2013年2月

2013/2/27 <推手で分かること、掤勁:身体の張り出す力>

 

昨日は大学時代の卓球部の先輩を久しぶりに教えた。

本当に卓球気違いで、卓球のことばかり考えているようなところがあるが、ひょんなことから私のやっていることに興味を持ち、卓球の練習の傍ら站樁功や動功を日課として練習するようになった。

公園で教えるのは今回で3回目(のはず)。

2回目に教えてから随分時間が経ったと思うが、真面目に毎日立っているだけのことはあり、以前に比べて立ち姿も自然で気も下に落ちてきている。命門も開いた。次の段階は少し尾骨を上げ気味にして骨盤を前傾気味にすること。そうすれば気が更に腹の底に落ちていく。

 

たくさん教えることがあって詰め込み気味だったが、最後はダメ押しで推手をさせてみる。

太極拳についての知識がほとんど皆無の相手にいきなり推手をさせるのは無謀だが、せっかく体力のある男性が来たのだから私としては是非練習相手になって欲しい。相手がただの生徒さんではなく大学時代の”先輩”ということもあり、思わず甘えと我が儘が出てしまう。

思えば、パリでの練習の最後の時期、俄然気合いが入ったのが推手だった。やっと推手の意味が分かり師父相手に真剣に勝負を挑むようになった頃、残念ながら帰国になってしまった。日本に戻ってからは練習相手がいなくあまり練習できていないが、推手の重要性についての認識は更に高まっている。

 

推手にはいろいろなやり方があるが、どの推手でも共通して言えるのは、「力を抜いた勝ち(誰松誰赢)」ということ。

力をうまく抜けば、自分の腕は相手にとって鉄の棒のように重くなり、自分の身体は死体のように重くなる。

二人の間に大きな実力差があれば、手と手を合わせて構えただけで、もうどちらが勝ちか分かってしまう。例えば、相手が私より実力がかなり上であれば、構えた時に既に手が押される或いは身体が押されるように感じる。ここから一動きしたらすぐに弾き飛ばされるだろうことが分かってしまう。それは一種の威圧感のようなもの。

 

太極拳用語ではその身体の威圧感をもたらす力を「掤勁(ポンジン)」という。

「掤」は狭義では下から上向きに働く力だが、広義では身体内側から四方八方外向きに張り出す力を指す。

太極拳で発勁する時(打つ時、蹴る時)に使うのもこの広義の掤の力。

例えば前方に拳で打つ時、拳は前に出るが腰や背中はその分後ろに張り出すが、これは腹の力(気)が外向きに爆発することによって起こる現象だ。

この力を使えば身体の中心軸が崩れることもない。

 

太極拳の様々な基本練習の目的は如何にこの「掤勁」を養うか、というところにあると言っても過言ではない。

それはあたかも風船に空気を入れてパンパンに膨らませる作業のよう。

歳をとれば身体は次第にしぼんでくる。同じ人でも疲れたり寝不足だったり、精神的ダメージがあったりすると、身体はしぼんだ感じになる。そのしぼんだ身体をどうやって膨らませるか?それが站樁功や坐禅だったり、その後の気を煉る動功だったりする。

 

推手に話を戻せば、推手ではまず、どちらの身体が膨らんでいるか=力が漲っているか、というのが分かる(これには脱力して筋肉を緩め、空気の入る空間をつくることが必要)。そして一旦動き出せば、お互い相手の”スキ”を見つけてそこで技を仕掛けることになるので、逆に言えば相手に技を掛けられることで自分のスキに気付くことになる。

よくあるのは、動いているうちに肩が上がってしまっていて、相手に腕をとられ上向きに押し出されてしまったり、肘を曲げすぎて身体と腕の距離を狭くし過ぎていて、そこを相手に押されてしまうとか。上半身に気をとられて下半身が浮いてしまえば簡単に押し出されてしまうし、相手に押されれまいと体重を相手にかけすぎていれば、相手が力を緩めた瞬間に前につんのめってしまう。

 

推手の練習の役割は、自分の欠点、クセ、問題点を客観的に知ること。(勝敗が大事なのではない。これは一種のゲームであり、お遊び。)

それを知ってまた基本功や套路の練習に戻る。欠点を知って練習をするのと、何の問題意識もなく練習するのでは進歩に雲泥の差が生じる。

学校の勉強で良い成績をとるには、ひたすら教科書や参考書を読むのではなく、問題演習をして解けないところを知ってから教科書や参考書を見るのが大事、というのと同じ道理だ。

できないこと、足りないことを思い知らされるのは辛いことでもあるが、それはまだ進歩する余地があるということ。

このような更なる前進への挑戦は永遠に続くのだろうけれども、それはそれで最後まで生き甲斐があるということかもしれない。

 

 

2013/2/23 <まずはしゃがむ、理想的な股関節>

 

今日は保土ヶ谷での屋外練習。

10時半から始めて時間を気にせず練習していたら終わった時間は13時半近く。これはちょっと長すぎ。教え始めると時間の感覚がなくなって、エンドレスでやり続けてしまうのが悪い癖。生徒さんに注意してもらわなくてはならない。

 

今日の最後は皆で円になってしゃがんで雑談。

そう言えばしゃがんでおしゃべりすることは本当に少なくなった。

小学校の頃は学校で毎日のように草抜きをさせられていたので、しゃがんで草を抜きながら友達とおしゃべりをしていた。掃除で廊下の雑巾がけをして速さを競い合っていたこともあった。もちろん当時はすべて和式トイレ。

そう、昔の生活はしゃがむことが多かった。でも今は生活の中でしゃがむことがとても少ない。その結果、しゃがめない人が非常に多くなっている。

 

しゃがむ、いや、しゃが”める”ためには、足腰の筋肉が緩んで関節が本来の可動域で動かなければならない。股関節に詰まりがあったり、おしりの筋肉が固まっていたり、足首が硬かったりすると、自由にしゃがめない。すると本来はとても楽ちんな体勢であるはずのしゃがんだ姿勢が苦痛の何物でもなくなる。

 

站樁功を始め、太極拳の一連の動作中の姿勢では、すべて「放松」(余計な力を抜くこと)が要求される。もし筋肉や靭帯が関節の可動域を制限することなく、骨が正しい位置にあるならば、”すべて”の力を抜いたら、ぐしゃっと身体は崩れおちてしゃがみこんでしまうはず。これは人体の骨格模型を思い浮かべれば想像しやすい。筋肉がなければ、人間の身体は折りたたみ自由な感じだ。 折りたたみが自由でないのは筋肉や靭帯の弾力性がなくなり関節の可動域を制限してしまうため。

 

ここで、站樁功の時は”すべて”の力を抜くわけではなく”余計な”力を抜く、というところに注意。”余計な”という意味は、”会陰が上向きに身体を支える力以外の”という意味だ。もう少し言えば、両肩から足裏の湧泉をつなぐ身体の左右の2本のラインは下向きに力(気)が落ち(=重力に任せる=力を抜く)、これに対して、会陰から舌、頭頂の百会を結ぶ身体の中心のラインには”ちょっとした”上向きの力が働く。この上向きと下向きの力のベクトルのつり合いで身体が崩れ落ちたり、逆に浮足立ったりするのを防いでいる。

 

站樁功や太極拳の動作において、正しい姿勢かどうかを確かめるには、その位置から一瞬のうちにしゃがみこめるかどうかをメルクマールとすれば良いと思っている。どの関節につっかえることもなく、いつでも崩れ落ちることができる。そんな姿勢、身体は下半身の経絡が詰まりなく開通している理想的な身体だ。これが可能になるにはかなりの練習を積まなければならないが、それを目標に身体を作っていけば間違いがないと思う。

(例えば筋肉は厚く固くつけては屈伸運動の妨げになる。筋肉は伸縮可能な弾力性のあるものが理想。)

しゃがめない人はまずしゃがめるようにするのが第一歩。しゃがめないことには気も腹に落ちないし、腰と脚が連結せず脚の力も弱くなる。

 

下はしゃがむお手本になるワオキツネザル。最近テレビで見てからファンになってしまった。

日光浴をする彼らの股関節こそ、”緩んだ”股関節だ。・・・そう見ると、私達が赤ちゃんだった頃、私達は皆大股開きで寝ていた。あの時の股関節は動物のように緩んでいた。いつの頃からだろう、寝る時に両足が真っ直ぐに伸びるようになったのは。大人になるとああいう風に寝たくても寝れない(のが悔しくて実は毎晩挑戦してる)。

おまけ。

下は人間のしゃがむ格好。幼児の頃は軽々できているが、成長すると”きつく”なる。

 

そして左は站樁功をする女性の写真。この姿勢からそのままはしゃがめない。

太腿の前面に力がかかっているので、しゃがもうとすると膝でひっかかってしまう。しゃがむためには重心が更に後ろになければならない。

(蛇足だが、実は彼女は太極拳の某世界大会で優勝している中国人。だが、大会で点の高くつく所謂スポーツ風の太極拳と真の太極拳が異なることに気付き、今は本物を求めて師を探す旅をしているとのこと。)

2013/2/21 <親友との再会で思い出したこと、考えたこと、気づいたこと>

 

昨日は自主練の後、久しぶりに小学校以来の親友ともいえる友達に会った。

私達は中学校時代、県下では一、二を争う卓球部に入っていたが、彼女は運動の”勘”がとても良く、中学二年生の夏には既に県大会で優勝をしてしまった(ちなみにその時私は彼女に準々決勝で負けた)。私達は小学校の4年生頃からとても仲が良かったが、彼女は容姿端麗であまり努力はしないのだが、勉強や運動ができ、私から見るとエースをねらえのお蝶夫人のような憧れの存在だった。中学校になっても彼女のファンが多かったが、もともとあまり苦しい練習が好きではなかった彼女は、県大会で優勝した後は卓球に対する情熱も減り、その後はその年頃の女の子にありがちなようにファッションやその他の”楽しい”ことに興味が移っていったようだった。それに対して私はその頃から一念発起。卓球部での練習以外に自分で朝練をしたり、お風呂に浸かりながら砂をつめたビール瓶を振り回してみたり、今思い出せば、あの頃の自分は偉い!と思う程、田舎で一人黙々と密かな努力を続け、最終的には全国大会で3位の成績をとるまでになった。

 

彼女と私はウサギとカメのようなところがある。

彼女は覚えが速く、すぐにできる。私は案外努力が必要。

小学校の時も、彼女はハードル走がとても上手で、短距離走では私の方が速いのに、ハードルとなるとどうしても彼女にかなわなかった。私は本を読んだり、先生に聞いたりして、理論的に跳び方を理解し、それが身体で再現できるように家でいろいろやってみたりした。しばらく努力してやっとできるようになった、と思ったら、体育のハードルの授業は終わってしまった。

毎年冬休み明けにあるマラソン大会も、毎年彼女にかなわなかった。6年生の時、私はこれが最後、と冬休みは毎日コースを走りに行った。最後の年くらい彼女に勝ちたかった。そしてその努力が実り、その年は私は彼女を抜いて一番になれた。

が、彼女は、と言えば、あまり私に負けたとかそういうことを気にしていない。その頃には興味が次に動いている。「のぶ(私のこと)は良く努力してたからなぁ~。」と当時を振り返って褒めてくれる。

 

彼女は現在、小規模なウェブ会社の社長をしている。

いつもきれいな格好をしていて、雑誌の読者モデルにもなるような感じだ。

二人で会うと、方やモデル風の美ママ、方やジャージー姿の中性ママ、と、外から見れば異質な感じだろうと思う。

昨日の話題は、彼女が最近スポーツジムに通い始めた、ということだった。

たるんだお腹や太腿をどうにかしたいということ。そして、もちろん、痩せたい!という。

話を聞きながら、私は、これ以上痩せてどうするのだろう?といぶかしく思う。160センチの身長で50キロもないのに、何故まだ痩せる必要があるのか?

世の中には明らかに痩せた方が良い人もいるが、日本の女性は概して貧弱だ。横から見るととても薄っぺらく、よたよた纏足をしているかのように歩いている若い子もいる。痩せる=きれいになる、という間違った公式を覚えている。中学生の私の娘も、学校では痩せていたり脚の細い方が羨ましがられる、と言っていた。

美的感覚というのは時代や社会によって異なるが、細長い身体が美しいというのは、欧米人の体型への憧れからだろうか?

 

若い時や健康な時はどうじても外見や見た目重視になる。しかし歳をとって自分の健康に問題が出始めると、外見よりも機能重視にならざるを得ない。

太極拳を始めて私は身体に対する見方がまるっきり変わってしまったが、それは見た目ではなく機能を追求するようになったからだと思う。

昔は自分の太い指が大嫌いだったが、その太い指を師父にべた褒めされてから、ああ、この指はそんなに力があるのか~、と指に感謝するようになった。幼少時からのコンプレックスだった太い脚も、強くて運動性の高いとても良い脚、と褒められてからまた見方が変わった。頭部が大きくて5頭身ちょっとしかないかも、というのも悩みだったが、フランスのあるバレエダンサーが、「私達の頭は小さいでしょ?だからあまりお勉強はできないのよ。」と言ったのを聞いたときに、頭の大きさも人それぞれ、適材適所、と一つ悩みが消えた。

どんなものでも使えるように調整していけばそれなりの味が出てくる。古いものでも手入れしていればアンティークのような品のある味わいになる。人の身体もそんなところがあるのではないかと思う。

 

大学時代の卓球部の先輩が最近、大学時代の自分を振り返って、「当時は勝つことや速く動くことばかり気にして、自分の身体を慈しむ気持ちがなかった」というようなことを言っていたが、ある意味、酸いも甘いも噛み分けた大人になって初めてこのような気持ちになるのかもしれない。これは若者にはなかなか分からない境地だろう。

若い頃はエネルギーが溢れているから、力任せにガンガン動けるが、それは動物的でもあり”味わう”余裕がない。一方、歳をとってくるとエネルギー量は減るが、”味わう”余裕が出てくる。それは、同じように運動しても肉体と精神のバランスが変わってくるからだろう。成熟すればするほど、精神性の割合がより高まってくる。

結局、人生は肉体から入り精神へと抜けていくのだが、太極拳の練習もそのように深めていくのが正しいやり方(だからまず身体をしっかり作る!)。

 

昨日会った親友はジムで最新マシンを使って遊ぶのがとても楽しいと言っていた。彼女の性格や精神状態だと今はそのような運動が向いているのだろう。いずれ更に歳をとって物の見方や価値観が変わった時に站樁功とか私のやるような地味~な練習に興味を持つのかしら?と内心思いつつ、小さい頃からの二人の両極的な姿を思い出すと、このような傾向は一生変わらないのかも、と思ったりする。

 

今回彼女に会って、子供の頃の自分を改めて思い出し、太極拳のこの練習は本来私にとても合っていたことを痛感した。大学卒業後就職してから私は人生の目標を失ってしまったが、自分に本当に”合う”ものに巡り合うまでにかなり回り道をしたのかもしれない。まさか太極拳だとは、親友の彼女どころか私自身がつい最近まで気付かなかった。彼女にも、「良かったなぁ~。究めるものが見つかって。のぶは究めるのが好きだから。」と言われた。

まさに彼女の言う通り。そんな言葉を聞いたら、また、ちゃんとこの道を一歩一歩前進していきたいとう気持ちが高まった。

今日の站樁功は一段と気合いが入った感あり。

 

2013/2/18 <身を養う、脚の衰え、站樁功の意義と種類>

 

昨日ある登山家の凍傷の話を聞いた。

ヒマラヤに挑戦して命は助かったものの、右手親指以外の9本の指の第二関節から先は全て切らなければならないと医師に言われている彼が、未だ粘って再生医療に賭けているという話。
粟城さんというその方のブログを覗いてみたら、凍傷について以下のような記述があった。

 

「凍傷は低酸素と低温で血液の循環が悪くなった時に、脳と心臓に血液を送るために自ら細胞を閉じていくのです。
つまり、僕の指は僕の命を守る為に自らの命を閉じたのです。」

 

そうそう、これが身体の叡智!と、私はまた站樁功のことを思い出した(もうこれはクセ)。

身体は命に係わる場所を最後まで守ろうとする。そのために直接命に係わらない末端部分から切り落としていく。

老化はまさにその現象。

身体のパワー、エネルギー量が減っていった時に、先に衰えていくのは手足。特に脚の衰えは顕著になる。「老化は脚から」と言われたりする。

 

子供の頃はぴょんぴょん跳ねたように歩く。10代は走るのが大好き。20代になると早足で歩く。30代になるとゆっくり歩く。40代になると座るのが好きになる。50代になると歩くのが億劫になり、60代になると寝っころがるのが好きになる。

そんな風に言われるほど、人の脚はだんだん衰えていく。

若い時は太い脚に悩んでいても、年をとっていくと女性は内腿がこけ、貧相な脚になっていく。若くてピチピチした太腿が羨ましく魅力的に見えたりする。男性でもスーツを着ていればまだそれなりにしっかりした身体に見えるたりするが、ズボンを脱ぐと脚が細~くなって上半身(お腹)ばかりが大きくなっていたりする。

 

何故脚から衰えるのか?

それは、加齢とともに身体全体のエネルギー量が減ってしまう中で、命に係わる身体の中心部分に優先的にエネルギーが振り分けられる結果、末端の脚に届くエネルギー量が減るからだというのが中国養生法の考え方。

それは植物に水が足りない時に、まず末端の葉っぱから萎れていくのと同じ原理だ。根や幹(これが人間の胴体と頭)は最後まで残るが、葉っぱ(手足)は最初にダメになる。

 

西洋的な考え方では、脚の衰えに対処するために、脚を運動させて筋肉量を増やしたりするのだが、中国的な考え方では、これでは内臓や脳などに行くべきエネルギー(気)が無理やり末端部分に使われることになり、かえって健康のバランスが乱れることになるとみる。(スポーツ選手が必ずしも健康ではなく、特別な運動をしていない人がかえって健康だったりすることはままある。何事も”適度”が大事。)

厳密に言えば、「身体」の「身」は体躯、「体」は四肢を表すのだが、大事なのは「身」を養うことで、「身」が強くなれば自ずから「体」が強くなる、というのがベースの考え方だ。

ここから站樁功という古来から伝わる養生法の意義が導き出されることになる。

 

すなわち、手足を使わず、ただ体躯だけ、もっと言えば丹田だけに集中し、身体自体のエネルギー量を増やすのがこの練習の目的だ。

頭(大脳)を使ってもエネルギーが無駄に消費されてしまうので、雑念さえも浮かばせず、ただ静かに植物のようになって自分の中心に戻っていく。最初は身体のあちこちの違和感や脚の痛みに気を取られたりするが、身体がぴたっとある絶妙な位置にはまり、身体を忘れるような状態になる・・・この時、私達が私達の力ではどうすることもできないような、自然の治癒力やらなんやらが私達の心身を癒してくれることになる(深く眠っている時に身体が修復されるようなもの)。

それは本当に偉大な力は自然に任せることからしか現れない、と知る時でもある。「私」のこの小さな脳を使ってどう考えあぐねても、どんなに努力しても、どうにもならないことがほとんどで、小賢しく振る舞っても大きな力の中では何の意味ももたない。

そんな気持ちになると、自然という大きな力に任せよう、と思うようになり、そのために自分ができることは、せめてその”自然”が自分を通過できるように自分を浄化して透明にすることだと思うようになる。すると站樁功は自分を浄化して透明にするための大切な時間になる。

 

先日このメモを読んだ方から站樁功の種類について質問があったが、私達が普通やっている站樁功は「無極站樁功」というもので、なんの型もとらずただ立つもの。

手も下に落として、ただ重力を感じる。

上の馮志強先生の無極站樁功の写真がそれだが、これは站樁功の中でも自分の作為を完全になくすもので、自分を消して透明にするのに最も適した立ち方だ。重力に、自然に、全てを任せる。

実は私のやっている站樁功は、これに下に載せる「下環混元站」を加味して、丹田に集まる気の量を更に増やそうとしている。

 

「下環混元站」、「中環混元站」、「上環混元站」はそれぞれ下丹田(会陰の奥)、中丹田(臍下)、上丹田(印堂穴)に気を集めるものだが、まずは下丹田の「精」を増やすのが大事。それが増えなければ中丹田で「気」を煉ることができない。「気」の量が莫大に増えれば自然に上丹田の「神」が現われてくるから、通常上丹田を鍛えれる練習は必要ないというのが私達の解釈。(上丹田ばかりを鍛えると気が上に上がってしまい、身体の根っこが地から離れて文字通り「地に足つかず」の状態になり、下手をすると精神に異常をきたすことになる:オカルトちっくな宗教団体でとられる修行方法)

やるなら恥骨前で円をつくる「下環混元站」か臍前で円を作る「中環混元站」。基本の立ち方は無極站樁功と同じだが、意念が集中し丹田に気が溜めやすくなる一方で、自然に任せる無為の感は多少薄らぐ。

 

下が馮志強先生の「下環混元站」、「中環混元站」、「上環混元站」。ご参考まで。

2013/2/16 <不気味な站樁功>

 

今日は保土ヶ谷で午前中屋外練習。

女性ばかり7人ほど集まったが、今日は気温も低く風も強かった。

 

広場に集合時、その広場を毎日ボランティアで手入れをしているおじさんから、広場で練習をするなと難癖をつけられて、管理人さんにそのおじさんを説得してもらうのに手間取ったりしたが、そのおじさんが私達の練習をやめさせようとした理由が、「不気味な団体」ということのようで内心笑えてしまった。

そのおじさんはずっと前から私達の練習を快く思っていないことは知っていた。その広場は危険な遊びでなければ自由に使ってよい公共の場だが、何の危険もない私達の活動を何故それほどまでに敵視するのか、それが今日はっきり分かったのだった。

 

管理人さんを交えて3人で話している最中、このおじさんは「不気味」という言葉を5回ほど繰り返した。管理人さんは、「太極拳の練習なんだから、大丈夫でしょう。」となだめるのだが、彼は「いや、この団体は不気味だなんだから。」と答える。

このおじさんは11時過ぎに清掃を終えて広場を去るから、いつも見ているのは私達の站樁功。その後の動功や套路の練習はあまり見ていない。確かに、動かずにただ立っている団体は不気味なんだろうなぁ~、と心の中で彼に同情したりする。しかしせっかくの練習場所を失うことはしたくない。

管理人さんは太極拳の練習、と思っているから、あの、ゆっくりと動く体操のようなものをイメージしているに違いない。

 

ただ立っている、というのは傍から見れば解釈不能で不気味にさえ映る。

フランスの公園でも私がずっと立っていると、迎えにきた主人や娘にフランス人がよく「彼女は何をやっているのか?」と聞いていた。動いていれば運動していると思うのだろうし、坐禅をしていれば悟りを開こうとしているとか勝手に解釈するのかもしれないが、ただ立っている、というのは馴染みがないに違いない。

思い出せば、フランスでは大人でも子供でも、私が立っているのを不思議に思うと、わざわざやってきて、「マダム!マダム!」と目をつぶっている私を起こして(?)口頭で質問をしてくることが多々あった。それに対して、日本では、みな見て見ぬふりをするか、内心変だなぁ、と思いながら何も言わず勝手に変態扱いするか、子供でさえも直接私には尋ねず子供通しで「あの人何やっているんだろうねぇ~。ずっと止まってる」とかコソコソ話していたりする。ここでも国民性の違いを感じる。

 

今日はこんなハプニングもあり、ちゃんとした站樁功をしないで寒い中練習することになった。本来なら站樁功で熱を作り出して身体を温めてから動功をするところなのだが、站樁功をしない分、動功を小さな動きでゆ~っくりやって、ベースは站樁功でそれに少し動きを加味したような感じで気を煉る練習をする。最近始めたばかりの生徒さんもお腹の中が発熱する感覚を捉えていた。しっかり丹田で気を煉れればかなり身体は暖かくなる。

 

一般の運動では手足を始めとする様々な筋肉を収縮させることによって身体の熱を作りだす。だから動けば動く程熱くなる。太極拳の練習では筋肉はできるだけ緩めたままにしておいて、丹田(身体の中心)で熱を作り出してその熱を末端に届けるようにする。だから冬の寒い日の練習では、站樁功の最中が最も暖かく、その後動くとだんだん冷えてくる。私自身の体験で言えば、確か一年目のパリの冬は站樁功の時の指の凍えに悩み、二年目の冬は站樁功の後の動功で身体が冷えてしまうことに苦労し、三年目は套路の時にどうやって寒くならないようにするかを研究した。

太極拳は開合拳と呼ばれていたように、合=気を集め、開=気を流す、の繰り返しなのだが、練習ではおおざっぱに言って、①站樁功で気を集め、②動功で気を煉りながら身体に循環させ、③套路で気を全身に流す、というように成り立っている。

気をたくさん集めれば身体も暖かくなるが、身体を動かした際、站樁功で集めた気の量よりも多くの気を体外に漏らしてしまえば身体が冷えてしまう。そのうちたくさん動けば筋肉運動でそちらからの熱が発生するので身体自体は暖かくなるが、その頃には自分の気の量はマイナスになっている。このような運動をした時には、その後ゆっくり休んで気の補充をしなければならない。

太極拳で言う理想の練習は、『練習前の気の量 < 練習後の気の量』だ。これが一般の運動との大きな違いだ。

そのためには気を溜め、気を煉る術を身につける必要がある。

水準が高くなれば、動いて気を循環させながらも、丹田では気を煉り続けられるようになる。

 

せっかくの寒い日の練習。練習中、身体が温まったり寒くなったりするのを体験しながら、どうやったら気が溜り、どうやったら気が散じるか、いろいろ試行錯誤するのは貴重な体験。身体のメカニズムに気付く良い機会だ。

人間の深層心理にある「怖さ」はいろんなところで現れるが、「寒さ」に対しても逃げ腰ではなく真っ向から受けて立ってみると身体にも精神にも“芯”が現われる。私自身は人前以外ではだらけがち(orだらしない)せいか、憧れ目標とするのは芯のあるしっかりした人。そう言えば寒い地域で暮らす人達の中に芯の強い人が多いのはそういうところから来るのかもしれないなぁ、と思ったりした。

 

2013/2/10 <お腹に関して追加>

 

腸腰筋についてはいろいろ反響があった。

どのスポーツでもそこがキーを握る。人間の身体活動の要になる部分なのだろう。

そう言えば、と、以前アップしたことのあるボリショイのバレエダンサー達の写真を改めて見てみた。やはり、お腹が張り出て寸胴。トウで立つには腸腰筋がしっかり使えていなければならないというが、まさにその通りの身体だ。

 

こう見ていくと、日本人女性のお腹は総じてかなりみすぼらしくなっているようだ。胃の部分がへこんでしまっていたり、お腹が横に何段かの層になっていたりする人も少なくない。

お腹を凹ませることばかりに気をとられて、大事なパワーを失っているか、若しくは、筋肉の存在が分からないほどに脂肪をつけてしまうか、両極端だったりする。

お腹を健康にするには自分の胃の大きさに応じて食べることが肝要で、「舌」で食べてはならない(舌は食べてはいけないものをチェックする役割)。

そして中医学で強調されることだが、決して胃を冷やしてはいけない。

冷やせばその働きも阻害され、お腹に余計な脂肪を溜めこむことになる。冷たい飲料は飲まないようにする(ミネラルウォーターやビールも含めて)。身体の中に大きな水袋を抱えているような状態だと他の臓器(直接的には肺)にも影響を及ぼすし、食べたものを消化のために体温まで温める余分な作業のため、気の無駄遣いになり、体力を落とす。

ちなみに、中医学では女性の顔のやつれは胃経の衰えが原因としている。美容の面からも胃の冷えを厳重注意とのことだ。いずれにしろ胃の衰えや損傷は老化への早道。

 

そして、お腹はよく動かして(収腹功など)、よく揉んで、中にシコリがないようにする。腹にある六腑を動かし、癒着しないようにすることが大事。(子宮、卵巣系の疾患も下腹部の気血の循環の悪さが大きな原因。)肋骨に囲まれている五臓はマッサージのしようがないので、六腑をマッサージすることによって対応する五臓も活性化するとの理。

 

2013/2/6 <筋肉をニュートラルな状態にする、腰・腹・丹田、腸腰筋>

 

ここしばらく自分の立ち方を調整しているうちに、小臀筋から始まって様々な筋肉のつながりや筋肉の在り方が気になっていた。筋肉についても多少勉強したりして試行錯誤しながら、懸案の站樁功についても多少理解が進んだ。

 

「太極拳は腰が命」という。

太極拳において腰は、足が地面を踏むことで生まれた力を圧縮、倍増させて上半身に伝える役割をする。いうなればターボのような働き。

この場合の「腰」は何も腰痛になる背中部分だけを指すわけではない。”ターボ”として働く以上、ここでの「腰」は、腰・腹を含めた下腹部一帯を指している。 日本語で「腹の据わった」とか言うときの「腹」もきっと同義で、丹田も「前丹田」は臍、「後丹田」は命門、「中丹田」は関元、「下丹田」を会陰奥、として、これらがつながると下腹部一体が大きな丹田になるのだから、腰、腹、丹田はほとんど同じ意味になってきたりする。

 

さて、太極拳の練習は①気を溜めて②循環させる、という二点に尽きるのだが、まずは気を溜めて身体に力を漲らせることが②の循環の前提となる。気を溜めることは身体の原動力、パワーをつけることであり、内臓の働きも良くなり、免疫力も上がる。そしてその気を溜める場所、それこそが丹田であり、腹であり、腰になる。

 

ここで站樁功に戻ると、站樁功の第一の目的はまさにその「気を溜めること」。

身体の中で気を溜められる場所は上で説明した下腹部のみで頭や手脚に気は溜められない。

そして忘れてはならないのは、「気」は意識の行ったところに動くという性質。だから腹部に気を溜めるためには意識を全てをそこに集中しなければならないが、その集中しやすい場所が丹田になっている。もし身体の別の場所を意識していたり、考え事をしていては気は溜らない。

だから如何に快適に立って丹田以外のことは忘れられるようにするか、言い換えれば、如何に”身体を忘れられるように”立てるか、が大事になってくる。

重力のある中で、どれだけ重力に逆らわず、無駄な力を使わず立つことができるか?

そこから站樁功の立ち方の様々な要領が引き出されてくる。

そのような要領は通常、太極拳用語や経絡やツボで説明するのだが、少し筋肉で考えてみた。

 

上の図では屈筋(関節が曲がる時に収縮する筋肉)を赤、伸筋(関節を伸ばす時に収縮する筋肉)を緑で示した。

無駄な力を使わない、ということはどの筋肉もニュートラル状態にあるということ。

それは、それぞれの関節に関して拮抗関係にある赤の屈筋と緑の伸筋が、どちらか一方が強すぎることなくバランスがとれた状態で適度に張っている状態だ。例えれば、バイオリンの弦をゆる過ぎもきつ過ぎもなく、ちょうど良いハリをもたせたところに調整するようなものと言える。

こう見ると、「松(ソン)」という概念も、便宜的に「脱力」とか「リラックス」と説明したりするが、厳密には、きつ過ぎず(=力まず)、ゆる過ぎず(=だらけず)、といったその間のバランスのとれた状態、中庸の状態を指すというのが分かってくる。

 

ここで、腹、腰の要領に関し新たな発見。

以前1月25日の站樁功に関するメモで説明した、”股関節を緩める”と”腰椎を伸ばす”のせめぎ合いのお話だが、これを筋肉の観点から考えてみた。

 

上の図で、股関節における屈筋は腸腰筋という筋肉。これは股関節を緩める(曲げる)時に作用する筋肉で、この力のベクトルは腹から下向きに、骨盤を前傾させるように働く。このまま骨盤が前傾させていくと腰が反ってしまうことになる。

一方、站樁功の時のように背骨を真っ直ぐ積み上げて立つためには、命門を開いて腰椎を伸ばさなければならない。これは脊柱起立筋や腰方形筋が下方に伸びなければならないということだが、これらの筋肉を下向きに引っ張っていく力は骨盤を後傾させるように働く(尻尾を巻き込んだようになる)。

この二つの対立する方向に働く力をうまく調整して立つところ、これが実に微妙なところで、この感覚が取れるようになることには大きな意義があり、私達の動き全てを左右することになる。実はこの対立する力によってに、腹腔の中に一種の圧力のようなものが生まれるのだが、これがまさに丹田の感覚になる。

 

左は1月25日のメモの図。

 

まず図1の普通の立った状態から図2の命門を開けた状態にするのだが、この時、往々にしてお腹が引っ込んでしまう。最初は”臍で背中を押せ”とも言ったりして、腹筋をギュッと背中に押し付けるようにして命門を押し出し、背骨を真っ直ぐにするようにするので仕方がない。この図2の状態では、骨盤が後傾して(尻尾が巻き込まれるような方向)いるのだが、これだと骨盤を前傾させる「腸腰筋」が眠ってしまっていて働く余地がない。、すなわち図2から図3に移行する鍵となるのは腸腰筋になってくる。

それには、徐々に腹筋の締めた力を抜いて腹に息を落とし、その腹圧で内側から腸腰筋を張り出していくことが必要になる。腹に息を落とすにあたっては股関節を緩めて(曲げて)骨盤をやや前傾させることが必要になってくる。

(もちろんこれらは一朝一夕にできるわけがなく、30代の男性で毎日1時間の站樁功を100日間継続する、というのが目安になっている。)

 

「インナーマッスル」である腸腰筋の開発は難しいというが、太極拳はまさにその部分を使う。腸腰筋が発達してくるとお腹が”ポンポコリン”になって少し骨盤の前傾しお尻が上がってくる(しかし腰は反っていない)。黒人や幼児の体型のようになる。

 

下にいろいろなお腹を集めてみた。

左は(私の)太極拳のお腹。別にお腹を突き出している訳ではないのだが、練習しているうちに6年前とは全く別人の立派な(?)お腹になってしまった。ちなみにその右はカーヴィーダンスの樫木さん、その横はきっとボディビルダー。右端はスプリンターのパウエル選手。

太極拳では丹田の操作によってお腹の形状は様々に動くが(それによって腹部のマッサージができる)、腹腔の大きさや腹斜筋の発達は特徴的(これまで太極拳の女性の先生のお腹は見たことがいのですが、男性の先生方はみなそう)。決して巷でもてはやされるような、くびれているとか、腹筋が割れている、というようなものではないが(自分で見てもポンポコお腹に笑えたりする)、 内臓を包み込み持ち上げその働きを良くしたり、パワーを貯蔵したりという目的にかなっている。

中医学では、「腹はパン生地のように柔らかくなければならない」といって、自分で腹を揉むことを奨励するが、硬い腹や冷たい腹にならないようにするのが養生の道。

2013/2/1 <身体の不調から学ぶこと>

 

身体にはいつもどこかしっくりしない場所や凝っている場所がある。

こんな練習をしていると人一倍そのような場所が気にかかり、寝ている時も様々な姿勢をとって気の循環でコリをほぐそうとしていたりする。

3年前の春から2年間はみっちり左肩と首の気の詰まりに取り組んでいた。かなり苦しんだがそのおかげで肩こりや首の痛みについての認識がかなり進んだ。

去年の春からは時々ある右膝の腫れ。これは右股関節の開きが十分でないのが原因だと分かっているのだが、その股関節がなかなか開かない。思えば昔右股関節を無理やり開いて痛めてから、その開きが悪くなった。十数年たってこの問題に取り組むのか~、とぼちぼち取り組んでいたが、最近になってやっとその成果が出始めてきた。が、と同時に、あともう少しだから早くクリアしたい! 、というようなちょっとした焦りも出てきていた。

 

一旦気になると放っておけなくなり、股関節の夢まで見るようになったが、あともう一歩が進ない。専門家の意見を聞くのも悪くないかも、と、昨日練習に来た整体師の方に身体を診てもらった。「ああ、これは小殿筋が緊張していますね。」と言われ、それまで気にしていなかった身体の側面部分を意識することの必要性を認識。

早速そのままタントウ功をする。「ああ、これは胆経。居髎(きょりょう)のツボを開ければいいのね。」と程なく気づく。(環跳のツボは非常に大事なので随分意識してきたが、その一つ横のそのツボは意識したことがなかった。)整体師の方は筋肉で説明してくれるが、私はそれをツボや経絡に置き換えた方が分かりやすい。そのまましばらく立つ。確かに胆経はこれまでちゃんと意識的に開発していなかった。環跳のツボや居髎のツボを意識していると、そのまま脚の側面を通って足の薬指に達するのが分かる。

 

手の指や足の指は身体の末端。その指の状態を見れば、身体の経絡の通り具合、気が末端まで通っているかどうかが分かる。

私の足の指はいつの頃からか一本一本が独立したようになったが、未だくっついたようになっているのが右足の薬指と小指だった(夏などは汗でむれて皮がむけてしまっていた)。しかし、胆経を通したら靴の中で薬指と小指が離れるのを実感。新しい感覚に嬉しくなる。(整体師の生徒さんに感謝!)

 

整体師の方は、「普通、痛い場所ではない場所に原因があるんですよね~」と言っていたが、確かに痛いところをどうにかしようと頑張ってもどうにもならない。膝の痛みは股関節の調整や膝裏の筋の硬直を緩めることが大事だし、腱鞘炎なども指に問題があるのではなく前腕全体の硬直に問題がある。

 

そう言えば、この前夜中帰宅した主人に膝の痛みについて相談を受け、そのまま歩き方を教えたり姿勢を直したら、「痛いのをどうにかして、と言っているのに、なんで歩き方や姿勢を教えられるのか分からない!」とムッとされてしまった。

彼は私にマッサージしてもらうのを期待したのかもしれないが、結局は姿勢や歩き方を変えないと根本的な解決にはならない。

テレビを見ていると腰痛や膝の痛みを和らげる飲み薬の宣伝があるが、どうしても痛い場合は仕方がないにしても、それで腰痛が治るわけがない。

地道に身体を矯正していくことで筋肉の付き方や状態、ひいては骨格までも変わっていく。

 

何か身体の問題が出たときは、自分を見直す良いチャンス。

あらゆる病気や身体の不調にはその原因がある。

身体の使い方、生活の仕方、意識の持ち方、全てを見直す機会になる。

身体の悪い箇所だけに焦点を当てるような態度ではなく、問題のある箇所ををきっかけとして自分全体を拡大鏡で見るような態度がとれれば、問題を通して自分を高め深めていくことができる。

短絡的で安易な解決方法に飛びつくことのないよう、何が正しい方法で何が正しくないかを選び取る知性も磨かなければならない。

 

追記:この数日、主人は私が教えた歩き方を実行しているようで、膝が痛くならない、と喜んでいます。

 

 

<参考>

 

左は胆経の経絡図。

 

中医学では朝起きたら太腿の側面にある胆経を拳で叩くと良いとされています。胆経は身体を活動モードにする”やる気”のスイッチのような働きをします。

 

また胆汁の出を良くして脂肪の消化を良くする瘦身法だともされています。

 

胆力をつける、即ち決断力をつけるにも効果的とか。(老化現象は決断力ややる気の低下に現れるとのこと。)

 

朝に限らず叩いてOKですが、寝る前は叩かない方が良いです(身体が起きてしまう!)

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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