の位置によって気の流れがいろいろ変わるが、一番前にあるときは印堂穴、後ろの時は脳戸か玉枕、真ん中の時は視床下部あたり(眼と耳の交差点)くらいかと感じる。中丹田が前丹田の臍と後丹田の命門の間を行き来するように、上丹田も身体の前後を貫通した線上を動くのかと面白く思う。
 ・・・いずれにしろ、目は心の窓、と言われるが如く目でその人の様々なことが分かる。練習を進めていくと次第に見方が深くなっていく。いずれは透視も可能かしら?

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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