2012年12月

2012/12/31 <来年の課題>

 

昨日は特別レッスン。

元明治大学卓球部監督で現在自らのクラブチームを持ちながら小学校チャンピオンから全日本チャンピオンまで指導している平岡氏を交えて、普段はメールでやりとりしている大学時代の卓球部の先輩方と練習。

詳細は後に譲るとして、卓球の指導者として活躍する平岡氏が、最近「卓球ドリル ①両手打ち練習法」というテキストを制作したばかりとのことで、早速そのテキストを持って来てくれた。

これまで数冊の著書があるが、本を読んだだけではなかなか打てるようにはならないので、要点を絞ったチェック式のドリル本を作ってみたとのことだった。

中身を見ると左ページにイラストで説明、右ページにチェック項目欄があり、とても分かりやすい。受験生時代に使ったテキストのような感じだ。

 

平岡氏はこれまでの日本の凝り固まった古~い卓球打法の概念を根底から覆すような理論で確実に成果を上げているが、そのベースは”身体にとって自然な動き”だ。そこが太極拳の身体の使い方と共通していているので、平岡氏も「卓球と太極拳のコラボ」と称するがごとく、私と平岡氏の接点となった。

が、私からみれば、平岡氏は”指導者”として私の大先輩。指導方法、指導アイデア等から学ぶことが多々ある。

 

今回話していて感じたのは、要点を絞って説明をしないと生徒(選手)は理解できない、ということ。当たり前のことなのだが、全部を伝えようとすると意識しなければならい点が無数にあって、結局、生徒の方はどこから始めたらよいのかわからなくなる。

便宜的にでも、ステップ1、ステップ2、・・・と練習の手順を示した方が混乱は少ない。

手順を踏まえて教えていくということ、そこが欠けていたと改めて気づいた。

 

折しも今日は大晦日。

昨夜気付いたこの点は、今年の反省点となるとともに来年への抱負になるのだと思う。

来年(明日から!)は暴走しがちな私の頭を少し手懐けて、”手順”を示せるような、すっきり整理された頭にしていきたいもの。

 

※平岡氏の卓球ドリルに関しては http://nblog.mrsc.jp/entry/28121

 

 

 

2012/12/28 <腰回し→身体の中での引っ張り合い→空間としての体軸>

 

昨日は生徒さんの身体を使って自分のお勉強をしたような練習。

一人は命門あたりの脊椎3個くらいの可動域が少なく、前屈して背骨を丸めてもらっても、そこだけが丸くならず板のように平らになる。

腰椎を動かせない人は腰痛持ちか腰痛予備軍。

 

腰椎は胸椎や頸椎に比べ動かすのが難しい。

基本功での腰回しも、腰を回しているようでお尻を回しているだけのことが多々ある。

肝心なのは腰椎の3番、4番辺り、臍のライン(帯脈)を回すこと。

臍の裏には命門、その両横には腰眼と呼ばれる大事なツボがある。

ここをうまく回すには、決してでっちりになってはいけない。少しお尻を内にしまう(尻尾を下げる)ことが大事。

 

腹が前に出た時は、臍を前方に向かって全開、左に回した時は帯脈上の左腹側面と左お尻が左足かかとの上に一直線上に乗っかる、後ろに回した時は命門が後方に向かって全開、右に回した時は右腹側面と右お尻が右かかとの上に乗る、というように、前後左右4点が正しい場所を通っているか確認して回さなければならない。

 

また、回している間中、骨盤は地面に対して水平なまま。斜めになってはいけない。

そのためには、先日書いた、脚のツボが常に使えていなければならない。

特に左に回した時などに、左脚の股関節のツボ(後方の環跳、前面の衝門)は意識されやすいが、その際、右脚の内股関節の衝門のツボが外れてしまうことのないように注意しなければならない。それが外れてしまうと、中心軸がなくなってゆらゆらしてしまう。

左脚重心の時に右股関節を外旋させる理由は、右股関節のツボをちゃんと使わせるところにある。そうすれば、身体が左右で引っ張り合いをし、そこに中心軸が生まれてくる。

 

太極拳の身体の動作には、いつも”引っ張り合い”がある。

左右の引っ張り合い、前後の引っ張り合い。練習をしていると、すべてがその原理で貫かれているのが分かる。

身体を左右に割るのが武術の基本だと言われるが、割ることによって、左右が引っ張り合いをすることで身体の中心軸、そして摩擦力のようなものが発生してくる。

 

そう言えば、巷で体幹とか体軸とかいう言葉を良く聞くが、太極拳の感覚からすれば、それは決して筋肉とか骨とかいうものではなく、左右を分けて引っ張り合いをさせることでその中間に隙間が現われる、その隙間の空間が中心軸になってくる。

その軸は最初は丹田付近の小さな点でしかないが、練習とともにそれが短い棒(筒)のようになり、もっと練習するとその棒(筒)が長く、太くなっていく。その空気の筒のような中心軸が大きくなればなるほど、少しのエネルギーで大きな力が出せるようになる。

 

身体の空間が体軸になる。

だから筋肉はできるだけ緩ませて息を腹底まで入れる(腹式呼吸が非常に大事!)。そうやって、空気をいっぱい含んだ身体、身体の中が空間になったような身体を作り上げる。

しかしその前提には、必ず何かしらの”引っ張り合い”、という身体の中の緊張関係がある。この緊張関係の存在なしには空間(=気が溜るということ)は作れない。

 

站樁功が”きつい”のはその緊張関係があるから。

最初の頃は単に太腿が痛い、とかだが、それを越すと別の身体の奥の”きつさ”がある。

実際、ただ楽ちんに立っていては、何年立ち続けても身体の中に”空間”を作ることはできない。”気持ちいい”という程度の効果しかない。

右脚と左脚を引っ張り合いするようにして、両足であたかも割りばしを裂くかのように身体を裂き、息を腹まで押し込みながら会陰を引き上げる(これも上下の緊張状態)、等等の要領が必須。

これをやるには身体の”内勁”とか”内力”とかいう、ぐっと踏ん張り続ける力が必要。

試しに昨日の生徒さんにしばらくこれをさせたら、力がもたない~、息ができない~、と、3分くらいでギブアップしてしまった。

過度な要求もだめで、やはり、徐々にやっていく方法「慢練」が大事だと思った次第。

 

それにしても、ただ楽ちんにしていては何も生まれないのは人生でも一緒かしら~。

適度なストレス(緊張状態)は成長の源と歓迎すべき。

 

2012/12/26 <昨日の話の補足写真&目の保養?>

 

昨日のメモで脚のツボに言及しましたが、そのおおよその場所をロシアのバレエダンサー、マラーホフの身体の上で印をつけてみました。

 

左は脚の陽面のツボ

①股関節:環跳

②膝:委陽

③足首:昆侖

 

 

右は脚の陰面のツボ

①股関節:衝門

②膝:曲泉

③足首:水泉

 

陰陽この二つのラインをしっかり通すのはすべての運動の基本です。

 

 

 

 

 

 

ついでですが、こんな写真もあります。

人間の身体もここまで鍛えればそれ自体が芸術作品になるよう・・・。

 

2012/12/25 <ツボを押さえることが大事!>

 

今日は一人で練習。

生徒さんを教えていると、教えながらたくさんのことに気付く。

動作やポーズを見て、何か変!とはすぐに分かるのだが、じゃあ、どこがおかしいのか?どこを直せばよいのか?、と具体的に分析して見ていくと、それまで気付かなかった要点に辿り着く。

 

站樁功でいびつな感じがなく、ピタッと立てるようになるのは至難の技。

どこをどうすれば、脚の痛さもなく、身体を忘れるほどに自然に立てるのか?

ここしばらく教えている時に、膝の裏の外側のツボ(委陽:膀胱経)に焦点を当ててみたが、これが案外生徒さん達には分かりやすいようだった。もっとも、立っても、歩いてもこのツボを使い続けるためには身体の重心を常に後ろに置いておかなければならなず、頭では分かるが身体がついていかない、という反応。

 

一人で立ったり練習したりしながら、改めて身体をじっと観察してみる。

すると、要所要所のツボに意識が通り、ちゃんと使えるようになると、スッとそのあたりの筋肉の緊張がなくなる(つまり放松できる)。逆に、うまくツボに意識がとれない(つまり、使えない)時は、そのあたりの筋肉が緊張してしまって力が抜けない。

「ああ、ツボが使えれば余計な筋肉の力を使わなくて済む、のね」、と一つ賢くなった気分。

站樁功の時は、特に下半身の力を抜くことを心がけているが(下半身が安定して力が抜ければ、上半身はおのずと力が抜ける)、そのためには次のようなツボを通すことが必要なのが分かる。

 

★脚外側(陽面)

     ①環跳(胆経)→②委陽(膀胱経)→③昆侖(膀胱経)

★脚内側(陰面)

     ①衝門(脾経)→②曲泉(肝経)→③水泉(腎経)

(①は股関節のツボ、②は膝のツボ、③は足首のツボ)

 

この陰陽、それぞれ3つのツボをちゃんと通して使えるようになれば、脚はほぼ全面的に使えるようになっているはず。バレーダンサーが股関節を180度近くに開いた形を基本姿勢とするのも、まさにこれらのツボを通して使うことができるようにするためだ。逆に言えば、股関節にあれほどの可動域がなければ、これらのツボを総動員することは不可能。ツボが一部分しか使えなければ、脚も一部分しか使えない。

 

実際、生徒さん達の身体で実験してみると、陽面を通そうとすると、陰面のツボが外れ、陰面のツボを通そうとすると陽面のツボがなくなる。もしくは、初めからどこがツボなのか、全く意識の及ばないこともある。そんな時は私がそのツボを推して身体に感覚(痛み?)を与えて、少しでもツボに意識が及ぶようにしたりする。

 

ツボを”通す”とか”使う”というのがどういう感覚なのかを説明するのは微妙で難しいが、そのツボ(点)に”ちょっと引っかけて”おいて、立ったり、動作をするような感覚。

言葉にすると難しいが、実際に教えてみると、ツボが使えた時はそれなりの感覚があるので生徒さん達はぼんやりとでも”これがツボを使った感じ”という実感があるよう。感覚を掴みそれを磨いていけば、今後新たなツボを自分の身体、感覚を使って発見していけるはず。

自分の身体が知っているツボに関しては、本などでツボの場所等を確認すると、自分の身体のその部分がピリッと反応する。自分の身体が知らないツボに関しては、本でそのツボを確認しても身体に何の反応もない。これきっと、例えばニンニクを食べたことのない人にどれだけニンニクの味の説明をしても味を想像できないが、他方、食べたことのある人ならニンニクの写真を見ただけでもその味を想像できるようなもの。梅干しやレモンを見ると唾液が出る、とかいう、その類の身体の反応に違いない。

身体は本当に面白い~。

 

 

そう言えば、太極拳を習い始めたころ、師父が「太極拳をちゃんと学べば按摩はすぐにできる。しかも巷の按摩師よりずっと水準が高くなる。」と言っていた。ただ通常は、自分の気を極力漏らさないため、必要がなければ”できてもやらない”、とのことだった。(馮志強先生も、”売れっ子”になる前は按摩をしていたようだ。)

が、そんな話を聞いた頃は、太極拳と按摩・マッサージの技量の関係が全く理解できなかった。しかし、練習をしていくにつれいつの間にか、自分の身体のツボが一つ一つ意識できるようになり、それにつれて、意識できるようになったツボに関しては他人の身体のツボも直観的に見て取れることが分かってきた。

それは学校でツボの位置を本で学ぶようなものではなく、自分の身体で知ったことは他人の身体の上でも同じように感じ取ることができる、というもの。理屈ではなく感覚だ。

 

站樁功の時に太腿の外旋ばかりを意識していると、上の陰面の①衝門のツボを外してしまい、結果として内膝を傷めたりする。陽面の②委陽のツボを外していると、大腿四頭筋が太くなるか膝を痛める結果になる。③の踵のツボが通っていないと、足首が地面に垂直に立たず、足裏が地面の力を捉えられない。

 

腕についても同様だ。

★腕陽面(小指側)

   ①臑兪(小腸経)→②小海(小腸経)or少海(心経)→③神門(心経)

★腕陰面(親指側)

   ①中府(肺経)→②曲池(大腸経)→③太淵(肺経)

 (①は肩関節、②は肘、③は手首のツボ)

 

ギターやバイオリン奏者や、ピアノ奏者を見ていても、これらのツボが全て使えていると腕に緊張がなく自然な奏法になるが、どこかのツボが抜けていると、どこか硬かったり不自然な感じがする。もちろん、演奏も腕だけでするものではなく全身が関わっているので、全身の主要なツボが使えていることが大事だ。腰が反って命門のツボが閉まっていたり、骨盤が前傾して仙骨や尾骨のツボが使えていないのも大きなマイナス要素になる。

今では手軽に動画で歴史上の名演奏家の演奏を見ることができるが、やはり大家の身体の使い方はさすがだと思うことがしばしばある。音を聞かなくても、身体の使い方を見ればその演奏水準が分かると言っても言い過ぎではないと思ったりする。

 

と、ツボの大事さを改めて感じた今日一日だったが、今になって、馮志強先生の本の中に「放松(力を抜く)」の要領として、”一つ一つ順番にツボに意識を向けてツボを緩めていく”ということが書かれていたことを思い出した。

 

以下抜粋。

 

・・・肩井のツボを緩めて開く(→肩がリラックスする)、曲池のツボを緩めて開く(→肘がリラックスする)、環跳のツボを緩めて開く(→股関節がリラックスする)、膻中のツボを緩めて開く(→胸がリラックスする)等等。このようにツボを意識し、毎日昼夜問わずツボに意識を巡らしていれば、筋肉が自然と骨を離れ、関節が自然に開き、放松と松開(力が抜けて開くこと)の効果が現われる。これが”意為気頭、気随意行”(意念は気の頭、気は意に従う)の作用である。意念でツボを開こうとする時、同時に内気がツボから骨髄に入り込み関節を貫通し、また骨縫から出てきて皮膚を充たし、経絡を通り、四肢に達して放松ながらも重さを感じるようになる。

 

ツボの話は”纏糸”にもつながり、とても奥が深いが、今日はとりあえずここまで。

 

ツボについてはAIMY鍼灸整骨院さんのサイトがとても見やすいです。

 http://www.aimy-ss.jp/pg42.html

ご参考まで。

 

 

2012/12/19 <胴体、背中、肩甲骨等>

 

最近のレッスンでは、下半身の外枠を使うために(12/8のメモで書いたこと)生徒さん達の膝裏の使い方に注目。目から鱗と開眼する生徒さんもいた。

そのうち腕の使い方にも気を配り始めたが、これもよ~く観察すると、脚の要領と全く同じ。股関節と肩甲骨、膝と肘、足首と手首、足と手、は同じように使えば良いことが分かる。すべて螺旋、筋肉を伸ばすように伸筋を使って動かす。

 

太極拳の練習で最も大事なのは『身法』。言うなれば、胴体(体躯)の使い方。

胴体の力が四肢を動かす。まずは胴体が駆動しなければ何も始まらない。その胴体の中心が腰。

 

身法要求は大きく言えば4つ。

①中正(真っ直ぐ)であること

②素早く思うがままに動かせること

③絡み付き螺旋を描いて動かせること

④弓のようであること(腰と背中が円く、胸と腹の開合がある)

 

つまり胴体は真っ直ぐでなければいけないが、これが死んだように固まっていてはいけないということ。

③は身体の巻きつくような力を指すが、これは、胸、腹、背、腰、臀の各関節が中心軸の周りを螺旋状に動くことで、身体の中心の丹田の気を四肢に伝えていくという意味がある。

 

胴体の力を四肢に伝える時の最大の関所が股関節と肩甲骨。

ここがちゃんと動かなければ、せっかくの胴体の力も腕や脚に伝わらない。

股関節や肩甲骨を開く練習が必須なのはそのためだ。

 

女性を教えていると肩こりの人が多いせいか、肩甲骨回りをどうほぐすのかを聞かれることが多い。私自身は肩だけを集中的に鍛錬したことはないが、腰回しをして股関節が緩んでくると自然に肩甲骨も緩んでくる。肩甲骨は股関節に連動していて、站樁功の途中で、カクッと股関節が開いたとき、同時に肩甲骨もカクッと開いたようなことが何度かある。

生徒さんの身体を見ていても、股関節の可動域の狭い人の肩甲骨の可動域は狭いし、肩甲骨の可動域の広い人の股関節の可動域は比較的広い。

私の経験からすると、腰から始めれば、上下次第に開いてくるのだと思っている。

 

と、練習中、生徒さんの肩甲骨を調べていたら、逆に生徒さんから私の肩甲骨はどうなっているのかと触られたりした。私も自分の肩甲骨がどんな風に動いているのか見たことがなかったので、興味本位で娘にビデオで撮ってもらった。

・・・・自分の背中を見て驚愕!

なぜ力を抜いてゆるゆる動いてこの背中になるのか?   

 

すぐにゴミ箱入りにしようかと思いましたが、主人が「誰も女とは思わないから大丈夫!」と、真剣に、いや、からかって(?)、ブログに載せることを勧めるので勇気をもって載せてみることにしました。 少なくとも肩甲骨の動きは良く分かります。

女性生徒さんが減るかも・・・。(普通の女性はこんな風にはならないはず。体質によるところが多分にあると思われます。)

まあ、上のブルースリーにはまだまだ及ばないから大丈夫?!

2012/12/14 <背骨と脳の関係、背骨が硬いとボケる??>

 

今日は公園内の新しい練習場所を探しに出かけた。

いつもの場所は冬場は北風が吹き抜けて、練習場所としてはあまり良くない。

 

このような練功をする人達は、寒さに対しては”着込めば済む”、といった態度で、-10度でも大した問題にはしない。しかし、風に対してはとても用心深い。馮志強先生も然り、私の師父も然り、だ。

 

中医学を少しかじると分かるのだが、風は”風邪(ふうじゃ)”と言われ、邪気だ。体内に入れないよう防がなければならない。

特に背中側に当たってくる風は要注意。風邪は背中側から入り込む。

だから背中、即ち身体の陽面に気を通してバリアを作るような練習を日頃からしておくことが大事。背中に生気のない人は、すぐに風をひくことになる。背中からオーラ(後光)が出るくらい背中に気を通すことができるようになるのが理想中の理想。

鏡で顔ばかり見ているようでは視野が狭すぎるということ。背中を磨かなければならない。

 

以前聞いた話でうろ覚えなのだが、松下幸之助氏(だったと思う)が、面接で人を選ぶ際の基準として、能力に大差のない場合は”背中”を見て選ぶ、と言ったことがあるそうだ。

その時は、確かに猫背はだめかなぁ、とか、背骨が曲がっているのも×でしょ、とか、肩の高さが右左で異なっているのもおかしいし、等々、見た目の良し悪しの観点から理解していた。

 

しかし、次第に自分の練習が進み、背骨、それも尾骨から頸椎までのつながりが見えだすと、また背中について違った感覚が芽生えてくる。

具体的に書けば、丹田にひたすら気を溜め続けて、それが膨らみ仙骨の方にまで達すると、その気が背中中に広がりながら背骨を伝って脳にまで達していく。この時その”気”は気体のような感じではなく液体のような感じがするのだが、すると、尾骨から脳までは同じ液体で満たされつながっているように感じる。

 

背骨、即ち脊柱管は、神経の束である脊髄が通っている。脊髄の最上部(第一頸椎)は延髄につながるが、その境目は明確でなく、脳と脊髄を合わせて”中枢神経”とされるが如く、脳と脊柱は一体として考えるのが妥当だ。実際、脊柱管は尾骨に届くところまで脳脊髄液で満たされている。

中医学で”気が骨髄を通る”と言われているところからすると、私が練習中に感じているのは、尾骨、仙骨付近から脳に至るまで脳脊髄液を媒介として脊髄に信号が与えられている、その感覚なのではないかなぁ、と思う。

細かなことは分からないにしろ、尾骨、仙骨を起点とした背骨が脳に与える影響は多大で、背骨は脳の一部として取り扱うべきだと思うほど。

 

それが分かってからは、頭脳明晰か否かは、特に子供や若者の場合、立ち姿を見ればほぼ一目瞭然、というようになった。頭脳明晰な子の背骨はまっすぐで、首がスッと立っている。背骨がぐにゃーっとしていたり、首が折れているこは、たぶん、勉強は苦手。それは腰の力が真っ直ぐ脳に達し刺激を与えられているか否かの違いだ。

年配者の場合は長く生きている間に生活上の身体のクセがいろいろ出てきて背骨が曲がったりしているから、子供、若者の例ほど単純には断言できない。が、歩いている時に背中が硬直して四角形のまま動かず、手足だけが動いているようなおじさん、おじいさんは、往々にして頭が固い、もしくは頭の働きが鈍いように見受けられる。(なぜかこのような歩き方の女性は少ない。年配男性に非常に多い。 )

私の記憶では現役を退いた後のレーガン元大統領の歩き方がそうだったように思うが、背骨が硬直すると脳が働かなくなるのか、脳が働かないから背骨が硬直するのか、きっと相互に影響を与えるあずだろうから、背骨を積極的に動かす(これには腰回しが効果的)ことによって老人のボケも少しは食い止めることができるのではないかと思ったりする。背骨を柔らかくすれば頭も柔軟になるはず。

 

話を戻すと、松下氏が面接にあたって背骨を重視する意味は、それが脳に与える影響まで加味して考えると、なるほど、と思うところ。頭脳明晰で柔軟性のある人材を欲しいということかしら。

 

 

 

2012/12/12 <太極拳と気功法の関係、何を教えるのか?>

 

一昨日は久しぶりに声楽家対象のクラスを開催。現役歌手6名が師匠の家に集まる。

広いとは言えない部屋での練習。何を教えよう???といつも頭の中は空っぽ。

 

80歳の声楽の師匠は、「ほんと、太極拳をやり始めてから、みんなの声がとても通るようになった!全然違うのよ~。」と言ってくれるが、私は内心、太極拳は教えていないんだけど・・・と苦笑。

いや、もちろん、私が教えているのは、私が太極拳を練習する過程で学んだ身体の在り方、使い方。これは気功法であり、気功法の基礎ともいえる核心部分。これを逃しての太極拳は有り得ない。

 

昨日教えた数名は私の最初の生徒さん達だが、往々にして練習後のお茶とおしゃべり目的で、かなりゆっくりペースで練習してきた。こんなにゆったりペースで上達するのかしら?と教えながら不安になったこともあったほど。

しかし、まさに”継続は力なり”で、ぎっくり腰をよくやっていた女性は今では”腰に自信あり!”と豪語するし、久しぶりに会った人に姿勢が変わったと言われたとか、婦人科系の疾患のあった女性も状態がとても良くなっているなど、着実に効果が現われている。

 

最近の練習では、站樁功をする彼女らに対し、呼吸を使って気を脚に下げさせてみたり、下げる際に膝裏の外側のラインを通過させるように指示してみたりする。すると、ちゃんと気を導いていくことができる。または、通過できない箇所に来ると、通過できないことが自分で分かり、「ここが通りません。」と私に言ってくる。

2,3年前は、「気って何ですか?」「気が上がる、って何ですか?」「私には”気”が良く分かりません」、としょっちゅう言っていた人が、今ではじっと身体の中を観察して、今自分の気がどこを通っているのかを追っている。

これが『気功法』の第一歩。

 

『気功法』とは自分で思うところに気と導くようにする練習だ。

そのためには、まずは”気”を一点(丹田)に集めて、”気”の感覚を得られなければならない。それができて初めて、”気”を身体の別の場所に導くことができる。

 

巷の気功教室で一般的に行われているのは、気を導く練習。しかし前提としての”気を溜める”練習をしっかりしていないので、”気”を手足に導いているつもりで”想念”を送っているに過ぎず、気がつくと多分にオカルトちっくな練習になってしまっていたりする。

一方、太極拳の基礎として行う気功法は、その目的が攻防にあるので、”気”は”力”と結びつかなければどうしようもない。そんな気がする~、と想念だけでは戦えないのが常識(意念だけで相手を吹き飛ばすのを夢見て練習する集団もいないではないが・・)。

 

先日、赤坂スタジオの責任者の方達と話した時に、「太極拳は気功なのですか?」と聞かれた。太極拳は武術であり気功法だが、そこらへんの関係が分からないという。

そういう時、私は、「太極拳の先生なら必ず気功法を教えられますが、気功法の先生だからといって太極拳は教えられません。」と答えている。

つまり、太極拳は気功法をベースにした武術だということ。

 

私自身は、太極拳の武術の部分にスポーツ的な面白さ、余興を感じ、ベースとなる気功法の部分には、毎日やらなければならない日課のような義務的なものを感じている。楽しいのは武術の側面。まだまだ知らない技がたくさんあり、もっと習いたいと思っている。対人相手の練習ももっとやってみたい。

が、健康法として万人に有益なのは基礎の気功法の部分。

冒頭に書いた声楽家の人達が私から学ぼうとしているのはまさにそこ。

そして実は、子連れママには太極拳を教えられないからそろそろママクラスを閉幕しようかと、今日そのクラスを運営している保健婦さんと会っていた。しかし先方から、産後のママ達の身体が数度の練習で変わるところを見てきているから、人助けだと思って是非続けて欲しい、と言われたりして、やはり続けることにした。

時に、私の教えていることは太極拳ではないのではないか?と葛藤があるのだが、それで益する人も多いのも事実のようだ。

 

「太極は万物を包含する」という。

太極拳の拳法によって太極を学ぶのであるから、常に太極を目標に、射程距離に入れて練習をしなければならないと思う。身体の構造を知り、人間の在り方を知ることは、単にどう打ち、どう蹴るか、を研究するよりも、より”太極”を学ぶに近づくことだろう。

馮志強先生も、ご自身の著書で、「私は太極拳についてはいささか修めたと言えるが、太極についてはまだ学び始めたばかりだ」というようなことを書かれていたのを思い出した。

 

 

 

 

2012/12/8

 

今日は風の強い中保土ヶ谷で7人が練習。

毎回教えることがありすぎて収集つかなくなる。

 

今日のテーマは、脚の最も外側のラインを使う重要性の認識(右上のイラスト参照)。

この脚のラインは膀胱経(脚の裏側センターを通る経絡)と胆経(脚の側面を通る経絡)の間にある。正経の12経絡の中には含まれないが、身体の最も外枠を使うために必要なラインだ。

これが身体の左右の最も外枠のラインになる。

手足の小指につながるラインだ。

身体の左右の重心移動などは、全てこのラインを使う。このラインは最も馬力のでるライン。

イラストの紫部分が帯脈(臍ライン)だが、この脈状に命門やその左右隣りの”腰眼”(腎臓のあたり)がある。ここが発力の源。肝心要。しつこいくらいの腰回しも、ひとえにここを鍛え鍛えぬくため。

 

歳をとると身体の外枠から使えなくなってくる。子供のころ丸かったおしりが、いつの間にか四角くなり、気が付くとおしりの”ほっぺ”がしぼんで老人のあのおしりになる。

身体の中心に近い部分は生存により関わるため、歳をとっても使うことができる。

身体の外周部は”生存”よりも”運動”に関わったりする部分。また、中心からの身体の力が充ち溢れてこそ稼働可能になるちょっと贅沢(?)な部分でもある。

 

太極拳では身体の可動域を最大限にすることを大事にする。

実際の生活ではそこまで必要ではない。スポーツにおいても、スポーツ毎に主要に使われる身体の箇所が異なり、必ずしも身体のあらゆる箇所を総動員しなくてもよかったりする。

実際に必要とされる部分を選び取って局部的に鍛える方法もあるが、身体が潜在的に使えるキャパを増やせば増やすほど、その一部分を使う時に余裕がでる。時速200キロが簡単に出せる車が100キロで走る場合と、時速120キロまでしか出せない車が100キロで走る場合の違いのようなもの。

 

站樁功を教えていて、最近数名の新しい生徒さんから言われたのが、重心が思っていたよりもずっと後ろだということ。自己流で2年近く站樁功をしてきたが効果が感じられない、と言って個人レッスンを受けにきたある生徒さんは、「重心が”恐ろしく後ろ”でびっくりした。」と言っていた。

確かに私が自分でやっていても、まだ後ろ、まだ後ろ、という感じがする。

最近やっと、ここが本当の後ろのライン、というところに達した。それは背骨のS字カーブが直線(弧)になって、背中が”アジの開き”のように平に開いた状態。これが身体の後ろ側の最外枠。

 

この身体を前後で見た場合の最も後ろのライン、そして上に書いた身体の左右の最も外枠のライン、これが共に使えるのが理想的。

 

 

このお手本のようなのが左のシャラポワ選手の身体。

背骨が尾骨まで一直線に伸びていて、身体が左右に完全に開いている(”アジの開き”状態)。

身体の最後方まで力が達している。

太腿の筋肉のスジは、上イラストの赤ラインを示している。

 

この選手(ストーサー)の背中も完全に開いている。

上のシャラポワ選手に比べると、若干お尻の左右の開きが少ない(→太腿の赤ラインが完全には使えていない)ような感じも受けなくはない。

いずれにしろ、站樁功は身体の最外枠まで使えるようにする練習でもある。

実はきついのが当たり前。

らくちんな姿勢で一生立っても、”気持ちいい”、以外の効果は望めない。

やはりその意味においても、少し踏ん張って、自分の限界を引き上げていく毎日の努力が必要。

 

 

2012/12/7 <もうちょっと踏ん張る>

 

家の近くの公園で一人で站樁功1時間半。

普段生徒さんを教えている日は、概して站樁功の時間が短くなってしまう。

みんなが来る前に行って先に立っていれば良いのだが、家族の生活リズムもあるので自分だけ早く出て来られなかったりする。

 

大体30分立って身体が下に沈み落ち着いてくる。そこからの30分は身体を奥の方から見ている感じで、自分と身体の間に分離が起こる。身体が勝手にいろいろなことをする。へぇ~、こんなところがこんな感覚になるのね、なんて傍観者になって味わっている。大体1時間経つと一旦集中が切れる。外に出てきて、眼を開けてみる。外界がとても穏やかになっている。平和な感じ。1時間前の自分の状態とかなり変わっている。風景までが変わって見える。

 

ここからもうひと踏ん張り。

終わろうかなぁ、と思ったそこからの5分、10分がとても貴重な体験になる。

これは師父に良く言われたこと。

せっかく1時間経って落ち着いた良い状態になったのだから、ここですぐに止めてしまってはもったいない。

もう一度目をつぶって入っていく。ほどなく新しい感覚が出てくる。

30分近く立って収功。そしてその状態を保持して動功にうつる。

すると、ああ、こういうこと~、と、站樁功で新たに出てきた感覚と動功が結びついてくる。また一つ、二つ、これまではっきりしていなかったことがはっきりする。

 

毎日同じような練習なのに、毎回新たな発見があるのがこの練習の醍醐味。

しかしそれは手放しで得られるものではない。

注意深い感覚と、”もうちょっと”の踏ん張りが必要。

それがなければ惰性での練習になり、新鮮な感覚がなくなる。次第に練習意欲も落ちてくる。

 

ちょっと辛いなぁ~、という時にもうひと踏ん張りできるかどうか。

そこが、進歩するか停滞するかの分かれ目なのだと思う。

辛いところを頑張る時、身体のエネルギーが総動員される。身体も脳と同じで、その多くの部分が活性化されないまま眠っている。

子供の頃はまだしも、大人になると自分の限界を試すようなことも滅多になくなる。

生ぬるくなる。

心身の活性化、老化防止には毎日のちょっとした挑戦が大事。

 

(右上写真は夏の写真。だから半袖。站樁功は横からみればこんな感じ。ご参考まで。) 

 

 

 

2012/12/4

 

今日は常連メンバーの練習日。午前中雨ということもあり、久しぶりに会場を予約して室内練習に切り替える。

が、直前になって体調不良のためのドタキャンが相次ぐ。結局集まったのは私をいれて3人。お互い顔を見合わせて、「やはり残ったのはこの3人か~。」と苦笑い。

 

これだけ毎日のように様々な身体に接していると、どのような身体の抵抗力が強く、どのような身体の抵抗力が弱いかは類型的に分かってくる。

 

まず言えるのは、”開きすぎ”の身体は弱い。口がぽか~んとしているのに象徴されるような締まりのない身体。こういう身体は肛門や膣も開いている。毛穴や皮膚も開いていてバリア機能が低下。開いたところから邪気や菌が入る。

また、動きの少ない不活性な身体も弱い。どろどろした感じ。軽快感がない。体調が悪く有りがちで用心し過ぎる結果、更に不活性化する。体内の循環が悪い。体内が冷え、熱が作り出せない。熱がなければ邪気も追っ払えないし、菌も殺せない。せかせか良く動く人の方が病気をしないのはこの逆の道理。

そしてぐじゃぐじゃ頭を使って考えすぎる人も抵抗力が弱まる。いつも、あーではない、こーではない、と隣にいても煩いくらい頭の中が回転している。頭の中にゴミがいっぱいで、整理できていない。こうなると頭の方にエネルギーがとられて、身体の健全な働きのためのエネルギーが足りなくなる。自律神経もおかしくなる。

 

今日集まった3人で話していて分かったのだが、この3人の共通点は幼少期から甘やかされた生活をしていなかったこと。子供の頃、風邪を引いていたら、親や先生に叱られた。若しくは放っておかれた。風邪を引くのは健康管理ができていないせいだと、私も小学校時代から先生に言われていた。同情なんてなかった。だから風邪の初期の多少の熱なら体育の授業は出ていた(あの頃の体操服は真冬でも半袖&ブルマーだった!)。すると運動場を走り回って授業が終わるころになると風邪も吹っ飛んでいたりする。最初は身体がだるくて動きたくないのだが、でも、頑張って動けば風邪は治る、と、子供ながら信じていたような気がする。ちなみに、筋肉痛で歩けないときも、頑張って無理やり動けば動けるようになる!と知って実行していた。(そう言えばあの頃はアタックナンバー1が大好きだった。巨人の星、然り、根性ものの多い時代だった・・・。)

結局、どこかに甘さがあると、すぐに邪気(病原菌)はすぐに入り込む。

精神の甘さ、身体の甘さ。

 

人間の生活様式が自然から乖離するに随って、人間の質も弱くなってくる。私の祖父母や父母の世代と私の娘の世代を比べると、その身体の質の違いは一目瞭然。

鉄も火を潜り抜けてこそ立派な刀になる。人間も同じかな、とまた自分に喝を入れるところ。

 

 

 

2012/12/3 <思い込みを減らしていく>

 

もう12月。

この前まで猛暑だとか言って暑さ対策に一生懸命だったのに、気が付けばもう寒さ対策に変っている。

世界の国々の中には、真夏は40度近く、真冬は-20度近くになるところもある。私自身寒さは苦手だが、少なくとも東京近辺の冬は零下になることも滅多になく、天気も良い日が多く、温暖で過ごしやすいと思う。パリから日本に戻ってきた時の最初の日本の冬は、花も咲いていたりして、まさに”天国”に思えた。

 

然るに、テレビなどを見ていると、「今日は今年一番の寒さです。」とか「今日は冷え込みがとても強いのでしっかり着込んで下さい。」とか、えらく大変な事態がおこったかのような口ぶりの報道が毎日のようにされている。街に出てみると、案の定、まだ10度はあるのに、極寒の地に行ったかのような服装をしている人もいたりする。とても大げさで面白いくらいだ。

 

人間ほど暗示にかかりやすい動物はいない。

小さい頃から親に「寒いと風邪を引きますよ~」とか言われて、だるまのようにたくさん服を着せられていたような人は、大人になってもどこかにそれが残っていて、「寒いと風邪をひく」と信じて、本当に風邪をひく。そして「寒いと風邪をひく」という信念が更に強くなる。

私の周囲にも、「ワンワンはかわいいね~。だけど、ニャンニャンは怖い怖い!」などと子供に言い続けていたママがいたが、その子供はやはり猫を毛嫌いする大人となった。

これは洗脳以外の何ものでもないが、この最たるものが宗教教育だったり、某国における反日教育だったりする。

 

私達は様々な形で”教育”という洗脳を受ける、いつの間にか、それを自ら検証することなく、無意識で信じ込んで生きている。これは人間の性だが、人生折り返し地点に来たら、一つ一つそれまでの”信じ込み”を落としていく努力をしなければならない。死ぬまでにあらゆる偏見を落とし、スッキリ、振出しの純粋な形に戻って、あの世に旅立たなければならないと思う。

 

前にも少し書いたが、太極拳の練習をすると、「あれっ?これは思っていたのと逆だなぁ。」ということがよくある。おしりは力をいれず緩ませておくとか、いつもぶらぶら力を抜いておくとか、がに股で座るとか、背筋をまっすぐ伸ばし過ぎないとか。そんな身体の使い方から始まり、徐々に本来の人間のあるべき自然な姿を考えるようになったりするうちに、意識が変わってくる。私自身そうやって少しずつ気負いがなくなり、苦手だったリラックスもできるようになってきた。それまで知らずに信じ込んでいた事柄に気付くことは目から鱗。また見つけた~!と一人嬉しくなったりする。

 

新しい考え方は新しい自分の誕生。昨日の自分と今日の自分が全く一緒だったら面白くない。自分で自分に飽き飽きしてしまうだろう。自分をいつも新鮮に感じられるような自分でありたいもの。そのためには常に古い、用のなくなった考えを落としていかなければならない。世の中の”常識”に流されない様、注意深く意識的に生きたいもの。

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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