『松(ソン)』から生まれるもの

陳式太極拳を劉師父について本格的に習い始めた頃、一番不思議で辛かった練習は、ただひたすら立つ、あの站樁功(タントウ功)でした。第一回目の練習でまずやらされたのは45分間立つこと。 「これができなければ太極拳の門に入ることはできない。」と言われ、毎日立つことが要求されました。そのうち、立つ時間も50分、1時間、1時間30分と次第に長くなりました。

最初の1、2か月はとても苦しい思いをしました。太ももはブルブルして脚が痛く、我慢比べをしているのではないかと思うほど。(フランス人の生徒達(それも男たち!)はすぐに音を上げていました。結局これを師父の要求通りやり通せたのは私だけで、師父にはさすが『大和民族』だと褒められたのでした!(^^)!。)

 

その頃は師父に畏怖の念を感じていて、質問もできませんでした。何故立つのか、立つとどうなるのかは良く分かっていませんでした。ただ師父は私に「立たなければ『松』(ソン)はできない。」とか、「太極拳の練習は『松』に始まり、『松』に終わる。」と、しきりに『松』の重要性を説いていました。

 

『松(ソン)』とは中国語で『力を抜く』という意味、緊張の『緊(ジン)』と対極の言葉です。

 

站樁功は築基功とも言われ、坐禅とともに気功や武術を学ぶ際の基本の練功です。それは丹田に気を溜め精気を煉り、全身に気を巡らせるための練習方法ですが、その効果はそれに止まりません(ここでは割愛)。

この奥の深い練習の第一歩となるのが、全身の『松』。全身から余計な力を抜くことですが、それは、決して、「力が抜けて力がなくなった」という消極的なものではありません。むしろ、「力を抜くことによって力を漲らせる」といったような積極的な意味合いがあります。

 

太極拳の要領としても、『松静』、『松沈』、『松開』、『松柔』、『松活』といったように、『松』の様々な状態が表現されています。

 

少し説明をすると・・・。

 

<松静> 

『松』するためには、まず、身体も心も静かにならなければなりません。身体と心の動きがなくなり、さざ波さえもなくなった『静』の状態に入れば、自然に身体からも余分な力が抜けます。即ち『静』であれば『松』になります。(ちなみに太極拳の型を練習するときは、『動中求静』と言って、動いている中で『静』の状態を求めていきます。)

 

<松沈>

また、站樁功を続けていくと、肩関節と股関節が緩み、上半身の力がそのままストンと下半身に落ち、足裏がべったりと地面に貼りつく状態が出てきます。これは『松沈』という状態。『落地生根』(地に落ちて根っこが生えたような感じ)とか、『身重如山』(山のように身体が重い)とも表現されます。

 

<松開>

そしてさらに練習をしていくと、あたかもブカブカの衣服を着ていて、服と身体の間に風が通るかのように、体の表面と内側に隙間ができて、そこを空気が流れていくような感覚が出てきます。身体が開~く、という感じ。 これは『松開』です。『骨肉分離』と言って、骨と肉の間に隙間ができてそこを気が流れるといいます。

 

その後練習を積んでいくと、身体に柔らかさが出たり(松柔 )、動きに素早さが出たり(松活)と、『松』から様々な状態が現れてきます。そして練習をすればするほど、『松』の重要さ至る所で目にし、気付くようになるのです。

 

例えば、太極拳で発勁(ハッ!と力を出して相手を打つようなところ)する際には、力を抜いて身体や腕を筒のようにして、丹田の気がどこにも突っ掛からずに手先まで届くようにしなければなりません。力を出そうと思って力を込めると、結局は威力が出ません。強ばった力となるからです。突っ掛からずにスコンと抜けて出る力は『直勁』という真っ直ぐな力で、漏れがないため威力があります。

筋トレで鍛えたような身の詰まった筋肉ではなく、細くて長い通りのよい筋肉を作ることを主眼にするのもそのようなことと関連があります。

 

対練(推手など、二人でやる練習)の場面でも『松』が重要になります。「力を抜いた者が勝ち」と言われるほどです。二人で手を組み合わせて構えた時にすでにお互いの身体の力の読み合いをするのですが、一たび動き出せば、力が抜けた人がとたんに優勢になります。力が抜けるとその人の腕や手がとても重くなり、それを受ける相手はその重さに耐えられなくなるからです。この状態で技をかければ簡単に決まってしまいます。(これまで私と推手の相手をした男性達が、しまいに私の腕の重さに耐えられなくなってギブアップし、首をひねって、なぜ自分よりも身体の小さい女に負けるのか?、と不可解な顔をしていたことは何度もあります。これはひとえに、私の『松』の程度が彼らの『松』の程度を上回っていたために起こること。不思議ではありません。)

 

このようにして世の中を見渡すと至るところで『松』を見るのです。

 

例えばピアノの演奏。私はホロヴィッツが好きですが、彼の椅子に座る姿は『松沈』で、腕肩が『松開』、指は『松活』。You Tubeなどで様々なピアニストの演奏を音声なしで見てみたりすると、弾き姿が『松』である場合は間違いなく演奏レベルが高いことが分かります。

料理の場面でも然り。どれほど無駄な力なく、なめらかに包丁さばきができているか・・・ここに熟練度が表れます。

各種スポーツをする場面、レジ打ちの場面、パソコン入力の場面、車の運転の場面、人前で話す場面・・・初心者と熟練者の違いは一目瞭然。その『松』、力の抜け具合にすべてが表れるからです。

人が数人集まって話している際にも、その中の力関係は遠目からも見てとれます。もしその中に『松』の人が一人いて他の人が緊張していれば、その『松』の人は他の人達よりも立場が上でしょう。

 

結局、人間、自信がある場面では『松』となり、自信がない場面でば『緊』となると言えそうです。

 

そういう観点から改めて太極拳の練習を振り返ると、それはは積極的に『松』を習得していく練習でもあり、それと同時に、次第に自分に自信をつけさせていくような練習ではないかとも思うのです。『松静』『松沈』『松開』という状態を通して、自分が地に根付き、外界と一体になっているという安心感が生まれてきます。そのうち、内気が大きく育ってくると、自分の存在も大きく感じられ、自分が全てを包み込んでいるような気持までしてきます。それが自分自身の存在に対する自信となってくるのかもしれません。

 

太極拳を健康法と捉えたとしても『松』の効用は計り知れません。精神、身体の緊張は万病の元。所謂精神的ストレスは身体の緊張をもたらします。気血の流れが悪くなり、身体に詰まりが出れば、それはいずれ病気の発症という目に見える形で表れてくるでしょう。

心と身体は双方向に影響を与え合います。「心が開けば身体が開き、身体が開けば心が開く」とか、「形(身体)が真っ直ぐでなければ、心も真っ直ぐでない」等、心身の相関関係を形容する言葉は多々あります。

 

心を開き浄化していくことはとても大事ですが、心自体を操作することは結構難しいもの。そこで、比較的操作しやすい身体から着手して、身体を積極的に開きほぐしていくことで心の緊張を解きほぐしていく、これは非常に実際的かつ効果的な方法と言えそうです。

 

それにしても・・・

『松』から生まれてくる自分の存在自身に対する自信、それは人と比較なしの状態から生まれてくる究極的な純粋な自信。それはまさに一生の宝。私自身が得たいものは”それ”なのかもしれないと、この長い文章を書き終える今になって気づいたのでした・・・。

 

さあ、早く寝て明日も練習しよう!

 

 

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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