2012/4/30
昨日はピアノの発表会だった。
実はこの数日、このピアノの発表会に向けての追い込みの心理的プレッシャーがあり、練習メモを書く余裕がなかった。それが昨日終わり、ほっと一息(やっと放松!)。
私は小学校に入る前から高校3年生までピアノを習っていたが、田舎で良い先生にも巡り合わず、ただ運動のように弾いて音楽性があまりないと言われていた。それでも音大に入りたいと思ったことがあったが、それは夢見物語で、結局大学に入るために上京してからはピアノと離れてしまった。
しかし、太極拳を始めて、ひょんなきっかけで、数人の良いピアノの先生と関わりを持つようになり、またまた昔諦めたピアノをもう一度やってみたくなり、半年前、中学生の時からの一番のあこがれの曲だったショパンのバラード4番に挑戦することを決めた。ピアノの先生は、「ちょっと、実力不足では・・・?」と不安気だったが、私はどうせ挑戦するなら一番弾きたいものを弾くと言い放って、でも、やはりピアノよりも太極拳の練習に精を出していた。
太極拳の練習がどの程度ピアノに活かせるか、それを体験するのが私の意図。腕の螺旋運動や、指先への気の運び方、掌の柔軟性、座り方、足の使い方等、太極拳の観点から調整してみたのだが、それは、ピアノの先生の教えることと一致していた。やはり共通点がいっぱい!と楽しく適当にピアノの練習をしていたのだが、悠長にやり過ぎて、結局暗譜したてで弾きこむ時間がなく、発表会に臨むことになってしまった。
こんな難曲を最後まで弾き切れるかしら?と不安に不安の中舞台にあがり・・・案の定、数箇所しくじって、会場まで来てくれた友人達まで緊張させてしまいました。
終わった後は恥ずかしさと安堵感から、一刻も早く舞台から逃げ去りたい気持ちで一杯で、お花を持って来てくれた友人にも気付かず去ってしまいました。みんな爆笑していたよう。
まあ、技術的にもまだまだだけど、高校3年のあの頃よりは(25年のブランクがあるにしては)随分上達したと、自分で自分を褒めています。やはり太極拳の練習はかなり役立ちました(何がどう関係しているかの分析、説明をどこかでまとめたいところ)。
ということで、記念のため、演奏の抜粋を貼り付けます(間違った箇所を削除したための抜粋?)。
これでピアノは一区切りつき、これからは太極拳の練習に没頭できるかと思います(今日もちゃんと練習しましたが、そのメモはまた明日にでも)。
2012/4/25 <套路の魅力>
昨日(24日)は初夏を思わせる暖かさ。私は半袖で練習。
たまたまたくさんの生徒さんが来ることになった。
初心者からかなりの経験者まで、様々な顔ぶれ。
ベテラン組は自分のペースで站樁功や動功をして体をほぐす。私は時々見て直すところ、少し変えた方が良いところを指摘する程度。
初心者は動功を一緒に行う。中には、太極拳(套路)は一切練習せず、動功だけを練習しに来る生徒さんもいる。動功も基本の数種類以外にもやろうと思えばいくらでもある。
屋外では立ってやる動功しか私はしないが、室内では座ったり寝転んだりしてする練習もやるので、これだけでクラスが終わってしまい、太極拳にたどりつかないことがしばしば。
・・・このあたりが最近の私のジレンマ。
確かに站樁功や動功はとても大事な基本練習。これをせずに太極拳の套路だけやっても、ゆっくりラジオ体操をするのと大差ないようなものになってしまう。内気で体を動かす、という最も肝心なところを会得するのは非常に困難だ。
ただ、「太極拳を1万回練習すれば自ずから通る」という言葉もあり、站樁功などをせずに、1万回套路を練習すれば、その域に達するともいう。
師父と一度その話をしたときに、計算をしてみたことがある。毎日24式の套路を10回練習したとしたら、1年で3600回だから、3年間毎日10回やれば1万回に達する。
一時期私は1日20回24式の套路を練習するノルマを課されていたが、1回やるのに8分程度、20回やると2時間半かかる。その前に站樁功1時間半、動功45分やると、1日5時間近くの練習。とりあえずやることはやったが、20回もやっていたら途中で手抜きをしてしまい、結局とても雑な練習にして逆効果になってしまった。これを見て師父もノルマを20回から10回に減らしてくれた。
しかし、10回やっても1時間半近くはかかる。それに、套路は気(エネルギー)を使うから、その後消耗する。1時間半套路をし続けるのと、1時間半站樁功をするのを比べれば、後者の方が断然体に力が溜る。消耗がない。
だから、太極拳の大先生達は、站樁功をやっても、あまり套路はやらない。やっても(外から見ると)お遊び程度。真剣に「ハッ!」なんて言いながら太極拳を練習することは、まず皆無。気合いを入れて発勁するのは演武の時だけ。自分の練習で気を漏らすようなことはしない。
だから、年をとってくると、疲れない站樁功の比重を高めて体の調整をする。
逆に言えば若者はたくさん動いて練習ができる。
そして今日(25日)は生徒さんが少なく、メインは20歳の女性。彼女には実験的に套路メインに教えようと思っているので、今日は3式から5式までを一気に教える。
通常、手と足のバラバラの動きに真似するのも大変な生徒さんが多いのだが、私が思った通り、やはり若いだけあって、すぐに真似ができる。基本がまだほとんどできていないが、とりあえず真似をして何度も套路をさせる。そして真似してもしきれていない体勢を取り出して、なぜ体がそのようにならないのか、何が問題なのかを指摘し、それを基本練習で徐々に克服しなければならないということを分からせる。
しばらくは彼女にはこの方法で練習させてみようと思う。
套路は難しくて覚えられない、という生徒さんがとても多い。
途中でギブアップしてしまう人も多い。
しかし、套路をやると、さらに自分の体の癖がよく分かるし、先人の残した”智慧”が少しずつ明らかになってくる。
その智慧が一つ一つ見える喜びまで伝えられたら・・・。
そのためには私自身がもっと”練る”必要があるなぁ。
2012/4/23
声楽家のためのワークショップ第一弾を開催。
この構想は昨年末すでにあったのだが、諸事情ありなかなか実現しなかった。
今日は発声の大先生の家に、弟子や生徒が7人程集まった。
今回は第一回目なので、なぜ、太極拳の練習が、理想とされる発声法(声を頭頂から抜くような発声法)の取得に役立つのか、「太極拳の体の使い方と発声法の共通点」を理解してもらうのを第一目的とした。
<ここに詳細は書きませんが、今回使った簡単な資料を下に貼り付けます。>
単純に言えば、発声は、気を声として出すこと。声にしてみると、自分の気がどう動くかが良く分かる。
普段の練習でも、気を沈めることができない生徒さんには、発声をさせてみることがある。「ん~」ときばったような声をだせば、自然に気は腹の底に沈み、溜ったようになる。「はっ!」と言えば気は体の外に出る。「ふ~」は気が下に落ちるが、溜めることはできない。「あ~」を裏声にして発声すれば、気は喉奥から後頭部を上昇し頭頂に抜けるようになる。
力を出す時は吐く。力を溜める時は吸う。
さらに細かく言えば、一発打ち抜く時は、本当に息を体の外に吐き出してしまう。「や~!」とか、「は~!」とか、砲丸投げの最後の投げきった時はみな必ず声が出る(声が出るということは息(気)が体外に出ること)。しかし、連打の時は、決して息を体外に出してはいけない。「んっ!」とこらえながら打つか、せいぜい小さく「はっ」くらいで、吐いた息(気)は腹底に向かう。
実は太極拳の練習では、普通、「吐く」と言っても、本当は「体の下奥に向けて息を押し込んで」いる。「はっ!」と吐き出すとせっかく溜めた気(エネルギー)をもらしてしまってもったいない。練習では発勁はしないのはそんな意味がある。
そう見ると、今日の声楽家の集まりでも、みなが取得しようとしている発声法は声を頭頂から抜き、口から息をもらさせない。こうすると声帯を傷めることなく歳をとってもずっと歌うことができるという。 実際に今日の発声の先生は80歳を過ぎているが、ものすごい声が出る。
師父は私にしばしばおしゃべりを控えるようにと注意するが、それは、せっかく気(エネルギー)を溜めるために練習をしているのに、そのあとカフェでおしゃべりに夢中になって口から気(エネルギー)を漏らしては元の木阿弥、ということ。分かってはいるのですが・・・(おしゃべりはなかなか止められない?)。
2012/4/19,20 <動功から站樁功へ、站樁功のコツ>
二日続けて午後はベビー同伴ママクラス。
久しぶりの開催で、身体がなまって不快感のつのったというママ達が多く参加する。
このクラスでは、ベビーが泣き、お子ちゃまが走り回ったりするから、ママ達はゆっくり立つことはできない。站樁功は、身体を落ち着かせ、気持ちを落ち着かせ、体が本来の働きを取り戻して自らの力で身体の調整をすることを可能にする。気ぜわしくゆっくりと休むことのできないママ達に是非やらせたいところなのだが、そんな、立っている暇なんてない、というのが彼女達の現状のよう。
また、今日(20日)の午前は保土ヶ谷クラスだったが、今日は時間の制約があり、立つ時間が少ししかとれない。少し立たせてみるが、その立ち始めの”構え”を見ると、気が沈んで身体がなじむには30分は必要だと感じる。
站樁功は立って”入って”しまえば、しらない間に立ち続けてしまうが、大抵の人は、立っても身体から力が抜けなかったり、足が痛かったり、雑念が消えなかったり、と、結局”入る”ことができずに、門の前でウロウロするかの如くになりがち。
そこで、私はママクラスや、站樁功に”入れない”状況の場合は、無理に立たせず、動かせてみる。
「もう立たなくていいですよ、動きましょう!」というと、生徒さんの顔に安堵の色が広がることもしばしば。・・・みんな、そんなに站樁功、嫌い?動いてはいけない、というのは拷問に近いのかしら?人間が最も苦手なのは、何もしないこと、だという。何もせずに(居眠りもせずに)、ただじっと意識的に座っていられる人はかなりのレベルの人。普通の人は本を読み始めたり、何かをし始めてしまう。・・・站樁功も似たようなところがある。
さて、站樁功の代わりに動くときは、ゆるゆる動く。同じ腰回し(帯脈にそった水平の回し)でも、運動のようにグルグル回さず、丹田を意識し(=胸(膻中のツボ)を奥に引いて空気を腹まで下げる+会陰の引き上げ)、それ以外は脱力して、ゆるゆると小さ目に回す。大きく回すと丹田の意識が消えがちだから、最初は小さく小さく回す。小さく回し続けて丹田の感覚が強まってきたら、その感覚を保持したまま腰を次第に大きく回していく。でも、”腰”を回しているのではなくて、会陰から中丹田に至る体内の”棒(芯)”をぐるぐる回すことによって、外枠の”腰”が回されているようにする。内が外を連れてくる(『内帯外』)。これは太極拳の大事な秘訣。
体の芯の棒をグルグル大きく回すとそれにつれて腰も大きく回る。
反対に、体の芯の棒の動きを小さくしていくと、身体の外枠の動きも小さくなってくる。
その要領で、体の芯の棒の回し方をだんだん小さくしていき、究極まで小さくしていくと、体の中では”棒”が微妙に回っているのだが、体を外からみれば、だれが見ても止まっているかのようになる・・・これが、站樁功!
站樁功で陥りやすいワナは、外からみると体が動かないで止まっているから、体を外から”キュッと”締めてしまい、体の内側の動きまで止めてしまうこと。
站樁功は止まっているようだが、これは『動』が限りなく『静』に近づいているだけ。外枠の動きを止めれば止める程、体内の動き(気の流れや血流や脈拍など)はより鮮明に分かるようになる。外枠を動かすのにとられていたエネルギーが内側で使われるので体内の動きがより活性化される。
この原理は、ぐっすり寝た後に体の調子が良いのと同じ。
站樁功の時に内側で遊べるくらいの、内側の”空間”が必要。
体を内側から開いて空間をつくる。
空間があれば気血の流れがよくなり、内臓も元気に動く。
そして体を内側から開くその原動力は、丹田で溜めた気。気の量を増やしていくと、その気の圧力で体が内側から開いていく。
体の中に空間をとる。
2012/4/18 <『外枠』から『内側』へ。太極拳への『入門』>
昨日、今日は練習日和。桜が散ったため公園の人数も減り、公園内の気も多少沈静化している。
とはいえ、春は気が浮きがち。陽気が増え、気、そして血も上に上がりやすい。
この季節は、ゆるゆる練習するのがコツ。冬の練習では気をもらさないように、少し体を締め気味にするが、春になったら気の通りをよくするように、決して締め付けずにゆるゆると流す。
同じ套路、同じ動功、同じ動作であっても、季節ごと、天候ごと、体調ごと、練習の熟練度、など、様々な要因に応じてやり方が変わる。それが太極拳の特徴。
単純な腰回しであっても、今日の腰回しと1年後の腰回しの内容は全く異なる。もし1年後も今と全く変わらないのであれば、それは”退歩”しているということ。
昨日と今日は、新人の生徒さんとベテランの生徒さんを一緒に練習させてみた。
套路の第3式まで。ベテラン生徒さんが前でやり、後ろで新人生徒さん達がついてやる。
新人生徒さんは、まず、動作を覚えるので手一杯。その中に隠れている技の説明をし、身体が正しく動けるように指導する。
・・・ここまでは、いわゆる”外枠”を学ぶ段階。
一方、ベテラン生徒さんは、第3式まではこれまで何度も練習してきている。動作はちゃんと覚えている。大体正しく動ける。
そして、ここからが、”内”の練習が始まり。
単純に右手を挙げる動作であっても、そのエネルギーは丹田から発していなければならない。指一本動かすにしても丹田と連結していなければならない。つまり、身体の一挙手一投足はすべて丹田とつながっていなければならないということ。
套路の”外枠”の練習がほぼ終わって初めて、内側の気の運用によって体を動かしていく”内”の練習に入れるようになる。外側の動作に意識をとられているようでは、体の内側の気の流れを意識することは無理だからだ。もちろん、それまでに、タントウ功や動功で身体の内側を意識して練習してきていることが非常に大事。
太極拳の世界では、この”内側”の練習に入ることを、『太極拳の門に入る』と表現する。そして本場中国でさえも、”外枠”の練習しかせずに太極拳を学んだと勘違いし、永遠に『入門』できない人は大勢いる、という。『太極拳に入門するには10年かかる』という表現もあるくらいだ。
たしかに、『入門』まで行き着くのは骨が折れる。覚えなければならないことも多いし、それまでの基本練習もかなりやりこまなければならない。
しかし、一度『入門』すると、毎回毎回、何かしらの気づき、啓発がある。そしてそれは身体に対する意識の変化、身体そのものの変化をもたらすのだが、次第にそれが自分を内面から変化させるようになってくるから不思議だ(注:師父は何も不思議ではない、というが、私にはまだそのからくりがはっきり分からないから不思議感が残っている。)。
”物の見方”が変わる。物の良しあし、本物、偽物、本来の美、などが見えてくる。意識が変わる。これが太極拳を練習する醍醐味。太極拳はただの武術ではなく、ただの健康法ではない。日本の「道」を学ぶものと同じように体を使って精神を磨くのだが、さらにその先に、意識を究極まで高め、社会を超えた自然の摂理に自らを溶かしていく(『無為』)境地がある。
・・・と、壮大なビジョンまで描けるのだが、何事も一歩一歩進むしかない。地道に毎日コツコツと意識的な練習を積み重ねるのみ(と自分に言っています)。
昨日と今日のベテラン生徒さん達は、ただ1式から3式まで復習しただけだったが、自らの体の内側の動きに集中して練習した結果、予想通り、『内側』の大事な要領をいくつか把握することができたようだ。
練習後、「ああ、ちゃんとやると、こんなに大変なのねぇ~。疲れた~!」と言う彼女らの充実感溢れる顔を見ると、私もとても嬉しくなる。それは、彼女らがちゃんと進歩していることに対する嬉しさでもあり、また、自分の”あの”感覚を共有できる仲間ができた嬉しさでもあるようだ。
(そう、同感覚を共有する仲間を増やしたいなぁ。頑張ろう!)
2012/4/11
午前中から小雨が降り始める。
花見客は激減し、公園は昨日とはうって変わって、静かで落ち着いた雰囲気に包まれる。
天気を気にしながら私達は公園に集合したが、そこは、桜の花びらによる薄桃色の絨毯が広がる。はらはらと舞う花びら。思わず息を呑む。
週末から昨日にかけて、公園は桜満開で花見客が大勢詰めかけ、昨日は陽気極まり、私達も練習の後、思わずレストランに行って軽くシャンパンを飲んだほどだった。
しかし今日は一転。陽気が陰気に転換した感がある。
『陽極まって陰に転じる』・・・なんて、日ごろ左右の重心転換で生徒さんに良く言う言葉がその通りあてはまる。
最近始めたばかりの生徒さんが、雨の日は邪気があって練習に不向きなのかと思いました、と言った。
全くそんなことはない。雨の日はすべての気が沈静化し、自分の内に入りやすく、練習にはとても良い条件になる。
自分の”内”に入って落ち着く、それは本当の自分の我が家に戻ることだという。
雨の日の練習で時折得られる何とも言えない充実感は家に帰りついた安堵感、もうどこにも行く必要がないという安心感なのかもしれないなぁ、と一人思った。
生徒さん達も、今日の絵のような絶景に、思わず「来てよかった。」と微笑んでいた。
なんだか、幸せ。
<追伸>
12日から15日まで再度北京に行くためメモをお休みします。
2012/4/8 <入静と集中>
桜満開。公園は花見客であふれる。
人人人・・・に囲まれての練習。
今日の生徒さん達はまだ第2回目の練習ということもあり、外界の大騒ぎを気にする余裕もないようだった。
実際、”入って”しまえば、周りに人がいようがいまいが、多少暑かろうが寒かろうが、体調あるいは気分があまり良くなかろうが、そんなことは気にならなくなる。
もう少し正確に言えば、人が大勢いること、暑さ寒さ、具合の悪さ、等を気付いてはいるのだが、気にはならなくなる。それは自分の意識の焦点が、ある一点からさらに大きな空間に拡がることによって、気になっていた一点が溶けてしまうような感覚。
この”入る”状態を『入静』と呼ぶこともある。
この対称的な状態が、所謂、”集中”。これは意識を一点に絞っていく作業。視野を狭く絞ることによって、他のことが気にならなくなる。
私も時々、集中しなければなりません、と生徒さんに言ってしまうことがあるが、実際、意味しているのは上の”入静”。いちいち説明するのがもどかしくて、手っ取り早く”集中”と言っている。
誰もが経験したことがあると思うが、”集中”を続けるとその後は精神的な疲労感が残る。休息が必要になる。私自身の例で言えば、学生時代に2時間の論文筆記試験を受けた後の状態。試験時間の2時間は外界から完全に遮断され、その2時間が一瞬のごとく過ぎ去るのだが、それが終わった後には必ず疲労がある。肉体はあまり疲れていなくても休憩が必要だ。
一方、太極拳の練習で站樁功を同じように2時間した場合、その2時間は自分の内側に入っているのだが、外の物音は全部(遠くに)聞こえている。そして終わったあとには、脚(肉体)の疲れさえあれ、頭ははっきりし、それから何かをしたくなるようなエネルギーさえ感じられる。
集中では意識を狭く絞ってしまい、結果として心身が緊張してしまう。
入静では意識を広く拡大していくので、結果として心身が開放される。
心身が癒される(自然治癒力が高まる)のは、心身が開放された時。
ここに太極拳や気功の練習が心身の健康に良いという理由がある。
今日来た生徒さんの中に心身症を患っている、という人がいたが、翌日、体調がとても良くなって自分自身とても驚いている、といったメールが送られてきた。
自分で自分の心身を調整する術を身につけることは、一生の財産であるが、その鍵は”入静”にあると思う。
2012/4/7 <ストレッチ or 站樁功?>
保土ヶ谷クラス。
婚活やら友人の結婚式やらで、お休みの生徒さんが4人。
それぞれに、「春は体が開く時期なので、毎日ストレッチを欠かさずやって下さい。」とメールを出しておく。
中でも、股関節と肩関節は胴体と四肢を連結させるにあたっての”関所”なので、ここは何としてでも”開けたい”ところ。
究極的には、右の写真のバービー人形(りかちゃん人形でももちろん可)のように、腕と足が付け根からぐるぐる回るようになればよいのだが、そこまで行かずとも、近い域に達すれば”関所”は越えられる。
様々な動きが可能になり、丹田の気が指先、足先にまでスムーズに届くようになる。
では、どのような練習をすればよいのか?
私の大学時代の先輩も、どのようなストレッチが効果的なのか?と素朴な疑問を出してきた。
前後開脚、左右開脚、四股ふみ等、いろいろあるが、今日実際に生徒さんと試したところ、左右に開脚ができるからといって、站樁功が楽にできるというわけではない。
寝っころがって、左右の足裏をぴったり合わせて、膝を開き、その膝を床につけるような練習もあるが(いわゆる、赤ちゃんの寝方)、これが完璧にできるからと言って、站樁功の時の股の開きができるわけではなかった。
站樁功の時の股ぐらは、馬にまたがったように丸くなっていなければならないが、その大きな目的は、「股関節を外旋し、膝関節を内旋し、そして足首を外旋させて、脚全体として螺旋の力が生まれるようにする」ことにある。
脚は、ただ直線でストンと地面に立っているのではなく、内に螺旋の力を携え、足裏がじりじりと地面をねじ込んでいくかのように立っている。これが太極拳の立ち方の要領。
こうすると足が地面に吸い付いたようになるし、逆に足裏から上に向けて力を吸い上げていくこともできる。
下半身が安定し、山のようにびくともしなくなる。下半身がそれだけどっしりして、始めて上半身は羽のように軽く自由自在に動くことができる。文字通り「上虚下実」。
この站樁功の際の脚の螺旋を可能にするためには、どのようなストレッチが効果的なのか?今日一日、折に触れて考えたが、オーソドックスなストレッチに加え、やはり、多少つらくとも、站樁功をやり続けるしかないのではないか、と思った次第。
私自身は站樁功の練習で身体の関節が開き、他のストレッチの運動をするごとに站樁功のストレッチ効果のすごさを体感した記憶がある。
私にとっては站樁功はかなり万能に近いのだが・・・。
(といっても、効果的なストレッチ方について引き続き考えてみます。)
2012/4/6 <性命双修>
午後から子連れのママクラス。
この教室は、通称「体操教室」になっている。0歳から2歳までの子供達が泣いたり叫んだりする中、本来の気功や太極拳を教えることはできない。
昨日書いた、太極拳の練習に最も重要ともいえる『静心慢練』が実質上不可能な環境。
とりあえず、身体を動かすことに終始している。
ただ、太極拳の基本の身体の使い方、中医学の考え方、経絡の走行、意識の持ち方などについて、折に触れて言葉で説明するようにしている。その説明のどの程度が実際に理解できているのかは???だが、いつの日か子供と離れて一人の時間がとれるようになった時、私の話していた内容などをふと思い出して、太極拳や気功をちゃんと学びたいという人が現われるかもしれない。
太極拳の練習は、単なる単なる武術でもなく、単なる健身法ではない。そこには修養の要素が色濃くある。肉体と精神を同時に鍛える、それが『性命双修』(性は精神、命は肉体を指す)。
人がどのような活動や運動を好むかは、その人の性格によるところが大きいのは事実。そして逆に、ある活動や運動をすることによって、ある特徴的な性格、人格を育むことができるのも事実。
ある運動は冒険心を掻き立てるだろうし、あるスポーツは勝負の心を満足させるものかもしれないし、別の運動は快適さ、楽しさを追求するものかもしれない。
そしてその中にあって、太極拳は、軽快であり、かつ、落ち着きのある、視野と心を広くもった真っ直ぐな心を育むような特質がある。
今回中国鄭州の公園で、様々なグループが別々の運動をしていたのを見たが、やはり、「類は友を呼ぶ」と言う通り、一つのグループ内の人の感じには似通ったものがあった。
そして、同じ心意混元陳式太極拳を学ぶ中国人の人達と接すると、すぐに自分とどこかに共通点があることに気付いた。今思えば、その共通点とは、皆、「修養」を意識して練習しているということ。身体を調えながら心を調え、人格、品性を高めていく・・・。
目指す方向が一緒であれば、国籍や民族等の違いは大したものではないのだろう。
2012/4/4 <静心慢練、心身をニュートラルの状態に置く>
中国から日曜夜に戻ってきて、月曜朝はカルチャーセンター、火曜は御苑で暴風雨になる前にベテランの夫人達との練習、水曜は70歳組の2人と20歳の若い女性、そして今日木曜日は、常連の生徒さんに加え新しい生徒さんが2人参加、と、毎日違った生徒さんと接している。
生徒さんの年齢層、身体の条件は様々だが、今回中国で感じたのは、どのような人でも共通する練習の仕方があるということ。
その核心となるのが、『静心慢練』。
心を静めてゆっくり練習する。
そうすることにより、筋肉も緩み、身体の中の気血の流れも良くなる。内臓の働きも活発になる。体中のツボも開きやすくなる。
そして、必要であれば瞬間的に最高の速度で動いたり、打ったり、蹴ったりすることができる。
この時、身体は言うなれば、”ニュートラルの状態”に置かれている。車のギアと同じ。その状態にあれば、どうにでも変化ができる。
常にニュートラルの状態にあるように練習するのが太極拳の特徴であり、醍醐味でもある。それは站樁功でも動功でも24式等の套路でも変わらない。
付け加えれば、ニュートラルの状態は身体だけを指すのではない。心もニュートラルになければならない。心がニュートラルから外れれば、身体もすぐに外れてしまう。心身統一が必要な所以。
今回の中国での練習の収穫の一つに、そのニュートラルの状態が実感できるようになったことが挙げられる。それは一言で言うと、”どこにも触れない”という感覚。
具体的には、丹田の力が身体の内側のどこにも触れることなく、身体の末端(指先等)に伝わるようなもの。身体の中を素通りする。
古来から、理想の人間像が”竹”で象徴されてきたのも、そのような感覚と関係あるに違いない。
帰国してからの4日間の練習中、私自身会得したばかりのそのような感覚を、少しでも生徒さん伝えようとやってみた。言葉では説明できないものを、身体で、雰囲気で表現していけるようにしていくのが私の目下の目標。
2012/4/4 <中国での経験:身体そして意識の束縛を脱する>
しばらく文章を書くことから離れていた。
3月最後の10日間程を中国河南省の鄭州で過ごした。鄭州はあの有名な少林寺に最も近い都市。武術のメッカである。
毎日午前中は公園で練習。
街中は人や車の波。空気も良くない。しかし一旦公園に足をいれると、そこは別世界。夜明けとともに集まってきた様々な人々が、思い思いの運動、体操、ダンスをしている。とても自由で楽しそう。
今回の滞在中に感じたこと、考えていないことは、まだまだ整理できていないが、その中の一つに、中国の人々は日本人以上に肉体優位だということがある。総じて日本人より身体が立派。老人でも背丈が170以上あり、がっしりしている人が多い。私が教わった、劉師父の兄弟子の李老師もそんな方だ(左上の写真)。
生活の中でも日本人以上に身体を使うことが多いようだし、身体が強くしっかりしていないとやっていけない。ひょろひょろの”使えない”体では生き残れないのかもしれない。
帰国して日本人を見ると、日本人は肉体よりも頭が優勢になってしまったなぁ、と思う。身体が貧弱。この行き着く先が火星人なのかなぁ、と頭の中で想像してしまったり。これは進化の印なのだろうか??? (それにしても、宇宙人は頭でかっち?肉体派の宇宙人もいるのかしら?)。
肝心の太極拳の練習は、とてもゆっくり、空気をつかみながらやることを覚えた。
同じ太極拳を学ぶ中国の男性達を教えたりして、皆から『師姐』と呼ばれるようになった。
上半身の力を抜き、泳ぐかのように套路を行う。後ろでついて24式をやった男性が練習後やってきて、私と一緒にやったら、体内の気が動くのが良くわかり、気持ちがとても良くなった、と嬉しそうに言ってくれた。
私も日本では、こんなに悠々とできたことはなかったから、やはりその土地、環境に影響を受けるのではないかと思う。
皆が人目を気にせず好きなように身体を動かしている場所にいると、いつの間にか私も自由に動くことができるようになるようだ。
『身体の束縛』を脱し、そこから少し、『意識の束縛』を脱する、そのような感覚を少し掴んだ。
下の写真は、右上 <足で羽根つきをするグループ>
左上 <太極剣を練習するグループ>
右下 <公園のたくさんの人>
左下 <一人で立つ女性>