2013/3/30 <下肢の三大関門、膝の故障、体の枢軸、足首の柔軟性、アキレス腱を伸ばす>
最近練習中に注目しているのは足首。
太極拳は腰・腹が肝心要なのだが、ここに蓄えた気を足に落とすには三つの関門がある。それが、股関節、膝関節、足首、という大中小の関節。このどの部分も詰まりがあってはいけない。
股関節の可動域が悪ければ、そもそも腰・腹に蓄えた気(力)が脚に十分に伝わらない。脚に力が出ないし、脚が自由自在に動かない。
膝関節が硬ければ、腰・腹→股関節と落ちてきた力が膝で止まってしまい、膝に負担がかかり傷める原因になる。
足首の硬さは、そこまで落ちてきた気(力)を地面に逃がすことができないために、力が地面で反射したようになり、身体が硬直した感じになる。
これら3つの関節が硬いとどのような感じになるのかは、高いところから飛び降りて棒立ちのまま着地した所を想定するとよく分かる。
一番衝撃を受けるのは膝関節(そして脳)。
<以下少し膝についての考察>
1.膝を痛める人はとても多いが、特別にハードなスポーツをしているわけではないのに痛めてしまう大きな原因は、股関節、膝関節、足首の柔軟性、可動域が減って、胴体の重みを地面にうまく逃がすことができないから。
歩き始めたばかりの子供はまだ脚の筋肉が発達していないので、でっちりにして股関節を緩め、膝裏を少し曲げた状態で歩いている。これは筋肉に頼らず骨で歩く自然の智慧。
大人になると脚の筋肉がしっかりするので、関節の角度をそれほど計算しなくても直立で歩けるようになる。しかし筋肉だけに頼るのはとても危険。正しい関節の使い方に程よく鍛えた筋肉を加味するのが理想。
私がよくイメージするのは、落雷の衝撃を地面に逃がす避雷針(実は本当の構造は良く分かっていない勝手なイメージ)だが、脚の場合は胴体の重さ、衝撃を、股関節・膝関節・足首でつくるジグザグでうまく逃がしている。 このジグザグがうまく作れないと、関節に過大な負担をかけることになる。
2.膝を痛めるもう一つの大きな原因は加齢とともに会陰の引き上げ力が弱まること。会陰の引き上げは内臓を持ち上げる力となるのだが、これが減ってくると胴体の重さが増したようになって足にのしかかってくる。
重くなった胴体を、三つの関節の可動域の減った、所謂”棒”のようになった脚が支えなければならなくなった時、最初に悲鳴を上げるのは膝だ。
これまで腰と股関節を柔軟にする必要性については耳が痛くなるほど生徒さんに言ってきたのだが、最近になって、足首に関しても大きな問題があることに気付いてきた。
例えば、足裏をべたっと地面についたまましゃがめない原因の一つが足首(アキレス腱)の硬さだ。女性がハイヒールを穿いた状態が典型的なアキレス腱が縮んだ状態だが、このような状態を長く続けると足首の柔軟性は失われる。
<足首については要点がたくさんあり、まだ整理がついていないので、以下自分のためのメモ>
1.足首の上にちゃんと立つ。 (多くの人が足首の上に立っていない。)
足首は足の後ろの方についている。足首の上に立つためには、体重を少し後ろにスライドさせなければならない。足裏の前側から後ろへ体重を移動させていって、アキレス腱が少し伸びたように感じられる位置が基本の立ち位置。つまり、踵と足首のラインに背骨を立てていくのが直立の姿勢。
ここで後ろにひっくり返らないようにするには、腰(命門)を後ろに張り出し、かつ、顎を引いて頸椎を立てる必要がある。站樁功はこの姿勢を身体に定着させる練習でもある。
2.人体の枢軸は、首、腰、足首、と言われるが、この三つの共通点はどれも地面に垂直に立ち、かつ、立った状態のまま回すことができるということ。そして、私達が何等かの理由で後ろに倒れそうになった時、この三つの部位はそれを食い止めることができる。
(1)首回しを頭頂が天を向いたままで(顔を前に向けたままで)することができる。この運動は頸、喉の本来の正しい位置を探るためにも有効。多くの人は頸椎が立っていない。顎をもっとも引いた時に頸椎が最も立った状態になる。普段はここまで立てる必要はないが、多少立ったような状態が基本位置になる。(顎が出て、頸椎が曲がった状態は有り得ない。)
身体が後ろに倒れそうになった時も、頸椎を立てればある程度それを食い止めることができる。例:背泳の時の首
(2)腰については割愛。
(3)そして足首は上述の首ととても良く似ている。
足首も立てた状態で(足裏がぴったり地面に着いた状態で)グルグル回すことができる。
が、多くの人が足首内側に重心をかけてしまっていて、外くるぶしの方に重心を掛けた時に親指が上がってしまう。これは足首の柔軟性が欠けている証拠。
これまで太極拳を習ってきたという複数の生徒さんから、「太極拳の時は時は拇指の付け根に体重をのせるのではないですか?」と聞かれたが、親指側に体重をかけていると踏んではいけない”土踏まず”を踏んでしまうし、足の中指、薬指、小指が使えなくなってしまう。すると足の親指付け根から小指付け根を結ぶような横アーチがなくなってしまい、外反母趾にもなる(私は卓球で親指、人差し指重心を続けていて、外反母趾になってしまった)。
身体の隅々まで最大限に使う、というのが太極拳の身体の使い方だが、足指は親指から小指まで全てが独立して動くようになるのが理想的。実際、足首をまっすぐ立てようとすると、普段の意識よりも足首を多少外旋するようにしなければならず、足裏を地面につけたまま足首を外旋させ外くるぶしを張り出すように立てば、足の中指、薬指、小指が活きてくる。これで足裏を背屈させて立てば(ちょっとつま先を浮かし気味のようにして、アキレス腱を伸ばしたような感じにする)、足裏が吸盤のように地面に吸い付いて、電車の中で多少揺れようが、足首のゆるゆるした動きだけで全身のバランスをとれるようになる。
ちなみに、身体が後ろに倒れそうになって、頸椎でも対応できず、腰でも対応できず、この二つが後ろに反ってしまった場合は、アキレス腱が踏ん張る(伸びる)ことで身体がひっくり返るのを阻止することができる(例・マトリックスの映画の中の有名な(?)シーン、リンボーダンス?)
なお、マトリックスの映画の中で私が探していたシーンの画像は見つからなかったが、別の面白い写真を発見。冒頭の写真で、右足の足首が外旋してアキレス腱が伸び、足裏が地面のねじ込まれているような様は、太極拳の重心移動の際の足の蹴りを誇張して表している。この右足(足裏)の力がパンチ等の力の原動力になる。
3.ちゃんと歩くということは、①踵着地(=アキレス腱伸びた状態での着地:つま先上がっている)から始まり、②重心が足裏を後ろ側からつま先に向かって徐々に移動、③つま先に至って始めて足が地面から離れる、の繰り返し。
これが正確にできるためには股関節や腰もうまく使えなければならない…全身の問題になりそう。(ムーンウォーク?いや、あれは後ろ向き。でもああいう動きのできる人の足首はとても柔らかそう。いや足首だけでなく足裏も柔らかそう・・・マイケルの身体は太極拳のお手本だったかなぁ?)
4.”アキレス腱の長さは寿命の長さ”という言い方を中国でするそうだが、アキレス腱が長い、ということは足首の柔軟性があるということ。この体の末端部分の腱が柔らかい人は概して全身の腱の伸びが良いと推測される(鍛錬の成果は中心から末端に及ぶから。)
これに関して、卓球の水谷隼選手を最初見た時に彼のアキレス腱の伸びに驚いたが、その後、以前彼のチームの監督をしていた方に話を聞いたところ、実際、彼は”ゴム人間”のようだと言っていた。あれだけ伸びればいいなぁ、と羨ましい限りだが、彼の身体は多分に先天的なものがあるよう。
(右上の水谷選手のような体勢は身体が硬い人にはできない。足首硬ければ捻挫しそう?)
いずれにしろ、アキレス腱が長くなるような練習が大事。
蛇足だが、元監督の話によると、まだ少年だった水谷選手を初めて見た時、変なフォームなんだけれども球が彼のラケットに吸い付いていくようで驚いた、ということだった。
球(相手側)が吸い付いてくるように見える、というのはこちら側の柔軟性が高く相手の力を吸収できるために他ならない。柔らかければ相手の形に合わせられる、まさに老子の『水は方円の器に従う』(水は丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角くなる)。老子の教えは太極拳の原理であることを再確認。
・・・足首については機会あればまた整理したいところ。
2013/3/25 <若くいるためのコツの考察、正気を育む>
先週後半は母親が娘を連れて沖縄に旅行に行ってくれた。
現地ではレンタカーを借りて走り回っていたようだ。
70歳を越えてもまだ現役看護士で、週6日朝から晩まで働き、日曜日も暇にしていたくないと知人のブティックを手伝ったりしている。
私よりもバイタリティがあるのだが、それは何故だろう?と、今回うちに滞在した時に改めて観察してみた。
何の縁か私の生徒さんの中には母親と同じ年の女性が3名いる。
一人はとてもおっとりとした御嬢さん風の女性で、ほわ~っとしている。時々ふら~っとすると言って脳の検査にも行っていたが、一度派手に転んで大きなけがをしてからは、更に身体に自信がなくなってしまったようだ。
彼女は私の所に来た当初から股関節がカタカタしていて、下っ腹に力が入りずらく、丹田に力を集めにくそうだった。丹田に十分な力があってこそ、その力が足に達するのであるが、身体の気を丹田の位置まで引っ張り下げてくることができず、足が地面から浮いてしまっているような感じだった。
私は何度も意識を丹田より下に置くように注意したのだが、なかなかできない。
ある時彼女が、”ふわ~っと浮いているようなのは気持ちいいのよ~”と言ったのを聞いて時、何故彼女が気を下げられないのか、その大きな理由が分かった。それは、「上(天?)に行きたい」という意識。
確かに彼女は芸術家タイプで夢見る夢子ちゃんのようなところがある・・・。
彼女に対してもう一人は、怖気や怯みを知らない、地に足のつきまくった(?)感のある男勝りの女性。相当ハードな人生を歩んできたようで、怖いあっちの世界の人達から脅されてもビクともしなかったという、極道の妻にでもなれそうなタイプ。
彼女は丹田にしっかりと気が溜められ、自分でもそれがよく分かっている。下丹田に力が入るので歩き姿も颯爽としている。いつ死んでもいい、とか言いながら、絶対に死にたくないタイプ。足がしっかり大地に根付いている。
が、ちょっと残念なのはおしゃべりが過ぎること。
練習に来てもおしゃべりがしたくて、練習に集中ができない。せっかく丹田に気を溜める術を知っているのに、気持ちがそこにあらず、で、すぐにおしゃべりを始めてしまう。
しゃべりながら丹田に気を引っ張り下げておくのはかなりの技がいる。普通はしゃべると気は上に上がってしまう。彼女が昨年肺を患ったのはそのせいかしら・・・?と私は思ったりしている。
三番目の私の母と同じ歳の女性は、まだ現役で働いている女性。小柄で30代や40代の女性と遜色ない動きをする。身体のどこにも問題がない。関節の可動域も良い。これまで運動らしい運動をしたことがない、というが、とても若い身体を保っている。とても70歳を越えているようには思えない。
そういう意味では自分の母親と同じだ。
今回自分の母親観察しながら、二人の共通点が見えてきた。
(冒頭の写真が沖縄旅行での母の姿。右の写真はこの三番目の女性。この写真を見た劉師父は、站樁功の姿も自然で申し分ないとコメントしていた。)
第一。
所謂姿勢が良い。 体軸がしっかりしている。
(1)常に骨盤が立っている。椅子に座った時もいつも骨盤が立っている。電車の中ではほとんどの人が骨盤を寝かせた(後傾させた)状態で坐っているが、この二人に関しては、そんな座り方は”気持ち悪い”以外の何物でもない。
実際そう言えば私もこれまで一回も母親がドカッと椅子に座っているのを見たことがない。いつも”腰をかけた”状態。背骨がスッと立って頭が真っ直ぐ上に向いている。
(2)顎は少し引いた状態。口がスッと閉じている(口がぽわっと開くのは顎が上がっている)。すると頸椎が立つ。後ろから見た時に首が自然に立っているのが分かる。
(3)股関節が少し外旋している。歩いた時に脚先が少し外を向いている。股関節を外旋すると会陰が引き上がりやすい。すると会陰から丹田にかけての体軸をしっかり保つことができる。ちなみに、内股にすると会陰は締めずらい。蛇口を開くかのように会陰が開いて気が漏れてしまう(注:内股でも会陰を引き上げられるが、特別の意識が必要になる)。
(4)重心が腹にある(気が腹まで落ちている)。腹が据わっている感がするのはそのせい。丹田が強い。(改めて写真をみると、肩も肘も下がっていて、太極拳の「沈肩」「墜肘」の要領がクリアできている。こうすると気が腹に下がる。)
第二
現役。若い世代の人達に混じって同じように働いている。活動的。
第三
気持ちがさっぱりしている。ぐじぐじ考えない。女々しいところがない。
第四
こだわらない。食べ物などにもそれほどこだわりがない。三食ちゃんと食べる。
第五
好奇心がある。自分の興味のあるテーマがある。アンテナを張っている。
こう挙げていくと、精神的、性格的な要素もかなり大きいようだが、外面を見ればその人の内面も大体分かるのだから、当たり前のことかもしれない。
緊張している人はそのような強ばった身体になるし、おどおどしている人は縮んだ身体になる。怒っている人は攻撃的な身体、やる気のない人はだら~っとした身体になる。
そう言えば、ゲームセンターの前でだらだらしている不良風の若者達は、総じて、骨盤が寝ていて(後傾して)体軸が消えている。身体自体がドロドロして力が下に流れていくような感じで、これでは眼や頭がしゃんとすることはないだろう。
話が飛ぶが、就職試験などで面接があるが、面接では何を答えたか以上に、その人の”印象”が大事だったりする。私の主人も面接官などをしたりしているが、面接は5分もいらない、と言う。パッと見て、ちょっと話せば、もう大体のことは分かる。
それは姿勢だったり、表情だったり、しゃべり方だったりする。
話の内容自体はその次で、とても知識豊富で頭が良いのに面接で落とされるのは、その人の頭に問題があるのではなく、その人自体に問題がある。
太極拳では『邪気』に対して『正気』という言葉を使う。
練習では『邪気』を排出して『正気』を増やすようにする。気の量が多くてもそれが”邪”であれば他人のみならず自分自身にも害を及ぼすことになる。
『正気』はストンとしたこだわりのない気持ちから育まれる。できるだけ自然の中で練習するのも、『邪気』のない”自然”に接することで『正気』が養われるからだ。
中医学では心の理想的な状態を表すのに『恬淡(てんたん)』という言葉を良く使う。これは”物事に執着しない、こだわりのない様”を意味するが、この心の状態が身体を巡る”気”として現れると『正気』になるのだろう。これは心の状態が身体に影響を及ぼす例。
逆に、身体の姿勢を正し、身体を”正しく”することで、邪気を排して正気を育むこともできる。昔子供の頃聞いた、”健全な身体に健全な精神が宿る”、というのはまさにそのこと。
つまり、心→身体、身体→心、と心と身体は相互に影響を与える。
上手に歳をとっている人を見ると、心(精神)と身体が両方とも”正しく”使われているのが分かる。
心身の正しさ、というのは定義が難しいが、身体の正しさが、柔軟かつ真っ直ぐ(可動域が大きく、かつ体軸がしっかりしている)であることに鑑みると、心も同様なものであるはずで、それが”恬淡”という言葉で表されているのかなぁ、と、一人納得したような感あり。
2013/3/20 <自然の静寂を感じる、心の”虚静”>
今日は春分の日。
冬至に陰気極まり、そこから徐々に陽気が芽生えてきて、今ちょうど陰陽半々になった。これから秋分までは陽気優勢の時期。
いろいろなものが外向きに現れてくる。
春は良いものも悪いものも全てが芽吹いてくる。
アレルギー症状が強くなったり、心身症が悪化したりするのもこの時期。
春は風も強く、気温の上がり下がりも激しい。不安定。
身体も同様に不安定な状態になる。
自然界の状態と私達の身体の状態は呼応している。
逆らおうとするのは負け戦に臨むようなもの。
どのようにうまく順応していくか?
古人は天に向けて音を奏で、自然を詠み、舞を天に奉げていたという。
電車に乗って一生懸命外の風景を見ていたのはいつだっただろう?
夜外に出て月や星を見上げて何とも言えない感じになる時間はどのくらいあるだろう?
気が付けばテレビやパソコン、スマートフォンと向き合っているようなご時勢。
ますます自然から乖離してしまった。
自然の静寂を感じる時、自分の奥底の静寂にも触れることができる。
馮志強老師の本の中で、太極拳の入門にあたって重要な要領を12項目挙げているが、その第一番目が『心神虚静貫始終』。最初から最後まで、心は”虚静”でなければならない、という意味だ。
太極拳の功夫の程度はその人の”虚静”の程度によるという。
”虚”と”静”について、心が“虚”であるこそ、何でも取り入れることができるし、心が”静”であるからこそ、何に対しても適応することができる、と述べている。
非常に深い言葉で、この含意をつかむには、頭の中に広~い空間が必要な気がする。
以前は”虚”や”静”よりも、”実”や”動”ばかりに目がいったが、太極拳の練習を通じて次第に”実”や”動”の裏にある”虚”や”静”の価値に気付いてきた。
表に見える陽の面の裏にある陰面の大事さ。
音楽を聞いても、絵画を見ても、詩を読んでも、そこで味わいたいのは空間の拡がりや静けさだったりする。音と音の間や描かれていない空間、詠われていないものに焦点を合わす時、自分の中のスペースも広がるようななんとも言えない感覚がある。
創作家が無為の境地で創造したものは、それを鑑賞する人にも無為の境地、静寂の境地を垣間見させる力がある。巷の芸術家のうるさい作品よりも職人の作品に心惹かれたりするのは、そこに自意識を捨てた無の境地、すなわち、心の”虚静”の状態が滲み出ているからかもしれない。
美意識は人それぞれだったりするが、自然には普遍的な美があり、”自然なものは美しい”というのは私達人間の共通の感覚だ。
自然に接することによって心身が浄化されるように、良い作品は接することにより心洗われる気がする。
心が”虚静”になって初めて人間界を越えた大きな自然とつながることができる。そしてそのような状態で生まれた芸術作品は私達の心を清め純粋なものに戻してくれる。
太極拳には芸術的な側面があるというが、それは身体を出来る限り純粋にして自然に溶け込ませるようにする動きが、人に何かしらの美を感じさせるからなのだろう。
「天人合一」の状態での身体表現。
それにはやはり心の”虚静”が大事。
これから陽気が優勢になっても、ベースにある陰気や”虚静”を忘れずに練習したいと思う。
2013/3/16 <会陰の引き上げの要領、勧め>
保土ヶ谷での練習。
一年以上練習を続けている人達は概ね会陰の引き上げや命門の感覚がとれてきているようだ。最初の頃はチンプンカンプンのようだったが、やはり継続は力なり、で、ゆっくりではあるがその成果が表れてきている。
会陰の引き上げは站樁功に限らず、日常生活でも非常に大事なことだが、この要領を掴むのに苦労するのは概して男性のようだ。女性、それも出産経験のある人は会陰を引き上げる要領を案外すんなり掴んでしまう。
フランスでは出産後、膣を引き締める訓練をするのが当たり前のようだが、膣を挟みこんだまま上に引き上げるような動作はとりもなおさず、「提会陰」の要領。男性の場合は膣がないから、肛門を引き上げる動作「提肛門」で代用する人もいる。(以前ある日本人の気功の先生の本を読んでいたら、その先生はパチンコ玉を肛門に入れて上げ下げする練習をしていたという話があり、ちょっと驚いてしまった・・・)。肛門を引き上げると会陰も引き上がるからそれでも良いが、意識を肛門に置くのと会陰に置くのは全く同じではない。練習を積んでくると、会陰と肛門の距離がかなりあるように思えてくる。
会陰という言い方だが、中国で昔生殖器官のことを「前陰」、肛門を「後陰」と言っていたたためその二つの「陰」の間の場所を「会陰」というようになったそうだ。
会陰の解剖学的な説明はここには書かないが(興味ある人はこちらを参照http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BC%9A%E9%99%B0/)、会陰を引き上げることは様々な筋肉からなる所謂”骨盤底筋”を鍛えることになり、内臓や骨盤を支える力を養うことになる。
歳をとると内臓を始めいろいろなものが”下がって”くるが、この大きな原因が、会陰の引き上げ力の低下(=下丹田の力の減少)。これがなくなってくると、胴体を上向きに支える力が減り、胴体は死体のように重くなってくる。すると脚は死体化した胴体を支えなければならず余計な負担がかかる。脚が重くなって軽々走ったり跳んだりできなくなるのは脚力の衰えだけではなく会陰の引き上げ力の低下によるところも大きい。歳をとって膝を痛めるのもこの要因によるところが大きい。
会陰の引き上げは胴体を上に引っ張り上げる役割をする。
私達がジャンプをする時はこの力がものをいう。ジャンプが苦手な子供は無駄に屈伸して脚力だけで跳ぼうとする。会陰の引き上げ力が強い(=下丹田、下っ腹が強い)子供は、あまり脚の屈伸を使わなくても高く飛ぶことができる。速く走るためにも会陰の引き上げは必須。でないと脚は高速回転できない。腿上げも重要なのは会陰で胴体を引き上げておくこと。でないと尻が落ちたようになって非常にみっともない腿上げ姿になってしまう。
会陰の引き上げはどのようにすればよいのか?という質問がよくある。
おしっこを我慢するような要領とか言うのが一般的だが、棒立ちの状態から脚を曲げずにジャンプしようとしてみると、会陰のあたりがピクッと動く、もしくは下っ腹(それもかなり恥骨に近いライン)にキュッと力が入るのが分かると思う。胴体が上に跳ぼうとしているその兆候だけをじっと観察してみればよいと思う。少し要領が掴めたら、いきなりジャンプしようとするのではなく、そ~っとゆっくりスローモーションでジャンプするような気持ちでやると、会陰がスッーっと上に気持ちよく引き上がるのが分かる(のではないか…?)。
以前、坐禅の状態から上に跳びあがる動作をして同様の感覚を掴んでもらおうとしたことがあった。いずれにしろ、脚に頼らず胴体を上に引き上げるような力が養生法としてもとても大事ということ。
バレエダンサーの中にもたまに脚がとても太くて短くなってしまっている人がいる。その原因の一つが会陰の引き上げが不十分なことだと聞いたことがある。会陰をしっかり引き上げていないとジャンプから着地したときに重~い胴体が脚に乗っかってしまい、脚がだんだん潰れて太く短くなってしまうとのこと。ダンサーは会陰を引き上げて胴体と脚の接合部である鼠蹊部に常に隙間をもっていなければならないということだった。
会陰を引き上げると脚の付け根も少し上に引っ張られて、脚の筋肉も上下に伸ばされたようになる。筋肉を少し伸ばした状態、関節と関節の引っ張り合いの中で動く、というのはバレエも太極拳も同じだ(これはまた別の機会に書きます。)
会陰の引き上げは普段椅子に座った状態で簡単に練習できる。
椅子に座ってちょっと前のめりになり、骨盤底筋を全部座面にべちゃーっとつけるようにする。かなり骨盤を立てる、もしくは前傾にする(でっちりにする方向)。すると会陰がちゃんと座面にあたる。ここから会陰を引き上げたり落としたり、一日100回やら500回やら、好きなだけやる。座面に会陰があたっていれば、そのピクピクした動きが分かりやすい。
清朝の乾隆帝は毎日これを欠かさずやって皇帝の中では最も長生き(88歳)したとのこと。
中国では「堤会陰」や「堤肛門」は太極拳の話ではなく養生法として一般的に勧められている。退屈な会議や長時間座っていなければならない時は積極的に会陰を上げ下げして時間を無駄にしないように!とのこと。
2013/3/12 <身体を緊張させる服装>
花粉の量がピークを迎えているということで、屋外で練習するには少しやっかいな季節。
今年は花粉の量が例年より多いとずいぶん脅されて、私も不安になってマスクやメガネを用意した。
太極拳や気功を練習する時は、メガネや帽子、アクセサリー、時計等を全て外すのが原則だ。冬でも手袋をしない。
先週あたりから屋外の練習の際にマスクをつけてみているが、やはり余計なものをつけている違和感がある。理想的な状態ではないが、しかしここ一時は仕方がないかと思っている。
先週は娘の卒業式や高校の説明会等があり、娘の要求に応える形で化粧をして”ちゃんとした”服装をした。普段はジャージーにスニーカーだから、ちょっとヒールのある靴を履くだけでも随分よそ行きな感じ。これに服装を整えてアクセサリーをつけて、化粧まですれば完全によそ行き。外界に向かって行く準備万端。どこか戦闘モード。
余談だが、久しぶりにブラジャーをつけてみた。以前はその締め付け感が嫌でつけなくなったのだが、今回装着したとたん、身体はその締め付けに対抗するが如く胸郭を外に張り出しブラジャーを引きちぎろうとするような動きをみせた。・・・なんだかキューティーハニーの変身の時みだいだ・・・いやいや、あれとこれは同じではない、通常なら帯脈(臍と命門のラインの腰回り)を気(腹圧)で膨らましているところを、ブラジャーという異物をつけたために気が瞬時に胸のラインに上がって胸郭を膨らましたというのが本当のところだ。
これでは上虚下実にはならない、と、意識的に胸の気を丹田の方に下げてみる。すると胸郭がすぼみ,その分ブラジャーが身体に食い込んでくる。これも不快。
つまるところ、気を胸の位置に上げておけばブラジャーは気にならないが気が上がって身体が緊張する。でも気を腹に下げればブラジャーの違和感が際立つ。どっちもどっち。
たぶん男性がブラジャーをしたら同じような違和感を感じるのだろうと思う。女性は慣れてしまっているから、その小さな下着が身体に及ぼす微妙な影響にあまり気づかないのかもしれない。ヒールのついた女性の靴もどんなに機能重視で作られていようが足裏を完全に使って歩くのはとても難しい。男性が女性の格好を完全に真似て街を1日歩いたら、かなりのストレスになるのでは?といっても男性のスーツ姿もそのシルエットは上が大きくて下が細い「上実下虚」。気が胸に上がりやすく腰は反りがちになる。腰痛の男性が多いのもそのせい?これに対して日本の羽織袴姿は下の大きなシルエットで下っ腹に気の落ちやすい服装だった。
練習の時はできるだけ身体をしめつけない楽な服装で行う。それは力を抜くための大事な要領。
身体は私達自身が意識していないような僅かな圧力や締め付けに対し、微妙に緊張し反応する。スーツを着たまま練習をしたら身体はなかなかリラックスできないだろう。男性が家に帰ってスーツを脱いだ時、きっと、ほーっとするだろうが、それが身体が緩んだ感じ。練習で得たいのはそんな安堵感、安心感。
参考までに、と娘に「ブラジャーは気持ち悪くない?」と聞いてみた。「全然!」という返答。なら、と「ブラジャー外した時はどんな感じがする?」と聞いたら、「はぁ~、という感じ。」と胸をなでおろすジェスチャーをした。そう、胸をなでおろしてほ~っとしたり、はぁ~っとなるのは、息が胸から腹に落ちていっているから。息が腹に落ちて人はやっとリラックス(放松)する。
太極拳では「(放)松に始まり(放)松に終わる」と言われる。それは、放松(余計な力を抜く)が最も大事であるが最も難しいもの、という認識からくるものだ。
放松は身体、心の両面から取り組まなければならないが、身体に触れる衣類が心身に及ぼす影響というのは思いの外大きい。身体が本来備えている智慧は頭脳以上だったりするが、身にまとうものによってはこの智慧を損なってしまこともある(纏足、ウエストを絞りに絞るためのコルセット、頸を長くするための首輪等はその極端な例)。
これから気温が高くなって家の中で裸になれる機会があれば裸で過ごしてみるのも面白い。全身の感覚が鋭くなり、皮膚が呼吸する感じも分かる。身体に上も下もない。ただ下着や洋服が身体をパーツパーツに分断させているだけ。身体は一つ、即ち『周身一家』を簡単に味わえる。
2013/3/8 <よく分からない呼吸>
今日は娘の中学の卒業式。
参列しつつも300人を越える生徒への卒業証書授与の1時間強を静功に充てる。
最近風邪気味だったから動かずに気を溜める静功はとても良い。
終わって目を開けると身体に力が漲る感じがする。
その後もまだ式は終わらないので、その間、最近の懸案だった呼吸について解明しようと、気を溜める時の自分の呼吸を注意して見てみる。
最初吐いて気を腹の底まで押し込んだら、その後は気がその部分から上がってこないように腹圧をかけたまま吸っていく。いや、吸う、という表現は適切ではないのかもしれない。お腹が膨らんで空気が入ってくる感じだ。会陰はずっと引き上げたまま。最初胸から腹に気を押し込む時に肋骨が沈むようになるが、その肋骨が上がってこないよう、ずっと押さえ続けるのがコツ。
お腹が膨張してそれ以上膨らまなくなったら、その腹圧を変えないように腹の底に向かって吐き込む。そしてまたお腹を膨張させるようにして空気を取り入れる。
気を溜めるためには、腹を膨らませて空気を入れている作業の時間を長くして、腹に吐きこむ時間はかなり短くしなければならないようだ。呼吸は空気の出し入れだが、入れるのと出すのが同等であっては丹田に気は溜らないのだと思う。何度か自分で試してみたが、やはり、ほとんどの時間は空気を入れ続けて、あるいは、入れ続けたまま停止している。出す時(吐く時)も、入れた気を更に腹の底に向かって押し込んでいるようで、自分では外に出しているような気がしない。もちろん実際には鼻や口から少しは空気が出ているはずだが、自分では意識できない。
道教の内丹術で丹田に火をくべつづけなければならない、というような表現があるが、この”火”は意念であり、息なのだろう。
卒業式の間中、このように呼吸のことを考察していたが、呼吸は意識するとかえって不自然になる。吐いている時には自分のどの筋肉がどう動いているのか?とか、実は吐いていても吸っているようなのだが、これは吸気筋を使いながら吐いているということらしいが、これはどうやって人に伝えるのだろう?とか、自分の身体が勝手にやっていることを改めて分析して説明しようとすると非常に難しい。特に呼吸は無意識的な身体運動だからそれを分断してメソッドとして意識的に組み立てたのでは出来上がりが全く違うものになってしまう恐れがある。
帰り道、なんだかなぁ~、やっぱり呼吸は良く分からん、と半ばがっかりし、家に帰って改めて馮志強先生の経典のような本をパラパラめくる。
「丹田呼吸」をして「鼻呼吸を忘れること」とある。
「丹田呼吸」とはツボ呼吸と書かれていて、それには臍呼吸があったり、会陰呼吸があったり、命門の呼吸があったりする。
その通り!と思うのだが、これでは分かる人にしか分からないだろう。
ある中医学の老師が、「深呼吸」とかいうけれども、まだ経絡が開いていない状態で深呼吸ができるわけがない、と言っていたのを聞いたことがある。深呼吸は身体が開いてその準備ができてこそ可能になるもので、無理に呼吸しても過呼吸になったり不自然なものになるという。ではどうしたら?という質問に、深く寝るかしばらくゆっくり立っていれば良い、と言っていた。
確かに生徒さん達の練習を見ていても、ゆっくり身体を閉じたり開いたりしているうちに、身体の中に空気の通り道ができてくるのか、だんだん呼吸が深くなっていくようだ。
だから練習の最初の頃に深呼吸になっていなくても私はあまり気にしない。練習中何度も収功の動作をするが、後半になればなるほど同じ動作でも呼吸の仕方が全く異なってくる。
結局、呼吸はコントロールするものではなく、深い呼吸を誘導するような身体環境を作ってあげるのが大事なのかもしれない。太極拳では呼吸は「自然呼吸」若しくは「腹式呼吸」というくらいで、ヨガの呼吸法のようなものはない。それはきっと身体が自然に呼吸を導いてくるのを許しているからなのだろう。
呼吸は外界のリズムにいとも簡単に左右される。ガヤガヤしたところにいれば呼吸も浅くなるし、ゆったりした音楽を聴いていると呼吸もゆっくりになる。動作も速いと呼吸も浅いが、ゆっくり動けば呼吸のテンポも落ちる。最も一番人間にとってよいのは自然界のリズムに自分を合わせること。夜、星や月をしばらく眺めているだけでも自分の呼吸がが全く変わってくる。
何でも”自然”が一番。
・・・とは言ってもやはり呼吸は不思議。諦めずもう少し追求してみたいところ。
2013/3/6 <指先の力を抜くこと、「見える」こと>
昨日は常連組の練習日だったが、その中の一人は大学生の娘を3人(うち双子一組)持つ、「下っ腹には自信あり」と言い切る面白い女性。
と言っても、彼女の自信のあるのは「下っ腹=子宮」で、それ以外についてはてんで自信がない。特にまずいと感じているのは身体がとても硬いことで、前屈は大の苦手、あぐらをかこうとすると後ろにひっくり返る、油断すればキックリ腰、脚はしょっちゅう攣る、等々いろいろな問題がある。
彼女が練習を始めてから3年以上過ぎた。他にもお楽しみがあったりして必ず毎週練習に来るわけではなく、いたってマイペースな彼女だが、最近、やっと進歩がみられてきた。
前屈させると「以前よりかなり地面が近づいた!」と喜んでいるが、私から見た大きな進歩は何といっても指先から力が抜けるようになったこと。
彼女の身体の特徴は身体全体の筋肉が収縮気味になっているということ。いつも何かを握りしめていたり、力を籠めているような感じの身体だ。胴体に比べて四肢が太い。肉がズドンとついている。そして手先にも力がこもっていて、ワイングラスを持てば割ってしまうかもしれない、と思わせるような手の使い方をしている。
彼女もその辺りは十分分かっていて、どうしたら優雅な動作、所作ができるのか、というのは常に彼女の疑問だった。
練習では「力を抜く」というのをいつもやっているが、その「力を抜く」というのがなかなかよく分からない。彼女の場合は人一倍”分からない”感が強く、時に、”ああもうダメ~、無理無理、私には無理!”、と練習中脳を閉じてしまったこともあった。脳が閉じてしまったら、もうそれ以上吸収することはできない。そんな時は私も仕方ない、と諦め、別の練習をしていたりした。
それが突然、”師匠、こんな感じですか?”と私に向かって手を優雅に前に指し伸ばした姿を披露してくれた。指先まで気(力)が通っていて、とてもきれい。指先がそれ以上先に伸びているかのように見える。これを見た他の仲間達も、すご~い!と感激。彼女も悦に入り、”ああなんだ、こういうことだったのね。”と何度も腕から指先を伸ばす動作を見せてくれる。ただ私達が笑ってしまうのは、そんな動作をする彼女の表情や物腰が舞台で歌う演歌歌手のようだということ。
”その表情なしではできないの?”と聞くと、”いやあ、指先まで意識を通そうとすると自然にこんな顔になってしまうんです。”とまた顔は演歌歌手になってしまう。そんな彼女を見てみな爆笑。
太極拳の水準が分かるポイントはいろいろあるが、そのうちの一つの大事なポイントが指先。もしくは手。全ての指に気が達しているのはかなり水準が高い証拠だが、それが見て取れるようになるには、自分自身がそのレベルに達していなければならない。逆に言えば、他人のあることが見てとれたなら、自分はそのレベルかそれ以上だということ。
これはとても面白い現象だなぁ、と私自身思う。理屈は良く分からないのが、実際問題として、自分より上のレベルのことは”見る”ことができない。
私の太極拳の練習の経験から言えば、パリで練習をして数か月たった頃、別のベテラン生徒さんの練習を後ろから見ていて命門が開いていないように見えたので、師父に「△△さんの命門は開いていないのではないですか?」と尋ねたら、「それが見てとれるようになったということはあなたの命門が開いたということだ」と言われたことがある。その時、へぇ、そんなものなのかしら?、と自分でも半信半疑だったが、その後公園内を歩く人の足裏がどれも少し地面から浮いているように見えた時があり、その時、自分の気がちゃんと足裏に落ちたのを確かめることができた。日本に一時帰国して以前の気功の先生のクラスにお邪魔した時、その先生の肩で気が詰まっているようなのがはっきり見えたりもした。昔は馮志強先生の適当にやっている太極拳の套路の動画を見てもどこがすごいのかあまり良く分からなかった。しかし、練習を重ねて再び同じ動画を見ると、以前とは全く異なることに気付き、動画を見る度ごとに馮志強先生のすごい点が毎回増えていった。
話を指先の力を抜くことに戻すと、彼女に私からそのコツを聞いたところ、以前なら全く使わなかった二の腕の筋肉を私との練習で使うことができるようになったのが大きな要因ではないかということ。そして彼女は意識していなかったようだが、息を吐きながら腕を伸ばしていく時、以前のように吐き終わりにウッと止めてしまうのではなく、最後まで息を吐ききってあたかも指先から息を抜くようにできるようになったのも要因ではないかと思っている。筋肉の使い方と呼吸かしら・・・?(このあたりはもう少し深めて考えたいところ。)
私達は誰でも体中の筋肉をまんべんなく理想的な状態で使って煎る訳ではない。所謂身体のクセがある。そのクセがひどくなると身体に問題が起こってくる。
この太極拳の練習をしていると自分の身体にはどんなクセがあるのかというのがよく分かる。そしてそのクセをとるような練習をしていく。
所謂美しい動作、所作振る舞いはどれもクセのない身体だからこそできること。
局部の矯正ではなく身体全体のバランスの中で徐々に矯正していくと次第に身体の中がスッキリして気持ちよくなってくる。
これもゆっくり焦らず一歩一歩。
2013/3/3 <武術 VS 気功法, 陰陽バランス>
最近ある介護施設からそこで働く介護士を対象に太極拳を教えて欲しいという話があったが、私が声楽家対象のレッスンをしているところにその施設の所長が体験に来たところ、結局”きつすぎる”ということ等から話はお流れになった。
声楽家のレッスンは狭い室内でほとんど大きな身体の動作なくやっているが、内功のみをやっているようなところがあって一般の人は不慣れでかえって疲れるのかもしれない。この特殊なレッスンを見てもあまり参考にならないと前もって断っていたのだが、案の定、先方は想像していた太極拳とは違う、と思ったようだ。
ある声楽家の生徒さんはそれを聞いて、「確かに先生のレッスンはアスリート向けのようなところがありますからねぇ。」と笑っていたが、私としては、自分の教え方が運動面を重視しすぎてスポーツチックになり過ぎているのかなぁ、と反省。太極拳の全体像を伝えるためにはどのようにしたらよいかを考える必要があると思った。
以下その考察。
太極拳は武術。しかしそのベースには道教の養生法がある。だから太極拳は単なる武術としてだけではなく、武術の型を使った気功法として練習することができる。
太極拳を練習する際に、武術として、即ち「如何にして相手を倒すか」とか「如何にして技を効果的にかけるか」という意識をもって練習をすると、身体の使い方が正確になるとともに、どこでどのような力が必要で、そのためには自分の身体のどこが使えるようにならなければならないか、というような足りない点が明らかになる。そしてその足りない点を補うような訓練をしたり、パワーを養うための練習をして、身体の総合的な能力を高めるようにもっていく。
しかし武術として”勝負”を意識した練習をすることには弊害がある。
相手を如何に倒すか、どういう技をかけられるか、では、どのように身体を使うべきか、・・・などを始終考えた練習をしていると、常に大脳が働いていて身体を緊張状態にしてしまう。筋肉も収縮しがちで、呼吸も浅くなる。
ここで呼吸について一言。呼吸が浅いということは胸で呼吸しているということだが、胸呼吸は交感神経を優位にし身体を緊張させる。身体をリラックスさせるには腹で呼吸して副交感神経を使えるようにしなければならない。
このような心身の緊張状態を続けた練習をしていると、筋肉は次第に弾力性を失ってしまうし、気血の流れも滞ってしまう。気が胸から下に落ちなければ心臓に負担がかかる。スポーツをやり込んでいる人で赤ら顔で胸が大きい人は明らかに気が上に上がっていて、心臓病や脳疾患を患いやすい体質になる。
このような弊害をなくすためにも、太極拳では気功法としての練習が重要になってくる。
気功法というのは自分一人の練習で、自分を大自然に一致させるための練習だ。
人がいない朝早い時間の公園で一人静かに練習すると、自分の呼吸、鼓動がいつのまにか周囲の自然のテンポ、リズムに合ってくる。かなりゆっくりになる。そして息が自然に腹の奥まで入ってくる。人は深く眠っている時は腹式呼吸になっているのだが、無理に吸ったり吐いたり呼吸を操作して腹式呼吸を作り出すのと、心身がリラックスしたために自然に腹式呼吸になってしまうのとはその質に雲泥の差があるのではないかと私は思う。
自分の大脳をスイッチOFFにしてただ自然を感じていれば、自分(自我)も消えてしまう。そこで身体の中から湧き出てくる動きの芽をつかまえて太極拳の套路なり、他の動きをゆるゆると行う。自分の奥底から生まれてきたものをただ身体に流して動くだけだが、そうするといつの間にか身体が勝手に動いていて、自分は傍観者としてそれを観ているだけのようになってくる。自分の動きを自分の内側から観ながら、「へぇ~、こう動くんだ。」とか、「ああ、そうくるのね。」など、自分の身体の為すことにコメントしているかのようなこともある。
気功法にはそれほど多くの規則がない。もちろん正しい身体の使い方や正しい呼吸の仕方があるが、どちらかと言えば気持ちよさやリラックスが第一になる。必死に練習するような類のものではない。ちょっと力を抜いて、感覚を味わう余裕が必要。自分の身体の表面を見るのではなく、筋肉や骨も通り越してまだ奥にあるところを感じながら動く。そういう意味では感性の世界、芸術の世界に通ずるところがあると思う。
武術やスポーツとして身体を使った場合に想定される言葉としては、強い、硬い、収縮、合、上実下虚、緊張…など、男性性の陽的なものが挙げられる。これに対し、気功法として身体を使った場合は、弱い、柔らかい、伸びる、開く、上虚下実、リラックス、など、女性性、陰で現されるようなものになる。
太極拳の練習でも、気功チックな練習だけをしている人は動作が不正確で身体がふにゃふにゃだったりすることもあるから、この場合は武術的な側面を加味して練習した方が良いし、逆に普段身体を固めて練習しがちの人は気功的な練習を増やした方が良い。
人間の身体はバランスで成り立っているから、押してだめなら引いてみろ、とか、上に行きたければ先ず下に行け、というがごとく、陰陽を織り交ぜながら臨機応変に練習するのが賢い練習方法なのだと思う。
ちなみに春は自然の万物が生まれ発する時で身体も心も緩く伸びやかになる季節。
古来からの養生法では、春は結んでいた髪も解いて流し、衣もゆったりとしたものを着て、身も心も解き放すべき、とされている。
練習でも、力をこめず、身体を緩め、関節をちょっとずつ伸ばし、少し身体が長くなったかのように動くのが良い。春の太極拳は舞のようかもしれない。