品性は体に表れる?!

私の友人には個性的な人が多いのですが、その中でもダントツの女友達がパリにいます。私達は彼女をセレブ△△△と呼びます。一見上流階級のフランスマダムではないかと思わせる容貌と豊富な知識で周囲を笑いに巻き込んでいく、天性で社交界を泳いでいるような女性です。

さて、彼女は高田美さんというピエールカルダンの右腕だった方に生前随分可愛がられたのですが、彼女が私に高田美さんの言葉を教えてくれたことがあります。

それは、『品性は体に表れる』ということ。

それを聞いたとき私の頭に浮かんだのがココ・シャネル。高田美さんには私はお会いしたことがないけれど、友人の話から二人の女性のイメージがだぶったからかもしれません。最後までシャキッとした緊張感のある容姿を保っていた女性。それは外から塗りたくってもでるものではなく、生き方自体が表れたもの。

「結局、生き様が体に表れるのよねぇ~、気を付けなければ・・・。」とその時友人と話したように思います。

 

その後一人になってふと師父の言葉を思い出しました。

太極拳で作られる理想の人間像は『秀』である、との言葉。

『秀』?意味が今一つ分からず、私は「『秀』は『優秀』の意味ですか?」と聞きました。すると師父は「違う、『秀気』の『秀』だ。」と言い、それでもはっきりしない私に説明を加えてくれました。

それで分かったこと。日本語にも『秀』を使った熟語には『秀麗』や『秀美』というのがあるけれども、中国語ではその同様の『秀』の意味で、『秀気』という言葉があるらしい。そしてその意味は、『涼やかで垢抜けた、上品で優美、優雅な』という意味。

それはそれは私も理想とするような形容詞。ああ、そう、そういう人になりたい!と心から思わせるような修辞句。

けれども、太極拳で優雅になる?

 

私が練習を始めた頃、師父が最初に私に言ったのは「まず、『強く』なければならない。」という言葉でした。強くなければ太極拳を教える資格はない、と言い切り、強さを第一に要求されました。

 

余談ですが、私の太い指を見て、「とても良い!太くて強い指は訓練してもなかなか手に入らないのだから。」とべた褒めしてくれたのは師父でした。そして夏に膝丈のパンツで練習して、実は私の脚の方が師父よりも太いことが発覚した際、師父は私に、「太いからといって強いと思うな。」と言ったこともありました。私の逞しい脚に嫉妬?と一瞬理解がおぼつきませんでしたが、結局師父がいかに『強さ』を重視しているかが分かる一一場面でした。(また、私にとっても、そんな師父の何気ない言葉で、小さいころから持っていた指と脚の太さに対する強いコンプレックスが吹っ飛んでしまいました。これは私の人生にとってとても重要なこと!)

 

話は『秀』に戻ります。

では『強さ』と『秀気』は矛盾しないのかしら、と私はふと疑問に思いました。そして師父の普段の様子を思い出してみたのです。歩く時、話す時、マッサージをする時、タバコを吸う時(何故かヘビースモーカー)、料理をする時・・・確かに練習以外の時も何かその姿に余裕と優雅さがある!あの師父の太極拳(動画がありますよね。)のあの雰囲気が常に師父を取り巻いているのです。

そういう人の雰囲気というものは内から自然に出てくるもの。それはその人を表します。

太極拳は確かにただのスポーツではなく、静かさの中に動きを、動きの中に静かさを求めます。動きは柔らかく、その柔らかさが強さとなり、体の奥底から力をめぐらすための意識の深さが必要になります。自分から手は出さず、まず相手に攻撃をさせてから技をかけるため、攻撃を受けてもひるまず落ち着いていなければなりません。

だから、太極拳を極めていくと、柔らかさの中に芯があるような、何にも動じない人間が作られるのかもしれません。

私自身も太極拳を学んで随分変化しました・・・。

 

高田美さんの言われた『品性のある体』とはきっと『秀気のある体』のことなんだろうと私は今そう理解しています。

生き様を変えるというのは少し大げさですが、太極拳を練習しているうちに少しずつそれが身体や生き様に反映されるようになるというのは、とても自然なことのように思います。

 

 

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『今日のメモ』毎日の練習は気づきの宝庫。太極拳の練習の成果が何に及ぶかは予測不可能。2012年9月〜のアーカイブは『練習メモアーカイブ』へ

練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

   馮志強老師著

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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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