2012年 6月

2012/6/27 <卓球と太極拳のコラボの会?>

 

 一昨日夜、大学の卓球部の先輩(兼私の弟子?)の計らいで、現在卓球界において独自の卓球理論を打ち出して確実に成果を上げて来ている、まさに”上昇株”の指導者、平岡義博さんという方とお会いする機会があった。

 平岡氏の身体の使い方に関する考え方は太極拳での身体の使い方と酷似している。そのことに気付いた先輩が、うまく私と平岡氏を会わせる場を設けてくれたというのがそのいきさつ。(平岡氏の著書に『卓球スパイラル打法』というのがあるが、これはまさに太極拳の螺旋の勁を使う打法。また太極拳の要領『梢節領、中節随、根節摧』にも関連あり)

 

 といっても、形式的には新宿歌舞伎町での飲み会。しかし、平岡氏、そして集まった卓球部の2人の先輩は、筋金いりの”卓球狂”。ただの飲み会にはならなかった。

 一人の先輩は、せっかく平岡氏にお会いできるのだから、と、質問事項を書き出してきていた。飲み食いよりも、終始卓球関連の話で盛り上がったのだが、途中からは、フォアハンド、バックハンドの際の身体の使い方を平岡氏に実際に立ってやってもらうよう、私達がリクエスト。

 確かにその打ち方は、私が中学時代に習った、あの、教科書的な打ち方とは違う。しかし、見ていると、平岡氏の打法は太極拳での身体の使い方をベースに置いていて、身体の構造に対しとても自然な動きになっている。それに比べて私が習った(たぶん日本で卓球を学ぶと基本として教えられる”あの”)打ち方は、不自然で無駄に力が入ってしまうのが分かる。

 そもそも私が太極拳にすぐ入り込めたのは、それが卓球と似ていると感じたから。卓球の指導者の中にもそのことを感じて太極拳を習い始めた人もいる。しかし平岡氏の理論を見て、聞いて、ああ、ここにも太極拳の身体の使い方が応用できるのね~、と、太極拳の適用範囲の広さに改めて感動するとともに、それに気付いた平岡氏にも感服。

 太極拳がここまで卓球に応用できるなら、太極拳での練習を少し平岡氏に体験してもらおうと、飲み会の場にも拘らず、平岡氏に立ってもらって、推手や脚を回しながらの脚相撲までしてしまった。飲み会なのか鍛錬の場なのか?

 結局、終電を逃しかけるギリギリまで盛り上がったのでした。

 

 新宿駅へ向かう帰り道に、平岡氏は嬉しそうな顔で「これでまた新しいアイデアが浮かびそう。使わせて頂きます。」と一言。太極拳での身体の使い方が卓球にそれほど有用なものなら、是非使ってほしい、というのが私の気持ち。

 平岡氏はこれまで明治大学卓球部監督も務め、トップクラスの選手の指導を行ってきている。そして今年初めに全日本5連覇していた水谷選手を破って優勝した吉村選手の指導も手掛けている。小学生の部での全日本チャンピオンも出している。この先は女子の日本チャンピオンを出したいらしい。・・・太極拳理論をうまく使った選手が日本や世界で活躍するのを私も是非見てみたいところ。

 平岡氏の今後の活躍に期待しています!

 

 この飲み会の模様は平岡氏のブログで『卓球と太極拳のコラボ』として書かれています。    http://nblog.mrsc.jp/cat/80/

 (大学時代の私の非常識さが暴露されてしまいました。・・・が、今でも根本的に非常識なのは変わらないかも。敬語はこの20数年で随分使えるようになりました!)

 

 今回話題になった卓球と太極拳の具体的な共通点については、どこかでメモにしたいと思っています。今日はここまで。

 

2012/6/25  <六字訣、耳>

 

今日は1か月ぶりに、声楽家の生徒さんの先生のお宅で特別レッスンをした。

声楽の先生は80歳になるが、発声の方法が太極拳での身体の使い方にそっくりなことに感銘を受け、少しでも声楽のお弟子さん達のためになるようにと、私を呼んで身体の使い方のレッスンをするようになった。

 

声楽をやる人達は身体の中の感覚をとるのが人一倍早い。

丹田を見つけるのも、腹式呼吸と胸式呼吸の転換も、大体一回でできるようになる。

 

今日は六字訣を試してみる。

音によって内臓を調整していく古くから伝わる代表的な気功法。

無音で立っているより早く身体の中の感覚がとれるのではないかと思い、試してみた。

案の定、効果あり。・・・だがその効果に最も感動していたのは、大先生だった!

「この方法、すごいわね~。」という先生の反応を見ていたら、私よりも強く音の身体に与える影響を体感しているようだった。

実は、その先生の身体は、気功のマスターにとても似ている。腰がしっかりしていて、気が沈み、肩や胸が落ちている。「肩こりとかしないですよね?。」と私が尋ねると、「肩こりはしたことがないわ~。」と言う。

 

レッスンが終わって、その先生が、耳鳴りがしているようだと訴える。これはたまにある現象のよう。

私が、最近自分が意識的にやっている、耳を澄まして耳の奥から下向きに一直線に身体を開けながら会陰に辿り着く、という方法を簡単に示唆してみる。

先生は瞬時にその感覚を探し始めた。私はその様子を見ていたが、先生が意識を耳奥(脳)から下に降ろしていくのが分かる。ほどなく会陰に達した。すると、先生が私を見て、「ああ、不思議、耳鳴りがなくなった!」と一言。

 

私は耳鳴りがなくなったことよりも、あの脳下垂体あたりの部分から会陰まで真っ直ぐに通路が通っていることにびっくり。気功や太極拳の練習などしたことがなくても、声楽の練習でそれができるようになることを目の当たりにした。

 

体のど真ん中の柱もしっかり通す。

これは太極拳や声楽に限らず、”すべての”基本になるのだろう。

 

 

 

2012/6/23 <功夫>

 

 保土ヶ谷の練習。男性の新しい生徒さんが来る。

 これまで太極拳を十数年学んでいるというだけあって、外枠がかなりできている。

脚の左右開脚もほぼ180度開き、座って上半身を完全に前に倒すことができる。

男性でここまで開脚、前屈のできる人は珍しく、これまで練習を継続してきたことが良く分かる。

 

 その生徒さんが私のところに練習に来た目的は、身体の「中」の力を養いたいということ。ある程度の年齢に達し、その重要性に気付いてきたという。

 私が手をとって、少し引っ張ったり、推手もどきの練習をすると、丹田の力が少ない分、肩や腕に力を入れてしがみついてくる。

 実際に対練をすると、力の強さ、弱さがあからさまになる。

 一人で行う套路ではそれがなかなか実感できない。

 

 太極拳を学ぶ第一目的は「身体を強くすること」。

 太極拳の老師であるからには、まず、「強くなければならない」と師父にはっきり言われている。女性だからと言ってその点は妥協が許されない。

 ただ踊りのように優雅に動くのでは太極拳とは言えない。

 一般の男性(このような練習をしていない男性)相手なら余裕で振り回せるくらいの身体の力があって当然だと私は思っている。(いつの日か師父を負かしてみたい、と思っていたりもする。師父には公言済み!)

 

 面白いのは、相手と手と手を合わせた時に、相手の”力”がそこそこ読めてしまうということ。 実力が拮抗していると、少し動かしてみたりして探らなければならないが、身体の力=功夫に差がある場合は、手を合わせた瞬間にお互い勝ち負けが分かってしまう。今日の生徒さんも私と手を合わせた時に、既にもうダメだ、と分かると言っていた。

こうなると、技術云々の話ではなくなる。

 

 太極拳の套路は技をつなぎ合わせてできている。だから套路を練習する時には合わせてその中に含まれる技を知り、技を効果的にするためには身体をどう使わうのか、どのようなタイミングで動くのか、力はどう入れどう抜くのか・・・等を身体で知ってという初めて套路が意味をもってくる。

 このような練習は重要だし、私自身技を学ぶのがとても好きなようで、知らず知らず心身が高揚して、どこかで使ってみたくなったりする。

 しかし技を学ぶのはとても大事だが、功夫(身体の力)にあからさまな差がある時は技が無効になってしまうこともある。

 例えば第三式(ランザーイー)のところでは、両手をねじられた場合の外し技(外しながらの反撃)があるが、もし、相手が自分の腕をねじり上げる力がものすごく強かったりすると、セオリー通りに外そうとしてもビクともしなかったりする。また、急所を狙って効果的に攻めたつもりが、相手はそれほど痛さを感じず逆に手を取られてしまったりもする。相手が大きな山のようにどっしりしていると、こちらがチョコチョコ動いて手を出しても何の意味もなかったりする。それは大人が幼児を相手にケンカするようなもの。幼児につねられようば、蹴られようが、大人は笑って受けていられる・・・。

 

 太極拳の有名な諺で「一に功夫、二に胆力、三に技術」というのがある。

まずは身体自体の力の強さが大事。これがあれば体当たりだけで事足りることもある。

そして二番目に思いきりの良さ。躊躇していたり迷っていてはいけない。

そしてやっと三番目に技術。

 今日本に住んでいると、敵に襲われるという場面にはめったには遭遇しない。すると、技を学んでも日常生活で活用する場面は一生に数度もないだろう。

 しかし、身体自体の力を強くするということは、生命力の維持であり、生きる根本の力を育むことだ。青年期に身体の力はピークを迎えるが、それは次第に下降線をたどる。その生命力を衰えさせないようにするには意識的な鍛錬が必要になる。そして、強く自信を持てる身体、ほとばしる生命力があれば、第二番目の胆力という精神面の強さも自然についてくるような気もする。

 

 ということで、やはり内気を養い、内気を煉り、内側から身体を強くする練習が第一だと実感。それにはやたら動き回ることはせず、じっと立ったり(站樁功)、座ったり(坐禅)、そして良く寝る(休息)が大事。これも立派な修錬。動くことだけが修錬ではない。

 太極拳を学ぶということは、あらゆる側面で自分を自然の規律に合わせていくこと。そしてそれは陰陽のバランスをとることでもある。そう見ると、「動」の状態にありがちな私達現代人は、かなり積極的に「静」の状態に身を置くことが必要だと思う。

 

 

 

 

2012/6/21 <夏至>

 

今日は夏至。陽気が極まる日。このような特別の日は静功をしっかりやる、と教えられている。

パリで練習していた頃は、立春が一年の始まりということで、師父と一緒に3時間立っていた。立春になる正確な時間を調べて、時間に合わせて練習した。

今日は午前中一人で1時間立ち、夜は1時間の坐禅。

午前中立った時はなかなか気が下がらず、下がってもまだ身体の中で気がざわざわしているようだった。やはり冬の站樁功とは随分違う。陽気が強いというのはこういうことなのかなぁ、と感じる。夜の坐禅は身体が内側から最大限に開き、腰がこれ以上開いたら壊れるかも、というくらい。身体中の気の圧力で、身体が内から外にこじ開けられるようだ。おしりから前頭部が楕円の輪っかでつながっている。身体が一つになるというのはこんな感じなのだろう・・・。こんなに身体が開くのも陽気の強い夏のおかげ。

これから陰気が芽生え、次第に陰気が増えていく。

それとともに、浮きがちな心、身体も次第に落ち着いていくだろう。

夏には夏の良いところがあり(eg.身体が開きやすい、活動的)、冬には冬の良いところがある(eg.気が溜りやすい、落ち着きがある)。

 

夏には夏を楽しみ、冬には冬を楽しむ。

夏に冬を想い、冬に夏を想う、みたいな態度だけは避けたいもの!

 

 

2012/6/19 <教え方に関する迷い>

 

 ここ数日、毎日どこかでレッスンがあった。とりわけ週末は様々な生徒さんを教え、毎日5時間程度動き続けていた。私の教え方はある意味即興的で、私自身、毎回その時にならないと何を教えるか分からない。しかし、こんなに生徒さんに合わせて即興的に教えてよいのだろうかと、疑問が湧いてきた。

 

 太極拳を習いに来る人は実に様々。

 純粋に太極拳を知りたい、という人もいるが、身体に不調があるからそれを解消したい、身体を強くしたい(体力をつけたい)、痩せたい、自分の好きなスポーツや武道、楽器演奏等に役立てたい、精神的に落ち着きたい・・・など。

年齢層も10代は少ないにしても20代から80代と幅広い。病気持ちの人、とても健康な人、と、身体の状態も様々。

 

 これらの人達にどう教えればよいのか?

 教え始めたころは、私が習ったように、生徒さんに教えた。

しかし、しばらくして、私と同じように皆ができるわけでないことが分かってきた。目的意識も違うし、費やせる時間、努力の量も違う。師父が私に要求したことを私が生徒さんに要求したら、きっと殆どの人は練習が嫌になってしまうだろう。次第に私は生徒さんの必要性に応じて練習をアレンジするようになっていった。でも、いつもその根底には、私が味わった感覚を、少しでも早く、少しでも省エネで味わってもらいたい、という気持ちがあった。

 

 師父が若かったころの一昔の中国では、太極拳を教える人は”教えてあげる”という立場だったようだ。教わりたい人の数の方が多かったので、老師はまず生徒をふるい落として、残った生徒だけに教えた。練習についてこれる生徒しか残らないが、本物が伝承されていた。

 しかし、社会が開放化されるにつれ、教えることが一種の商売となってきた。すると、「門外不出の秘伝」であっても、お金さえ払えば門外に教えるような老師も多く現れるようになった。生徒さんを広く多く集めようとするので、教える内容も表面的な形、技術的なものになり、”苦しく時間のかかる練習”によって得られる地味な内功はあまり教えられなくなった。

 現在の中国でも、公園でたくさんの人が学んでいる太極拳はこの類のもの。ただ、これでも日本のラジオ体操と同じで、毎日練習していれば心身共にそれなりの(相当の)効果がある。

 

 今日、常連の生徒さん達と練習後話をしていて、私が以前ほど生徒さん達を長時間立たせなくなったと指摘された。

 確かに、帰国直後は、最低でも30分、できるだけ1時間、若い男性には1時間半近くを要求した。しかし今ではせいぜい30分しか要求しない。

 師父は毎日1時間3か月立てば、身体の中の気の動きを感じ始める、と言っていた。(私自身の練習を振り返っても、それは概ね正しいと思う。)一旦その感覚が芽生えれば、その後続けるのはそれほど難しくはない。身体を調えるための方法としての習慣にもなる。

 しかし私自身、個々の生徒さんに接した時、「毎日1時間、3か月」という要求をできずにいる。その代り、「毎日腰回し36回づつ」とか言ったりするが、それでも続かない人は続かない。

 ここ数日、教え方についていろいろ考えているのはそんなところ。

 本当のことをすると狭い範囲の人にしか教えられない。広く教えようとすると内容が薄まってしまう。間口は広くとって、本当に深くやりたいという人にはその分努力をさせる、というのが良いのかもしれない。

 「実際にやるかやらないかは生徒の問題。しかし教える立場のものは、これをしなさい、と断固たる態度で言わなければならない。」と、師父が言っていた。あまり生徒さんの立場ばかりでものを考えすぎてはいけないということ。かと言って、教える側が一方的に要求するのも極端。つまり、これも中庸、バランスが大事ということだろう。なんとも曖昧な結論だが、今しばらくは、こんな感じで”柔軟に”進むしかないかなぁ。

 

 

 

2012/6/14 <引っ張り合いの力、『争力』>

 

梅雨に入ったが、今日は爽やかに晴れた。緑に囲まれて練習するのはとても気持ちが良い。

毎回の練習時間は1時間足らずと少ないが、屋外での練習の気持ち良さが好きで通い続けている70歳の女性がいる。謙虚で優しく美しい、私も含め皆が憧れるような女性。

 

彼女の問題は、時にふらついて足元がおぼつかなくなること。一時期は脳に問題があるのかと思い、病院で検査をしてもらったこともあるようだ。

私が見たところでは、まず、脚が外側重心になっていて、内太腿が使えていない。言い換えれば、骨盤と太腿骨の接合点である大転子の方に体重がかかり過ぎ、会陰の力が遣えていない。ど真ん中の会陰の引き上げがないと、身体の中心軸が作れない。これが最大の原因。

そして下半身がぐらついて、下半身に自信がもてなくなると、無意識のうちに胸で身体を引き上げバランスをとるようになる。胸が出て、胸に重心が上がる。ますます浮き足状態になる。この状態で頭が少し後ろに傾くと、身体全体まで後ろに倒れそうになってしまう。

これは脳の問題ではない。身体の問題。

 

時々女性の生徒さんの中に同じような脚のつき方をしている人がいる。もともと骨盤が開き気味で、股関節を緩めたり外旋するのは大して問題がない。タントウ功をすると下半身の形がすぐにそれなりにできてしまう。しかし、いったん動いてみると、両脚付け根が開いたようになっていて、股関節がカクカク動いて下っ腹の力が全く生まれててこない。右の股関節が動いた時に、それに連動して左の股関節も同じように同方向動いてしまうので、腹の中で引っ張り合いの力が働かず、力が生まれてこない。これでは「丹田」が現われてこない。

たとえ会陰を引き上げてもそれが丹田につながらなければ、身体の中心軸がとれない。(会陰の「点」は軸にはならない。軸は「線」。会陰と丹田がつながるのが第一歩。毎日地道に練習していれば、その柱が徐々に太くなり、かつ上にも伸びて頭頂に達し、貫くようになる。そうすると、どっしり安定。ちょっとやそっとのことではブレない。私自身、馮志強老師の隣に座った時、その”柱”の太さに驚いた覚えがある。)

 

例えば、タントウ功の形で立っていて、そのまま腰を右に水平に回した場合、右股関節が右側に旋回していくが、それにつれて左股関節も同じ角度だけ右側に回すと、お腹がねじれてしまい、下っ腹には何にも力が生まれない。

同様に腰を右に回す時に、右脚の股関節が右に旋回しているのに、左脚の股関節をあまり動かさないようにする(左脚の内太腿の力で旋回をブロックする)と、右股関節と左股関節の距離が広がり、それとともに下っ腹に力が出てくる(丹田が現われる?)。

 

太極拳の動きの基本が”引っ張り合いの力”(『争力』。180度正反対に働く力)。

上と下、右と左、前と後ろ、至る所でこの力を発見する。それにより丹田が現われ、身体の中心軸も通る。

それにしても、右と左の股関節の間でもこの引っ張り合いがあったとは・・・。

そう言えば、どんな小さいところでも陰陽に分かれるというなぁ。(ここで止めます。)

2012/6/11 <言葉を媒介にして感覚を伝える>

 

朝になって昨日書いたメモの内容につき、ある人から「難しいなぁ~」とのコメントあり。やっぱり。本人以外には伝わらない内容なのかも・・・。

 

身体の動きを説明するとき、外の動きを解説する仕方と、内から感覚的に説明する仕方がある。前者は、「この腕をこの高さに持っていって、角度は75度くらい、腋と腕の間に卵二つ分くらいの空間をとって、動かすときは肩から螺旋で・・・」というようなもの。後者になると、「腕を上げた時にちょうど下から持ち上げられたようにロックのかかるところまで上げ、腋の汗がうまく出るような感じで腋に空間をもち、胴体と腕がつながるのを感じる、動かす時は肩甲骨から力を引っ張り出してこれるように微妙に肩を回す・・・」というようなもの。

 

ウオーキング教室とか、正しい姿勢を学ぶ教室とかもあるが、その際、本当に大事なのは、正しい姿勢、歩き方の際の自分の身体の感覚を記憶しておくこと。「ああ、こういう感じなのね」というのを身体に染み込ませる。身体に印をつける感じ。身体に記憶が残れば、また再現可能だが、身体の感覚なしに身体を外から矯正しても、一回ぽっきり成果にすぎず、すぐに元に戻ってしまう。「ああ、思っているよりも、左に重心をかけるんだ。腰が太くなった気がするなぁ。」など、その時の感覚を頭ではなく身体に確認させる。

 

 人の中には、もともと感性の優れている人がいてい、そのような人は身体の感性に従って身体を操作、調整することを知っているので、いちいち言葉に置き換える必要がない。ただ、一度バランスを崩すと、どのように立て直して良いか分からなくなることもある。

 一方、感性よりも理性の強い人は、言葉による頭の理解によって身体を操作しようとする。これができるのが人間の脳の素晴らしさだと思うのだが、大事なのは、言葉は入り口、ヒントに過ぎないので、入ったらその後は言葉を捨てて、じっくり身体でその新しい感覚を味わうこと。すると身体が覚えてくれる。

 

 私の生徒さんを見ていても、頭から入って太極拳を学ぶ通常の場合は、最初は正しい動作をすることに頭が使われていて、内側の身体の感覚を味わうことができない。頭が動作を覚え、それから少しずつ身体が覚えていって、その後、やっと感覚で動くことができる。大体目安は24式を一通り覚えるところまでが、頭の段階、2ラウンド目あたりから、徐々に”その時の身体の感覚”というのに意識が向くようになる。太極拳の練習が俄然面白くなってくるのはそのあたりから。頭で覚える段階を脱すると身体が主導になり感覚の世界に踏み入ることができる。

 たまに、覚えることなんて最初から念頭になく、ただ感覚だけで動く生徒さんがいる。この場合、外から見ると動きはかなりいい加減。でも、本人はとても気持ち良さそう。気功の練習だとこれも可、なのかもしれないが、太極拳では形の正しさが重視される(「形不正、心不正(姿勢がいびつな人の心は曲がっている?)、あるいは、「形が正しければ心が正しい」という)から、形も徐々に直していかなければ進歩がない。

 

 単純な動き、例えばコップを持ち上げる動きでも、言葉で説明するとえらく難解になる。だけど、横でその動作を見せてあげれば、普通は簡単に真似ができる。百聞は一見に如かず、ということ?

 伝統的な武術や武道の練習では、師はほとんど言葉を使わない。たまに一言ささやいてくれるだけ。見て盗め!という態度。これは<師の感覚→生徒の感覚>の最短ルート。

 でも、最近ではコーチングも大流行。一流選手が一流コーチにはなれない。感性の人は言葉にできず人を教えることができない。

 

 どう説明すれば、どう誘導すれば、生徒さんに感覚を掴ませられるだろう?と試行錯誤するのも私にとっては楽しい作業なのかもしれない。

 それは、私が”身体で見せる”という<感覚→感覚>の通常のルートに加え、<私の感覚→言葉→生徒の感覚>という言葉経由のルートを加味したもの。

 言葉を介する迂回ルートは誤解も招くこともあるが、自分の感覚と相手の感覚が一致した時は、何故か、”一致した!”と感じられるからそれも不思議。私は師父と話す時拙い中国語を使っているが、言葉はともあれ、ちゃんと感覚が一致していることが分かることが多々ある。一方、こんなに流暢な(?)日本語を使って一生懸命話しても、”ああ、だめだ、分かってもらえない~”ということもある。結局言葉の背後にある感覚の共有、経験の共有、というのが大事なのだろう。悟りに達した人同士が出会うと、言葉を交わすことなくそれだと分かる、というのはその極致なのかもしれない。

 生徒さんが、「ああ、これ?!」と掴んだ時、私には何とも言えない嬉しさがある。

 あまり難解にならないよう、いろいろな引き出しを持って説明できるようにしたいと思います。

2012/6/10 <股関節を”緩める”、”開く”とは?>

 

春先頃から体内の気の量が増えるとともに、右腰に気が詰まりがちになっていた。そこへ先週あたりから右内股関節にも気が詰まり、開脚の時に痛みが走るようになった。

このような状態で生徒さんを教えながら練習をしていたら、先週末から右膝に痛みが出てきた。

 

そんなこともあり、今週一週間は、腰、股関節、膝の関係を自分の身体でいろいろ探る時間にあてた。

日ごろから生徒さんには、膝を傷めないよう、かなり様々な注意をしている。

・・・股関節を開かずに屈伸をすれば、膝小僧を直撃して膝を痛める。だから、中腰姿勢になる時は、膝を曲げる、と思うのではなく、まず、股関節を後ろに引く、すると、膝は後ろから折りたたまれて、結局曲がったようになる。つまり膝は膝裏の筋の曲げ伸ばしによって曲がる。”曲げる”のではなく”折りたたむ”意識。そのためには、まず股関節が”緩む”(後ろに引く)のが肝要・・・・・

と、これまでどれだけ生徒さんに言ってきたか分からないが、実際、自分に不調が出ると面目なく、再度細かくチェックをしなければならないと思った。

 

結局、今回の私の問題は、股関節上の肝系の経絡上のツボに詰まりがあり、股関節を少し外旋させると、それに連動して股関節が前に出てきてしまい、膝に力がかかってしまうこと。

これを治すために、股関節のシコリをほぐし、站樁功の際、まず、①股関節を後ろに引き股関節を緩めておいて(腹と太ももをつなぐ筋肉や靭帯を緩めておく)、②腹と太ももの間の溝(これが所謂股関節?)に人差し指を沿わせてぎゅっつ、と入れ込んで固定しておき、③この人差し指が”溝”に入ったままの状態を保持しながら、太ももの付け根を”ほんの少し”外旋させる、という手順を踏んで練習した。

 

いつも、当たり前のように使っている”股関節を緩める”とか、”股関節を開く”という言葉だが、実際は、何がどうなっているんだろう?、と???の一週間だった。

例えば、(1)前後開脚や左右開脚が180度できれば事足りるのか?(2)そもそも、股関節を緩める目的は何なのか?(3)股関節を”開く”と”緩める”は同義なのか?(4)股関節を緩めるとは何なのか?etc.

 

そして、出た簡単な答えは、

→(1)事足りず。開脚できても站樁功の形がとれないケース多々あり。しかし、站樁功の形がちゃんととれる人は、開脚ができる、は是。開脚は前提条件。(それ以上の分析はまだしていません。)

→(2)緩めることにより、瞬時に上でも下でも前でも後ろでも、どこにでも動けるようにする。(ということは、”会陰の引き上げ”は”緩める”ための前提条件?会陰の引き上げなしに股関節をゆるゆるにすると崩れてしまう~。)

→(3)今回改めて発見したのは、”開く”と”緩める”は同義ではないということ。”開く”という言葉の意味が少し曖昧かもしれない。”外旋”を”開く”ととってしまうと、今回の私のように、股関節を外旋させようとして、かえって股関節を緊張させてしまい、膝に負担をかけてしまう。本当は、上に書いたように、下腹と太ももの境目の”溝”(もしくは”縫い目”)が”開く”というのが正解ではないかと思う。そうであれば、”開く”と”緩む”は同義になる。(実は、前股関節(太腿の前側と腹の接合部)が外旋するとき、内股関節(内腿と陰部の接合部)は内旋している(ような感じ)。そうすると、”溝”が開き、股関節が緩む。)

→(4)上記のように”溝”が広がること。そのためには、太ももと腹をつないでいる様々な筋肉や靭帯の伸縮率が大きくなければならない。筋や靭帯が固いと”伸び”が悪く、前股関節を外に開こうとすると内側の股関節まで連動して前に出てきてしまい、骨盤も傾いてしまう。中正がとれない。どこに動いても上半身が真っ直ぐ(骨盤が真っ直ぐ)でいられるためには、脚がどう動いても骨盤真っ直ぐ立っていられるような関節部分の可動域の広さが必要(・・・蟹さんを思い出しました)。

そして、骨盤を真っ直ぐにしたまま少し前股関節を外に向け、下腹と内太腿が面でつながるようになれば(後ろ側では腰から太もも外裏が面でつながる)、胴体と脚が一体化し、どこまでが脚で、どこからが胴体か、分からなくなる。文字通り”一体化”!これは、股関節を緩める意義でもある。

 

以上、今週自分が考察したことを、ざっと記しました。

股関節の柔軟性を再認識しましたが、これまで、股関節を”開く=外旋”の意味で教えてきたことは正しくなかったなぁ、と反省したのでした。”開く”ためには外旋と内旋が必要ということ。(生徒さんは話について来られてますか?質問あれば、また、練習の時にして下さいね。)

まだまだ、はっきり分からないこと、説明できないことがいっぱいです。

 

(書き終わってから、そもそも、股関節って具体的に何を指すのか??とまたまた自分の知識の曖昧さに気付きました。後で勉強するために、このサイトを引用しておきます。http://www004.upp.so-net.ne.jp/take-dr/kaibou/kaibou.htm

 

 

 

2012/6/4 <副交感神経、『静』>

 

 昨日は新宿、今日はカルチャーセンターで教える。

 カルチャーセンターは室内。しかも、気功や太極拳ではなく、太極拳をするための身体の基礎作りがその内容。

 

 タントウ功を少しして動功をするのだが、室内の練習は屋外と違って、”抜き”が少なく、私が調子にのって教えていると、生徒さんはかなりの疲労度に達していることが多々ある。だから通常は、站樁功と動功で1時間、残りの30分は座ったり寝っころがってストレッチをしている。

 動功が終わってストレッチ練習のために床に座った時の生徒さんの安堵の顔と言ったら・・・。「やっと座れた~!」という、ほっとした感じが伝わってくる。ストレッチは伸びない筋を伸ばしたりして苦痛を感じることもあるはずなのだが、この時ばかりは、みな、(伸びないながらも)幸せそうにやっている。

 

 こんな光景を見ながら、先日読んだ本の、交感神経と副交感神経のバランスをとる、という話を思い出した。

 本来、気功の練習は大脳を休め、副交感神経優位に持っていくもの。これが通常のスポーツと気功の大きな違い。一般的な武術の練習も、打撃や防御を念頭に置いた、交感神経優位の状態になる。

 そして太極拳の練習はというと、これはやりようによってどちらにも振ることができる。しかし、理想は交感神経と副交感神経のバランスをとるか、更には副交感神経を優位にして練習する。

 馮志強先生の太極拳の経典のような本には、練習の心得の第一番として、まず「心を静かにすること」と書いている。

 

 昨日の新宿の公園は天気予報が雨だったこともあり、人が少なく、この季節にしては静かな環境だった。そんな時は、自分を外界の静かさ、とりわけ、樹々の静かさに合わせていくと、いつの間にか自分も静かになっている。

 静かになる方法には2種類あるように思う。一つは自分の中に入りきってしまう方法、もう一つは外界の静かさ(探せばどんなにざわざわした場所でも耳を澄ませばどこかに静かな空間を探し当てられる)に自分を合わせる方法。私は後者の方がやり易いが、これらのことは、先日読んだ本に図らずも、浅田真央選手とキムヨナ選手の集中の仕方の違い、という書き方で記述されていた。自分の内へ内へと入っていって集中するタイプ(浅田選手タイプ)の場合は、うまく行けば大成功、しかしブラックなところに入ってしまうと失敗してしまう、一方、キムヨナ選手のように、周りに自分を合わせていって集中していくやり方は、リラックスモードも加わり自分を乗せることができる、というように書いていた。

 

 昨日の公園は静かだったが、近くに別の太極拳を練習するグループがいたり、子連れのお母さんが大声で話していたり、と、決して”無音”の世界ではない。

 もし、タントウ功の時に、そのお母さんの声や、カラスの鳴き声等に意識をチューニングしてしまっては内側が静かな状態に入ることができない。かといって、それを遮断するかのように、耳をふさいで自分の中に集中しようとすると、緊張して意識も狭くなり、静かな状態(実はこれは”広い”状態)にはいることができない。

 

 私自身が最もやり易いのは、樹や空間に自分を合わせて行って、すうっ~、とか、ふうっ~とした感じ(なんだか気持ちいい~)を得るようにするやり方。すると徐々に自分の内側の深みに入っていって、外界の音などは全部聞こえているのに、自分は奥深く、とても静かなところにいるような感覚になる。ここまで入ってしまうと、それから生徒さんがやってきて、私にあいさつをしてくれたりすると、返事をするのがとても大変になる。自分と外界の間の距離がとても大きいく、外まで出て行かなければ声を出すことができない。奥の方では、あいさつをしなきゃいけないかなぁ、と一瞬考えみたいなのが出てくるが(しかし、これは言葉にはなっていない)、そこまで出て行くのが億劫で、度々無視して立ち続けてしまう。

 

 こういう状態があると、なるほど、言葉の生まれる場所はかなり表層部分にあり、自分がそれより奥にいると言葉がなく感覚しかないのだということが分かる。

 馮志強先生の本の中には、『静かな状態になり、自分も物も全て忘れると、大脳の働きが休まり、疲労が取り除かれ、智慧が出てくる。中枢神経が潤滑に作動し、血液循環が良くなり、新陳代謝が高まり、内臓の働きも良くなる。生理機能が最も良い状態に調整され、体質は強くなり、病気にならず、長生きする。』とある。

 これはまさに副交感神経優位の状態。そしてそのためには”大脳の働きを休める”ことが大事だが、言葉を使うと大脳を休めることができない(と私は理解している)。とすれば、副交感神経優位の状態は、あの、”言葉のない世界”と通じるのではないか・・・。

 

 それにしても私のカルチャーセンターのクラスでの練習は、初期の頃、もっときつかった。特に男性に対して要求が高く、ことごとく脱落してしまった。今思えば、みな、太極拳と聞いて、もっと副交感神経優位になるレッスンを期待して来ていたのかもしれない。それなのに私は基礎体力、基礎の身体づくりとして、エアロビクラス並みの運動量を課したから、逃げてしまったのね、と反省。(注:教える経験をある程度積んだ今は、もうそこまでしません。)

 

 私も練習時だけでなく、日常的にも「静」の状態にいる時間が増えるように修行せねばならない。常に静かでいられるようになる、というのは大きな大きな目標。

 

2012/6/2 <根っこを伸ばす>

 

保土ヶ谷で練習。

站樁功を皆でやってみる。站樁功の状態は各人様々。

 

 一人の生徒さんは丹田に気を集中させようと、会陰の引き上げを意識的にやっている。そのため、下から上がってきた気(力が)胸の方に上がり、両腕にも力が入って”踏ん張った”形になっている。一方、脚は上に引っ張られて足裏がただ地面に接しているだけの状態になっている。これは『上実下虚』。本来のあるべき姿ではない。

 

 人間の身体は樹がお手本になる。

 脚が根っこ、胴体が幹、腕が枝、指が葉っぱ。上に行けば行くほど軽くなる。下がどっしり、上は飄々としているのが理想。

そしてその樹の大きさを決めるのは根っこ。根っこが地中に深く伸びれば伸びる程、樹は上に高く伸びる。盆栽のように、始終根っこを切ってしまうと、樹は永遠に大きくなることができない。

 

 私達の練習においても、根っこを伸ばすように練習しなければならない。

 練習の出発点は、まずは丹田に身体中の気(力)を集中させること。身体に回すエネルギーがなければ話が始まらない。(注:その際の要領は、胸の気を腹に下げ、会陰を少し引き上げること。それは『心臓の火を下げ、腎臓の水上げることにより、蒸気が発生』と喩えられる。)

 

 しかし、ここで注意すべき点がある。

 それは、特に男性が陥りやすいのだが、会陰を引き上げようとして、気を上に上げてしまうこと。だから、私の師父は普通、ある程度練習が進み上半身の力がかなり抜けてからでないと、『会陰を引き上げる』という要領を教えない。私自身はかなり最初の段階で言ってしまうが、それは、会陰の引き上げを教えずにタントウ功をさせた場合、ただでさえ股関節が外旋できず(緩められず)太腿の前面が痛くて仕方がないのに、会陰の引き上げで上半身を少し上向きに支えることをしなければ、上半身が緩めば緩むほど、脚にかかる負担が大きくなり、耐えきれないだろう、と思ってしまうから。(注:力が抜けると重くなるのというのは、死体を考えると分かります。)

 ただ最近師父の教え方にも一理ありと思うのは、緩んだ上半身を支えるだけの脚力をつけるのもとても大事だということ。

 

 また、もう一つの注意点としては、会陰の引き上げを”締めた”ようにきつくやると、身体の中に空間が取れず、気が流れにくいということ。身体も硬直し、脚も地面から浮いたようになってしまう。

 気が流れるには身体の中に空間が必要。そのためには、会陰は”空間を残したまま引き上げる”のが正解で、間違えても”締めて”はいけない。これは『堤肛』(肛門を引き上げる)要領にも通じる。肛門は締めるのでなく、”ちょっと開いたような感じにして(力を抜くということ)持ち上げる”というのが正しい。こうすれば、気が尾骨の先と肛門の間から入り、背骨に沿って自然に上がっていくことも可能になる。

 そして、会陰や肛門を軽く空間をとって引き上げていれば、足先に向かっても気が流れ落ちるようになる。足裏がべったり地面に貼りついたり、足裏が地面にのめり込んでいくくらいになれば、確実に根っこが地中の伸びていっている。

 

 根っこが伸びれば、意識せずとも自ずから気が上に向かって上がっていくというのが道理。

 『下に一寸下がれば上に一尺上がる』と言われる所以。

 

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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