2013年9月

2013/9/30 <美しさ、対称性、真善美>

 

先日NHKスペシャルの「神の数式」という番組を見た。

この世の自然現象すべてを表す数式を追い求める天才科学者達の100年に及ぶ探究の歴史をドキュメンタリーにしたものだった。何度も何度も壁にぶつかりながら、世界中の科学者の努力で一歩一歩全身してきた。近年発見されたヒッグス粒子はその数式の完成に向け大きな一歩を踏み出すものだという。

 

この番組を見ていて、私がえらく感銘を受けたのは、「数式は美しくなければならない」という科学者達の信念。ある難題があり、それをある科学者が新しい数式を提示して解決したとき、その場にいた科学者達はその数式の”美しさ”に涙が出たという。

「美しくないものは正しくない」というような信念が科学者という最も理性的、合理的な人達の言葉から出るのは意外な気がする。もちろん、その「美」は「対称性」(回転対称性、軸対称性・・・などその他専門的なものあり)というところという観点から理論的に説明されうるのだが、科学者であろうとも、まずは直感的に”美”を感じているようだ。

 

人間の感覚というのは説明不可能なほどの正確さをもってある物事をとらえる。

美しいと誰もが感じるようなものがあるが、まずその感覚があって、それを分析してみると、実は比率がこうなっている、とか、色彩がこうなっている、とか、諸々の条件が見えてくる。そして同様の美しいものを再現するときにはそうやって計算されたデータを使用したりする。

しかし最初にその美を見つけるのは直観だ。この人は美しい、と思う時、それは総合的に感覚がとらえるのであって、鼻が高いからとか、足が長いとか、頭と胴体の比率がこうだから、とか、分析にとらえているわけではない。

 

究極の世界では「真善美」といわれるように、真実は善でありそれは美でもあるという。真を追及しても、善を追及しても、美を追求しても、究極的には同じところに行きつく。

人によってタイプが違うので、自分が感覚的にとらえやすい道を歩むのだろうが、3本のどの道を通っても正しく歩めば最後は3つが重なるところにくる。逆に言えば、間違って追求すれば永遠に3つが重ならない。

正しいものは普遍性があるか、間違っているものは独りよがりの基準に基づいている。

美を追求していると思って悪に行き着けば、その美は間違っている。

善を追求していると思って不実、不正に行き着けば、その善は間違っている。

真実を追求していると思って醜に行き着けば、その真実は間違っている。

 

・・・私が太極拳が好きになったのはその美しさ。

動きにゆがみがなく、均整がとれている。優雅さと気品がある。流れ、音楽がある。

美しさを追求して体がますます健康になるなら、美=真。

美しさを追求して心が解けて寛容になるなら、美=善。

そんなものかしら?

・・・などと頭の中でグルグル考えるのはとても楽しく、科学者までもが身近に感じられてきた。

 

2013/9/24 <気を溜めて→流す、陰陽循環>

 

やっと涼しくなり屋外での練習もしやすくなった。といっても、週末屋外でタントウ功をしていた生徒さん達は汗びっしょり。

タントウ功は一番汗をかく。体の外の動きを止めて内側で熱を作り出すから当たり前なのだが、最初はなぜタントウ功でこんなに汗をかくのか不思議がる生徒さんも多い。

 

通常の練習は①タントウ功→②動功→③套路(24式など)という順番で行う。

太極拳というのは、とても簡単に言ってしまえば、”気”を「★溜めて→☆流す」の繰り返し。その観点から言えば、上の①~③において、★溜める作用は、①>②>③、☆流す作用は①<②<③になる。

 

 太極拳はその昔、『開合拳』と呼ばれていたと言う。それは文字通り、「開合」(開いて閉じて)の反復をそのエッセンスとしていたからだ。その開合を柱として螺旋纏糸運動を加えたものが現在の太極拳となっている。(螺旋纏糸運動は太極拳特有の勁の通し方。ここでの説明は割愛。)

 「開合」というのは馮志強老師の本の中でも「陰陽開合」としてかなり深く論じられている。無極から生まれる太極とは即ち陰陽に他ならず、その陰陽が絶え間なく動き転換するのがこの世の普遍の法則。この陰陽転換はどこにも見られるが、これを拳の中に意識的に取り入れたのが太極拳だという。”一開一合、拳術はこれに尽きる”という言葉はその重要性を表現している。

 

 「陰陽」はこの世が二元対立でできていることを象徴的に示すが、具体的に言えば先の「気を★溜めて→☆流す」というのもその一例。

開合との関係でいえば、「★溜める」は「合」、「☆流す」は「開」と仲間になる。

「静動」で言えば「静」は「合」、「動」は「開」。

「松緊」(松:力を抜く)で言えば、「松」は「合」、「緊」は「開」。

そもそも陰陽は無が天(陽)と地(陰)に分かれた所から生じるが、そこからネズミ講式(?)に、同じ天の中でも太陽は陽、月は陰、同じ人の中でも男は陽、女は陰、同じ身体の中でも日に当たる場所は陽(背中側)、日に当たらない場所は陰(腹側)・・・と再現なく陰陽が生じてくる。陰陽哲学にあまり深入りするつもりはないので、ここで簡単に整理するとこんな感じ。

  ★陰・・・静、合、松、蓄(溜める)、吸、引く、柔

  ☆陽・・・動、開、緊、発(流す)、吐、推す、剛

 

 冒頭の話に戻ると、①タントウ功では★陰の要素が非常に強い。静かに力を抜いて、力を丹田に集めていく。これは夜の睡眠と似たようなところもあり、大脳を含めた身体の至る所の力を抜きお休みさせて、その分エネルギーを身体の中核部である丹田に集結させる(このエネルギーの集結は意念が必要なので、夜の無意識下の睡眠では行えない)。自分が自分の身体の内側深くに入り込んでいってしまうような感覚だ。

 しかし中心に集中し続けて気が充満してくると、次第に気が循環を始める。これが”静から動が生まれる”という現象。陰が少なくなり陽が多くなってくる。

 ②の動功になると、★陰と☆陽の要素が半々くらいになったりする(やり方によって比率は変えられる)。タントウ功のような内側への集中、気の蓄積を行いながら(気を練りながら)、外側を動かして気を身体中に循環することができる。

 ③の套路では☆陽が強くなる。気を体中に巡らせる作用がとても大きくなり、丹田で気を練ることが難しくなる。身体を動かせばエネルギー(気)を消耗するのは免れないが、丹田で気を練りながら動けるようになれば套路の練習後の気の消耗が少なくなる。

 このような陰陽循環は冒頭の陰陽図で示されるところ。

 

 冬の寒~い日、例えば零下5度くらいで練習した場合、タントウ功なら丹田で作り出した熱で身体を暖かくしていられる。手袋をしていなくても指先はそれほど冷たさを感じない。ほどんど膨らんだ鳩のような状態だ。

 しかし、一旦収功して動功を始めると指先がかじかんで、身体も冷えてきたりする。これは動くことによって身体の熱が奪われてしまうからだが、そのまま動き続ければ次第に筋肉から熱が出てくるようになって身体が暖かくなってくる。しかし体内の気の消耗を最小限にするためには動いても気を漏らさないようにするのが道教の修行法を取り入れた太極拳の考え方。そのためには勁を常に丹田に繋ぎ止めて力を体外に出さないようにする、といった”丹田”中心の動きが必要になる。

 

 体内の気の減少=生命力の低下、ととらえるこの世界では、気を漏らすの非常に嫌がる。(ちなみに”気を使うな、頭を使え!”というどこかで聞いた言葉は信憑性あり。気の消耗の最大原因は心の疲労。身体の疲労を上回ることしばしば。)

寒い日に走れば筋肉の発熱によって身体が暖かくなるが多量の燃料を使ってしまう。一方、南極のペンギンが仲間達と寄り添い立って寒さを凌いでいるのは、漏れる気の量を最小限に抑えて体内の熱を保存することに徹したタントウ功的な方法。

 といっても年がら年中気を溜めれば良いというわけではなく、溜めて(陰)流さなければ(陽)身体の末端までをも活性化することができない。一日の練習の中でも①タントウ功、②動功、③套路と組み合わせて陰陽のバランスをとる。そして四季の移り変わりのよっても練習の仕方が変わる。夏は陽、気を循環させる、流す方に重点がある。①よりも③がやり易い時期。身体が開くのも春から夏にかけてだ。秋になると身体が閉じ始め、冬は①のタントウ功が最も成果の上がる時期になる。冬に気を溜め、春から夏に使う。これも陰陽の循環。

 

 夏の暑い時期も大汗かきながらタントウ功を頑張っていた人も多いが、これからの季節はタントウ功がもっとやり易くなる。気の溜る感覚も得やすい。屋外でも思いっきりタントウ功できるなぁ~、とちょっとうれしく思っているのは私だけ?

 

2013/9/18 <督脈、膀胱経、虚領頂勁>

 

先日勉強会を開いた。大きく分けて題目は2つ。

1つは坐禅の要領に関係したもの。

 ・下丹田・中丹田・上丹田の位置や働き、その関係

 ・気を溜める具体的な方法(形・意念・呼吸、それぞれ)

 ・任脈、督脈、周天(身体に気を循環させる)とは何か

もう一つは手足と内臓(五臓六腑)をつなぐ12個の経絡について

 これはそのまま説明しても無味乾燥だと思ったので、子の刻(23時~1時)に胆経が活発になる、というところから出発して、”胆”はどのような性質か?・・・ネズミのように真夜中に活動。小さくて良く動く。他の臓器を動かすためのスイッチのようなもの、と胆の重要さを印象付けた上で、その経絡の走向(身体の側面を縦断)、大事なツボ、練習でよく使うツボなどを確認していった。

 子丑寅卯・・・と12刻各々の説明を行い、12経絡の走向の全体図、太極拳の動きを使って実際に経絡を感じるようなこと、云々をやっていたら、案の定、勉強会は予定よりも長くなってしまった。

 私なりの整理の仕方でかなりボリュームのある内容を説明したが、参加してくれた生徒さん達が消化不良をおこしていなければいいなぁ、と思うところ。

 

 さて、勉強会では経絡全てを説明したが、太極拳の練習で最初特に気をつけなければならないのは督脈と膀胱経。

 これは背中側(身体の陽面)を通る経絡だ。

 左が背骨沿いに走る督脈。中医学的には男性の生殖能力はここで決まる、と言われている。腰痛持ちの人は腰陽関や命門が詰まってしまっている。ここを開けるためには腰椎を伸ばして(塌腰・斂臀)、腰を回すようにする。

 

 右下は膀胱経。

 膀胱経は督脈に沿って左右其々に走るラインだが、脚や背中では左右各々の線が2本に分岐している。経絡の中で最も長く、足の先(小指)から頭頂(正確には頭頂を通り越して鼻の下まで)通っている。ツボの数もとても多い。

 

 膀胱経は夕方15時から17時の申の刻に最も活発になるが、この経絡はまさに”猿”のように、上下を登ったり下ったり自由自在に動けなければならないという。頭頂に向かって気の流れるラインで、この経が活発だということは脳の働きも活発だということだ。だから申の刻は頭を使うのに最適な時間だと言われている。

  

 督脈も膀胱経も尾骨から頭頂を貫くラインで、脊髄を頭頂まで上げて脳を養う働きがある。この2つのラインが崩れていると脳へ流れる気の量が減り頭の働きは鈍くなる。背骨をまっすぐにして姿勢を正しくしなければならない、というのはこの観点からも肯ける。 

 数ある経絡の中で背面を通るのはこの督脈と膀胱経だけだ。つまり、人体の柱である背骨を支えているのはこの2本の経絡で、背骨をしっかり使えるようにするにはこれらの経絡を貫通させなければならないということだ。

 脊髄を脳にまで届ける上向きの力の原動力は腎(後丹田)の力で、腰下・下っ腹に力がなければいくら外側から姿勢を正したところで、気血は頭頂まで届かない。

 

 太極拳の重要な要領に『虚領頂勁』というのがある。首の力を抜いて立て、頭頂に力が達するようにする、という要領だ。これは別に太極拳に限った要領ではなく、人の正しい姿勢の要領だが、通常成人になるまでには殆どの人がこの要領が分からなくなってしまう(私自身も含めて)。首の筋肉の弱い幼少期はみな、頭をちょっと前傾させたよう(顎を引いたよう)にして自然に首筋が立っている(背筋と首筋が連続している)が、だんだん筋肉が強くなっていると、頭が多少変な位置にあっても首の筋肉で頭を支えられるようになってくる。そうやって徐々に本来の位置からズレてしまう。

 たまに無理やり首筋を伸ばしているような人もいるが、それは一見姿勢が良いようで、かなり筋肉を緊張させているから肩や首が凝ってしまう。『虚領頂勁』は首の中を貫通する上向きに流れる気の圧力で自然に首筋が伸びて頭頂に力が達する、というのが本当のところ。首の筋肉は”虚”、緩んでいなければならない。

 

 (少しマニアックな話だが)督脈を内気で開けていく場合、まず第一段階として命門を開けるが、これができたら気を更に下に下げていく。命門よりも下に下に、と下げていくようにすると、”下一寸、上三尺”と言われるが如く、下に一寸下げられれば気は自然に上に三尺上がる。まあこれはちょっと誇張があるような気がするが、気を尾骨まで下げられる(尾骨に意識が通り、少し動かせる)くらいになって初めて気は頭頂に達する。そのくらい頭頂への道は長い。

 

 私自身は気が首を貫通する時にかなり苦しんで一時は首が動かなくなってしまったことがある。どうやったら首を貫通させられるか?とかなり悩んだ後、、結局首の筋肉を使うのではなく首をスッカラカンにして気を頭頂に抜かなければならない、と気づいた。でもどうやったら頭頂へのラインが感じられる?その時気づいたのがサッカーのヘディング。そう閃いた時、道を歩きながらサッカーをしたこともない私がヘディングの真似事をしていた。

 最近娘がサッカー選手のファンになって私も関心が高くなったが、見ると一流のサッカー選手の重心は丹田、それも下丹田にある。そして背骨の勁が頭頂までまっすぐ貫いている。テニス等のラケットを使用するようなスポーツはどうしても意識が手に行くので、気が胸の方に上がりやすい。一方、サッカーのように足を手のように自由自在に使うようなものは気が下がり、その中心は下丹田、ほとんど股間近くにまで落ちる。

 また、ヘディングは顎が上がった状態でやることはできない(首が折れる!)。顎を引いて、背筋と首筋をつなげて行う、そうすると尾骨から頭頂までが真っ直ぐになる。背骨で立つ、という後ろ重心の姿勢が出来上がっている。

 

 つい最近某テレビ番組で柿谷選手の特集をしていたが、彼の頭頂から尾骨までのラインは他の選手に比べても一段しっかりしている。首筋がきちんと立っているのは誰が見てもすぐに気づくと思うが、彼は胸が凹んでいてその分下丹田に力があり(これは15,6歳男子の体型、冒頭の写真参照)、その力が頭頂へ貫いて頭頂にとても力があるのが分かる。『虚領頂勁』のお手本のよう。

 見れば見る惚れ惚れする身体と動きだなぁ~、と写真をいろいろ集めてしまいました。どんな動きの中でも”真っ直ぐ(中正)”が感じられる。うん、かっこいい!

2013/9/14 <静功の形と意念。安寧から生まれる呼吸>

 

来週坐禅&勉強会を開くということもあって、その準備をしながらまたいろいろな疑問が湧く。

坐禅をどうやるか?これは站樁功と同様の難しさがある。

 

 まずは”形”。静功は形は単純だが、それでも微妙に立ち方、坐り方が異なる。

 先日主人が、職場前で站樁功をしている女性がいたが立ち方がかなり私と異なっていたと言っていた。聞けばその女性の後ろには法輪功のポスターが貼っていたとのことで、明らかに法輪功の練習における站樁功だったよう。主人は、その女性がただ突っ立っているようなので、思わず姿勢を直してあげようかと思った、等と冗談を言っていた。

 概して気功の練習での站樁功は姿勢が高め。足底に気(力)を落としてどっしりする形ではなく、気を胸より上(もしくは頭)へ上げて、ポわ~っと立っていたりする。こうすると頭がふわ~っとしてなんだか気持ち良かったりするようだが、このぽわ~、や、ふわ~は要注意。酒に酔った時と同様、地に足つかなくなって冷静な判断能力がなくなる。洗脳されやすくなる。

 武術系の站樁功は脚を鍛えるような重心を低く落としたものが多い。重心は臍より下。こうすると気は一度足に落ち、そこから循環して上がった涼しい気(清気)が頭に達するようになる。頭は涼しい状態。

 精神的におかしくなっている人は普通足元がおぼつかなくて、逆に足元がどっしりとした精神病患者はまずいないであろうことから、心身健全であるためには気が下に落ちるような形をとることが大事なはず。(具体的には、胸を少し引く、股関節を緩める・・・などの站樁功のいつもの要領。)

 このような形の違いは坐禅の世界でも見られる。やはり私達のやるべき坐禅は気を頭に上げることではなく、気を腹に落とし込むようなもの。そのためには腰を反らしてはいけない。

 

 静功の際の”意念”はさらに大事。

 坐禅や站樁功の形はある意味一度決まってしまえばそのままで良いから、動功や套路に比べ形はとても単純。だが、”形”を止める分、”意”が勝手好き放題に大暴れする恐れが大。套路の動作を覚えている時などは頭もフル回転しているので妄想の出てくる余地もないが、坐禅の場合は站樁功以上に妄想、雑念の出てくる可能性が高くなる。站樁功で寝てしまう人はそれほどいないが、坐禅では寝てしまう人もいる。

 これは”意”をどれだけコントロールできるか、という点にかかっている。坐禅ではこの”意”のコントロールが非常に重要になる。

 ”意”は脳の働きと関係していて、その脳は、脳に埋め込まれている”目”と密接な関係がある。目を一点に釘づけにすると脳はフリーズして思考することができない。この仕組みを利用して、坐禅の際は目を軽く閉じた状態で目線を丹田もしくは会陰あたりに集中させておく。すると意もそこから動かなくなる。意で丹田を刺激し続けてそこに気を生まれさせるのが目的。気が丹田に溜ってくればそれほど努力しなくても自然に意がそこに引きつけられる、という好循環が始まる。丹田の気が増え、次第に身体を循環していくと、経絡やツボが内側からこじ開けられるようになる。こうやって身体の力をつけ、身体を内側から開いていく。

 内気で内側からツボを開けていくためにはかなりの気を丹田に溜めなければならない。その要領が上に書いた”丹田の内視”。これがちゃんとできていれば雑念は湧かないはずだし、眠ってしまう、ということは有り得ない。

 

 静功の際の”呼吸”も大事。

 これまで呼吸については”自然呼吸”としか言ってこなかったが、息は見れば見るほど、とても面白い動きをする。最近自分の息についてことあるごとにチェックしているが、吐いて、吐いて、吐いて~、というリズムで呼吸している時もあれば、ずっと会陰から吸い上げているような時もある。一つ面白いのは、車の通る通りを歩いている際は、吐いて、吐いて、と吐く優位の呼吸だが、一旦緑がいっぱいの公園の中に足を踏み入れると、呼吸が吸う優位に変化している。その吸い方も胸が吸っているというよりも、下っ腹が動き、毛穴が開いて、身体が開くような吸い方になっている。これは無意識で行っていることで、身体は外界の環境に応じて異なる息づかいをするのが分かる。意識で呼吸を変えることもできるが、基本的には身体は身体の智慧で呼吸をしているのだろう。

 ある有名な中国の中医学の先生が、腹式呼吸は練習してもうまくできるものではない、練習しても意味がない、と言っていた。その理由は、呼吸は身体が勝手に行うことで意識でコントロールしても自然な呼吸にはならない、というものだった。深く眠っている時は自然に腹式呼吸になっている。腹式呼吸にするためには安静にして安心することが肝心で、そのために最もよい手段は站樁功だと言っていた。

 安静、安心から自ずから深い”自然な”呼吸が生まれる。冒頭の仏像写真がそんな感じかしら?

 

 以前生徒さんから、順腹式呼吸と逆腹式呼吸どちらでやるのですか?と聞かれたことがあるが、実戦で相手を打つ時などは吸う時に腹が凹んで吐く(打つ)時に腹が出る逆腹式になるが、站樁功や套路をする際には、吸っても吐いても腹が膨らんでいるなぁ、とどう答えて良いか分からなかった。最近やっと、吸っても吐いても腹が膨らんでいるという密息”という武道や尺八で昔から用いられている呼吸法があるのを知り、なんだ、太極拳でもこれをやっていたのね~、と今更ながら気付いたところ。

 動きを静かにして身体を敏感にするには吸っても吐いても息を腹に沈めておかなければならない。吸ったり吐いたりする度に腹が波打っていてはスキだらけ、ということだろう。

 まだまだ研究の余地あり。

2013/9/10 <套路を覚える、站樁功との共通点、隠語の世界、脳を開く>

 

公園で練習。

常連組は46式を覚えるのに奮闘している。24式の最初の方で奮闘している生徒さんもいる。

新しい動きを覚えるのは頭と体を総動員する。

 

站樁功は『築基功』と言われる。套路や対練を含め全ての基礎となる練習方法という意味だ。

そして站樁功は別名『死樁功』と言い、套路(24式や48式などの一連の動きのセット)は『活樁功』と言う。どちらも杭のようにしっかりと地に埋まって立っていなければならないが、片や死んだようであり、片や活きているようだということだ。その含意は、両者は一見正反対だが、核心は同じ、というところにある。

これまで何度も師父から、套路をやる時は站樁功の時のようにやりなさい、と言われてきた。が、套路ではこんなに動くのに、どうやって站樁功のような静けさ、息づかい、ブレのなさ、注意深さを維持するのだろう?と、両者の共通点が見つからない時間が相当長く続いた。やっとここ1年、半年でその感覚が出てきたというのが正直なところ。

 

動いているのに動いていないよう、若しくは、動いていないのに動いているよう。前者は「動中有静」で套路の時の状態、後者は「静中有動」で站樁功の時の状態だ。このあたりのことを本で読むととても抽象的で、そんなものかなぁ~、ととりたてて大した印象なく通り過ぎてしまうが、それを実際に体感してから同じ個所を読むと、そうそう、まさにそんな感じ、と隠語で通じ合ってしまったようなドキドキ感がある。(太極拳の経典の中には隠語のようなものが如何に多いことか!体験した人だけが分かる言葉のオンパレード。それが少しずつ分かるようになるのが面白い。進歩の印。)

 

套路は最初に覚えるのが大変だが、覚えた後から本当の練習が始まる。

覚えたら終わり、と、次々新しいものを覚えていくのではいつまでたっても内側が分からない。站樁功との共通点はおろか、隠語で表されるような太極拳の醍醐味はいつまでたってもチンプンカンプンだろう。身体の話がなぜ心に及ぶのか、天と人が合一するとはどういうことなのか、自分を知った分だけ他人を知ることができるというのはどういうことなのか、気の量の多い少ないはどう分かるのか・・・私自身これまでたくさんの問いがあったが、それが一つ一つ明らかになった時の感慨深さはこの上なく、だからもっと練習しようと思う。

 

といってもやはり最初は”覚える”。脳を努力させる。身体も努力させる。

ある脳科学者が言っていたが、脳は本来サボりたい、という性質があるようで、10の作業のうち6が好きで3が嫌い、1が大嫌いというときに、好きな6の作業だけを残すと、やはりそこから6を好きにして3は嫌い、1は大嫌いというようにしてしまうそうだ。つまり好きなことだけをしていると結果的にできることがとても少なくなってしまうということ。逆に言えば、いつもちょっと無理をして頭を使ってやっと現状維持、ということ。かなり脳を酷使してやっと進歩が望めるというところだろうか。

私は46式の套路を3回のレッスンで覚えた時、夢の中でも復習するくらい頭の中がそのこと一色になっていたが、その際、頭の中で動作を想いだし再現していると頭の空間(特に後ろ側)が膨張するのに気付いた。自分の頭の中をよく見ていると、新しい套路を覚える時には前頭葉に限らない脳の様々な場所を刺激するのが分かる。これは脳や神経系統の開発、ひいてはボケ防止にも非常に効果的な練習のはずだ。

だから「もう歳だから覚えられません」、「昔からこういうのは不得意です」などと早々にギブアップせずに頑張るのが大事。

なお、気の量が減るとすぐにギブアップしてしまう(病気の時は考え通すのも難儀、歳とって、まっいいか、が口癖になるのもその症状の現れ?)ので、站樁功や坐禅で気の量を増やしましょう。

 

 

2013/9/5 <若い男性生徒の話、蹲墻功>

 

 

今日は朝から不安定な天気で、練習場所を急遽スタジオに変更。都合のつかない生徒さんが多い中、鍼灸師の3人が集まった。

 

うち一人の男性は私の最初の生徒。2006年春に代々木公園で教え始めた時、最初にやってきたのが総合格闘技やらボクシングやら所謂格闘技オタクの彼だった。その頃は私も生徒が少なく、どちらかと言えば自分の練習のために毎日東京に行っていた。彼も毎日練習するのが好きで、二人でずっと站樁功をしてした。彼は当時25歳くらいで、若い男の子の気の量はすごいなぁ、とよく隣で感じたもの。

ある時、站樁功中突然彼が私に、「先生、今僕を殴りましたか?」と聞いてきた。はぁ?と訳わからず彼の顔を見ると、目にうっすら涙を浮かべている。聞けば急に鼻筋が殴られたように痛くなったということ。以前鼻を骨折して少し曲がっていたのが真っ直ぐになったようで、站樁功で多量の気がいっきに鼻筋を通ったために起こったようだった。

また別の時には、站樁功中、「僕目が見えます!」と言い出し、近眼で通常はメガネなしには遠くは見えないのに、その時はメガネなしで遠くが見えるようになったということがあった。

1年を過ぎた頃の彼の身体は別人のようになり、確か、大きなロシア人にも勝てるようになった、とか嬉しがっていたのを覚えている。

 

その後しばらくして彼は有名な某鍼灸学校に入学した。それを機に練習にも来られなくなってしまった。が、彼はまだ若く、まずはちゃんとした生活できるように身を立てるのが大事、と私も彼の進学を喜んでいた。

それから3,4年過ぎ、彼との連絡は途絶えていたが、最近になって彼から連絡があった。学校を卒業して開業したので、ついてはまた練習をしたい、と言ってきた。

久しぶりに会った彼は、明らかにしばらく鍛錬していなかったような身体つきになっていたが、身体を鍛えるのが大好きな彼は練習をしたくて仕方がない様子。站樁功だけでなく、動功にも以前とは比べ物にならない意欲を示し、苦手だった套路(24式)いも取り組むようになった。30歳にはあと一歩だが、少し大人になったなぁ~と教えていて思ったりもするのだが、やはり夢は”強くなって勝つこと”と言いきっていて、次に出る大会(何の大会だったか私にはチンプンカンプン)のことを話していたりする(私は適当に聞き流している)。太極拳の本当の良さは、男性なら32歳を過ぎたあたりからかしら(中医学で言う男性のピーク、その後下り坂に入る。女性なら28歳。)?、と彼を見てそう思ったりする。

 

スタジオで練習すると普段屋外ではしない練習をしたりする。

今日やったのは、壁に向かってしゃがむ練習(蹲墻功)と四足歩きの練習。

彼のお尻があまりにも貧弱で未開発なのを、私と他の女性の生徒さん達がからかう。上半身をあれだけ鍛え、脚もあれだけ鍛えているのに、お尻があまりにも使えない。

壁に向かってしゃがむのもできないし、四足歩きは、よたった瀕死の動物のような様。

彼は自分の弱点を知って更に奮起。まだまだ進歩の余地があると頑張る意欲を見せる。

「で、僕はどんな練習をすれば良いですか?」と聞くが、お尻を使えるようにするには、お尻の力を抜くのが大事。締めて使ってばかりいると更に硬直する。「お尻をゆる~くして站樁功するのが一番。」というのが私の答え。気持ちを丹田だけに集中してほっとした気持ちでいると、身体もリラックスして筋肉がほどけていく。気持ちが緊張していると身体も緊張してしまう。焦ったり、イライラしたりすればするほど身体は硬くなる。

若い時はただがむしゃらに動いて身体を開発できるが、30歳を過ぎたら、身体に負担をかけないよう、頭を使って賢く身体を鍛えなければならない。正確に言えば、”意念”を使って自分の心を操作し、心身一致させて練習をするということ。

ただ”勝つ”というだけでは動物のようになってしまう。肉体はどうあがいても歳とともに衰えていく。その引き換えに手に入れられるのが洗練された崇高な精神。歳をとればとるほど”心”が大事になってくる。・・・なんてことを彼に教えたいのだ、まだまだ時期尚早のよう。太極拳の練習を通じて、意念や精神、心の大事さまで学ぶには、息の長~い練習が必要だ。

 

★壁に向かってしゃがむ練習<蹲墻功>はこちらに紹介しています。

 しゃがんでいって耐え切れなくなるところが、自分のお尻の弱点のツボです。そこを使えるようにするのが大事。站樁功の時に、わざとその弱点のツボに乗るように立つと徐々にその部分が使えるようになります。

2013/9/3 <站樁功の際の歩幅>

 

先日站樁功の際の歩幅につき質問があった。

質問者によれば、日本武術太極拳連盟が発行している実技テキストには「脚部外側が肩幅と同じ程度にし、広くなり過ぎないよう注意。」と書いてあるところ、私の站樁功の歩幅は広すぎるのではないか、という疑問だった。

 

馮志強老師の本も含め、私がこれまで読んだ本は「両肩と足幅は同じにする」と書いてあることが多い。単純に読めば、肩の内側が両足の内側、肩の外側が両足の外側と合うような感じで捉えられるので、上記のテキストに言うように、両肩先と開いた両足の外側が同じ幅になる、ということになる。

しかしながら、中国の老師達の站樁功姿で実際にその歩幅で站樁功をしているものは探すのが困難だ。通常は両肩先と両足の内側が同じか、歩幅はさらに広くとっている。

下の写真はこれまで何度か載せた馮志強老師と幾分歩幅の狭めの中国の某老師達の站樁功姿。が、一見歩幅が狭めに見える後者の老師達でも、線を引いてみるとどれも歩幅は質問者のいうものよりも広くなっている。

 

実際のところ、両肩先の幅と両足外側の幅が合っているものを探すのは案外難しく、やっと探し当てたのは右のような写真。

自分でやってみると分かるが、この足幅で股関節を緩めて”坐る”ように腰を落とすのは至難の業。むりやり坐れば太腿前面を鍛える”スクワット”になってしまうのが一般的(つまり股関節は緩んでいない)。かなり上級者になって初めてこの狭い歩幅で股関節を緩めて丹田に気を溜められる(=腰で立つようにして太腿の力を抜くことができる)というのが現実。

 

一方、以前メモで書いたことがあったように、歩幅を広くしすぎると、会陰を引き上げることが難しくなる。そのため丹田に気が集められず、結果として脚だけで立つ(=腹、腰で立てない)ということになる。歩幅を広くとって低姿勢で站樁功をするのもこれまた上級者の技といえる(歩幅が広くても腹を緩めて会陰を引き上げられれば、丹田に気が溜められるとともに脚が更に鍛えられる)。

 

ということで、丹田に気を溜めるためには、馮老師と一緒に載せた上の3枚の写真のように両肩先の幅と両足中心(湧泉)の幅を合わせるあたりが適当なようだ。しかし、実際には人によって肩幅も違うからそのあたりは自分で探ってみるのが一番。まず両肩先と両足の外側を合わせて立ってみてそこから両足内側が合うあたりまで歩幅を少しずつ広げていく。その間で最もしっくりくるところが立ち場所。最も狭いのが両肩先幅=両足外側の幅。最も広いのが両肩先幅=両足内側の幅で、その間で立てばOK。要は自分の身体で感じて最適な場所を見つけるのが大事かと思うところ(日によっても多少違うし、初心者と1年、2年後の練習者でも異なるはず。形式は大事だが囚われすぎてもだめだということ)。

 

質問は站樁功の時の歩幅についてだったが、歩幅は套路の時には広がったり狭まったりする(起式の時は両肩先と両足外側が同じ幅)。推手等の対人練習や実践の時の足幅は狭めにして姿勢は高くとる。それはすばやく動くため。

足幅は狭い方が早く動ける。足幅が広いと安定するが素早い動きができない。

これは先日書いた”速さとパワーのジレンマ”。

高姿勢(狭い歩幅)でも押されてもびくりとしない安定感や、押した時のパワーを出すには日ごろの練習で丹田に気を溜めていなければならない。

歳をとって丹田の気が減る(胴体の力が減る)と、歩幅を広くとって身体の安定を保とうとする、もしくはどこかにしがみついて安定を図ろうとする・・・そんな姿は街角や電車の中でよく目にする光景。揺られる電車の中でつり革や手すりを持たずに直立で身体の安定を図るのは至難の業。直立に近くても微妙に股関節を緩めて腰を落とせば、かなり耐えることができる。工夫すれば站樁功の形はいろんな場面で実践できる(その他にも、ホームで電車を待っている時、買い物をしてレジに並んでいる時、歯磨きをしているとき、台所で料理をしている時、歯医者で寝た状態でも命門を椅子に押し付けて站樁功もどきの姿勢をとったり・・・それはもうクセになっているよう)。

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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