2013年11月

2013/11/26 <松、『誰能松、誰能赢』、敢松、強さと松>

 

 松(song)というのは中国語で「力を抜く」という意味だが、太極拳は『松に始まり松に終わる』と言い方があるように、いかに”松”するか、は太極拳にとって最重要課題だ。

 

 昨夜の月曜夜クラスは比較的新しいOLの生徒さん達に交じって、私が以前教えていた教室から60代の女性が二人引き続き練習に来ている。私はよく人生の先輩でもあるその二人の生徒さんに他の生徒さん達の練習を手伝ってもらうのだが、そのうちのゴルフ好きの女性が「なぜ彼女は力が抜けないのかしら?」と一緒に組んで練習していたOLの生徒さんの問題点を指摘してきた。「力を抜けばよいのよ。」と何度も相手のOL生徒さんに教えてあげているのに一向に彼女の力が抜けないとのこと。(ちなみにゴルフ好きの女性は最近”放松”の要領が分かってスコアが伸びてきているそう。)

 実のところ、力を抜くのはそんなに簡単なことではない。

 実力に差のある二人が組んで練習をしている場合、実力の上の人は“放松”(fang song力を抜いた状態にすること)ができるが、実力の下の人は放松できない。逆に言えば、放松できる方が実力が上、ということになる。

 

 推手などの対人練習の際に言われるのは、『誰能松、誰能赢』(力を抜くことができた者が勝つ)というものである。この言葉を聞いて、「なぜ力を抜いたら勝つのか?」と疑問に思う人もいるようで、中国の太極拳関連の文献にもこのような質問が載っていたのを見たことがある。その時に一つの答えとして、”太極拳は力を抜くことでかえって強い力を出せるから力を抜いた方が勝つのだ”みたいな、実は何も答えていないに等しい回答のようなものもあったりする。

 しかし、ちょっと考えれば、上の道理はごく当たり前のことを言っているに過ぎないことが分かる。実力があれば自分より実力の下の相手に対しては力を抜いて余裕で対処することができる。小さな子供とボール遊びをする時に必死になるお父さんはいないし、ボルトーが私と徒競走をしたとしても彼が本気で走ることはまず考えられない。つまり力を抜くことができるという時点でそもそも実力が上。ならそれで勝つのは当たり前ということになる。

 

 推手の練習で面白いのは、相手と手を合わせて構えた瞬間(搭手:手を組み合わせること)、あるいはそこからちょっと動き出した瞬間に、二人の間の力関係がはっきり分かってしまうということだ。

 自分の実力が相手より上であれば、自分の身体の掤勁(ポンpeng:張り出す力)が相手を上回るため、ちょっと推せば相手の領域に入り込めてしまうような感覚がある。楽勝~、みたいな気持ちだから身体も力まない。

 逆に自分の実力が相手より下であれば、相手の力がすぐにでもこちらに押し寄せてくるような感覚があり、その侵攻してくる力を押しとどめようとして無意識のうちに腕や身体に力が入ってしまう。必死さからくる緊張。

 そして二人の実力に明らかな差がない場合は実際に動いて様子をみることになる。動いているうちに次第に身体に力が入ってしまってしまった方が劣勢となり、最後は負けることになる。実力が拮抗していればしているほど、その変化が現れるまでに時間がかかる。

 

 ”松”についてもう一つ重要な表現がある。それは”松”の前に助動詞の”敢gang”(敢えて~することができる、~する勇気がある)をつけて、『”松”のためには”敢松”が必要』というものだ。

 力を抜くには力を抜く”勇気”が必要、ということ。

 実際、力を抜く、ということにはどこか怖さがともなう。

 私達は力を入れることに慣れていて、力を抜くことには慣れていない。意識の使い方についても、緊張とつながる意識の”集中”は学んでいても、身体を開くことにつながる意識を”拡散”する術は学ばない(太極拳で学ぶのは意識の拡散。一人の敵に集中していては背後からやられてしまいます)。

 最近男性生徒さんに、私が腰に力を入れて双手揉球(基本動功の一つ)をした場合と、腰の力を抜いてした場合の相手に伝わる力の違いを感じてもらった。(腰の力を抜くと相手は私の力がどこにあるのか分からなくなり(のれんに腕押し、のような状態)、結果として技をかけるタイミングが計れなくなる。)その後、私がやったのと同じように腰の力を抜いて同じ動作をしてもらったが、その時彼が発したのは「こんな力を抜いたらどこで立っていればよいのか分からなくて、なんだか不安だなぁ。」というような言葉だった。 腰の力を抜いてしまうと身体を支えるのは会陰の引き上げからくる丹田の力だけになってしまう。逆に言えば、胴体を支えるだけの丹田の力がなければ腰の力を抜くことはできない。丹田の力が不十分な時に腰の力を抜いてしまえば、ただの腰砕け、腑抜けになってしまう。

 

 ”松”について考えて行き着いたのは、”松”できるためにはそれだけの”強さ”がなければならない、という結論。”力が抜ける”というからには先ずは”力がある”のが前提で、初めから力がなければ抜くような力もない。そう意味で、弱くて力がないのは”松”ではない(それは歇xie:だらだらと休んでいる状態)。

 抜く力がある程の有り余る力があってこそ”松”が可能になる。

 そう言われてみると、人に寛容になるのにも強さが必要。弱くなると自分を守るのに精いっぱいで人に寛容にしている余裕もない。人を愛するのも同じ道理。相手に対しいつも心を開いているには傷つくのを恐れない強さが必要・・・。

 と、話を広げていけばどこまでも広がりそうだが、ここで私が劉師父に太極拳を習った初日に言われた今でも忘れない言葉がこれだった。

 「太極拳を学ぶなら、まず強くならなければならない」

  心身ともに強くなりたいもの。

 

2013/11/21 <内気、内勁、力、太極拳の入門>

 

毎週木曜日昼休みに職場を抜けて公園に練習に来る男性生徒さんがいる。毎回走ってやって来て走って戻るのだが、かれこれ一年毎週欠かさず練習を続けている。

彼はもともと中国武術が好きで陳式太極拳も一通り習っていた。私の所に最初に来た時も外形的には武術の基本的な動きを身に着けていたが、やはりそれは筋肉や骨による”外”の動きによるもので、太極拳の醍醐味ともいえる『内気』による動きではなかった。

 

あれから一年、今日、初めて彼は『内気』によって動くことを実感としてつかんだ。それは彼だけでなく、私にとってもとても嬉しい出来事。

俗に”太極拳は入門するのに10年かかる”と言われる。そしてその”入門”したか否かは、この『内気』で動くことができるか否かで判断される。外形が太極拳の形でも動きが内側から来ていなければそれは真の意味では太極拳とは言えない。「内帯外」(内側が外側を動かす)というのが太極拳の動き方だ。

 

『内気』は『内勁』とも言われる。厳密に言えば『内気』は身体の内側にある(丹田に溜っている)力、『内勁』はその内気の身体の内部での流れ(丹田に起因する気のうねったような流れ)で、この『内勁』が身体の末端まで達し身体の外部に出ると(拳先や蹴りの場合の膝や足から出ると)それは『力』と表されることになる。

中国語では”力(ちから)”を示すのに『勁』と『力』という二つの漢字を用いる。一般的には両者はそれほど区別されていないようだが、太極拳では『勁』は『内勁』を意味し、これに対し『力』は、①上述如く『内気』もしくは『内勁』が身体の外部に現れた時のエネルギーの発現を示すか、あるいは②『内気』を伴わない(丹田に端を発さない)単なる筋肉運動によるエネルギーの発出を示す。

 

私達が日常生活で身体を動かす場合、それが単なる筋肉の『力』(上の説明の②の意味)によるものなのか、丹田から力を通した『内勁』なのかを意識することは皆無に近い。が、大きなものを動かしたり、推したり、何か負荷のかかる作業をする場合には、『力』を使うか『内勁』を使うかで身体にかかる負担が非常に異なってくる。思い荷物を床から抱え上げる時、丹田の力を使わずに直接腰の力で抱え上げれば腰を痛める確率はとても高くなる。もし丹田の力を腕、手に回して、その力で持ち上げるようにすれば大きな力も出るし、腰を痛める可能性は非常に少なくなる。

この二つの感覚の違いを知るために練習でよくやるのは、下に垂らした腕を上げる動作。その際私が生徒さんの垂らした腕を下向きに押さえておいて容易には上に上げられないように負荷をかけておく。私の力に対抗して腕を上げる時に、腕だけで上げようとする場合と、腹にフン!と息を落とし込んでおいてその腹の力で腕を持ち上げようとする場合、その両者の違いを体感してもらう。前者の場合は腹はぺったんこか、もしくは凹んだりするが、後者の『内気』『内勁』を使う場合には、ずっとお腹は膨らんでいるはず。これがまさに丹田力で、これが太極拳では常に腹が”実”の状態(気を落とし込んで膨らんだ状態)になっている所以(決して脂肪で腹を大きくするのではありません)。

 

以上、『内気』や『内勁』、そして『力』についてざっと書いたが、これらの違いをなんとなく感じ取るのは初心者でもそれほど難しいことではない。が、これをはっきり身体で感じ取って自分が『内勁』で動き続けられるようにするにはかなりの練習が必要だ。

今日の生徒さんが最初その感覚を得た時に、私がそのまま感覚を外さないで24式を続けるように指示したら、「え~、ずっとこのままやるんですか~?」と大変そうな顔をした。それもそのはず、全く気が抜けない(ずっと意識を集中していなければならない)し、動作が通常の倍以上スローになる。24式をこれで通すと(最初は)ものすごく疲れる。今までいとも簡単に身体を動かせたのが不思議になるほどだ。

ここに至れば太極拳の門をくぐったことになる。ここからはせっせと『内気』を育み、それを『内勁』として巡らせる練習を続ける。内気が増えれば内勁も強くなり、結果として身体も内側から鍛えられる。

 

太極拳の門に入ると練習は質的な変化を遂げる。門に入る前には水平方向に進歩していたものが、ここからは深化の方向(上下の方向)に向かう。

太極拳の師の役割は弟子を入門まで導くこと、という言葉がある。

そういう意味で一人の生徒さんをここまで導けたというのは私にとって格別な思いがある。

ここまで至るには私と生徒さんの二人三脚的な努力が必要だが、少しでも多くの多くの生徒さんを入門まで導いてみたいと改めて思った次第。(生徒さん、忍耐強く頑張って下さい。『内気』、『内勁』を感じるにはタントウ功は不可欠です!)。

 

 

2013/11/17 <今週の練習を振り返って>

 

日曜の終わりが私にとっての一週間の終わり。

ざっとこの一週間のレッスンを思い出してみる。

 

月曜夜のスタジオクラスは仕事帰りに来る女性がほとんどで残業による欠席もかなり多い。一度はこのクラスを閉めて午前中に変更しようかと考えたこともあったが、一部の生徒さん達の強い要望もあって続けることにした。

毎回必ず出席できるのは3名ほどだが、少人数な分、私も余裕をもって教えられる。教えていてリラックスできるのはとても良い。和やかな雰囲気で笑いが絶えない。今週は第6式に入った。

 

火曜日は私の一番古い生徒さん達が来るクラス。ただ彼女らは殿様出勤なので、その前に数人別の生徒さんを教えている。進度はまちまちだが、一緒に練習できる部分は一緒に練習している。今週は基本の『進歩』(前に歩くこと)をちゃんとやらせてみる。初心者はこの練習の意味がいま一つつかみずらそうだが、ベテラン生徒達はかれこれ4年経った今になってやっと意味が分かった、と言う。

『進歩』と『退歩』は太極拳の前後への進み方の基本だが、一見単純な練習の中にさまざまな大事な要領が含まれている。これはもっと練習させなければならないと思うと同時に、私も更に教え方を考える必要があると思った次第。

 

水曜日は授乳中のお母さん達だけを集めたクラス。常連さんも多い。今は隔週で開いているができれば毎週開いて欲しいとの要望がある。このクラスは基本練習のみで本当の太極拳は練習できないのだが、赤ちゃんや子供達を観察できる良い機会でもある。今回は授乳の姿勢が「含胸」の要領であることを確信。「含胸」については最近また理解が深まったが、近いうちにこれについて書いてみたいところ。

 

木曜日は鍼灸を学ぶ人達が多く集まってきて人数が多くなっている。いくつかの班に分けて練習しなければならない。同じ中医学に関連することとあって生徒さん達の意欲も高い。そんな人の”気”によってその場のエネルギーが高くなるような感じがする。私もそんな生徒さんとの交流でエネルギーが湧き出てくるだ。

 

土曜クラスは今週初めて鏡のあるスタジオで練習。自分が人とは違う動きをしていた、ということに初めて気づいて驚いた生徒さんもいた。時には自分を見て、そして人を見るのはとても大事。自分を客観的に見てショックを受けて(?)はじめて自分を改善できる。独りよがりが最大の敵。

 

今日の日曜朝のスタジオクラスは人数が多かった。隅っこの方で練習していた人は大丈夫だったのかしら?と少し不安が残る。初心者のグループには第5式を教えた。第1から第5式で一つの区切りだ。さてここまで覚えて一人でできる人はどれだけいることか?古い生徒さんにとは第17式と第18式の復讐。このあたりになると技の要素が多くなってきて実際の用法を知らないと恰好がつかない。第17式(退歩圧肘)は逆関節に肘技、そして足技が合わさって少し複雑。頭で理解できたら反復して身体にその動きを染み込ませる。套路をやりこんですべての動きを身体にインプットさせておくと、いざ!という時に身体が自ら反応して適切な技を繰り出してくれるということだから(・・・日本に暮らしていてそんな場面に遭遇するのは一生のうちに一度あるかないかだろうけれど・・・)、頑張って反復しなければならない。

 

スタジオクラスの後の今日の御苑クラスは、私が到着した時にはすでに4人がタントウ功をしていた。風もなく空気も澄み、紅葉のある穏やかな風景のなか静かに立っている。とても貴重なその静寂のひと時を私が現れたことで壊れてしまわないように、と気を使う。

私自身タントウ功で奥に入ってしまうと、生徒さんが後から来て挨拶をしてくれても挨拶を返すのが一苦労。井戸の深いところから地上まで上がってこなければならないような苦労がある。自分が奥深いところに行っていると、周囲の音は全部聞こえていても声を出すことはできない。声を出すためには外に出てこなければならないということだ。

今日の生徒さん達はそんな感覚を持っている(or持ち始めている)ようだった。日常生活ではなかなか味わえないこの貴重な感覚が人と共有できるようになるのはとても嬉しいこと。共感者、共有者が少しでも多くなるのはこの上なく嬉しい。これが教える醍醐味なのかもしれない。

 

来週もがんばろう~。

 

 

 

 

2013/11/13 <タントウ功の姿勢の作り方。立ち方の変化>

 

タントウ功についてはこれまでいろんな教え方をしてきたが、今回のパリでの練習をきっかけに少し教え方を変えてみた。以下その概略。

 

まずはタントウ功の入口姿勢への入り方。

①は通常のよくある直立姿勢。重心は足の裏の真ん中あたり(ズボンのすそが後ろに広がっているので膝が本当よりも曲がって見えるが実際はそうでもありません)。

 

②は重心を後ろに移動させた結果、つま先が浮きそうになったところ。重心が踵に移動している。

 

③はつま先が上がってしまわないように、と少し腰を丸くしてぐっと踏ん張ったところ。足が10/30 メモで紹介した土踏まずの上がった(サルのような?)形になっている。顎が自然に引けているのにも注意(顎が上がっていては腰に力が入らない)。

ここがタントウ功の入口姿勢。

 

以下その続き。

 

 

③は上に書いたとおりの入口姿勢。

 

④はそこからお尻(腰、背中)を下向きに少し被せて股関節回り(胯クワ)に”坐る“ようにしたもの(『坐胯』)。

 

この時②、③でつくった後ろに引いた会陰の位置を動かさないようにするのが大事。”坐った”時に会陰が前方に移動してしまうと膝も前に出てしまい太腿前面に力が入って脚が疲れてしまう(膝にも悪い)。①→②へと膝位置が後方に移動したら、それから後は膝位置を変えず、膝を支点として股関節(会陰)の位置を後ろにずらしていくのがコツ。

タントウ功をした時、太もも前面、内側が股間に向けて引きあがっている(伸びたようになっている)のが正しく立てているかどうかのメルクマールになる。太腿前面が太く短くなったように立っていては会陰が引きあがらないし脚が重くなって走ることもできない。

脚の前面は引きあがり、後ろ面は下がる(陰昇陽降)が正しい姿。

 

⑤は更に『坐胯』したところ。そうすると命門が更に開く(腰がさらに丸くなる)。

これが本格的なタントウ功の位置。この姿勢で丹田に気を溜めていく。

 

⑤の姿勢で数か月(もしくは数年)練習していくと、命門(後丹田)の気が上下に動き背骨を立てていくようになる。背骨の一節一節を開けて立てていき、最後は尾骨から頸椎までが⑤の命門の位置で並ぶようになる(⑥の写真)。これでやっと背骨が貫通したことになる。

 

なお、⑤の位置では命門が出て腰は開いているが、命門を完全に開くために背中を丸めたようにしているので肩甲骨あたりから上の督脈はまだ貫通していない。また、腰を丸めているために腹が凹みがちになり任脈が通りにくい。

⑤の姿勢で次第に気が下っ腹に沈んで下腹部が膨らんだようになってくると、任脈が下から開いていき腹が立ちあがっている。そして命門(腰)や下っ腹が非常にしっかりしてくると背骨がだんだん立ち上がってくるようになる。つまり背骨(尾骨から頭頂)までをまっすぐ立てるには強い腰と下っ腹が前提条件になる。

ちなみに⑥になると⑤ほどは命門があからさまに開いたようには見えないが気はちゃんと通るようになっている。これは⑤で充分に腰を鍛えた結果できること。

私のこれまでの観察によれば(日本で)太極拳を練習すると往々にして背骨を”真っ直ぐ”に立てることを強調するがあまり、⑤の過程を経ずに⑥の姿勢を作ろうとして腰が反って腰を痛めるか、あるいは膝が前に出て膝を壊すことになるようだ。⑤をしっかりやって徐々に⑥移行していくのが大事(私が現在タントウ功をしていても立ち始めて30分くらいは⑤の状態だと思う)。

⑤から⑥に達するのに毎日練習して数年かかるのが普通だが(私の場合は5年以上?)が、この過程も面白いので、ゴールを目指さず一歩一歩味わうのが良いと思う。『静心慢練』、焦らずゆっくり毎日少しずつやる。チリも積もれば山となる、みたいなところです。

 

以上。

 

 

2013/11/10 <気が上がる、気を下げる、意識の操作、見ると考える>

 

 実は先ほどまで私が最近ハマっている物理学の所謂究極理論と太極拳の関連について書いていたのだが、終わり近くになって手が滑り、何のキーを押したのか、すべて消えてしまった!自分としては大作(?)だったのでかなりがっかり。

 が、消えてしまったのも何か意味があるのだろう、と気を取り直し、とりあえず今日感じたことだけメモ。

 

 ”技”(技撃)ばかりを考えていると気が上がる。

 これがここ数日生徒さん達に技を少し多めに教えた私の気づき。

 ”相手をこう掴んで、こう力を入れて、こう引っ張る”だの、”力をこう溜めて相手のここめがけてこう打つ”だの、このようなことを”考える”こと自体気が頭に上がるのだが、それに加えて変な戦闘心のようなものまで湧き上がってくれば興奮が増しさらに気が上がってくる。この数日教え終わった後いつもとは違う疲労感があるなぁ~、と思ったら、原因はそこにあったようだ。

 静功や動功、套路などで一人で練習している時は、丹田を意識し続けることができても、いざ対人練習となると全ての意識が相手に向かってしまい丹田を内視し続けることを忘れがちだ。その結果、意の力で丹田に沈み込ませておくべき気が腹から上(頭、胸、腕)に上がってきてしまう。相手のスキを狙って打ち負かしてやろう、なんて考えればなおさらだ。

 (とすると、他人の目ばかり気にする人は気が上がりやすく、自分は自分と他人の目を気にしない人は気を沈めておきやすいのではないかと推察できる。)

 

 太極拳には気功の要素もあるし武術の要素もあり、中国でも先生によってその得意とする分野は違う。以前から感じていたのだが、技撃を教えるのを得意とする先生の中には息切れしているかのようなしゃべり方をしている人が案外いる。どうみても胸呼吸で、声に深み、どっしり感がない。太極拳の先生がなぜ?と思っていたが、実際自分が技を教えてみて、技の練習は気が上がりやすいのだということに気づいた次第。

 

 ”一人で練習しているときは相手がいるように、相手がいるときは一人で練習しているように”と言われるが、相手を前にして倒すか倒されるか、という状況の場合、何も考えず”無心”で対峙しない限り、気を腹に沈み込ませておくことはできない。いや逆に、丹田に気を沈み込ませてそこから意識を外さなければそもそも脳で考えることもできず、「どうやって技をかけてやろう?」なんてことも考えられないはずで、その場合は身体全てが脳として瞬時に判断を下して機能している。実際いざ本番、必死の戦いとなれば頭を使って考えている間はない。

 

 今日の練習である生徒さんが、「動功の際、気がどこにあるか考えながらやっています」と言っていたが、”考えて”いたのでは気がどこにあるのかは”見えない”(感じられない)。考えた時点で気は脳内に動き、その他の身体の部分の感覚は意識できなくなってしまう。意識を腹あたりに落としておいて初めて全身を見渡せるようになる。

 意識は非常に素早く動くが、一時に一か所にしか在り得ない。つまり、脳内に意識がある(=考えている)時は丹田に意識はない(蛇足だが、丹田の位置は小腸の位置。現在、小腸は第二の脳、とも言われたりしている)。このメカニズムを利用すると、脳に意識がいかないようにブロックしてしまえば、自然に身体の他の部分に意識が行き脳の変わりに動いてくれるようになる(ただ、身体では思考や計算はできません。)。

 

 意識が脳にいかないようにする最も単純な方法は目線の調整だ。脳が動く時には同時に目が動く。もし目を一点にくぎ付けしておくと、考えたくても考えられなくなる。古くから坐禅の時に鼻の頭を見るようにするという技法があるのも、目線を固定することにより脳の働き(正確には大脳の働き)を止めて雑念を浮かばせないようにするためだ。

 太極拳の時は丹田を”内視”する方法がとられている。これは目の奥で丹田を見るような感じだ。お腹が痛いときなどに痛みを身体の内側から探る際、誰でもやっているようなことだ。目は開いていても閉じていてもできるが、閉じた方がもっとよく見られる(感じられる)。

 

 ”見て分かる”(洞察する)というのは”考える”よりも格段に高い境地だ。西洋文化は”考える”ことを重視してきたきらいがあるが、インド・中国の古代文明から始まる東洋文化では”見る(ダルシャン)”ことが重視されてきた。見て分からないから考える、というのが本当のところで、見て分かれば考える必要はないということだ。

 分からないから考える、のだが、考えても分からないものはいつまでも分からず、その思考は延々と続く。その思考のグルグルの循環から飛び出て結論に至るには”見え”なければならない。これは一種のジャンプで、それまで使っていた脳の場所からの移動が必要だ。使い古された脳内の回路が別の回路にシフトする時、突然分かったりする。

 

 <以下参考がてらの記述>

 タントウ功は気を溜めてその気流(水流のようなもの)によって身体を内側から開いていくが、その気流が背骨から脳内に注ぎ込んでいくと気流の力で脳内が押し分けられるように感じられてくる。後頭部が広がった感じというのが気流が首から脳に入った直後の感覚だが、これが更に上がれば脳内全体の容積が大きくなったように感じられたりする。

 脳を開けると上に書いたような脳内領域での可動範囲が広がり、”見る”こと、洞察力が更に高まる。

 ただ脳内に気を上げるのは相当な注意が必要。気功法やヨガなどでも最初から会陰から百会(頭頂)を気で貫通させることを目標にして練習するところがあるが、丹田に力を保持しないまま気を頭に上げてしまうと根っこのない木と同様、身体が弱くなったり、現実から離れて精神がおかしくなったりしてしまう(精神病、発狂するのは気が全部頭に上がってしまうから。足取りがしっかりした精神病患者はいない。)

 ということで、太極拳の練習では気がどんなに上がっても意識は丹田に保持しておく。自ら気を上に上げるようなことはしない。丹田の気が満ち溢れれば気は自ら動く。

 練習すれば分かるが、気は放っておけば上に上がる。放っておいて下に下がることはない。上がるのが定めだ。そして面白いのは、命門から下に落としていけばいくほど、それに比例して気は背骨を上がっていく。気を命門から尾骨先端まで落としたころには、命門から百会がつながるという仕組みになっている。だから意識は命門から尾骨のどこかにいればよいことになる。

 

 話を考えることに戻すと、あの有名なロダンの”考える人”姿勢はものすごく悪い。あのような背骨の丸まった姿勢では気の脳への流動が遮られ、脳の可動領域も狭まり、結果としていつまで考えても大した結論には至らないだろうと思う。

 やはり欲しいのは冴えた頭。それにはしっかりした癖のない真っ直ぐな身体が必要だろうというのが私の持論だ。以前テレビ番組で林修先生が親の子供に対するしつけで一番大事なのは”姿勢”と言っていたが、私もすこぶる同感。そして姿勢の要となる背骨。背骨はは脳の一部といっても良いような根幹的な場所だ。この背骨を①柔軟に、かつ②真っ直ぐすることによって、気の流れを良くする。これがまさに太極拳の練習でやっていることだ。(なお①と②は矛盾しがち。ただ柔らかいだけでもだめだし、ただ真っ直ぐなだけでもだめで、①かつ②が必要。)

 現在高齢化社会がすすみ老人の痴ほう症などが問題になっているが、脳を働かせるトレーニングに加え、背骨を動かし背骨を通る気の流れを増やし、循環を良くするような練習も必要だろうと思う(私自身将来のためにもせっせと練習に励んでいます。)

 

2013/11/4 <バッターの構え 命門を開けるVSお尻を開ける>

 

連日生徒さん達を教える。

今回のパリでの練習でタントウ功につき更に理解が深まったため、早速生徒さんに前回書いた足の要領から入る新たな立ち方を教えてみる。反応は上々。足の陰脈(内腿側)を常に引き上げておくことにより会陰も自然に上がる。これに陽面(背中側)の気を落とすようにすれば丹田に気が溜る・・・と、このメカニズムについて少し丁寧に文章で説明する予定だったのだが今日はあまり頭を使いたくないので後回し。

今日はプロ野球の日本シリーズを見てバッターの構えが気になったのでちょっとした気づきをメモするに止めます。

 

タントウ功の大事な要領に①命門を開ける、というのと②胯(クワ)に座る、というのがある。「クワ」というのは股関節、胴体と脚の接合部である足の付け根一周を指す。

①の要領は言い換えれば帯脈(へその高さの胴体一周)を張り出すことだが、そうすれば帯脈より上の上半身と帯脈より下の胴体部分をつなぐことができる。腰が反ると帯脈部分で上半身と下半身の力が分断されてしまうから、これをつなぐための要領が命門を開く、帯脈を張り出す、という要領になる。

しかし①の要領を満たそうとするとお尻が内向きに丸まったようになってしまいがちで、そうなれば環跳のツボ(お尻のえくぼの位置)が開かず、脚の裏側(ハムストリングス)や側面(中臀筋を含む)の力が有効に使えない。太もも前面に力がかかりがちだ。ここで必要になるのが②の要領。尾骨を丸めず地面に対し垂直に垂らすことでお尻を開き太腿全体を使えるようにする。クワに座る、という時に特に大事なのは、お尻と太もも裏側中心線の接合点にある「承扶」というツボにひっかけたように座ることだ。ここのツボがちゃんと使えれば、(特に女性に多い)お尻と太ももの境目が曖昧になるようなことはない。

 

さて、日本シリーズ最終日の試合を見ていて、巨人の村田選手のバッターボックスの構えが②の要領を見事に体現していたのでそこから触発されて少し写真を集めてみた。

①の命門を重視した選手は腰の回転力に重点の置いた打ち方、②のクワに座る打ち方の場合は脚とお尻の力がとてもよく使えるようになる。

そして最も理想的なのは①と②の併用で、この場合は足→脚→お尻→腰まで上がってきた力を(ここまでは②の作用)さらに帯脈部分でターボをかけて(これが①の作用)上半身、腕に伝えることができる。そしてこれがまさに太極拳で必要とされている要領(例:第三式、第五式、第十式の最後の「打」。足踵からお尻に上がる勁、そこから腰に入り腰でターボをかける、という動きが顕著に表れる、)

 

 

 

左は村田選手。お尻が座ったようになていて、②の要領のお手本のようになっている。

右は坂本選手。身体の中心が帯脈位置にあり村田選手に比べ断然重心が高い。①の要領はそこそこで腰をひねって打つことになりやすいフォーム。若いうちは大丈夫でも歳を取ってくると腰が心配かも(老婆心ながら)。

 

下は王選手。①の要領と②の要領を見事に兼ね備えていたと今さらながら感激。これが可能になるのはこの深い角度をつけた一本足打法のおかげかもしれない(例、第三式途中の膝を上げるとともに左右に打つ動作。膝を上げることで腰を伸ばし命門が開きやすくなる)。

数十年経って王選手の振りを改めてみるとバット(腕)の力が良く抜けていて遠心力により非常に速くバットが振れているのが分かる。ボールがバットに当たった時点で力むのではなく(力でもっていくのではなく)、放松してボールの力を十分に引き込んだ上であたかもその向かってくるボールの力を利用して打ち返しているように見える。

太極拳では、力に真っ向から向かっていき、力と力が衝突する状態を「頂」と表現する。これとは反対にまず相手の力にそのまま従って(「随」と表現)相手の力を引き込んだ上で、力の方向転換(「化」と表現)させる、というのが太極拳での力の使い方だ。そういう意味では王選手の打ち方は太極拳的で、最近の野球選手が大リーグ選手のようにパワーで打とうとしている(そのためか筋肉をつけ体重を増やしている)のと対極的のようだ。(動画で見れば感じられるが、バットにボールが当たった時の衝撃が王選手の場合他の現代の選手達よりも少なく感じられる。)

下は少し一本足打法になりかけているような打ち方。

左は①の要領を満たしているが②の要領はいまいち。片足立ちもいささか安定感に欠ける。(これでもホームランが打てるのは胴体の力がすごいのだろうなぁ。)

右は②の要領がとてもよくできている。①も可。だが、上の王選手と比べると命門の開きに大きな差がある。

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

発表の抄録、資料はこちら