2018/6

2018/6/30

 

 明日で最終日のターナー展。

3月頃駅の広告で見てとても惹かれていたのに、実際に足を運んだのはついこの前。

20代にロンドンで住んでいた頃、少なくとも3回はテート美術館に連れて行かれたけど、全くピンとこなかったターナーの絵。天気の悪いイギリスの気候のようなぼやけた絵ばかり・・・なんて思っていたくらい。当時の私はバレエの公演ととピアノのリサイタルが大好きで、絵画に対しては全く興味がなかった。

 が、今回ターナーの絵を見たら、そのすごさが分かる!と言っても、絵画の技術的な事は全く分からないのだけれども、その視点、ミクロからはいってマクロへ抽象へと向かっていくその流れ、それは4月に大感動したルドン展と同じ。

 微細な所までありのままに観察する。。。

 観察・・・最近挑戦しているヴィパッサナ―瞑想、そのものではないか?

 その目は我で汚れていない。

 ターナーの絵を見た後で、写実主義の言われるミレーの落穂広いや晩鐘を見たら、そこにミレーの意図、我のようなものが見えてしまって、そういう意味ではターナーの方が水墨画的な無我の境地に近い気がした。我がないのに、これはターナーの絵、と分かる個性はしっかりある。面白いなぁ、と思う。

 ぱっと遠くから見ると滲んだ色のグラデーションの絵に見えるのだけど、近づいてみると、とてつもない細かさと正確さで物や人を描いている。こんなに細かく、どうやって筆を使うのか?いや、視力が跳び抜けてよいのか?

 絵に顏をひっつけて見たくなる。あら~細かい・・・あらら、人の顔がピーターラビットになってる?

 そしてまた遠くから見てみる。そしてまた近づいて楽しむ。

 そうやって繰り返し見ていると、眼の体操をしていることになるのか、自分の目が良くなって焦点が合いやすくなった気がする。

 焦点が合う・・・ほんとに、ぴったりと焦点が合う。

 画家の眼の焦点がきっちり合っていたところに私の眼の焦点も合ったのか?

 ターナーの絵を見ると眼の焦点、いや、上丹田に焦点が集まる。目が良く見えるようになる。

 画家自身もそこに焦点を集めて描いていたのではないか?

 

  その美術館には常設でゴッホのひまわりがあったけれども、ターナー見た後でそれを見たら、大雑把過ぎて素通りしてしまった。おそらく上丹田で味わう絵ではないのだろう。焦点が合わなかった。去年ゴッホ展に行った時はとても感動したことを思うと、きっと見る絵に応じて自分をチューニングしているのではないかと思う。

 時代性、その背景もあるし・・・。

 

 でも、ルドンとターナーはフランスとイギリスの大きな違いはあるけど、私にとってはとても共通点がある。極小から極大まで、無為自然、太極拳的。

 

 

2018/6/27

 あらら、皆脚で歩いてる!
朝、駅で歩く人々を見て浮かんでしまった言葉。
これじゃあダメだ....
若い子でも腰が引けて既に老人歩きになりかかってる。胴体力=腹力=丹田、弱すぎ。
腹にピョン吉つけて前に引っ張ってもらわなきゃ....
  心の中の独り言。
  セネガルと日本のサッカーの試合を見ていた時、サッカーのストラテジー等は殆ど分からないので、ただただセネガルの選手達の身体を見ていました。猫科のような強くてしなる身体....あの身体能力に対抗するには私達は頭を使わねばならない。太極拳も知恵から生まれた拳法だった....
  と、セネガル選手と日本選手を比べたら顕著な違いがありました。
  昨日そのヒントになる資料を仲間のLINEに貼り付けました。言わんとするところ、分かるかしら?
(休憩いれたらそのまま2日過ぎてsimatta///)
腹圧=丹田ではないけれど、腹圧は丹田の元。
この先生のブログはためになります。
さっそく腹這い、クラスでやらせてみよう。
https://www.bini.jp/column/5089/

2018/6/24

 日曜組の練習後の雑談、雑巾の正しい絞り方について話が盛り上がった。正しい絞り方はあるのか? ありました。
 私を含めた男性陣は腕の力だけを使った好ましくない横絞り(苦笑)。女性陣、皆正しい"縦絞り"をしてました。さすが。
 『足の親指、手の小指』....中学の担任が卓球選手の私につぶやくように教えてくれたのを思い出しました。ただの社会科の先生が何を言ってるんだろう?当時はまさか廊下を摺足で歩く初老の地味な先生が、元少林寺拳法の日本チャンピオンだとは知らなかった。それを知ったのはわずか8年前。そしてやっと、あの先生の静けさと眼光の鋭さ、不良グループがなぜか黙り込んでしまうそのプレゼンス、そしてベランダで椅子に座りジッと動かず掌を見てた姿、不思議な言葉の数々....全て腑に落ちたのでした。
 山の中でミツバチ飼って自給自足の生活をする仙人のような人。学校の他の先生達から完全に浮いていました。中でも卓球部の顧問で学年主任である数学の先生とは生徒から見ても反りが合わないのは丸わかりだった。似たような初老の先生でも方や業績主義、方や精神主義。
 私は卓球部の顧問に叩かれたり罰を受けたりしてしごかれ、嫌な思いをかなりしたけれども、私が一度全日本の大会でまぐれで3位になったら、その顧問は手のひらを返したように私に一言も注意をしなくなった。その時、大人ってそんなもの?成績が良いと多少素行が悪くても見逃すんだ・・・と大人に失望した覚えがある。が、静かな、けど内側にどれだけの厳しさや鋭さを秘めているか分からないその担任は、成績が良かろうが悪かろうが、一人一人の内側、家庭環境、家庭問題にまで心を配って、深いところからサポートをしていた。同じクラスにいた学年一番の不良が今では建設会社の立派な社長になっているけど、彼から同窓会で聞いた話では、放課後河川敷で彼が仲間を引き連れて煙草を吸いながらバイクを飛ばして遊んでいると、毎日幸雄ちゃんが表れて、道の端で右手を左胸に当てたままずっと立って眺めていたという。皆のバイク遊びが終わるまで、ある意味、タントウ功のように立って、皆が帰るのを待って先生も帰っていったそうだ。何も言わずにただ立って見ている。それを毎日毎日やっていたらしい。不良達は、そのうちその先生の忍耐に負けて、徐々に心を開いていった。中学出た後も彼らは幸雄ちゃんの家に遊びに行っていたというし、幸雄ちゃんがいなかったら、皆どんな人生になっていたか分からない、という。昨年初めてそのクラスの同窓会をしたが、誰一人としてその先生の悪口を言う人はいない。みな幸雄ちゃん(担任の先生の名前)には本当にお世話になった、と言う。本当に口数の少ない先生だった。今思えば、じっと私たち一人一人のことを観察していたに違いない。(席順も幸雄ちゃんが全部決めて、二年間席替えなしだった。)
 
 先生は去年なくなったのですが、8年ほど前、同級生から、その先生が私に是非会いたいと言っているとの連絡がありました。夏に帰省をした時会いに行ったら、中学卒業の時に言いたかったのに言えなかったことがある、それをどうしても伝えなければならない、だから今日来てもらった、と、竹炭に囲まれる和室で先生は話を始めました。
(休憩・・・続く)
2018/6/22
昨夜は夏至。やはり気(?)のせいか、坐禅をした時の入静度が違う。陽極まって陰が生まれる。太極拳の動きでも一番大事なのは陰陽転換点、即ち順纏→逆纏、逆纏→順纏。48式の第33式、金鸡独立で穿掌の練習をしたが、穿掌の含意を知れば、腕に対する認識が変わり、そう簡単に無造作に腕を使えなくなってしまう。馮志強老師などの大師が腕で右円、左円を描く地味な練習を一人でやっている、というのが理解できてくる。腕で正円を描ければもう太極拳の大師レベル。
2018/6/18
丹田が分かりたいといって練習に来始める人は多いけど、いつしか丹田探しを諦めて、よく分からないけど使ってしまっている。
丹田は機能だから使えれば分からなくても良い。おそらく探したら見つからない....
丹田なんて一個のエネルギーセンターは無いのです!細胞全てが伸び縮みしているだけなのです‼︎
と長老に言われましたが、確かエネルギーは細胞内のミトコンドリアで作られている....。
仏教は丹田使わないのか?と思ったら、円覚寺の坐禅では白隠和尚の言葉使っていて、その中に丹田があった。
丹田の元はヨガのチャクラだろうから、初期仏教ははっきりヨガと決別するためにその概念を取らないのか? いや、ヴィパッサナーは一点集中型瞑想ではないからそこにこだわらないのか(一点集中型はサマタ瞑想、止観法の止の瞑想)。
 全ての感覚は錯覚と悟らせるなら丹田も錯覚の何者でもない....けど、まずは皆に共通する錯覚を使って進んでいかないと、出発ができない。
そのうち丹田や気の錯覚に拘らない、いずれは捨てる時が来るのだろう、と朧げに思い始めました。

2018/6/17

 

 合宿から戻ってから何人かの生徒さん達からヴィパッサナ―瞑想はどのようなものですか?と聞かれました。ヴィパッサナ―は気づきをもってありのままに観察をする、という瞑想法で、仏教の基本的な瞑想法、『止観法』の”観”の方法です。(cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3)

 私が参加した合宿ではその入門的段階として、常に実況中継をして妄想を遮断する、という方法をとっていました。

 常に丹田を意識して行う太極拳もヴィパッサナ―になり得るのですが、更に厳格に精密度を上げて行うと、いかに普段一つのことを行いながら別のことが頭に浮かんでいるのか、その妄想、心の勝手な動きを思い知ることになります。仕事を含めた日常生活でうまく応用すればストレスが減り、仕事の能率があがります。そして、食事の観察、と、食事の際のすべての動きを実況中継しながら食べると食べ過ぎることはできません。かなり疲れますが、試してみる価値は大です。

 どんなに身体を鍛えても身体はいつか衰え滅びてしまう、絶対に逃げることのできない”死”を真正面から見るにはどうしても仏教の智慧を借りる必要がある、と思い、ただ丹田に気を溜めるだけでない、その先の瞑想法をやっていきたいと思いました。

 スマナサーラ長老の手ごろな資料がありましたので、ご参考までにご紹介します。

ダウンロード
ヴィパッサナ―瞑想 人格形成を目指す人の心構え
jinkakukansei-mezasuhito.pdf
PDFファイル 449.5 KB
2018/6/15
銀座線。向かいに座っている一人の女性に眼がいく。なんだか美しい。眼がしっかり、ここにいる。明らかに他の人達とは違う。そう、意識がここに落ち着いてる....ああ、妊婦さんだ。カバンにバッジをつけてました....。なるほど。
 自分の身体の中で別の生命が育っていっている時、自分の身体は自分だけのものではなくなる。いや、実際には自分の身体が自分のものという意識は消え、自分の身体は人のものになる。自分の身体を正しく使う義務、責任が出てくる。
  すると一人の時のような勝手な身体の動かし方、使い方はできない。一つ一つの動作はゆっくり丁寧に、意識的になる。優美になる。食べるものにも注意し、見るもの聞くものにも注意する。もしこれを余裕を持って観察できたならヴィパッサナー瞑想になってしまうだろう。
  丹田を育てるもの胎児を育てるのに似ている、と思ったことがあったが、今日改めてそれを感じた。男性は胎児を育てられないが、丹田を育てていった大師達の物腰は柔らかく秀美になる。力強くても決して荒々さ、雑さはない。
  自分の中の自分じゃないものを守る時に付随して起こる変化、というのはどこか共通していて面白い。そして守っている"そこ"から光、充実感が溢れ出てくるのも全く同じ。
  電車内で、内側から放射する光、美しさ、久しぶりにそれを目にできたのはとても良かった。ほんと、綺麗だった.....(本人が全く無自覚なところがミソ。意識した瞬間に魔法は解けてしまいます。)
2018/6/14
 お義父さんのお見舞い。食事が取れなくなって久しい。痩せて骨と皮だけになると、どの人も同じように見える。
 身体は全く動かないが、意識ははっきりしていて、目が彷徨う。身体が弱くなると心が暴走すると仏教の心の分析で学んだばかりだが、お義父さんの目を見てるとそれがよく分かる。タガが外れた心。妄想が渦巻く。仏教の業の話では、死ぬ直前の心が次の生の心になる。死ぬ直前に何を考えるか、なんて前もって決められずはずもなく、朦朧とした意識の中で生まれた最後の心(死心)が次の生の結生心となりその生の基本的な心の在り方を決めてしまう、というのだから、怖ろしいといえば怖ろしい話。酔って暴言を吐くような人は死ぬ間際も似たような暴言を吐く確率は高そうな気がするが、果たして自分の理性が機能しなくなった時に美しい心が現れるのか醜い心が現れるのか....? 結局、元気なうちに、心の底まで浄化する努力をしておかなければならないのだろう。
 ヴィパッサナー冥想をしてると、途中で度々全く関係ない変な想念が浮かんでくるのが分かる。脈絡のない想念がどれだけ浮かんでは消えているのか....覚者はもうそのようなばらばらの想念がなく、思考は糸のように繋がる....それがスートラの核心的意味だと昨夜知ったばかり。散り散りバラバラの想念、アイデアばかりでは困ったもの。脳の中の制御が必要で、これがやはり上丹田、神、の開発なのだろう。
 人間に生まれる意義は、その間しか心の成長をさせられないから、と聞いたことはあったが、身体のある時にしか心を成長させられない、というのも注意して見れば自明の理のようだ。身体の枠が無ければ心は勝手気ままに動いてしまう。が、心は身体の枠を窮屈がる。心で身体を統制すると同時に、身体で心を統制する、双方向の統制が必要なようだ。
   ....ふと二年前に亡くなった黒猫デビを思い出した。彼は癌に侵されながらも死ぬ間際まで覚醒を保っていた。お願いだから目を閉じて眠って欲しい、と、彼の瞼に手を当てて目を閉じてもらおうと思ったが無理だった。修行僧のようにじっと、数週間何も食べず(食べられず)ただ座っていた。
  とても体力のある猫だったから命尽きるまでに長い時間がかかった。が、今思い起こすと、あんな風に覚醒を保ったまま死ねる人間はどのくらいいるだろうか?私達はいとも簡単に意識を失ったり朦朧としてしまう。なんだか恥ずかしい話....。
 業の中に殺害業とかいうのがあって、もう畜生界は終わってレベルアップ、という時もその業が働いて思いがけず短命に終わったりするようだから、そもそも人間のように意思疎通ができそうだったあのデビは業を早々に全うして人間界に生まれ変わっているのかもしれない。(と思うと安心します。もちろん、業の話が本当かどうかは分からないのですが。)

2018/6/14

 

 ヴィパッサナ―瞑想合宿では随分ショッキングなこともあった。

 自分の癖、ともすると内向きに入り込み過ぎてしまうがために、肝心な目の前の”理”に気づかない。

 ヴィパッサナ―瞑想は観察、気づきの瞑想。ヨガや気功法でやるようなサマーディ(恍惚とした一体感)を求める瞑想とは異なる。初期仏教では後者の瞑想をサマタ瞑想と言い、その価値(特に定力をつけるのには効果的)は認めるものの、智恵を開発できるのはヴィパッサナ―だとの位置付けだ。

 仏教に特有の智慧の開発。智慧とは何か最初は良く分からなかったが、合宿が終わって戻ってきてから徐々に分かりだした。智慧は真理を見透す力。しかもその真理は全く隠れていない。一見神秘とは無関係なドライな事実。言われれば自明の理。

 「味噌汁を作る時に大事なことは何か?」と聞かれ、「味噌をお湯の中に溶いて入れること」なんて答えたら、「そんなことを言ってるから人生全て失敗するのです!」とお叱りの言葉がくる。「鍋をとって水を入れて火にかけること、その間に材料を取り出して洗うこと、全ての手順が大事なのです。すべての一つ一つの手順を正しく踏めば最後には自ずから正しく味噌汁ができているのです。」要は、結果という存在しない妄想概念を頭に思い浮かべて、そこに向かって走ったところでもうすべてが間違えている。現前にあるものに集中せず、存在しないものに焦点を当てたところで、もうここから逸脱している。立つ瞑想というのがあったが、それは坐った状態から徐々に立ち上がっていって立った後20分位そのままでいる。その間ずっと動作を逐一実況中継する。が、「あなた達は立つ瞑想でそれに気づかず、ずっと何の瞑想をしていたのでしょうね?坐った状態から足をずらし、腰を上げていく、その間、一瞬一瞬の動作を正しくしていれば、自ずから正しく立てる・・・智慧というのはそのようにして開発されるのです。」と後で長老から言われた時、はっとするとともに愕然とした。全く視点が違う!一体私はぼぉ~っと何をしていたのか?

 

 戻ってから太極拳をしたら、太極拳だって同じこと。この、瞬間瞬間しかない、プロセス、流れしかない、結果がない、というのは套路をやれば気づくこと。第五式単鞭と言って、最後のポーズを思い浮かべた時点であなたの人生は全て失敗なのです!!、と長老なら言うかしら?(笑)

 が、確かにそこに気づかなければ太極拳にはならない。ポーズ(定式)はその前からのエネルギー(気)の流れの行きつく先、けどそれも通過点で、またそこから次へとエネルギーは流れていく。最初から最後までエネルギーの流れは止まることもなく続いていく。それに気づけば、人生も同じこと、無常の真理が見えるはず。ゴールがない。流れだけ。

 

 自分の体内の気の感覚だけに埋没するとそのような真理は見えてこない。

 感覚に埋没することは感覚から次の感覚へと延々に感覚世界の中で循環することになる。それは合宿中に気づいたことだった。だから輪廻を繰り返す。感覚を観察するには感覚の中に入り込んではならない。だから太極拳の経典には、『力者、折。気者、滞。意者、通。』とある。

 私はこれまで何度も師父から、気を操ってはいけない、と言われてきた。確かに気を無理に遠そうとするとどこかで詰まったりするのだけれども、それでもなかなかやめられない。どこかでまだ、気を操るのを楽しんでいたりして、なぜ、気を運んではいけない、と言われるのか本当には腑に落ちていなかった。(気は行かせるもの。行気。✖運気)(体内の気の流れが分かりだした人の陥りがちな罠。私は以前運気をやり過ぎて首が動かなくなってしまった。パリの師父のところで間違いを正してもらって治った経験がある。まだ気が分からない人は心配ありません・・・まず気の流れが分かるようになるのが先決。)

 でも今回の瞑想合宿で身体的な意味だけでなく、仏教的にもそれがまずいことがはっきり分かった。気を操ると自分が感覚の中に入り込んでしまい、永遠に循環、サンサーラ、輪廻の輪から飛び出せない。感覚から離れた場所(意、上丹田)から観察、見下ろしていなければならない。結局、そうした方が気がスムーズに流れるから不思議。自分が関わらないところで却ってうまくいく・・・結局、”自分”が身体の自然な智慧を妨害している。任せる。自然に預ける。無為。・・・・。

 

 ヴィパッサナ―で食事をしていて気づいたことだが、(ヴィパッサナ―で実況中継をしながら食事をすると40分くらいで疲れて満腹になってしまう)、味わう時に味わってしまうと、味わっていることを観察できない。味わってるのを観察すると、やはり自分の意識を少なくとも上丹田に上げなくてはならない。目が落ちると感覚に埋没してしまう。目を上丹田に置いておくには鼻から吸った息を脳に入れ続ける。裏声を発する要領で目を上げておく。脳の北半球は全て眼の領域だが、南半球に落ちれば仏教的に言えばこの世に落ちてくる(その目線で坐禅をすればすぐに居眠りしてしまう。覚醒できない。)が、仏教の修行は身体の開発がないので全く言及されないが、その位置に目を持って行って観察し続ける(覚醒を保つ)にはそれなりの身体が必要。そのために太極拳の練習があるようなところもある。会陰が上丹田とつながれば自然と目は落ちなくなる。ヨガの修行も最初は身体から始めるのも、そのような目を作るにはそれなりの土台がいるからだろう。仏教は上丹田からスタートするようなところがあるが、読経1時間すると思った以上に下丹田中丹田が活性化されて、その土台の上で坐禅をすれば上丹田が機能することになるのだと思った。

 

 ヴィパッサナ―、観察瞑想はまさに上丹田、ヨガでいうアジュナチャクラの開発の瞑想。

 上丹田で二つの目は一つになる。二で成り立っているこの世が一で見えるようになる。見透せるようになる。だからここで真理を発見する。現代の太極拳はせいぜい身体の開発で終わってしまう。このレベルまで上げている老師はとても少ない。

 

 が、そんないろいろな細かな、長老が読んだら、「それもあなたの妄想思考なのです!」と喝を入れられそうなことも考えてしまいましたが、一番大事だと思ったのは、静かに、ゆっくり、でした。

 静かに、ゆっくり、意識的に一瞬一瞬を過ごせるのなら悩み苦しみとは無縁。

 『心神虚静貫始終』『静心慢練是活桩功』馮志強老師の本で強調されていることでした。

  

 

2018/6/10

 

  一昨日夜に下界復帰。

 人は何でこんなに憑りつかれたように慌てて歩いているんだろう?と、途中通過した東京駅で滑稽に感じていたら、ちょうど、そこに田舎から出てきたと思われる母子がいて、「皆はよう歩いとるやろ、頑張って歩こうな。」とお母さんが小さな娘の手を引っ張って歩いて行った。

 やはり郷に入れば郷に従え、不自然でも合わせなければならない。合わせているうちに慣れて不自然なものも自然になってくる。こうやって人は本来の自然の感覚、姿を失っていく。・・・・仏道を進むには全世界(中でもとりわけ両親)を敵に回してでも一人立って戦っていく勇気が必要、と長老が言っていたけれど、世間に合わせず本当のところ、真実のところで生きていこうとすると、世間(俗)から見れば異端児になることは否めない。世間でうまくやっていこう、なんて思っている人には全く不向きな道。が、そもそも世間に合わせるのが苦手な私にはやりやすい側面もある。

 仕事帰りの人々で往来の激しい東京駅。今までならそんな雑踏を抜ける時に、膨らませた丹田を頼りにズンズン進んで行ったり、逆に合で丹田を粒にして自分の気配を無くすようにしてすり抜けて行ったり、あるいは、歩法の練習も兼ねて、人々の足の隙間を狙って足を差し込んでいったり、とか、最近では上丹田のレーダーで路を開いて歩くとか、せっかく学んだ太極拳の応用実験をしたりしていた。 しかしながら一昨日は、一週間近くも太極拳から離れ瞑想していた影響で、東京駅の雑踏の中でもいつもの”これらの敵にどう対処するか”というマインドが働かない。ヴィパッサナ―歩行の癖がついてしまっていて、ただ、自分の足を、「上げます、運びます、下げます、置きます・・・。」と意識しているだけ。さすがに瞑想の時よりもかなりテンポを速くしているが、それでも周囲の人達より歩くスピードはかなり遅い、しかも斜め下を向いたまま目を上げられないから、周囲を見ることができない。最初ちらっと、これで人とぶち当たらないかしら?と不安がよぎったが、とりあえずそのまま歩いていると、不思議不思議。向こうから速足で歩いてくる人々は私の目の前まで来ると、皆悉く進路を変え、私を避けていく。私の視界に入るのは近くにいる人達の下半身だけなのだが、私の周囲にはちょっとした空間が残されていてちょっとした真空スポットができているかのよう。あらまぁ、不思議、どういうことなんだろう?と目線を上げて周囲の状況を見ようとしたらたちまち前から来る人と衝突しそうになってしまった。慌てて下を向き直す。

 ゆっくりゆっくり、目線を下に落としたまま注意深く歩を進める。すると敵は自ずから自分を避けていく・・・これは凄い技。闘う、対抗する意が全く失せた時に現われる最高の技?太極拳にそんな技、そんな境地があったような気もするけど、これではなかった?

 と、私の頭の中で突然木枯し紋次郎の姿が出現。一人で笑ってしまった。

 なんなんだろう、この現象。劉師父に聞いてみるかなぁ。

 

2018/6/5

 合宿第4日目。
 無言で暮らすのがこんなに快適だとは知らなかった.... 
 実は2日目午後、無言でスローモーションで歩く夢遊病者の館に嫌気がさして一度脱出。近くで見つけた公園でドロップアウト気分で暫し過ごしたのだが、帰るならとりあえず長老の個人面談を受けてから帰ろうと腹をくくってホテルに戻った。が、ホテルに入ったその瞬間、あたかも自分の家に戻って来たかのような気がして、外よりここの方がいい!と感じてしまったのは、自分でも不思議。
  人が無言で意識的な動きをしている時は"我"が消えている(引っ込んでいる)。だから3人部屋でも一人のようだし、館内に80人ほどの人がいるはずなのに10人くらいしかいないような気がする。
  ホテルの人達がバタバタ動くのがとても滑稽に見える。
   毎朝4時起きで7時と11時半に食事が出るのだが、私は夜すぐ眠れず眠気が残ったまま朝食、昼食を食べているので、ヴィパッサナーで実況中継しながら一箸一箸食べているうちに何度も睡魔に襲われ意識が遠のきそうになる....普段はあり得ない現象。40分くらい食べるともう意識もお腹もいっぱいで、3分の2食べられればマシな方。夜ご飯はないのだが不思議とお腹が空かない(もし夕食まであったら疲れて仕方ないと思う)。スナックコーナーでいろんな飲み物や小さなお菓子があるので、私は痩せないように、夜クラッカーにギー(インドのバター)と蜂蜜をつけて食べている。(ギー、初めて食べたけど、バターより味が濃くて美味しい!)

  昨日は長老との面談があった。10人申し込んで私は最後の方。スタッフから最初に30分の人もいれば1時間以上話している人もいる、早く出てくる人もいるし、時間は読めません、と言われた。午前から始まったが案の定私は午後になり、随分用意して緊張して面談に臨んだのだが....。
  長老、挨拶しても無視、質問をしている間も横を向いて全くこちらを見ない。私がヴィパッサナー瞑想で得た感覚を一生懸命伝えていたら、次第に頭を抱えて次第に丸くなっていった。喋りながら、マズイ....と思ったが話し始めたから仕方がない、最後まで話し終えた時には、対面している長老は妖怪のように頭抱えたままぐにゃぐにゃになってしまっていた。
   それから初めて私を見て、「それだけですか?
どうぞ勝手にいろいろ実験して下さい。でも良い結果に執着だけはしてはいけません。」と言って、「私からはそれだけです。はい、終わり。」と打ち切られてしまった。 瞑想は言った通りやりなさい、ということなのだろうが、怒られたり否定されたわけでもなく、どう解釈して良いか分からないまま退室。
  暫く突き放されたように感じてショックが消えなかったが、そもそも長老は誰も褒めない、し、皆突き放す、それに、あの頭を抱えた姿からすると、ひょっとしたら夜の法話で何か私の質問に絡んだ(何か大きな)ことを話してくれるのかもしれない、とりあえず初心に戻ろうと気を取り直した。
  夜は17時から読経1時間、それから立禅、坐禅合わせて45分程度。それから法話2時間。
  そして昨夜の法話は、なぜ悩み苦しむのか?その原因は? から話が始まった。要は、そうあって欲しくないことが起こったから。竜巻で家が飛んだ、脳卒中で半身不随になった、会社が倒産した、どれも、起きて欲しくないことが起こっただけ。期待する方が間違っていることに気がつかない無知な人間....(説法の論理はもっとしっかりしているのだけど適当に端折って書いてます。)
  そしてヴィパッサナー瞑想でよく観察していれば....とその辺りは後日まとめることにして、私の質問との関連で言えば、要は仏教の目的は悩み苦しみを無くすこと。老化、病気、死で悩まない、苦しまない境地を作ること。手が一本無くなろうが、目が見えなくなろうが、悩まない、そんな境地。そして、そのような心の境地を作るのに足しにならないものは全て排除する。私がたとえサマーディ体験、神秘体験したとしてもそれはその役に立つかは極めて疑問、そういうことだったらしい。
  確かに、もっともな話....
  何が起ころうとも、まさに何が起ころうとも、全く影響を受けない心が得られたら....そんな心はこの世の心ではないのだけど....可能なのだろうか?
  このレポート書きにまた公園に来たのだけど、私の歩くペースが超スロー過ぎてなかなか到着しなかった。太極拳も超スローでしかやれない....肉体の動きは心に比べてとてつもなく遅いから、肉体に心をきちんと合わせようとするとこんなにまで遅くしなければならない.... 朝、ホテルの庭で一人、張り切ってラジオ体操してるおじさんがいたけど、バカにしか見えなかった....なぜこの瞑想生活していてあんな滅茶苦茶に動けるのか理解不能....が、世の中に戻ればあちらが普通で意識的な瞑想状態の動きはただのノロマにしか見えない。
 太極拳、そのうち戻るのかしら?
2018/6/3
 昨日から守谷でのヴィパッサナー瞑想合宿が始まった。無言行なのでスマホも当然禁止、と思ったらそこまで厳格ではない。個人がどれだけ厳格にやりたいか、それだけの話のよう。
 昨日は第一日目なので午前はオリエンテーションを兼ねての法話、午後は初心者向けの瞑想指導。
 参加者85名、初心者指導を受けたのは20名程。私は全くの初心者ではないけれど参加(そしたらスタッフから、あなた初心者ではないでしょう?と声をかけられて適当に躱した。)
  瞑想指導は14時に始まったが、案の定、長老の話は長く、スタッフから、そろそろ指導を....とリマインドされた。長老は「仏教の瞑想は正見のための説法がまず大事。ヨガとは違う。私の説法をちゃんと対話しながら6時間聞けば預流果くらいにはすぐなれる。」と言ってから指導に入ったが、最後の坐禅で私達のできがあまりにも悪いと時間延長、終わったら20時だった。坐禅キツ過ぎ....股関節おかしくなりそう....骨盤立てて坐骨で座って背骨を全て上向きに立てて、それから上から力抜いてお尻の力だけで身体をまっすぐにしておく、この要求は私でどうにかクリアするか否かの怪しいところ、初心者には無理。身体の条件、柔らかさと、長老曰く、精神のどっしり感(私は丹田の気力と解釈)が足りない。
     
  太極拳の練習に酷似しているので疑問点いろいろ出てくる。
  後は忘れないようにメモ。説明は後日。
食事の観察....ヴィパッサナーで食べると食べ過ぎない。ピタッと止まる。不思議。夕食なしでも大丈夫なくらいの充実感....痩せてしまわないか心配。
食事の観察、箸を置きます置きます置きます、と置いた後、次にどこに箸を伸ばして良いか分からずしばし動作が止まる。この点を瞑想指導でス長老に質問した。やはりここばかりは、意、思考が必要になるとのこと。ヴィパッサナーの目的は思考を殺すことだが、最終的にはそこは綱渡りバランスになり、智慧が現れれば解決するとの話。だけどそこは先のレベルなので、他の人は気にしなくて良い、と答えてくれた。
やはり二元論....ナーマとルーパー。
夜はこっそり超スロー48式をやってみて気がついたが、要は、感覚神経の流れを見てるから、運動神経の流れを見てるか、静脈を見るのか動脈を見るのか、そんな話のよう。ちなみに48式、約50分かかった。
 あとよく分からないままなのは、立つ瞑想で足を少し開いて両半身均等にバランスをとる際、均等になります均等になります、と言って重力にやってもらう、という話。均等にします!は間違い。
これは太極拳と同じなのだが、なぜ、自分がやるといけないのだろう?自我がでるから?
   手をあげますあげます、と言ってやるヴィパッサナーの瞑想は一人称、坐禅で腹の膨らみ縮みを見るときは、膨らみ、膨らみと名詞にして言うのは三人称。自分は消える。こちらがより高度。
  長老は瞑想を早く進ませるために、ステップ1の肉体を見る練習とステップ2の感覚を見る練習を同時にやらせてる、と言ってたから、これもステップ、最終的には無我に向かわせるのだろう。
  ちなみにステップ4で見清浄の境地、だったかなぁ....。
  結局昨日は長老の話を通算8時間くらい聞いてたから、ずっとお喋りしてるようでした。
  今日から本番
  朝4時起き、5時からの読経と坐禅は、眠気と身体の硬さもあって久しぶりの拷問。音をあげる寸前までいった。坐禅、どーにか対策を考えなければ。
  坐禅間違えた姿勢でやるから変な神秘体験しか起こらないのです‼︎(by 長老)
2018/6/1
 子供の頃から整理整頓と時間厳守が苦手で、特にお片付けについてはどれだけ母親に怒られてきたか分からない。勉強しなさいなんて一度も言われたことがないが、片付けなさい!は毎日言われていた。
  大人になってもその癖はなかなか治らず、いや、そもそも治そうという気もしていないようで、断捨離や、ときめきの....、あれやこれやの整理整頓、お掃除のマニュアル本を買って読んではいるのだが、ただただ本が増えるばかり。片付けは収拾、心まで狭くなるようで、散らかすのは心が解放される....なんて思っているようではいつまでもこのままだろう。
  が、最近、太極拳の練習とピアノの練習で、偶然にも同じ課題を発見した。
  "合"が苦手。
 開合の合。
 太極拳は最初は開合拳、と言われていた。そのくらい"開合"は太極拳の要。もちろんこれは丹田の開合だが、丹田の開合は全身の開合になる。
 右股関節の開きがイマイチ、と長年開く努力を続けてきていたが、実は、開きが足りないのではなくて、開き過ぎて、"開中有合"の、合、が消えてしまっていた。股関節を無理に外旋し過ぎて股関節が外れる方向の力のかけ過ぎ、これでは脚が捻れ、膝や足首に負担がかかる。これに気づいたのは大腿筋膜張筋の緊張からだった。
  ピアノでも半音階を高速で弾く時に自分の手首を閉めればうまくいくことを発見、オクターブの連打でも、指を開いても手首に収束をかければ、丹田の力がうまく指先に達して、速い操作が可能になる。合、は手足の親指の操作。なぜ卓球で外反母趾になったのか、それも合点がいった。身体が開く癖があった....
  片付けが苦手なのもその辺りからきているのでは?
   と、まずは身体の合の練習....、と、結局片付けは先送り(苦笑)
  昨日のピアノのレッスンでは、自分のテンポが如何に崩れているか、をメトロノームをかけて演奏することで痛感させられた。ほんと、恥ずかしいくらいテキトーに弾いてる。「酔ってそうでも酔っていない、ピリッと統制の効いた、清潔感のある演奏を目指して下さい。」と先生に言われたが、何だか自分の欠点を指摘されているようでもじもじする。極めつけに、「引き出しを開けたら、ピッチリ整理整頓されている、それが基本ですよ。そこから少しだけ崩せば良い。」と言われた時には、引き出し見られたのか...?まずは片付けろ、ということなのか?と複雑な想い。
  統制は上丹田....
  明日から6日間、瞑想合宿に行くのだけど、きっとそれもその辺りの修行になるのではないかしら?
全日無言....最終日まで残れたらすごい!自分を褒めてあげ用途に思っています。別の自分の出現を期待。

 

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3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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