独り言 2018/4

2018/4/27
  加山又造展に行った。
 強烈で奇抜なアーティスト?とイメージして行ったのだが、実際に作品に接したら、強い線の下にとても繊細な優しさが拡がっているのが感じられて思いの外心が安らいだ。
 又造さんのお孫さんによるガイドツアーに参加できたのも良かった。
 又造が常に新しい技法を開拓していたこと、決して現在に留まらない模索を続けていたこと等、具体的な説明があるとストーリーが浮かぶ。ストーリー浮かぶと本人の気持ちが分かるような気がして、そのとたん、絵と自分がつながる。説明なしで傍観者として観た時とは全く違う絵になるから不思議だなぁ、と思った。
 後々考えると、推手での感覚と似ている。。
 相手を推すつもりで推手をした場合、自分の相手に向かう力しか見えないから相手を感じることは出来ない。一方、相手に対抗せず合わせようとした場合、相手の気(エネルギー)を聴いてそれに応じて自分の気(エネルギー)をコントロールすることになる。即ち、相手を感じることで自分を知ることになる(『知彼知己』)。
 
 絵を見る場合に当てはめれば、眼が絵を推すように見ると、気持ち(感情エネルギー)は同調せず、絵はいつまでも他者。すると見方は批評家のようになるだろう。逆に、もし絵に自分を合わせようと眼を引いて(”内収")見るならば、アドバイスはできても批判、批評がはできなくなるだろう(気が同調すると交わってしまって(eg.混元の気)、自分と他者の区別が消える。)
 そして絵画観賞に置いて画家のストーリーを知ることは、少なくとも私の場合、その人の気持ちに同調する大きな手助けになる。(小説はまさにストーリー!)
 
 説明された種々の技法は具体的に想像できないものも多かったが、クジャクの羽やゴム等いろいろな材料を駆使し、色を重ねるにも紙を貼ったり剥がしたり、吹き付けたり、なぞったり、聞いているだけで気の遠くなるような手間がかかっていることは良く分かった。
 
 「要は”どれだけ手間をかけたか”、それが一流かそうでないかの違い」とどこかで聞いた(けどどこだったのだろう?)。
 実際、又造の手間のかけ方は半端ないのだけれども、説明を聞かなければそんなことは分からない。分かるのは、ただ、理由の分からない、どこから来るか分からない凄み。
 
・・・と、私の愛読書の『スワン』の中にこんなセリフがあったのを思い出した。
 マーゴット・フォンティーンが真澄に言う言葉。
 『真澄、際立ったテクニックを見せるには大変な努力がいりますが、それを隠すにはもっと大きな努力が必要です』
 『そして、テクニックはみせるものではなく、あくまで芸術性をつみあげるための土台としなければなりません。』
 まさにその通り!(太極拳では陳項先生の動きがそうだと思う。)
  
 もともと西陣織の職人の家に生まれたことが大きく影響しているのだろう。絵画に工芸が入り込んでいる。根っこが職人。極めて写実的なのにデザイン性が高い。
 展覧会最後の目玉、龍の天井画を又造さんが制作する姿を撮影したものを見ることができたが、工事現場で働いているのかと思うほどの肉体労働。左官屋さんも顔負け。ずっとしゃがんだり中腰....練習でしゃがむの苦手な人がいるけど、この仕事は身体が柔らかくないとできない、と思った。全身で描く!これも手間暇。
 
 
 内省的な又造。ある時その対極ともいえる横山操に出会って作風が一変する。それまで内側に秘め集約していたものを一気に外向きに開花させる。(内省的な表現の一作品が上のカラスの絵。)
 この二人がどれだけ仲が良かったか...大柄の横山と小柄な又造、二人が並んで歩いている写真を見れば二人の心の躍動が感じられる。一緒にいるだけで嬉しかったのが分かる。こちらまで嬉しくなってしまう。
 その後、横山が先に亡くなりしばらく筆が取れなかった又造が一週間で描き上げたという『満月光』。横山の『炎炎桜島』を思い出させる山の裾にレクイエムとしての輝く繊細な草花。又造の典型的な細い線の表現。泣けてきそうだったのは私だけではないだろう。
 
 13歳で描いたという狐も凄かった。
 ここに彼の生涯にわたる気迫が凝縮して込められているようだった。。
 お孫さんの解説によると、又造は、もし自分のような筆の技術を習得したければ18歳で始めるのは遅すぎる、12歳から15歳のうちには完成されていなければならない、と言ったとか。
ということは10歳にならないうちに"描きたい"という衝動がなければならないということかしら?
私のように30になっても何をしたいのか分からない、という人だって多いのに、なんて違いだ!
 又造のどの絵にも見られる細く強い線。これは彼の人生を貫く線、いや彼自身を表す線なのかもしれない。

2018/4/26

 

 お義父さんのお見舞い。随分弱ってきた。人間水だけでどれだけもつのだろうか?

 意識ははっきりしている。何かしゃべりたそうだけど声が出ない。

 お義母さんはどうにかして少しでも長く・・・とそれだけを考えて悩みは尽きない。

 どうしようもないことはどうしようもない。

 

 夫婦が50年も一緒に生活すると気が交わってその境界線がわからなくなると聞いたことがある。片割れが逝ってしまうということは自分の一部が引き剥がされてなくなってしまうに等しいらしい。

 正直言って、お義母さんのお義父さんに対する気持ちと、息子たちの父親に対する気持ちには温度差もあるし色合いも違う。お義母さんの想いには執着ががるのが外から見ると良く分かる。でもそれも仕方がない・・・と、ヨガのグルが言っていた上のようなお話をしたら、お義母さんは本当にそうなのよ、と涙ぐんでいた。

 自分が自分の一部であるように深く愛した人、動物、植物、が逝ってしまうのは心が引き裂かれるように辛い。自分が逝ってしまうより辛いのではないかと思ったりする。

 生きながら死んでいっていることがはっきり分かれば、死にまつわる混乱はなくなるのかもしれない。

 

 死はまだ曖昧。はっきりさせていくような道を進みたい。

2018/4/24

 

 練習メモ書いたのでこちらはなし。

と思ったが、やはり面白かった今日の練習。(とりあえずLINEの仲間に練習風景の動画をアップしました。そのうち整理できたら練習メモに書きます。)

 最初から「含胸してやればできる!」と教えたらすぐにできたのだろうか?

 あれだけ試行錯誤して真っ直ぐ降りる要領を教えた末だからこそ、自分でそこにたどり着いたのだろうか?

 

 先週も似たようなことがあった。

 第二式で前方に大きく進歩する箇所。

 練習ではどうやったら膝に乗らずに一気に足裏に乗って進歩できるか、腹腰の気を足裏に下げていく際に、股関節、膝関節、足首と順次回転させながら気を通していく動きをやってみた。とても難しい!その後、関節を忘れて、丹田を回す、それだけで進歩をしてもらう。いとも簡単に関節をクリアできる。「片足立ちになるのと同じですね。」となんだ、こんな簡単なこと?という表情。何度も試してもらって、ちゃんと進歩ができているのを確かめ、再度生徒さん達に、どうやって動いているのか尋ねたら、「丹田を回してます!」と答える。「それだけ?」と聞くと「はい、それだけです。」と、いとも簡単にやってのける。

 

 最初から「進歩の時は丹田を回す」と教えたらどうだったのだろう?(正確には”進歩は会陰”が要領)。

 きっと進歩を難なくこなしてしまっただろうけど、それでは太極拳の妙を味わうこともできないし、驚きも感動もないから浅い記憶にしかならず、その後これを自分で応用していくことができないだろう。すると、この、言われれば何てことのない要領が、実はどのくらいの重みと広がりをもつのか、知る余地もないだろう。

 

 解決策を先に教えてしまうのではなく、まず自分の進歩の何が問題なのか、その問題点をはっきりさせ、次に、それを解決しようと試行錯誤させることで、最後に知った解決策が活きた記憶になる。

 ・・・学校の勉強で参考書ばかり読んでいてはだめで、問題演習をするのが大事なのと似ている。問題演習、全部解けてしまっては意味がない。解けないから勉強が進む。が、あまりにも手が出ないとやる気が失せる。

 

 生徒さん達は要領を知って問題がクリアできればとりあえずは満足なようだけれども、私としては、なぜ含胸をするエーテル体のフィジカル体に及ぼす作用・・・もう少しで解けそうなのだけど。と太ももの筋肉を鍛えるスクワットにならずに昇降ができるのか、なぜ丹田を回すと関節に負担をかけないのか、そのからくりを知りたいところ。これこそまさに気の作用であり気の神秘!気の身体、

 

 

2018/4/23 夜

 

 動物能から高度な人間能への転換、というのは太極拳固有の話ではない。覚醒へと向かう人間の意識の発展への道。

 太極拳やヨガでもまだ身体を主に使う段階では、意(will)→気(energy)→力(power)の流れをしっかり意識できるように練習をする。

 意、気、力、この3つがしっかり区別して見ることができる(意識できる)、その間の隙間が見られるようになるのが第2身体と言われる気の身体(エーテル体)を扱う気功や太極拳の目標。

 過去の生徒さんとの練習では、意が届いても気が届いていない状態、意と気が届いても力にしていない状態、意を通さずに力を出した場合、など、様々な状態を意識的に作ってみたりして、その3つの違いを分かるようにしようとしたこともあった。最近は丹田の気を大きめに膨らましておいてそれを身体よりも先に動かすことで、エーテル体がフィジカル体を連れていく感覚を掴ませようとしていた。これを知ると、同じ太極拳でも、フィジカル体だけで動いているものと、気で動いているものの差がはっきり分かるようになるし、自分でも2種類の動きをできるようになる。

 ラジオ体操は専らフィジカル体の動きで行うが、これを気の身体が先導するように行うと全く違った趣になる。と、これを推し進めると、同じピアノ演奏でもフィジカル体でやっているものと、内側の気の動きで行っているものと、それまで見えてしまう。外だけの絵と内側から描いている絵。要は、その作り手、動き手であるその人自身がどれだけ自分の内側を開発しているか、その違い。

 

 私自身は、意、上丹田の使い方の練習をし出した頃から、套路をしながら、はて?この意はどこからくるのだろう?とそんな疑問がずっとあった。経典をみてもそのあたりは詳しく書かれていない。ただ、この太極拳が”心意”混元太極拳、というから、心と意の関係が分かればはっきりするはず、とそのあたりをヨガの経典の方で探ったこともあったが、これを辿っていくと第5身体まで行かなければならなくなる。通常の太極拳の範疇を優に超えるところに、これからどう進んでよいのか分からず立ち止まってしまった。

 そもそも2年近く前に愛猫が急に癌で亡くなった時から、通常私達の考える”太極拳”の限界を感じ始めていた。太極拳はどうやって元気になるかパワーを得るか、に焦点を当てている。どうやって死ぬか、死に対する指針が得られない(分からない)。死まで範疇に入れるならヨガやその支流からくる仏教に足を突っ込まなければならない。逆に言えば、死を堂々と見つめて死に向かって生きていくならそちらを学ぶべきだろう・・・結局死が怖くなければ他に何も恐れるものはないのだから・・・と、お寺の座禅会などにも行き出したのは昨年の話。

 その後、やはり学ぶならお釈迦様本来の教えをそのまま説いているところ、と昔の縁を辿って信頼できる僧侶のところに赴き、法話を聞いたりするようになった。厳しいなぁ~、これじゃあ、人生何をやっても意味がない・・・と最初暫くはげんなりしていたが、少し進んで行くと、あれっ?思っていたほど暗くない、いや、きっと進めば進むほど明るく楽しくなりそうな予感。

 やっと本格的にテキストを読みだしたらこれまた難しいのだけど、”心”についての分析は、さすが仏教!、太極拳にはあり得ない細かさと緻密さ。推手で手を合わせている間、これだけの心の動きがあったのか・・・と半ば感動してしまった。実際、ここまで心の中の動きの変化を見られたら瞑想もし易いし深まるだろう。

 本を読みっぱなしでは頭に残らない。ノートをとらなきゃだめだ・・・学生時代に戻れ!

 

 

2018/4/23

 

 昔から母親には片付けしなさい!そればかり注意されてきたけれど、結局身につかず。上京中の母も、「あんなに煩く躾けたつもりなのになぜだろう?」と首を捻る。私は「片付けよりもやりたいことがあるからじゃないかなぁ。」と適当に逃げようとしたけれど、横から娘が、「ママは頭の中がぐじゃぐじゃだから片付けもできないよ。」と一言。えっ?と彼女を見たら、「ママは天才肌だから。」と、一瞬、褒められてるのかけなされてるのか分からないから反応のしようがない。確かに一番ぐじゃぐじゃなのは部屋ではなく頭の中・・・。頭の中を整理すれば片付けもできるようになるかもしれない・・・と夜中にまた片付け本を注文してしまい、更に手を広げてしまった。いろんな種類の読むべき本、いや読みたい本がいっぱいある。宇宙は膨張時期というけれど、それと同調しているのかしら?宇宙の収縮期に入れば私は嫌でも断捨離するだろう・・・宇宙のミニチュア版としての個人の膨張期、収縮期というものもある。(日本は収縮期の人の比率が増えたから断捨離の類が流行った?いや、古来、お片付けが好きな民族?私には分かりません。)

 

 英語でベビーシッターをしている娘が言っていたが、子供は片付けをしない!散らかすのみ。だから、お片付けの歌を歌いながら片付けを教えなければならないという。そういえば犬や猫、動物は片付けをしない。動物的本能には片付けはインプットされていない。使ったものを元の位置に戻すなんて非自然的なことは自然界にはないのではないか?前進あるのみで元には戻らない。元にもどったように見えてももうワンラウンド回っているからステージが変わってしまう。

 使ったものを毎回新しい場所に置いて(置きっぱなしにして)いくと、生活が神経衰弱ゲームのようになる。前回どこで使ってどこに置いたのか、記憶を辿ったり、探し出せなければどこかで諦め代用品を考えなければならない。家から出る前にどれだけ頭と体を使わなければならないか分からない。ちょっとチャレンジングでエキサイティング。けど、ふと、何で毎日こんなに余計なことをしなければならないのか?と冷静になることもある。

 

 動物の本能的な反応を高度な人間的反応に変換していくのが太極拳の練習。

 腕を掴まれたら反射的に腕に力が入るところを、反対に力を抜かなければならない、等、反射的に起る肉体的反応を意でコントロールして智恵に基づいた反応に変え、それを無意識でできるところまで躾けていく。

 としたら、私はもっとまじめに片付けに取り組むべきではないか?

 本能に任せていてはだめなのではないか?

 それを修行と思えばできないこともないのかもしれない。

 が、その前に、やはり、”心意混元太極拳”の”心”と”意”の関係を知りたい!それが分かったら、きっと心と意を使って片付けができるはず!、とやはり片付けは後回しにして仏教の心理学本を読もうと、ああ、また手を広げてしまった。片付けはまだまだまだまだ先になりそう。

 

 

 

2018/4/21

今日は上京中の母親と娘と一緒に東京都庭園美術館に行ってきた。

アールデコ・リヴァイバル。旧朝香宮邸の公開と同時に鹿島茂さんのフランス絵本の膨大なコレクションが見られる。

アールヌーボーとアール・デコ

なんとなくしか分かっていないその違い知るには良い機会、と懐かしい白金!(大学女子寮は白金にあった)に赴いた。ちゃんとオーディオ説明も聞こうね、とフランス好きの母親と娘にも促して邸宅の観覧スタート。いつのまにか3人バラバラになってしまったけど、最後カフェに集結した時は、各々、うん、これでアールデコは大体分かった、と満足げ。じゃあ、アール・ヌーヴォーは?とアール・デコとの比較で理解を深めようとしたのでした。

 

頭の中でざっくり整理。

アール・ヌーヴォーは19世紀末から第一次世界大戦前。1900年万博前後。世紀末、手の込んだ、曲線、有機的、エレガントで装飾的。クリムト、ミュシャ、エミールガレ、ルネラリック....

アール・デコは第一次世界大戦から第二次世界大戦の間。1925年万博前後。工業化、大量生産、直線的、無機的、機能的、シンプル.... 就職活動で資生堂を回ったのは、私の中での資生堂のイメージがまさにこのアールデコだったからだと今になって気づいた。私の好きな昔の上海のイメージもそのあたりからか?娘はギャツビーを連想していた。

 

 家に戻ってから、改めてアール・ヌーヴォーとアール・デコの比較。

ふーん....と見てたら、あれっ?
アール・ヌーヴォーは民間派、伝統的な陳式太極拳、アール・デコは大学派、国家に制定された大衆に出回った太極拳....
曲線VS直線 だけでなく、いろんな意味で、確かにそうでは? 大衆化する際に欠かせない要素、削ぎ落とさなければならない要素、太極拳でも同じだ。面白い!

2018/4/19

   ここしばらく勉強と実験も兼ねて整骨院に通っている。整体やら接骨やらそして整骨やらと、その区別が良く分かっていなかったが、ある時、私の娘がどうしようもないくらいの酷い肩凝りと腰痛に我慢できなくなって口コミを頼りに駆け込んだ場所が整骨院。そして驚くことにただ一回の施術でものの見事に彼女の肩こり腰痛を治してしまった。一体何をしたのか、と不思議でたまらない私が尋ねると、骨をポキポキやって調整してくれたと言う。骨が正しい位置になかったから神経が圧迫されて痛かったみたい、と娘は大したことでもなさそうに話したが、お風呂から出てきた彼女を見たら、立ち姿が昨日の彼女とは別人になっている。肩の位置、胸の位置、お尻の位置が変わり、太もも裏のセルライトも目立たない。美しい立ち姿になっていた。骨格を調整するとこうなるのか・・・と、初めて整骨なるものが何かと知った。
   
 となると、私も行かなければならない!
 特段何か大きな問題はなかったが、取り敢えず試してみたい、と衝動にかられ直ぐに予約をして行ってみた。
   診てもらうと私の骨盤は右側が少し上がっていて、その上がった分、バランスを取るために背骨が左カーブを取って左肩上がりになり、右側側面が縮んでいるとのことだった。なるほど、だから右腰、右股関節が使い辛くて膝に負担がかかるのか・・・と合点がいった。
   施術は一回ではなく、何度も通う必要があるとのこと。娘は一回だったのになぜ?と思ったが、説明によると、骨を正しい位置に調整しても、そのうち筋肉が長年の癖で骨をまた元の位置に引っ張ってしまうので筋肉が骨の正しい位置を覚えるまで何度か施術を繰り返す必要があるとのことだった。娘の場合は20歳というバラ色の年齢だから筋肉の癖がそれほど頑固でない。私の年齢ではそうはいかない・・・と悔しいけれども納得。(更に歳を取ると骨をパキパキする治療自体危なくてできなくなるとのことだった。)
   せっかくお金を払っているのだから、得られるものは全て得ようと、施術中、どの筋肉どの骨をどのように調整しようとしているのか、できるだけ説明してもらうようにした。そして、骨格調整をしてもらったら、その場でその位置を身体に覚えこませて、太極拳の練習中もその部分を正しい位置で使うように注意深く動くようにした。そのうち、骨盤という身体の中心部分を正しい位置に持って行くことで、足指、手指の使い勝手まで変わってきた。それは趣味のピアノの演奏に大きな影響を及ぼした。気が付いたら、去年なら弾けなかったかもしれないリストの難曲が、思ったほど負担なく弾けるようになっていた。足指先まで勁が通ると手指先まで勁が通るのも身をもって理解できた。(注:指先、第一関節が覚醒するということ。爪に気が通る、とほぼ同義。私の観察では、一般的には大人の指は第二関節までしか覚醒していない。第一関節が覚醒している人は少し特別な感じ。・・・太極拳のレベルは手、指をみれば分かるというのは本当だと思う。)
  今日は鍼灸師に針をしてもらった(整骨院には複数の鍼灸師がいる)。腎兪、大腸兪、環跳穴なのどに得気の針を打ってもらいながら、中医学の話をしていた。私の中医学の知識は専ら中国のテレビ教育番組と太極拳の練習から得たものだが、私の知識がかなりマニアックなので鍼灸師の先生は私が一体どこでそれらを学んだのか不思議そうにしていた。「太極拳って、あの、ゆっくり動くやすですよね。そんなに深いんですか?」とよく理解できないよう。帰り際には「いろいろ勉強になりました。今度良い本があったら紹介して下さい。」と言われたが・・。
 それにしてもここの若い先生方はとても爽やか。いつも賑わっていて笑いが耐えない。患者さんにはおじいちゃんおばあちゃんもいれば、赤ちゃん連れの若いママもいる。今日も赤ちゃんが施術を受けているママの横でギャーギャー泣いていたが、そこに来ていたおばあちゃんがそれを何とも楽しそうに話しかけながら、可愛い可愛い、とあやしていた。「赤ん坊は陽気の塊。火の玉ですねぇ~。」と遠くから鍼灸の先生が一言。院内が一家族のように機能している。先生達は皆勉強熱心でどんな質問しても嫌な顔せず一生懸命答えてくれる。初々しい。そして、なんと言ってもここは大阪弁!!
  実はこの整骨院は大阪から進出してきて間もない。院内では関西弁が飛び交って、ここは大阪か?と思ってしまう。横浜出身の先生が大阪弁で喋っていたりするが、それは四六時中周りで大阪弁を喋られていてうつってしまったためと言う。大阪弁の感染力、恐るべし!と笑っていた。
 最初はラーメン屋で施術を受けているようで、少し静かにしてほしいと煩わしく思ったりしたが、そのうちその活気の良さが心地良くなってしまった。吉本興業に入っていてもおかしくなさそうな先生もいるし、そこでいるだけで楽しい。針を刺してもらっても楽しい♪ ・・・老若男女の集い笑う理想的な憩いの治療院・・・いや、これも大阪のノリなんだろうか? 私にとっては異次元の空間。普段は生徒さん達に気を与える役割を担うことが多いが、患者としてそこに行くと若い先生達のエネルギーを頂けるようだ。エネルギーは循環する・・・・。
 整骨院通い、当初の目的以上のものが得られているようで、ラッキ~。

2018/4/18

 お昼、お気に入りの横浜駅の蕎麦屋に出て行って、さあ食べよう!としたその時、私の真っ青な服にこれまた色鮮やかな緑色の青虫がくっついてた。うわっ、と、思わず振り払った後で、はて、どうして? とやっと頭が動き出す。

 ああ、きっと家からくっついて来たんだ....そう言えば昨日は家の中に一瞬アナゴかと思うような大きなトカゲようなものが迷い込んで来て、猫のミーは大興奮していた。せっかく拾って飼い猫にしたのに獲物がいると完全に野生動物と化してしまう。
  いつの間にか庭は草茫々・・・私は草茫々は好きなのだけど、今週末尋ねてくる母親は許せないだろう。夕方になって鶯の声が驚くほど近くで聞こえたので慌てて庭に出たら、縁側で周囲を注意深く見守りながら座っているミーがいた。
 私には見えない鳥やら虫やらを感じ取っていたに違いない・・・青虫はそこにいたのか?
 蕎麦を食べながら床をモゾモゾ這っている青虫をチラチラ見る。
 一生懸命這ってるけど、これじゃあ私達が砂漠の真ん中にポトンと落とされたのと同じ。這っても這ってもどこにも行きつかない。そのうち立ち食いのおっちゃんに踏まれてしまうか、靴の隙間にうまく入って潰されずに済んだとしても永遠に食べ物にはありつけない・・・。
 次第に彼やら彼女の生命の鍵を握っているのは私?と、責任重大、心臓がぱくぱくしてきた。とりあえず蕎麦を食べてしまおう、それから考える。いや、その前に、と、ティッシュで彼をくるんで拾いあげ、テーブルの下の物置に置いておいた。
 
  蕎麦を食べてるけど、頭の中は、さてこの子をどこに連れて行けば良いものか、と高速回転。青虫が生き延びれそうな場所....横浜駅周辺の風景をぐるっと思い浮かべる。西口東口はダメ....あー、北口!
  そこからティッシュを掴んで北口を出たところの花壇に向かう。ここならどうにかなる、という場所があった。ティッシュを広げたら青虫は丸まっていたけど、土の上に置いたらすぐに伸びて元気にくねり出した。ああ、良かった....
 それにしても以前の私ならここまでやらないなぁ、と自分でもおかしな気がする。
   確かに数年前から、ハエや蚊、ゴキブリなど好きでない虫でも、一匹一匹一生懸命生きてるのが見えてしまうようになり、それまでと同じ対応はとれなくなってしまった。なんだか面倒くさいことになってしまったなぁ、これも太極拳効果なのだろうか?と、師父や馮志強老師のことを思い浮かべたこともあった。
   が、今回の自分はそれよりも更に肯定的で積極的。慈しみまで感じてしまっている!・・・と、その理由が直ぐに浮かんだ。
  これはルドン効果!
 
  ルドンの自伝を読んでいたら、その中に、彼に多大な影響を与えた植物学者の友人が、”顕微鏡で見る小さな生命にも憐れみを感じていた”、という記述があった。私はそれを読みながら、顕微鏡で微生物を見ながらその儚い生命を哀れんで涙を流している科学者....泣きながら研究している科学者!なんて想像してしまったものだから、えらく心の奥の方に染み込んでしまった。今日の青虫に対する私の対応は絶対にその影響に違いない。
 
  全ては因果法則....と仏教の教えは言うけれど、こんなにダイレクトな因果関係だと単純過ぎて恥ずかしいくらいだけど、にしても良い気持ちがしたのは本当に良かった。
  こういう良い気持ちは長続きすると・・・これはS長老が言ってたなぁ。

 

 

2018/4/17 夜

ルドンの『私自身に』を少しずつ読んでいる。
言葉の一つ一つが美と愛に溢れてる....本当にそう思う。
言葉が花のように匂うのはやはり彼がそういう感性を持った芸術家だから。
とても優しい人....。
パリで美術学校である教師のクラスで学んだ時のくだり。
....私には動悸を打っているとしか見えない人体を、彼は(教師は)輪郭の中にとじこめるよう私に命令しました。  
....私にはどうしても、その強制に福することができなかったのです。形をとりまく輪郭は一つの抽象です。私はただ影を感じ、明らかな浮き上がりしか感じないのです。....
ルドン、エーテル体(かその先)見てたなぁ〜。
....彼の意志的な眼は、私の眼が見るものの前には閉じられていたのです。....
教師はフィジカル体を見てる。
....我々二つの魂の間の距離に比べれば、視覚の世界で二千年の間に起こった見方の進化、変化は、いうに足りないものでした。....
フィジカル体見てる人とエーテル体(以上)を見てる人の距離はそれほど遠い。
太極拳の練習、丹田を先に動かして身体を乗せていく練習をし出してから、気の身体(エーテル体)が先に動く感覚か得られるようになってきた。そうしたら初めてエーテル体の存在が意識できるようになった。
エーテル体から物を見るのとフィジカル体から物を見るのとは見え方が全く違う。
これに気づいたら、これまで良いと思っていた演奏家の演奏が突然良く聞こえなくなってしまった。
ほんと、面白い....

2018/4/17

今日の練習
メインは"骨盤に気を沈みこませる" 、すなわち『気沈丹田』。
胴体を杭にして骨盤の中に入れ込んでいく。そのために必要なのは息、気。勇気を持って息を骨盤へと落とし込む。
するとあら不思議!いろんなことが造作無くできてしまう....
と、ここまで書いてグループLINEで生徒さん達に、「写真を見て一言!」と問うてみたくなった。今日レッスンを受けたばかりの生徒さんなら何か答えられるかしら?
いや、一言で答えるなんて、芸人でもあるまいし無理.... 問いを変えてみた。
「この写真から述べられることを全て述べよ。」もちろん太極拳の原理、動き、要領に関して述べられること、という意味だが。
今日の練習はここから出発して、案の定、思いがけないところに波及していった。
 
(暫し様子見....)
一人生徒さんが書き込んでくれた。
骨盤の隙間を開けてから腹の気を垂直に骨盤に落とし込む....落とし込むと骨盤の隙間が更に広がる....(ここから私が連想ゲーム) 股関節はこの骨盤に落とし込んだ気の圧力で開くようになる。わざわざストレッチはしない。ストレッチはただスジを伸ばすだけ。関節を開けることにはならない
。....ここで、えっ?と思う人がいたようなので、クラスでは、筋を伸ばすと関節を開けるの違いを説明した。
 
骨盤の隙間を開けながら腹の気をそこに落とし込んでいくと....
骨盤は気の圧をうけ、ぐんぐん下に下がっていく。骨がメリメリ、ポキッと鳴ったりもする。そのまま上から杭を打つように骨盤に気を注ぎ込み続けると、最終的にはしゃがめてしまう。脚を使った意識はない。ただ腹と骨盤の気の下がる作用のみ。途中股関節で気が引っかかる途中そこから下に落ちられなくなる。そこが練習のしどころ。タントウ功はそこで踏ん張る。すると内側の気の圧で次第に股関節が開いてくる。漬物をつけるように頑張る。このフン!という頑張りがないとただ気分が良いだけのタントウ功になって気の量を増やすことはできない。歳取って踏ん張れなくなるのは踏ん張り続ける努力をしないから?...すぐ疲れちゃう....私も分かる....けど諦めればスルスル確実に体力は落ちていくのじゃないかなぁ。
 
話を戻すと、腹の気を骨盤に落とし込むことで、下肢の使い方が全く変わる。
不思議なことに関節に負担をかけなくなる。
(腹腰を繋いだまま骨盤に気を落とし込むと腰(椎)と股関節がしっかり使えるから、その下の膝関節に負担がかからず、足首さえ避けられれば足裏まで腰の気がずどーんと貫通するからだと分析)
生徒さんに色々やらせたら、結局は「丹田を回せばうまくできます!」という感想。なんだ、こんなに手を替え品を替え、最後は丹田回しで全てが解決してしまうの? と私の方がキョトンとしてしまった。
『節節貫通』の要領も丹田回しでクリアできてしまうとは驚き。
がこれは前半の、腹腰の気を骨盤に入れ込む作業なくしてはできなかったはず。
ああ、あの作業は言い換えれば中丹田と下丹田のドッキング、即ち胴体と下肢のドッキング作業。これで一個の大きな丹田を作っていた。
そしてこの丹田をゆっくり回転させながら動作を行うと、本当に関節に負担をかけない! これは本当に不思議....子供の身体はそうなってるのかもしれません。
 
 
 

2018/4/16

 (昨日の練習については同日の練習メモ参照。以下練習後の話。)

 

 練習帰りの電車の中でグループラインをしていて、最近気になっていた大谷跳平選手のフォームを再度チェック。やはり股関節の開きが完璧。ただでさえ長い脚が更に長く見える。股関節が開くというのは股”関節”が回転している、ということ。ただ内腿の筋が伸びて180度開脚ができるのと全く違う。股”関節”の回転は骨盤を開いて回転させるような動きだから、骨盤の上の腰(腎)も一緒に回るようになる。これを逆さまから言うと、股関節を使う(=回転させる)には腰(腎、腰椎)の上の方から回転させなくてはならない(→だから、全ての動きは腰の回転から始まる:これがチャンス―の原理の寄って立つ身体の仕組み)。

 

 大谷選手のフォームを見てから、ある巨人のピッチャーだの、その他のピッチャーだののフォームを画像検索で見てみたら、あら、みな脚を更に短く使っている(苦笑)。股関節が回転させられてない、筋肉の力での投球。股関節が完全に使えていないから肩関節も回転しない。これじゃあ、故障するはずだ・・とかわいそうになる。

 が、それが普通。子供から大人になるうちに筋肉が強くなるからその分関節の可動域は減っていく。大谷選手のような関節を回せる隙間のある柔らかい身体はどうやって作られたのか・・・それを知りたい!

 

 ある生徒さんが、仕事で緊張すると骨盤がギュッと締まる感覚がある、と言っていたけど、骨盤が締まると身体全体が締まってしまう。旧東ドイツでは女性の水泳選手を一度妊娠させてから堕胎させ骨盤が開いているうち肩関節やら全ての関節を開くトレーニングをさせて金メダルを取らせていたと師父が話してくれたことがあったが、なんて非人道的!と気持ち悪くなった私の反応とは裏腹に、とても合理的なトレーニングでその程度で金メダルを取れるなんて女性はラッキーだ、のように中国人の師父は淡々としていた。その是非はともあれ、骨盤を開くと体中の関節の可動域が広くなる、という事実は事実(一度出産したバレエダンサーの方が柔らかい踊りができるようになるのもその作用とか。)。男性の場合は構造上なかなか骨盤に隙間ができないから、これを得られるように特別に丹田という気の袋(=隙間)を作る術が生まれたのかもしれない、なんて思ったりもする(女性の場合は子宮が丹田)。

 

 夜になってテレビをつけたらベルリンフィルのコンサートマスターをする樫本大進さんがN響とコンチェルトを弾いた時の録画が流れていた。彼の独奏をしっかり聞いたことがなかったので、テレビの前で胡坐をかいて大真面目に見る。

 ああ、すごい。ニトリの家具が並ぶ中に、一台だけアンティークの超高級家具があるようだ。彼だけが跳び抜けて活き活きしている。バイオリンの音が伸びる伸びる。オケが止まって聞こえる。ただ坐って楽器演奏をしている人たちと、身体の奥から音楽を奏でている人の差は甚だしい。

 よく見ると大進さんの腰、骨盤はとても緩い。”音(楽)も骨盤から生まれる”と思った自分にびっくり。いや、本当かもしれない。骨盤から生まれるのは子供だけでない・・・おそらくすべてが骨盤から生まれるのではないかしら?(前回のパリでは推手の時腕は骨盤から動かせと師父から指導あり。ああ、やっと今、意味が分かった!)

 

 とても良い歌手は人魚のように尾びれを振って歌っているようにイメージするけど、大進さんの演奏姿はそれに似ていました。

 

 動画検索したら、ベルリンフィルの人達と演奏しているものがあった。

 さすが、ベルリンの首席演奏者達の集まり!テクニックが最高なのは当たり前にしても、本当にノリノリで活き活き。よく見たらやはり、腰、骨盤が息してる!(ただ頭を振っているのではなくて、骨盤、腰で歌ってるから頭が揺れている)。太極拳も同じ!

 

2018/4/15

 昨日あるドキュメンタリー映画を観に行った。観察映画ということでこれも長老から勧められたもの。

今になって気づくのは、私はこれまで自分のことにしか興味がなかったのかもしれない。自分に役立つことを学ぶことには意欲的だけれども、役立たないものには無関心。文学、映画、絵画の類は殆ど腹の足しにならない、と興味がなかった。が、この数年、長老の影響でそれも随分変わりつつある。そのベースにあるのは太極拳で確実に養われてきたと思われるものを見る目。自分の内側の観察を続けてきたことで、外側の事象の観察から、今までには想像も及ばないほどのものを感じ取ることができるようになってきている。ただの風景がただの風景でなくなったのは自分には大変な驚き。
映画は瀬戸内海の港町を舞台にしていたので私にはとても親近感がある。方言も似てるし狭い路地に古い家が並ぶのも同じ。やたら老人ばかりが目立つ。余計なネオンや音などがないから、空気は直接肌に触れ、風景は地のまま目の中に入ってくる....都会ではこうはいかない。練習で御苑に行っても、肌が直接空気を吸うまでには暫し安静にする時間が必要。花いっぱいで観光客が多い時期は
人の気が優ってなかなか空気と直接出会えない。ちょっとした辛抱と内側に入るコツが必要....が、気の良い、真っ新な場所に行くと、こちら側の努力なしに空気や風景と出会える。
私達は良い空気、拓けた美しい場所に行くと、心が安心してぽわっと開く。すると身体の緊張も解れいつもよりいっぱい吸えるようになる。呼吸が深くなると血管も開き体内の気血(エネルギーと血)の流れも良くなる。結果、目もはっきり耳もスッキリ、総体的に身体が良くなる。
気功法はまさにこの心身のカラクリを使ったもの。
まずは心が安心してほっとする、安寧が出発点。だから昔から"静"が尊ばれてきた。(馮志強老師のテキストの入門説要12章の第1章は『心神虚静貫始終』(心は始終虚静であれ))
静の中の力強さが分かると身体の使い方が変わる。ものの見方も変わる。
芸術の分野ではそこに焦点をおいたものもかなり創られているのではないかと思う。
武術、武道の最高の境地はそこだと皆知っているけれども、勝ち負けに拘るとなかなか静、安寧の境地には至らない。勝負のない気功法は静を得やすいが、試金石がない分ともすると強さに欠けて独りよがりになる。対人と一人の練習、共に行う太極拳はその意味でとても良いバランスだと思うのだけど・・・(と、また話がここに落ち着いてしまうのでした)。

2018/4/14

太極拳の先生の中に膝を傷めている人が多いのは事実。股関節や腰まで悪くしている人も案外いる。昔お世話になった著名な気功の先生は太極拳も教えていたが、オフレコで、実は太極拳は身体に悪い、と言っていた。
本当は全くそんなことはない。太極拳はちゃんと正確にやれば関節を滑らかにする。身体を柔軟にする。どこが分岐点になるのか?
昨日、今日の練習ではそこをかなり突っ込んで教えた。
根っこの根っこは会陰の引き上げ。これができないと腰が使えない。腰(中国語の腰:帯脈:中焦:中気:サマーナ:鳩尾から腸骨上縁まで)は身体の中の最も大きな関節。
身体を動かすということは関節を動かすこと。身体を動かす時にはまず一番大きな腰(更にピンポイントで言えば命門:腰椎2番と3番の間)から動かすのが太極拳の鉄則。
腰から始めて→股関節→膝→足首→足の指
と大から小へと繋げながら順番に動かす(繋げていくから螺旋になる)。
一つでもおざなりにするとアウト。
 
今日は一人一人動きをチェックした。いつも思うけど、私はこの気の流れの点においては口煩い姑と同様。少しズレたり飛ばしたりすると、スキあり! と指摘したくなる(苦笑)
今日、自分でも驚いたけど、腰は関節、しかも身体で最大の。ここを回さずに止めたまま運動してはいけない。回転は外に見えない程度の脊椎の自転で十分(これは、緩める、とほぼ同義)。最初は少し大きめに回した方が分かりやすいだろう....
腰を回さずに中腰の姿勢になったり、しゃがんだりしていたら....とシュミレーションすると、そりゃあ股関節や膝を傷めるなぁ、と納得。
師父から歩く時も腰を回しながら歩くように、と教えられその通りやってきたが、長い間それを単なる腰回し(丹田回し)としか思っていなかった。が、実はこれこそが正しい歩き方、身体の使い方! 腰を固めず関節化するための秘法!(笑)
駅の階段を上がりながら前を歩く大人達を見ると、見事に腰が板のように固まっている。膝、太ももがキツそう。子供達....腰なんて存在しない!背中の下にお尻があるのみ。これこそ真の身体の姿。本当は腰なんてものはあってはいけない。子供の時は腰がどこにあるのか分からない。腰という感覚が芽生えた時には腰は既に硬化している....。
にしても、腰が関節なんて思ってる人、いないんだろうなぁ〜。

2018/4/13

 ➀超話題の大谷君。頭がとても小さくて身体がとても大きい。幼児体型の私とは真反対の体型で、見ると羨ましさを超えて別の種の動物かと思えてしまう。通常大きいと敏捷さが減少するし、柔軟性も落ちそうな気がするが、彼の身体はゴム人間のよう。

 今日初めて画像検索して彼の投球や打撃のフォームを見てみた。

 あら、どの一枚をとっても中正を外しているものがない。

 股関節の開きが半端ない、から、肩関節の開きも完全。四正勁、四隅勁が申し分ない。お手本的。

 百会まで入っている。百会まで自分の中に入っている人、なかなかいない(私もできていない→中国の太極拳の先生達でもできている人何人いるだろう?)。首を立てている時点でもうアウト。百会までつながると首は”ない”に等しい。首は立ってしまう。「首を立てるVS首が立つ」

 奥歯の合わせ具合がとてもよい→頭部が胴体ときちんとつながっている。

・・・・彼の写真を見てから、他の有名どこの選手の写真をみると、欠点が浮き彫りになって見えてしまう。比較というのは恐ろしい。

  画像比較すれば生徒さん達によく分かってもらえるだろうけど・・・。後でやる気になったらするかなぁ。

 

②関節はぜ~んぶ回す、の練習は良かった。自分でもヒット作。

しゃがむ時にはすべての関節を回す! それも(恐らく)すべての!

・・・と言いながら私もその事実に驚く。

 関節は回す。折らない! 

 (そんな一見単純な理:全ては円運動:をはっきり打ち出した太極拳・・・天才!)

 

③骨盤を立てる=お尻を使う=股関節を使う=ダンを使う(圆裆 裆劲)=骨盤底筋を張る=第1チャクラの力

 胸を出さずに含胸のまま骨盤を立てられるのは超上級者。即ち、恥骨まで息を沈み込ませられる人。肚まででは足りない。恥骨! 恥骨が割れたか?と昔先生によく尋ねられたけど、その当時は意味不明。先生が収功の時に自分の恥骨が割れてパきっという音を聞かせてくれた。恥骨に力が届くようになるにはそれから数年必要だった・・・。

 恥骨の音がするところまでいかなくとも、恥骨近くまで息を落とすことはそれほど超難関ではないかなぁ。今日Hさんが少し要領を掴んでた。

2018/4/12

  先日新規で来た男性から、お尻、股関節が使えていないという指摘に対して、次回クラスでそれをもう少し説明してほしいというメールが来た。

 何を説明してもらいたいのだろう?

 ➀股関節が使えていない、というのがどういう現象を指しているのか、②股関節が使えないとどういう不都合があるか、③股関節が使えるようにするにはどうしたら良いのか、どれだろう?

 まあ、人間は立ち上がっているからお尻を使って歩くのはかなり難しい。腰を立てればお尻がおざなり、お尻を使うと腰が立たない・・・腰とクワのジレンマ・・・

 (私が説明すると余計ややこしくなりそう・・・私の生徒さんに変わりに説明してもらった方が良いかもしれない 苦笑)

2018/4/11

 ハマってしまったルドンの絵。

 ものの見方を教えてくれたN長老に感謝・・・

 太極拳の練習、ここまでやり込んでいなかったら、せっかくのN長老の講話も消化できずに終わっていただろう。太極拳の練習が身体だけでなく修練者の”目”や”感じ方”を変えていくのを自ら体験できて二重、三重の喜び。

 

  天性でものの内側に潜む本質をつかみ取れる人がいる。

  そしてそれを見せてくれる人(多くは芸術家)がいる。

 

  けれども、私達の多くは生まれて目が見えるようになると他者も含めた外界の虜になって、眼は外ばかりを見るようになる。内側の風景を意識しすぎると俗世では落ちこぼれになる・・・から、目をキッと外に向け内側を見ないように突っ走るように・・・内側に入りだした高校生の頃、私は学校の先生からはっきりそう言われ、とりあえず就職するまでは周囲の人が思い描く”成功”路線を進もうと思った。大企業に入ってお金を儲けて、ある程度溜まったらパン屋を開いて、最後は出家、そんなビジョンだった。

 所謂エリート路線を進んで外務省に入って万々歳!と周囲の人は大喜びしたのも束の間、そこからどん底が始まった。生きている意味が見いだせなくなった。

 結婚しても、外務省を辞めても、子供を産んでも・・・何の解決にもならなかった。

 かなり彷徨って、占いにもハマって散財したが、結局今振り返ると最も有益だったのは「好きなことをやりなさい。」というアドバイス。「でも、好きなことがないのが問題です。何が好きなことが分からないのです。」と当時の私は間髪入れず言い返したけれども、「じゃあ、あなたは今何をやってるの?」と聞かれ、「スポーツクラブで気功と太極拳をやっています。」「じゃあ、それを一生懸命やりなさい。」・・・これはただの気晴らし・・・と内心ぶつくさ言っていたけど、そのうちスポーツクラブで教えていた数名の中国の先生達と仲良くなったり(中にはカッコいい先生がいた)、立ち読みした少林寺の先生の本に感動して即入門したり、気功法の星野先生とも縁があり陳式心意混元太極拳を学び始め、そして主人がパリに赴任になって今の師である劉師父に出会い・・・と様々な人に出会いながらいつの間にか道ができてしまっていた。

 

 と、数年前からおぼろげに感じていたのは、身体自体はやはり外側のもの。筋肉を見るのも骨を見るのも、もしかしたら丹田を見るのも、実は、目は相変わらず”外側”を向いているのかもしれない。自分はもっと奥にいる。目を内側に向けるということは究極的にはその見ている自分の中を覗き込むように見ること・・・ここまでいくと内側がなくなってしまう(発散してしまう)?

 

 内側を見るというのは暗い作業だと思っていたが、最近推手をしながら自分の丹田を見る練習をさせていたら、相手の丹田を感じようとすると自分の丹田が感じられるという現象が皆に共通することが分かった。外界があるからこそ内側が分かる、そういうこともあるのかもしれない。外界の深さの分だけ自分の深さが見える、若しくは、自分の深さだけ外界の深さが見える・・・修行者は後者の道、自分の内側に入る修行をして結果的に外界を見透す目をもつ。芸術家の中には外界を見透す目を持っている人がいて、そのような芸術家は覚者に近い境地に至る・・・ルドンはその類の人ではないかしら?

 

 どうやったら気の量が増えますか?と聞かれるが、昔の私なら、「タントウ功か坐禅をして下さい。」と言ったけれども、この世の中、とりたてて練功をしているわけでないのに、生き生きと気力が充実して健康体の人がいるのを見ると、練功以前に生き方、好きなことをして笑っていきいきするのが大事、なんて思ってしまう。好きなことに没頭して笑って、疲れて寝る・・・子供と同じ・・・生命の本質・・・ワクワクすると細胞が生き生きする、蘇る・・・

 

 ルドンの絵、語りつくせないほどのものが中にあるけれども、奥の奥の”一粒の丹田”からそれが膨張して身体より大きくこぼれんばかりになった”満開の丹田”へ、彼の人生が豊穣になっていくのが見て取れてとても感動的だった。

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練習のバイブル本

 『陳式太極拳入門』

       馮志強老師著

ようせいフォーラム2017プログラム
3月4日(土)にパネリストとして参加しました。
ようせいフォーラム2017プログラム.pdf
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2012/3/20

日本養生学会第13回大会で研究発表をしました。

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